『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第一四講 本質論・本質 Ⅰ

第二部本質論

 さていよいよ「下巻」の「第二部本質論」にはいりますが「本質論」では、日常われわれが使用するいろいろなカテゴリーが出てきます。そういう意味でも、本質論のカテゴリーを勉強しておくことは非常に大事だろうと思います。
 エンゲルスの『自然の弁証法』に「本質』の諸規定の真の性格はヘーゲル自身によってこう述べられている(『エンチクロペディー』第一巻、第一一一節、補遺)「『本質においては、すべてが相関的である』(たとえば肯定的と否定的。それらは両者の関係のなかだけで意味をもち、各規定単独では意味がない)」(全集⑳五二一ページ)とあります。肯定的も否定的と対になってはじめて意味があり、本質論では「関係」が問題なのだといっています。それに続けてエンゲルスは、ヘーゲルが本質論のなかでいっているいくつかのカテゴリーについて自分の見解を述べています。部分と全体、単一的と複合的(これはヘーゲルの本質論では「全体と部分」に相当します)、同一性と区別、原因と結果、正と負、磁石の北と南、偶然性と必然性、等々ヘーゲルの本質論に出てくるカテゴリーについて、エンゲルスは思いをめぐらせて約一〇ページにわたる記述を残しています。

本質は自己内有

 一一二節 本質(Wesen)は媒介的に定立された概念(gesetzter Begriff)としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自(Fürsich)として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己 へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している。

 「本質は媒介的に定立された概念としての概念である」とありますが、論理学は真理の認識を目的として有論、本質論、概念論とより深い真理の認識へと発展するわけですけれども、ヘーゲルは論理学全体を概念の展開としてとらえ、有論は即自的な概念、本質論は媒介的に定立された概念、そして概念論は、即自かつ対自的概念といっています。この三つをつうじてヘーゲルは、人間の認識の次第に発展する姿をみているのです。この場合の概念とは真理とか真にあるべき姿と考えたらいいと思いますが、有論は表面的な認識ですから真理はまだみえてこない。だから真の姿である概念は、まだ「即自的に」つまり有のなかにひそんでいて、潜在的な形としてしかあらわれていないのです。
 本質論においては、真の姿は有に媒介されたものとしてあらわれてきます。そして最後の概念論では、真の姿は、有をのりこえ客観世界を止揚した絶対的な姿としてあらわれてくるのです。
 人間の認識は発展するものですが、まず有論は、表面的なものの姿の認識にとどまりますから、そこではまだ本当の姿はみえてきません。ところが本質論に入ってくると、表面的な有の姿の奥にあるその物事の真の姿を有に媒介された関係として認識するに至ります。客観的に存在する事物のなかにおける真の姿を認識する、それが本質論です。しかしヘーゲルは、もともと客観として存在するものは有限な存在であって、その真にあるべき姿ではないとみるわけです。つまりこの世にあるすべてのものは、運動・変化・発展していきます。運動・変化・発展していくということは、現在ある姿が真の姿としてあるのではないからだと考えるのです。こうして概念論において、真にあるべき姿を客観世界を乗り越えたものとしてとらえようというのです。
 身近な例でいいますと、われわれは自民党政治が限界にきていて、この政治を乗り越えなくてはならないという認識をもっています。大企業優先、アメリカべったりの政治は乗り越えなくてはならないのです。ところで、まず本質論の認識は、今の日本の真の姿は、アメリカと日本の大企業が主人公なんだと認識することなのです。では概念論の課題は何なのかと言えば、本質論の認識を前提として、それでは日本の政治は真にどうあるべきなのかを問題にするのです。今日の日本の姿はあるべき日本の姿ではないわけで、真にあるべき日本の姿というのは、大企業の支配を打ち破りアメリカを日本から撤退させて、国民が主人公となる日本の社会を実現することです。真の日本のあるべき姿の認識というのは、もう客観世界を乗り越え、日本の現実を乗り越えているのです。現実を変革する立場から真の姿を認識する、それが概念論なのです。
 人間の認識がどんどん発展していくと、この客観世界に存在するものすべてを変革の対象としてとらえる、そして変革の実践を積み重ねることによって真理に接近していくというのがヘーゲルの考えです。論理学全体のなかで、有論、本質論、概念論を大きく真理の認識のレベルの違いとしてとらえることが非常に大事なのではないかと思います。
 本質論の冒頭にあった「本質は媒介的に定立された概念である」というのは、本質という真の姿は有に媒介されているといっているのです。「有に媒介されている」とは、有つまり客観世界に制約されていると言いかえてもよいでしょう。本質論の認識というのは、客観世界のもつ有限性にまだ制約されているのです。本質論の認識からは、どう変革すべきかという認識は出てこないのであり、現状に追随する認識なのです。
 「その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない」とある「その諸規定」とは、本質の諸規定のことで、対立する二つのカテゴリーを問題にするのです。原因と結果、同一と区別、本質と現象、いずれも対立するカテゴリーです。だから本質の諸規定は、対立するカテゴリーとして「相関的」なのです。まだ対立物の統一ないし同一としては存在していません。対立物の統一として存在するのが、いわゆる「概念」なのです。もう少しいうとヘーゲルは「概念」を主観と客観の統一として考えています。つまり人間の頭で考えた理想の姿が現実化するものとして、ヘーゲルは概念を考えているのです。理想は理想であって現実ではないという二元論を、ヘーゲルは断固しりぞけるのです。だから本質の世界は対立の世界、対立する二つのカテゴリーの関係を問題にする世界であるのに対し、概念の世界は対立物の統一の世界です。本質では「まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない」とは、まだ対立物の統一が定立されていないという意味です。
 「したがって概念はまだ向自として存在していない」の「向自」とは、向自有の向自(für sich)です。本質のレベルにおける概念は、まだ対立にとどまり対立物の統一としての概念に至っていないのです。「本質は、自分自身の否定性をつうじて自己を自己へ媒介する有である」。有が表面的な姿である自分自身を否定して、自己のなかにかくされた姿に到達したところが本質だというのです。本質はあるものの外にあるものではなく、あるものの内にあるのです。だから「自己を自己へ媒介する」ということになります。有と本質の関係は、或るものと他のものとの関係ではありません。有のなかに入っていったら、そこで本質に出会うことができるのです。本質は有のなかにあり、有と一体のものですから「他のものへ関係することによってのみ、自分自身と関係するものである」となります。この「他のもの」とは、有のことです。有とのかかわりあいにおいてのみ、本質は存在するのだといっているわけです。「もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している」。有から出発して本質に至り、有は本質に媒介されたものとして存在するという関係になるのです。「他者」というのは、有あるいは仮象とみてもよいと思います。本質との対比における有あるいは仮象というのは、本質に媒介されるものとして存在しているのです。
 この部分は少し分かりにくいと思いますので、関連する部分をみてみましょう。(㊤一一〇~一一一ページ)

本質は客観的実在

 二一節補遺 自然の諸現象にたいするわれわれの態度にも同じことが見出される。例えばわれわれは電光をみ、雷鳴を聞く。この現象はわれわれによく知られており、われわれはそれを度々知覚している。しかし人間は単に知りなじんでいること、単なる感覚的現象では満足せず、その奥をさぐり、それが何であるかを知り、それを把握しようとする。そこで人は思惟し、現象そのものとは異ったもの、単に外面的なものでなく内面的なものとしての原因を知ろうとする。かくして現象は二重にされ、内と外、力と発現、原因と結果に分裂させられる。内的なもの、力などはここでもまた普遍的なもの、永続的なものであって、個々の電光や個々の植物ではなく、すべてのもののうちであくまで同一なものである。感性的なものは個別的、一時的のものであって、そのうちにある永続的なものは思惟によって知られるのである。自然はわれわれに無数の個別的な形態や現象を示すが、われわれはこの多様のうちへ統一をもたらそうとする要求を持っている。そこでわれわれは多様なものを比較し、すべての個に通じる普遍的なものを認識しようとつとめる。個は生滅するものであり、類こそ個のうちにあって恒久的なもの、すべての個のうちに復帰するものであるが、これはただ思惟にたいしてのみ存在するものである。さまざまの法則、例えば、天体運行の法則についても同じことが言える。われわれはもろもろの星を今日はここにみ、明日はかしこにみる。この無秩序は精神にふさわしくないものであり、精神はこうしたものを信じない。なぜなら、精神は秩序にたいする信仰、単純な、不変な、普遍的な規定にたいする信念を持っているからである。精神は、このような信仰のうちに、天体の諸現象について思惟し、そしてそれらを支配する諸法則を認識したのである。言いかえれば、天体の運動を普遍的な仕方で確定し、この法則から天体のあらゆる位置変化が規定され認識されるようにしたのである。── 人間の種々様々の行動を支配する諸力も同じことであって、ここでもまた人間は普遍的なものの支配を信じている。── 以上すべての例からわかるように、反省は常に不動なもの、恒久的なもの、自己のうちで規定されているもの、特殊を支配しているものを求めている。こうした普遍的なものは、感覚をもってとらえることのできないものであり、しかもそれは真なるもの、本質的なものという価値を持っている。

 本質を探るというのは、感覚的な現象をそのものとは異なった内面的なもののあらわれとしてとらえ、原因を知ることです。それは物事を内と外、力と発現、原因と結果などによって二重に把握することです。いま読んだ最後の部分「反省は常に不動なもの、恒久的なもの……を求めている「こうした普遍的なものは……真なるもの、本質的なもの」だといっています。本質というものは、真なるもの、普遍的なものであり、だからこそ不動なもの、恒久的なものなのです。物事の諸現象、物事の表面的なものの奥にかくされていて、人間の意識の働きによって本質は把握されるのです。では本質は人間の頭のなかだけの主観的存在かというとそうではなくて、客観のなかに実在する普遍的なものなのです。ここが大事なところです。物事を抽象化してとらえるというのは、唯物論の認識としても必要な作業ですが、それは同時に、ある意味では観念的な作用でもあります。だから唯物論と観念論というのは、無関係なものではないのです。無関係であれば、誰も観念論へおちいる危険性などないわけです。唯物論の正しさを認めていても観念論に容易にとらわれやすいのはなぜかというと、人間の意識の働きは物事を抽象化するからです。具体的な事実からどんどん離れていくわけです。離れていけばいくほど一面では真理に接近するのですが、他面ではその限度を通り過ごしてしまうと観念論におちいってしまうのです。だから観念論は唯物論の行き過ぎからも生じます。唯物論における意識の抽象的な働きを度外れに拡大することからも、観念論は生まれるのです。
 本質を認識することは、観念論の領域ではなくて唯物論の領域です。本質は客観的に存在し、存在するものをわれわれは認識するのであって、本質は頭のなかだけで創造する空想の産物ではありません。

本質論と概念論の関係

 ヘーゲルは概念論における概念は、向自=für sichとして存在しているというのですが、向自とは自立しているという意味ですから、このfür sichというのは有から自立し、客観世界の制約を受けない真の姿という意味です。そのことは、客観世界と無関係に真の姿があるという意味では決してないのであり、そこが大事なところです。客観世界と無関係に真の姿を追求するとなると、空想的社会主義になってしまい、観念論の世界です。『空想から科学へ』の冒頭に「現代の社会主義は……その理論形式からいえば、それは、はじめは、一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちがうちたてた諸原則をひきつぎ、さらにおしすすめたものとしてあらわれ……」(古典選書版二三ページ/全集⑲一八六ページ)とあります。啓蒙思想というのは、いうなれば空想的資本主義です。つまり絶対主義的封建制を否定し、空想的なあるべき資本主義を考えたわけです。それをこの世界に現実に押しつけようとしておこなった実験がフランス革命だったわけです。
 啓蒙主義者たちが行おうとしたフランス革命は「人間が逆立ちし、すなわち思想のうえに立ち、思想にもとづいて現実を建設する」というヘーゲルの言葉が『空想から科学へ』に引用されています。ヘーゲルが、啓蒙主義者たちを観念論者だと批判しているのです。ヘーゲルは、はじめはフランス革命を熱狂的に迎えているわけですが、その帰結をみて、空想的な理想だけでは駄目なんだということに気づくわけです。理想というのは現実の世界のなかから組み立てられるべきものであり、それをいかに組み立てるかということに、彼は腐心するわけです。そこからこの論理学の「概念論」が生まれたのです。したがって、ヘーゲルのいう「概念論」は理想の追求ではあっても、観念論の領域ではなく、唯物論の領域なのです。
 だからこの概念論のなかに、ヘーゲル論理学の真髄があると思うし、われわれがへーゲル論理学を学ぶ意義もまさに概念論を身につけるためなのです。つまりわれわれはこの現実の社会を変革の対象としてみているわけで、言いかえれば、ヘーゲルのいう理念を追求しているのです。だから理念はどのようなものでなければならないのかを探求するうえで、ヘーゲルの概念論は非常に役立つカテゴリーだと私は思います。少し脱線しましたが、大事なことなので以上のことをつけ加えておきます。

 一一二節(つづき) ── 有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方 では、有は、直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち仮象(Schein)へひきさげられている。── したがって本質は、自分自身のうちでの反照(Scheinen)としての有である。


 「有は消失していない」といっていますが、まず本質は有を否定します。しかし有を否定しても、有がなくなってしまうのではありません。有の奥深くにはいることによって、これまで有として確固として存在しているかのようにみえたものを、単なる「仮象にひきさげ」るのです。つまり本質を論じるということは、これまで有論で論じてきたものを単なる「仮象」にひきさげることを意味しています。「仮象」というのは、天動説のように本質のあらわれなのですが、本質がそのままの姿では現れていない仮の姿であり、真の姿に対立するものです。
 「したがって本質は、自分自身のうちでの反照としての有である」。本質は有から出発して本質にたどり着くのですが、本質にたどり着いたとたんに、本質に照らし出されて、これまであった有は仮象になりさがってしまうのです。

反省

 反照はscheinenの訳です。テキスト㊦一五ページ「訳者註」に出ている「反省」(Reflexion)と同じような意味です。反照、反省、相関的の三つは、ほとんど同じような意味で使われています。

一一二節訳者註 Reflexion, reflekctierenという言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もとも訳者註と、ラテン語のは、まがりもどることを意味する。ここから光については、反射の意味となる。自己 reflexio をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、という言葉を使う。例えば、支配者というものは、Reflexion 支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互いの側からこのようなが行われるわけである。

 Reflexionとは鏡の反射です、向こうに行って戻ってくることです。だから有と本質の関係は、有から本質に行き、そして本質からまた有に戻ってくるという関係なのです。それを反照とか反省とか相関とかいっているのです。前述のようにエンゲルスは「本質においては、すべてが相関的である。――それらは両者の関係の中だけで意味を持ち、各規定単独では意味がない」と述べました。このとらえ方はなかなか鋭いものがあります。相手あってこそ自分であり、自分あってこそ相手ありという関係です。「各規定単独では意味がない」、つまり各規定単独では存在しないような関係、そういうものが反省です。だから相互前提関係とも言います。

 絶対者は本質である。── この定義は、有もおなじく単純な自己関係であるかぎり、絶対者は有であるという定義と同じである。しかしそれは同時により高い定義である。というのは、本質とは、自己のうちへはいっていった有であるからである。言いかえれば、本質の単純な自己関係は、否定的なものの否定、自己のうちで自己媒介として定立された自己関係であるからである。

 「絶対者」は絶対的に真なるもの「単純な自己関係」は他のものに関係することなく、そのものをそのものとしてだけみるという意味です。「真なるものは有である」という定義に比べると「真なるものは本質である」という見方の方がより高い定義となります。なぜなら本質は、有の内面に入っていった真なるものであり、より認識の高い段階を示すものだからです。「否定的なもの」とは仮象のことです。仮象とは有が否定されたものです。先ほども述べたように、有から出発して本質に至り、本質の観点から有をみると、もはや昔の有ではなく、いまや仮象になりさがっているのですから、仮象は有の否定なのです「否定的なもの」というのは否定された。有としての仮象であり、その「否定」が本質です。少しもってまわった言い方ですけれども「否定的なものの否定」とは、有の否定(仮象)の否定である本質を意味しています。
 「自己のうちで自己媒介として定立された自己関係である」とありますが、有に媒介されて定立された、有自身の内部における関係が本質なのです。

 しかし、絶対者を本質と定義するとき、人々はしばしば否定性をあらゆる特定の述語の捨象という意味にとる。すると、この捨象という否定的行為は、本質に無関係なものとなり、本質そのものは特定の諸述語という前提を持たぬ成果、捨象のかすとして存在するにすぎなくなる。しかしこの否定性は、有に外的なものではなくて、有自身の弁証法なのであるから、有の真理である本質は、自己のうちへはいっていった有、あるいは自己のうちにある有である。本質と直接的な有との相違をなすものは、先に述べた反省、すなわち、本質が自分自身のうちへ反照するということであって、これが本質そのものに特有の規定である。

 「それは何ですか」と問うことが、本質を問いただすことになります。それは何ですかと問いただすことは、或るもののもつ形容詞をすべて捨て去ったものを探ることのようにおもわれます。例えば、リンゴなら、赤いリンゴ、青いリンゴ、酸っぱいリンゴ、甘いリンゴ、腐ったリンゴ、等々いろいろなリンゴがあります。その形容詞を全部捨て去ったところにリンゴそのものがあるのです。だから本質というのは全ての形容詞を捨て去った「捨象のかす」と考えられるかもしれないけれども、そうではありません。捨て去るべきものは何かといえば、有のもつ表面的な姿だけなのです。
 見田石介さんが挙げているよい例があります。剰余価値というのは、利子とか利潤とか地代とかいう現象形態でしかあらわれてきません。だけれども利子・利潤・地代の本質は何かといえば、それは剰余価値なのです。だから剰余価値は、利子・利潤・地代の形容詞を捨て去ることではありません。形容詞を捨て去りさえすれば本質がみえるという単純なものではないのです。やはり、有のもつ表面的な姿を捨て去って、その奥にひそむ真実の姿が本質なのであって、そこをまちがえてはなりません。
 「しかしこの否定性は、有に外的なものではなくて」とありますが、外から形容詞を捨て去ることではなく、「有自身の弁証法」、つまり有が運動し有自身の内部にはいっていってその本質をさぐるのです。「自己のうちへはいっていった有」「自己のうちにある有」ということが大事です。つまり本質は有とは別なところ、観念の世界のなかにあるのではなく、それは有という客観世界のなかにあるのです。だから本質を認識するということは、唯物論的にみても正しいのです。そういうことをいっているわけで、これは非常に重要なところです。
 「本質と直接的な有との相違をなすものは、先に延べた反省、すなわち、本質が自分自身のうちへ反照するということであって、それが本質そのものに特有の規定である。本質と有との違いは「自己自身のうちで反照する」か否かにあります。本質は反省しますが、有は反省をしないのです。先ほどの仮象の場合、有から出発して本質へ行って、本質から有をみてみると、有はもはや仮象になっていたということでした。今度は逆に本質の側から出発して有に行くということは、本質が現象するということです。この往復運動が反省なのです。

本質と仮象

 一一二節補遺 本質と言う場合、われわれはそれを直接的なものとしての有から区別し、有を本質との関係においては単なる仮象とみる。しかしこの仮象は全く無いもの、無ではなく、揚棄されたものとしての有である。

 仮象というのは「全く無い」のではありません。有というとしっかり足場をもってたっているようにみえるけども、しかしそれは本質の観点からみれば全く仮の姿にすぎません。本当の姿とは大きくかけはなれているという意味で「揚棄されたものとしての有」です。仮象は、本質の観点からみた有の姿です。本質に媒介されると同時に媒介されない有なのです。
 例えば、天動説は仮象です。地球が太陽の周りを回っているという本質に媒介されて、地球からみると天が動いているように見えるのです。しかし天が実際に地球の周りを回っているわけではありませんから、天動説は本質に媒介されながら本質とは異なった姿を示しているのです。同様に賃金を労働の対価とするのも仮象です。賃金の本質は労働力の対価であって、労働の対価ではないのですが、そのようにみえるのです。結局、仮象とは本質に根拠をもちながら本質とは異なった姿をとってあらわれている有ということになるでしょう。その意味で仮象とは、本質に媒介されると同時に媒介されない有といってよいでしょう。

 ── 本質の立場は一般に(反省)の立場である。という言葉はまず、光が直進して鏡面Reflexion Refkexionにあたり、そしてそこから投げ返される場合、光にかんしては用いられる。したがってここには二つのものがある。すなわち、一つは直接なもの、有的なものであり、もう一つは媒介されたもの、あるいは定立されたものである。このことは、われわれが或る対象をreflektieren(反省)する、あるいは、普通言われているようにnachdenken(反省)する場合でもおなじである。というのは、その場合われわれは対象を直接態においてでなく、媒介されたものとして知ろうとするからである。

 「本質の立場は一般に反省の立場」とありますが、常にいったん相手の側に行ってこちらへ戻ってくる、そういう立場です。それは物事を二重にみる、媒介されたものとみるということなのです。
次がとても大事なところです。

 普通、人々は哲学の課題あるいは目的は、事物の本質を認識することにあると考えている。そして人々の理解するところによれば、このことはまさに、事物は直接態のままに放置さるべきではなく、他のものによって媒介あるいは基礎づけられたものとして示されなければならないことを意味するにすぎない。ここでは事物の直接的存在は、言わばその背後に本質がかくされている外皮あるいは幕と考えられているのである。── さらに、あらゆる事物は一つの本質を持つと言われるならば、それは、事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではないことを意味する。単に一つの質から他の質への変転や、また単に質的なものから量的なものへの進展、およびその逆やですべてが終ったのではなく、事物のうちには不変なものがある。そしてこの不変なものがまず本質なのである。

 分りやすい文章です。哲学の歴史は、事物の直接的な姿は本当の姿ではないとして、この背後にかくされている本当の姿は何なのかを探求する歴史でもあったのです。アリストテレスは『自然学』のなかで「われわれがその研究対象を知っているとか認識しているというのは、対象の原因、原理、構成要素をよく知ってからのことである」と述べています。だから『自然学』の冒頭に自然学の任務を、第一の原因、第一の原理の探求においています。
 原因はドイツ語で、これは根拠とも訳されます。テキストの目次に第二部・本質論のAに「現存在のGrund根拠としての本質」とあります。この「根拠」はGrundの訳で、ヘーゲルが「根拠(原因)」という言葉を本質論に関連して使ったのは、アリストテレスの哲学から引き継いでいるといえます。日本語訳は「原因」ではなく「根拠」となっていますが、原因と根拠は同じ意味であり「本質は現存在の原因である」という意味で「現存在の根拠としての本質」といっているのです。だから直接的なものの背後に隠れているものを探るということは、本質を探ることであり、言いかえれば、根拠を探るということでもあります。

本質は過ぎ去った有

 Wesen(本質)というカテゴリーのその他の意味および用法について言えば、まず次のことを指摘することができる。われわれドイツ人は助動詞seinにおいて、過ぎ去った有をgewesenと呼ぶことによって、その過去を示すにWesen(本質)という表現を用いる。この不規則な用法には、有と本質との関係にかんする正しい観念が含まれている。というのは、本質は過ぎ去った有とみることができるからである。この場合なお注意すべきことは、過ぎ去ったものはそのために全く否定されているのではなく、揚棄されているにすぎず、したがって同時に保存されてもいるのだ、ということである。

 ドイツ語で本質にあたるのはWesen という言葉なんですが、それをseinの過去分詞gewesenと関連させて議論しています。ドイツ語では英語のbe動詞にあたるものの過去分詞がgewesenです。このgewesenのなかにWesen(本質)という表現が含まれているところに、意味あいを見いだそうとするのです。要するに、そのものの本質を知るには過去にさかのぼって、出発点にまで立ち戻って認識することが必要なんだ、ということをいいたいわけです。すべての事物は、生まれたばかりの姿においては本質そのものとしてあらわれていますが、変化、発展するにしたがっていろんな余計なものが身についてきて、本質がみえにくくなってくるのです。だから、本質を知ろうと思えば、そのものの過去を知ることが必要であり、過去をみれば本質が分かります。それで本質は「過ぎ去った有」とみることができるというのです。
 『大論理学』では「過ぎ去った有」という表現を「無時間的に過ぎ去った有」といっています。これはなかなか面白い表現であり、この表現の方がよいと思います。本質は、無時間的に過ぎ去った有だというのです。単に「過ぎ去った有」というと、過ぎ去った時間を問題にしているようにみえるけれども、本質というのは現在の時点で問題をみるのであって、現在の或るもののなかにおいて最初から現在まで存続しているようなものが、そのものの本質であり、それを「無時間的に過ぎ去った有」だというのです。なかなか含蓄に富んだいい方だと思います。
 「過ぎ去ったものはそのために全く否定されているのでなく、揚棄されているにすぎず、したがって同時に保存されてもいるのだ」。過ぎ去ったものは過去のものとなって現在に何も残っていないのかというと、そうではありません。過去から出発して現在まで引き継がれているもの、それが本質なのです。過去にちょっとあっただけですぐなくなってしまったようなものは、本質でもなんでもありません。

 ── 日常生活でWesenという言葉が用いられる場合、それはしばしば総括とか総体とかいうような意味しか持っていない。例えば人々はZeitungswesen(ジャーナリズム)、Postwesen(郵便制度)、Steuerwesen(租税制度)等々と言う。そしてその意味するところは大体、これらの事柄が直接態において個別的にでなく、) 複合体として、そしてさらにまたさまざまな関係において理解されねばならないということである。Wesenという言葉のこうした用い方には、大体においてではあるが、本節に本質として示されたものが含まれている。

 Zeitungsとは報道ですから、Zeitungswesenは報道の総括、報道の総体という意味であり、そこからジャーナ リズムとの訳が生まれてくるのです。Postwesenは郵便の総体、これが郵便制度。Steuerwesenは租税の総体で租税制度。Wesenは、総括とか総体の意味で使われることがありますが、総括とか総体というなかに実は本質があらわれているというのです。どういうことかといいますと、一つ一つの現象をとってみたら本質はなかなかみえにくいのです。しかし、物事を総体としてみると、そのなかに本質がはっきりとあらわれてくるのです。全体を観察することによって、一見偶然性とみえるなかに潜んでいる本質をとらえることができるのです。

 ── また人は有限な Wesen(存在)というような言い方をし、人間を有限なWesenと呼ぶ。しかし Wesenと言えば、それは本来有限性を越えているものであるから、そのかぎり人間をこう呼ぶのは正確ではない。

 Wesenを存在という意味で使うこともあって、人間を有限な存在だというようなことがあります。しかし本質というのは、本来、有限性のもつ有を揚棄していて客観世界に存在するものの奥に存在するものだから、有限な存在を本質というのは正確ではないというのです。

 またさらに、最高のWesenがあると人々が言い、それによって神を意味する場合、このような言い方については、二つのことを注意しなければならない。第一に、このある(es gibt)という言葉は、有限なものを指示する言葉である。例えばわれわれは、どれだけの遊星があるとか、こうした性状の植物があり、またああした性状の植物があるとか言う。こういう風にして存在するものは、それ以外に、またそれと並んで、なお他のものも存在しているような或るものである。しかし神は絶対に無限なものであるから、それ以外にまたそれと並んで他の存在もまたあるというようなものではない。神以外になお存在するようなものは、神から切りはなされているために、何らの本質性をも持たない。それはこうした孤立のために、自分のうちに拠りどころなく本質のないものであって、単なる仮象とみられなければならない。

 神とは最高の存在だといわれることがあります。しかし、或るものが「存在する」ということは、他のものとの関係において「存在する」ということだから、有限のものを指示する言葉なのです。しかし神は無限なものであり、有限な存在を越えるものであって他のものと並び存するものではないから、神を「最高の存在である」というのは正しくないというのです。

 第二に、神を単に最高の本質と呼ぶのもまた不充分である。ここに用いられている最高という量のカテゴリーは、その実有限なものの領域にしかその位置をもっていないのである。例えば、これが世界中で最も高い山であると言う場合、われわれはこの最高の山のほかになおいくつかの高い山があるということを念頭に持っている。われわれが誰かについて、かれはその国で最も金持ちだとか、あるいは最大の学者だとか言う場合も同じである。神は単に一つの本質でもなければ最高の本質でさえもなく、本質そのものなのである。

 神を最高の本質というのもまた正しくないのです。最高とは、量の上限を最高というのです。量というのは有論で論ずるカテゴリーであり、したがって有限世界を論ずる限りで問題とされるにすぎません。しかし、神は無限な存在だから、そういう有限な世界にのみ妥当するカテゴリーを使って「最高の」などと形容詞をつけるこ、と自体がおかしいのです。神は最高の本質ではなくて本質そのものだというわけです。

 もっとも、ここでなお注意すべきことは、神をこのように理解することは、宗教的意識の発展における重要で、必然的な一段階をなすものではあるが、それはまだけっして神にかんするキリスト教的観念の深みを汲みつくしたものではないということである。神をただ本質そのものとのみ見るにとどまるならば、われわれは神を抵抗しがたい普遍的な力、言いかえれば主として知るにすぎない。主にたいする恐れは確かに知慧のはじめ、ではあるが、しかしそれはただはじめにすぎない。神を主とのみ見る宗教にはまずユダヤ教があり、次にマホメット教がある。これらの宗教の欠陥は、一般に有限なものが正当に取扱われていないところにある。

 神を本質とのみみる見方は、キリスト教の見方と違うといっています。キリスト教の見方は三位一体だから、父と子と聖霊とが三位一体となっています。神が天上の神であり、子がキリストであり、聖霊というのはその統一であるというとらえ方です。つまり三位一体は本質である神が、子であるキリストに現象するという考え方にたっているのです。だから父と子は一体であり、本質と現象は一体なんです。本質である神のみを切りはなすという考え方は、キリスト教の深みをまだ理解していないということです。ユダヤ教やマホメット教は神を本質とのみ見て、現象するものとしてみていないから、キリスト教とは異なるのです。

 他方、有限なものを── それが自然物として存在しようと、あるいはまた精神の一つの有限なものとして存在しようと── それだけで固執するのが、異教したがって同時に多神教の特徴をなしている。

 ユダヤ教とマホメット教は神を主とのみ、つまり本質とのみみて、現象するものとみないという欠陥があるのですが、他方、多神教では有限なものに固執します。つまり、有限なもの(現象)のなかに神が存在すると考え、神を本質と現象との統一とみないというか、父と子の統一とみないというか、地上に神があるとしてしまう、それが多神教の特徴であるというのです。

《質問と回答》

 第一の質問は「本質の説明でなぜ神が出てくる(㊦一二―一三ページ)のか、それは結局ヘーゲルの観念論に、つながるのではないか」というものです。
 結論から言えば、それはちょっと違うのではないかと思います。なぜ本質の問題で神を論じるのかと申しますと「第二に、神を単に最高の本質と呼ぶのもまた不十分である」(㊦一三ページ)と書いてあります。神を最高の本質であるというとらえ方が実際にあるわけですから、やはり本質に関連してそういうとらえ方が正しいかどうなのかを議論しているわけです。ヘーゲルがいいたいのは、神そのものを問題にしているのではなくて、本質をどうとらえるかであって、その例として神は最高の本質であるという議論を一つのやり玉に挙げているにすぎません。だからこれを根拠にヘーゲルの観念論を云々するのは、的を射ていないとわたしは思います。
 二つ目の質問にやはり本質に関連して「潮の満ち干は月の引力によって決まる。潮の満ち干は月によって媒介されている。潮の満ち干という有が月の重力という真の姿によって媒介されている。このように有と本質の関係を理解してもよいか」というのがありました。もともと本質は「現存在の根拠」となるものですから、干満の本質を月の重力といってもよいでしょう。しかし本質を説明する例としてまちがっているとは思いませんが、この例は或るものと他のものとの媒介を因果関係でとらえている例だと思います。月の重力が原因になって地球の干満という結果が生じているのです。原因と結果は本質論のなかにで出てくるカテゴリーであり、その意味では本質よりもさらに展開され、具体化されたカテゴリーです。これに対し本質というのは有の内側にはいっていったもの、テキストには「本質とは、自己のうちにはいっていった有」(㊦九ページ)とあり、つまり本質というものは、そのものの内側にあるのです。だから本質は他のものによって媒介されるということではなく、そのもの自身によって媒介されている関係をみています。だからこの質問の例がまちがっているとはいえないけれども、こういうものを主として念頭に置いているとしたらちょっと具合が悪い。つまり自己自身の媒介なのです。自分の中における媒介、そのように理解していただきたいのです。
 なぜ私が「本質は有に媒介された真の姿だ」と言ったのか。それは、有論、本質論、概念論の関係を全体としてどうみるか、ということにかかわるたいへん重大な問題なのです。ヘーゲルの『大論理学』というのは『精神現象学』の一番最後の絶対知、つまり主観と客観の一致したものを前提として出発しておりますので、思考のあり方と物事のあり方、つまり主観のあり方と客観のあり方を混同して述べている、という批判がされています。しかし私は全体としてヘーゲル論理学は人間の認識の発展をみていると理解しています。つまり人間の認識が発展していく過程をみたカテゴリーの展開が論理学なのです。では、有論とは一体何なのかというと、物事の真の姿を認識することなく表面的な認識にとどまる段階です。本質論とは何か、これは物事のなかの真の姿を認識する段階です。概念論とは何かというと、物事を乗り越えた真にあるべき姿を認識する段階なのです。このように理解すべきではないかと考えております。
 もっと掘り下げてみますと、本質論は物事のうちにある真なるものを扱うのに対し、概念論は事物を越えて出てきた人間の認識の創造の産物たる真なるものをとらえます。この場合の「事物」とは有のことです。ですから、本質は「事物のうちにある」、すなわち「有に媒介された」というように私はいったのです。それから概念論は「事物から出てきた」、すなわち「有を止揚した」真にあるべき姿をとらえるです。
 総括的に言いますと、本質というのは客観的に実在するもののなかにおける本当の姿をみるのです。しかし、客観的に実在するものは、全て有限な存在です。だから客観世界に直接にあらわれている姿は有限な姿であって、真の姿ではありません。客観的実在のなかに存在する真なるものというのは、限られたもの、有限なもののなかでの真なるものでしかないわけです。だけども概念論で問題とする真の姿というのは、客観的実在のもつ制約をのりこえた本当にあるべき姿、人間の認識の最高の段階なのです。だから人間は客観のなかにどんな真理があるかをみるだけではだめなんです。有限な客観を変革の対象とみて、このように変革すべきだと考え、それを認識するところに、一番深い認識の段階があるのです。そういうことを全体としてヘーゲルはいいたいのだろうと、私は思います。
 本質は有に媒介された、というよりもむしろ有に制約された真の姿です。有のもつ有限性に制約された真の姿を認識するのが本質論、有の制約を乗り越えた本当の意味の真の姿を認識するのが概念論です。だからこの概念論に至ったときにはじめて、人間の変革の立場というのが明瞭に出てくるのです。本質論を認識するだけではまだ、解釈の立場にとどまっています。「客観の真の姿はこんなものだ」という、いわば評論家的な立場です。だけれども概念論の立場はそうではない、客観的な実在を変革の対象としてみています。客観的な実在のなかには一定の正しさはあるけれども、本当の姿はそんなものであってよいはずがない。これはどうしても変えなくてはならない。変えて本当の姿を実現しなくてはならないと考えるのが概念論です。ですから概念論においては変革の立場から真の姿を明らかにするのです。
 このようにヘーゲルの論理学を全体として認識論の問題としてとらえることが重要なのではないかと思います。本質は特定の述語の捨象、形容詞を捨て去ったものではなく、その奥にひそむ真の姿であると、わたしは言いましたが「中三殺人事件をみると、殺人に至る過程も殺人という本質を構成すると思いますが、どうでしょう、か」という質問がありました。テキスト㊦一〇ページに関連した質問です。
 ヘーゲルは、本質とは「過ぎ去った有」であると言っています。つまり、本質を知るためには、そのものを歴史的にとらえることが大事なのです。そのものが発生した時には、本質そのものの姿としてあらわれているわけで、そこからどんどん発展していっていろんな形態を身につけていくから最初の本質がみえにくくなっているのです。だから、その発生展開をとらえて、その過去の歴史にさかのぼったときに、本質そのものがよく分かるのです。そういう意味で「本質は過ぎ去った有」だといっていますので、その限りにおいては「純君」殺人事件の本質を知ろうと思えば、少年がこれまでどんなことをしてきたかを知ることは、意味があると思います。

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