『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第一五講 本質論・本質 Ⅱ


 前回から第二部の本質論に入り、本質とは何かを問題にしています。本質というのは「事物の直接的存在はいわばその背後に本質が隠されている外皮あるいは幕と考えられているのである」、「事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではない」(㊦ 一一ページ)、つまり、事物の表面的な姿の奥にある真の姿が本質です。だから本質をつかむということは、物事を二重にみるということなのです。表面的な姿とその奥にかくされた真の姿という二重の関係においてみるというのを、ヘーゲルは「反省」とか「反照」、あるいは「相関性」とか「媒介性」とかの用語で説明しております。ですから本質論では「反省」という言葉が非常にしばしば出てくるのです。

一一二節補遺 ── さらにまた、神は最高の本質であるから認識できないものである、という主張がしばしば行われている。これは一般に現代の啓蒙思想の立場、より正確に言えば、抽象的悟性の立場であって、この
立場は、Il y a un étre supréme〔最高の存在がある〕と言うことで満足し、それ以上に進もうとはしない。こうした主張に満足し、神を最高の彼岸的存在とのみ見る人々は、目前にあるこの世界をそのままで確固とした積極的なものとして考えているわけであって、本質とはまさにあらゆる直接的なものの揚棄であることを忘れているのである。抽象的な彼岸的な本質としての神、したがって区別や規定性を含まない神は、その実一つの名前にすぎず、悟性の捨象のかすにすぎない。神の真の認識は、事物が直接的存在においては真理を持たないことを知ることからはじまるのである。

 「神は最高の本質であるから認識できないものである、という主張がしばしば行われている。これは一般に現代の啓蒙思想の立場」といっていますが、これはヴォルテールとかルソーとか、フランス革命を理論的に準備したフランス唯物論者たちのことをいっています。何で唯物論者たるものがこんなことをいったのかが問題になりますが、これは理神論の立場です。言いかえれば、神は最高の存在であるが認識できない、と考えるのです。
 要するに神の実在性の議論なのです。理神論では、神は天の上に最高の存在としているだろう、いるだろうけれどもわれわれは議論することもできないし、ましてやこの地上には神など存在しない、というのです。この「ましてや」の方に意味があるのです。本当はこの地上に神など存在しないといいたいのです。しかし、当時はキリスト教が社会的に大きな影響力をもっており、神を否定すると大変な世論の批判を受けることになるから、いわば神を二階にあげて梯子をはずして、事実上この世には神は存在しないことをいいたかったわけです。この理神論をヘーゲルは批判しているのです。
 「神は最高の本質である」の「本質」は、直接的にある有を揚棄したものという意味です。しかし、彼岸にあるということになると本質ではないではないか、とヘーゲルは批判しているのです。本質は此岸になければならないのに、有から切り離された彼岸にあるのでは本質ではないと批判するのです。
 理神論は「神は最高の本質であるから認識できない」とすることによって、本質を有から切り離しそれゆえに「この世界をそのままで確固とした積極的なもの」として認めてしまうのです。これに対し有を揚棄したものが本質であると理解することは、有を仮象としてとらえることであり、その仮象性を批判する力になるわけです。本質を有から切り離したものとして認めてしまえば、有を「そのままで確固とした積極的なもの」として認めることになり、もはや仮象ではないことになってしまう、とヘーゲルは批判しているわけです。
 「抽象的な彼岸的な本質としての神、したがって区別や規定性を持たない神は、その実一つの名前にすぎず、悟性の捨象のかすにすぎない」とありますが、最高の本質だけれども、認識できないような、この世から切り離され、天上だけに住んでいるような神は、捨象のかすであって、議論に値しないというのです。「神の真の認識は、事物が直接的存在においては真理を持たないことを知ることからはじまる」とある、この「神」は、本質と言いかえた方がよいかもしれません。本質を認識するということは、客観的世界が目の前にあるものの姿では正しい姿とはいえないんだと認識することから始まるのです。これは非常に大事な観点です。

本質は現象する

 神についてだけでなく、その他の関係においてもそうだが、人々はしばしば本質というカテゴリーを抽象的に使用し、事物を考察する場合、事物の本質を事物の現象の特定の内容に無関係なもの、それだけで存立するものとして固定する。例えば、人々はよく、人間において大切なことはその本質であって、その行為や行状ではないと言う。これには確かに正しいところもあって、人間の行為はその直接態においてではなく、かれの内面によって媒介されたもの、かれの内面の顕示としてのみみなければならない。ただこの場合看過してならないのは、本質および内的なものは、現象することによってのみ、そうしたものであるという実を示すということである。人々が、自分の行為の内容と相違する本質を引合いに出す場合には、普通その根柢に、自分の単なる主観性を主張し、主観的かつ客観的に(an und für sich)妥当するものを回避しようとする意図があるのである。

 本質を現象から切りはなされたもの、本質が本質だけで存在するものとして理解しようとする見解があります。例えば「人間において大切なことはその本質であって、その行為や行状ではない」と。あたかも本質というものが、その人の行為や行状にあらわれないかのように、その人の現実の行為とは無関係のもののように理解する者がいるが、それは正しくないのです。その人の本質というのは、現象することによってのみその人の本質なのです。本質は必ず現象する。これは非常に大事なところです。だから自分のことを「わたしは本質的には勉強をしたいんだけれども、たまたま今忙しいから勉強しないだけなんだ」と弁明する人がいますが、それは違うのです。それは「自分の単なる主観性を主張」するにすぎないのです。現実に勉強しない人は、本質的に勉強したくないことのあらわれなんだ、ということをいっているのです。
 この「本質は必ず現象する」ということは、とても大事なことだと思います。神の批判云々も結局、本質は神だなどといって現象の世界から切り離して本質をとらえようとする一つの見解として、ヘーゲルは批判しているんだというところをつかんでおけばよいと思います。

本質は有と同一

 一一三節  本質における自己関係(Beziehung-auf-sich)は、同一性(Identität) 、自己内反省(Reflexion-insich)という形式である。これは有の直接性(Unmittelbarkeit)に代わってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である。
 制限された有限なもののすべてを有るものとみる感性の無思想は、それを自己と同一なもの自己のうちで自己と矛盾しないものと解する悟性の固執へ移っていくのである。

 同一と区別は、きわめて重要なカテゴリーです。同一と区別の統一について、結局、何がいいたいのかというと、本質と現象の関係は同一であると同時に区別されているということです。本質は現象するわけですから、現象というのは本質と同一なのです。では現象は本質と全く同じかというと、本質とは区別されてもいます。全く同じでは意味ありません。同一と区別というカテゴリーは対立するカテゴリーだけれども、統一においてとらえないと正しいカテゴリーになりえないのだ、というのです。同一は同一、区別は区別だというような考え方は、全く何の役に立たないものだということです。ですから本質論におけるカテゴリーは、同一と区別の統一からはじまる対立物の統一、あらゆるカテゴリーにおける対立物の統一として展開されることになります。
 「本質における自己関係」とは、有と本質の関係のことです。有とそのなかにおける本質との関係は、他のものには関係しない自分のなかだけの関係です。「本質における自己関係は、同一性、自己内反省という形式」とありますが、本質と有という二つのものは同一なのです。「これは有の直接性に代わってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である」。有では直接的であったものが、本質においては媒介されたもの、相関性としてあらわれます。相関関係にある二つのものは有の内部における関係です。そういう意味でこの「直接性に代わってあらわれた……自己関係」だというのです。
 また本質は、有の「抽象」として生まれた自己関係です。本質をとらえようと思えば、物事を抽象化しないととらえられません。本質というのは有の真理ですから、本質は有と同一のものだということになります。本質と有との同一性は自己の内部における同一性という関係であり、しかも本質は有を抽象することによってえられるものなのです。
 後半の部分に入ります。この世の中にあるものをすべて正しいものとする考え方は、現象しているものが即本質であるという考え方と同じではないか、と批判しているわけです。現存するものをすべて肯定する考えは、すべて「自己と同一なもの」、つまりすべて本質であるとみなす見方につながります。それはおかしいではないかとヘーゲルはいっているのです。
 目の前にあるものがすべて本質そのものだとしたら、人間がものを考える必要もないし、抽象化する必要もない。確かに本質は有の真実在として有と同一のものなのですが、同時に有と区別されたものなんだ、というのです。それを同一としかいわないような無思想なものは、話にならないと批判しています。

本質は有から区別

 一一四節 この同一性は、有から由来するものであるから、最初はただ有の特性にのみまとわれてあらわれ、外的なものと関係するように有と関係するにすぎない。有がこのように、本質から切り離されて理解されるとき、有は非本質的なもの(das Unwesentliche)と呼ばれる。

 「この同一性」とは、本質のことです。有から生まれた本質は、さしあたり有から区別されたものとしてあるわけで、そうなると有は本質に対して非本質的なものという関係になる。いったん有と本質は切り離されるわけです。本質は有から生まれたけれども、生まれた以上はもう有とは区別される。だから有から生まれたものは本質であるのに対して、有の方は非本質的なものとして区別されるのです。まず両者を区別したうえで、つぎにその関係をみるわけです。

 しかし本質は内在性であって、それは自分自身のうちに自己の否定、他者への関係、媒介を持つかぎりにおいてのみ、本質的である。したがって本質は、非本質的なものを自分自身の反照(Schein)として自己のうちに持っている。

 本質は、有に内在しているものですから、本質は有から独立したようにみえるけれども、有との関係を切るわけにはいきません。つまり本質は非本質的なものと切り離しがたい相互前提の反省関係にあるのです。

 しかし反照あるいは媒介の作用には区別の作用が含まれており、区別されたものは、自分がそこから由来しながらそのうちに自分が存在しないところの、すなわち仮象として存在しているところの、同一性との区別のうちで、それ自身同一性の形式を持つようになるから、自己へ関係する直接性あるいは有として存在する。

 ちょっと分かりにくいところです。まず本質は有から生まれた、だから本質と有は別である、片方は本質であり、もう一方は非本質的なものだと区別します。しかし有と本質は区別されるが、両者は切り離しがたい関係にある。どのような関係なのかといえば、それは同一と区別の統一の関係なのです。「しかし反照あるいは媒介の作用には区別の作用が含まれており」とありますが、本質と有とが関係する、反照する、媒介するということは、両者をその区別においてみているのです「区別されたもの」とは、本質のことです。「そこから由来しながら」の「そこ」とは、有のことです。本質は有から生まれるということで有と本質の関係をみてきたけれども、本質が定立されると同時に、これまでの有は有でなくなってしまって、仮象に落とされてしまっている。だから本質と仮象(有)とは同一と区別の統一としてあるのです。「同一性との区別のうちで、それ自身同一性の形式を持つようになる」とは、同一と区別の統一としてある、と理解したらよいと思います。「自己へ関係する」とは同一性のこと「直接性あるいは有」とは仮象(有)の中の本質に媒介されない部分、つまり区別のことです。
 ここまでをもう一度、整理してみましょう。まず有から本質が区別される。すると有は仮象になってしまう。
 しかし有と本質は同一である。なぜなら本質は有の真実在であるから。しかし有と本質は同一でありながらも区別されなければならない。なぜなら有には本質でない仮象が含まれているから。それをまとめて、本質と有とは同一と区別の統一という媒介関係にある、といっているのです。

本質は同一と区別の統一

 「これによって本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合となる」とあるのは、なかなか面白いところです。先ほど、有論、本質論、概念論は認識が深まっていく段階で、本質論は有のなかにおける真の姿であり、概念論は有を乗り越えた真の姿だと話しました。実は、概念論で問題になるのが、直接性と媒介性の統一というカテゴリーなのです。どういうことかというと、概念、つまりあるべき真の姿というのは客観的実在を媒介して生まれてきます。客観的世界の一定の反映として概念は生まれてくるのです。反映ではあるけれども客観世界そのものではなく、客観世界を反映しつつもそれを否定するものとして主観が生みだしたものなのです。客観世界を不十分なものとし、変革の対象としてとらえるのです。それは真にあるべき姿を人間の頭で考え出すことですが、まったくの空想の産物かというとそうではありません。現実に立脚しながら、現実をのりこえようとする人間の意識の創造性の産物なのです。
 概念というのは、まず、直接性です。つまり人間の頭の中で考え出したもの、何物にも媒介されないものです。同時に概念は、客観を反映したものとして客観に媒介されているのです。そういう意味で概念論の領域は直接性と媒介性の統一なのです。本質も真の姿である認識を問題にする限りでは、概念と同様に直接性と媒介性の統一といってもよいのですが、有の制約のもとにある限りにおいてまだ完全な直接性と媒介性の統一の段階にはなく、せいぜい同一と区別の統一の段階にとどまっている、というわけです。
 ですから、この文章のなかにすでに概念論への布石がうってあるのです。後にもいくつか概念論への布石が出てきます。概念論で再び直接性と媒介性の統一が出てくるので覚えておいて下さい。

 ここではすべてが、自己に関係しながら同時に自己から出ているというように定立されている。それは反省の有(ein Sein der Reflexion)であり、自己のうちに他者が反照するとともに、他者のうちに反照する有である。――本質の領域はしたがって、有の領域では即自的にのみ存在していた矛盾の定立された領域である。

 「自己に関係しながら、同時に自己から出ている」というのは、本質の領域では、有と本質とは区別されながら同時に同一性をもっているという関係にあります。それぞれが自立しながら、しかもなお互いに媒介されているという関係なんだ、というのです。その意味で「直接性と媒介性とのまだ完全でない結合」なのです。
 ヘーゲルの『大論理学』には反省の三段階が出ております。
 一、措定的反省(無から無への反省、相互依存の反省)
   例:親子べったり――親子ともに自立していない
 二、外的反省(有から無への反省)
   例:すねかじりの子と親――親は自立しているけれども子が自立していない
 三、規定的反省(一と二の統一、相互に自立しながら関係しあっている)
   例:親子ともに自立しながら、親子の間に情愛がある
 三が同一と区別の統一なんです。まず区別するとは相互に自立していること。同一であるとは相互に緊密な関係で結んでいることです。同一と区別の統一を言いかえると、対立物の統一ということになります。
 「――本質の領域はしたがって、有の領域では即自的にのみ存在していた矛盾の定立された領域である」。この「矛盾」は対立物の統一、と読みかえた方がよいと思います。したがって本質の領域は対立物の統一の領域なのです。エンゲルスの『自然の弁証法』をみてみましょう。
 「したがって自然および人間社会の歴史からこそ、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これらの法則は、まさにこれら二つの局面での歴史的発展ならびに思考そのものの最も一般的な法則にほかならない。しかもそれらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。すなわち、
量から質への転化、またその逆の転化の法則、
対立物の相互浸透の法則、
否定の否定の法則。
これら三法則はすべて、ヘーゲルによって彼の観念論的な流儀にしたがってたんなる思考法則として展開されている。すなわち第一の法則は『論理学』の第一部、存在論のなかにあり、第二の法則は(有論のこと―引用者)彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている。」(全集⑳三七九ページ)
 弁証法の基本三法則といわれているものです。エンゲルスは、それらを「だいたいにおいて、三つの法則に帰着する」と言っているだけであって、この三つの法則がすべてであるとはいっていません。これを勘違いをしないようにして下さい。この三つの法則は、論理学全体からとってきたエッセンスだということです。論理学の第一部だけでもその他にいろんな法則があり、三法則を学べば弁証法のすべて分かったということにはなりません。ですから、私たちは、それを『小論理学』から学びとろうとしているのです。
 今回、特にこのなかで学ぶべきことは、エンゲルスの言葉では「対立物の相互浸透の法則」、すなわち、対立物の統一の法則です。対立物の統一というカテゴリーのなかに、対立物の統一もあり、対立物の同一もあり、対立物の相互浸透もあり、対立物の統一と闘争(矛盾)もあります。ヘーゲルは少なくとも、今いった四つぐらいの広い意味で使っています。
 ここで「矛盾」と表現しているのは、矛盾と対立を混同するものだと見田さんは批判していますが、この批判は正しいと思います。「矛盾」といってしまえばとらえる範囲や意味が狭くなってしまいます。そういう意味でテキストの今読んだ部分、エンゲルスに言わせれば「本質論の全体を占める」法則は、広義の対立物の統一の法則と理解した方がよいでしょう。したがってエンゲルスが本質論全体を占める法則として「対立物の相互浸透の法則」とあげているのは、今日では「対立物の統一の法則」と言った方がより正確ではないかと思います。
本質論では同一と区別の統一をはじめとする対立物の統一を議論することになります。「有の領域では」まだ「即自的にのみ存在していた矛盾」とありますが、有の段階でも対立物の統一はありました。或るものと他のもの、即自有と向他有、一と多などがそれです。しかし、それらはまだまだ萌芽的な形態にすぎないのであって、対立物の統一のカテゴリーが本格的に展開されるのは反省関係、つまり二つのものの媒介の関係で物事を議論する本質論のなかにおいてなんだ、ということなのです。
 テキストの一七ページに戻ります。

 一つの概念があらゆるものの根柢にあるのであるから、本質の発展のうちには、反省的形式においてではあるが、有の発展におけると同じ諸規定があらわれてくる。したがって、有と無との代りに今や肯定的なもの(das Positive)と否定的なもの(das Negative)とがあらわれ、前者はまず同一性として対立なき有に対応し、後者は区別として展開される(自己のうちで反照することによって。さらに成は定有の根拠( Grund)であり、定有は、根拠へ反省したものとしては、現存在(Existenz)である。等々。――論理学の(最も難解な)この部分は、主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含んでいる。これらは反省的悟性の産物であって、この悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立し、しかも、この独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に「また」によって結合するにすぎず、これら二つの思想を綜合し、概念に統一することはしないのである。

 ヘーゲルは、有論、本質論、概念論を概念の展開(つまり真理の認識の諸段階)とみています。有論は即自的な概念であり(㊤二五九ページ(㊦九ページ) )、本質論は媒介的な概念、概念論は即対自的な概念であり、概念の完成された姿です。
 このように論理学の全体が、概念の展開として構成されているのです。有論における有と無、これが出発点です。本質論にあってはそれが否定的なものと肯定的なもの、あるいは同一性と区別として展開されます。有論では有と無から成が生まれ、成は定有になったのですが、本質論では同一と区別から根拠が生まれ、根拠は現存在になっていくのです。
 テキスト一八ページに「A 現存在の根拠としての本質(Das Wesen als Grund der Existenz)という見出し」があります。本質というのは現存在の根拠となるものだ、といっています。ここまでは本質の同一と区別を学んできたけれども、今後は根拠の話をすることになると予告しているわけです。
 「論理学の(最も難解な)この部分」とありますが、本質論も難しいけれども、概念論の方が難しいと私は思います。この本質論で対立物の統一のカテゴリーとして出てくるのは、本質と現象、同一と区別、原因と結果、内と外、部分と全体、可能性と現実性、偶然性と必然性など、われわれが科学一般で使うカテゴリーです。ですから、われわれが日常生活をするうえでも、諸科学を学習するうえでも、本質論のカテゴリーを学ぶことはとても意味があることだと思います。
 「科学一般」は、こういう対立物の統一のカテゴリーを問題にする場合に、対立する二つのものが独立していると同時に関係しているとみるところまではいいのだけれども、その独立していることと関係していることを、統一してとらえなければならないのに、並列してとらえているとヘーゲルは批判しています。独立もしているし、「また」関係もしている、というのではなく、対立物の統一として弁証法的にとらえなければならないというのです。

《質問と回答》

 第一一四節の「この悟性は区別された二つのものを独立的なものとみると同時に、またその相関性を定立ししかも、この独立性と相関性とを並列的あるいは継起的に『また』によって結合するにすぎず、これら二つの思想を綜合し、概念に統一することはしないのである」というのは、どういう意味でしょうかという質問がありました。
 ここまでに述べられていることは本質とは何かということで、大きく二つのことをいっています。一つは自己同一性であり、ヘーゲルは簡単に同一性といっています。本質とは変化のなかにおける不変なものです。表面にあるものの姿はいろいろ変わっていくけれども、その中にあって変わらないものが本質なのです。変わらないということは常に自己の同一を保つわけですから、それを自己同一性と呼ぶわけです。もう一つは、本質は現象するということです。本質は表面からは見えない奥に隠れた姿ですけれども、奥にもぐりっぱなしかというとそうではなく、必ず表面に出てくるものなのです。そのことを「本質は現象する」というわけです。これを区別といっております。本質と現象とを比べてみると、本質は自己同一性として変わらないものなんですけれど、それに対して現象はいろいろ変わるわけで、変化の多様性をもっています。だから本質が現象となってあらわれたときは、いろんな形をとるわけで、本質と同じものではあるけれども区別されたものという意味で、区別といっています。この両方をあわせてヘーゲルは、本質は同一と区別の統一だというのです。区別は本質の現象形態といってもよいでしょう。
 質問の箇所は、形式論理学のことを問題にしているのです。形式論理学つまり悟性的な認識のもとでは、同一と区別を単に並べてとらえるだけで、これを対立物の統一としてとらえようとしません。形式論理学では、同一性の問題は同一律、区別の問題は差異性の原則という命題として、矛盾する二つの命題を単に並べて述べているにすぎません。これではだめなのであって、二つの対立する同一と区別を統一してとらえることが本質を理解するうえでは重要なんだ、という意味に理解すればよいと思います。
 もう一つの質問です。ヘーゲルは『大論理学』で措定的反省、外的反省、規定的反省の三つの形態を区分して述べているのですが「規定的反省とはどういう意味なのかもう少し分かりやすく説明して下さい」というものです。
 『小論理学』でいっている反省は、この規定的反省のことであり、対立物の統一のことです。対立するものが互いに、それぞれ独立しているようにみえながら相手なしには存在できないような関係としてあることを規定的反省というのです。これは相互前提関係といってもよいと思います。左と右の関係をみると、左は左、右は右としてあるのですが、左ということを説明しようと思えば右ではないもの、右とは何かといえば左ではないものということで説明せざるをえません。左は左、右は右として独立しているようにみえるけれども、相互に相手方を前提としてもっていて相互に切り離しえないような関係、これを規定的反省といっているのです。小論理学』ではここだけを押さえておけばよく、あとの二つの反省はあまり考えなくてもよいと思ます。

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