『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第一六講 本質論・本質 Ⅲ

A 現存在の根拠としての本質(Das Wesen als Grund der Existenz)

 「現存在の根拠としての本質」とはどういう意味なのか、ということをまずお話ししておきたいと思います。この場合の「根拠」というのはドイツ語のGrundのことで、理由あるいは原因と訳すこともできます。本質とは、現存在を生み出す根拠になるようなものだ、という意味です。第一四講でも述べましたが、アリストテレスのいう「形相」を念頭に置きながら、それにあたるものとして根拠をとりあつかっていると私は思います。アリストテレスは『自然学』(フュシカ)のなかで「自然学は対象事物の第一原因を確立することにある」と述べています。ものごとはいろんな因果の系列でつながっているけれども、その根本になる原因、第一原因を知ることがものごとを本当に知ることになるのだというのです。そして形相因、質料因、始動因、目的因の四つの原因を第一原因の構成要素だとしてあげています。
 この形相因が本質にあたります。「形相」とはどういう意味かというと「物質の実体でありこれはその事物のそもそもの何であるか」における、その「何」が「形相」なわけです。だから、そのものの本質は何なのかが形相ということになるわけです。本質を物事の一つの原因、形相「因」としてとらえているのです。この形相因の「因」は原因ですから、ヘーゲルは「本質は現存在の根拠である、原因である」といっているのです。つまり或るものが或るものとして存在するというのは、或るものの本質があらわれ出ることによって、そのものがそのものとしてあるという理解です。
 ですから「現存在の根拠あるいは原因としての本質」という言い方になっているのです。本質とはすべての物質を生み出す根本的な原因になっているということです。目次をみますと、次のような構成になっています。

A 現存在の根拠としての本質
  a 純粋な反省規定
    イ 同一性
    ロ 区別
    ハ 根拠
  b 現存在
  c 物
 最初のaの「純粋な反省規定」では、本質は同一と区別の統一としての根拠である、ということを述べています。ですから「純粋な反省規定」の項目をさらにみてみると、同一性、区別、根拠というようになっています。本質は同一性と区別の統一であり、同一と区別の統一としての本質こそ、現存在の根拠になる、ということが「純粋な反省規定」では述べられております。ついでbの「現存在」では、本質によって根拠づけられた実在が現存在であることを考察します。最後のcの「物」では、根拠づけられた現存在、それが物である、という見地から物をみているのです。ただこの「物」というのは、われわれ唯物論者が物質といっているのとは、ちょっとカテゴリーが違うので注意をして読む必要があるだろうと思います。
 それではまず「a 純粋な反省規定」の最初の「イ同一性」のところ、第一一五節に入りましょう。


a 純粋な反省規定(Die reinen Reflexionsbestimmungen)

イ 同一性(Identität)

本質は区別を含む同一性

 一一五節 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(Identität mitsich )である。

 「本質は自己のうちで反照する」。有が自分のなかへ入っていって、反省したのが本質です。ですから、本質と有との関係は、或るものの内部における関係(自己関係)であって、他のものには関係しないのですが、相互に影響しあう関係だというのです。本質は「反省した自己関係」、つまり有の反省として生まれたものなのですでは、その有の反省から生まれた本質というのは何なのかといえば、それは有との同一性だ、といいます。有はいろいろと変化するわけです。いろいろな現象形態をもっているわけですが、その中にあって常に変わらないもの、同一性が本質なのです。

 この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。

 同一性というものも区別から切り離して同一性だけを論じるやり方を「悟性的同一性」とか「形式的同一性」というようにヘーゲルはいっていて、こんな同一性はあまり意味がない、同一は、区別を伴った同一としてはじめて意味があることをいいたいのです。それでこの「形式的同一性は」「二つの仕方で行われうる」。その一つは「具体的なものに見出される多様なものの一部を捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方」です。例えば、羊と馬とはどちらも蹄(ひづめ)をもっているとして、蹄という共通点だけをみて、同一性を見出す仕方です。
 「もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまうやり方」です。例えば、赤いリンゴも青いリンゴも、リンゴとしては同じだというわけです。こんな形式的な同一性は、私がいっている同一性とは違うと、ヘーゲルはその次にいっております。

 同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。── この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少くとも表現において不完全である。

 ヘーゲルは、これまでにもみてきましたように、論理学のカテゴリーをすべて絶対者の規定だと考えておりますから、その点でいうと、この同一性を絶対者と結びつけると、絶対者は自己同一のものとなります。これは絶対的な真理は常に不変なものである、という意味になるわけです。これはこれとして間違っているとはいえないけれども、表現としては非常に不完全だと言っております。なぜ不完全なのかが、次に出てきます。

 なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである。

 「絶対者は自己同一である」という命題における「自己同一」というのは、形式的悟性的な自己同一なのか、それともヘーゲルのいうような区別を伴った同一なのかはっきりしないから、こういう言い方だけでは不十分だというのです。

本質は根拠

 後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。

 これはたいへん重要な指摘です。ヘーゲルのいう同一性は、区別を伴った同一性、同一と区別の統一です。これがまず「根拠」であり「より高い真理においては概念」となるのです。同一と区別の統一としての本質が根拠であるというのは、本質は現象となってあらわれるわけであって、内にある本質が外に出てくるわけだから、このあらわれ出てくる点をとらえて根拠といっているのです。
 概念もまたある意味では、そのように内から外へ出てくる力なんだといっており、これは非常に大事なところです。概念というのは「概念論」で詳しく学習しますが、言いかえれば理念、理想といってもよいものです。理念、理想というのはいつまでも頭のなかにとどまっているものではなくて、それは現実となる絶対的な力をもっているのであり、そういう意味では本質と共通したところがあるというのです。いま根拠を概念に関連させて議論しているわけですが、まず根拠は同一と区別の統一であるとしたうえで、これをより発展した形では、直接性と媒介性の統一であり、それが概念論でいう概念なんだとも述べています。こうした意味から「根拠」の「より高い真理」が「概念である」、というのです。ここではこの程度しか述べておりませんが、また後で詳しく学習することになりますので、ぜひとも頭のなかに残しておいて下さい。
 ヘーゲルは、ものごとの真の姿は何なのか、ということを一貫して考えるわけです。有論とは、ものごとの表面的な姿の認識です。本質論とは、そのものごとの奥にかくされた真の姿の認識です。概念論は、そのものごとを越えた真にあるべき姿の認識です。そういう意味で、根拠のより高い真理が概念である、という言い方をしているのです。ここにも、概念論の布石がうってあるのです。

 ── 絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。

 ここは全体の文脈からすると、あまり意味がありません。カントは絶対的空間、絶対的時間を物質から切り離して考えているけれども、それは抽象的空間、抽象的時間を意味しているにすぎない、と批判しているのです。

同一律批判

 本質の諸規定を本質的な諸規定ととれば、それらは前提された主語の述語となる。そしてこの主語は、諸規定が本質的なのであるから、すべてのものである。このようにして生じる諸命題は、普遍的な思惟法則として言いあらわされている。かくして同一の法則は、すべてのものは自己と同一であるAはAである、と言われており、否定的には、AはAであると同時に非Aであることはできない、と言われている。── この法則は真の思惟法則ではなく、抽象的悟性の法則にすぎない。すでにこの命題の形式そのものがこの命題を否定している。およそ命題というものは、主語と述語との間に、同一のみならず区別をも持たなければならないのに、この命題は命題の形式が要求するところを果していないからである。

 同一性の問題を、形式論理学では同一の法則あるいは同一律と呼んでいます。区別から切り離された同一性、抽象的、悟性的同一性、これが形式論理学でいう同一性です。「すべてのものは自己と同一である」とか「AはAである」とかいわれる法則です。これはこれとして大事なことです。法律での議論や国会での議論は、ほとんど形式論理学です。賄賂をもらったのか、もらわないのか。もらったのならもらった、もらわないのならもらわない、これが同一性の原則です。もらったと同時にもらわないとか、もらわないと同時にもらったとか、そういうことをいったら「ちゃんと答弁しろ」ということになるわけです。法律でもそうであって、盗んだのなら盗んだ、盗まないのなら盗まない、というのは同一性の問題になります。形式論理学における、AはAであるという同一律は、ものごとを論理的に認識するうえで必要なことなのです。この同一の法則を「否定的に」裏側からみると「AはAであると同時に非Aであることはできない」という命題となり、これは矛盾律と言われています。
 しかし「この法則は真の思惟法則ではなく、抽象的悟性の法則にすぎない」とヘーゲルは批判しています。なぜかというと「およそ命題というものは、主語と述語との間に、同一のみならず区別をも持たなければ」なりたたないからです。「人間は動物である」という命題を立てるとします。これは人間=動物という命題です。
 しかし主語の人間と述語の動物とは異なるものです。異なるものを等しいとすることによって、はじめて命題は意味をもつのです。命題はもともと区別されたものを同一とする矛盾をかかえているのです。つまり、命題は同一と区別の統一として定立されてはじめて意味をもつのです。AはAである、A=A、人間は人間であるというような同語反復は意味をなさないのであって、意味ある命題になりえません。すべてのものには矛盾があるといわれますが、思考の形式の一番簡単な命題のなかにすでに矛盾が含まれているのです。

 しかし特にこの法則を否定しているのは、この法則に続く他のいわゆる思惟法則であって、それらはこの法則と反対のものを法則としているのである。

 これはテキスト㊦二四ページに出てくる差異法則のことです。形式論理学は同一律を認めると同時に差異法則を認めています。差異法則は「すべてのものは異なっている」とするものです。同一律の命題は「すべてのものは自己と同一である」です。このようにまったく反対の命題を両者の関係をまったく明らかにしないままで、「も」「また」によって恥ずかしげもなく並べて述べるだけだと批判しています。

 ――よく人々は、この命題は証明こそできないが、あらゆる意識はそれにしたがって動いており、そして経験は、すべての人が、この命題を聞くやいなや、すぐにそれに賛成することを示している、と主張している。しかしわれわれは、そんないいかげんな学校経験にたいして、いたるところにみられる経験を対立させることができる。それによれば、いかなる意識もこうした法則にしたがって思惟したり、表象したり、語ったりしはしないし、いかなる存在も、こうした法則にしたがって存在してはいない。このような自称真理法則にしたがって語るのは(遊星は遊星である、磁気は磁気である、精神は精神である、等々)、馬鹿らしいと思われている。これがいたるところにみられる経験である。

 このように同一律をコテンコテンに批判しているわけですが、先ほどいったように形式論理学における同一律は、論理的にものを考えるうえで必要なことではあります。こういう同一律はヘーゲルがいうほど「馬鹿らしい」ことではなく、それはそれで意味があるのです。

同一性は観念性

 一一五節補遺 同一性はまず、われわれが先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である。

 この文章を読むにあたって、もう一度次の文章を振り返ってみましょう。

 九六節補遺 ── 更に、定有は実在性であるが、向自有は観念性と考えられなければならない。人々はしばしば、実在性と観念性とを同等の独立をもって対峙している一対の規定と考え、実在性のほかに観念性もまた存在すると言う。しかし観念性は実在性の外部に実在性と並んで存在する或るものでなく、観念性の概念は実在性の真理であることにあり、実在性が即自的にあるところのものとして定立されるとき、それは観念性として自己を示すのである(㊤二九四ページ)。

 これは非常に大事なところです。向自有のところで観念性というカテゴリーが出てきました。もう一度復習してみましょう。
  ヘーゲルは自分の哲学のことを、絶対的観念論だといって誇示しています。観念論はドイツ語でIdealismusといいますが、理想主義というように訳すこともできます。この観念性というのはドイツ語Idealitätの訳なんですが、私は観念性と訳すよりも理念性とかイデア性とかに訳した方がいいだろうと思います。ヘーゲルはなぜ自分の哲学を観念論といっているのかというと、ものごとの真の姿、真にあるべき姿を追求するのが哲学の役割なのであって、ヘーゲルの哲学はそういう真の姿、真にあるべき姿、つまり理念を追求する哲学だからです。ここに「観念性の概念は実在性の真理である」とありますけれども「実在性」は客観的実在ですから、客観的実在の真の姿が観念性なんだ、といっているのです。ここを踏まえないと「同一性はまず、観念性としての有である」の意味が理解できません。この場合の「同一性」は本質のことです。本質としての自己同一性、つまりいろんな現象形態をもってあらわれる有のなかの真の姿、それが本質なんだというのです。だから、本質の「同一性は観念性としての有である」となります。有の真の姿が本質なのです。有の真の姿が本質だからこそ、本質は不変の自己同一性のものとしてあるのです。
 ヘーゲル哲学は自分の哲学を観念論だといって、ものごとの真の姿を認識しようと一貫して心がけています。有論の段階ではまだものごとの表面的な正しい姿しか認識できなかったけれども、本質論の段階に入ってくるとようやくその裏にかくされた真の姿を認識するところまできます。そこで、本質という「自己同一性」は有の観念性である、ということになってくるわけです。

 一一五節補遺(つづき) ── 同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分れる点である。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、宗教的意識にたいしても、その他すべての思惟および意識にたちしても、高い意義を持つカテゴリーである。

 同一性というのは、多様な現象形態をつうじてそこに貫かれている不変なもの、自己同一を保ち続けるものを意味しています。それは「直接的に存在するものの観念性」なのです。直接的に存在する客観的実在の真の姿、それが同一性という言葉の哲学的意味なんだ、といっているのです。本質というのは、客観的実在のなかの真の姿であり、有の観念性なのです。そういう意味で、これは真理を認識する哲学にとって「高い意義を持つカテゴリー」なんだ、ということになるのです。

 神にかんする真の知識は、神を同一性、絶対の同一性として知ることからはじまる、と言うことができる。そしてこのことは同時に、世界のあらゆる力と光栄とは神の前に崩れ去り、ただ神の力および光栄の映現としてのみ存在しうることを意味する。

 「神を絶対の同一性として知る」というのは、この世のすべての客観的存在の本当の姿が神であることを知ること、つまりこの世のものは神の力のあらわれであることを知ることを意味する、といっているのです。

 ── 人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。

 人間の本当の姿、人間の本質というものは「自己意識」をもっているところにある。そういう自己意識をも、っている点で、人間は動物と区別されるのです。

 動物は、自分が自我であること、すなわち自己のうちにおける純粋な統一であることを理解する点まで達していないのである。── 思惟にたいして同一性が持っている意義について言えば、何よりも大切なことは、有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性と、抽象的な、単に形式的な同一性とを混同しないことである。

 「有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性」とありますが、有のなかにおける本当の姿、有を揚棄した真の姿として同一性をとらえることが大切なのであり、それが形式的な同一性とは違う本当の同一性だというのです。先ほどまでは区別を含んだ同一性だとさかんにいっていたわけですが、ここでは観点をかえて、真の姿、観念性としての同一性を強調しているわけです。

 思惟は一面的であるとか、融通がきかないとか、内容がないとかというような、特に感情および直観の立場から非常にしばしば思惟に加えられる非難は、思惟の働きがただ抽象的な同一性の定立にのみにあるとする、誤った前提にもとづいているのである。そして本節で述べたような、いわゆる最高思惟法則を掲げることによって、こうした誤った前提を確認するものは、ほかならぬ形式論理学である。もし思惟が抽象的同一性を出ないとすれば、われわれはそれをこの上もなく無用で退屈な仕事と言わなければならないであろう。

 同一性を抽象的、形式的な同一性と考えるのが形式論理学です。その形式論理学の同一性の立場に立てば、思惟は一面的だとか、融通がきかないとかという批判を受けることになります。つまり正しいことは正しい、間違っていることはまちがっているという形式論理学の同一性は、融通がきかないのです。それはあくまで形式論理学で問題になっていることであって、われわれはこんなところにとどまって退屈な仕事をするわけにはいきません。先ほど根拠と概念のところを述べましたが、それに関連して次が大事なところです。

 概念、より進んでは、理念は、確かに自己同一なものではある。しかしそれらは、同時に自己のうちに区別を含んでいるかぎりにおいてのみ、そうなのである。

 この「概念」は「第三部概念論」でいう概念であり、この「理念」も概念論の「C 理念」でいう理念のことです。これがわれわれの講義の、最後に到達すべき点になるわけです。概念あるいは理念も、同一と区別の統一である、といっています。本質も同一と区別の統一であるが、概念はもっと発展した意味での同一と区別の統一なのです。概念はより高い真理の意味として同一と区別の統一です。同一と区別の統一は、直接性と媒介性の統一と重なりあったカテゴリーです。つまり、そのものの真の姿が内側から外に向かってあらわれてさまざまな現象形態をとり、区別された姿となって出てくる、それが同一と区別の統一なのです。本質とはそういうものです。
 しかし、内にあった真にあるべき姿が外にあらわれてくるというのは、概念や理念においてこそいえるのであって、それは同一と区別の統一のもっと発展した形である直接性と媒介性の統一といった方がより正しいのです。直接性と媒介性の統一とはどういうことか。概念すなわち真のあるべき姿は、人間の頭のなかで考えられるという意味では、何ものにも媒介されない頭の働き、主観の働きであり、つまり直接性なのです。それが空想と違うところは何かというと、あくまでも客観に媒介された主観の働きによる産物なのです。客観に媒介され、客観のなかにおける法則性の認識の上に立って、その客観を否定し、客観の真にあるべき姿を人間の意識として頭のなかに描いたのが、概念なのです。だから概念は直接性と媒介性の統一なのです。つまり客観に媒介されながら、客観を乗り越えた直接性として存在する。そういう真の姿だからこそ現実に客観となりうる力をもっている、内から外へあらわれ出る力をもっているのです。内にある真の姿は、直接的存在でありながら、客観に媒介され、客観的実在となってあらわれでる必然性をもっているという意味でも、また直接性と媒介性の統一なのです。
  第一一四節に「これによって本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合となる」(㊦一七ページ)とあります。直接性と媒介性との完全な結合は概念なのですが、本質はまだそこまでいっていない、直接性と媒介性のまだ完全でない結合、言いかえれば、同一と区別の結合だというのです。
 この部分と、㊦一九ページの「それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である」と、それから二二ページの「概念、より進んでは、理念は、確かに自己同一なものではある。しかしそれらは、同時に自己のうちに区別を含んでいるかぎりにおいてのみ、そうなのである」の、この三ヵ所は本質論と概念論とをつなぐ非常に重要なところだと、私は思います。
 本質論と概念論との関係をどうとらえるかという問題は、唯物論者の間でもずいぶん意見が分かれていますが、いま紹介したところにそれを読み解く鍵があるのではないかと私は考えております。


ロ 区別(Der Unterschied)

本質は同一性を含む区別

 一一六節 本質は、それが自己に関係する否定性、したがって自己から自己を反撥するものであるときの- み、純粋な同一性であり、自分自身のうちにおける反照である。したがって本質は、本質的に区別(Unterschied)の規定を含んでいる。

 今までは同一性を論じるなかで区別もみてきましたが、今後は、区別を論じるなかで同一性もみるのです。本質はいつまでも有の内側にかくれているわけでなく、現象として外にあらわれ出ます。あらわれ出たときの姿、それが区別ということです。
 「自己に関係する否定性」というのは、有の内側にはいっていった本質が自己を否定して外へあらわれ出るという意味です。「自己から自己を反撥する」とは、有の奥にある本質が、自己に反発して外に出てくることです。そういうときにのみ「純粋な同一性」であるというのは、外にあらわれ出てこそ本質であるということです。「したがって本質は、本質的に区別の規定を含んでいる」のです。本質は必ず現象する、現象してこそ本質である、現象する以上はその現象形態はさまざまな形としてある、それが区別だというのです。

 ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない。今や否定は、自己へ関係するものである本質のうちにあるのであるから、同時に関係として存在する。すなわちそれは区別であり、定立されて有るもの(Gesetztsein)であり、媒介されて有るもの(Vermitteltsein)である。

 本質が反発してあらわれてきたという意味での「他在」は、現象のことです。本質のあらわれは或るものから他のものへの移行ではありません。あくまでも、一つのものの中で内側にあった本質が、外側にあらわれ出るというだけの関係です。或るものから他のものへ移行したという関係ではないから「質的なもの、規定性、限界、ではない」というのです。
 本質が外にあらわれ出たものが現象であり、本質と現象とは、内側のものが外へあらわれ出たという「関係」です。外にあらわれ出た本質は、本質と区別されたいろんな形態をもっています。本質によって「定立された有るもの」、本質によって「媒介された有るもの」、それが区別です。

同一はいかにして区別となるか

 一一六節補遺 同一はいかにして区別となるかというような質問をする人があるとすれば、こうした質問のうちには、同一性は、単なる同一性すなわち抽象的な同一性として、単独に存在するものであり、区別も同様に単独に存在する或る別なものである、という前提が含まれている。このような前提をしていては、呈出された質問にたいする答は不可能である。同一を区別と別なものとみれば、そこにわれわれが持つのは区別だけである。進展の径路を問う者にとって、進展の出発点が全く存在しないのであるから、区別への進展を示そうにも、示しようがないわけである。したがってこうした質問は、よく考えてみると、全く無意味である。

 同一がなんで区別なのか、ということを質問する人がいるとすれば、同一は同一だ、区別は区別だというように、形式論理学の世界で論じている人であって、こういう人を相手に論じてもしようがない。そもそも同一は区別を伴ってこそ同一であり、区別は同一を伴ってこそ区別である。つまり同一と区別は対立物の統一としてとらえるしかないのだ、ということをヘーゲルはいっているわけです。そういう同一と区別の統一としてとらえられたものが、根拠としての本質になるのです。次はそのまとめです。

 なお、すでに考察したように、同一性は否定的なものではあるが、しかし抽象的な、空虚な無ではなく、有およびその諸規定の否定である。したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれば、自分自身から自己を区別するものである。

 「同一性」とは本質としての同一性です「否定的なもの」というのは、本質が有を否定して有のなかに生まれることです。直接的な存在である有を否定してその内側にある変わらない不変な自己同一を保ち続けるものが本質なのです。同時に、それは有の否定として生まれたのだから有と本質とは関係をもっています。先ほど「自己から自己を反撥する」といいましたように、内側にある本質は外へあらわれ出ることによって自分自身から区別された現象となるという関係です。
 有を否定することによって同一性が実現される。さらにその同一性が否定されることによって区別が生まれる。それは有と本質の関係であり、有と本質の関係は同一と区別の統一として理解するしかないのです。

差異

 一一七節 ⑴ 区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別(Verschiedenheit)である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々それ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性(Gleichheit)であり、それらの不同一性として は、不等性(Ungleichheit)である。

 区別を本質と現象との区別という意味で使ってきたのですが、その区別をこれから三つのレベルで論じることになります。一つは差異という区別、それから対立という区別、そして矛盾という区別、この三つのレベルで区別をヘーゲルは論じるわけです。
 これまでは同一と区別の統一としての本質を議論してきましたが、ここからは区別についてだけ考えてみようということなのです。そして区別一般として考えてみると、その区別には差異、対立、矛盾があります。Verschiedenheitというドイツ語は、差別ではなく差異と訳した方が分かりやすい。この差異は関係ないものどうしの区別です。例えば人間と机との区別は差異です。人間と机の間には何の関係もないからです。差異においては「区別されたものは各々」「それと他のものとの関係には無関心である」のです。「したがってその関係はそれに対して外的な関係である」とあります。この外的な関係というのは、そのもの自身がもっている関係ではなくて、外側から無理矢理に関係づけられた関係にすぎないのです。つまり、外的な第三者がその異なる二つのものを比較するにすぎないのです。人間が比較するだけで物自体の関係ではない、人間の主観においてはじめて比較されるだけの関係なのです。
 二つのものを比較して、二つの関係のなかに同じ姿をみるのが「相等性」であり、違った姿をみるのが「不等性」です。だから関係がないものどうしの間の同一性は相等性であり、区別は不等性になるのです。地球とボールは丸い、という例を考えてみます。地球とボールは関係ないけれども、丸いという点では同じだから相等性です。不等性は地球とボールは同じように丸いけれども、ボールは弾むが地球は弾まないというようなことではないでしょうか。全く関係のないものどうしの区別を論じるということです。

 比較というものは、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている。

 或るものを比較するというのは、同一の基体の上における区別を論じるところに意味があるのであって、同一の基体がないものはそもそも比較の対象になりえないのです。犬とボールを比較せよといわれてもそれは比較できません。何も共通な基盤がないからです。地球とボールだと丸いという同一の基体があるから比較することができます。
 比較とは「同じ基体の異った側面および見地」をみることなのです。だから比較するということは、ある意味では同一の中における区別を論じているわけです。それなのに「悟性」の形式論理学は、同一は同一、区別は区別とこの両者を切りはなして考えている。だからこんなものは何の役にも立たない、というのです。

差異法則の批判

 差別も同じく一つの命題に変えられている。「すべてのものは異っている」とか「互に全く等しい二つのものは存在しない」という命題がそれである。ここではすべてという主語に、最初の命題において与えられていた同一性という述語とは反対の述語が与えられている。したがって、最初の命題に矛盾する法則が与えられているわけである。

 「すべてのものは自己と同一である、AはAである」というのが、同一律という形式論理学の一つの基本命題であることは話しました。同様に形式論理学では差異も一つの命題に変えられていて「すべてのものは異っている」とか「互いに全く等しい二つのものは存在しない」という命題となります。これは「最初の命題」すなわち同一律に矛盾する法則です。形式論理学は同一律と同時に差異の法則も立てるわけで、全く矛盾するものを何も説明しないで二つ並べて論じている、と批判しているのです。

 しかし差別は外的な比較に属するにすぎないから、或るものは、それ自身としては、ひたすら自己と同一であり、この第二の命題は第一の命題と矛盾しない、という弁解も成立する。そうするとしかし、差別は、或るものすなわちすべてのものに属さず、このような主語の本質的な規定をなさないことになり、第二の命題は全く語ることのできないものとなる。

 「すべてのものは異っている」という命題は「すべてのものは自己に同一である」という第一の命題と矛盾しないと説明しようとすると、つまり「AはAである「BはBである」、そして「AはBと異なっていると」、言えば、第二の命題も同一律と矛盾しないといえるかもしれません。しかしAとBとが違うということになると、或るもののなかに区別があるというのでなくて、或るものと他のものが違うというだけであって、或るものの区別を論ずるのではなく、意味のない命題になってしまいます。

 ── 或るもの自身が、第二の命題に言われているように、異っているとすれば、それは或るもの自身の規定性によってそうなのである。しかしこの場合考えられているのは、もはや差別性そのものではなくて、特定の区別である。── これがライプニッツの命題の意味でもある。

 或るものと他のものが異なるということは、あたりまえです。差異を論ずるのであれば、或るもの自身が変化して異なるものとなる、或るもの自身がAであると同時にAでないといわなければ意味がありません。或るもの自身の規定性によって、すべてのものは異なるといわないと意味がない。AとBが異なるというのではなくて「特定の区別、言いかえれば、すべてのものは運動、変化、発展し、すべてのものは自己同一を保ち続けえな」い、すべて変化する、そういう命題としてはじめてすべてのものは異なっているということにおいて意味がある、ライプニッツのいいたかったのはそういうことなんだ、というのです。
 ライプニッツは、モナド(単子)論といいまして、モナド(単子)という個体的実体(原子みたいなものなんですが原子とはちょっと違う)を真の存在だとして、それが寄せ集まっていろんな物ができあがると考えるわけです。だからモナドは自己同一なんです。自己同一なものが多数寄せ集まって区別が生まれてくると彼は考えるわけです。ライプニッツがすべてのものが異なっているというときには、同一の中における区別を論じています。自己同一を保ちながらも運動、変化、発展していくという点において、すべての物は変わっていく。そういう意味で差異法則をとらえなくてはならない、というのです。
 本質は変わらない、しかし現象的にはすべて運動、変化、発展していく。AさんはAさんだ、しかし昨日のAさんと明日のAさんとは同じではない。だから同一の中における区別をみる、区別の中における同一をみるのです。ライプニッツが、すべてのものは異なっているといったのも、同一の中における区別をみているわけで、そこにおいてはじめて意味があるのです。
 形式論理学のように、一方ではAはAである、自己同一であるといいながら、他方で全てのものは異なっているという矛盾する二つの命題を単に並べるだけでは意味がない、といっているわけです。

比較の意義

 一一七節補遺 悟性が同一性を考察しはじめるとき、それは実際はすでに同一性を越えているのであって、それが目前に持っているのは、単なる差別の姿のうちにある区別である。例えば、われわれが同一の原理といういわゆる思惟法則にしたがって、海は海である、空気は空気である、月は月である、等々と言う場合、われわれはこれらの対象を相互に無関係なものと考えているのであり、したがってわれわれがみているのは、同一性ではなくて区別である。

 形式論理学では、同一は同一であるといっているけれども、実質的には形式論理学で同一を論じているときにも、もう同一を越えて区別を考えているのだ、というのです。海は海であるといっているときは、海は山でもなければ川でもないという意味で、海は海であるといっているわけであって、だから形式論理学における同一においてもすでに区別を論じている、というのです。

 しかし、われわれは諸事物を単に異ったものとみるにとどまらず、さらにそれらを相互に比較し、そして比較によって相等性および不等性という規定を持つようになる。

 先ほど述べたように、関係ないもの同士の間の区別が差異です。差異における同一が相等性であり、差異における区別が不等性です。今、その相等性と不等性を論じている段階なんですが、これが「比較」ということなのです。学問のうえでは比較がよく使われます。比較することは、相等性と不等性の関係における同一と区別を論じることなのです。

 有限な学問の仕事は、大部分これらの規定を適用することからなっており、今日では学問的な取扱いという言葉は、主として、研究対象を相互に比較することがすべてだとする方法と考えられている。もちろん、こうした方法によって多くの非常に重要な成果があげられたことを否定してはならないし、この点から言って特に比較解剖学および比較言語学の領域における近代の大きな業績を忘れてはならない。しかし注意すべきことは、こうした比較の方法というものが知識のあらゆる領域で同様の成果を持って適用されうると考えるのはいきすぎだということである。

 比較解剖学では、動物を解剖して筋肉や骨の状況をみて、どこに分類すべきだとか、他のどんな動物と共通点があるとかを考察します。比較言語論では、言語の基本的ルールによってその言語の類似性とか語源を判断するなど、確かに比較によって学問は大きな業績をあげてきました。しかし比較を過大に評価してはならないというのです。
 最近のDNAの研究によると、人類は世界中に同時多発したのではないかと考えられていたのが、DNAの比較によって、どうやらアフリカから発生した人類の祖先が地球上に分化していったのではないかという人類起源単元説が有力になってきています。DNAの比較検討をつうじて生物の系統発生の流れが分かってきているのです。DNAの比較で、鯨が牛や馬の「親戚」だとわかったということもあります。比較するというのも一定の意味はあるわけですが、それを絶対化してはならないということです。

 のみならず、この点は特に強調しておかなければならないが、単なる比較というものは、まだ学問の要求を究極的に満足させうるものではなく、真の概念的認識の(欠くことのできないものではあるが)準備にすぎない。

 この「概念的認識」の「概念」も概念論でいう概念であり、真にあるべき姿を認識するという意味です。ものごとを比較して検討するというのは、まだその入り口にすぎないということです。

 ── 比較においては、現存している区別を同一へ還元することが重要であるのだから、数学こそこの目的を最も完全に遂行する学問と言わなければならない。なぜ数学がこの目的を最も完全に遂行するかと言えば、量的な区別というものは全く外的な区別にすぎないからである。例えば、幾何学においてわれわれは、質的に異っている三角形と四角形とを、質的な区別を捨象することによって、大きさの点で互に等しいとする。数学のこうした長所を経験科学も哲学もうらやむべきではない。そのことについて私はすでに九九節の補遺で述べておいたが、なおこのことは単なる悟性的同一について先に注意したことからも明白である。

 基体である同一に還元してはじめて比較することができます。数学はすべてを量に還元し、量という同一の基体に還元して比較するものです。したがって、数学において一番比較するということが完全になるのです。しかし、すべてのものごとは質と量の統一としてあるのに、数学というのはものごとの量の側面だけをみて論じるわけですから、そういう意味では、数学は一定の役割はもっているものの、これも絶対視するわけにはいかないのです。
 九九節の補遺でも同様に、量を絶対視するような考え方はよろしくないといっています。

ライプニッツの命題の真意

 ── ライプニッツが或る時宮廷で差別の原理を述べたとき、廷臣や女官たちは庭を逍遙しながら、互に区別できないような二枚の木の葉をみつけ出してかれの思惟法則を反駁しようとした、という話がある。これは明かに形而上学を研究する安易な方法であって、今日なお人々はこうしたやり方を好んでいる。しかし、ライプニッツの命題について注意すべきことは、そこで言われている区別とは単に外的で無関心な差別ではなく、本質的な区別と解されねばならず、したがって区別されているということが本性的に事物に属する、ということである。

 ライプニッツはおそらく、すべてのものは異なっている、という差異法則をいったのでしょう。そうすると女官が二枚の木の葉を持ってきて、どう違うのかといった。しかしライプニッツはそのようなことをいっているわけではない。すべてのものは運動・変化・発展するという点では同一にとどまりえない、という意味ですべての事物は区別をもっているのだ、ということがいいたいわけで、こんな「外的で無関心な差別」を言っているのではないのです。
 つまりライプニッツは同一の中における区別をいっているわけで、一つのものは、そのものとしての同一性を保っているのだけれども、しかしその同一性を保っている中にそのものの区別もある、ものごとはすべて同一と区別の統一としてとらえないといけないというものです。
 その相対的な固定性の面は、形式論理学でとらえることができます。しかし運動・変化・発展の面をみようとすると、形式論理学では役に立たないわけで、これは弁証法でとらえるしかないのです。

→ 続きを読む