『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第一七講 本質論・本質 Ⅳ

相等性と不等性

 一一八節 相等性とは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互に反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別特定の区別となる。

 まず本質について、次の二つのことをおさえておく必要があります。一つは本質は不変なものであることです。「事物のうちには不変なものがある。そしてこの不変なものがまず本質なのである。二つ目は」(㊦一一ページ)本質はすべて現象する、現象しない本質はないということです「本質および内的なものは、現象することによ。ってのみ、そうしたものであるという実を示すということである。」(㊦一四ページ)
 この二つのことから、本質は同一と区別の統一である、という規定が生まれてきます。本質は現象と同一であると同時に現象から区別されている、ということです。つまり現象する表面的な姿はどんどん移り変わるけれども、その中における本質は移り変わらない不変なものなのです。しかし、本質は現象のなかにあらわれているわけで、その点では本質と現象は同一です。同一だけれども現象は多様な形態をもっているわけで、現象には本質にない豊かさがあるのです。そういう意味で現象は本質と全く同じではなく、本質に貫かれているけれども多様な豊かさをもっているのです。そういう点から本質は同一と区別の統一だというとらえ方をしてきました。
 次に、区別とは何なのかというと、まず差異であるとされます。区別があるということは二つの(一一六節)ものが異なっているということです。この差異という一番単純な区別から出発するのです。以上が、前回までの復習です。今回は区別される二つのものの媒介を論じます。一一八節は、その媒介された差異、つまり対立を述べております。
 相等性というのは同一でないもの、不同なものの同一性なのです。異なるもののなかに相等しいものを見出すのが相等性です。では不等性とは何かといえば、同一なものの不同性なのです。同一なもののなかに不同性を見出すのが不等性です。この相等性も不等性もいずれも同一と不同一の統一としてあるわけですが、いわば互いに相対立する関係にあります。こういう互いに相手との関係で切っても切りはなせない関係であるような対立したものの間の関係を「反省の区別」「それ自身に即した区別」「特定の区別」といっています。言いかえれば、これが「対立」です。
 今まで差異では全く無関係な二つのものを議論していたけれども、対立に入ってくると、切っても切りはなせない二つのものの関係となります。後に出てきますが「固有の他者を持つ関係」なのです。或るものとその固有の他者との関係を対立というのです。固有の他者を持つ反省関係にあるものが、対立という区別なのだと理解すればよいかと思います。

差異から対立へ

 一一八節補遺 単に差別されたものは互に無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係しあい、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。

 区別のなかにおける差異と対立との違いが述べられています。差異とは、互いに無関係なものの間の区別であり、例えば、本とラクダとの区別です。本とラクダの間には何の共通性もないから、この二つのものの関係は単なる差異、単に異なっているというにすぎないのです。しかし対立はそうではありません。対立の一つの形として相等性と不等性とを述べているわけですが、相等性と不等性とは、あくまでも互いに関係し合い「一方は他方なしには考えられないような一対の規定」です。こういう区別を対立といいます。だから物事をとらえるときに、くっきりした区別の形である対立においてとらえることが必要なのです。まず対立するものをとらえ、その反省としてそのものをとらえることが重要です。そのものだけを切りはなしてとらえたのでは、くっきりと浮き彫りになってこないのです。
 例えば、橋本内閣が「六つの改革」を行うといっています。とりわけ「行政改革」をやらなくてはならないといい、省庁の再編とか内閣機能の強化とかを行おうとしています。しかし、行政改革はそもそもなぜ出てきたのかというと、金権政治に対する批判からなのです。すなわち金権政治と清潔な政治との対決こそが行政改革をめぐる対立物なのです。そういう形でとらえないと、橋本内閣の行政改革が本物なのか偽物なのかの判断ができないのです。もっと簡単にいえば、企業・団体献金の禁止をするのかしないのか、そういう対立として行政改革をとらえるということです。物事をくっきりした形で浮かび上がらせようとしたら、差異ではなくて対立においてとらえることが大事なのです。

 単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識のうちにも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということをわれわれは認めているからである。

 「単なる差別から対立へのこうした進展」とは、認識の進展、認識の前進です。つまり単なる差異の段階から対立の段階に前進することは、それだけ認識が深まる、より鋭いものになる、より本質的なものになることなのです。相等しいということをみるときには、区別を頭に置きながら考えています。例えば、ボールペンと万年筆とは相等しいといえます。しかし、相等しいというのは、ボールペンと万年筆とではインクやペン先が違うという区別を頭に置きながらいっているわけです。
 逆に、区別するときには、相等しいものを頭に置きながら、そのなかに区別をみているのです。ソフトテニスのボールとテニスのボールとは区別されます。一方は軟らかいゴムでできていて、片方は硬いゴム質でできています。だから区別するということは、ボールとして相等しいことを前提にして、その区別を論じているのです。
 以上のことを言いかえれば、われわれの普通の意識のなかにも、区別は区別、同一は同一という媒介されない対立としてみるのではなく、区別のなかに同一を、同一のなかに区別をという、媒介された対立を常に考えているということです。

 区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明かなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別しえないような人に、われわれは大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば「ぶな」と「かし」、寺院と教会)にしか相等性を見出しえないような人を、われわれは相等性を見出す勝れた能力を持っている人とは言わない。

 ものごとをするどく見抜く、つまり深い認識の人は、ペンとラクダは違うというような当たり前のことはいいません。そうではなく、区別を論じるときはよく似たもの同士、例えばブナとカシとか、寺院と教会などよく似ているものの間に差異を見出すところに、鋭い慧眼があるのです。つまり区別を論じるときには相等性を頭におき、相等性を論じるときには区別を頭において、物事をみているのです。
 今は消滅してしまいましたが、以前は日本社会党という政党がありました。社会党は一見すると自民党政治と対決している、自民党とは区別された政党なんだというようにみえるわけです。しかしそのなかに自民党との相等性を見出すことが重要なのです。団体・企業献金をもらっているという点では、自民党と同一だったのです。だから、自・社連立政権ができても不思議ではないのです。一見対立しているようなもののなかに相等性を見出す、そこに鋭い本質を見抜く力があるのです。認識の深まりとはそういうことです。

 つまりわれわれは、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである。

 そういう深い認識をもつためには「区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求する」のです。つまり、すべてのものを対立物の統一においてとらえるということは、物事を深く認識するうえで大事なことです。

にもかかわらず、経験科学の領域では、人々はこれら二つの規定の一方のために他方を忘れることが非常に多く、或るときは学問的関心がひたすら現存する区別を同一性へ還元することに向けられ、また或るときは、同じく一面的に、ひたすら新しい区別の発見に向けられている。こうしたことは特に自然科学において行われている。

 「区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求」すべきであるにもかかわらず、経験科学の領域では、そのうちの一方だけを取り上げるようなことが行われがちです。つまり、一方ではすべての区別を同一性に還元することに目が向いている「また或るときは」「ひたすら新しい区別の発見に向けられている」。けれども、それらはどちらも一面的だといっているわけです。

 人々はそこで、一方では新しい、ますます多くの新しい物質、力、類、種、等々を発見しようとしており、これまでは単純と考えられていた物体が複合物であることを示そうとしている。そして近代の物理学者や化学者は、たった四つの、しかも単純でさえない元素で満足していた古代人をわらっている。他方ではしかしかれらは、今度はまた単なる同一性をのみ眼中におき、例えば電気と化学的過程とを本質において同じものとみるにとどまらず、消化や同化作用のような有機的過程をも単なる化学的過程とみるのである。

 経験諸科学は、新しい物質の発見を同一と区別の統一としてとらえようとしていないと批判しているのです。要するに、区別または同一性のいずれか一方だけの見地だけで物事をみようとしている。例えば、一方では四つの元素だけで満足せず、区別の見地からもっと多くの元素を発見しようとしている。この「四つの元素」はアリストテレスのいう火、水、土そして金属のことだと思います。他方ではすべてを同一の見地から、運動を一つの力、一つの根元的なもので説明しようとしていると批判しています。
 しかしいま、自然界において、原子核に働く核力とか、物質に働く電磁力とか、天体の間に働く重力とかの力を一つの力で説明しようとする試みがなされつつあります。大統一理論です。その方向に認識が前進しつつあるということも事実でしょう。あるいは宇宙の発生をビッグ・バンという一つの言葉で説明できるようになってきているのは、これはこれで認識の発展だと思います。
 しかし全く関係のない区別されるべきものを、同一のものだというような無茶苦茶をしてはならない。例えば「消化や同化作用のような有機的過程をも単なる化学的過程とみる」がごときはおかしい、といっています。
 ノーベル生理医学賞の受賞者ジャック・モノーが『偶然と必然』(みすず書房)という本を書いています。遺伝というのは、親のものをそのまま子が引き継ぐ。進化は、親のもっていないもの子が持つようになる。遺伝と進化は対立物の統一としてあるのですが、遺伝の機構はDNAの研究によってその複製機能がかなり解明されてきています。だから科学的には遺伝の方は割合よく分かるようになってきました。
 では進化は何で起こるのか、ジャック・モノーはDNAの機能の故障だといって、進化を機械的過程とみています。それを厳しく批判したのが鈴木茂さんです。鈴木茂さんもジャック・モノーと同じ題名の『偶然と必然』(有斐閣選書)という本を書き、DNAの複製機能が故障したのが進化だというのであれば、どちらの方向に向かって進化するのか、進化の方向の必然性が出てこないと批判しています。進化の流れには必然性があるのです。動物は、外界のものを自分の体内にとり入れ、代謝を行って同化と異化の統一としてはじめて生きていくことができます。動物は、外界を反映する機能をもたないと生きていけず、その反映機能は、段階的により正確に外界に反映する機能に発展する進化の必然性があるのです。
 だから人類の誕生というのは、ある意味では偶然の所産であると同時に必然の所産なのです。こういう頭や手、足をもった生命体としてあらわれることは偶然でしょう。しかし人間のような高度に反映する機能(脳)をもった生物が誕生するのは、ある意味で必然なのです。宇宙には地球以外に生命の生まれる可能性のある天体もあるかもしれない。そこで生まれる生物が、人間と同じ格好をしているかどうか分かりません。しかし人間と同じように優れた脳をもっている生物であることは、おそらく共通しているだろうと思われます。
 だからDNAの複製機能の故障を進化の原因などととらえるのでは、進化の必然性は説明できないのです。これがアリストテレスやヘーゲルのいう生命体の内的目的性という見方です。生命体自身が内部にもっている目的性とは何かといえば、個体のもつ目的性ではなく、種のもつ目的性なのです。種というのは内的目的性をもち、この目的にそって進化を遂げてきているのであり、これが有機的過程における種の一つの特徴だろうと思います。そういう見地がなかったら進化の方向性は説明できないとわたしは思います。ジャック・モノーはまちがっており、鈴木茂さんの見解が正しいと思います。

 すでに一〇三節の補遺で述べたように、人々はしばしば現代の哲学を嘲笑的に同一哲学と呼んでいるが、哲学特に思弁的論理学こそまさに、もちろん単なる差別には満足せず、現存するすべてのものの内的同一性の認識を要求しはするけれども、区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すものなのである。

 現代哲学をすべて同一に還元するとして同一哲学だなどと嘲笑する人がいるが、われわれは同一と区別の統一ということを論議しているのであって、単なる同一性を問題にしているのではない、というのです。「悟性的同一」とは、同一は同一だという見地です。

対立

 ⑵ 自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なもの否定的なものである。肯定的なものは、否一一九節定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものでないという仕方でそれ自身区別されたものである。

 一一八節でみてきたように「自己に即した区別」とか「本質的な区別」とか「反省の区別」とかいうものは対立のことなのです。対立ということを分かりやすい言葉で説明するならば、肯定的なものと否定的なものということができるだろうというのです。肯定的なものと否定的なものとは、Aと非Aとか、あるとないとか、でもいいのです。要するに、自己に固有の他者をもつ、各々はその他者がある限りにおいてのみ自己も存在する、そういうものが本質的な区別としての対立であるということです。
 例えば、上と下、左と右などです。上というのは下がなかったら上ではないし、左というのは右がなかったら左でないのです。結局、相手を引っ張ってこないと自分のことも規定できないという関係、それが対立です。

 両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は対立(Entgegensetzung)であり、区別されたものは自己に対して他者一般をではなく、自己に固有の他者(sein Anderes)を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である。

 差異の段階は、まだ「他者一般」です。或るものと「他のもの」との関係における「他のもの」は「他者一般」であって、或るもの以外なら何でもよいのです。けれども対立の段階では「固有の他者」ですから、上に対しては下しかありえない。左に対しては右しかないのです。それ以外にありえないような他者、こういうものを「自己に固有の他者」といいます。要するに、或るものがその固有の他者をもつ、その或るものとその固有の他者との関係を対立というのです。

排中律批判

 本質的な区別は「すべてのものは本質的に区別されたものである」、あるいは別な言い方によれば「二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない」という命題を与える。――この対立の命題は、きわめて明白に同一の命題に矛盾している。というのは、後者によれば或るものは自己関係にすぎないのに、前者によればそれは対立したもの自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。

 ここでは同一と区別を論議しているわけですから、形式論理学の同一律とか排中律とか矛盾律とか、そういうものをヘーゲルは批判するわけです。形式論理学の同一律(AはAである)は前に学習しました。ここで問題にしているのは排中律です。「二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない」というものです。形式論理学からいえば、それは当たり前のことでしょう。この果物はリンゴかナシである。このどちらかであり、その中間はないのです。中間がない、中間を排するという意味で排中律という言葉を使っています。
 形式論理学では、本質的な区別、つまり対立はどういう形でとらえられているかというと、排中律の「二つの対立した述語のうち、一方のみがあるものに属」するという形で対立がとらえられています。ヘーゲルは「この対立の命題」、つまり排中律は「きわめて明白に同一の命題(=同一律)に矛盾している」と批判しています。なぜかというと、同一律では、AはAである、です。ところで排中律では、AはプラスAかマイナスAである、です。同一律ではAは一つのものに関するといっていたのに、この排中律になると二つのものに関係することになる、これは矛盾ではないか、というのです。形式論理学は同一律と排中律を無思想に並列する法則にしているけれど、両者は矛盾するではないか、と批判しているのです。なお、文中「後者」は同一律「前者」は排中律のことです。

 このような矛盾した二つの命題を、くらべることさえしないで、法則として並べておくということは、抽象に固有な無思想である。――排中の原理は、矛盾を避けようとし、しかもそうすることによって矛盾を犯す有限な悟性の命題である。Aは +A か -A でなければならない、とそれは言う。しかしこれによってすでに、 +A でもなく -A でもなくしかも +A としても -A としても定立されている第三のもの、Aそのものが言いあらわされている。

 矛盾律と排中律という矛盾する命題を、よく考えもしないで二つ並べておくのはおかしいといって、今度は排中律を別の見地から批判しています。Aは +A か -A かだ、というのは、Aは +A であると同時に -A である、という矛盾を避けようとしているわけです。矛盾を避けようとしているけれども、Aが +A か -A でなければならない、ということによって、言いかえれば、Aは|A|(Aの絶対値)である、ということによって、これは +A でも -A でもない第三のものということになり、矛盾に陥ると批判しているのです。Aは +A か -A かであるということで矛盾を避けようとしながら、結局は第三のものであるAの絶対値を引き出しているではないか、ということです。

 +W が西へ向っての六マイルを、-W が東への六マイルを意味し、そして+と-とが相殺するとすれば、そこには対立なしにも対立をともなっても存在していた六マイルの道あるいは空間が残る。数や抽象的な方向につけられる単なるプラスとマイナスでさえ、ゼロを第三のものとして持っている、と言うことができる。しかし+と-のような空虚な悟性的対立でも、まさに数や方向などのような抽象物においては、その場所を持っているということは否定できない。

 排中律は矛盾を避けようとして、それを距離で示して西へ向かって六マイル、東へ向かって六マイル、このどちらかだとして矛盾を避けようとしているようにみえるけれども、そこには絶対値六マイルという第三のものが出てくるわけで、結局矛盾をさけようとしてもそうはいかないんだ、というのです。

矛盾律批判

 矛盾概念の説においては、一方の概念は例えば青であり(このような説においては、色のような感覚的表象さえ概念と呼ばれているのである)、もう一つの概念は非青である。したがってこのもう一つの概念は、例えば黄色というような肯定的なものではなくて、あくまで抽象的に否定的なものにすぎない。── 否定的なものはそれ自身のうちにおいてまた肯定的なものでもあるということ(次節をみよ)、このことはすでに、他者に対立しているものは、他者の他者であるという規定のうちにも含まれている。── いわゆる矛盾概念の対立の空虚は、あらゆる事物には、右に述べたような対立したすべての述語のうち一方のみが属して他方は属さない、したがって精神は白であるか白でないか、黄色であるか黄色でないかである、等々、というような、普遍的法則の言わば大げさな表現のうちにはっきりあらわれている。

 先ほどは形式論理学の排中律の批判でしたが、ここでは矛盾律の批判をしています。「AはAであると同時に非Aであることはできない」(㊦一九ページ)とするのが矛盾律のことです。形式論理学の矛盾律とは、矛盾を認めるということではなく、矛盾は認めないということですから、正確にいえば矛盾律というより、無矛盾律あるいは非矛盾律です。
 こういう形式論理学でいう矛盾律は、空虚な内容をもつだけだといっています。なぜ空虚かというと、結局対立するものはいつまでも対立したままだととらえていて、対立物の統一においてとらえないから、矛盾律というのは空虚な力しかもたないのだというのです。肯定的なものと否定的なものという対立物を統一においてとらえることが、物事を深く認識するうえで重要なんだといってきましたが、矛盾律というのは対立するものを媒介のない対立においてとらえるものです。
「媒介のない対立」という言葉を『空想から科学へ』のなかでエンゲルスが使っていますが、これはなかなかいい言葉です。形式論理学は対立の概念を媒介のない対立としてとらえる。良いものはいつまでもよい、悪いものはいつまでも悪い、その間に媒介はないというのです。このように対立物の統一としてとらえない矛盾律というのは、空虚な内容しかもっていないのです。

 人々は同一と対立とがそれ自身対立したものだということを忘れ、そのために、対立の原理をも、矛盾の原理の形で言いあらわされた同一の原理と考えている。そして二つの互いに矛盾した表徴のいずれも属さないような概念(前段を見よ)、あるいはいずれも属するような概念(例えば四角の円)は論理的に誤っていると言う。しかし四角の円や直線的な円弧は同じようにこの命題に矛盾しているが、幾何学者は少しもためらうことなく、円を直線的な辺から多角形とみ、またそうしたものとして取扱う。

 矛盾律は「対立の原理をも、矛盾の原理の形で言い表された同一の原理」と考えているというのは、同一律を裏返したものが矛盾律であると形式論理学では考えているということです。同一律は「AはAである」です。その否定形は「AはAであると同時に非Aであることはできない」という矛盾律となります。そして、この対立する二つのものにも属さないような第三のもの、すなわち対立物の統一は存在しないと考えている。しかし実際にはそういうものがある。例えば、絶対値Aは+Aであると同時に -A でもある、だからこれは +A でも -A でもなく第三のものなわけです。矛盾律からいうとAはかのどちらかということになるが、絶対値Aは+Aであると同時に -A でもある。したがって第三のものがあり、これが対立物の統一になるということをいっているわけです。
 それからもう一つは、円の定義です。円は無数の直線的な辺からなる多角形と考えるわけですが、これは線と円という対立物の統一です。幾何学でもこういうことをいっているではないか、といっています。このように対立するものには、そのいずれにも属さない第三のものもあるし、いずれにも属するようなものもあるのです。

 もっとも、円のようなもの(その単なる規定性)は、まだ概念ではない。円の概念においては中心点と周辺とが同様に本質的であって、円はこの二つの表徴を持っている。しかも周辺と中心点とは互に対立し矛盾したものである。

 円は直線的な辺からなる多角形として、円を線から説明することを幾何学者はしますが、それは円の正しい本質的な姿をとらえた規定の仕方ではないといっています。では円とは何なのかといえば、円は中心点とそこから等しい距離にあるすべての点との対立物の統一ととらえる必要がある、そうしてこそ円の概念を正しくとらえることができるというのです。

 物理学で大きな意義を持っている分極性(Polarität)という表象は、対立にかんするより正しい規定を含ん でいる。にもかかわらず物理学は、思考にかんしては、普通の論理学に頼っている。もし分極性という表象を発展させて、そのうちに含まれている思想に達したら、物理学はおどろくであろう。

 ヘーゲルの時代にちょうど磁石のプラス・マイナスというのが発見されました。ここの物理学の分極性というのは、磁石を念頭におきながらいっているのです。磁石の両極、プラスとマイナスは区別されています。区別されているけれども、両極をもった二つの棒磁石を接触させると、同一の両極どうしが密着し一体化してしまう。だから磁石も対立物の統一といえる、そういう見地でみるべきものなのだ、というのです。それが当時の物理学の思想では、まだこのような見地には到達していない、と批判しています。

哲学の目的は対立の認識

 一一九節補遺一 肯定的なものは再び同一性であるが、しかしより高い真理における同一性であって、それは自分自身への同一関係であると同時に、否定的なものでないものである。否定的なものは、それ自身としては、区別そのものにほかならない。同一そのものは、まず無規定のものである。これに反して肯定的なものは、自己同一なものではあるが、他のものにたいするものとして規定されているものであり、否定的なものは、同一性でないという規定のうちにある区別そのものである。すなわち、否定的なものは自分自身のうちにおける区別の区別である。

 ここはちょっと分かりにくいところかもしれませんが、要するに、対立物の統一としてとらえることの意味を述べているのです。つまり或るものを或るものとしてだけとらえることと、或るものを肯定的なものと否定的なものとの関係における肯定的なものとしてとらえること、との違いを述べているのです。先ほど、対立物を肯定的なものと否定的なものとの関係でとらえるということを話しましたが、そういう形でとらえた場合、肯定的なものは自己同一性なのです。
 人間を例にとると、人間は人間でないものではない(=「否定的なものではない)ととらえることによって人間だと単純にとらえることよりも、より高い真理を認識することができるのです。なぜかというと「肯定的なものは自己同一のものではあるが、他のものに対するものとして否定されている」からです。人間は人間であるという自己同一としてとらえることは、馬や牛や猿などの他のもの一般から区別されている人間というようにとらえるだけであって、人間を真にとらえたことにはならないのです。人間を人類の祖先としての猿ではないもの、つまりサルという特定の他のものの否定としてとらえることによって、人間をより深くとらえることができるのです。
 或るもの(肯定的なもの)を、他のもの一般との関係においてみるのではなくて、肯定的なものに対立する否定的なものとの関係においてとらえ、ついで肯定的なものを「否定的なものではないもの」という反省としてとらえることが大事なのです。人間がサルから進化してきたという場合、ではサルと人間はどこが違っているのかといえば、直立二足歩行です。直立二足歩行することによって手が自由になり、自由になった手で労働するというところに違いが出てきたわけです。そこをみないと人間の真の意味が分からないのです。そういう「否定的なものではないもの」として、肯定的なものをとらえることが大事なのです。

 ── 人々は肯定的なものと否定的なものとを絶対の区別と考えている。しかし両者は本来同じものであり、したがってわれわれは、肯定的なものをまた否定的なものと呼ぶこともできるし、逆に否定的なものを肯定的なものと呼ぶこともできる。例えば、財産と負債とは、特殊の、独立に存在する二種の財産ではない。一方の人、すなわち債務者にとって否定的なものは、他方の人、すなわち債権者にとっては肯定的なものである。

 対立物について肯定的なもの、否定的なものという言葉を使っているけれども、肯定的なものということに何か積極的な意味があり、否定的なものには消極的な意味があるということではないのです。要するに、お互いに固有の他者をもっているような関係だということに意味があるのです。どちらの方が上か下かとか、どちらが正しくてどちらがまちがっているかとか、どちらに意味があってどちらに意味がないかとか、という関係ではないのです。
 例えば、財産と債務とは同じものを別の側面からみた違いにすぎないのと同様なのです。サラ金からお金を借りたことを考えれば、よくわかります。サラ金からお金を借りると、そのお金は自分の財産となりますが、それは同時にサラ金からの借金なわけです。だから財産は借金なのです。それを勘違いして財産だと認識するところに問題が起こります。家をローンで買う場合も同様です。家を二〇年ローンで買う場合、確かに財産を取得したのだけれども、それは同時に、いまから二〇年払いの借金を背負ったわけで、財産と負債は全く同一なのです。ですから、ちょっとローンが払えなくなると、すぐに競売されて財産は幻だったことがわかる、という仕組みになっているわけです。

 東への道程の場合でも同じことであって、それは同時に西への道程である。肯定的なものと否定的なものとは、したがって、本質的に制約しあっているもの、相互関係においてのみ存在するものである。

 AからBへの「東への道程」は、BからAへの「西への道程」です。先ほどの「東への六マイル」「西への六マイル」の同じ六マイルを頭に入れていっているのです。ヘーゲルのいいたいことは、対立する二つのものは「本質的に制約し合っているもの」「相互関係においてのみ存在するもの」、つまり相互前提関係にあります。お互いに相手があってはじめて自分が存在するという関係になるということです。そういうものを対立というのです。

 磁石の北極は南極なしには存在しえず、南極は北極なしには存在しえない。磁石を切断すれば、一方には北極が、他方には南極があるというようなことはない。同様に電気においても、陽電気と陰電気とは独立に存立する別々の流動体ではない。一般に対立においては、区別されたものは自己にたいして単に或る他物を持つのでなく、自己に固有の他者を持つのである。

 差異の段階では、或るものは他者一般をもっているにすぎないのですが、対立の段階になってくると、或るものは他者一般ではなく、自己に固有の他者をもつようになるのです。

 普通の意識は、区別されたものは相互に無関係であると考えている。例えば、われわれは、私は人間であり、私の周囲には空気、水、動物、および他者一般がある、と言う。ここではすべてのものが別々になっている。哲学の目的は、これに反して、このような無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある。

 わたしは人間であるとだけいったのでは、人間とは何であるか分からないわけで、人間は人間の祖先であるサルに対立する存在であるととらえて、はじめて人間の本質をとらえることができます。
 対立物の統一として物事をみるというのも、一種の法則の認識です。われわれは全世界の法則性を包括的に学ぶためにヘーゲルを学ぶということを、このセミナーの冒頭で確認しました。法則にはいろいろありますが、対立というのは相関の法則なのです。この法則においてとらえることが、物事を必然性において認識することになります。サルをどのように否定することによって人間が誕生したのかをみることで、人間の必然性を理解することができるのです。
 他の先進資本主義諸国と比べて、日本の国家予算の配分は、公共事業と社会保障の割合が逆転しているといわれています。社会保障が減っているというところだけをみたのではだめなのです。社会保障として支出する国家予算を、公共事業予算との対立においてみることによってはじめて、福祉の問題を解決するためには公共事業のムダをなくせという課題が提示されてくるのです。そうとらえないと、そうはいっても国の財政は厳しいのだから少々ガマンするのはしかたがないのではないか、というところに落ち着くはめになってしまいます。

 例えば、われわれは無機的自然を単に有機的なものとは別なものとのみみるべきではなく、有機的なものに必然な他者とみなければならない。

 無機的自然と有機体は、単に別のものではないのです。無機的自然のなかから有機的自然が生まれた、という対立物の媒介においてとらえなければなりません。無機的なものと有機的なものとが、単に相並んで存在するというようなことではないのです。有機的なものは、無機的なものの否定として生まれてきたと考えないと、生命の誕生の秘密を明らかにすることができません。どこかの宇宙から地球に生命体が飛び込んできたというようなことになってしまいます。

 両者は本質的な相互関係のうちにあり、その一方は、それが他方を自分から排除し、しかもまさにそのことによって他方に関係するかぎりにおいてのみ、存在するのである。

 対立とは何なのかといえば「本質的な相互関係」です。有機的自然も無機的自然も「他方を自分から排除し」「他方に関係する限りにおいてのみ存在する」という関係なのです。

 同様に自然もまた精神なしには存在せず、精神は自然なしには存在しない。物を考える場合「なお別なことも可能だ」と言う段階を脱するのは、一般に重要な一歩前進である。こういう言い方をする場合、われわれはまだ偶然的なものから脱していないのであって、これに反して、先に述べたように、真の思惟は必然的なものの思惟である。

 「なお別なことも可能だ」という言い方は、偶然的などちらでもよい認識を意味しています。哲学の任務は、必然性の認識です。「真の思惟は必然的なものの思惟である」とありますが、そのものの必然性を認識することは、いかなる対立物の否定として生まれてきたかをみることであり、それが「必然的なものの思惟」なわけです。

 ── 現代の自然科学は、まず磁気において極(Polarität)として知られた対立を、全自然をつらぬいているもの、普遍的な自然法則と認めるにいたっているが、これは疑もなく学問上本質的な進歩である。ただこの場合大切なことは、折角それまで進みながら、またしても無造作に単なる差別を対立と同等なものと認めないことである。しかし人々は、よくそうしたことを行っている。例えば、人々は一方では正当にも色を二つの極のように対立するもの(いわゆる補色)とみながら、他方ではまた、赤、黄、緑、等々を、互に無関係な、また単に量的な区別とみている。

 磁石の両極という対立物を、普遍的な自然法則とみるのは正しいのです。自然界における法則をすべて対立物の法則としてとらえることが、大切なのです。引力と斥力もそうですし、すべての自然界における力は、作用と反作用の関係としてあります。
 これに対して、対立するもののもつ重要さを考えないで、区別一般だとして差異と対立の意味合いの違いを認識しないような人がいる。例えば、色の中にも「いわゆる補色をなすような二つの極のように対立する」二つの色があるわけです。しかし、色を補色の関係においてとらえず、赤、黄、緑など単にいろいろな色があるとぼんやりみていたのではだめだ、というわけです。

矛盾は世界を動かす

 一一九節補遺二 われわれは、抽象的悟性の命題である排中の原理にしたがって語るかわりに、むしろ「すべてのものは対立している」と言うべきであろう。悟性が主張するような抽象的な「あれか、これか」は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである。

 形式論理学の同一律とか矛盾律とか排中律とか、こんなことをいっていても仕方がないのであって、大事なことは「すべてのものは対立している」ととらえることです。「抽象的なあれか、これか」という考えも、対立しているものの媒介をみていないからだめなのです。「あれか、これか」というのは対立を絶対化し、その媒介をみない考え方です。形式論理学は全部それです。それではだめなんであって、すべてのものを対立物の統一においてとらえることが重要なのです。

 事物の有限性は、その直接的定有が、それが即自的にあるところのものに適合していないことにある。例えば無機的自然において酸は即自的には同時に塩基である。すなわち、それに固有の他者に関係しているということのみが、その有をなしているのである。だから酸はまた対立のうちに静かにとどまっているものではなく、常に自己の即自を実現しようと努めているものである。一般に、世界を動かすものは矛盾である。矛盾というものは考えられないと言うのは、わらうべきことである。このような主張において正しい点はただ、矛盾は最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄するということである。揚棄された矛盾は、しかし、抽象的な同一性ではない。同一性はそれ自身対立の一項にすぎないからである。矛盾として定立された対立の最初の結果は根拠(Grund )であって、それはそのうちに同一性ならびに区別を、揚棄され単なる観念的モメントへおとされたものとして、含んでいるものである。

 ここから区別の一つとしての、矛盾の話になっています。対立物の統一ということを今まで述べてきましたが、対立物の闘争としての矛盾へ移行します。今までの対立は調和的対立をみていたのですが、矛盾になってくると、対立物は相互排斥の関係になってきます。
 ヘーゲルがいっている矛盾の例でいうと、酸は即自的に塩基なのです。つまり酸は潜在的に塩基なろうという衝動をもっています。硫酸はアルカリといっしょになって塩基になろうという衝動をもっている。動く力をもっているわけです。だから酸とアルカリはいつまでもそのままにあるのではなくて、その対立を止揚する、その対立を乗りこえて新しいものを生みだす、そういう関係にあります。酸はアルカリといっしょになって塩基という新しいものを生み出します。そして、こういう対立物の闘争が世界を動かす運動の原動力になっているのです。この意味から、ヘーゲルは、矛盾を普遍的なものとして認め、矛盾を否定する見解を「わらうべきこと」と批判しています。酸もアルカリも「自分自身によって自己を揚棄」して第三の別のもの(塩基)になっていくのであって、矛盾は、新しいものを生みだす原動力なのです。
 「揚棄された矛盾は、しかし、抽象的な同一性ではない」。塩基というのは、酸と同一でもなければアルカリと同一でもない、あるいは酸と同一であると同時にアルカリとも同一である、という関係です。そういう意味で「抽象的な同一性ではない」のです。同一と同時に区別されていることになるわけです。
 「矛盾として定立された対立の最初の結果は根拠」であるといっていますが、対立する同一と区別との統一されたものが、根拠なのです。では根拠とは何なのかといえば、本質です。本質は現存するものの根拠となるものです。これまで本質論において延々と同一と区別をやってきましたが、ついに根拠というカテゴリーに到達しました。

対立物の統一の諸形態

 ここでレーニンの「弁証法の問題について」を学習しておきましょう。弁証法の重要な問題が述べられています。「一つのものを二つに分け、この一つのものの矛盾した二つの部分を認識することは、弁証法の核心(…根本的な特性あるいは特徴の一つ)である。ヘーゲルもまさにこのように問題を提起している。」(全集㊳三二六ページ)。
 ヘーゲルの問題提起とは「哲学の目的は、……無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある」㊦三二ページ)を指しているものと思われます。
 或るものをみるときに、そのものを否定するものとの関係で、そのものをとらえる。肯定的なものをみるときに、それの否定的なものとの対比においてとらえる。それが「一つのものの矛盾した二つの部分を認識する」ことになるのであり、それが「弁証法の核心」「弁証法の根本的な特性あるいは特徴の一つ」だとレーニンはとらえています。
 物事を弁証法的にとらえるということは、そのものが、いかなるものの否定として生まれてきたかとしてみることなのです。これは時系列的な縦の関係です。これによってそのものの必然性が明らかになるわけです。それから現時点での横の関係でみるときには、いかなるものの否定として存在としているかをとらえることによって、そのものの本質をしっかり認識することができます。
 「弁証法の内容のこの側面の正しさは、科学の歴史によって検証されなければならない。弁証法のこの側面には、通常十分な注意がはらわれていない。対立物の同一は実例の総和と解されて、……認識の法則(および客観的世界の法則)とは解されていない。」(同)
 対立物の統一というのは、客観世界の法則であり、かつ認識の法則なのです。認識の法則ということは、物事をより深く認識するためには、こういうとらえ方をすることが大事なんだということです。客観世界の法則というのは、客観世界ではそういう連関において物事が存在しているということです。ですから客観世界の法則でもあります。北極と南極、そういう磁極をもったものとして地球はある。これはやはり地球の法則なのです。

「数学では、+と-、微分と積分。
 力学では、作用と反作用。
 物理学では、陽電気と陰電気。
 化学では、原子の結合と解離。
 社会学では、階級闘争。
 対立物の同一(おそらく対立物の「統一」と言うほうが正しいのではないか? もっとも同一と統一という術語の区別は、ここではとくに重要ではないが、或る意味では両者とも正しい)とは、自然(精神も社会もふくめて)のすべての現象と過程とのうちに、矛盾した、たがいに排除しあう、対立した諸傾向を承認すること(発見すること)である。
世界のすべての過程を、その"自己運動"において、その自発的な発展において、その生きいきとした生命において認識する条件は、それらを対立物の統一として認識することである」(同)。

 対立物の統一にも様々な内容がありますので、それを図示してみます。

                  ┏ 対立物の同一(作用と反作用)
         ┏対立物の同一 ━┫
         ┃        ┗ 対立物の相互浸透(陽電気と陰電気)
対立物の統(広義)┫
         ┃        ┏ 対立物の相互前提関係(左と右)
         ┗対立立物の統一 ┫
                  ┗ 対立物の闘争(矛盾(階級闘争)

 対立物の統一は、広い意味では対立物の同一を含んでいます。対立物の同一には対立物の相互浸透も含まれます。すべてのものを「自己運動」するものとしてみるということは、自己のなかに対立する二つの側面をもっているとみることです。その対立する二つの側面というのは、そのものを肯定するものと、そのものを否定するものとの二つの側面を、一つのもののなかにもっているということです。そしてそのものを否定する側面がついにその二つの闘いによって表に出ることになり、そのものは否定され発展していくわけです。発展するというのは、時系列的に時間の経過のなかでみているわけですから、或るものの否定が繰り返されることによって、一歩づつ前進していくわけです。
 資本主義社会そのものの中に、社会的生産と資本主義的取得という資本主義を否定するような矛盾が存在し、それを資本主義の基本矛盾とよんでいます。これが階級間の矛盾となり、階級闘争となってあらわれるということなのです。そして、やがては資本主義を否定することになってくるのです。
 「発展は対立物の『闘争』である。二つの根本的な(あるいは二つの可能な? あるいは歴史上にみられる二つの?)発展(進化)観は、つぎのものである。減少および増大としての、反復としての発展、および対立物の統一(一つのものがたがいに排除しあう二つの対立物に分裂すること、および両者の相互関係)としての発展である。
 第一の運動観にあっては、自己運動が、その推進力が、その源泉が、その原動力が、かげにかくれたままである(あるいは、この源泉が外部に――神、主観、等々にうつされる。第二の運動観にあっては、おもな注意は)まさに『自己』運動の源泉の認識に向けられる」(同三二七ページ)。
 発展観には二つあって「増大および減少としての、反復としての発展」と「対立物の統一としての発展」があります「対立物の統一としての発展」のなかには「運動の源泉の認識」がある、というのです。後は読んでおいて下さい。
 対立と矛盾との関係をどうとらえるかについてですが、一般的には、対立は調和的関係、矛盾は動的関係ということだと思います。対立は一つの本質のなかの関係であり、矛盾は二つの本質の間の関係だというとらえ方をする人もあります。わたしは対立のなかには中間がある、矛盾のなかには中間がない、という言い方はどうだろうかと考えたりしています。どういう場合に対立であり、どういう場合に矛盾になるのか皆さんの意見も聞かせ下さい。

《質問と回答》

 第一の質問は「対立物の統一について、例えば右と左、上と下という横の平面的な関係だけで考えるべきであって、時系列的な縦の関係には無理があるのではないか」というものです。またこれに関連して「㊦三二ページで、ヘーゲル自身が精神と自然を対立物の統一として考えているが、この場合、時系列的にとらえると、自然が根元であって、自然は精神なしには存在しない、ということはありえないのではないか。自然と精神を時系列的に考えたら、その二つの対立というのはおかしいのではないか」という質問がありました。
 「時系列的」という言葉が正しいのかどうかはよく分かりませんが、発展の原動力はそのもの自身が内部にもっている矛盾です。そのもの自身が内部にもっている矛盾は何なのかというと、大きく分けると肯定的なものと否定的なもの、別な言葉でいえば、古いものと新しいものであり、常にこの対立を内部にもっているのです。その内部の古いものと新しいものとの対立が激しくなっていくなかで、新しいものがやがて古いものにとって代わる、という形で発展していくわけです。そういう意味では「時系列的」にとらえることが、発展を考えるうえでは大事なことではなかろうかと思います。発展の観点から一つのものの中に、古いものと新しいものが併存することも対立物の統一としてとらえるべきです。
 次に自然と精神の関係ですが、ヘーゲルが自然と精神とを対立関係においてとらえているのは、これは物質と意識との対立関係でとらえているということです。物質と意識は互いに自己に固有の他者の関係にある、というので対立物の統一といっているのです。ここではどちらがより根元的かを問題にしているわけではありません。「時系列的」に考えるときに、物質世界の発展のなかで精神あるいは意識が生まれてくるのは当たり前なんですが、それでは「自然は精神なしには存在する」かといえば、そうはいえないわけで、現在では、地球上にある物質のなかで人間の手の加わらない自然はほとんどないといってもいいでしょう。「自然は精神なしには存在しない」ということは、現在の地球上の自然と精神の関係をみる限りでは、それはそれで正しいといえます。だから「一般的に対立物の統一を横の平面的にだけみるべきであって、縦の時間的な古い・新しいの関係でみるべきではない」とは、わたしは思いません。
 第二に「対立物についてもう少し例をあげて説明してもらえませんか」という意見がありました。ヘーゲル論理学は、全体として対立物の統一なのです。最初は、有と無の統一から出発しており、最後は主観と客観の統一にまで至るわけであって、そういう意味で論理学を学ぶということは弁証法を学ぶことであり、言いかえれば対立物の統一の多様な意味あいを学ぶことなのです。ですから、論理学全体をつうじて学んでほしいとお答えしておきたいと思います。

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