『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第一九講 本質論・本質 Ⅵ

b 現存在(Die Existenz)

現存在・無限の連関の世界

 一二三節 現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。ここでは根拠はそれ自身現存在であり、現存在も同じく、多くの方面に向って、根拠でもあれば根拠づけられたものでもある。

 ここまでは「本質とは一体何なのか」ということを議論してきたのですが、ここに至ってはじめて、本質とは客観的に実在するものを媒介においてとらえる認識の深まりを示すものだ、ということが述べられています。有論で述べてきたことは、或るものと他のものとの関係でした。人間の認識の一番はじめの段階は、感覚的というか感性的な認識ですが、それは対象を直接態において認識するものです。これは石ころである、これは木であるなど、或るものを表面的な、そのものとしてだけみるのです。しかし、認識が深まってくると、直接的なものとして認識する過程から、媒介されたものとして物事を認識するようになってくるわけです。これが本質論の認識なのです。
 このセミナーでも、ここにきている生徒の皆さんは、最初にお会いした時は一人一人がばらばらな存在としてAさんはAさん、BさんはBさんでしかなかったわけですが、だんだん認識が深まってくる過程のなかで、AさんはCさんの友達だとか、Bさんはこんな活動をしている等々いろいろ分かってくるわけです。そのことが物事を直接態として認識する過程から媒介されたものとして認識するという認識の深まりの過程なのです。家庭とか、勤務先とか、交友関係とか、あるいは社会的活動とか、認識が深まるなかで、あの人はこういう人だったのかということが分かってくる。ですから、人間の認識の深まっていく過程は、直接態から媒介態としての認識に進んでいくことなのです。
 ヘーゲルは『精神哲学』(岩波文庫)のなかでこういうことをいっています。「感性を超越した悟性は、対象をそれを真実態において取り上げ(知覚し)ようとする。すなわち単に直接的なものとしてではなくて、媒介されたもの・自己内反省したもの・一般的なものとして取り上げようとする」(㊦二六ページ)。悟性的な認識は、感性的な認識よりも一歩進んだ段階の認識なんです。それは物事を単に直接的なものとしてではなく、媒介されたものとして認識することなのです。
 また、同じようなことですけれども感性的な認識と悟性的な認識との違いを示して「単に感性的な意識は事物をただ指示するだけである。すなわち、ただ事物をそれの直接性において示すだけであるに反して、知覚作用は事物の連関を把握する。すなわち知覚作用は、もしこれらの状況が現存しているならば、そのときはそこからこのことが帰結してくることを証明し、且つそうして事物を真実なものとして明示し始める」(前掲二七ページ)といっています。言いかえれば、認識はこの過程のなかで事物の連関を把握し、なぜ現在の姿として存在しているのか、その根拠とあわせてそのものを理解するようになってくるのです。そういう物事の認識のことを現存在といっているのです。
 テキストに戻りますが「現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である」とあります。この「自己のうちへの反省」というのは事物の自立した側面、直接性の問題「他者のうちへの反省」というのは媒介性の面、連関の側面です。すべての事物は直接性と媒介性の統一です。つまりすべての事物はその事物として独立した存在としてありますが、同時にそれは他のものによって媒介され、他のものによって根拠づけられて存在しているのです。すべての事物を直接性と媒介性の統一として認識する必要があるということです。
 「したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。この客観世界に存在」するすべての事物は、感性的な認識からすれば、そのものはそのものとして自立しているようにみえるけれども、より深く認識するとそれを根拠づけるものによって媒介された関係にあるのです。
 ここにBがある。BはBとして単独にあるのではなく、Aが根拠となってBが生まれている。換言すれば、BはAによって媒介されている。したがって根拠とは、AとBの相関関係と相互依存関係の橋渡しの役割を担っています。そしてまた同様にBはCにつながっていく。こうしてすべての客観的事物は無限の連関のなかにあるのです「無限の連関からなる世界を形成する」とは、そういうことです。。
 「ここでは根拠はそれ自身現存在」とありますが、BはAによって根拠づけられたものとして現存在なのですが、同時にBはCの根拠となっています。だからBなる「現存在も同じく」「根拠でもあれば根拠づけられたも」のでもあるとなります。
 弁証法は連関と発展に関する一般的な法則だといわれていますが、現存在は直接性と媒介性の統一として、或るものとそれ以外のものとの無数の連関のなかにあるわけで、その連関のありようが弁証法の法則になっていくわけです。

現存在・根拠から出現した有

 一二三節補遺 Existenz〔現存在〕という言葉は、ラテン語のexistere〔出現する〕という動詞から作られたものであって、出現している有(Hervorgegangensein)を示す。すなわち現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である。本質は揚棄された有であるから、まず自己のうちにおける反照であり、そしてこの反照の諸規定は同一、区別、および根拠であった。根拠は同一と区別との統一であり、したがって同時に自己を自分自身から区別するものである。ところで、根拠から区別されたものは、根拠そのものが単なる同一性でないように、単なる区別ではない。根拠は自己を揚棄するものである。そして根拠が自己を揚棄して移っていくもの、すなわち根拠の否定の結果が、現存在である。これは根拠から出現したものであるから、根拠をその内に含んでおり、そして根拠は現存在の背後にとどまっているものではなく、自己を揚棄して現存在へ移っていくものである。

 現存在は「出現している有」です。何から出現しているかというと、根拠から出現しています「現存在とは根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である」、この辺がなかなか面白いところです。例えば、子どもは親から生まれますから、親に媒介され親が根拠となっています。子どもが大きくなってくると、次第に親ばなれし、ついには親から自立した存在になります。親から自立した存在になったときには、もはや媒介が揚棄されているのです。もう親に媒介された子どもとしての姿はみえなくなってきています。そういうことを「媒介を揚棄する」といいます。「回復された有」というのは、もうそれで一人立ちの人間だとみえることをいっているのです。
 根拠である親から生まれながら、大きくなることによって親ばなれをして、親から生まれた存在ではなく自立した人間とみなされるようになる。そういう有を現存在というのです。すべてのものは、そのものがそのものとして存在する根拠をもっています。けれども、その根拠はちょっと目にはみえません。目にはみえないけれどもよく考えてみると、根拠があることがはっきりしてきます。そういうものが現存在なのです。ですから現存在は「出現した有」だという言い方をしているのです。
 「根拠は同一と区別の統一であり」、根拠は「自己を自分自身から区別するもの」ですが「単なる区別ではな」く」て「自己を揚棄するもの」なのです。言いかえれば「根拠の否定の結果が、現存在である」ということです。現存在は根拠から出現しながら根拠を否定するものです。否定するとは、子どもが親ばなれをするということです。根拠である親の手元から自立して「親を否定する」のです。別の例でいうと、学生は先生の教えを受けます。先生が根拠になって学生が存在するわけです。学生が育っていく過程で、先生の言っていることを批判して学生が先生を追い越していくわけです。それを「出藍の誉れ」といいます。出藍の誉れというのは、根拠を否定した現存在なのです。先生のいうがままを鵜呑みにしていたのではだめなので、それを否定し自立した存在になる。それが「根拠の否定の結果が、現存在である」ということです。根拠から出現しながら根拠を否定した有、それが現存在なのです。
 次に、現存在は「根拠から出現したものであるから、根拠をその内容に含んでおり、そして根拠は現存在の背後にとどまっているものではなく」、現存在のなかにもう入り込んでいます。だから先生の考えは学生の考えのなかに入り込んでいます。子供の考えにも親の考えが入っているわけです。

 こうした関係は、普通の意識のうちにも見出される。われわれが或るものの根拠を考察する場合、この根拠は単に内面的なものではなく、それ自身再び一つの現存在である。例えば、われわれは火事の根拠として或る建物に点火した電光を考え、同様にまた或る民族の政体の根拠としてその民族の風習および生活関係を考える。これが一般に、現存在する世界が最初にわれわれの反省の前にあらわれる姿である。それは自己へ反省すると同時に他者へ反省し、互に根拠および根拠づけられたものとして関係しあっている無数の現存在である。

 これは今まで解説してきたことと同じです。根拠づけられたものも、また別のもう一つの根拠になっているということです。現存在は自ら他のものの根拠であり、同時にそれはまた根拠づけられたものです。そういう無限の連関からなる無数の現存在が客観世界には存在しているのです。客観世界に存在する現存在は、こうして無限の連関のなかにおかれています。一つひとつの現存在は、根拠および根拠づけられたものとして存在しているのです。

 現存在するものの総括としての世界のうちに行われている、このような種々様々の関係のうちには、まずどこにも確かな拠りどころが見出されない。すべては、他のものに制約されるとともに、他のものを制約する相対的なものとしてのみあらわれている。反省的悟性はこれらの全面的関係を探り追求することを仕事としているのであるが、それでは、究極目的は何かという問題は解決されないままに残る。したがって概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行くのである。

 こういう現存在が無限の連関のなかにあるということは、因果の関係を果てしなくさかのぼっていくことになります。どこまでいっても終わりがありません。原因をたどり結果を求めても、因果の関係は果てしないということになるわけです。いわば、相互媒介、相互依存は結局のところ「どこにも確かな拠りどころが見出されない」のです。このような認識の段階にとどまっていたのではまだまだ不十分な認識であって、そこからさらに「究極の目的は何か」というところまで認識が前進しなくてはならない。それを議論するのが概念論なんだ、というのです。
 最後に「概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行くのである」とあります。概念論においては、こういう根拠関係の無限進行のような、果てしなくもたれあい、相互依存的立場ではなくて、絶対的なものを議論するようになる、ということを予告しているのです。つまり根拠の関係の認識だけでは不十分であり、人間の認識は概念論へすすまざるをえないのです。

現存在するもの・物

 一二四節 しかし、現存在するものの他者への反省は、自己への反省と不可分である。なぜなら、根拠は両者の統一であって、現存在はこの統一からあらわれ出たものだからである。したがって、現存在するものは、相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している。かくして、現存在するものは(Ding)である。

 「物(Ding)」というのは、一二五節から出てくるカテゴリーですが、唯物論における物質とはちょっと違います。つまり、意識との対立においてとらえられる物質のことではありません。
 現存在はすべてのものが連関しているということをとりあげました。すべてのものが連関しているのですが、「物」では一つのもののなかにおける自立性と連関性について考えます。「現存在するものの他者への反省は、自己への反省と不可分である」とは、現存在するものは自立性(自己への反省)と同時に相関性(他者への反省)をもっており、一つのもののなかの自立性と相関性を考えることなのです。
 ヘーゲルは「物」というものを、物自体と性質からなっているととらえています。物自体は、直接性あるいは自立性であり、物そのものです。これに対して性質とは、媒介性、相関性です。性質は物自体(狭義の物)に媒介されてはじめて存在するわけで、物自体がなければ存在しません。それで「物」は直接性と媒介性の統一であり、現存在するものは自己の内部において自立性と相関性をもつのです。「したがって、現存在するものは相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している」となります。現存在するものは「物」として、物自体とそれに媒介された性質をもっているのです。

 カント哲学においてあんなに有名になった物自体(Ding an sich)は、ここでその発生において示される。すなわちそれは、他者への反省および一般に異った諸規定が排除されて、そうした諸規定の空虚な基礎である抽象的な自己内反省が固執されているものである。

 カント哲学は、現象は認識できるが物自体は認識できないという不可知論の立場をとっています。実は、この物自体というのがカントの「躓(つまず)きの石」だったのです。カントのいう物自体とは、ヘーゲルにいわせれば狭義の物にすぎません。つまり広義の物から性質を取り除いたものが物自体ということになるわけです。そもそも性質をもたない物はないわけですから、性質を取り除いてしまった「抽象的な」物自体は「空虚な」ものです。空虚なものであるから、認識できないのも当たり前だとヘーゲルは批判しているわけです。
 「他者への反省および一般に異なった諸規定が排除されて」とは、広義の物から性質が除かれて、という意味です。「そうした諸規定の空虚な基礎である抽象的な自己内反省が固執されているのである」とは、抽象的な狭義の物だけが残っているということです。物というものは、本来、性質を伴っているのであって、その性質を除いた物自体を議論することは、それ自身が空虚な議論にならざるをえないんだと批判しています。

カントの「物自体」批判

 一二四節補遺 物自体は認識できないものであるという主張は、次のような意味でのみ正しい。すなわち認識するとは、対象を具体的な規定性においてとらえることを意味するのに、物自体は、全く抽象的で無規定の物一般にすぎないのである。のみならず、もし物自体というようなことが言えるとすれば、同じ権利をもってわれわれは、質自体とか量自体とか言うこともできるであろうし、さらにその他すべてのカテゴリーについても同様のことが言えるであろう。そしてわれわれはこうした言葉のもとに、単なる直接性における、言いかえれば、展開および内的規定性が捨象されているこれらのカテゴリーを理解するであろう。したがって、ただ物だけを特に自体のうちに固定するのは、悟性の気まぐれの一つと言わなければならない。

 カントは、現象は認識できるけれども物自体は認識できないといっていますが、それはある意味では正しいとヘーゲルはいいます。なぜ正しいといえるのか。物事を認識するということは「対象を具体的な規定性においてとらえること」、つまり物を性質をもったものとしてとらえてはじめて物を認識することになるわけです。広義の物から性質を除いたものは「抽象的で無規定の物一般にすぎない」のだから、そんなものはこの世の中に、あるわけがないのです。あるわけがないものを認識できないというのは、その限りで正しいというわけです。
 また「自体」なる言葉を使うのであれば、物だけでなく、質だとか量だとか何にだってくっつけたっていいではないかというのです。その場合の「自体」というのは「単なる直接性における」「展開および内的規定性が捨象されている」カテゴリーにすぎません。つまり「自体」とは未展開の直接的存在のことであり、すべてのカテゴリーについて言いうるのに、物についてだけつけているのは、気まぐれにすぎないと批判しています。

 さらに人々は、自体という言葉を自然および精神の世界の内容にも適用して、例えば電気自体とか植物自体とか、また人間自体とか国家自体とかいうような言葉を用い、自体という言葉によってこれらの対象の正しい本来の姿を意味させている。こうした言葉についても、物自体一般についてと全く同じことが言える。すなわち、われわれが対象の単なる自体にとどまっているならば、われわれはこれらの対象をその真の姿においてではなく、単なる抽象という一面的な姿においてとらえるのである。例えば、人間自体は子供であるが、子供はその抽象的で未発展の自体にとどまっているべきものではなく、それがまず即自的にのみあるもの、すなわち自由で理性的な存在に、対自的にもならなければならない。

 自体という言葉は、そのもの本来の姿にはまだなりえていないけれども、将来なりうるような姿としてある本来の正しい姿に発展しうるもの、という意味です。したがって「単なる自体にとどまっている」かぎり、対象の真なる姿ではないのです。
 例えば、人間自体とは、将来、本当の人間になるであろう人間、つまり赤ん坊のことです。だから赤ん坊というのはいつまでも赤ん坊にとどまっているのではなくて、やがて成長して本当の人間になるわけです。人間自体は赤ん坊であるけれども、いつまでも未発展の「自体」にとどまっているものではなくて、将来、自由で理性的な存在、自由な精神をもった理性的存在である人間に発展していくべきものなのです。
 ヘーゲルは「自体」という言葉を「概念の即自態」という意味で使っています「概念」は真にあるべき姿です。「即自態」は未展開の姿のことです。真にあるべき姿がまだあらわれていない、そういう段階のことを「自体」は意味すると解しています。言いかえれば、自体などということで物事を認識することは、それはそれで必要かもしれないけれども、そんな概念の即自態の認識の段階で満足していてはいけない、ということがいいたいわけです。

 同様に、国家自体とはまだ発達しない族長的国家であって、そこではまだ国家の概念のうちに含まれているさまざまな政治的機能が、概念に適合した構成にまで達していない。同じ意味でまた、胚を植物自体と言うことができる。これらの例からわかるように、物の自体あるいは物自体がわれわれの認識の達しがたいものと考えるのは、甚しい誤りである。すべての事物は最初は即自的にある。しかしそれはそこにとどまっているものではなく、あたかも植物自体である胚が本質的に発展するものであるように、物一般もまた抽象的な自己内反省である単なる自体を越えて進み、更に他者への反省として自己を示すにいたる。かく考えられるとき、物は諸性質を持つのである。

 自体とは、真の姿に発展することが予定されているものということですから、国家自体とは、本来の国家にまだ至っていない国家、つまり族長国家にすぎないのです。近代の国家権力の構造をもった国家とは違うのです。つまり国家の概念にまで発展していない未成熟な国家、それが国家自体なのです。「同じ意味でまた、胚を植物自体と言うことができる」。胚はまだ植物にまで発展していない存在ですから、植物自体といえるわけです。このような例からもわかるように、カントのように物自体を認識しえないと考えるのはとんでもない誤りだというのです。すべてのものは、最初は物自体、それ自体として未展開の姿としてあるわけですが、そこにとどまっているわけではなくて、胚がだんだん発展していって植物になるように、物一般も単なる自体を越えて進んで自己を展開していくのです。自己を展開して物自体から物に発展するのです。物自体から物に発展するということは、言いかえれば、抽象的な物自体が性質をもったものに発展していくことです。最後の「かく考えられるとき、物は諸性質を持つのである」とは、そういう意味です。


c 物(Das Ding)

物は性質を持つ

 一二五節 物は根拠と現存在という二つの規定が発展して一つのもののうちで定立されているもとして、統体である。それは、そのモメントの一つである他者内反省からすれば、それに即してさまざまの区別を持ちこれによってそれは規定された、具体的な物である(イ)これらの諸規定は相互に異っており、それら自身のうちにではなく、物のうちにその自己内反省を持っている。それらは物の諸性質(Eigenschaften)であり、 それらと物との関係は、持つという関係である。

 物は、一二四節でみたように、自立性(現存在)と媒介性(根拠)を統一したものとしての「統体」、つまり一つのまとまりをもった存在です。その媒介性(他者内反省)からすれば、物はその物に即してさまざまな性質(区別)をもち、それによって物自体のような抽象物ではなく「規定された具体的な物」として存在するのです。
 こうした様々に異なる諸性質は、それ自身で自立したものではなくて、狭義の物である物自体に従属したものとなっています。したがって物自体と物の諸性質との関係は、物自体が諸性質を「持つという関係」なのです。

 今やあるの代りに、持つという関係があらわれる。或るものも自己に即してさまざまのを持ってはいるが、このように持つという言葉を有的なものへ転用するのは正確ではない。なぜなら、質としての規定性は、或るものと直接に一体であって、或るものがその質を失うとき、或るものは存在しなくなるからである。しかし物は自己内反省であり、区別から、すなわち自己の諸規定から区別されてもいるところの同一性である。

 有論の定有でも「或るもの」は、さまざまの「質を持つ」ということを論じてきました。しかしこの「質を持つ」という場合の「持つ」と、物が「性質を持つ」という場合の「持つ」とは、まるで意味が違うのです。「質を持つ」という場合の「質」は「或るもの」を「或るもの」として成り立たせるものであって「或るもの」と切りはなすことはできません。「或るもの」がその質を失う時「或るもの」は「或るもの」ではなくなって「他のもの」に移行してしまうのです。これに対し「性質」は、物自体に従属しているのであって、性質のいくつかを失っても「或るもの」であり続けるのです。

 ── Haben〔持つ〕という言葉は、多くの言語において過去をあらわすに用いられているが、これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有であるからである。精神は過去の自己内反省であって、過去は精神のうちでのみなお存在を持っているが、しかし精神はまたこの自己のうちで揚棄された有を自己から区別してもいる。

 ドイツ語のHabenは、英語のHaveであり、過去分詞と結びついて完了形をつくります。ヘーゲルはそこに着目して、性質を「持つ」とは過去を意味し「過去とは揚棄された有」だといっているのです。つまり「性質」も有(物)の一部ではあるが有(物)と切りはなしうる、つまり有(物)と区別されたものであるから「揚棄された有」であるというわけです。
 次に精神のことを述べていますが、エンチクロペディーの体系は論理学、自然哲学、精神哲学から構成されています。ヘーゲルにとって精神とは、自然を前提としながら自然を揚棄したものとしてあります。したがって精神は過去、つまり自然を揚棄して自己のうちに取り込むのですが、同時に自然から自己を区別し、自然をのりこえた完全な理念に到達するものなのです。
 そもそも「持つ」という言い方は、そのもの自身、そのものの質とは区別される何かを「持つ」ことを意味していますから、本当は「質を持つ」という言い方は適当ではないのです。或るものはその質をもつことによってのみ或るものであり、その質をもたなければ或るものではなくなるからです。これに対し性質の場合は、或るものがその性質の幾つかを失っても或るものでなくなりませんから、この場合は「性質を持つ」というのが適切な表現となります。

質料

 一二六節 (ロ)しかし根拠においてさえ、他者への反省はそれ自身直接に自己への反省である。したがって諸性質はまた自己同一であり、独立的でもあって、物に結びつけられていることから解放されてもいる。しかしそれらは、物の相互に区別された諸規定性が自己のうちへ反省したものであるから、それら自身具体的な物ではなく、抽象的な規定性として自己へ反省した現存在、質料(Materie)である。

 根拠は、根拠づけられたもの(現存在)に媒介していると同時に、根拠として自立してもいます。同様に、諸性質も物に結びつけられ媒介されていながらも、物から自立し解放されてもいるのです。この物から解放された諸性質は、それら自身物自体から区別されているのですから、そもそも物ともいえないような抽象的な「質料」と称されるべきものなのです。「質料」というのは「形式」に対立するカテゴリーで、材料と同様の意味に理解したらよいでしょう。

 さまざまの質料、例えば磁気的、電気的質料は、実際また物とは呼ばれない。── それらは本来の意味における質、すなわちそれらの有と一つのものであり、直接態に達した規定性である。もっともこの直接態は、反省した有としての、したがって現存在であるところの有としての直接態であるけれども。

 質料というのは、本質と同じように有と切りはなしがたい有と一体のものです。家の場合、その質料(材料)となりうるのは、せいぜい木、コンクリート、大理石ぐらいであって、何でもよいわけではありません。その意味では質料は物から切り離しえない「規定されたもの」ではあります。しかし質料は、どんな形にでもなるという意味で「直接態」と言うわけです。「直接性」とはどんな形にでもなる材料ということですが、そうはいっても材料は「規定性」をもっているわけで、したがって「直接態に達した規定性」だ、というのです。

質料の分解

 一二六節補遺 物が持つ諸性質が独立して、それらから物が成立する質料となるということは、物の概念にもとづいており、したがって経験のうちにも見出される。しかし、例えば、色とか匂とかのような物の諸性質を特殊の色素や臭素として示しうるということから、これですべては終ったのであって、物の本質をさぐるには物をその質料へ分解しさえすればよいと結論するのは、論理にも経験にも反している。

 一二六節の本文で述べているのは、諸性質は物自体から区別されたものだけれども、区別と同時に自己同一なのであり、自己同一になったものが質料ということでした。この補遺では「物が持つ諸性質が独立して」「質料となる」という言い方をしております。それは自己内反省した、自己同一のものになった、ということと同じ意味です。そもそも物は区別と同一の統一なんだから、区別されたものが同一であり、同一のものは区別されたものという関係で相互に浸透しあうのは、物の概念からして当たり前なんだというのです。
 色とか匂いとかは物の「性質」ですけれども、同時に特殊な色素や臭素の「質料」に転化することは、経験のなかでもみられることです。山野草のもっている独特の色合いを、色として取り出して染料に使うのも、性質を質料に転化した一例です。花の香りを取り出して香水にするのも、香りという性質を香水という質料に転化したものです。しかし、すべての性質を分解さえしていけば、最後は何らかの質料に還元されるのかといえば、それはちょっと違うというのです。

 独立的な諸資料への分解ということは、ただ無機的自然においてのみ本来の場所を持っている。したがって化学者が、例えば食塩や石膏をその質料に分解して、前者は塩酸とソーダ、後者は硫酸と石灰とから成ると言うとき、かれは正当である。また地質学が花崗岩を石英と長石と雲母とから合成されているとみるのも、同様に正当である。そして物を構成しているこれらの質料は、一部はそれ自身また物であり、したがってより抽象的な素材に分解されうる。例えば、硫酸は硫黄と酸素とから成っている。

 物のいろんな性質を質料に分解しうるというのは、無機的自然には当てはまるかもしれませんが、有機的自然ではそうはいかないというのです。前回、質問に答えて、機械論的な世界観に対して目的論的な世界観が必要であり、それを探求するのが複雑系の科学の役割なんだとお話ししました。有機体は機械ではありませんから、単なる物の寄せ集めではないのです。いろんな質料に分解すると有機体のことがわかるかというと、そういうわけにはいきません。人間の体を解剖して手足をばらばらにし、あるいは内臓を取りだし、解体した部分をみんな寄せ集めたら人間は生き返るかというと、そんなことにはならないのです。
 だから無機的な自然においては、いろんな独自な諸質料に分解し、分解された質料をさら更に別な質料に分解する過程をたどっていくことは可能ですが、それには限界があるのです。

 このような質料あるいは素材は、実際独立に存在するものとしてあらわされうるものであるが、このような独立を持たない諸性質が特殊の質料とみられることもしばしばある。例えば、熱や電気や磁気の質料とかいうようなことが言われているが、このような質料や素材は悟性の虚構にすぎない。一体に、理念の特定の発展段階としてのみ妥当する個々のカテゴリーを勝手にとらえてきて、すなおな直観と経験とに反するにもかかわらず、説明のためと称して、あらゆる考察の対象をそれに還元してしまうのが、抽象的な悟性的反省のやり方である。

 本来、独立性をもたない諸性質もありますから、すべての諸性質を質料に分解しうるわけではありません。熱や電気や磁気などの性質を質料に分解するといってもそれには無理があるとヘーゲルはいうのですが、もともとこれらのエネルギーを「性質」としてとらえること自体がどうなのかと思います。しかし、すべてのものを質料に還元しうると考えるのは「抽象的な悟性的反省のやり方」だと批判しているのは、要素還元主義への批判として意味があります。特に有機体の場合、そういえるでしょう。

 かくして、物が独立の諸質料からなるという思想は、それがもはや全く妥当しない領域にもしばしば適用されている。すでに自然の範囲内でも、有機的生命においてはこのカテゴリーは不十分である。われわれはこの動物は骨、筋肉、神経、等々から成ると言いはする。しかしこの場合、花崗岩の一片が上述のような諸質料から成るのとは、わけがちがうということはきわめて明白である。

 有機的生命を、質料というカテゴリーだけで説明しようとするのは、不十分だというのですが、これはすでにお話ししたところです。

物は諸質料から成る

 一二七節 かくして質料は抽象的な、すなわち無規定の他者内反省であり、あるいは、同時に規定されたものとしての自己内反省である。質料はしたがって定有的な物性であり、物を存立させるものである。かくして物はその自己への反省を諸質料のうちに持ち(一二五節の反対)、自己に即して存立するものではなくて、諸質料からなるものであり、諸質料の表面的な連関、外面的な結合にすぎない。

 「質料は抽象的な、すなわち無規定の他者内反省」とありますが、質料は物を構成する無規定な存在です。つまりコンクリートは、家にもなれば橋にもなれば道路にもなる無規定な存在なのです。「他者内反省」というのは、質料がいろんな物に形成されていくことをいっているのです。「無規定」だけれども、いろんな物に形が変わっていくんだというのです。
 「あるいは、同時に規定されたものとしての自己内反省である」。しかし形式との対比における質料は、無規定ではあるが同時に規定されているのです。大理石の彫刻は大理石からなる彫刻ですから、大理石という質料と切りはなしがたく結びついた自己同一性をもっているわけです。彫刻の質料は、石であれば何でもいいというわけにはいかないという意味で、大理石を抜きにして彫刻は語れないのです。その意味では、質料は無規定ではあっても規定されたものであり、そのものの自己同一性をつくる、そういう材料になるのです。「質料はしたがって定有的な物性であり、物を存立させるものである」。こういうものとして質料は物を物として存立させる、定有的な物性なのです。
 「一二五節の反対」とありますが、一二五節では、物は物自体と性質から成っており「物自体」のうちにその自立性をもっていると述べています。しかしより深い認識においては、物自体ではなく、性質の転化した「質料」こそが自立性をもっているというべきであって、そういう意味では「一二五節の反対」になってきたというのです。
 「物は自己に即して存立するものではなくて、諸質料からなるもの」とありますが「自己に即して存立する」というのは「物自体」によって物は存立するという意味です。一二五節では、その物をその物として存立させているのは物自体であり、性質ではないといいましたが、より深い認識からすると性質が転化した質料こそ、実は物を成り立たせているんだという意味で「一二五節の反対」といっているのです。

質料と形式

 一二八節 (ハ)質料は、現存在の自己との直接的統一であるから、規定性にたいして無関心でもある。したがって、さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる。他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互に持っている外面的な関係は、形式(Form)である。これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である。

 ここで質料と対立するカテゴリーとして形式が出てきます。すべてのものは質料と形式の統一だというように今度は展開するわけです。
 まず、質料というのは物の材料ですから、それがどんな形であらわれてくるかということに対しては無関係なのです。「したがって、さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる」。先ほど、塩酸とソーダが一緒になって食塩ができるとか、硫酸と石灰から石膏ができるとか「さまざまの質料は合して一つの質料」をもつにいたる例をみてきました。すなわち、いろんな質料が合わさって、そのものを自己同一として成り立たせる一つの質料が生まれてきます。
 「他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互にもっている外面的な関係は、形式である」とありますが、他方、この質料に対して質料を規定するという作用が加わります。その規定性が外面的な関係としての形式です。つまり質料に外面的な加工を加えて、できあがるものが形式なのです。大理石の彫刻は大理石という質料と彫刻という形式からなっています。だから質料は同一性であるのに対して、形式は区別としてあります。大理石は彫刻にすることもできれば、家など建築物に、あるいはテーブルにすることもできるわけで、いろんな形式があります。だからその形式は、区別なのです。
 「これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である」。しかし形式は区別だといっても、質料と形式は一体不可分で区別できないものなのです。大理石の彫刻、大理石のテーブル、大理石の橋というようにできあがったものは、質料と形式とを切りはなすことはできません。できあがったものは質料と形式の両者一体となっているものですから、両者を区別できません。質料と形式を同一と区別の関係でいうと、形式は区別なんだけれどもそれは統体性、一つのもののなかにおける区別なのであって、物そのものから切りはなすことはできないのです。

 この無規定的な一つの質料もまた物自体と同じものである。ただ異るところは、物自体が全く抽象的な存在であるに反し、前者は即自的に他者との関係、まず第一に形式との関係を含んでいる点にある。

 質料は無規定です。大理石は彫刻にもなれば、テーブルにも、家にもなるので、その意味では無規定です。だから無規定という限りでは物自体と同じなのです。だけども「物自体が全く抽象的な存在」なのに対して質料というのは、物自体とは違って無規定ではあっても抽象的な存在ではないのです。無規定ではあるけれども具体的な存在なのです。大理石は大理石として具体的に存在しています。
 同時に、質料は「即自的に他者との関係」「形式との関係」を含んでいます。質料というのは、形式とは異なったものですが、全然別のものではありません。質料のなかにはもうすでに形式が含まれているのです。アリストテレスは質料と形相というカテゴリーを使っています。この場合の形相は、質料と全然別のものであり、両者は全く切りはして考えられています。これに対してヘーゲルは、一応形式と質料は区別されているけれども質料は形式を含んでいるというのです。例えば、代理石で本ができるか、大理石でパンができるかといえば、それはできません。大理石という質料は、彫刻とか建築物などの一定の形式に限定されていて、そういうものにしかなりえないという意味で、質料としての大理石は彫刻、建築物などの形式を含んでいるわけです。

質料と形式の相互移行

 一二八節補遺 物を構成しているさまざまの質料は本来同じものである。これによってわれわれは、区別がそれにたいして外的なものとして、すなわち単なる形式として定立されているような一つの質料一般を持つことになる。物はすべて同一の質料をその基礎に持ち、それらの相違はただ外的にのみ、すなわち形式においてのみあるにすぎないという考え方は、反省的意識にはきわめてよく知られたものである。この場合質料は、それ自身は全く無規定的でありながら、しかもどんな規定でも受け入れることができるものであり、また絶対に永久不変で、あらゆる変転、変化のうちで自己同一にとどまるものである、と考えられている。

 これがアリストテレスのいう質料と形相の関係なのです。アリストテレスの質料は、どんな形相でも受け入れることができるものです。また絶対に永久に不変であらゆる変化のうちで自己同一にとどまるものが質料なんだとアリストテレスはいっているけれども、自分はそう考えないとヘーゲルはいうのです。

 特定の形式に対する質料のこうした無関心は、確かに有限な事物のうちには見出される。例えば、大理石の一片にとっては、どんな立像の形が与えられようと、あるいはまた円柱の形が与えられようと、どうでもいいことである。しかし、この場合見のがしてはならないのは、大理石の一片のような質料でも、ただ相対的にのみ(彫刻家にたいしてのみ)形式に無関心なのであって、けっして、一般に無形式ではない、ということである。

 大理石という質料は、形式に無関係なようにみえるけども、それでは大理石で本を作れといっても本は作れないではないか、そういう意味で質料は全く無形式なわけではないということです。

 鉱物学者は、相対的にのみ無形式の大理石を特定の組成をもつ岩石とみ、同じく特定の組成をもつ他の岩石、例えば、砂石、斑岩などから区別している。したがって、質料をそれだけで独立させ、それ自身あくまで無形式のものと考えるのは、抽象を事とする悟性にほかならない。事実はこれに反して、質料という概念は、あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいるのであり、だからこそ経験においても、形式のない質料はどこにも現存しないのである。

 アリストテレスは形相と質料とを全く別のものとして切りはなしたけれども、それは誤りだといいます。質料というカテゴリーは、形式の原理を自己のうちに含んでいるのです。だから形式のない質料はありえません。この辺がヘーゲルの独特の世界ということになるわけです。

 なお、質料は本源的な存在であり、かつそれ自身無形式のものであるという考え方は、きわめて古く、すでにギリシャに見出される。その最初の姿はギリシャ神話のカオスであって、それは現存在の世界の没形式の基礎と考えられている。こうした考え方にしたがえば、神は世界の創造者ではなく、世界の単なる形成者、デミウルゴスと考えなければならない。

 アリストテレスのように「質料は本源的な存在であり、かつそれ自身無形式のものである」、形式から切りは」なされたものであるという考え方は、すでにギリシャ神話にあるのです。「カオス」という言葉は混沌を意味しています。ギリシャ神話によると、世界の最初の姿は混沌とした状態でした。つまり無規定な質料だけが存在したのが世界の最初の姿であり、それに対して神が形式を与えて世界が誕生したんだとギリシャ神話は考えるわけです。
 プラトンは「ティマイオス」において、イデアを手本として「形なきもの」に形を与え、世界を創造するのがデミウルゴスの役割であると考えたのです。しかし、世界の創造を単に形式を与えるのみとする考えは、不十分だとヘーゲルはいうわけです。

 しかし一層深い見方は、神は世界を無から創造したという見方である。これは二つのことを含んでいる。一つには、質料そのものはけっして独立を持たないということであり、もう一つには、形式は外から質料に達するのではなく、統体性として質料の原理を自己のうちに持っているということである。このような自由で無限な形式は、後に示されるように、概念である。

 神が無規定な質料に形式だけを与えたとする考えは、浅い考え方であり、もっと深い考え方は「神は世界を無から創造した」というキリスト教の考えであるというのです。「これは二つのことを含んでいる。一つには、質料そのものはけっして独立を持たない」とありますが、神が世界を無から創造したということは、一つには質料は決して独立しては存在しないこと、つまり質料と形式は結びついていることを意味しています。無から質料と形式の両者を伴った世界を創造したとキリスト教ではいっており、これが深い見方なんだというのです。
 もう一つは、形式は「外から質料に達する」というアリストテレスのような考えではなくて、質料の中にすでに形式が含まれている、こういうことをキリスト教の世界創造論は意味しているというわけです。このような質料と形式の統一としての精神の「自由で無限な形式」は、概念論でいうところの「概念である」というのです。

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