『ヘーゲル「小論理学」を読む(上) 』より

 

 

前期第二〇講 本質論・本質 Ⅶ

 前期の最後の講義になりました。前回から、本質論「A 現存在の根拠としての本質」の一番最後の「C 物」を学習中ですが、今日は一二九節からになります。一二八節までは、物というのは物自体(狭義の物)と性質との統一としてとらえることができるし、さらには質料と形式との統一としてもとらえることができることを学んできました。その質料は、さらにいろんな質料に細かく分解することもできるということを学習してきました。
 今日は、質料と形式の問題をさらに深く突っ込んで考えてみることになります。

質料と形式の同一と区別

 一二九節 かくして物は質料形式とにわかれる。この両者はいずれも物性(Dingheit)の全体であり、おのおの独立的に存立している。しかし肯定的で無規定の現存在たるべき質料も、それが現存在である以上、自己内有とともにまた他者への反省を含んでいる。こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である。しかし形式は、諸規定の総括であるという点だけから言ってもすでに、自己への反省を含んでいる。言いかえれば、それは自分自身への関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている。両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異ったものでもあるところの質料と形式との関係である。

 この節は質料と形式の関係を述べているのですが、アリストテレスが使った質料と形相という言葉をも利用しながら、ヘーゲルはそのカテゴリーを発展させようとしています。質料はドイツ語でといいます。これMaterieを語源として(唯物論)の用語が生まれてきました。アリストテレスがいっている質料というのは、Materialismus材料のようなものを考えているわけで、これは無形式であり、不動なものだとしました。質料だけでは動かないので、それを動かすものを形相(イデア)、といっています。つまり無形式、不動なものである質料に、形相(イデア)が加わって個々の個体、個々の物ができると考えたのです。
 このようにアリストテレスは、質料と形相とを全く切りはなされた別々の物としてとらえました。これに対してヘーゲルは、これを質料と形式というカテゴリーに置き換え、対立物の統一、あるいは同一と区別の統一としてとらたのです。質料と形式は異なるものだけれども、同一でもある。そこにアリストテレスのとらえ方との違いがあり、ヘーゲルの工夫があります。
 「かくしてものは質料と形式とに分かれる」とは、物というものは質料と形式から成っているということです。「この両者はいずれも物性(Dingheit)の全体であり、おのおの独立的に存立している」の「物性の全体」とは物全体を覆うもの、という意味です。物質性とよく似た言葉と考えてよいと思います。質料も物全体を覆うものであり、形式も物全体を覆うものです。質料が一部であって形式が全体であるとか、形式が一部であって質料が全体とかということはありません。両方とも物全体を覆っている、両方とも全体を覆っているんだけれども、その質料と形式はおのおの独立して存在している。まずそういう質料と形式の区別を最初にみたわけです。
 その次は、質料と形式の同一をみようとします「無規定の現存在たるべき質料」とありますが、本来、質料材料は無規定な存在で、形をもたないものです。しかし質料は、それ自体で自立しているとともに「また他者への反省を含んでいる 」、つまり形式との関係をもっているのです。例えば、食塩は分解して塩酸とソーダに分かれる。いろんな質料が合わさって一つの物ができていますが、その一つの物というのはいわば物としての形式をもっているのです。質料は無規定な存在なんだけれども、いくつかの質料が集まってできた一つの物は、それ自身形式をもっているわけだから、そういう意味で、質料も「自己内有」とともに他者への反省を含んでいる、質料は形式だというのです。
 質料は質料であるけれども、同時にまた形式にもなり「こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である」のです。
 次は反対に、形式が質料であることを考察します。「しかし形式は、諸規定の総括であるという点からいってもすでに、自己への反省を含んでいる」。形式というのは、材料を加工して出来上がったことによって、はじめて形式をもつにいたります。彫刻になって、はじめて彫刻としての形式をもつわけですけれども、その形式をもっているのはなぜなのかというと、大理石という質料があるからなのです。材料なしに彫刻はできません。形式というのは、質料の規定を自分のなかにもっているのです。質料のない形式がありえないという意味では形式は質料であり「両者は即自的に同じものである」ということになります。一応、質料と形式を区別したけれども区別されたものは同一だということを述べているわけです。
 「両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異なったものであるところの質料と形式との関係である」。物が存在するということは、質料と形式が物全体を覆う不可分一体となった物として存在しているのであって、即自的、潜在的には質料と形式は一体なものである。しかし、それが物の形になってあわられたときに、質料と形式という区別を伴って出てくるにすぎないのであって、本来、両者は同一であり、質料から形式へ、形式から質料への移行がみられる、という趣旨です。

多孔説批判

 一三〇節 物はこのような統体性として矛盾である。すなわち、物は、否定的統一からすれば形式であり質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(一二五節)、同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある。かくして物は、自分自身のうちで自己を揚棄する現存在としての本質的な現存在、すなわち現象(Erscheinung )である。

 ここは少し分かりにくい文章だと思いますが、物から現象への移行を述べているところです。物は物自身のもっている矛盾によって現象に解消されます。ではどんな矛盾をもっているのかといえば、その説明にはやや論理のこじつけがみられます。一つは一二五節で述べたこと、つまり物というのは物自体、物そのものと性質との統一です。物というのはいろんな性質をもつ一つのもの、つまり一と多の矛盾なのです。また物は一個の質料をもつ物(統体性)ではありますが、その質料もまたいろんな質料からなっていることからも、一と多の矛盾です。要するに、一つのまとまりをもったものとして存在しながら、物は諸性質や諸質料からなっているという、一と多の矛盾なのです。
 テキストに沿ってみてみましょう。「物は、否定的統一からすれば形式であり、質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(一二五節)」とありますが「否定的統一」というのは内部に区別をもたない一体としての存在という意味です。物は、全体を一つのまとまりあるものとしてみたときには、物自体として一つの形式をもっていて、そのなかでは質料は単なる諸性質になってしまっている。いわば一つの形式と多数の性質の矛盾としてとらえられるのです。
 「同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある」。また物は全体が一つの質料から成り立っていると同時に、そのうちに多数の質料を含んでおり、いわば一つの質料と多数の質料の矛盾です。この辺のところは二つのことをいっているので分かりにくいのですが、物は一と多の矛盾であり、その一と多を物自体と諸性質、全体としての質料とそれを構成する諸質料との矛盾としてみているのです。こうして物は自分のなかに矛盾をもつものとして、自らを解消して現象にいたることになります。

 物においては、もろもろの質料の独立性と同時にそれらの否定定立されているが、この否定は物理学では多孔性(Porosität)という姿をとってあらわれている。多くの質料(色素、嗅素、およびその他の諸質料。音素、熱素、電素等々というようなものなどまで考えている人もある)の各々は否定されてもいる。そしてこれらのこうした否定性、すなわち、これらが持っている多くの孔のうちに、他の多くの独立な質料が存在し、それらも同じく孔を持ち、かくして互に自分のうちに他のものを存在させるようになっている。この孔なるものはけっして経験的に見出されるものではなく、悟性の作りものである。悟性は、独立的な諸質料が持っている否定のモメントをこのような仕方で考え、そして矛盾のそれ以上の進展を、そのうちではすべてが独立的であるとともに、またすべてが互のうちで否定されているところの混沌をもっておおいかくすのである。

 物理学における多孔性という考えは、現在ではもう否定されていますが、考え方としては次のようなことです。物はもろもろの質料からなっている。そのもろもろの質料は、色素とか嗅素とかその他いろいろある。バラの花はバラの花でにおいがあり、色があり、そしてバラの花を作っている花弁などからなっているわけで、そういうものもみな質料だと考えているわけです。Materieなる質料は物質とほぼ同じ意味です。当時は物質というものは、すべて質料をもっていると考えられていたわけです。質料をもっているとはどういうことかといえば、ある物質が一定の空間を支配していると、そこには他の質料をもった物質は浸入できないということが前提なのです。
 物質が質料をもって一定の空間を占め、そこには他の質料が浸入できないということになると、どうして色素とか嗅素とかその他のさまざまの質料が、他の質料に妨害されないで並存しうるのだろうかという疑問が湧いてくるわけで、そこから多孔説という考え方が出てきたのです。一つの質料のなかにたくさんの孔があいていて、その孔のなかにはその他の質料が自由に出入りできる、だからいろいろと性格の違う質料が一つの物質のなかに並存することができるのだ、と考えました。ヘーゲルは、その多孔説を「悟性の作りものである」と批判しているのです。
 「そしてこれらのこうした否定性、すなわち、これが持っている多くの孔のうちに、他の多くの独立な質料が存在し、それらも同じく孔を持ち、かくして互に自分のうちに他のものを存在させるようになっている」。本来質料をもったものは生きる一定の空間を占めており、そこには他の質料は入り込めないということが前提になっているのですが、それでは一つの物がいろんな質料を同時にもっていることを説明できない。そこで確かに質料をもっているものは一定の空間を占めているけれども、孔があいていて、その孔のあいているところに他の質料が自由に出入りすることができるので、一つの物のなかにいろんな質料が同時に存在することができるんだ、と多孔説は考えているのです。
 「この孔なるものは決して経験的に見出されるものではなく、悟性の作りものである」。このように物理学では説明しているが、それは「悟性の作りもの」にすぎず、間違っている。ではどのように間違っているのか。「悟性は、独立的な諸資料がもっている否定のモメントをこのような仕方で考え、そして矛盾のそれ以上の進展を、そのうちではすべてが独立的であるとともに、またすべてが互のうちで否定されているところの混沌をもっておおいかくすのである」。悟性的な考えはあれかこれかの考えですから、矛盾を否定するわけです。矛盾を否定しようとして、こういう多孔性なる考え方をもちだします。しかし、そもそも質料というものは、独立していると同時に独立が否定されているという矛盾した存在なのです。こうとらえれば、多孔性などという「悟性の作りもの」の考えをする必要はないのではないか、ということをヘーゲルはいいたいのです。
 そういう多孔性なる考えによって、物における一と多の矛盾を乗り越えようとしているけれども、それはむしろ別の誤りに陥るのであって、矛盾を矛盾として端的に認めるべきなんだというのです。質料の独立性と否定性という矛盾を率直に認めれば、多孔説は必要ないのです。

 孔が観察によって確証されうるものでないと同じように(ここで孔というのは、例えば木材や皮膚の孔のような有機体の孔をさすのではなく、色素とか熱素とか、あるいは金属や結晶などのような、いわゆる質料のうちにある孔である)、質料そのものとか、質料から切りはなされた形式というようなもの(その最も手近な例は、物が質料から成立しているという考え、および物はそれ自身存立していて諸性質を持つにすぎないという考えである)もまた反省的な悟性の産物である。この悟性は、観察しそして観察するものを記述すると称しながら、かえって一種の形而上学を作り出しているのであり、そしてこの形而上学は、あらゆる方面で矛盾にみちているのに、悟性はそれに気づかないのである。

 多孔説というのは、単にそのように考えることができるというものにすぎなかったわけです。それと同じように「質料そのものとか、質料から切りはなされた形式というようなものもまた反省的な悟性の産物である」。物は質料だけからなっているとか、物は質料から切りはなされた形式だけからなっているとか、質料と形式とをばらばらにしてみるような考え方、これも悟性的で形而上学的な考え方にすぎません。質料と形式は、本来、区別しながらも統一されているのです。
 「最も手近な例は、物が質料から成立している」というのが、一二七節の考えです。物質の複合性(数多性)のみを強調して、統一性をみない考えといえます。他方で「物はそれ自身存立していて諸性質を持つにすぎない」という考え、これは一二五節の物の単一性の考えです。質料は質料、形式は形式、あるいは物は単一、あるいは複合だという、あれかこれかの考え方、対立する要素を媒介のない対立としてとらえる考え方は、逆に多孔性説のような矛盾に陥ってしまうというのです。そうではなくて、物のなかにおける対立する側面を対立物の統一としてとらえる、矛盾をもつものとして矛盾を肯定しないと正しい認識に到達することはできません。
 「反省的な悟性」というのは、二者択一にしかものを考えて矛盾を認めない、あれかこれかの論理だと批判しているわけです。それに対してヘーゲルは、物というものを質料と形式の統一と考え、一と多の統一と考え、そういう矛盾をもつからこそ、物というものは静止しているのではなく、現象にあらわれ出るように動いていくのだ、ということをいおうとしています。
 
 以上で本質論の「A 現存在の根拠としての本質」を終わって「B 現象」にはいります。そして最後にこの「本質」と「現象」の統一としての「C 現実性」を議論することになります。


B 現象(Die Erscheinung)

本質は現象する

 一三一節 本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照するとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。

 「本質は現象しなければならない」。本質は現象してこそ本質なのであり、物事の奥にいつまでも隠れていて姿を現さないような存在ではないのです。現にあらわれている物事のなかに本質が姿をあらわしているという大変有名な文章です。
 「本質が自己のうちで反照するとは、自己を直接態へ揚棄することである」。本質はもともと有が内に入ったものです「――したがって本質は、自分自身のうちでの反照としての有である」(㊦九ページ)とあります。有というのは物事を表面的にみる認識ですけれども、そこからさらに認識が深まって有の背後にかくされているものを認識する、それが本質なんだということをいってきました。しかし有の背後にかくされているものとしての本質はいつまでも有のなかにかくれているのではなくて、有のなかから外にあらわれ出るのです。それを「自己を直接態へ揚棄する」と表現しています「直接態」とは「有の姿」ということです。
 「この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある」。つまり本質のあらわれ出た現象というのは、現象として現実世界のなかに有をもっています。そういう意味では直接態なのであり、現実世界に存在するものなのです。存在はするんだけども最初から存在しているのではなく、本質からあらわれ出た「他者への反省」なのです「自己への反省」とは直接性、「他者への反省」は媒介性のことです。
 本質と現象の関係は直接性と媒介性の統一だ、ということになります。本質があらわれ出た現象というのは、現象として直接的に存在するものであり、この世のなかに現に存在しているのです。そのものとして存在しているけれども、現象というものは本質によって媒介されて存在しているのです。
 「反照するということは、それによって本質が有ではなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である」。本質論の冒頭で「反省」とか「反照」をみてきました。本質と現象との関係を議論する上では、反省とか反照のカテゴリーをもちだす必要があるのです。有は本質と違って反照しません。直接性としてみるだけなのです。しかし本質というのは、本質と現象とが相互に媒介され、反省される関係としてみるのです。ですから「この反照の発展した形態が現象である」。つまり、この反照によって本質が現にあらわれ出たものが現象なんだ、というわけです。
 「したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである」。本質は有の背後に奥深くかくれているのではなくて、表にあらわれ出て現存在を獲得する、現に存在するものになっている、それが現象なのです。
 ここは非常に大事なところです。本質は必ず現象します。現象しない本質はありえないのです。ヘーゲルは後に出てくる「内と外」のカテゴリーで、その人のやっていることが、その人そのものなのであって、その人が現に実際やっていることとは別にその人の本質が存在するわけではない、というようなことをいっています。現象しない本質はない、本質はすべて現象するということは、そこにあらわれ出ている姿以外にその人の本質などは存在しない、ということです。

仮象と現象

 一三一節補遺 現存在の矛盾が定立されたものが現象である。現象を単なる仮象(Schein )と混同してはならない。仮象は有あるいは直接態の最初の真理である。直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない。かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている。

 「仮象」とは、本質との関わりでみた有そのものです。本質の段階まで認識が進むと、有は本質とのかかわりにおける仮象となります。それに対し、有論の有は、本質と関わりなしに考察された有です。ですから有論では「仮象」なる言葉は当然出てきません。本質論にまで認識が進んで現象と本質の区別ができるようになってはじめて、有が「単なる仮象」であることが分かるわけです。
 「現存在の矛盾が定立されたものが現象である」。現存在の矛盾というのは、自己への反省と他者への反省の矛盾、言いかえれば直接性と媒介性の矛盾です。本質が有の形をとってあらわれて、直接的に存在すると同時にあらわれ出たという形で媒介されている、そういうものが現象なのです。
 「現象を単なる仮象と混同してはならない。仮象は有あるいは直接態の最初の真理である」とありますが、仮象というのは本質のあらわれではあるものの、本質そのものとは異なった姿としてある有、見せかけの有です。
「直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない」。客観世界に存在するものは、そのものだけで独立して存在しているようにみえるけれども、本当はそうではなくて、すべて本質によって媒介されているのであって、本質とのかかわりにおける有が仮象なのです。
 「かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている」。最初の感覚的な認識からみると有ですが、認識が深まるにつれてその有が本質に媒介されてくることが分かってくるのであり、すべてのものは「本質の単純性に総括」されていることが分かります。

 本質は最初は自己内での反照の全体であるが、しかしそれはそうした内面性にとどまっていないで、根拠として現存在のうちへあらわれ出る。こうした現存在は、その根拠を自己のうちにではなく、他のもののうちに持つのであるから、まさに現象にほかならない。現象と言うとき、われわれは、その存在が全く媒介されたものにすぎず、したがって自分自身に依存せず、モメントとしての妥当性しか持っていないような、多くの多様な現存在する物を思いうかべる。しかしこの表象のうちには同時に、本質は現象の背後または彼方にとどまるものではなく、自己の反照を直接態のうちへ解放して、それに定有の喜びを与える無限の仁慈であることが含まれている。

 なかなか面白いところです。本質は最初は有が自己内で反省したものとしてとらえられました。いわば有の内側にある奥深くかくされたものとして本質を理解しました。しかし、第二部本質論のAは「現存在の根拠としての本質」という見出しになっており、本質は根拠としてあらわれ出ることによって現存在になるわけで、その現存在になったものが現象なのです。
 現象というときに二つの面があります。一つは、それは「現象にすぎない」という場合の現象であり、これがいわば、仮象になるのです。もう一つは「本質のあらわれ」としての現象です。だから両方みておかなくては、なりません。単なる現象にすぎないという場合、本質が屈折した姿としてあらわれているのです。例えば、資本主義のもとで「賃金は労働の対価である」というのは、単なる仮象にすぎません。本質は労働力の対価なのに、その本質がゆがめられて労働の対価のようにみえるのです。同時に、賃金という現象のなかには、同時に労働力の対価としての面があらわれ出ているわけです。だからこそ労働者とその家族の労働力を再生産するのに必要な賃金でなくてはならないという論理が出てくるわけで「人間らしい生活のできる賃金を」という要求が生まれるのです。賃金は労働力の対価であるという本質から、そういう一定の現象というものが出てくるわけです。
 現象には、その二つの面があり、今、主として本質そのものがあらわれ出る面を強調しているわけです。「現象と言うとき、……多くの多様な現存在する物を思いうかべる」とありますが、これが単なる現象、仮象の面です。
 同時に現象は本質があらわれ出る側面をもっているのであって、この仮象のうちに「…自己の反照を直接態のうちへ解放して、それを定有の喜びを与える無限の仁慈であることが含まれている」。仮象のなかに、本質のあらわれとしての現象もあるのです。ヘーゲルは本質のことを「定有の喜びを与える無限の仁慈」といっていますが、神を念頭においているのだと思います。神というのは本質であり、本質である神は世界を創造する無限の仁愛だ、というわけです。しかしわれわれは、すべてのものは本質に媒介されていると理解すればよいと思います。

 このようにして定立された現象は、自分の足で立っているものではなく、その有を自分自身のうちでなく、他のもののうちに持っている。神は、本質として、その自己のうちにおける反照の諸モメントに現存在を与えて世界を創造する仁慈であるとともに、世界を支配する力であり、世界が独立に現存在しようとするかぎり、その内容を単なる現象として示す正義である。

 本質論で議論していることは、人間の認識が深まっていく過程で本質をとらえる議論です。有論は表面的にとらえ、そのものがそのものとして存在することをそのまま肯定するような認識なのです。言いかえれば、反省なき認識といってもいいと思います。それでは本質的な認識は何かというと、媒介性においてとらえるということなのです。
 有論が直接性においてとらえるのに対して、本質論は直接性と媒介性の統一においてとらえます。つまり、そのものが何でそのものとして存在しているのか、それを認識することなのです。人間の認識の深まりは、直接的なものを媒介されたものとして認識することにあるという、このヘーゲルのとらえ方は、やはり正しいと思います。

現象は有の真理

 現象は論理的理念の非常に重要な一段階であって、哲学が常識と区別される点は、常識が独立に存在するものと考えているものを哲学は単なる現象とみなすことにある、と言うことができる。しかしこの場合大切なことは、現象の意味を正しく理解することである。或るものが現象にすぎないと言われる場合、この言葉は、単に現象するものにくらべて有的なものあるいは直接的なものの方が高次のものでもあるかのように誤解されるおそれがある。実際はしかしまさにその逆であって、現象は単なる有よりも高次のものである。現象は有の真理であり、有より豊富な規定である。というのは、現象は自己への反省および他者への反省という二つのモメントを自己のうちに合一して含んでいるが、有あるいは直接態はまだ関係を持たないものであり(外見上)、自己にのみ依存しているものだからである。

 認識論にとって、現象は重要なものです。哲学は常識から区別されますが、それは「常識が独立するものと考えているものを」、哲学は媒介においてとらえる点に求められるのです。「或るものが現象にすぎない」という場合、「すぎない」という言葉からして、有的なものや直接的なものの方が現象より高次の認識と理解されがちですが、そうではありません。やはり有的な認識よりも現象の認識は、一歩高い認識なのです。
 なぜかというと、有というのは表面的な感性的な認識であるのに対して、現象というのは直接性と媒介性の統一においてそのものをとらえる認識だからです。有論で議論してきた有、あるいは直接に存在するものというのは、媒介においてとらえられていない、そのものをそのものとしてみるだけで、まだ非常に浅い段階の認識です。

 しかし、上述の現象にすぎないという言葉は、たしかに欠陥を示してはいるのであって、その欠陥は、現象がまだ自己のうちで分裂しており、自分自身のうちに拠りどころを持たないところにある。単なる現象より高次のものはまず現実性(Wirklichkeit)であるが、これについては本質の第三の段階として後に論じるであろう。

 本質のあらわれとしての現象は、有論よりも一歩前進した認識ではあるが、認識の過程としてはまだまだであって、もっと高い認識の段階として「現実性」とか「概念」という問題があるという意味で、ヘーゲルは「現象にすぎない」という言葉を使っております。「現実性」の問題はこの後にでてきます。「自分自身のうちに拠りどころを持」つのが概念ですが、これもまた後にみることにしましょう。
 われわれが日常的に使う「単なる現象にすぎない」という言葉は、本質そのもののあらわれた姿ではないという意味で使うことが多いのですが、ここでヘーゲルがいっているのはそうではなくて、本質のあらわれとしての現象は、それはそれとして有論の認識よりも一歩前進であるけれども、より高次の認識である「現実性」とかあるいは「概念」の認識などからすれば、まだまだ低い認識にすぎないという意味で使っております。

カントの不可知論批判

 ――近代の哲学の歴史において、上に述べたような、普通の意識と哲学的意識との区別を最初に復活させたという功績を持つのは、カントである。カントはしかし、現象を単に主観的意味に解し、現象の外に抽象的な本質を、認識できない物自体として固定したから、中途半端であった。現象にすぎないということは、直接的に対象的な世界そのものの本性である。そしてわれわれは、世界がそうしたものだということを知ることによって、同時に本質を知るのであり、そして本質は現象の背後あるいは彼方にとどまっているものではなく、まさに世界を単なる現象にひきさげることによって、自分が本質であることを顕示するのである。

 ここはカントの功績の評価と同時に限界の批判をしているわけです。
 現象と本質とを区別して議論した点で、カントの功績は認められますが「中途半端」だというのです。カントは現象と物自体とを区別します。現象は認識しうるが、物自体は認識しえないとします。物自体は、本質としてもとらえうるものです。物自体は存在するけれども認識しえない、物事の本質は認識しえない、という意味でカントは不可知論者といわれております。このカントの不可知論をヘーゲルは批判するわけです。
「現象を単に主観的意味に解し、現象の外に抽象的な本質を、認識できない物自体として固定したから、中途半端であった」。つまり、われわれの目に触れる物は現象にすぎないといって批判しておきながら、他方では本質は認識しうるのかといえば、認識しえないというわけですから「中途半端」だと批判しています。しかし「現象にすぎない」ということは、本来、現象の背後に本質が存在することを前提にしているわけで、現象を認識することは同時に本質を認識することを意味するものなのです。それをカントは現象と本質を区別しながら、現象は認識できるが、本質つまり物自体は認識しえない、そういう「中途半端」にとどまっているとヘーゲルはいうわけです。

 ――全体的なものを要求する素朴な意識が、われわれには現象しか認識できないという主観的観念論の主張になかなか承服しないのは、とがむべきことではない。ただこの素朴な意識は、認識の客観性を救おうとして、ややもすれば抽象的な直接態へ帰り、直ちにこれをあくまで真実で現実的なものと考えやすい。フィヒテは「最近の哲学の真の本質にかんする大衆へのきわめてわかりやすい報告。読者に必ず理解させようとする試み」と題する小著において、主観的観念論と直接的な意識との対立を、著者と読者との対話の形で通俗的に取扱い、主観的観念論の立場の正しさを証明しようとしている。この対話において、読者は著者に向って、そのような立場に移ることのどうしてもできがたいことを訴え、自分の周囲にある物が本当の物でなく、現象にすぎないというのは耐えがたいことだと言っている。この歎きは当然である。なぜなら、主観的観念論はかれに向って、かれが単なる主観的表象の圏という出口のない圏内に閉じこめられていると考えることを要求しているからである。

 素朴に真理を認識しようとする意識は、カントの現象しか認識できないとする見解に反対して、真理とは直接認識しうるものだという考えになりやすいが、そうではないというのです。フィヒテはカントの主観的観念論を擁護していますが、その著作のなかで、カントに対して批判的見解をもっている読者がフィヒテに向かって、カントのような「立場に移ることのどうしてもできがたいこと」「自分の周囲にあるものが本当のものでなく、現象にすぎないというのは耐えがたい」と嘆いているが「この歎きは当然である」と、ヘーゲルはいっています。というのも、カントの「中途半端」な立場は真理を認識しようとする意識を「出口のない圏内に閉じこめ」てしまうからです。
 ではどうやって真理に到達するのか、どうやって現象から本質、さらに概念の認識に到達するのかといえば、直接性と媒介性の統一によるのです。ヘーゲルの場合は、どこへ行ってもこの問題が出てきます。直接性と媒介性の統一でとらえる真理が概念だということになりますが、それはまた先の話ということになります。

 しかし、現象の単なる主観的解釈を別とすれば、われわれは、われわれの周囲にある事物が現象にすぎず、確固とした独立の存在でないことを喜ぶ理由が大いにあると言わなければならない。というのは、もし事物がそのような不変な独立的なものであったら、われわれは肉体的にも精神的にも直ちに餓死してしまうだろうからである。

 現象と本質を区別することは大いに喜ばしいことです。われわれが感性的に認識するものは、現象にすぎないと認識するからこそ、その奥にある本質を探究しようとして科学が存在し、人間の認識が前進していくわけです。もし事物が本質そのものの姿として現象しているならば、われわれは認識上なにもすることがなくなり「肉体的にも精神的にも直ちに餓死」してしまいます。


a 現象の世界(Die Welt der Erscheinung)

無限に媒介された現象の世界

 一三二節 現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性(Bestehen)が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる。かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ。

 現象的なものはどんな形で存在するのかをここで問題にしています。簡単にいえば、現象の世界は無限の媒介のなかにあるのです。一二三節に「根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する」(㊦四三ページ)とありました。世界にあるすべての事物は相互に連関しあっていることを明らかにした」ところです。この現象の世界もそれと同じであって、今度は根拠である本質によって相互に媒介されているとみるわけです。
 それで本質相互の恒常的な連関が「法則」なのです。われわれは「社会の合法則的な発展をめざす」などと法則という言葉をよく使いますが、法則とは、本質と本質との間の恒常的な連関の状態をいうのです。だから現象の世界というのは、言いかえれば法則の世界なのです。ここまでくると、普遍的なもの、本質、法則など、合法則的な発展を議論する上で必要なカテゴリーが、出そろってきたということになります。
 それでは詳しくみてみましょう。
 「現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており」とありますが、前にアリストテレスの質料と形相について学びました。質料はそれだけでは動かないものであるのに対して、形相は質料を動かすイデアであり、それが個体としての物質を作り出すというのです。ここでヘーゲルのいっている形式は、アリストテレスの形相と同じような意味で使っていると思います。現象的なものは本質によって生みだされたものです。現実に存在する質料をもったものは、形式すなわち形相によって生み出されるというのです。だからこの形式は本質のことです。現象するものは一定の質をもったものとしての存立性であるけれども、それは本質によって生みだされるのです。
 「現象的なものの存立性」は、本質によって生みだされるから、本質である形式(形相)の一モメントになっているんだというのです。大事なことは生みだす形式、形相、すなわち本質です。「形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる」。この「形式」は本質のことですが、本質という形式あるいは形相は、質料を自己のうちにとりこんで、現象的なものを生みだすのです。
 「かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持っている」とありますが「質料のうちにその根拠を持っている」とは、質料をもった現存在である、ということです。つまり現象的なものは質料をもった現存在として存在しているけれども、それは形式であるその本質のなかにその根拠をもっている。本質によって現象的なものが生みだされてはじめて質料をもつにいたるのだ、というのです。

 形式という現象の根拠も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく。この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている。

 本質は現象を生みだすのですが、本質それ自体も、また他の本質によって現象として生み出されたものです。こうして有限性の総体としての客観世界、つまり現象の世界は、本質と現象の相互媒介による無限の連鎖の世界となります。つまり、原因と結果という因果法則に媒介された世界となるのです。この因果法則を認識することが、自然科学や社会科学の目的となります。
 途中になりましたが、この一三二節までで前期の二〇講の講義を終わります。長期間の御聴講を感謝します。

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