『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第一講 ヘーゲル論理学とは何か

はじめ

 最初に全体的なことを前期の復習も含めてお話しておこうかと思います。この講座は「科学的社会主義の運動論の理解を深めるヘーゲルゼミナール」という表題をつけています。科学的社会主義の運動論を深めるという見地が大切なのです。われわれは哲学者になるためにヘーゲルを勉強しているわけではありません。社会の合法則的な発展をめざすという見地から、ヘーゲル哲学の弁証法を学ぶのです。科学的社会主義との関連においてヘーゲル哲学を理解するという見地を鮮明にして、絶えずそこに立ち返りながら学んでいくことが大切です。
 ヘーゲルの概念論には、へーゲル弁証法の神髄が含まれています。弁証法とは、すべてのものを運動・変化・発展するものとしてみることです。重要なことは、変革の立場であり、その中心が概念論ではないかという位置づけで、お話することになると思います。
 ヘーゲル哲学は、科学的社会主義の三つの源泉の一つといわれています。科学的社会主義は人類の知識の総和として生まれたのですが、その直接の源流になった理論・思想が三つあります。ドイツ古典哲学、イギリスの古典経済学、フランスの社会主義思想がそれです。ドイツ古典哲学は、カントから始まり、フィヒテ、シェリングをへて、ヘーゲルにおいて頂点に達しました。その全体を流れているものは弁証法です。ヘーゲルにおいてドイツ観念論哲学、弁証法はもっとも完成された姿を示しました。
 マルクスやエンゲルスはヘーゲルの弁証法を学ぶなかで、それまでの形而上学的な唯物論を弁証法的唯物論に発展させていったのです。この意味でヘーゲル哲学は科学的社会主義の弁証法的唯物論の源泉をなすのです。
「弁証法とは何か」ということを一言でいうならば、連関と発展に関する一般的法則です。すべてのものが相互作用と連関のなかにあり、その連関のなかで運動・変化・発展をしています。ですから、ものごとを正しく見るためには連関と発展の見地から見る必要があるのです。弁証法を学ぶことは、すべてのものを運動・変化・発展の姿のままにとらえることです。それゆえ、弁証法の見地というのは、マルクスが「『資本論』第二版後記」のなかで述べているように「本質的に批判的であり革命的」なのです。
 マルクスやエンゲルスが、ヘーゲルをへていかにして科学的社会主義の哲学を築いていったかは『フォイエルバッハ論』に述べられています。そのなかでエンゲルスは、ヘーゲル哲学の「真の意義と革命的性格とは、この哲学が人間の思考と行為とのすべての結果の究極性に対し一挙にとどめをさしたという、まさにこの点にある」(全集㉑二七一ページ)と指摘しています。つまり、すべてのものは運動・変化して、究極的なものはなにもないというところに、ヘーゲル哲学の真の意義と革命的性格があるのです。
 このゼミナールは「科学的社会主義の運動論を深める」と銘打っているのですが、それでは科学的社会主義の運動論とは何でしょうか。科学的社会主義という概念は、空想的社会主義に対置された概念です。社会主義とは何かというと、資本主義のアンチテーゼ(反対命題)です。資本主義を否定した、より新しい社会が社会主義の社会です。それを空想的なものとして描くのか、それとも科学的なものとして描くのかによって、空想的社会主義と科学的社会主義とに分かれるわけです。なぜ科学的社会主義というのかについては三つのことをあげることができると思います。

 ①自然や社会の法則性の承認
 自然科学とか、社会科学とかおよそ科学と名のつくものはすべてその法則を探求することを目的としています。もし自然や社会がバラバラでなにもつながりがなければ、そこに法則をみいだすことはできません。法則がないところに科学は成立しえないのです。われわれは自然や社会というものが様々な相互作用と連関におかれていることによって一定の法則をもっていることを承認することから出発します。

 ②法則の認識可能性
 かりに自然や社会に法則があったとしても、その法則は認識できないという考え方もあります。カントは不可知論者と呼ばれていますが、彼は自然や社会のいろんな現象は認識することができるけれども、現象の奥にあるほんとうの姿というものは認識できないと考えました。われわれの考えはそうではありません。人間の認識には時代の制約はありますが、時代の制約をもちながらも本質や法則に接近し、認識する力をもっている。それは科学を信頼して真理を認識しうると考える立場といっていいと思います。

 ③合法則的変革(法則にのっとって自然や社会を変革する)
 自然や社会を変革するときに法則にもとづかないで、自然や社会に働きかければ必ずしっぺ返しを受けます。自然や社会を発展させようとする場合は、法則にもとづいて必要な段階をへながら一歩ずつ変革を進めていくことが必要です。自然や社会は厳然たる客観的事実として存在するわけですから、そこにある法則を正しく理解したうえで変革しようとしないと、人間の力は簡単にはね返されてしまいます。科学的社会主義の運動論は、現実の法則を十分に認識してその法則にのっとって、自然や社会を一歩ずつ変革するという立場に立つものです。
 これらのことをヘーゲル論理学はどう考えているかということをこれから学ぶわけですけれども、結論的にいえば、ヘーゲル論理学もその根本においては、科学的社会主義の運動論と共通の立場に立っていると私は考えています。その意味において、科学的社会主義の運動論を発展させる、深めるという見地からヘーゲル論理学を学ぼうということなのです。
 ヘーゲル哲学に戻りますが、先ほども紹介したようにエンゲルスはヘーゲル哲学の革命的性格を指摘しています。この革命性と同時にヘーゲルは体系を重んじた人で、彼の哲学が完成していく道は体系として完成されていく道ということになるのです。エンゲルスはこの二つが矛盾することをあげています。
 一方でヘーゲルは弁証法を述べて究極的なものに一挙にとどめをさすのです。絶対的なものは自分の哲学には何もないというわけです。ここには非常に革命的・進歩的な性格があります。他方で、ヘーゲルの哲学体系は絶対的な体系でこれ以上は動かしようもないのだという、保守的な側面をもっています。この二つの側面によって、ヘーゲル哲学は左右に分裂せざるをえなかったのです。
 このうち、革命的性格を中心的なものと考えた人たちがいわゆるヘーゲル左派を形づくり、マルクスやエンゲルスも青年時代にこの派に属しました。体系を重視した人たちはヘーゲル右派をつくっていきました。これらの事情は『フォイエルバッハ論』に短くまとめられています。、

ヘーゲルの観念論について

 ヘーゲルはふつう観念論者といわれています。ヘーゲルの弁証法は逆立ちした弁証法だといわれています。ヘーゲルの観念論はどこから出てくるのかというと、主として体系の問題に出てきます。保守的な側面と観念論的側面とは結びついているのです。
 ヘーゲルの体系は次の三つから構成されています。
 論理学………有から始まり絶対理念へ
 自然哲学……絶対理念が外にあらわれたもの
 精神哲学……外にあらわれた絶対理念(自然哲学)が内に戻ったもの
 論理学の一番最後に絶対理念にたどり着き、その絶対理念が外にあらわれたものが自然哲学になります。このあたりが非常に観念論的です。
 絶対理念というどこにあるのか分からないような観念的なものが、自然を作りだす力になっており、その自然が再び内に戻ったものが精神哲学だというのです。こういう体系をみるとやはり観念論的だという感じがします。マルクスは「『資本論』第二版後記」のなかで逆立ちしている神秘的なヘーゲルのなかから合理的なものを取り出さなければならないといっています。
 ヘーゲルのどこに観念論をみるかについては、いろいろな議論がありますが、結論的にいえば、ヘーゲルの論理学のなかで観念論的なものは、主として体系に関連したカテゴリーの移行時にみられます。一つのカテゴリーから次のカテゴリーに移っていく過程のなかでは、かなりの観念論的な操作をやっているのです。しかし全体としてみれば「論理学」は唯物論的な考え方で貫かれているといっていいと私は考えております。このことについてはこれからの講義のなかでお話いたしますが、ヘーゲル哲学を観念論だと一蹴してしまう考え方には、賛成しがたいのです。マルクスやエンゲルスそしてレーニンも、けっしてそんな態度でヘーゲルに接していません。彼らはヘーゲルのなかから合理的なものを学ぼうとして一生懸命、論理学を勉強しています。その態度にわれわれも学ばなければならないと思うのです。
 この観念論ですが、ドイツ語ではイデアリスムス(Idealismus)というのですが、元々はプラトンがいったイデア(Idea)からきています。マルクスやエンゲルスがヘーゲルを観念論者と批判しているだけではなくて、ヘーゲル自らが自分自身を絶対的観念論者だといっています。つまりヘーゲルは、われわれと違って、観念論を積極的に評価しているのです。なぜそうなのかといえば、ヘーゲルのいっている観念論は、プラトンのイデアに関連した理想主義、理念主義の意味で使われているからです。
 つまり、人間の意志の働きのなかで最も高度なものは、理想を追求するところにあるとヘーゲルは考えたのです。人間は理想を追求する、その理想を追求する哲学だから自分の哲学はイデアリスムス(Idealismus)=絶対的観念論だというのです。ここには理想・理念に向かって現実を変革して行くヘーゲル弁証法の変革の立場があらわれています。
 人間が理性的な生物である以上、理性を高く評価し、理想をかかげて厳しい社会に立ち向かっていく姿勢が大事であるということをヘーゲルはいっているのです。唯物論の対立概念としての観念論と、ヘーゲルのいう観念論は、区別して考えなければなりません。
 最近の観念論は、非合理主義(合理的なものを否定する)とか、反科学主義(科学を否定する)をかかげています。ヘーゲルの観念論がこれらの非合理主義や反科学主義とは無縁のものであるということも、ぜひつかんでおいてほしいものです。もしヘーゲルの哲学がそんなものであるのなら、われわれが今ヘーゲルを学ぶ意義も必要性もないのであって、お蔵にしまっておけば済むことです。
 ヘーゲルの観念論は近代合理主義の立場にたった観念論です。彼は徹底して理性を信頼しています。理性によって真理を認識しうると考えているのです。理性を信頼し、真理を認識しうるという近代合理主義の立場にたって社会変革を考えています。この点でもヘーゲルは評価しうるのです。そういう基本姿勢をテキストにそってみていきましょう。まず『小論理学』㊤一八ページに次のような記述があります。
 そして真理の国こそ、哲学の故国であり、哲学がうちたてた国、そしてわれわれが哲学を研究することによってその国の一員となりうる国である。人生において真実なもの、偉大なもの、神的なものは、理念によってそうなのである。哲学の目標は、この理念をその真の姿と普遍性において把握することである。自然は理性をただ必然性をもって実現するように拘束されているが、しかし精神の国は自由の国である。人間の生活を統一するすべてのもの、価値あり意義あるすべてのものは、精神的なものであり、そしてこの精神の国はただ真理と法の意識を通じてのみ、理念の把握を通じてのみ存在するのである。
 われわれがこれから踏み出そうとする道において、わたしが諸君の信頼をえ、またそれに価するに成功することを、わたしは希望する。ところでさしあたり私が諸君に要求しうることは、ただ諸君が学問にたいする信頼、理性にたいする信念、自分自身にたいする信頼と信念を持つということだけである。真理の勇気、精神の力にたいする信頼こそ哲学的研究の第一の条件であり、人間は自己をうやまい、自己が最高のものに価するという自信を持たなければならない。精神の偉大さと力は、それをどれほど大きく考えても、考えすぎるということはない。宇宙のとざされた本質は、認識の勇気に抵抗しうるほどの力を持っていない。それは認識の勇気の前に自己をひらき、その富と深みを眼前にあらわし、その享受をほしいままにさせざるをえないのである。
 最後の部分は、とても素晴らしいと思います。人間の認識能力は無限なものであって、無限に真理に接近する力をもっているといっています。だから、真理の国こそ哲学の故郷なんだといっていますし、人間の理性をもってすると「宇宙のとざされた本質」でさえ、それに「抵抗しうる力を持っていない」と述べています。当時は宇宙に関する科学的な認識は限られていた時代でした。限られたものではあったけれども、やがて宇宙の真理を人間の認識は切り開いていくであろうという理性に対する信頼を述べているのです。
 これが合理主義なのです。理性を信頼し、理性にもとづいて自然や社会を見つめれば、真理に到達できるという立場を、ヘーゲルは貫いています。だからこの『小論理学』に出てくることには、神秘主義的ないろどりはあっても、非合理主義的な考えはほとんどありません。一貫して合理主義の立場から自然や社会をみつめているのです。合理主義の立場というのは、言いかえれば科学の立場です。これがヘーゲルの基本なのです。観念論者といわれているが、ヘーゲルの観念論は合理主義の立場、理性を信頼している立場、真理を認識しうるという立場、科学の立場です。そこをしっかり押さえておく必要があります。

ヘーゲル哲学の二つの体系

 それではこれから学ぶ「ヘーゲル論理学」とは何かということをお話したいと思います。先ほどいいましたように、ヘーゲルは体系を重んじ、二度ほど体系を作ろうと試みるわけです。第一番目の体系は「精神現象学と大論理学」の体系で、未完の体系です。ヘーゲルは一七七〇年に生まれ、一八三一年にコレラにかかって死にました。『精神現象学』はヘーゲルが最初に書いた大変ぶ厚い本で、一八〇七年に出ています。これを書いた時、ヘーゲルは「学的体系の第一部」だといっているのです。第二部が「論理学」「自然哲学」「精神哲学」になるということを予定していたわけです。次に書いたのが『大論理学』という本で一八一二年から一八一六年までの三年間の間に少しづつ第一部、第二部、第三部と出していきました。こうしてやりだしたのですが、途中で「これではまずい」と考え直すのです。
 そしてこの体系をつくることをあきらめて、一八一七年(『大論理学』を完成した翌年)にあらためて「哲学的諸学のエンチクロペディー」という体系を発表するわけです。これが第二番目の体系です。これをふつう「エンチクロペディー」と略していっています。「エンチクロペディー」というのは、エンサイクロペディアと同じ意味で百科全書的な哲学の体系なのです。この「エンチクロペディー」のなかに、先ほどいった「論理学」「自然哲学」「精神哲学」があるわけです。そのなかの「論理学」が、岩波文庫から出ている『小論理学』です。
「エンチクロペディーへの序論」(㊤五九ページ)というのがありますが、これは論理学、自然哲学、精神哲学全体への「序論」です。九三ページからが「論理学上巻(エンチクロペディー第一部)」となっています。ここからがエンチクロペディーのなかの論理学です。論理学のなかに予備概念があって、それから本論に入っていくという構成です。ですから予備概念は論理学の予備概念です。
 ヘーゲルは最初に体系をつくろうとして『精神現象学』を第一部とし『大論理学』をその続編として書いていたのですけれども、それよりもこちらの方がどうもバランスがいいと考えて「エンチクロペディー」の体系に変えたのです。それで『精神現象学』はどこにいったかというと、エンチクロペディーのなかの「精神哲学」の章に小さくなって入っています。「エンチクロペディー」の体系のなかで、そこのところをちゃんととらえておかないと、実は論理学の位置づけもはっきりしてこないのではないかと思います。つまり『精神現象学』の到達点から「論理学」がはじまったというふうにみると、正しく「論理学」を位置づけることができません。
 しかし、見田石介さんたちは、そういう位置づけをしています。『精神現象学』の絶対知というのは主観と客観の一致した立場ですから、論理学は主観と客観は一致している立場から出発しているのであって、そこにヘーゲルの観念論があるというふうに、見田さんは理解しているのです。つまり「論理学」は『精神現象学』の「絶対知」を前提にしているから、思考の歩み(主観)と存在の歩み(客観)の問題を混同しており、そこに観念論があるという見方をしています。
 しかしヘーゲルは「エンチクロペディー」においては『精神現象学』を前提にしておらず、それを「精神哲学」の一部門にしか位置づけていないわけですから、絶対知を前提として論理学が展開されているという理解には疑問があります。それはどういうことかというと、要するに論理学が全体として何を述べているのかという問題です。
 結論的にいうと論理学は認識論として理解すべきなのです。人間の認識はいかに発展していくのかという認識の問題としてとらえると、論理学のなかの観念論的なものは極めて少ないし、唯物論的な側面をしっかりとらえることができて、科学的社会主義の運動論としても大変教訓に満ちたものになるのではないかと私は思います。
 ヘーゲルは一八一七年に『エンチクロペディー』を発表しまして、一八二七年に第二版に書きかえます。第二版では大幅に書きかえて、一八三〇年に第三版の書きかえをやった翌年、コレラにかかって死んでしまいます。ですから『エンチクロペディー』第三版は、最晩年のものとしてヘーゲル哲学の完成された姿を示しているものだといっていいと思います。ヘーゲルが死の直前まで手を入れた第三版を学ぶことによってヘーゲル哲学の完成された姿をみることができます。そういう意味で『大論理学』ではなくて『小論理学』を学ぶ意義があると理解していただければいいと思います。

ヘーゲル論理学とは何か

 「論理学」とは何かということですが「論理学」という言葉を聞いたとき、みなさんが真っ先に思いうかべるのは「形式論理学」だと思うのです。「形式論理学」とは何かといいますと、これは一般に思考の形式を扱う学問です。人間はどういう形式を使ってものごとを考えていくのかということです。形式論理学のなかに出てくるカテゴリーには、同一律、矛盾律、排中律、充足理由律とか、さらには概念、判断、推理などがあり、要するにこれは人間がものごとを考えるうえでの枠組みです。中身ではなくて枠組みを問題にするのです。
 ヘーゲルは当然、形式論理学のことを念頭においておりますので、ヘーゲル論理学のなかには形式論理学で使われるこういう言葉は全部出てきます。同時にヘーゲルはこれを批判的に摂取しており、これまでの形式論理学を批判して、弁証法的に作り変えたわけです。
 「論理学」をドイツ語でいうとWissenschaft der Logikというのですが、このなかのヴィッセンシャフトWissenschaft は「学」という意味です。ロージックLogikが「論理」という意味です。 logikという言葉はもともとロゴスという言葉からきているのですけれども、ロゴスというのは、理性とか理法とかに訳されています。この場合は、天地・宇宙の理法ということで、世界の法則という意味に使っているのです。だから「論理学」というのは、自然や社会や人間の意識における法則的なものを探求した学問なんだとヘーゲルは理解して、論理学という言葉を使っているわけです。
 法則を認識するというのはつまり「論理学」を単なる思考の形式としてではなく認識論の問題として理解することだと思います。人間の認識が発展していくにつれて、自然や社会の法則についてさらに深まった認識をもつようになっていく認識の深まる過程を描いたのが論理学だといっていいだろうと思います。
 ものごとを認識する上での結節点になるものがあります。認識の必要上、結節点になるものを、カテゴリーと呼んでいます。カテゴリーは最高類概念ともいわれます。概念とは一般的には、ものごとを抽象化してえられる共通部分の表象をそう呼ぶのです。「人間」というものは一つの概念です。個々人を抽象化していけばみんな人間という抽象物になるわけです。概念における抽象をずっと重ねていって、これ以上抽象化できないところにきた概念のことをカテゴリーといいます。
 人間はもっと抽象化すれば動物になり、動物をもっと抽象化すれば生物になる。生物をもっと抽象化すれば、物質になってしまうのです。最後は物質までいき、これが最高類概念としてのカテゴリーとなります。だからものごとを認識するうえで、このカテゴリーを使って認識することが非常に大事なわけです。論理学で法則を認識する(自然や社会や人間の意識の法則を認識する)とは、いわばカテゴリーをつうじてその法則性を認識するということになってくるわけです。論理学のなかにはいろいろのカテゴリーが出てきます。主観と客観、質と量、本質と現象、原因と結果、偶然性と必然性、可能性と現実性、これらは弁証法的唯物論で使うカテゴリーですけれども、これらのカテゴリーは全部ヘーゲル論理学に出てきます。こういうカテゴリーと形式論理学で用いられる概念といっしょにして、全体として人間の認識がカテゴリーをつうじてどのように発展していくかを明らかにしたのが論理学だといっていいと思います。以上のことで論理学が大体何をいっているのかということが分かっていただけたと思います。
 次に論理学と弁証法との関係をみておきます。よく弁証法の三つの基本法則ということがでてきます。量から質への転化、対立物の統一、否定の否定と習った人もいるかと思います。これが一体どこから出てきたものなのか、原典は何なのかというと、エンゲルスの『自然の弁証法』なのです。『自然の弁証法』というのは、ヘーゲルの自然哲学をふまえて、それを唯物論的に改作したいと思って、執筆を試みて結局、時間がなくて完成しなかったものです。
 マルクスも、ヘーゲルの論理学を三~四ボーゲンぐらいに時間があったらまとめたいということをいっています。一ボーゲンが大体一六ページといわれているので、五〇~六〇ページぐらいにまとめたいと思ったのでしょうか。論理学を唯物論的に改作したいと考えていたけれども、結局、時間がなくてそれもできなかったわけです。
 『自然の弁証法』のなかに出ている弁証法の三つの基本法則をエンゲルスはどこからもってきたのかといいますと、じつはヘーゲルの論理学からもってきているわけです。
 量から質への法則は、論理学の第一部、有論のなかの中心が量から質への法則であると理解し、対立物の統一は第二部の本質論を全体としておおうものというふうに述べ、否定の否定は全体系の根本法則ということで、ヘーゲル論理学のなかからエンゲルスはこの三つの基本法則を引き出しているわけです。しかし、弁証法の法則がこれにつきるのかといえばそうではりません。
 ヘーゲル論理学のなかの弁証法もこれ以外にも多種多様の弁証法があります。有論に限ってみても、質と量の弁証法のほかにも、或るものと他のものの弁証法であるとか、限界の弁証法とかがあるわけです。考えてみると自然のなかの法則がこの三つの法則で割り切れたら、それほど単純なことはないわけです。ですから、これだけ勉強していれば弁証法は分かったなどと思っていたら、大間違いなのです。
 エンゲルスは有論、本質論、概念論のなかから、あえて弁証法の例を出すとすれば大体こんなものなのだという意味で述べているにすぎないことを理解しておく必要があります。
 レーニンの『哲学ノート』という本があります。哲学にかんする覚え書きを、レーニンがノートに書いていたのをまとめて出版したものです。そういう意味では単なるメモ書きなのですが『レーニン全集』の第三八巻に収録されています。その中心をなしているのはヘーゲル『大論理学』のノートなのです。
 レーニンは、書きぬきをしてそこに傍線を引いたり、NB(注意)という記号を書き込んでいます。この『哲学ノート』のなかで弁証法の一六の要素というのを書きぬいています。では弁証法は一六の要素に尽きるのかといえば、そういうものでもありません。弁証法は自然や社会の連関と発展に関する一般的な法則ですから、自然や社会に対する人間の認識が深まっていくにつれて、弁証法はより豊かな内容となって発展していくわけです。そういうものとして理解する必要があります。弁証法自体を弁証法的に考えていく見地が大事なのです。認識が深まっていく過程のなかで、弁証法の法則とか、要素とかいわれているものもより豊かなものになってくると理解しておいていただきたいと思います。
 哲学の歴史は、先人の哲学を学びながら、それを批判することをつうじて発展してきているわけですから、まさに弁証法的な認識の発展過程なのです。マルクス、エンゲルスを本当に理解しようと思ったら、ヘーゲルを勉強しなくてはなりません。ヘーゲルを本当に理解しようと思ったら、最終的にはギリシャ哲学までさかのぼらざるをえないのです。結局は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスまでさかのぼっていかないと、よく理解できないということが、最近、私もようやく分かってきました。
 ヘーゲルを理解するために『資本論』を読まなくてはならないという人がいますが、それも大事なことです。『資本論』は、マルクスがヘーゲル論理学を何回も読み返しながら書いたものです。特に第一章の商品のところは、その表現の仕方において「へーゲルに媚びを売った」とまでマルクス自身がいってるわけです。
 しかし、私はやはりそれだけでは足りないと思うのです。ヘーゲルを学ぼうとしたら『資本論』をつうじてヘーゲルを学ぶだけではなくて、ヘーゲルが学んだギリシャ哲学までさかのぼることが必要です。ちょうどマルクスを理解するためにヘーゲルを学ぶのと同じように、ヘーゲルを学ぶためにはギリシャ哲学までさかのぼって学ぶことが大事ではないかと最近感じているところです。結局、哲学を学ぶということは人類二五〇〇年の認識の歴史の総体を学ぶことではないでしょうか。
 レーニンも「弁証法は、簡単に対立物の統一の学説と法則だと規定することができる。これによって弁証法の核心がつかまれるであろうが、しかし、これには説明と展開を要する」(レーニン全集㊳一九一ページ)といって」います。
 「弁証法とは対立物の統一」だと簡単にいっても間違いではありません。しかし「説明と展開を要する」ということが大事なんです。ですから、弁証法を『小論理学』によって本格的に学ぶのだとご理解いただければと思います。

ヘーゲル論理学から何を学ぶか

 ざっと論理学の説明をしたのですが、ここからがいよいよ肝心です。われわれが科学的社会主義の運動論を深める立場にたって論理学から何を学ぶかということです。

 ①弁証法を統一的な姿において包括的に学ぶ
 弁証法をその統一的な姿においてみると、これまでにお話したように弁証法というのは三つの基本法則にとどまるものでもなければ、一六の要素にとどまるものでもないのです。簡単にいえば対立物の統一と規定することができるけれども、その全展開を包括的に学ぶことだと思います。

 ②カテゴリーの展開をつうじて世界の連関と発展の諸法則を学ぶ
 人間の認識の発展にしても、あるいは客観世界の自然や社会の発展にしても、世界を正しく認識するためには、カテゴリーとカテゴリー相互の関係を理解することが大事です。カテゴリーは認識の結節点ですから、認識を発展させていく要石のようなものです。だから、カテゴリーとカテゴリー相互の関係を学ぶ必要があるわけで、ヘーゲルは認識の深まりゆく過程に応じていろいろなカテゴリーを体系的に位置づけ、そのカテゴリー相互の関係をみました。それを論理学をつうじて学ぶことになります。
 先ほど紹介しましたように、論理学は有論、本質論、概念論と大きく三つにわかれているわけですけれども、それは人間の認識の深まりゆく過程を示しています。もっとも単純なカテゴリーから次第に複雑な、より高度の認識に対応するカテゴリーに、それぞれのカテゴリーの意義と限界を明らかにしながら、カテゴリー相互の移行と発展をへーゲルはみているわけです。それが、ヘーゲルの体系にもつながっていきます。

 ③変革の立場を学ぶ
 それから三つ目は、変革の立場を学ぶということです。これが一番大事なことだと思います。先ほどヘーゲルは自らを絶対的観念論の立場に立つと自称しているといいました。絶対的観念論とは何かといいますと、客観世界にある有限なものには真理がないという立場です。無限なもの、観念的なものにこそ真理があると彼は考えるわけです。ということは、この世の中にあるすべてのもの(有限のもの)は、本来あるべき姿として存在してない、したがって、それは変革の対象でしかないのです。それを本来のあるべき姿に変革するところに人間の役割があり、そして自分の哲学が絶対的観念論と称される意味があるということをヘーゲルはいっているわけです。
 ロンドンの郊外にマルクスの墓があります。ハイゲート墓地です。ハイゲート墓地には東地区と西地区とあるんですが、その東地区の中にマルクスの墓があります。私はちょうど二年前にイギリスの平和団体に招かれて行きました。このマルクスのお墓には、墓碑銘が二つ彫ってあります。一つは「万国の労働者団結せよ」(Workers of all lands ,Unite!)という文句があります。それからもう一つは「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」という文章です。その英文は、The philosophers have interpreted the world in various ways, the point however is to change it.です。
 この二つのフレーズが墓碑銘として刻まれています。後者は「フォイエルバッハに関するテーゼ」の一番最後の第一一テーゼです。 ( 『フォイエルバッハ論』古典選書一〇八ページ/全集③五ページ)。
 ここで問題にしたいのは「フォイエルバッハに関する第一テーゼ」です。
 「これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのをもふくめて)の主要欠陥は、対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえて、感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえられていないことである。それゆえ能動的側面は、唯物論に対立して抽象的に観念論――これはもちろん現実的な感性的なる活動をそのようなものとしては知らない――によって展開されることになった」(同一〇五―六ページ/全集③ 三ページ)。
 これまでのすべての唯物論の主要な欠陥は、対象を、実践の見地から、主体的にとらえていないということです。だから能動的な側面、つまり実践の側面・主体的にとらえる側面は、唯物論ではなくてそれに対立する観念論のなかで展開されてきたということが第一テーゼのなかに書かれています。
 すべての唯物論のなかに実践の見地が抜けていた、主体的に変革する見地が抜けていたというのです。この実践の見地はこれまでの観念論のなかで展開されてきたというのですが、その観念論とはヘーゲル哲学のことなのです。マルクスの墓碑銘のなかに刻まれていた文言は、マルクスがヘーゲル哲学を学ぶなかから身につけたものなのです。ヘーゲル哲学のなかで一番大事なのはこの変革の立場です。その変革の立場を一番はっきり打ち出しているのが、今回の講義の対象となっている概念論なのです。これが三つ目の学ぶべき点です。

 ④真理とは何か、いかにして真理を認識するかを学ぶ(真理の二つの側面)
 先ほど哲学のふるさとは真理だというヘーゲルの言葉を紹介しました。合理主義とは、人間の理性を信頼することであり、人間の理性によって真理を認識することは可能だということです。では真理とはいったい何んでしょうか。
 科学的社会主義の真理観は一言でいうと主観と客観の統一です。一般的にいわれているのは客観に一致した認識が真理であるという言い方です。しかし、これは真理の一面だと思います。やはり主観と客観の一致という方がより正確ではないかと思うわけです。どういうことかといいますと、真理ということには二つの側面があるということなのです。主観が客観に一致するという側面、これは狭い意味での反映論です。客観の姿が人間の意識に反映され、その客観の姿どおりに認識するのです。
 もうひとつ、客観が主観に一致するという側面があります。人間が認識したことが客観に実現される。客観が主観に一致するということです。例えば「真理は必ず勝利する」という命題があります。これはどういうことでしょうか。人間の主観において真理とみなしたものが、やがては客観となって実現することをいっているのです。真理を認識するということは、最初は少数の者の認識だけれども、真理であるがゆえにやがて多数の者の共通した認識になり、多数の者の力によってその主観が客観に実現されるということを意味しています。
 前衛政党の役割は、真理をかかげてたたかうことだといわれています。これは客観が主観に一致するという意味です。主観としての真理をかかげてたたかって、主観に一致する客観を実現するということです。これが真理をかかげてたたかうことの意味です。ふつうわれわれは真理は客観に一致する認識だとするのですが、それだけではなくて「主観と客観の一致」という場合は、両面からの一致だということを考えているわけです。この二つの側面からの真理観を確認したのがヘーゲルなのです。ヘーゲルが変革の立場に立って真理を実現するというのは、何をあらわしているのかというと、自分が掲げた理想は必ず実現されなければならないし、そういう力をもっているのだというのです。現実となる力をもった理想でなければ、そんなものは理想ではないというのです。
 『フォイエルバッハ論』のなかで、ヘーゲル哲学の真に革命的な性格を解明してエンゲルスが紹介している文章は『法の哲学』の序文にあり、大変有名なものです。
 「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
 エンゲルスは、この「ヘーゲルの有名な命題ほど、頭のわるい諸政府の感謝と、同じように頭のわるい自由主義者たちの怒りとをまねいたものはなかった」(古典選書一二―一三ページ/全集二六九ページ)と述べています。この命題は現状を肯定しているのではなく、革命的な思想の表明なのだとエンゲルスはいうのです。理性的なものというのは、先ほどの主観としての真理です。人間の意識における真理は必ず現実となる力をもっています。そして現実となって存在すべき必然性をもっているのです。
 「ヘーゲルの命題は、ヘーゲルの弁証法そのもののおかげでその反対物に転化する。すなわち、人類の歴史の領域で現実的であるものは、すべて時とともに不合理となるのであり、つまり、すでにその本来のさだめからいって不合理であり、最初から不合理性を負わされているのである。そして人間の頭脳の中で合理的であるものは、どんなに現存する見かけだけの現実性と矛盾していようと、すべて現実的になるように定められているのである。現実的なものはすべて合理的であるという命題は、ヘーゲルの思考方法のあらゆる規則にしたがって解体し、現存するものはすべて滅亡にあたいする、という他の命題になる」(古典選書一四―一五ページ/同二七〇ページ)。
 エンゲルスがハイネとともに、この文章にヘーゲル哲学の真の意義と革命的性格を見い出したことはすごいことです。ヘーゲル哲学の真理観と変革の立場が見事に統一されている命題なのです。どうしてこれがそういうことになるのかということは、これから概念論において学んでいくことになるでしょう。

《質問と回答》

 質問に答えておきたいと思います。『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)をお持ちの方は八ページを開いて下さい。ここに関連して「ヘーゲルの観念論をどこに見出すのか」という質問がありました。、
 『大論理学』は『精神現象学』を前提にしており『精神現象学』の一番最後の絶対知というところから出発すると述べました。この絶対知というのは主観と客観が一致している立場です。ヘーゲルの論理学には、その主観と客観をごちゃ混ぜにする考え方がそのままもちこまれていて、思考の歩みと現実の歩みとを混同している、ここにヘーゲルの観念論があるという見方があることをまず紹介し、あわせてその批判をして質問の答えにしたいと思います。
 『入門』八ページあたりからです。見田石介さんや鰺坂さんなどがこの見解(ヘーゲルは思考の歩みと現実の歩みとを混同している)に立っておられます。それに対して私は、論理学は思考と現実を混同してはおらず、思考の歩み、要するに認識論を述べたものとしてのみ理解するべきものであると考えています。
 質問は「見田・鰺坂見解のヘーゲル論理学が思考の歩みと現実の歩みを混同しているという見解が間違いなのか」ということにもふれていましたので、これには次のように答えたいと思います。一つはヘーゲルには主観の問題と客観の問題を混同するような考えはないということです。小論理学の構成は大きく論理学・自然哲学・精神哲学の三つに分かれているということをお話しました。自然哲学は何かというと、客観世界における法則の探求です。精神哲学は、人間の精神や社会における法則的なものの探求です。自然と精神を区別するということはヘーゲルにとって当然なことであって、その両者をいったんは区別しながら、統一してとらえています。主観と客観をごちゃ混ぜにするのではありません。ごちゃ混ぜにするというのを、ヘーゲルは直接的な統一、抽象的直接的統一といっているのです。
 そうではなくて、ヘーゲルは主観と客観は区別されることを前提にしながら、その区別によって媒介された統一をみます。主観と客観の統一という前に、主観と客観を区別したうえでその区別されたものの統一をみるのです。だからその二つをごちゃ混ぜにするというのはそもそもヘーゲルの立場ではありません。
 最初、ヘーゲルは精神現象学を第一部にし、論理学を第二部にするという体系を考えていたのですが、その体系の考えを途中で捨てたということを話しました。『大論理学』では精神現象学を前提に出発したような書き方になっていますが『小論理学』は精神現象学を前提にしていません。前提にしていないだけではなくて、精神現象学というのは『小論理学』のなかでは非常に小さい位置づけしか与えられていないのです。論理学・自然哲学・精神哲学の三つに分類されたなかの精神哲学の一部に位置づけられているだけなのです。だからヘーゲル論理学の全体が精神現象学を前提にして出発していると考えるのは問題があると思います。
 論理学の構成自体をみても、有論と本質論をヘーゲルは客観的論理学と呼び、概念論を主観的論理学と呼んでいます。有論・本質論は客観世界における法則性を探求する学問であり、概念論は人間の主観における法則の探求です。ヘーゲルはこのように考えていたと思えるのです。
 ここでも主観と客観をはっきりと区別しているのです。さらに概念論を主観的概念と客観と理念の三つに区別しているわけです。ですから主観と客観がどんな関係にあるのかは、ヘーゲル哲学にとっての一つの大きな課題なのです。さらに哲学的にいうと、この両者の直接的な統一という見方ではなくて、区別によって媒介された統一としてみるところにヘーゲル哲学の独自性があるのです。ヘーゲルの論理学は全体として思考の歩み、言いかえれば認識論を問題にしているととらえるのが正しいのではないかと考え、この見地から論理学をとらえたときにヘーゲル論理学のなかの観念論は、さほど気にならないものになってくるのではないかと思われます。

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