『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第三講 本質論・現象

b 内容と形式(Inhalt und Form)―(続き)

 前回で前期の復習を終わり、今日は「現象」のなかの「内容と形式」というところからです。現象というのは本質のあらわれ出た個々のもののことです。客観世界に存在する個々のものは、直接的に存在するようにみえるけれども本質に媒介された現象としてある。つまり本質と現象の統一としてあるということです。それを一三三節では「全体として一つの統体をなしている」という言い方をしています。本質と現象の統一としてあるということは、また別な見方をすると、それは内容と形式の統一としてとらえることができるということです。
 内容と形式という言葉は、われわれが日常的に使うカテゴリーの一つです。ヘーゲルはこういう対立する概念を常に媒介においてとらえているのです。つまり対立する概念をバラバラに切りはなされたものではなくて、その対立物の統一としてとらえるわけです。その統一のさまざまな形態が本質論のなかでは論じられます。対立するものがつながりをもっているという段階からはじまって、そのつながりがどんどん強くなり、最終的にはそのつながりが同一になり、対立物の同一にまで至るという、対立物の関係をみているのです。
 現象には、同時に単なる現象にとどまって本質との関係をもたないような現象も存在します。それをヘーゲルは外的な形式とか、あるいは自己へ反省しない形式といっています。自己へ反省しないというのは本質とかかわりをもたないという意味です。そのことを注釈のところで、ヘーゲルは形式には二通りあって本質と結びつくような形式と本質と結びつかないような外的な形式とがあると述べています。もちろん大事なのは本質と結びつくような形式であって、形式と内容とは深いつながりをもっているのです。一三三節の最後で「内容とは、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる」といっています。
 対立物の統一も、内容と形式という段階では、対立物が相互にかかわりをもっているにすぎないのだということです。そのかかわり方が深まっていって対立物の同一にまで至ると、それは絶対的相関の問題になってきます。そしてこの絶対的相関というのが、本質論の一番最後にあって、そこからいよいよ概念論にいくわけです。概念論はまさに絶対的相関というか、主観と客観の完全に一致する姿をみているわけです。主観と客観の同一性が確立する段階、それが概念であり理念であるということになってきます。

内容と形式の統一

 それでは一三三節補遺をみてみましょう。補遺の最初ですけれども、悟性的な考えは内容と形式という場合に内容が本質的で形式は本質的ではないとしがちだけれども、そうではなく両者ともに本質的だといっています。つまり形式も内容もどちらも大事であって、内容が本質を規定するという場合もあると同時に、形式が内容を規定することもあるということです。ただ形式には内容と結びつかないような、形式もあります。そういうことを述べたうえで本を例にあげ、内容と形式とが結びついたものがいい本なんだというようなことが書かれています。
 「真の芸術作品は、その内容と形式が全き同一を示しているようなものである」(㊦六二ページ)とあります。私はこの文章を読んだとき、黒澤明の作品を思い出しました。
 黒澤明という監督は、戦後、東宝争議をたたかった一人で、社会に対する問題意識がとても強かった。ですから彼の初期の作品に、例えばロシア文学の「どん底」とか「白痴」とか、原爆を取り扱った「生きものの記録」など、非常に社会性の強いものがあります。けれどもそれらの作品は、形式では未熟なのです。内容はあっても形式は十分ではないのです。しかし、彼の作品も発展してくると内容と形式が見事な一致を示すわけです。それが「七人の侍」という最高傑作です。そこでは武士と農民という封建社会における支配階級と被支配階級の対立物の統一を描いています。その矛盾のはざまに、三船敏郎のふんする「菊千代」が位置づけられているわけです。そういう点で「七人の侍」は、内容と形式が「全き同一を示している」作品だと私は思います。
 彼はその後、形式美に力を入れてくるわけで、例えば「乱」という映画があります。これも何かの受賞作品と聞いておりますが「乱」には形式美はあります。しかし内容は乏しいわけで、農民が一人も出てきません。そういう点で訴えるものが非常に弱いのではないかと思います。だから当初は彼の作品も、まだ映画という形式を自在にあやつるまでに至りませんから内容はあっても形式は十分でない。やがて内容と形式の同一に至り、晩年は形式中心で内容のないような作品になっていく傾向があったのではないかと私は考えております。
 内容がないというのは、内容が何もないのではなくて、形式と内容が一体となってないようなものを内容がないというのだと補遺の最後の方に書いています。

 一三三節補遺 われわれが無内容の本と言う場合、言うまでもないことだが、われわれはその言葉によって何も書いてない本を意味するのではなく、その内容が無いにひとしいような本を意味するのである。この分析をよく考えてみれば、教養ある人々にとっては、内容とはまさに思想を含んでいることを意味するということがわかる。このことは同時に次のことを意味する。すなわち、思想は、内容に無関係な、それ自身空虚な形式ではないのであり、また、芸術においてそうであるように、他のあらゆる領域においても、内容が真実で価値あるものであるか否かは、それが形式と一体をなしているか否かにかかっているのである。

 「内容のない本」だという場合、何も書いてないということではなくて、形式にふさわしい、形式に一致する内容をもたないということです。例えば「人生いかに生きるべきか」という標題の本があったとしますと、人生論という形式をもった本です。ところが読んでみると、健康第一という内容だった場合、これは無内容だということになるわけで、形式と内容が一致しないことをもって「内容がない」ということになるわけです。ということをつうじて内容と形式というカテゴリーが相互に不可分な、媒介された対立物であるということをヘーゲルはいっているわけです。

 一三四節 しかし、直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。したがってそれは内容の規定性にたいして外的でもあるが、しかし他方内容がその存立性というモメントによって持つところのこの外面性は、内容にとって同じく本質的でもある。このようなものとして定立された現象が相関(Verhältnis)であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである。

 本質論で述べているものは、すべて対立物の統一を論じているのですけれども、今までのような対立するものは相互にかかわりをもっているという段階から、対立するものの同一に至るような関係(対立するものの一方が相対立する他方のものに移行することによって同一化する関係)に発展したときにわれわれはそれを相関と呼ぶのだということで、次の「c相関」に入っていきます。


c 相関(Verhältnis)

 この相関は、一三五節が「全体と部分、一三六節と一三七節が「力とその発現」、それから一三八節が「内的」なものと外的なもの、あるいは「内と外」といわれるような相関をみていきます。一三九節、一四〇節も内と外です。こういう対立物の同一の関係をへて、対立物の同一としての現実性というカテゴリーに入っていくことになります。

イ 全体と部分

 一三五節 (イ)直接的な相関は、全体と部分(das Ganze und die Teile )とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式)から成っている。諸部分は相互に異っていて、独立的なものである。しかしそれらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし総括は部分の反対であり否定である。

 この世界に客観的に存在するものを全体と部分という関係でみることがあります。われわれもよく使うカテゴリーです。ヘーゲルはそれを「直接的な相関」といっております。相関の最初の段階が全体と部分という関係だということです。
 全体とは部分が合わさったものであり、全体を分解すれば部分になります。全体はある意味では内容になり、部分が形式だという言い方をヘーゲルはしております。この場合、全体と部分は併存する関係ではありません。全体が成り立つときは、部分はなくなっており、部分が成り立っているとき、全体はなくなっているのです。だから全体から部分に移行したときに全体は消滅し、部分から全体に移行したときに部分は消滅しています。そういうことを「相互の同一関係」とヘーゲルはいっております。

全体と部分の相関の非真実性

 一三五節補遺 本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である。

 本質的な相関、単に相関といってもいいんですけれども、それは「普遍的な現象の仕方であり、あらゆる現存在の真理である」といっています。つまり現存在するものは、本質からあらわれたものということですから、ものごとを媒介においてとらえるということなのです。現存在というのは、無限の媒介のなかで存在するものですから、真理は相関だというのです。媒介されているものの対立物の統一が定立されるのが、ものごとの本当のあり方なのです。つまり現存在するものは、すべて対立物の同一を含む対立物の統一としてあるのだということではないかと思います。しかし全体と部分という相関はまだまだ本当の意味の相関ではないのです。

 全体と諸部分という相関は、その概念と実在とが一致していないかぎりにおいて、真実でないものである。全体という概念は、諸部分を含むということである。しかし、全体がその概念上あるところのものとして定立されると、すなわち、それが分割されると、それは全体でなくなる。全体と部分という相関に対応しているような事物もあるにはあるが、しかしそれはまさにそれゆえに低い、真実でない存在である。

 全体と部分という相関は不十分な相関だ、真実でない相関だといっているのは、つまり対立物の同一が定立されていないからです。部分が全体に移行すると部分はなくなります。あるいは全体が部分に移行すると全体はなくなってしまう。対立物の同一といっても、同一が実現された過程では、片一方は完全に消滅する。だから、これは真実でない相関だといっているのです。
 「概念と実在とが一致していないかぎりにおいて、真実でないものである」とあります。これはヘーゲルの重要な考え方の一つです。この概念というのは概念論でいう概念であり「真にあるべき姿」を意味します。客観的事物が真にあるべき姿に一致したときにそれは真理であるということができるわけで、全体と部分という相関は、相関の概念に一致しないといっているのです。相関というものの真の姿は、対立するものが存在し、かつ同一化していないといけないにもかかわらず、全体と部分との関係は、全体が部分に、部分が全体に吸収されてしまうのです。
 それで、全体と部分というのは真理にほど遠いカテゴリーだから、これで説明できるのは、せいぜい機械程度にとどまってしまうのだということになるのです。機械にはあてはめることができるけれども、有機体、生命体にはあてはめることができないような、その程度のカテゴリーにすぎないのだということです。そのことが次に出てきます。

 この場合、一般に注意すべきことは、哲学において真実でないもの(das Unwahre)と言われるとき、そうしたものが現存しないという意味に解されてはならないということである。悪い国家とか病気の肉体というようなものはあくまで存在するであろう。が、これらは、その概念と実在とが一致していないから、真実でないものである。

 ヘーゲルは、概念と実在との一致をもって真理とします。悪い国家、病気の肉体というのは、国家や肉体としては存在するけれども、真にあるべき国家(国家の概念)、真にあるべき肉体(肉体の概念)と一致してないから真理ではないといっているのです。
 例えば、ソ連や東欧が真の社会主義ではないという言い方をします。真の社会主義ではないというのは、社会主義の概念に照らしてソ連や東欧の実態(実在)がそれに一致していないからです。社会主義の概念とソ連や東欧の実在とは一致しないから、あれは本当の社会主義ではないと、われわれもいうわけです。だからヘーゲルのいう真理観は科学的社会主義の真理観にもつながっているわけです。

 全体と諸部分という相関は、直接的な相関であるから、反省的な悟性にはきわめてわかりやすい。そのために反省的悟性は、その実一層深い関係が問題である場合でも、この関係で満足していることが多い。例えば、生きた肉体の肢体や器官は、単に部分とのみみるべきものではない。なぜなら、それらは、それらの統一のうちにおいてのみ、肢体や器官であって、けっして統一に無関係なものではないからである。

 全体と部分というのは、相関のなかでも非常に低いレベルのカテゴリーであって、高度に複雑な有機的生命の姿はとらえることはできないということです。次に相関のさらに発展した姿としての力とその発現をみていくわけです。これはニュートン力学を念頭において書いたものだと思います。


ロ 力とその発現

 一三六節 したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である。そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち(Kraft)とその発現(Äusserung)である。

 全体と部分の関係は直接に否定的な自己関係です。つまり全体が部分に移行すると全体が否定されます。部分が全体に移行すれば部分が否定されます。そういう意味で対立物の一方が否定されるような同一関係のことです。それを「直接に否定的な自己関係」といってるわけです。力とその発現の段階になってくると、力の否定的な自己関係として、力の発現となります。力が発現するかぎりでは、力が否定されることになるのですが、その発現されたもののなかに力がそのまま生きているのです。発現したものが力そのものであるようなそういう否定的な自己関係ですから、一歩進んだカテゴリーだとヘーゲルはいいたいのです。
 冒頭の「したがってこの相関のうち」という場合の「この相関」は、全体と部分の相関のことです。「同一なもの、すなわち自己関係」とは、対立物の同一の関係を自己関係といっているのです。「直接に否定的な自己関係である」とは、全体が成り立つときには部分が否定され、部分が成り立つときには全体が否定されるという関係のことです。全体と部分という対立物が媒介されてはいるのですが、この媒介をつうじて一方が他方に吸収されてしまうような、否定的な自己関係なのです。
 「この否定的な自己関係は……自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになる」といっていますが、これは力が発現することをいっているのです。力とその発現の関係も、力が自分を否定して力の発現という自分から区別されたものになってあらわれるのです。
 「逆にまたこの他者への反省」というのは、力の発現のことをいっているわけです。「他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる」とは、他者への反省としての発現の中に力がそのまま生きている、それが全体と部分との違いなんだということです。こういう相関が、力とその発現なのです。

 全体と諸部分との相関は、直接的な、したがって無思想な相関であり、自己同一の差別への無思想な転化である。われわれは全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移っていく。そして一方のうちで、それがもう一つのものへ対立したものだということを忘れ、各々をそれだけで、すなわち或るときは全体を、或るときは諸部分を、独立の存在と考える。別の言葉で言えば、われわれは、諸部分は全体のうちに存立し、全体は諸部分から成立すると考えているから、或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考えているのである。機械的関係の表面的な形式は、諸部分が相互にたいしてもまた全体にたいしても独立的なものとして存在することにある。

 全体が部分に移行し部分が全体に移行して、移行によって他方が否定されてしまうと述べています。こういう関係だから、全体と部分の相関は相関といえないような「無思想の相関」だといっております。引用文につづいて述べている物質の可分性の無限進行とは、物質の階層性の問題なのです。物質の階層性はやはり無限だとヘーゲルは考えています。これは現代においても正しい理解だろうと思います。物質はミクロの単位においても無限に分割されうるものであるし、マクロのレベルにおいてもやはり無限に拡大していくものです。物資の階層性は無限で、問題は人間の認識がどこまで広がっていくかということにかかっています。
 いま宇宙の広がりがとりざたされておりますが、要するにそれは人間が宇宙をどの広がりまで認識できるかというレベルの問題なのです。全体と部分に区別し、その部分の一つがまたさらに全体としてもう少し小さい部分からなるというかたちで無限にその分割が進行していきます。だから、全体が部分に移行し、部分がまた全体として移行します。そういう無限進行するところに、全体と部分のカテゴリーの無思想性があるとみているのです。

力とその発現の有限性

 力は、このように無限であるにもかかわらず、また有限でもある。なぜなら、内容すなわち力と発現とのうちにある同一なものは、潜在的にのみ同一であるにすぎず、相関の二つの側面の各々は、まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである。したがって二つの側面は、相互にたいして異ったものであり、相関は有限な相関である。力はしたがって外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する。そしてその形式がそうした欠陥を持っているために、内容もまた制限され偶然的である。

 要するに、力とその発現において対立物の同一が実現されるのだけれども、まだここにおける対立物の同一は、かぎられた相関、有限な相関の存在にすぎない。それはまだ同一のなかで「統体性」が提示されてないからです。
「相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである」とありますが、対立物の同一が完全に実現されたときには、第三者が登場し、これまで対立していたものが、そのモメントとなるわけです。そういうものをヘーゲルは統体性というわけです。統体性とは、対立物の同一から現れる第三者のことです。これまでの対立物が新しく生まれた第三者のモメントにひきさげられるような第三者が、概念なのです。
 概念というのは対立物の同一を自己のうちにモメントとしてもつ、第三のモメントとして出てきます。しかし本質論のレベルでは対立物の同一のレベルにとどまっていて、第三のモメントがまだあらわれてこないのです。つぎの絶対的相関の問題でもそうなのですけれども、概念に至ってはじめてこの統体性の問題もでてくるのです。
 力とその発現もまだ有限なカテゴリーだとする理由として、力は外からの誘発を必要とし、盲目的に作用することを指摘しています。野球でボールを打っても、全部外野席に飛び込むとちっとも面白くありません。ファールボールになったり、ゴロになったり、内野フライになったり、ホームランになったりするから面白いわけです。力の発現はそういう意味で盲目的なのです。どんな形にあらわれてくるのか分かりません。それに対して、この内容と形式の同一が絶対的に規定されるのは、概念論の概念あるいは目的ということになります。
 つまり概念論の目的になってくると、目的とその発現というのは、偶然的なあらわれとして出るのではなくて予定された必然的なものとしてあらわれてくるわけです。だからピッチャーのボールを打ったらどこに飛んで行くか分らないという力とその発現は、まだまだ偶然的なものであって、こんなところに満足していてはいけないといっています。
 それから発現した「力」は認識できないではないかといわれたりするけれども「力とその発現」というのは同じ力(内容)で形式が違うだけだというのです。内にある力が外に現れ出たときに、それを発現というのであって、それはどちらも同じ力だといっております。
 力とその発現という相関は、まだ有限なものにすぎないということが次の補遺一にでてきます。

 一三六節補遺一 力とその発現との相関は、全体と部分とのような直接的な相関にくらべれば、無限なものとみることができる。というのは、全体と部分との相関においてはようやく潜在的にのみ存在していた、二つの側面の同一性が、ここでは定立されているからである。全体は諸部分からなるが、分割されると全体ではなくなる。これに反して力は、発現することによってはじめて力であることを示し、また、発現それ自身が再び力であるから、発現のうちで自分自身へ帰る。

 「全体と部分」と「力とその発現」の同一と区別を論じています。全体と部分の問題は先ほどから述べているように、相関の一番低いレベルです。力とその発現になると全体と部分とは違って、一方から他方に移行したら一方は消滅するという関係ではなくて、発現されたもののなかに力は生きていて、それが力そのものであるのです。だから力は発現しても消滅はしません。対立物の同一が定立されても消滅していないのです。そこが違うのだという言い方をしています。違うのだけれども、まだこの相関は有限であり、どのように有限なのかについて説明します。

 しかしこの相関もやはり有限であり、そしてその有限性は次のような媒介性にある(全体と部分との相関は、これとは逆に、直接性のために有限であったが)。まず、力と発現という媒介された相関の有限性は、どの力も制約されていて、その存立のために自己以外のものを必要とする点に示されている。

 力と発現の相関が有限だというのは、自己運動しないからです。バットで打たなければボールは飛ばないのです。そういう外の力に頼らざるをえない、そういう点でまず有限なのです。「いずれにせよここにはまだ運動の絶対的なはじまりが欠けている」(㊤六九ページ)という言い方をしています。「力はまだ、目的のように、自分自身のうちで自分を規定するものではない」、つまり自己運動するものではないのです。こういう点での有限性があります。二つ目の有限性は「その作用は盲目的」(㊤七〇ページ)だからです。
 力とその発現は、全体と部分よりはすすんだカテゴリーだけれども、まだ他のものに依存しているという点でまた、それが目的と違って盲目的にしか作用しないという点で有限なのです。目的はどのように作用するのかというと、これは予見的に作用するわけです。予定したとおりに自己産出するわけです。どこへ飛んでいくか分らないボールとは違うのです。

 一三六節補遺二 認識できるのは力の発現にすぎず、力そのものは認識できないものであるという、非常にしばしば繰返される主張は、根拠のない主張である。なぜなら、力とはまさに発現するものにほかならず、したがってわれわれは、法則として把握された発現の総体のうちに、同時に力そのものを認識するからである。

 力というものはそういうものです。発現されたもののなかに力を認識することができるのです。当時はいろいろなものを力学的に説明しようとする時代だったのだと思います。それでこの七〇ページに、当時の物理学は重力、磁力、電気力など、さらには経験的心理学では記憶力、想像力、意志力など、何でも力という名で説明しようとしたとあります。運動をすべて力で説明しようとする傾向があって、その結果、すべての運動を一つの原力というもので説明しようとする動きすらでてきているということが書かれております。この試みは現在も行われています。
 朝日」の元旦号だったと思いますけれども、現代物理の最先端の問題として、超弦理論の問題の紹介がありました。現代でも素粒子の動きというのはなかなか全部説明できないことが多いのですが、それをたった一つの原理で物質や力や宇宙の根元すべてを説明しようとする理論です。やはり宇宙の根源的な力を探求しようとする試みは今なお続けられています。成功するかどうかはまだわかりませんが、それはそれで必要な探求であり、人間の認識の前進していく過程だろうと思います。
 ヘーゲルはその当時の力学のレベルを念頭において、こんな根源的な力のことを考えようとするのは、力の概念そのものに矛盾しているではないかということをいうわけです。つまり、力というのは、みずから力を生み出すわけではなくて、外部からの力が加わってはじめて力というのが出るわけですから、そういうかぎられたものを絶対化するような考え方はおよそまちがっているという言い方をしています。

 その上、力とその発現は本質的に媒介された相関であるから、力を根源的なもの、すなわち自己にのみ依存するものとみるのは、力の概念に矛盾する。――力の本性は以上のごとくであるから、現存在する世界を神の諸力の発現と言うのはまだいいとしても、神そのものを単なる力とみるのは正しくない。なぜなら、力はまだ従属的で有限な規定だからである。

 力というものは、運動の絶対的なはじめに欠けているのです。バットで打つ必要があるわけです。それを神そのものが力ということになると、その神を動かすさらに根源的なものが別にあることになってしまうので、それはおかしいのではないかという言い方をしています。いずれにしても、力というのは有限な概念なのです。

 しかし、力をもってする説明は、その論理的帰結として、理由づけをこととする悟性が個々の力をそれだけで独立させ、そうした有限なものをあくまで究極的なものと考えるにいたるということを含んでいる。一度こうした独立の諸力および諸素材の有限な世界を認めると、神の規定としては、認識できない最高の彼岸的存在というような抽象的な無限しか残らない。これこそまさに唯物論の立場であり、また、神について知りうることは、神が何であるかということではなくて、神があるということにすぎないとする、近代の啓蒙思想の立場である。

 力をもってする説明は神の否定につながるということで唯物論の批判をしています。しかし、ここでは、ヘーゲルが観念論の立場にたって唯物論を批判していることよりも、力を究極的なものとして考えることへの批判がたいせつなのです。
 あわせて、力を探求することによって、世界を合理的に説明しようとするこのニュートン力学の立場を、ヘーゲルは評価しているわけです。力という視点は大事なのですが、それを究極的なものと考えることが問題なんだと理解しておけばいいのではないかと思います。
 一三七節は「力とその発現」から「内的なものと外的なもの」への移行の節です。ヘーゲルの場合、常に次のカテゴリーに移行するときには、ひと理屈こねてから次へ移行するわけで、その移行に関するところです。

 一三七節 力は、自分自身に即して自己へ否定的に関係する全体であるから、自己を自己から反撥し、そして発現するものである。しかしこのような他者への反省、すなわち諸部分の区別は、同様に自己への反省でもあるから、発現は、自己のうちへ帰る力が、それによって力として存在するところの媒介である。力の発現はそれ自身、この相関のうちにある二つの項の差別の揚棄であり、潜在的に内容をなしている同一性の定立である。力と発現との真理はしたがって、その二つの項が内的なもの外的なものとしてのみ区別されているような相関である。

 今まで述べたように「力とその発現」という対立物は、発現されたものが力そのものであるという対立物の同一の関係ですから、この力とその発現には二つの項の差別の揚棄、つまり力とその発現の区別がなくなってしまいます。そして「潜在的に内容をなしている同一性の定立である」というのは、潜在的な力の同一性が表面化しているということです。言いかえれば、内にある力が外にあらわれたという、内と外との関係としてとらえられる相関として、次の「内的なものと外的なもの」のカテゴリーに移行するのです。

ハ 内的なものと外的なもの

 一三八節 内的なもの(das Innere)は、現象および相関の一側面という単なる形式としてあるような根拠であり、自己内反省という空虚な形式である。そしてそれには、他者への反省という空虚な規定を持ち、同じく相関のもう一つの側面という形式としての現存在が、外的なもの(das Äussere)として対立している。内的なものと外的なものとの同一は、実現された同一であり、内容であり、自己への反省と他者への反省との統一が力の運動のうちで定立されたものである。両者は同じ一つの総体であり、この統一が両者を内容とするのである。

 内的なものと外的なものとは、同じ内容のものが内にあるか外にあるかという形式上の違いとなってあらわれることです。そういう形式上の区別と内容の同一性という対立物の同一なんだといっております。
 一三九節で、さらにその内容をやや詳しく述べています。

 一三九節 したがってまず第一に、外的なものは内的なものと同じ内容である。内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある。現象が示すものはすべて本質のうちにあり、本質のうちにあるものはすべて顕現されている。

 この内的なものと外的なものに、本質と現象というのをあてはめて考えてもいいわけで、内にある本質は外に現れて現象になる。それで内にある本質も現象となって現れた本質も同じ本質として、内容は同じなんだということです。
 
単に内的なものは単に外的なもの

 一四〇節 第二に、内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもいる。しかも一方は自己同一という抽象物であり、他方は単なる多様性あるいは実在性という抽象物であるから、全く正反対のものである。しかし両者は、一つの形式のモメントとして、本質的に同一なものであるから、一方の抽象物のうちに定立されているにすぎないものは、直接にまた他方のうちに定立されているにすぎない。したがって内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない

 内的なものと外的なものというのは、形式としては対立物です。しかし形式上対立はしているけれども、同じ内容なのですから、本質的に同一なわけです。同じものが内にあるか外にあるかの違いだけです。本質的に、対立物の同一が定立されているわけですから、内にあるものと外にあるものと切りはなしてしまうと、単に内的なものは、単に外的なものにすぎないという関係になってしまう。本来一つのものであるから、それを切り離してしまったら、どちらも不完全な単なる内にあるもの、単なる外にあるものになってしまうんだというのです。

 反省は普通本質を単に内的なものと思い誤っている。本質を単にそうしたものとみる場合、その見方もまた全く外面的であって、その場合考えられている本質は、空虚な外面的抽象にすぎない。

 悟性的な考えでは、本質は単に内的なものであって外にあらわれないと思っています。外にあらわれないような、単に現象と切りはなされた、単に内的な本質というのは、空虚な外面的抽象にすぎないのです。単なる内的なものは、単なる外的なものにすぎないんだという言い方をしてるわけです。

 一般、あるいはまた単に感覚的な知覚のうちでは、概念はまだ内的なものにすぎないから、それは有や感覚的知覚に対して外的なものであり、主観的な、真理を持たない存在および思惟である。──精神におけると同じく、自然においても、概念、目的、法則がまだ内的な素質、全くの可能性にすぎないかぎり、それらはまだ外的な無機的自然、第三者の知識、外的な強力、等々にすぎない。──人間は外的に、すなわち行為においてあるとおりに(もちろん単に肉体的な外面をさすのではないが、内的にある。内的にのみ、すなわち意図)や心情においてのみ有徳、道徳的、等々であって、外が内と同じでない人があるとすれば、その人の内部も外部と同じようにからっぽなのである。

 単なる内的なものは単なる外的なものだということを、言い方を変えて述べているわけですけれども、この概念というのも、概念論の概念、真にあるべき姿という意味なのです。有一般、あるいは単に感覚的な知覚、感性的な認識においては、その真にあるべき姿としての概念は、まだ内的なものにすぎない。つまり潜在的なものにすぎないから、有一般にとって概念というものは、自分とは別な外的なものにすぎないことになります。だから単に内的なものは単に外的なものなのです。概念というのは、感性的な認識の段階では、客観世界の内側にある部分だから、今の自分にはよく分からない。つまり、内にあってよく分からない潜在的なものだということは、自分とは別な外的なものとしてとらえることになるのです。単に内的なものは単に外的なものなのです。それを概念を例にして述べているのです。
 最後の方は内的にのみ有徳、道徳的な人、つまり内心はいい男なんだといいながら、外でやってることと全然違うような人物は、それは実際は内容も、外と同じように空っぽなんだという厳しい批判をしてるわけです。

 一四〇節補遺 対象が単に内的なものであり、かくして同時に単に外的なものである場合、あるいは同じことだが、対象が単に外的なものであり、かくして単に内的なものである場合、その対象は欠陥を持つもの、即ち不完全なものである。例えば、子供も、人間である以上、理性的存在ではあるが、しかし子供そのものの理性は、まず内的なもの、すなわち素質、使命、等々として存在するにすぎず、そしてこの単に内的なものは同時に、子供に対しては、両親の意志とか、教師の知識とか、一般に子供の周囲にある理性的世界として、単に外的なものという形を持っている。

 単に内的なもの、あるいは単に外的なものというのは不完全なものです。子供の例が出ていますが、これは人間とは理性的な存在であることを念頭においています。そういう面で子供を考えた場合、子供にとって理性は、まだ内にあるものにすぎないわけです。内にある潜在的な可能性にとどまっているわけです。だから彼にとって理性的なものは、外的なものとしてしかあらわれてきません。つまり、親や教師が、子供に対し外から理性的なものを教えるという形でしかあらわれてこないのです。そういう意味で単に内的なものは単に外的なものであり、また単に内的なものであると同時に単に外的なものは、不完全なものなのだというわけです。
 子供というのは、まだ単に理性を内的なものとしかもっていないものだから、不完全な人間なのです。

 ここでもまた内と外とは本質的に同一であって、われわれは、人が行うところのものがすなわちかれであると言わなければならない。そして、内はすぐれているのだという意識によって自分を慰めているような偽りの自負にたいしては「樹は果によりて知らるるなり」というあの聖書の言葉をもって報いるべきである。、

 内にあるものは、外にあらわれた行為によって分かるのです。内と外は別だという言い方をする人がいますが、それは違うというのです。その例が次にでています。

 また人々はよく他人の感心な行いをみると、それにけちをつけるために、偽善という言葉を口にする。しかし人は、個々の点では自己の姿をいつわったり、多くのことをかくすこともできるが、かれの内部全体をそうすることはできないのであって、それは一生のうちには必ずあらわれるものである。したがってこの点でもまた、人はその行為の系列にほかならないと言うことができる。

 偽善とは、外と内が違うということだといっています。外にあらわれたいい姿と、内に隠した賤しい心とが一致しないことを偽善というのです。しかし個々の点では、内と外を偽ったりすることはできるけども、生涯をつうじて、そういうことはできないというのです。
 人の評価は、その人の行為の総括にほかなりません。人の内部というのは、外にあらわれた行為全体が、その人の内なるものなのです。この辺がなかなか面白いところではないでしょうか。自民党政治というのは、個々の点では、国民のための政治をやってるかのように偽っていても、政治全体をつうじては、ゼネコン奉仕、米軍基地中心の国家体制であるということが明らかになってきています。内と外とはこういうことではないでしょうか。英雄の扱いをのべたところがあります。

 しかし、ここですすめられている心理学とは、ちっぽけな人間通の知識にほかならず、それは人間性のうちにある普遍的で本質的なものを考察の対象とするのではなく、個々の衝動、感情、等々のような、特殊的で偶然的なものをのみ主として考察の対象としているのである。歴史家には、このような心理学的=実用主義的な方法を用いる場合でも、偉大な行為の根柢に横たわっている動機について、祖国、正義、宗教的真理、等々のような実体的な関心を選ぶか、それとも虚栄心、支配欲、所有欲、等々のような形式的な関心を選ぶかという選択の余地はあるであろう。しかし実用主義的歴史家は、後者を本当の動機と考える。なぜなら、そうしないと、内的なもの(行為者の心情)と外的なもの(行為の内容)との対立という前提が証明されないからである。

 つまり、実用主義的な歴史家は、人間の支配欲とか所有欲とかいうものを行為の本当の動機だと考えて、人間を動かす普遍的、本質的に内的なもの(例えば、階級的利益というような)に目が向けられていないというのでしょう。
 歴史の大きな流れをみなくてはいけないということで、個々の動機、感情のような特殊的で偶然的なものを主として考察の対象にしてはいけないと述べているのは、なかなか面白いところです。つまりヘーゲル自身は解明しえなかったのですが、資本主義の内的法則にもとづいた必然的な行動こそが、内的なものと外的なものとの統一としてあるんだということです。ヘーゲルのこの部分を普遍化していえばそういうことになるのではないでしょうか。「資本家でもいい人はいるよ」とか「労働者といってもいい人ばかりではないよ」とか、そういう意見はいろいろあります。しかし、階級としての内と外の統一の問題としてみることが大切なのです。労働者階級の階級としての内的なものは、やはり、搾取の廃止という歴史的な使命です。そういうものが外にあらわれて労働運動や社会運動となっているのです。
 以上のように、内と外は本質的に同一だということをみてきたわけです。ここでいよいよ、内的なものと外的なものとの統一としての現実性に移行することになります。その移行の橋渡しが一四一節です。

 一四一節 同一の内容をなお相関のうちにひきとどめようとする二つの空虚な抽象物は、互のうちでの直接的な移行のうちで自己を揚棄する。内容はそれ自身両者の同一性にほかならず(一三八節)、両者は本質の仮象が仮象として定立されたものである。力の発現によって内的なものは現存在のうちへ定立される。しかしこの定立は空虚な抽象物による媒介であり、それはそれ自身のうちで消滅して直接態となる。そしてこの直接態においては内的なもの外的なものとは即自かつ対自的に同一であって、両者の区別は単に被措定有(Gesetztsein)として規定されているにすぎない。このような同一性がすなわち現実性である。

 ここまで対立物の同一ということをみてきました。全体と部分、力とその発現、内と外という対象物を検討してきたのですが、ここまでくると、今度は内と外のように区別されたものとしてあるのではなくて、対立物の同一が、一つのもののなかに、定立されているようなものをみていく必要があり、それが現実性だといってるのです。だから現実性というのは、言いかえれば本質と現象の統一としてあるわけです。
 本質論のAが本質であり、Bが現象であり、Cが現実性です。現実性というのは、本質と現象の統一としてあるものです。だから現実性というのは、客観世界のなかの一つひとつのもの、個々のものをいっているわけです。そのなかに本質と現象の統一とか、あるいは内と外の統一とか、内部にモメントとして対立物を抱えながら一個の統体性として存在するようなもののことを現実性というのです。
 「この直接態においては、内的なものと外的なものとは即自かつ対自的に同一であって、両者の区別は単に被措定有として規定されているにすぎない。このような同一性がすなわち現実性である」とありますが、この直接態というのは、個々のものとして存在するということです。個々のもののなかに、その本質と現象が絶対的な同一として定立されているのです。被措定有というのは、媒介された有という意味です。内的なもの(本質)と外的なもの(現象)とは、相互に媒介された観念的な対立物として一つのもののなかに存在するというような意味
です。

C 現実性(Die Wirklichkeit)

 それではいよいよ現実性に入ります。
 現実性というのは、ヘーゲルにとって非常に重要なカテゴリーです。『法の哲学』の序文に「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という、たいへん有名な命題があります。そこで現実的といってるのが、この現実性のことなのです「理性的なものは現実的である」とは、正しい理想は必然的に現実となる。力をもっているという意味です。
 現実性とは本質のあらわれ、本質の「直接的な外的現存在」ですから、必然的なものとしてあらわれてくるものです。偶然的なあらわれ方から区別された、必然性が現実性であり、この現実性のなかで可能性、偶然性、必然性、実体というようなことを議論していきます。
 最初の可能性、偶然性というのは、いわば必然性を論じたいがために、その前段階で述べているにすぎません。現実性の展開された姿は必然性なのです。だからここで必然的な現実の問題をみているわけです。
つまりこの現実性の認識こそが、客観世界における必然的なものの認識であり、真理の認識となるのです。ヘーゲルのいう現実性は非常に重要なカテゴリーだということができます。
 それでは現実性について、一四二節をみていきましょう。

 一四二節 現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。

 現実性というのは本質と現存在の統一です。現存在とはあらわれ出た現象のことですから、現実性は本質と現象との統一といっていいと思います。あるいは内的なものと外的なものとの統一です。この内的なものが本質で、外的なものが現象と考えれば、同じことをいっているということが分かると思います。直接的な統一とは、一つに結びついて一個のものとして存在するということです。まさに現実性というのは対立物の同一が直接性として定立された姿なのです。現実的なものは、本質のあらわれなのですが、本質が内側にあるのではなくて、外側にあらわれたかぎりにおいて、それは現実的なんだといっております。

 前には直接的なものの形式としておよび現存在があらわれた。は一般に無反省の直接態であり、他者への移行である。現存在は有と反省との直接的な統一、したがって現象であって、根拠から出て根拠へ帰る。現実的なものは、この統一の定立されたものであり、自己と同一となった相関である。したがってそれはもはや移行することなく、その外面性はその顕在態である。それは外面性のうちで自分自身に反省しており、その定有は自分自身の顕現であって、他のもののそれではない。

 一個のものとして存在するということを「直接的なもの」といい、それを今までどんなレベルでみてきたかということを振り返っているわけです。まず最初は、一個のものを、有というレベルでみてきました。有というのは、無反省の直接態です。つまり何物にも媒介されない直接態としての直接的なものなのです。ただそのものはそのものとして存在するとみるレベルが有の問題なのです。
 それから現存在は有と反省との直接的な統一です。したがって媒介された有です。現存在というのは根拠によって媒介されたものですから、媒介されて直接態となってあらわれでたものが現存在なのです。それに対して現実性というのは、本質と現象との統一が定立された直接的なものです。だから有は無媒介、現存在は媒介、そして現実性は媒介を止揚した統一という関係として直接的なものをみているのです。同じ一個のものをみるにしてもこうやって、だんだん認識が深まってきています。
 現実的なものは、本質と現象の統一が定立されたものとして、必然的にあらわれでたものですから、もはや移行することなく、その外面性はその顕在態であるといっています。現実的なものは必然的なものとしてあらわれ出るのであって、それは他に移行するのではないのです。それは自分自身が外にあらわれ出たものですから、その定有は自分自身の顕現であって、他のもののそれではないのです。だから理性的なものが発現したのが現実なのです。
 補遺にうつります。ここが私はヘーゲル哲学の真髄にあたるところだと思います。つまりヘーゲルという人は、自ら絶対的観念論であると自称したわけですが、それは、主体的に理想を実現する哲学を追求するという意味で絶対的観念論であると称したのです。彼は、理想と現実の統一、どんな理想を打ち立てれば、それは現実となる必然性をもつのかということを考えるのです。現実となる必然性をもつような理想を探求したのです。

理想と現実の統一

 一四二節補遺 人々は、普通、よく考えもしないで、現実と思想(正確に言えば、理念)とを対立させており、かくしてわれわれは人々がよく次のように言うのを聞く。すなわち、或る思想が正しく真理であることに異論はないが、しかしそうしたものは現実のうちには存在しない、あるいは、現実のうちにそれを実現することはできない、と。しかしこういう言い方をする人は、それによって、かれらが思想の本性をも現実の本性をも正しく把握していないことを証明しているのである。

 理想と現実とを切りはなして議論する考え方は、現実とは何か、理想とは何かの両方とも分かっていない連中のやることだといっています。切り離して考えてはいけないのです。理想と現実は統一して考えなければいけません。対立物の同一としてとらえなければならないというのが、ヘーゲルの立場です。

 このような言い方においては、思想は主観的表象、計画、意図などと同じ意味に理解され、現実は外的な、感覚的な現存在と同じ意味に理解されている。カテゴリーおよびその表示を人々がそうまで厳密に考えていない日常生活においては、そうしたことも許されるであろう。例えば、或る税制計画(日常的には、このようなものもイデーと呼ばれている)が、それ自身としては全くすぐれていて目的にかなっているが、いわゆる現実のうちには見出されず、また与えられた諸事情のもとでは実行できないというようなことも、もちろんおこりうるであろう。

 理想と現実を切り離す俗な考え方からすると、理想あるいは思想というのは単に内的な頭のなかで描かれた計画にすぎないとみるのです。そして現実というのは、単に外的な、内と関係ない、人間の主観とは全く無関係な感覚的な現存在と同じ意味に理解されている。両者を全く別なものとしてとらえるのも日常生活ならそれでもいいだろうというのです。日常的にはこのようなものでもイデーと呼ばれているのですが、このイデーという語に注目しておいて下さい。プラトンのイデア論のイデアと同じ意味です。これから理念とかイデーとかイデアとかいう言葉が出てきますが、それらはみんな同じ言葉だということで理解しておいて下さい。
 日常的には税制計画のような単なる計画にとどまっていて、現実にはなりえないようなものまでイデーと呼ばれているのです。しかし、それは違うのではないかとヘーゲルはいいたいわけです。そんなものまでイデーと呼ぶのはひどすぎる、単なる主観的な計画にすぎないようなものはイデーではないといいたいのです。

 しかし抽象的な悟性が理念と現実という二つの規定をとらえて、その区別を動かすことのできない対立にまで高め、われわれはこの現実の世界においては理念を頭から作り出さねばならないなどと言う場合には、われわれはこのような考え方を学問および健全な理性の名において決定的にしりぞけなければならない。

 ここでは二つのことをいっています。つまり理念と現実は、対立するカテゴリーなのだけれども、理念は理念、現実は現実という媒介のない対立においてとらえてはならないのであって、やはり対立物の同一としてとらえなければならないのだということが一つです。もう一つは、この現実の世界において理念を頭から作り出さなければならないという考え方を決定的にしりぞけなければならないということです。これはヘーゲルの痛烈な観念論批判です。理念というのは自然や社会を変革するときに、常に念頭におかなければならないカテゴリーです。自然や社会の変革を考えるとき、理想や理念はその目標として設定されるものですから、そういう意味では、自然や社会を変革することと理念をかかげることとは不可分の関係にあるわけです。
 こういう場合の理念は、現実の世界から切りはなして頭のなかで作り出されるのだという考え方を決定的にしりぞけなければなりません。この点にヘーゲルの唯物論的特徴があるのです。

 なぜなら、一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもないからである。

 まず、理念は単にわれわれの頭のなかの産物ではないということをいっています。これが非常に大事なことです。理念というのは、客観のなかから科学的に導き出されるものであってこそ、生命力をもち、絶対的に活動的で現実になる力をもっているのです。
 『法の哲学』の序文のなかで「理性的なものは現実的である」というのはまさにそういうことなのです。理性的なものというのはこの場合、理念と同じことです。理念は現実的であるとは、理念は現実になる力をもっているということです。現実に自然や社会を変革する力をもつような理念をヘーゲルは探求したわけです。ここにヘーゲルの変革の立場がきわめて鮮明にあらわれていると思います。その次の「他方現実は……不合理でもない」というところですが、単なる現状肯定の言葉としてみるべきものではないのであって『法の哲学』の序文にいう「現実的なものは理性的である」に相当する言葉です。つまり現実に存在する個々のものは、そういうものとして存在するだけの理由があって存在しているのです。そういう意味の必然性をもっているのです。
 だから、自民党政治が今なお存在するのは、存在するだけの理由があるからなのです。何も存在する必然性がなくて自民党政治が現在の日本に存在しているのではありません。戦後の日本において、日本独占資本がアメリカに育てられてきたというところに、自民党が対米従属を基本とした支配政党として、日本を支配する必然性があるわけです。そこをみないで、現実を単にダメだダメだというだけでは、それこそ本当にダメなのです。
 現実はけっして無思想なものではないのです。たしかに自民党政治は悪いものですが、そこには悪いなりの存在理由をもっています。この世に存在するもので、存在する理由なくして存在しているものは何一つありません。しかし、問題なのはこの世に存在しているものが「真にあるべき姿」として存在しているのかどうかというこ、となのです。これこそを問題にしなくてはならないものだということをヘーゲルはいっています。
 その続きが追補として一二〇ページに書いてありますので、そこを読みましょう。

 追補 現実性は、たんなる現象とちがって、まず第一に内的なものと外的なものとの統一であるから、他のものとして理性に対峙しているのではなく、むしろ現実的なものはまったく理性的なものであり、理性的でないものは、まさにそのためにまた現実的なものと見てはならないものである。

 現実的なものはそれなりの存在する理由をもっているのであって、存在すべき理由をもっていないものは泡のように消えて行き、このようなものを現実性という必要はないのです。
 ここから実は、非常に大事な文章が出てくるのです。ヘーゲルが観念論者だといわれる根拠にもなっているのです。
 プラトンが観念論の創始者といわれている理由は、イデア論にあります。ヘーゲルがこのプラトンのイデア論やそれを批判したアリストテレスのイデア論をどのように引き継いで自分の哲学に発展させていったのかという非常に大事なことが出ています。このことは次回にお話いたします。

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