『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第四講 本質論・現実性 Ⅰ


 今日は、一四二節補遺からです。理想と現実の関係を扱っていますが、実はここのところがヘーゲル哲学の核心部分ではないかと私はみているのです。ヘーゲルは理想と現実の統一を考えたはじめての哲学者ではないかと思います。
 補遺のなかでは「理想は理想、現実は現実」とか「それは理想論であって現実はそんなに甘くはないのだ」などという考え方を、理想と現実を対立させてとらえるものとして批判しています。つまり、理想と現実は統一においてとらえなければならない。現実となる力をもつ理想とは何かを探求する必要があるのだと述べているのです。

理念・イデー
 
 ここでは理想と理念という言葉を同じように使っています。この理念は決して頭のなかで勝手に考え出したりするようなものではありません。理念は「絶対的に活動的なものであり現実的なもの」だといいます。現実となる力をもっているところに理念の理念たるゆえんがあるのです。この理念は、イデー(Idee)というドイツ語なのですが、その語源はギリシャ語のイデアであり、この言葉を哲学的に定着させたのはプラトンです。ヘーゲルはプラトンのイデア論を受け継ぎ発展させて、自らの哲学をうち立てたのです。ヘーゲルは自分の哲学を絶対的観念論と自称していますが、ヘーゲルは観念性を、真にあるべき姿という意味で使っています。だから絶対的観念論であるヘーゲルの哲学は、絶対的な真にあるべき姿、絶対的な理念を追究する哲学なのだということです。頭のなかで勝手に成り立つような理念ではなくて、絶対的に現実となるような力をもった理念・イデアを追究する哲学なのだという意味で絶対的観念論といっているのだと思います。
 だからヘーゲル論理学は絶対的理念というカテゴリーで終わっています。この客観世界の表面的認識である有からはじまって、その客観世界の本質を認識し、さらにそれを超えて真にあるべき姿を認識し、その真にあるべき姿は現実となる力をもっており、現実となる。そういう哲学をヘーゲルは探究したのだと思います。
 一四二節の補遺は六節をふまえるとよく理解できます。六節は哲学の内容は現実であるということが書いてあります。一四二節でいっている現実性の現実です。『法の哲学』序文には「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という命題ありますが、六節の終わりのところでは「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」と述べられています。
 理念とイデアとは同じだといいましたが、ヘーゲルがプラトンに学んだイデアとは何だったのかをみておく必要があります。
 プラトンはこういうふうに考えます。例えば、美とは何か、美しいとは何か。この花は美しいという場合の美しいとは、何を判断の基準にしているのでしょうか。その基準になるものがなければなりません。その基準に照らしてこの花は美しい、あの花は美しくないと判断するのです。この世の中のすべての美しいもののなかの、最も美しいもの、あらゆる美の基準になるもの、つまり美そのものを、プラトンは「美のイデア」と呼んだのです。
 プラトンがいっているイデアを、ヘーゲルは概念という言葉でとらえています。そのものの本当にあるべき姿が概念です。
 例えば、バラのコンテストの場合には、このバラとあのバラとを比べてこのバラの方が美しいといい、このようにしてコンテストのなかで一番美しいバラを決めます。しかし一番美しいバラを選べるのは、美の基準というものがあるからです。その美の基準に照らして、このバラが一番美しいというのです。それにもっとも近いものとして、みんなの認識が一致し、一位に選ばれるのです。それが「美のイデア」であり美そのものです。したがってイデアとは規範・基準という意味をもちます。基準からの近さで美しさが区別されるのです。美の基準になる最も美しいものをイデアと考えるのです。だからあらゆるものにイデアがあるとプラトンは考えるわけです。
 例えば、正方形のイデアというのは、四辺の長さが全部同じで、四つの角が九〇度になったものです。現実に紙の上に描く正方形は、どれも完全な正方形ではありえません。しかし描かれたものをみて正方形だと思うのは、正方形のイデアを頭のなかにもっていて、それに近いものとして紙のうえに描かれているからそれを正方形だと認識するのです。完全な正方形が、プラトンのいう「正方形のイデア」です。
 そのプラトンのイデアをとらえて、後の人は、プラトンはイデアを現実に存在する個々のものから切りはなされた頭のなかで考えた普遍的なものだと理解したのです。つまりイデアはこの世の中には存在しないのに、プラトンは、そのイデアこそ世界の根元であり、そのイデアが原型としてあって、ちょうど鋳型にはめられたように客観世界の個物が生まれると後の人はとらえて、プラトンのイデア論を客観的観念論であると批判したのです。このようにして観念論の創始者にプラトンはなりました。つまりイデアこそ世界の根元であり、それは人間の頭のなかで考えられたものであり、客観世界に存在するものはそのイデアの影である(イデアの似姿である)と理解したのです。
 アリストテレスは『形而上学』のなかでこのプラトンのイデア論を批判しています。アリストテレスはイデアは認めましたが、それは個物のなかに存在する普遍であって、個々のものから切りはなされた普遍ではないととらえました。ここにアリストテレスのイデア論の唯物性があらわれているとされています。後の人はこのようにみているのです。つまり、プラトンは客観的観念論の創始者であり、アリストテレスは唯物論者であるというのです。哲学史の本にもそのように書かれているものが多くあります。しかし、ヘーゲルはこれとはちがった理解をしています。
 ㊤二六四~五ページを開いて下さい。ヘーゲルは生涯をつうじて一〇回もの哲学史の講義を行いました。その哲学史をつうじてヘーゲルが哲学の歴史をどうとらえたかということがでています。後の哲学は先の哲学を批判する形で生まれてくるのです。ヘーゲル哲学もけっして突然生まれたわけではなくて、スピノザやカント哲学の批判のうえに生まれてきたのです。
 哲学史を繰り返し講義するなかで、ヘーゲルは二五〇〇年の哲学の歴史をすべて自分の手のひらのうえにのせ、その批判のうえに自分の新しい哲学を作りあげていったのです。

 したがって哲学の歴史は、その本質的な内容からみれば、過ぎ去ったものをではなく、永遠で絶対に現存的なものを取扱うのであり、その成果は人間の精神が犯したさまざまの過ちの陳列場ではなく、神々の姿のまつられてあるパンテオンに比すべきものである。そしてこれらの神々の姿は、弁証法的発展をなして次々とあらわれる理念の諸段階である(㊤二六五ページ)。

 この理念はイデアと同じ意味ですから、ヘーゲルは哲学の歴史のなかで最も重要な問題はイデア論がどのように発展してきたのかをとらえることにあると考えました。つまり、理想と現実の統一を実現するという観点から人間の理想とはどうあらねばならないのか、ということにとりわけ注目しているのです。これまでの哲学者は理念をどのように取り扱ってきたのか、自分の哲学はそのうえに立ってどのように理念を規定しようとしているのか、ヘーゲルは明らかにしています。

 例えばプラトンが、そしてはるかに深い形でアリストテレスが与えているような理念の形態は、以上述べたようなものとは比較にならないほど想い起す価値を持っている。というのは、それをわれわれの思想のうちに取り入れて明かにするという仕事は、単にそれを理解することを意味するにとどまらず、哲学そのものの進歩をも意味するからである(㊤四九ページ)。

 つまりヘーゲルはプラトンとアリストテレスのイデア論のうえに立って自分の理念の形態を述べていて、それこそ先人から学ぶべき最大のものであり、かつイデア論のなかに自分の哲学の進歩があるといっているのです。そういうことを念頭において今日の講義を聞いていただければと思います。

プラトンとアリストテレスの「イデア論」の批判的継承
 
 ㊦八三ページには「教養のある人々」も理念と現実とは一致するものとみているという言い方をしています。例えば、真の詩人とか真の政治家とは何かといいますと、理念を現実化する力をもつような人のことです。理念と現実を統一できる人のことを真の詩人・真の政治家というのです。続いて、

 一四二節補遺(つづき) またここに述べたような現実の卑俗な解釈、現実を手でつかめるようなものおよび直接に知覚できるものと混同することのうちに、プラトンの哲学とアリストテレスの哲学との関係について広く行われている偏見の根拠があるのである。この偏見によれば、プラトンとアリストテレスとの相違は、前者がイデアを、しかもただイデアをのみ真実なものと考えるに反して、アリストテレスはイデアを排して現実的なものを固守し、したがって経験論の創始者および旗頭と考えられなければならないところにあるとされている。

 これがヘーゲルに至るまでのプラトンのイデアとアリストテレスのイデアの違いの通俗的な説明であったといっているのです。つまりプラトンのイデアは、客観世界に存在するものから引きはなされた観念的なイデアだけが真実なものだということだから、プラトンは観念論者であり、これに対してアリストテレスは、イデアというものを現実的なもののなかに見出すから、経験論の創始者、もっといえば唯物論の創始者であると理解されていたのです。

 しかし、ヘーゲルは自分の見解はそうではないといいます。ところが、現実がアリストテレスの哲学の原理をなしているにはちがいないが、しかしそれは直接的に現存しているものというような卑俗な現実ではなく、現実性としてのイデアなのである。

 アリストテレスは、この世の中に存在するものをそのまま現実といっているのではなくて、現実性としてのイデアだといっているのです。現実性としてのイデアとは、言いかえれば、現実となる力となったイデアのことです。こういうふうにとらえて、まずアリストテレスの現実性というのは自分のいっている現実性と同じものだと述べた後――ここからが大事なのですが――プラトンに対するアリストテレスの反駁の意味を次のようにヘーゲルは述べています。

 プラトンにたいするアリストテレスの反駁の主旨はこうである。すなわち、アリストテレスはプラトンのイデアを単なるデュナミスと呼び、これにたいしてイデアが――これが唯一の真実なものであることは二人とも同じく認めているのである――本質的にエネルゲイアであること、

 『哲学史』の中でヘーゲルはさらに詳しく述べています。ヘーゲルはプラトンのイデアを、個別から(客観世界に存在するものから)切りはなされた観念的なものとしてではなくて、客観世界における真実在としてとらえているのです。ヘーゲルはこの点ではプラトンとアリストテレスの違いはないというのです。アリストテレスもプラトンも、イデアというものを客観世界のなかにおける、真実在としての普遍性としてとらえているのは共通だと理解したのです。では、どこが違うのかといえば、プラトンのイデアは単なるデュナミスであるのに対して、アリストテレスのイデアは本質的にエネルゲイアであるといっているのです。このデュナミス、エネルゲイアというのはアリストテレスの独特の用語です。デュナミスは可能態、エネルゲイアの方は現実態と訳されています。プラトンのイデアは客観世界における真なるものではあるけれども、それが現実となる力をもたないで単なる可能性の段階として内側にとどまっているととらえているのに対して、アリストテレスのイデアは現実となる力をもったイデアなのだというところに違いを求めているのです。

 言いかえれば、端的に外にあらわれている内的なものであること、したがって内的なものと外的なものとの統一、あるいは本節で私が強調したような意味での現実性であることを主張するのである。

 プラトンもアリストテレスもイデアを論じ、イデアは客観における真実在であり、主観のなかに存在するものではなくて、客観世界に存在するものだととらえた点までは同一なのです。プラトンのイデアは単なる可能性として内側にとどまったままのものとしてとらえられているのに対して、アリストテレスのイデアは内側にあるものが外側にあらわれ出て現実となる力をもっているととらえているところに違いがあるのです。このアリストテレスのエネルゲイアに学んで、ヘーゲルは現実性というカテゴリーをうち立てたのです。
 こうしてみてくると「理性的なものは現実的である」ということの意味がはっきりします。理性的なものとは理念のことです。理念は現実となる力をもっていて、現実となるのです。

可能性、偶然性、必然性

 一四三節以下は、現実性をまず可能性・偶然性・必然性から説き起こして、最後に必然性としての現実性を展開しています。それは、いずれも内側にあるものが外側にあらわれ出ることをみているのです。可能性・偶然性・必然性という大きく三つのカテゴリーを使用しながら、現実性(必然性)の問題をみていこうというのです。

 一四三節 現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(一四一節)。

 この現実性というのは本質と現象、内と外という区別を含んでいて、現実はそれを展開したものです。可能性という内にあったものが外にあらわれ出て現実となった関係が現実性です。これが(イ)可能性の問題です。一四四節の(ロ)は偶然性です。一四五節は可能性と偶然性の関係を論じて、一四七節(ハ)は必然性を論じています。こういう関係になります(イ)の可能性からみていきましょう。。

 (イ)同一性一般としては現実性はまず可能性(Möglichkeit) 、すなわち現実の具体的な統一に対峙するもとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。

 現実性というのは、まず内と外の同一、本質と現象の同一なのです。その現実性のなかのモメントをみると、内側にあるものは可能性としてとらえることができます。この自己内反省というのは、内側にあるものという意味です。まだ外にはあらわれていない、内側にあるにすぎないもの、それが可能性です。可能性は「現実の具体的な統一に対峙する」とありますが「現実の具体的な統一」とは、内と外の統一という意味で、まだその内と外の統一にまで至らない段階だということです。
 「非本質的な本質性」とは、可能性は内側にあるという意味では本質といってもよいかもしれないけれども、さしあたって非本質的なものなのです。可能性というのは、確かに内にあるものではあるけれども、非本質的なものとして内側にあるものなのだということです。
 「可能性は現実性にとって本質的なものであるが」といっているのは、可能性が現実性に転化するという意味です。だから可能性がなければ現実性もありえないわけです。しかし、本質的ではあっても、いわば、単なる可能性なのです。抽象的可能性といってもいいかもしれません。可能性とは、単にそういうことも考えられるという程度のものなのだというのです。

 カントは「これらの規定は客観としての概念を少しも増すものではなく、ただ認識能力への関係を表現するにすぎない」と言って、可能性と現実性と必然とを様態(Modalität)とみたが、カントがそういうことをなしえたのは、おそらく可能性の規定によってである。実際可能性は自己反省という空虚な抽象であり、前に内的なものと呼ばれていたものであるが、ただそれがここでは、揚棄された、単に定立されているにすぎぬ、外在的な、内的なものとして規定されているのである。したがってそれは単なる様態、不十分な抽象物、もっと具体的に言えば、単に主観に属するにすぎないものとして定立されてもいる。

 カントは、可能性、現実性、必然性を三つ合わせて様態(Modalität )と名づけました。「これらの規定は客観としての概念を少しも増すものではなく、ただ認識能力への関係を表現するにすぎない」といって、こんなものはあってもなくてもたいして役に立たないものだと述べていますが、それは可能性を念頭においていっているんだろうというのです。実際、可能性というのは単に内側にある空虚な抽象であって、前に内的なものと呼ばれていたものなのです。「ただそれがここでは、揚棄された単に定立されているにすぎぬ、外在的な、内的なものとして規定されているのである」とは、可能性は内側にある抽象的なものですが、場合によっては現実性になるものなのだということです。要するに可能であるというのは、単にそういうことも考えられるという程度のものなのです。それは結局、何も意味しないということをいいたいわけです。

 現実性と必然性とはこれに反して、他のものにたいする様態であるどころか、まさにその正反対のものであり、単に他によって定立されているのではなく、自己のうちで完結した具体的なものとして定立されている。

 可能性は、内側にあってそれが現実化するかどうかは他のものに依存しているのですが、これに対して現実性あるいは必然性は自分自身の力で外にあらわれてきたものですから「自己のうちで完結した具体的なものとして定立されている」といっているわけです。

 可能性はまず、現実的なものとしての具体的なものにたいして、自己同一という単なる形式であるから、可能性の基準はただ、或ものが自己矛盾を含まないということにすぎない。かくしてすべてものは可能である。というのは、われわれは、抽象によって、どんな内容にでもこうした同一性を与えることができるからである。しかしすべてものは同様に不可能でもある。というのは、あらゆる内容は具体的なものであるから、われわれはどんな内容においても、その規定性を特定の対立、したがって矛盾と考えることができるからである。――だからこのような可能、不可能の議論ほど空虚なものはない。

 どんな内容でも可能性は考えることができるし、抽象的な可能性は、言いかえれば抽象的な不可能性でもあるのです。だからそういう空虚なものは、哲学においてはあまり論じる意味はないといっているのです。この「自己同一という単なる形式である」といっているのは、可能だというのは自己矛盾を含まないということです。
 例えば、隣に住んでる人が一〇〇歳だとした場合に、ある人が「私も同じ人間だ。だから私も一〇〇歳まで生きる可能性がある」といったとします。同じ人間だからあの人が一〇〇才なら、私も一〇〇才まで生きる可能性があると考えることはできますが、こういうのは単なる抽象的可能性です。同じ人間なのだから、そういっても矛盾がないというだけの話です。自己同一という単なる形式とか、自己矛盾を含まないというのは「そんなこ、とが論理的に起こるわけがない、というのではない」ということであり、それが抽象的可能性だということです。

 以上から歴史家もまた、それ自身としてすでに真実でないことが明かになったこのカテゴリーを用うべきではないことがわかるであろう。しかし空虚な悟性の慧眼というものは、可能なこと、しかも実に多くの可能性を、役にも立たないのに、考え出して得々としているものである。

 役にも立たないこんなカテゴリーを哲学は使ってはいけないのです。それなのに得々として、可能性があるとか、ないとかということで議論する人は、結構多いでしょう。しかしそんなものはいくら議論しても実りがないのです。

 一四三節補遺 表象にとってはまず、可能性は豊かな広い規定であり、現実は、これに反して、貧しく狭い規定であるように思われる。かくして人々は、あらゆることが可能であるが、しかし可能であるすべてのことが、必ずしも現実的でない、と言う。しかし実際には、すなわち、思想から言えば、現実性の方がより包括的なものである。なぜなら、現実性は具体的な思想であるから、可能性を抽象的モメントとしてそのうちに含んでいるからである。

 可能性と現実性を比べると、可能性の方が豊かで広い規定であると思われがちです。例えば、少年時代というのは可能性に富んでいるが、大人になると可能性が非常に少なくなってくるといいます。しかし、そうではありません。可能性よりもむしろ現実性の方が包括的なのです。というのも、現実というのは可能性を含んだ、より広いカテゴリーだからです。現実性のなかに可能性が含まれているのです。
 A君がスキーでオリンピックの選手になったとします。それはA君が小さいときから、長野の方で子供の頃からスキーをはいて滑って育ったから、オリンピック選手になることが現実になってくるわけです。沖縄で生まれ育って、大きくなっていたら決してスキーの選手にはなれなかったでしょう。沖縄で大きくなる人が「わたしはスキーの選手になる可能性があるんだ」といってみても、それは現実にはならない可能性ですから、あまり意味がありません。むしろ現実性のなかにこそ可能性が含まれているのです。そういう意味では、現実性の方が広いのです。

 可能とは思惟しうることにある、と一般に言われている。しかしこの場合思惟とは、ある内容を抽象的同一性の形式のうちで把握することとのみ解されている。しかしあらゆる内容がこの形式へもたらされうるし、しかもそうするにはただ、ある内容をそれがそのうちに立っている諸関係から切りはなしさえすればいいのであるから、この上もなく馬鹿らしく不合理なことでも可能と考えることができる。

 可能であるということは「そういうことも考えられる」というだけのことなのです。この場合、考えられるというのは「ある内容を抽象的同一性の形式のうちで把握すること」です。、
 たとえば、空中にあるという点では石と月とは同一だから、石が落ちるから月も落ちる可能性があるというのが、抽象的同一性の形式のうちで把握するということです。「トルコの皇帝が法王になることも可能である」というのも、法王は人間である、トルコの皇帝も人間である、人間として同一であるから、イスラム教のトルコの皇帝もキリスト教の法王になる可能性があるということです。
 だから可能性とは、ある内容をそれがたっている諸関係から切りはなして、抽象的同一性の形式のうちで把握するということです。そういう諸関係を無視して抽象的同一性があるから「可能性がある」などという考えは、議論してもしかたがないのです。

 哲学の任務は、こうした形式の無価値と無内容を示すことにある。或る事柄が可能であるか、不可能であるかは、その内容、すなわち、現実の諸モメントの総体による。

 この現実の諸モメントの総体との関係のなかで可能か不可能かを考察することが大事なのです。そうした条件を抜きに可能か不可能かなどということを論議するのは無価値なのです。
 次に「現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる」と述べておりますが、これはエンゲルスが『フォイエルバッハ論』の冒頭で『法の哲学』序文の「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という文章の解説として「現実性は展開されて必然性となる」というこの文章を引用しております。だから、現実というものがもっと深い認識にいたると、必然性まで到達するのです。これこそ哲学の対象にしなくてはいけないのだといっています。
 一四四節の偶然性にいきます。内にある単なる可能性がたまたま外側にあらわれてきた、現実になったときに、それが偶然性なのです。それを「自己内反省としての可能性から区別された現実性」といっています。自己内反省とは内にある可能性ということです。内にある単なる可能性がたまたま外にあらわれて現実性になったとき、それは非本質的な現実性であり、すなわち偶然性であるといいます。だから「このように単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なもの」なのです。

 一四五節 可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。

 可能性というのは、現実性のなかの内的なモメントです。それが外にあらわれたものが偶然性です。補遺では、偶然性とは「その存在の根拠を自分自身のうちにではなく、他のもののうちに持つものである」といっています。エンゲルスは偶然性の例として『自然の弁証法』のなかで、エンドウの豆が、一つのさやのなかに四つ入っているか、五つ入っているのかをあげています。豆が四つになるか、五つになるかは、やはり何かの要因があるわけです。しかし、それは本質的な要素がもっている力でそうなるわけではないのです。それ以外の何らかの要因が働いて四つになったり五つになったりするという意味では、偶然的なものはその存在の根拠を自分自身のなかにもたず、他のものに依存しているのです。㊦九〇ページに「根拠を、自分自身のうちにではなく、他のもののうちにもっているもの」これが偶然性だと述べています。
 そして偶然性の認識からすすんで、必然性の認識にまで至ることが認識の任務だということが次に述べられています。その次がちょっと面白いところです。ヘーゲルは、自然の豊かさを論じるのは、偶然性を不当に持ち上げるものだと言っています。自然の豊かさというのは、偶然的なものによって生じているのです。必然性しかなければ、単一の法則によって支配され、自然は単調になってしまいます。例えば、ある森に生えている樹が常緑樹であったり、落葉樹であったり、落葉樹でも、カシであったり、クヌギであったり、それらの組み合わせでいろんな林や森の姿があります。それが自然の豊かさになっているのです。豊かさというのは、ある意味では偶然的なものに支えられているわけです。ヘーゲルがいいたいのは、哲学の任務は偶然性のなかに必然性を見い出すことにあるわけで、必然性を論議しないような偶然性はあまり意味がないということなのです。
 ですから「このような現象に驚歎するのは、非常に抽象的な態度であって、われわれはそこからさらに自然の内的な調和と法則性とへの洞察に進まなければならないのである」(㊦九〇ページ)といっています。この辺がいかにもヘーゲルらしいところです。

意志の自由と恣意

 一四五節補遺 次に特に重要なのは、意志にかんする偶然性を正当に評価することである。人々はしばしば意志の自由という言葉を単なる恣意、すなわち偶然性の形式のうちにある意志と解している。確かに恣意は、さまざまの決定をする能力であるから、その概念上自由なものである意志の本質的モメントではあるが、しかしそれはけっして自由そのものではなく、形式的な自由にすぎない。恣意を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる本当に自由な意志は、その内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識していると同時に、それが自分自身の内容であることをも知っている。これに反して、恣意の段階に立ちどまっている意志は、内容からすれば真実で正しいものを選ぶ場合でさえ、気が向いたらまた他のものを選んだかもしれないという軽薄さをもっている。

 意志の自由というのは、単なる恣意ではありません。単なる恣意、いわば偶然性の形式のうちにある意志というのは、形式的な自由にすぎないものです。きらきら光るもののなかから、ガラスを選ぶかダイヤモンドを選ぶかは、ガラスとダイヤモンドを区別する方法を知らなければ、どちらを選ぶかは単なる恣意の問題です。ガラスもダイヤモンドも同じように輝いているけれども、ダイヤモンドはガラスよりも硬いのだ、金槌でたたいたぐらいでは割れないということを認識していないとダイヤモンドを選ぶことはできないのです。このダイヤモンドとガラスの違いを認識してダイヤモンドを選ぶところに、本当の意味の意志の自由があるといっているわけです。
 「本当に自由な意志はその内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識していると同時に、それが自分自身の内容であることも知っている」というのは、そういうことなのです。それがダイヤモンドなんだと確実に意識して選ぶところに本当に自由な意志があるのです。これに反して、恣意の段階にたちどまっている意志は、たまたまダイヤモンドを選んだとしても、気が向いたらガラスを選んでいたかもしれないという軽薄さをもっています。ここをもう少し展開すると、自由と必然の統一という、概念論において非常に大事なカテゴリーになってきます。
 ヘーゲルは、自由というものを、精神の自由を常に念頭において考えています。精神の自由とは、何なのか。客観の法則性からいかにして精神が自由でありうるのか。これがヘーゲルの課題なのです。結論的に言えば、客観に存在する法則性を無視したところに自由があるのではなく、それは単なる恣意にすぎないのであって、法則性を認識することによって生まれる自由こそ、本当の意味の精神の自由なのだといいたいのです。この点は概念論でまた出てきます。そこで形式的な自由は、単に主観的な自由にすぎないと批判をしています。
 次に、ヘーゲルは偶然性を、現実性の一つとして認めなければならないといっています。いわゆる決定論の批判です。決定論というのは、すべてが必然でうめられているから、すべてのものの運命はあらかじめ決まっているというものです。しかし、それは間違いです。未来というものは偶然性、可能性をもった、偶然性と必然性の統一としてあるのです。
 ㊦九二ページに「学問および特に哲学の任務が、偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識することにあるというのは、全く正しい」とあります。しかし、そのことは、偶然的なものをすべて除去しなければいけないと考えることではありません。偶然性を否定してしまうと、すべてが必然性によって貫かれて、きっちり固まってそれ以上動きようがないということですから「融通のきかぬペダンチズム」となるのです。、

必然性―条件

 一四六節から、必然性に入ります。必然性というのは抽象的な可能性ではありません。すべての条件が整ったときにそのものの必然性を発揮するのです。例えば、どうすれば人間長生きができるのか、いくつかの要素は解明されています。肉ばかり食べてはいけない、植物繊維を取らなくてはだめだとか、エネルギーを取りすぎても取らなすぎてもだめだとか、あまり環境の悪いところにいたらよくないとか、さまざまな条件があるのです。これらのすべての条件がそろったときに、長生きできる必然性が出てくるのです。必然性とは、それを生み出す条件が全部整ったときに必然性となるのです。ヘーゲルはその広義の条件をさらに細かく検討して、狭い意味の「条件」と「事柄」と「活動」という三つのものに分解します。この三つのものがそろったときに、必然性になるというのです。

 一四六節 現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは条件(Bedingung)である。

 「直接的な現実性」とは一つの可能性である現実性という意味です。偶然性とは内側にある可能性が外側にあらわれたものですから、現実性の一つです。偶然的なものは他のものの可能性になり、そういう意味でそれは条件だといっているのです。今の長生きの話でいいますと、たまたま田舎に生まれ育ったという偶然が、長生きができるという一つの条件になっているのだといえます。偶然的なものは最初にいっているような抽象的な可能性ではなくて、或るもの(定有)としての可能性であり、それは条件です。田舎に住んでいるというのは、一般的に何かが可能であるということではなくて、長生きするという点に関しての条件になっているのです。
 補遺にいきましょう。「直接的な現実性は真の現実性ではなく、自分のうちで分裂した、有限な現実性であり消耗されるということがその定めである」とありますが、これは労働生産物でいえば、原材料などを念頭において考えればいいでしょう。原材料は一つの労働生産物を生み出す条件であり、消耗されて労働生産物になるのです。
 「現実性のもう一つの側面は本質性である」。ここはちょっとわかりにくいのですが、条件にもにいろいろあります。消耗されて他のものに吸収されるだけの条件もあり、新しく生まれてくるもののなかにしっかり生き残っていく本質的な条件もあります。それが「現実性のもう一つの側面が本質性である」というところにかかわっているのです。「事柄」というふうにヘーゲルは呼んでいます。
 労働生産物の例でいうと、日本刀をつくるという場合、事柄すなわち本質的な条件は何かというと、これは鋼になります。日本刀はいろんな鋼を組み合わせるのですから鋼が本質的な条件=事柄になります。消耗される条件は、炭とか、ふいごとか、金槌などです。ふいごで炭をおこして鋼を溶かして金槌でたたいて日本刀をつくるのです。日本刀をつくるには鋼がなければなりません。その他のものは、ある意味では消耗されて鋼のなかに生かされて日本刀になるのです。
 ㊦九三ページの最後の行から読んでもらいましょう。

 一四六節補遺 かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである。

 「そこには全く別な姿をもった事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないからなんら別なものは生じない」というのは、先の例でいえば鋼のことです。鋼は日本刀になっても変わっていません。「自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである」という「他の現実」というのは鋼のことであり「自己を犠牲」にするというのは炭のことです。しかし炭が全くなくなったのかというとそうではなくて、日本刀のなかで生きているのです。だから「消耗される条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一する」という言い方をしているのだと思います。こうやって抽象的可能性から具体的可能性への前進を論じるのです。その具体的可能性の問題をヘーゲルは、実在的可能性または必然性ということで一四七節で述べております。

必然性―条件、事柄、活動

 一四七節 (ハ)現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性(Die reale Möglichkeit)一般である。

 可能性と現実性の統一が必然性です。先ほどのイデア論でいうとデュナミスからエネルゲイアへの転化のことです。抽象的可能性は現実的になるかならないかわからないものです。実在的可能性、具体的可能性は、現実に転化しうる力をもった可能性であり、必然性なのです。一四六節で述べたその条件、諸条件の全体が実在的可能性を生み出すということになっていきます。さらにそこから「事柄」と「活動」と「条件」というふうにまた分かれていくのです。まず「事柄(Sache)」です。先ほどの例でいえば鋼です。「活動」とは人間の労働力を加えることであって、焼けた鋼をたたくこと。それから「条件」というのが炭とか火のことです。活動によって事柄と条件が結びついたときに、必然性となってあらわれるということです。だから一四七節(ハ)では、実在的可能性こそが必然性なんだといっているのです。それを別な言葉でいうと、事柄と条件とが活動によって結びつけられたときに、実在的可能性は現実性になる力を持つのであり、そういう過程を全体として必然性としてとらえる、ということです。
 「あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである」(㊦九四ページ)とありますが、事柄も大きな意味では条件なのです。全部の条件がそろったときに、実在的可能性は現実性に転化することになります。事柄自身もその意味では条件の一つとなるのですが、それは本質的条件だということです。

 展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性(Notwendigkeit)である。

 必然性というのは、そのようにあってそれ以外のものにはなりえないということです。先ほどの例でいうと、鋼という事柄、それに火という条件を加えて溶かして、それを活動という実践によってたたきあげていったら、日本刀になる必然性をもっているのです。だけど三つの条件の一つでも欠けたら、もう必然性は失われます。鋼だけあっても溶かす火がなければ、いつまでも鋼にとどまっているし、鋼が火で溶かされてもそれをたたく人間の活動がなければ、日本刀という労働生産物になりえないのです。
 大きな意味で三つの条件がそろったときに、それが生まれるべき必然性となるのです。「内的なものと外的なものとが一つのものとなる」とか「一つの運動へ合一される」というのは、内側にあったものが外側にあらわれてこざるをえないような運動、実在的可能性が現実性にならざるをえないような運動が必然性なんだということです。

 必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。

 必然性というのは、実在的可能性が現実性になるという意味で「可能性と現実性との統一」といっているのです。必然性とは「非常に難解な概念である。というのは必然性はその実概念そのものなのである」といっております。必然性は、本質論の一番最後のカテゴリーです。必然性の問題を前提に本質論から概念論に移行するので、その概念を理解するうえでも必然性というものを理解しておかなくてはいけません。必然性とは簡単にいうと、これだけの条件がそろったら必ず現実性となるという、力をもつものなのです。しかし必然性の場合には現実となる条件がまだ外側から与えられているにすぎません。活動と事柄と条件という三つのバラバラなものがたまたま一つになるという外からの力が働かないと現実性になる必然性が生じないのです。
 概念は自分自身の力で自分を生み出していくという点が必然性と違います。
 必然性から概念に至るまでをつうじて貫いているものは何かというと、それはエネルゲイアだろうと思います。必然性は「その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければなかないからである」とあります。必然性というものはいくつかの条件が全部そろったときに、可能性が現実性に転化するのですが、その現実性になるにも他のものの力を借りなければならないということなのです。
 或ることが必然だといわれるときは、媒介されたものとしてとらえています。しかし単なる媒介に立ち止まっていれば、まだ必然性ではありません。すべてのものは直接性と媒介性の統一としてとらえられなければならないのだということを、本質論のなかで一貫してヘーゲルは述べています。
 本質論の基本的なカテゴリーは、反省関係、反省という言葉でした。反省というのはすべてのことを媒介においてとらえることです。本質論で論議したのは直接性と媒介性の統一ということでした。媒介としてものごとをとらえることは、まだ必然性をとらえることではありません。

 一四七節補遺 われわれが必然的なものに要求することは、これに反して、自分自身によってそれが現にあるところのものとしてあるということであり、したがって媒介されているとはいえ、同時に媒介を揚棄されたものとして自己のうちに含むということである。

 これが自己原因、自己産出、自己発展ということなのです。単なる外からの媒介ではダメなのです。媒介を揚棄して自分のうちに含むというのは、自分自身が媒介の原因になっているということであって、これは自己媒介と同じ意味です。
 「したがってわれわれは必然的なものについて『それはある』と言う。すなわち、われわれは必然性を、他のものによって制約されない自己関係と考えているのである」というのは、そういうことなんです。他のものによって制約されない、つまり他のものに依存しなくても自分自身で自分自身を生み出していく、そういうものが本当の必然性なのであり、それは概念において完全に示されることになります。

必然は盲目

 必然は盲目であるとよく言われている。そして、必然の過程のうちにはまだ目的(Zweck)が顕在していないかぎり、それは正しい。必然の過程は、相互に全く無関係でなんら内的な連関をもたないようにみえる個々別々の諸事情の存在からはじまる。これらの事情は、直接的な現実であり、それは自己のうちで崩壊し、この否定から一つの新しい内容が出現する。

 必然は盲目ですが、目的は盲目ではないのです。盲目とは予見できないということです。必然というのは、事柄・条件・活動が結びつくのですけれども、いつどんな形で結びつくのかということはまったく予見しようがないのです。だから「必然の過程は相互に全く無関係でなんら内的な連関をもたないように見える個々別々の諸事情の存在からはじまる」とありますが、これは、条件・事柄・活動のことをいっています。それは本来バラバラなものです。それが一つのものに結びつくかどうかというのは、ある意味では偶然ですから予見しえないのです。どんな新しいものが生まれてくるのかみえてこないという意味でも盲目的なのです。あるいは事柄が別の条件と結びつくかもしれないのです。例えば、先ほどの話でいうと、鋼という事柄が火と結びつかなくて海水と結びつくと錆が出てきます。火と結びつくか海水と結びつくかは哲学的には偶然です。予見しがたいという意味では、必然というのは盲目なのです。どんな条件とどんな形で結びつくかによって、新しい誕生物も違った形であらわれてくるのです。

 人々は、かくかくの事情および条件から全く別の或るものが生じたと言い、このような必然性の過程を盲目と呼ぶ。これに反して、目的はあらかじめ意識されている内容であるから、目的活動は盲目ではなくて予見的である。

 必然性の過程は盲目だから、必然性という認識にとどまっていてはならず、概念にまで進まなくてはいけないのだとヘーゲルはいいたいのです。つまり必然性と目的とが結合したものが概念なのです。

 概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を揚棄されたものとして含んでおり、逆に必然性は即自的には概念である。必然性は、概念的に把握されないかぎりにおいてのみ、盲目なのである。

 「概念は必然性の真理」というのは、非常に大事なことなのです。認識の問題として必然性の認識よりも概念の認識の方がより真理に近いという意味です。「必然性は概念的に把握されていないかぎりにおいてのみ盲目なのである」というのは、目的と結びつかない必然性というのは盲目であるということです。必然と目的が結びついたとき、それはもはや必然性にとどまらず概念となって、より真理に近づくのだということです。

 必然という見地は、われわれの心情および態度にかんして、非常に重要な意義を持っている。われわれが出来事を必然とみるとき、このことは一見全く不自由な関係のようにみえる。古代の人々は、周知のように、必然を運命と考えていたが、近代の立場はこれに反して慰めの立場である。慰めとは一般に、われわれが自分の目的や利益を断念するとき、その代償がえられるだろうという見込みをもってそうすることである。運命は、これに反して、慰めのないものである。

 これは自由と必然の関係を述べているのです。簡単にいえば、必然に支配されるのは不自由であり、必然を支配するところに自由があるということをいっているのです。近代人は必然を不自由と感じますが、必然を運命として受けいれる古代人の立場では不自由と感じていないから、まだ古代人の立場の方が救われるという言い方をヘーゲルはしています。しかし、必然に支配されるのは古代人も近代人もそのかぎりでは同じなので、不自由といわざるをえないのです。ただそれを不自由と感じるか感じないかの違いがあるだけです。

 しかし主観性とは、事柄に対立している悪しき有限な主観性に過ぎないものではなく、その真の姿においては、事柄に内在しているものであり、こうした無限の主体性は、事柄そのものの真理である。

 事柄に内在する真にあるべき姿を無限に追求して行く主体性のなかに自由があるのだというのです。自由についてキリスト教は慰めの宗教であり、絶対の慰めの宗教であるといっています。これはキリスト教で
は、世界は神の摂理によって支配されていて、神はその摂理を支配する主体として自由なのです。だから神への信仰は、不自由をやむを得ないと受け止める慰めの立場ではなくて、絶対の慰めの立場なのです。神は必然を支配することによって自由なのですから、その神への信仰は絶対の慰めの立場なのです。
 つまりここでは、必然と自由とを媒介のない対立においてとらえるのではなくて、対立物の統一においてとらえようといいたいのです。

 人間が自分の自由を意識していれば、かれの身にふりかかる不幸もかれの魂の調和、かれの心の平和をかきみだすことはない。それゆえに、必然にかんする見方こそ、人間の満足と不満足を決定するものであり、したがって人間の運命そのものをも決定するものである。

 必然に支配されるのか、その必然を意識してそのうえに立つのか、このことによって満足と不満足が決定されるのです。ですから、必然のうえに立ってこそ人間は本当の意味での自由になれるのです。「運は自分で作るもの」というのが自由な人だといっています。自分の必然性(自分が必然的にこういうものとしてあること)を認識することによって、自由な人になりうるのです。

《質問と回答》

 形式的可能性としての恣意の自由の問題について『ヘーゲル論理学入門』では「形式的自由についてのこのヘーゲルの見解は、一面においてはきわめて正しいものですが、他面ではそれを過小評価するものです(九八ペ」ージ)と述べられていますが、どういう点が過小評価なのかという質問がありました。
 『入門』でいわんとしているのは、形式的な自由というのも実は意志の自由として必要なものであり、それが思想言論の自由につながっているから過小評価してはならないということです。
 しかし、私はそういう言い方には少し問題があると思います。テキストをみますとヘーゲルは本来意志というのは自由なものだということを当然の前提にしています。これはテキストに「確かに恣意は、さまざまの決定をする能力であるから、その概念上自由なものである意志の本質的モメントではある」(㊦九〇ページ)と述べています。意志は本来自由なものであるという前提に立ちながらも、それまで自由意志論か決定論か、自由か必然かという関係で議論されてきた問題を、その対立をのりこえた、自由と必然の統一として主張したのです。
 自由意志論というのは、意志は何ものにも拘束されず、自分で自分の行為を決定しうるというものです。これに対して決定論は人間の意志は必然性によって決定されているというとらえ方です。この二つの論理をのりこえる必要があるというのがヘーゲルの立場です。つまり自由と必然を媒介のない対立においてとらえる見解を批判して、自由と必然を統一においてとらえようとするのですから、思想信条の自由の問題と次元が違うのではないかと思うのです。ヘーゲルは、意志の自由を意志の本質的モメントであるということは理解しながらも、そこにとどまらないという立場ですから『入門』のような見解には少し疑問があります。

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