『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第六講 本質論・現実性、概念論 Ⅲ

本質論から概念論への移行

 今日は、一五八節からです。ここは本質論から概念論への移行に関する節です。
 ここで、本質論と概念論との関係を少し概括的にお話しいたします。本質論のなかの一番のキーワードは、「反省」です。反省というのは言いかえれば、対立するものを媒介においてとらえることです。本質論ではもっぱらこの媒介をやってきました。同時にそこでは、直接性と媒介性の統一という言葉がでてきました。例えば、同一性の問題に関して「本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合」(㊦一七ページ)とあります。これに対して完全な結合というのは概念のことだと話しました。同一性の問題を論じているなかで「同一というのは区別を含んだ同一だ」(㊦一九ページ)と述べたあと、この具体的な同一性というのは「まず根拠でありより高い真理においては概念である」(同)という言葉が出てきます。根拠というのは根拠づけられたものを生み出します。生み出してそれと同一になるわけです。同様に概念というのは、それより高い意味において根拠であるという言葉がここにでています。さらに「本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性である」(㊦二一ページ)と述べています。同一性という意味は、直接的に存在するものは、観念的な真の姿のあらわれとして存在するということです。真にあるべき姿という観念性が、直接的な現実となってあらわれるところに、本当の意味の同一性があるという言い方をしています。
 「概念、より進んでは、理念は、確かに自己同一なものではある。しかしそれらは同時に自己の内に区別を含んでいるかぎりにおいてのみ、そうなのである」(㊦二二ページ)とあり、概念、理念は、現実を生み出す根拠で」ありかつ現実となるところに、本当の意味の同一性があるという言い方をしています。こうして概念を、直接性と媒介性の統一として、つまり同一と区別の統一の完成した形態として、ヘーゲルが
頭に描いていることを理解することができるだろうと思います。そこでその関係を「エンチクロペディーへの序文」のなかでみたいと思います。

哲学の任務は真理の認識

 ヘーゲルは、まず一節で、哲学は真理を対象にする、哲学の目的は真理の認識であるといいます。では、どうやって真理を認識するのか。それは対象を思惟することによって認識するのです。思惟と思考とは同じような意味です。対象を頭を使って考えることによって真理をつかまえることができるのだとのべ、七節で「哲学という名称は、経験的個別性の大洋のうちにある確かな基準および普遍的なものの認識、一見無秩序ともみえる無数の偶然事のうちにある必然的なものや法則の認識に従事することだ」(㊤七一ページ)といっています。つまり、客観世界の必然性を思惟によって認識すること、これは経験科学の任務であると同時に哲学の任務であるとまずこういっています。同時に、哲学は経験諸科学の範囲にとどまらないということを八節と九節でいっています。八節では自由とか、精神とか、神とかという対象を考える場合、これは客観世界にそのままの形で存在する対象ではないので、思惟の独自の力によってこういうことを考えなくてはいけないと述べています。「広い意味ではヌースあるいは精神(これはヌースのより深い規定である)が世界の原因であると」(㊤七四ページ)いっています。
 さらに九節も、経験諸科学はいろんな限界があることを述べて「思惟が真の哲学的な思惟」であるためにはこの経験諸科学をつうじて認識できる必然性から区別された「独自の諸形式」をもたなくてはならない。その独自の諸形式が「概念」だという言い方をしています。

 この二つの点から言って、経験的科学の方法は必然性の形式を満足させないものである。こうした要求を満足させようとする思惟が真の哲学的な思惟であり、思弁的な思惟である。思弁的な思惟は、したがって、最初に述べた思惟と共通なものを持ちながら、同時に異ったものを持っているのであって、それは共通な諸形式のほかになお独自の諸形式を持っており、そしてこの独自の諸形式の普遍的な形式は概念である(㊤七五ページ)。

 自分の哲学は経験的科学から導き出した必然性などのカテゴリーを使うけれども、同時にそれを超えるものであり、それが概念だというのです。
 一二節は、今までのまとめになっています。哲学は出発点として経験から出発するとまず書いてあります。そしてそこから遠ざかってそれを否定するような関係をとるようになるといいます。「思惟はこのようにしてまず自己のうちに、すなわち経験的諸現象の普遍的本質をなす理念のうちに「満足を見出す」(㊤七九―八〇ページ)といっています。哲学は経験から出発して、物事を抽象化して、最後は理念を見出すところまで到達するのです。
 ㊤八〇ページでは、今度は逆に、経験的諸科学は、経験的事実を何ものかの必然性として説明しようとする刺激を哲学に与え「この刺激は、思惟を右に述べたような普遍性および即自的に与えられているにすぎない満足からひきだして、自己からの発展へ駆り立てる」と述べています。これが大事なところです。経験から出発してどんどん抽象化して理念に到達するのですが、そこにとどまらないで、今度は逆に理念が自己発展して、もう一度現実の世界に戻ってくるのが哲学なのだといっているのです。
 客観世界に「本源的な思惟という意味で自由に、事柄そのものの必然にしたがってあらわれ出るという形態、を与える」とあります。思惟の力で導き出された理念が、客観としてあらわれ出るところまで、哲学は進まなくてはならないというのです。抽象的普遍としての思惟が、客観として具体化するということが、思惟の自由の意味です。ここでは「自由」という言葉を使っているのに注目していただきたい。ヘーゲルは、精神の本質を自由だといっているのです。
 以上を前提として、いよいよ直接性と媒介性の統一の問題がでてくるわけです。何と何が直接的であり、かつ媒介されたものなのかというと、それは主観と客観です。主観と客観の関係における直接性と媒介性の統一、それが概念だということをいいたいわけです。
 次はヘーゲル哲学の基本的な考えがまとめてあるところです。

 哲学の発展が経験に負うところがあるということは、正しくかつ根本的な意味を持っている。なぜなら、第一に、経験的諸科学は個々の現象の知覚にとどまっているものではなく、思惟によって普遍的規定、類および法則を発見して哲学のために材料を作り、特殊なものの内容を哲学に受け入れられるように準備するからである。第二に、経験的諸科学は、このことによって、思惟が自分自身で具体的な諸規定へ進むことを強要するからである。思惟が、この内容になお附着している直接性および所与性を除去しながらこの内容を受け入れることは、同時に思惟の自己発展を意味する。このように哲学はその発展を経験的諸科学に負いながらも、目前にあるものおよび経験された事実をそのままに是認するのではなく、諸科学の内容に思惟の自由先天的なもの)という最も本質的な姿と必然性の保証とを与え、事実をして思惟の本源的な、かつ完全に独立的な活動の表現および模倣たらしめるのである(㊤八二ページ)。

 哲学がその発展を経験的諸科学に負うというのは、経験的諸科学が自然や社会のなかから取り出した本質、実体、法則を、哲学がそのまま学び取るということです。しかし、目前にある客観世界、経験された事実をそのままに是認するものではなく、客観世界を真にあるべき姿につくりかえるところに哲学の意義があるのです。次が大切なところだと思います。「諸科学の内容に思惟の自由という最も本質的な姿と必然性の保証とを与え」とは諸科学の対象となっている客観世界を、主観の働きによって合法則的に変革することを意味します。それが「事実をして思惟の本源的な、かつ完全に独立的な活動の表現および模倣たらしめるのである」ということです。この思惟は、そのまま概念に置きかえて読んでもらったらいいと思います。客観世界を概念の「表現および模倣」につくりかえるのです。
 
世界の根本原因を、概念・理念としてとらえる

 以上を整理してみると、まず、哲学の目的は真理の認識であるということです。真理を認識するためには現象世界、客観世界の必然性を認識するだけではなくて、現象世界を生み出した必然性そのものを認識しなければならないとヘーゲルは考えます。目の前にあるものをそのまま肯定するのではなくて、なぜそのような形としてあるのか、それを生みだしたものを解明し、そのものの必然的なあらわれとして、現象世界をとらえなくてはならないというのです。
 ヘーゲルの時代は、現代からみると、まだ自然科学の発展はかぎられていた時代でした。地球がいかにして生成したのか、生物の進化はどのような形であらわれるのか、宇宙はどのようにしてできたのかなどの原理は解明されていなかったのです。しかしへーゲルは客観世界というものを、すべて運動・変化・発展するものだととらえました。ですから、現在ある世界を生み出した根本原因があるはずだと考えたのです。それをヘーゲルは、スピノザの実体(神)に学んで自己原因(causa sui)という言い方をすることもあります。この世界を生み出した根本原因を、ヘーゲルは概念とか理念とか、あるいは精神としてとらえ、概念というのは絶対的なエネルゲイアとしてのイデアであるという言い方をするのです。
 このように世界の根本原因を概念あるいは理念としてとらえるということは、そのかぎりで概念は、世界の創造主としての神と一致する側面があります。先ほどの八節では「広い意味では、ヌースあるいは精神が世界の原因である」という言い方をしています。ヘーゲルはこのヌースあるいは精神と同じような意味で概念をつかまえているのです。そのかぎりでは、この概念は神と一致する側面があることは否定できません。ですから、そこにヘーゲルの観念論を見出すのには、根拠があるということができます。しかし、ヘーゲルは、世界を運動・発展・変化するものととらえたうえで、その運動・発展・変化をもたらす客観的な自己原因をとらえようとして、それを概念といっているのです。だから客観世界に存在する一つひとつの個物のなかに概念があらわれていると考えているのです。個物のなかにイデアがあり、そのイデアとしての概念は、真にあるべき姿としてもとらえられているということができます。

ヘーゲルの概念論を創造的に学ぶ
 
 ヘーゲル哲学の、とりわけ概念論のなかに、概念を神ととらえる客観的観念論があることは間違いありません。しかしそれはある意味では時代の制約から生まれた観念論といってもよい側面が強いのではないかと思えます。世界を生み出した原因を探求しようとして、それを生み出した何ものかがあるはずだと考え、それを概念、あるいは理念ととらえるのです。いわば、世界の発展法則ともいうべきものとして概念、理念をとらえようというのです。われわれは、ヘーゲルが神と同じような意味で使うこともあるこの「概念」のなかからその唯物論的側面を取り出し、それを科学的社会主義の理論をより豊かにする方向に使っていくという意味で、ヘーゲルの論理学を創造的に学ぶ必要があるのではないでしょうか。その創造的に学ぶという側面からすれば、世界の発展法則ともいうべき概念を「真にあるべき姿」としてとらえることが必要なのです。
 さらにもう一言いっておきます「概念」と「当為」との同一と区別の問題です。この当為というカテゴリーは『大論理学』の有論、第二章定有のなかに「限界」に関連した「制限と当為」として出てきます。小論理学』には、なぜかこのカテゴリーは出てきません。すべてのものには限界があります。限界をのりこえようとするとき、限界は「制限」として自覚され、その制限の先に「まさにかくあるべし」という当為が存在するのです。有限なもののなかから当為がうまれ、限界を超えるべしと自覚されるときに、限界は制限となるのです。当為(sollen)は、もっと分かりやすい言葉でいえば「あるべき姿」です。この概念と当為とをヘーゲルが区別していることを重視すべきではないかと思います。つまり「真にあるべき姿」と単に「あるべき姿」を区別することは、社会変革を考える場合、非常に重要な意義をもちます。
 当為というのは、或るものから他のものへの移行に関連したカテゴリーです。「他のもの」とは「或るものでないもの一般」を意味しているのです。しかし、このような当為を論じるだけではだめなのであって、真にあるべき姿を論じなければならないのだというところに、ヘーゲルが概念論を説く理由があるのです。
 社会的実践を考えてみましょう。現代は変革の時代だといわれています。誰もが改革とか変革とかいっている時代です。その変革というのは、あるべき姿を問題にするのですから、言いかえれば当為のことなのです。あらゆる当為のなかから、唯一の真なる当為ともいうべき概念をしめすところに科学的社会主義の運動論があるといえます。
 「あるべき姿」はいろいろ考えられますが、そのなかから「真にあるべき姿」は何なのかということをさし示して、そこに向けて国民の運動を組織することが大切です。その真にあるべき姿は真理であるからこそ、国民の大多数を結集しうる展望が出てくるのです。そういう意味で当為と概念の区別というのは、社会的実践を考えるうえではとりわけ重要なカテゴリーになってくるのではないでしょうか。だから概念論を学ぶ意義は非常に大きいと思います。
 そういうことを前提にして、ヘーゲルは概念という真にあるべき姿が根本にあって、それが現実世界を動かすのだと考えます。しかし、そこだけをとり出せば、単なる観念論ですが、ヘーゲルの偉いところは、その概念を観念論的に頭のなかから導き出すのではなく客観世界のなかから導き出しているのです。そこに主観と客観の直接性と媒介性の統一が定立されるのです。つまり、概念というのは、客観のなかから主観のはたらきとして出てくるものなのです。客観世界の必然性・法則性を認識し、そのことをつうじて真にあるべき姿が主観として把握されるのです。次にその把握された主観的な概念に基づいて、それを客観に現実化する実践・運動が生じるのです。それによってこの主観としての概念が「客観としての概念」に一致し、主観と客観の同一性が定立されるのです。
 概念を直接性と媒介性の統一といっていることに注目して下さい。最初に概念は客観のなかから生み出されるので、概念は客観に媒介されています。客観世界の法則性を認識することをつうじて概念は客観から生まれるのですから、客観に媒介をされているのです。しかし、同時に、概念は客観の認識そのものではなく、客観の真にあるべき姿として、客観を否定する認識です。その意味で、概念は客観に媒介されているけれども客観から自立した直接性なのです。主観としての概念は、したがって客観との関係において直接性と媒介性の統一として存在します。
 他方で概念は頭のなかでつかまれた主観としては直接的な存在なのですが、同時にそれは実践をつうじて客観化されるのですから、直接的な存在であると同時に、実践に媒介されて客観になるという意味で、直接性と媒介性の統一なのです。
 だから客観から主観へ、主観から客観へというこの往復運動(二重の「直接性と媒介性の統一」)をつうじて主客の同一性が定立されていくものとヘーゲルはとらえています。概略はそういうことであり、意識の能動性・創造性を、ヘーゲルは概念としてとらえたものと理解したいと思います。


C 現実性――続き

必然の真理は自由、実体の真理は概念

 一五八節をみてみましょう。

 一五八節 したがって必然の真理は自由であり、実体の真理は概念── すなわち、自己を自己から反撥してさまざまな独立物となりながらも、この反撥のうちで自己同一であり、交替運動をしながらも、あくまで自分自身のもとにとどまる、すなわちただ自己とのみ交替運動をする自立性── である。

 この「必然の真理は自由であり、実体の真理は概念」というのは、たいへん有名な文章です。エンゲルスもここから学んで「必然の王国から自由の王国への人類の飛躍」という『空想から科学へ』の文章を導き出しています。ここにいう必然も、実体も客観世界のことなのです。客観世界における必然性あるいは実体というのは、まだ客観世界という有限性の枠内の真理にすぎないのであって、自由な精神の働きから生まれた概念こそ、客観世界の有限性をのりこえた真理だというのです。つまり客観世界の必然性の認識から、自由な精神たる概念の認識に前進することによって、人間の認識は、最高の真理に到達するのです。
 客観世界はそれ自体として存在しているように見えるかもしれない。しかし、それを動かす根本的な原因が存在するのであり、それを概念というのです。ですから概念というのは、自己とのみ交替運動する自立性といっています。あるいは自己を自己から反発して、独立しながらも自己同一であって、あくまで自分自身のもとにとどまるともいっております。概念と概念から生み出された客観世界は区別されながらも同一なのです。同一と区別の統一です。先ほどいいましたように、客観から主観としての概念へ、主観としての概念から客観へという往復運動があるのです。ある意味では主観と客観の交互作用です。客観の自己同一として概念が生まれ、概念の自己同一として客観が生まれるのです。

 一五八節補遺 必然は冷酷であると普通言われている。このことは、われわれが必然そのものに、すなわち必然の直接的な姿に立ちどまっているかぎり、正しい。ここにはまずそれ自身で存立している或る状態、あるいは一般に或る内容があるが、しかし必然性のうちには次に、そうした内容が他のものによって襲われ、かくしてそれは滅亡させられるということが含まれている。これが直接的なあるいは抽象的な必然性における冷酷で悲しむべき点である。

 「必然は冷酷である」とありますが、例えば、人間は死という必然性によって盲目的に滅亡へ追いやられます。だから必然は冷酷だといっているのです。必然から自由に移行するということは、必然性を自由な精神が支配するということです。死の必然性を当然のこととして、日々悔いなく生きることが、自由への移行なのです。必然性をコントロールする自由をもつことによって、その冷酷さから抜け出すことができるのです。これに対し必然性のなかにおける自由は、必然性の冷酷さを受容するあきらめの自由、つまり抽象的な自由です。しかし、本当の自由はこんなものではなく必然性を支配する自由だということを次に述べています。

 しかし、これまでみてきたように、必然性の過程は次のようなものである。すなわち、それは最初に存在している硬い外面を克服して、その内面を啓示し、かくして互につなぎあわされているものが、実際互に無縁ではなく、一つの全体の諸モメントにすぎないこと、そしてこれらモメントの各々は、他と関係しながらも自分自身のもとにとどまり、自分自身と合致するということを示すのである。これが必然性の自由への変容であって、この自由は単に抽象的否定の自由ではなく、具体的で肯定的な自由である。

 必然性とは「相対的必然性」「絶対的必然性」のところで述べたように、或るものが他のものに移行し同一になる過程でした。自由とはその確立される同一性がより大きな一つの全体の統一(概念)のなかに包みこまれている同一性の確立です。だから「モメントの各々は他と関係しながらも、自分自身のもとにとどまり、自分自身と合致する」のです。それはけっして消滅するのではありません。消滅したようにみえるけれども、また新しく生まれたものも自分自身だし、消滅したものも自分自身だということになるのです。だから全体としての概念の諸モメントとして必然性をつかんでいくことが必然性の自由への変容です。先ほどの例でいえば「いかに生きるべきか」という人生観(概念)を確立することによって、生と死を人生の一モメントに落としていくことです。
 客観世界のうえで必然性は、一定の法則に基づいて動いているのですが、それを支配しコントロールすることによって、本当の自由になれるのです。『反デューリング論』のなかにも自由と必然性ということが出てきます。自由と必然性について、これまでは単に媒介のない対立としてとらえられていました。ヘーゲルはそれを対立物の統一としてとらえた最初の人であると指摘されています。必然性を自分の手の内におさめるところに自由がある、というイメージで理解したらいいと思います。

 ここから、自由と必然とを相容れないものとみるのが、どんなに誤っているかがわかる。もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる。

 「自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」ということは、必然を必然として認め、しかもなお、それを自分の手の内におさめて認めるという意味です。そこに自由があるのです。
 エンゲルスは『反デューリング論』のなかで「ある人の判断がより自由であればあるほど、その判断の内容はそれだけ大きな必然性をもって規定されている」(全集⑳一一八ページ)といっております。必然性はある意味」では客観世界における真理です。だから、そういう真理を認識することによって自由になります。自然や社会の法則を認識して真理をつかみ、真理に基づいて実践を行うことが人間の自由なのです。ですから自由とは認識と実践の統一です。それが必然性を手の内におさめるということなのです。
 ですから人間は自由になればなるほど必然性をもって規定されることになります。真理に近づけば近づくほど、自由はより規定されたものになり、選択の幅は小さくなります。そして自由が最高度に達したときには選択すべきものは唯一つになります。それが真理なのです。だから、自由と概念が結びつくのです。自由とは真にあるべき姿としての概念(真理)を認識し、実践することです。必然の真理は自由であり、実体の真理は概念なのです。

 有徳な人は、その行為の内容が必然的でありかつ即自対自的に妥当するものであることを意識しているが、しかもこのことは、かれの自由を少しも傷つけるものではなく、むしろそれによってはじめてこの意識は、まだ無内容で単に可能的な自由としての恣意とはちがった、現実的で内容のある自由となるのである。

 ここまでの説明でお分かりいただけると思います。有徳な人は現実的な自由をもつとありますが、なぜかというと、真にあるべき姿を認識し、それに基づいて行動するからです。行為の内容は必然的であり、かつ絶対的に妥当するものであることを意識することによって自由になるのです。

 犯罪者が罰せられるとき、かれはこのかれに加えられる刑罰を自分の自由の制限と考えるかもしれない。しかしその実は、かれが従うこの刑罰は外的な強力ではなくて、かれ自身の行為の顕示にほかならない。そしてかれがこのことを認めるとき、かれは自由な人として振舞うのである。一般に、自分が全く絶対的理念に規定されているのだということを知るのが、人間の最高の自立性である。

 犯罪者は罰せられたときに不自由だと思うかもしれませんが、そうではなくて自分に加えられる刑罰は、自分の行為の必然的な産物なんだと認識するときに、自由な人として振舞うことができるといいます。その後に「人間の最高の自立性である」という言葉がでてきますが、それは最高の自由という意味です。「自分が全く絶対的理念に規定されている」とき、すなわち自分が絶対的真理の立場で行動するときに、最高の自由であるというのです。

概念による主観と客観の交互作用

 一五九節 かくして概念(Begriff)が有および本質の真理である。というのは、概念においては自分自身への反省という反照が、それ自身同時に独立的な直接性であり、さまざまの現実のこうしたが直接に自分自身への反照にすぎないからである。

 概念からみた「有および本質」は客観世界のことです。ヘーゲルは、有論と本質論を客観的論理学といっているのですから「概念が有および本質の真理」とは、概念という真にあるべき姿は客観世界から生まれ出た真理であるということです。プラトンやアリストテレスは「イデア」を「真実在」ととらえました。真実在というのは、客観世界における真実という意味です。同様にヘーゲルも真にあるべき姿が客観世界のなかに潜在的にあるのであり、だから客観世界から概念が生まれてくると考えます。「概念においては自分自身への反省という反照が、それ自身同時に独立的な直接性である」とは、つまり客観世界に媒介されて概念は生まれるのですが、生まれてきた概念は同時に客観世界から自立した直接的な存在です。ですから概念は、客観との関係において直接性と媒介性の統一なのです。
 「さまざまの現実のこうした有が直接に自分自身への反照にすぎないからである」とは、客観世界の反映として、客観世界に媒介されて概念が生まれることを意味しています。

 概念は自己を有および本質の真理として示し、両者はその根拠たる概念へ帰ったのであるが、このことによって概念は、逆にまた、その根拠たるから自己を展開したのである。この進展の前の側面は、有が自分自身のうちへ深まり、有の内部がこの進展によって開示されたとみることができるし、後の側面は、より不完全なものからのより完全なものの出現とみることができる。

 「根拠たる概念」とあります。先ほど具体的な同一性というのはまず根拠であり、より高い真理においては概念であるといいました。概念は客観世界の真理として、客観世界を生み出すもとになるものという意味で根拠なのです。概念はどこから生まれてきたのか「真にあるべき姿」はどこから生まれてきたのかというと、有のなかから生まれてきたのです。しかし、その概念が今度は客観世界をつくりかえるのです。そういう概念の働きによる主観と客観の交互作用をみています。「進展の前の側面は、有が自分自身のうちへ深まり、有の内部がこの進展によって開示されたとみる」というのは、有から概念が生まれる側面のことです。「後の側面は、より不完全なものからのより完全なものの出現とみることができる」とは、概念という「真にあるべき姿」が客観のなかにあらわれることによって客観をより完全なものに生まれ変わらせる側面なのです。

 人々はこのような発展を後の面からのみみることによって、哲学を非難したのである。より完全なものとより不完全なものというような表面的な観念がここで持っている、より具体的な内容は、自己との直接的な統一としてのと、自己との自由な媒介としての概念との相違である。ところでは、概念の一モメントであることが明かになったのであるから、これによって概念は、有の真理であることが明かになったのである。概念はこのような自己内反省であり、媒介の揚棄であるから、それは直接的なものを前提する

 非難された「哲学」とは、プラトンのイデア論です。イデアが現実を生み出すというのは、観念論だという批判があるが、それは違うのではないかといいたいのです。「より不完全なもの」というのは有のことであり「より完全なもの」というのが概念です。「自己との自由な媒介としての概念」と述べていますが、自由な媒介とは概念は有から発生したものではあるけれども有から独立して存在しているということです。概念は、客観世界たる有の真理(真実在)として、有を概念の一モメントに落としてしまうのです。
 「概念はこのような自己反省であり、媒介の揚棄であるから、それは直接的なものを前提する」とありますが、ここが大事なところです。概念は直接的なもの、つまり客観世界を前提にしています。しかし前提にしているけれども、客観世界をそのまま反映したものではなくて、それを揚棄したものとして反映しているのです。つまり客観世界は不完全なものなのですから、もっと完全なものに変えられなくてはなりません。そういうものとして客観世界から生まれ出たものが真にあるべき姿としての概念なのです。

 しかし、この前提は自己内反省と同一なものであって、この同一性が自由および概念を構成している。したがって、もしモメントを不完全なものと呼ぶとすれば、完全なものである概念は確かに不完全なものから発展する。なぜなら、概念は本質的にその前提、揚棄するものであるから。しかしそれと同時に、因果性一般、特に交互作用において明かになったように、自己を定立しながら自己の前提を作るものは、概念そのものなのである。

 概念は人間の意識の産物としてつかまえられるものなのですが、不完全なものである有のなかから完全なものとして生まれてくるのです。そういう意味で概念はその前提である客観を揚棄します。しかし、概念は客観を揚棄したものとして自己を定立しながら、同時に自己の前提である客観を作るのです。概念は、概念として「真にあるべき姿」を客観のなかに現実化していくのです。概念が根拠だというのは、この側面のことです「真にあるべき姿」は、現実化する(現実として生み出されていく)エネルゲイアです。

本質論から概念論へ

 かくして概念は、有および本質との関係においては、単純な直接性としての有に復帰した本質として規定されており、その反照はこのことによって一方現実性を持つとともに、またその現実性は自分自身のうちでの自由な反照をなしている。このようにして概念は有を、その単純な自己関係あるいはその自分自身のうちでの統一の直接性として持っている。有はきわめて貧しい規定であり、概念のうちで指示されうる最少のものである。

 概念と有および本質との関係を述べているところですが、有および本質というのは、両者あわせて客観世界とみていいと思います。有の真理は本質であり、同様に客観世界の真理が概念だということです。「一方現実性を持つ」とは、客観世界のなかから概念が生み出されるという意味で、概念も現実的なものであるということです「現実性は自分自身のうちでの自由な反照をなしている」とは、概念は客観世界を揚棄し、それを乗りこえたものとして客観世界から自由な存在としてあることです。つまり真にあるべき姿としての概念と客観世界との間の交互作用をみているのです。

 必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆきは、最も困難なものである。というのは、独立的な現実は移行および他の独立的な現実との同一のうちで、その実体性のすべてを持っているものと考えられなければならないからである。概念もまた、それ自身がまさにこうした同一性であるのだから、最も困難なものである。しかし現実的な実体そのものである原因が、その向自有においては、何ものをも自己のうちへ侵入させようとしないものでありながら、しかもすでに被措定有へ移行するという必然あるいは運命を持っているということ、このことがむしろ最も困難なことである。

 客観世界の必然性をみるだけならまだ簡単なのですが、客観世界を乗りこえて「真にあるべき姿」を精神の働きとして考えだすのは、最も困難なものだといっています。なぜなら、客観世界を単に反映するにとどまらず意識の創造性が求められているからです。概念の同一性とは、客観世界と概念との区別と同一の統一、つまり直接性と媒介性の統一としてとらえることは難しいということです。「現実的な実体」というのも客観世界と同じことです。客観世界では一つひとつのものは独立しながら、相互に関連し、全体として一つの独立した世界であるようにみえます。それを自立した世界としてではなく「被措定有」としてつかまえること、つまり概念によって措定されたもの、媒介されたものとしてつかまえることは高いレベルの認識として、とても大変なことなのです。

 必然を思惟するということは、これに反して、むしろこの困難の解決である。なぜなら思惟するということは、他のもののうちで自分自身と合致することだからである。

 この「必然を思惟するということ」は、客観世界の必然性を概念によって媒介されたものとして思惟することによって、必然から自由への、現実から概念への移行という問題も理解しうるようになるのです。

 この合致は自由になることを意味するが、しかもその自由は捨象による逃避ではなく、現実的なものが必然の力によって結びつけられている他の現実のうちで、自己を他のものとしてでなく、自分自身の有および定立として持つという自由である。

 概念は自由つまり、精神の自由な働きから生まれるものです。しかし、その自由は現実から逃避した自由ではありません。現実的なものが概念という必然の力(絶対の力)によって結びつけられて存在するということを認識することによってえられる自由なのです。真にあるべき姿を認識することによって自由になるということです。

 この自由は、向自的に存在するものとしては自我と呼ばれ、統体性へ発展したしたものとしては自由な精神と呼ばれ、感情としてはと呼ばれ、享受としては浄福と呼ばれる。── スピノザの偉大な実体観は、有限なものの独立からの解放を即自的に含んでいるにすぎないが、概念そのものは必然の力と真の自由を実現するものである。

 ヘーゲルの場合は、精神の働きから生まれた、客観世界を止揚したものを自由としてとらえています。「概念そのものは必然の力と真の自由を実現するものである」と述べているのは、概念そのものは客観世界の必然性を生み出し、真にあるべき姿を実現する自由をもっているからです。

 一五九節補遺 本節でそうしたように、概念を有および本質の真理と呼ぶならば、なぜ概念からはじめないのかという質問を覚悟しなければならない。その答は、思惟的認識が問題になっているかぎり、真理からはじめることはできない、ということである。なぜなら、真理がはじまりをなすとき、真理は単なる確信にもとづくにすぎないが、思惟された真理なるものは、その本性上、思惟にたいして確証されたものでなければならないからである。

 概念は有および本質の真理だというのなら、なぜ概念からはじめないのかというと、まず客観世界のなかにおける真理を認識することをつうじて、客観世界を乗りこえた真にあるべき姿という真理に到達することができるからです。有と本質を媒介にしないかぎり真にあるべき姿(概念)を真理として認識することはできないのです。

 もしわれわれが概念を論理学の先頭において、それを有と本質との統一と定義するとすれば、このことは内容上正しいにはちがいないが、しかし次のような質問、すなわち、有および本質のもとに何を考えたらいいのか、そして有および本質はいかにして概念の統一へ総括されるようになるのか、という質問がおこるであろう。それでは、われわれは名称の上でのみ概念からはじめたにすぎず、事柄から言えば、そうでなかったことになるであろう。したがって本当のはじまりは有からなされ、その点本書でなされているのと同じことになるであろう。ただこの場合、有の諸規定のみならず本質の諸規定も、直接に表象から採用されざるをえないだろうという相違がある。私はこれに反して、有および本質をその弁証法的発展において考察し、それらが自己を揚棄して概念の統一となるものであることを認識したのである。

 いきなり論理学の冒頭に「概念は有と本質との統一」といっても「有とは何か」あるいは「本質とは何か」を理解していないと何のことか分からないものです。そうではなくて有から順に解きほぐし、本質を述べ、そして直接性と媒介性の統一として客観世界を乗りこえる自由な精神の働きとしての概念をとらえることによって、はじめて概念の何たるかが分かってくるのです。それが「有および本質をその弁証法的発展において考察」するということです。
 そして概念こそ真理であるといっているのです。「概念を有論および本質の真理と呼ぶ」とは、真のあるべき姿であるから真理であるということなのです。こうして、本質論は概念論へ移行することになります。

第三部 概念論

 客観世界から主観の世界である「概念論」に入ります。第三部の概念論は『大論理学』のなかでは人間の自由な精神の働きから生まれた、精神の創造的産物を取り扱うという意味で、主観的論理学という位置づけをしています。これが概念論の中心となりますが、同時にへーゲルは概念論のなかで客観の問題も論じます。概念論において「主観的概念」「客観的概念」、さらにその統一としての「理念」を論じることになります。主として念頭においているのは主観的概念です。概念の本性そのものは主観的概念なのです。
 形式論理学では、概念・判断・推理が思考の形式として問題になります。ヘーゲルはこれらの形式論理学を「概念論」に取り込み、かつそれを止揚します。形式論理学では、概念、判断、推理は、単なる思考の形式、つまりものごとを合理的に考えるための考えの枠組みとされています。だから判断や推理は思考の内容には無関係であり、内容いかんによって正しいことを認識することもあれば、そうでないこともあると考えます。しかしヘーゲルはそうではないと考えます。エンゲルスもここに注目して『自然の弁証法』のなかで「判断の形式について」という短い論文を書いています。
 ヘーゲルが判断・推理の形式をつうじて、いかなる形式が真理を認識しうるのかを考えていることに注目すべきです。こういう見地から判断論や推理論を学ぶ必要があります。

 第三部・概念論の構成をみてみましょう。目次をご覧下さい。概念論もこれまでと同じようにA・B・Cの三つに分かれています。
 A 主観的概念
 B 客観あるいは客観的概念
 C 主観的概念と客観的概念の統一である理念
という形です。理念の一番最後は「悪名高き」絶対的理念になっています。これをわれわれとしてどう理解するかが一つの課題になっています。
 主観的概念のなかは小さく三つに分かれています。a概念そのもの、b判断、c推理に分けられています。この主観的概念のなかで思考の形式にかんする概念・判断・推理も合わせてみていくことになります。

概念のモメントとしての普遍・特殊・個別

 一六〇節 概念(Begriff)は向自的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして概念はまた体系的な全体(Totalität)であって、概念のうちではその諸モメントの各々は、概念がそうであるような全体をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。したがって概念は、自己同一のうちにありながら、即自かつ対自的に規定されているものである。

 この「向自的に存在する」とは、客観世界から独立して存在するということです。概念は、客観世界を揚棄したものとして含んでいるのですが、それから独立したものです。「実体的な力」というのは、必然的な力といってもいいでしょう。概念は客観世界を生み出す現実的な力、つまりエネルゲイアとしてあるのです。概念は客観から独立すると同時に客観を生み出す絶対的な力であり、その意味で客観世界から自由なものです。この自由は真理として、真にあるべき姿として自由なものであるといってもいいでしょう。
 ヘーゲルは論理の展開のなかで判断の諸形式を論じようとしていますから、普遍・特殊・個別を概念のモメントとしているのです。そのモメントのいずれもが「不可分の統一」としてあるといっていますが、真にあるべき姿としての概念は、まず一種の普遍としてあります。その「主観としての普遍」たる真にあるべき姿が現実に具体化されることは、特殊化されるということです。つまり普遍が特殊化されたものが個別なのです。そういう意味で真にあるべき姿は普遍のままでとどまるのではなくて、客観世界のなかに特殊化され個別となります。そこをとらえて、普遍・特殊・個別の相互作用が概念のなかに包みこまれて「透明な一体感をなしている」とヘーゲルはいうのです。
 「したがって概念は、自己同一のうちにありながら、即自かつ対自的に規定されているものである」とは、これらの意味において、概念は自己同一の内にありながら諸モメントを内にもっているということです。

 一六〇節補遺 概念の立場は一般に絶対的観念論の立場であり、哲学は概念的認識である。というのは、哲学はその他の意識が存在するものとみ、またそのままで独立的なものと考えているものが、単に観念的な諸モメントにすぎないことを知っているからである。悟性的論理学においては、概念は思惟の単なる形式、あるいは一般的な表象と考えられている。概念は生命のない、空虚な、抽象的なものだという、感情や心情の側からしばしばなされる主張は、概念にかんするこうした低い理解にのみあたるのである。実際においては事情はまさに逆であって、概念はむしろあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なものである。

 ヘーゲルは哲学の課題は真理を認識することにあると考えました。真理を認識するとは、真にあるべき姿の認識にまで到達しなければならないということなのです。客観世界にあるものをそのまま認識することも真理の認識ですが、さらに客観世界を超える真理を認識するのが理想を追究する観念論の立場であり、自分の哲学は、その絶対的真理を認識する絶対的観念論だというのです。ヘーゲルが自らいっているのではありませんが、現状を肯定するのではなく自然や社会を合法則的に変革していくところに、哲学の役割があるとみることになります。客観世界は一見独立しているように思えるけれども、それをより根本的なものの一モメント、つまり概念の契機としてつかまえるところに哲学の意義があるのです。
 「悟性的論理学」というのは形式的論理学のことです。形式論理学では、概念は単に思惟(思考)の形式だといいます。概念・判断・推理について形式論理学では取り扱うのですが、まず普遍としての概念を認識して、判断は概念と概念の結合であるというのです「人間は動物である」という判断は、人間という概念と動物という。概念の二つを結びつけたものです。さらに三つの判断を結びあわせると推理になります。このような形式論理学の概念を「生命のない、空虚な、抽象的なものだ」と批判しています。
 
「真にあるべき姿」の概念は、現実を変革する力

 人間という概念、犬という概念、そういう「抽象的な普遍」を「概念」だと形式論理学ではつかまえるのですが、ヘーゲルの論理学ではそうではありません。概念はあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なものであるといいます。ここにアリストテレスのエネルゲイアとしてのイデアを念頭においているのが分かると思います。「真にあるべき姿」というのは絶対的に現実を生み出す生命の原理です。真にあるべき姿が現実を生み出す力なのです。あるいは現実を変革する力ともいうべきだと思います。
 真にあるべき姿は頭のなかで思いつくものではなくて、客観世界のなかから導き出され、その客観世界を否定する(変革する)ものとして存在する、絶対に具体的なものなのです。

 思惟の以前のあらゆる規定を、揚棄されたものとして、自己のうちに含んでいるものが、まさに概念なのである。概念は形式と考えられないこともないが、しかしその場合それはあらゆる豊かな内容を自己のうちに含み、また自己のうちから解放する、無限の、創造的な形式と考えられなければならない。

 客観世界における必然的なもの、法則的なものをすべて自己のうちに含んだものとして概念が生まれてきます。したがって概念はあらゆる豊かなモメントを自己のうちに含むのです。しかし、それは同時に人間の意識の働きによって、無限に豊かな客観世界を生み出す創造的な形式なのです。
 概念は、意識の働きによって生まれたものですから、抽象的だといえないこともありません。しかし概念は「絶対に具体的なもの」なのです。「概念は有および本質を、したがってこれら二つの領域の富全体を、観念的な統一において自己のうちに含んでいるからである」と述べているように、客観世界の豊かさ、客観世界のもついっさいの法則的なもの、必然的なものを自己のうちに含んだ具体的なものだからです。このあたりは実に唯物論的です。こうなるとヘーゲルは「概念」という語に勝手な意味合いをつけているのではないかという批判が起きてきそうですが、そうではありません。

 形式論理学で言う概念と思弁的論理学で言う概念との距りがどんなに大きかろうと、もっとよく吟味してみれば、概念という言葉のより深い意味は、一見そうみえるほど、一般の用語に縁のないものではないのである。われわれは或る内容を概念から導き出すと言う。例えば、財産にかんする諸法律を財産という概念から導き出すと言い、また逆にそうした内容を概念に還元すると言う。これは概念が本来無内容な形式にすぎないものではないことを認めているのである。というのは、もし概念がそうしたものであったら、何ものもそれから導き出せないであろうし、また与えられた或る内容を概念という空虚な形式に還元したところで、内容はその規定性を失うだけで、認識されはしないだろうからである。

 一般的にいっても「財産にかんする諸法律を財産という概念から導き出す」という場合の概念は、財産の真にあるべき姿ということです。概念から内容を導き出すということはよくあることです。例えば、社会主義の概念から「社会主義とは国民こそ主人公」という内容を導き出し、ソ連や東欧は社会主義の真にあるべき姿(概念)に照らして、社会主義とはいえないというぐあいにです。ヘーゲルのいう概念と一般にいう概念とはそんなにへだたりはないといえます。

概念の進展は、発展

 一六一節 概念の進展は、もはや移行でもなければ、他者への反照でもなく、発展(Entwicklung )である。 なぜなら、概念においては、区別されているものが、そのまま同時に相互および全体と同一なものとして定立されており、規定性は全体的な概念の自由な存在としてあるからである。

 有論における運動は、或るものから他のものへの移行でした。本質における運動は、媒介されたものの反照でした。それに対して概念の運動は発展だというのです。或るものが発展するということは、発展の前後で区別はされているのですが、或るものとしての同一性は保ちつづけています。規定されていくというのは、発展と同義なのですが、概念が発展していっても、全体として同じ概念のなかの発展にとどまります。普遍としての概念は、特殊化、個別化した概念となるにすぎません。これを概念の絶対的同一性というのです。

 一六一節補遺 他者への移行はの領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における弁証法的過程である。概念の運動は、これに反して、発展である。発展は、すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない。

 「発展はすでに潜在していたものを顕在させるにすぎない」とありますが、これは主観としての真にあるべき姿が客観のなかに実現される、つまり普遍が特殊化することを念頭におきながら、概念の発展を論じているのです。

 自然においては、概念の段階に相当するものは、有機的生命である。かくして例えば、植物は胚から発展する。胚はそのうちにすでに植物全体を含んでいる。といっても、それは観念的に含んでいるのであって、したがってその発展は、植物の諸部分である根や茎や葉などが、非常に小さい形でではあるが実在的に、胚のうちに存在している、という風に解されてはならない。これはいわゆる「箱詰めの仮説」であって、その欠陥は、観念的にのみ存在しているものを、すでに現存在しているものとみるところにある。

 見田・鯵坂見解は、この文章の箇所をふまえて、概念とは「真にあるべき姿」ではなく有機体であるとしています。ヘーゲルが概念の典型例として胚をあげているところから、概念とは有機体を意味するものというのです。しかし、私は「自然においては」という語に注目をしたいのです。
 ヘーゲルは、概念の本質は潜在的なものが顕在化するところにあるのであって、しかも生まれてきたものは生まれる前のものと同一のものであるととらえています。それを自然において例をあげるとすれば、胚からの発生があげられるというのであって、社会の例は別に考えるべきものでしょう。胚から出てくるものは、すでに潜在的に最初にもっているものがだんだん顕在化してくるのです。もとの胚とそこから生まれ出てきた根や葉や茎は同一ですから、概念といっていいだろうというのです。しかし社会の場合は、人間の意識の産物が実践をつうじて客観化することを概念といっているのです。自然や社会全体を含めて概念を考える場合「真にあるべき姿」としてとらえるべきであり、胚も自然界のその一例にすぎないのです。

概念は、顕在化する

 真にあるべき姿が顕在化するのが概念です。だからこの「観念的に含んでいる」ということが大事です。「箱詰めの仮説」というのは、生物の発生についての仮説です。今では否定されている説ですが、胚のなかに根や茎や葉が小さく箱詰めにされていてそれが大きくなってゆくのだというものです。
 ヘーゲルはこれを否定して、概念の発展については、一個の受精卵がやがて人間になるように、観念的に内在しているものが顕在化するとみなくてはならないというのです。このような意味で、真にあるべき姿というのは観念的なものであり、それが顕在化して現実になっていくのです。

 他方この仮説の正しい点は、概念がその過程において自分自身のもとにとどまり、過程は内容上なんらの新しいものをも定立せず、ただ形式上の変化をひき起すにすぎないということである。

 「箱詰めの仮説」は、ただ形式上のみの変化を起こすにすぎないととらえている点では正しい面をもっているとみています。植物は、胚から根や茎などが出てくるという形式上の変化を起こすだけであり、あくまでもある植物としての統一性を保っているのです。同様に真にあるべき姿も、それが主観のなかに存在するか、客観のなかにあらわれ出るかの形式に違いはありますが、真にあるべき姿としては一貫して同一性が貫かれているのです。だから「概念の運動は発展である」との説明は、社会的実践の場合にも自然現象の場合にも妥当するのです。

 人間は生得観念を持っていると主張する人々や、プラトンのように、あらゆる学習を単なる想起とみる人々が念頭においているのも、その過程において自己を自分自身の展開として示す、こうした概念の本性なのである。もっとも、このこともまた、教授によって形成された意識の内容をなすものが、その意識のうちに前もって発展した形で存在している、という意味に解されてはならない。

 「プラトンのいうように、あらゆる学習を単なる想起とみる」とありますが、プラトンはイデアを学ぶことは想起することだ、思い出すことだと述べています。彼は、肉体は消滅しても魂は不滅であると考えていました。この不滅の魂はこの世に神々が宿る前からのことをイデアを含めて知っていたのですが、体に魂が宿る過程で忘れてしまったのです。その忘れてしまったイデアを、あらためて想起して真の認識がえられると理解したのです。概念を有機体と理解したのでは、ここの意味は不明となってくるでしょう。ここからも、ヘーゲルの概念がプラトンのイデアに由来することが分かると思います。
 イデアとは真にあるべき姿です。ですからイデアは認識しうるものです。「本当の美とは何か」については後期第四講の冒頭で述べましたので参照して下さい。
 なぜ真の美を認識しうるのか、どうして人間は真にあるべき姿を認識しうるのか、プラトンの時代であれば非常に不思議に思えたことでしょう。そこで不滅の魂が何度かイデアをみていて、その魂が肉体に宿っていると考えれば、真にあるべき姿を魂は思い出すことができると考えられます。肉体にとっては真にあるべき姿をみるのははじめての出来事でしょうが、不滅の魂にとってすでに経験していることだからです。プラトンはこのように考えたのだと思います。結局、人間の意識の創造性には思いが至らなかったところから、プラトンの想起説が生まれたのでしょう。
 イデアは「自己を自分自身の展開」として示すものです。これがイデアである概念の本性だというのです。ですから、過去のイデアが現在に展開して、思い出されたということなのでしょう。

 概念の運動は言わば遊戯にすぎないとみることができる。その運動によって定立される他のものは、実は他のものではないのである。このことはキリスト教においては、こう言いあらわされている。すなわち、神はそれに対峙する世界を創造したのみではなく、そのうちで神が霊として自分自身のもとにとどまっている神の子を、永遠の昔から生み出している、と。

 概念の運動は遊戯にすぎないというのは、その運動によって定立されるものは、他のものではなく自分自身だからです。絶対的同一性ですから、概念はキリスト教の神とよく似ています。キリスト教の神は父と子と聖霊の三位一体です。父は神です。子はキリスト、聖霊は概念あるいは精神です。この三者が不可分一体となっていると考えるのですから、三位一体が定立されているのがキリスト教の神であるとするのです。概念の運動は、普遍・特殊・個別の三位一体という意味で、キリスト教と似た面があるということをいっているのです。

《質問と回答》

 「必然から自由への、あるいは現実から概念への移り行きは、最も困難なもの」だというが、なぜ最も困難なのかという質問です。
 有論から本質論までの議論は、客観世界における法則性の探求でした。目の前にあるものの姿を分析し奥深く見つめていけば、それは必ずつかむことができます。ところが、概念というのはイデアです「真にあるべき姿」を現実にある世界をつうじて求めていくのですが、それは精神の自由な働きとしてはじめてできることです。単に現実にくっついているだけではつかめないものです。その意識の創造性に困難さがあるという意味です。
 その後をみますと「独立的な現実は移行および他の独立的な現実との同一のうちで、その実体性のすべてをもっている」「概念もまた、それ自身がまさにこうした同一性であるのだから、最も困難なものである」といっております。客観世界おいて「有論」では「或るものから他のものへの移行、それから本質論では「反省関係」をみてきました。それらのことをつうじて対立物の同一をみてきたのです。この対立物の同一は、最後には必然性、内的必然性としてあらわれ出ました。内側にある必然性が外側にあらわれ出る、あらわれ出て同一となることをみてきたのです。対立物の同一という点からいうと、概念もまさに対立物の同一なのです。これは後に詳しくやりますけれども、主観と客観の対立物の同一が概念です。この意味では概念も対立物の同一なのですが、それは客観世界と区別された主観の世界としての概念を、意識の創造的産物として生み出すことからしか出発しないのです。そこに困難さがあるわけです。
 一一九ページの二行目の「しかし」から「現実的な実体そのものである原因が、その向自有においては、何ものをも自己のうちへ侵入させようとしないものでありながら、しかもすでに被措定有へ移行するという必然あるいは運命を持っているということ、このことがむしろ最も困難なことである」と続けています。「現実的な実体」とは必然性のことです。必然性において「何ものをも自己のうちへ侵入させようとしない」とは、内的必然なものは他のものの力を一切借りないで外にあらわれ出るという意味です。必然性としてあらわれ出て対立物の同一を実現するのです。簡単にいえば、内側にある必然性が外側にあらわれ出ることによって同一が実現される、必然性として何ものも自分の内に入れない(自分の力だけでそうやって動いていく)ものでありながら、その必然性自体を被措定有としてつかまえるのです。被措定有というのは、概念によって規定されたものとしてつかまえることです。
 必然性は自分自身の力で動いて何ものの力も借りないのですが、その必然性を、実は自立しているのではなくて、概念によって規定されたものとしてとらえる、というところにも困難さがあるというのです。必然性というのは、客観世界における自立したものの自己運動の典型のようなものなのです。しかし、その自立したものの自己運動の典型のようなものですら、概念によって規定されたものとしてとらえることに難しさがあるのです。
「必然を思惟するということは、これに反して、むしろこの困難の解決である」と続けています。「必然を思惟するということは」、客観世界における必然性を概念の立場から思惟するということです。概念の立場に立って必然性をみることによって、本当の意味での必然性をとらえることができるのです。

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