『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第七講 概念論・主観的概念 Ⅰ


 前回から、概念論に入りました。概念はあらゆる生命の原理であり絶対に具体的なものです。概念は有および本質の豊かさを自己に含むようなものなのです。
 一六一節では、概念の進展は発展だということを学びました。発展とは何かというと自分自身が顕在化してあらわれ出ることです。こういう概念というのは、プラトン、アリストテレスのいっていたイデアであって、とりわけアリストテレスのイデアを念頭においています。「真にあるべき姿」は、現実になってあらわれ出るという意味です。エネルゲイアとしてのイデアです。

概念論の構成

 一六二節 概念論は(1)主観的あるいは形式的概念の理論(2)直接態へ規定されたものとして概念あるいは客観性の理論(3)理念、主観=客観、概念と客観性との統一、絶対的真理の理論にわかれる。

 まず最初は主観的あるいは形式的概念です。概念は人間の精神の自由な産物ですからそもそも主観的なものです。ですから第一に、主観的概念というのは概念そのものです。概念そのもの(概念の本来の姿)というのは、主観的な姿として存在するものです。第二に「直接態へ規定されたものとして概念、あるいは客観性の理論」です。主観的概念はエネルゲイアとしてのイデアとして現実になってあらわれ出る力をもっているわけですから、現実となってあらわれ出たものが客観であるという意味で二つめが客観的概念となるわけです。そして第三が理念です。理念というのは主観的概念と客観的概念の統一です。主観と客観、概念と客観性との統一、それが絶対的真理としての理念という構成になっているのです。
 ですから、この概念論の構成は大きくいって、⑴「真にあるべき姿」が、いかにして客観から生まれ出る主観として存在し、⑵ かつその主観としての「真にあるべき姿」がいかに客観に現実化され、⑶ かくて主観と客観の統一としての「真にあるべき姿」が実現されるか、を全体としてみていると思います。
 しかしヘーゲルはこの概念論のなかで、同時に形式論理学で扱われる概念、判断、推理の問題を取り扱おうと考えるのです。形式論理学における「概念」とは、何かについて判断する際の主語、あるいは述語として用いられる普遍的な思考形式であり、普通名詞で表現されるものです。そういうものを概念と呼んでおり、概念の内容というのは、類概念に種差を結合する定義によって規定されていると理解するわけです。例えば「人間は理性的な動物である」と定義することができます。これは動物という類概念に理性的という種差を加えることによって、人間という概念を定義として導き出しているわけです。このように形式論理学では概念を使うわけです。
 次に判断ですが、二つの概念を結合することによって或るものについての判断をするのです。推理は三つの判断を結合することによって行われるものです。このようなことが形式論理学でいわれています。
 ヘーゲルはこの形式論理学でいう概念、判断、推理を自分の概念論のなかに取り込みます。そのことによって、概念論のなかに、イデアとしての概念と形式論理学の概念、判断、推理という相異なる二つの要素を取り込んだことになってきます。後者の形式論理学の判断、推理を展開する前提としての概念を扱ううえで必要なカテゴリーが普遍、特殊、個別です。この用語を概念のなかに持ち込むことによって、分かりにくくなっています。ヘーゲルは「真にあるべき姿」を、普遍としての「真にあるべき姿」が特殊化することによって個別に現実化していくものとしてとらえることによって「真にあるべき姿」という概念と、普遍・特殊・個別という概念の二つを、ドッキングさせました。その二つがドッキングされているところに、分かりにくさがあるのです。しかしヘーゲルはこういう形で形式論理学をも取り込もうとしたのだと思います。

形式論理学批判

 普通の論理学は主として、本書では第三部の一部分をなしている諸材料を含んでいるにすぎず、そのほかになお前に述べたいわゆる思惟法則と、応用論理学において認識作用にかんするいくつかの考察を含んでいる。しかしこれだけでは結局不十分であったので、心理学的な材料や形而上学的な材料、そのほか経験的な材料、がこれに附加されるようになった。しかしこのためにこの学問は明確な方向を失ってしまった。── のみならずこの学問は、それだけは少くとも論理学固有の領域に属する思惟の諸形式をも、単に意識された思惟の諸規定、しかも理性的思惟ではなくて悟性的思惟の諸規定にすぎないと考えている。

 「普通の論理学」とは形式論理学のことです。形式論理学では、ヘーゲルが概念論で述べているものの一部しか扱っていません。形式論理学では概念・判断・推理を、人間がものごとを論理的に考える思考の枠組みとしか考えないのです。それを思惟法則とか思惟の諸形式とかいっているわけです。枠組みにすぎないのですから、判断や推理の形式が正しいか正しくないかは問題にならないわけです。
 形式論理学では概念、判断、推理が正しいか正しくないかは、その枠組みのなかに何を盛り込むかによって決まるのであって、判断の形式それ自体は真でもなければ偽でもないのです。それがヘーゲルは気に入りません。ですから、形式論理学というのは「理性的思惟ではなくて悟性的思惟の諸規定にすぎないと考えている」という批判を加えています。

 これまで述べてきた論理的諸規定、すなわち有および本質の諸規定にしても、確かに単なる思惟の諸規定ではなく、その弁証法的モメントたる移行と自己および全体への復帰とのうちで、自己が諸概念であることを示してはいる。しかしそれらは限定された概念、即自的な概念、あるいは同じことだが、われわれにとっての概念にすぎない(八四節および一一二節をみよ)。

 ここはまたちょっと意味が違います。これまで述べてきた論理的諸規定というのは、ヘーゲルの有論、本質論のことです。有論、本質論に比べて概念論はどう違うかということを述べているわけです。有論、本質論もある意味では概念を議論してきたんだというわけです。八四節と一一二節をあげておりますけれども、八四節というのは有論の冒頭です。
 八四節の冒頭は「有は即自的にすぎぬ概念である」と、あります。本質論の冒頭の一一二節をみてみると、「本質は媒介的に定立された概念としての概念である」と、述べております。だから有論も本質論もある意味では、概念を取り扱っているというわけです。
 ㊤二五六ページをみてみましょう。ここには論理学の三つの構成部門で有論、本質論、概念および理念論と述べてあって、それをみると有論は「直接性における思想、あるいは即自的概念にかんする理論」、本質論は「反省と媒介とにおける思想、あるいは概念の対自有と仮象にかんする理論」、概念論は「自己自らへ復帰し全く自己のもとにある思想、あるいは即自かつ対自的概念にかんする理論」と、いずれも概念を扱っているのです。有論、本質論は、概念のまだ未発展の姿を扱っていて、その完成された姿は第三部の概念論で扱う概念だという言い方をここでしております。それを受けた文章なのです。
 テキストに沿ってみていきます。㊦一二五ページですが「有および本質の諸規定にしても、確かに単なる思惟の諸規定ではなく、その弁証法的モメントたる移行と自己および全体への復帰とのうちで、自己が諸概念であることを示してはいる」とあります。つまり有論では或るものと他のものとの弁証法とか、制限と当為の弁証法とか、あるいは質と量との弁証法などの対立物の同一を議論してきました。本質論においても「本質」と「現象」という対立物の統一を中心に反省関係、対立する二つのものがどういう関係にあるのかをみてきました。その意味で対立物の同一を議論する概念と同じようなことを論じてきたわけです。限定された概念、即自的な概念ということもできるのです。「われわれにとっての概念にすぎない」というのは、哲学をしているわれわれにはわかるけれども、本当に誰がみてもわかるような形で対立物の同一が定立されていないというのです。

 というのは、第一に、各々の規定がそのうちへ移行し、そのうちで反照し、かくして相関的なものとして存在する他のもの特殊(Besonderes)として規定されていないし、第二に、各々の規定がそのうちで統一へ帰る第三のもの(Einzelnes)あるいは主体(Subjekt)として規定されていないし、第三に、各々の規定は普遍(Allgemeinheit)ではないから、対立規定におけるその同一、すなわちその自由定立されていないからである。── 普通概念とは悟性の規定、あるいは単に一般的な表象とさえ考えられており、したがって一般に有限な規定と考えられている(六二節をみよ)。

 概念というものは、普遍と特殊と個とが一体となったもの、あるいはもう少しいうと、普遍と特殊の統一としての個別、個というものが主体として定立されているものです。有論、本質論でも移行とか反照とかいう相関的なもの、対立物の相互移行を議論するのですが、その相互移行は普遍から特殊への移行だとはとらえられていません。また有論、本質論でも対立物の統一は議論はされているのですが、対立物の統一が普遍と特殊の統一としての個別としてとらえられていません。対立物が議論されているけれども、その対立物の同一が完全な形で定立されていません。ですから、有論、本質論は概念の即自的な形態にすぎないのです。
 これに対し、形式論理学上の概念は、普遍、特殊、個別の統一としてとらえていないから悟性の規定なのです。

いかなる形式が真理か

 概念の論理学は普通単に形式的学問と考えられ、それは概念、判断、および推理の形式そのものを取扱って、或るものが真理であるかどうかは全く問題とせず、そうしたことは全く内容にのみ依存する、と考えられている。もし概念の諸形式が本当に、表象や思想を容れる、生命のない、無活動な容器であったら、その知識は真理にとって全く余計な、なくてもよい記述にすぎないであろう。実際はこれに反して、それは概念の諸形式として、現実的なものの生きた精神であり、現実的なもののうち、これらの形式の力で、すなわちこれらの形式を通じ、またそのうちで、真理であるもののみが真理なのである。にもかかわらず、これらの形式そのものの真理は、それらの必然的連関と同じく、かつて考察されたことがないのである。

 ここは、形式論理学の批判です。形式論理学における概念・判断・推理は「表象や思想を容れる、生命のない、無活動な容器」なのだといいます。要するに論理的にものごとを考える思考の枠組みにすぎないと批判しているのです。概念・判断・推理の形式それ自体が真理であるかどうかは問題にならないのです。ヘーゲルは、形式そのもののなかにおける真理を問題にしなければならないといいます。いかなる形式が真理であるのかということです。これは非常に大事な部分ではないかと思います。
 『自然の弁証法』のなかの「判断の分類について」で、エンゲルスはヘーゲルの概念論のなかにおける判断の分類を、すぐれた見解だと評価しています。
 「弁証法的論理学は、古いたんなる形式論理学とは反対に、思考の運動の諸形式すなわちさまざまな判断の形式と推論の形式とを、後者のように数えあげてみたり、なんの関連もないままにならべてみたりすることでは満足しない。その反対に、弁証法的論理学はこれらの形式の一つを他からみちびきだし、それらを並列させるかわりにたがいに従属させ、低次の形式から高次の形式を展開する。」(全集⑳五三一ページ)
 形式論理学が判断の形式、推理の形式を並列的にあげるだけなのに対し、ヘーゲルは形式には低次の形式と高次の形式があるとしたことをエンゲルスは高く評価したのです。この高次と低次の基準は何かということになりますが、私はそれを真理だと思います。どういう判断、どういう推理が一番真理を認識しうるのかということです。この意味での低次・高次であろうと思うのです。
 エンゲルスは、定有の判断、反省の判断、必然性の判断、概念の判断の四つを述べたうえで、個別の判断・特殊の判断・普遍の判断という見地から、摩擦熱を取りあげて、判断の前進につれて、より普遍的な法則を展開するものだと述べています。
 「一、個別的判断、二と三、特殊的判断、四、普遍的判断。こういうことをここで読むといかにも無味乾燥であり、またこのような判断の類別がそこここで一見どんなに恣意的なものと見えるにしても、この分類の内面的な真実と必然性とは、ヘーゲルの『大論理学』(全集、第五巻、六三〜一一五ページ)の天才的な展開を徹底的に研究するものにならだれにでも明らかになるであろう」(同五三二ページ)。
 エンゲルスは、ヘーゲルの判断の分類は「内面的な真実と必然性」を示す認識の段階的発展を示すものであり、これを「天才的展開」だといっています。
 「この類別が思考法則においてばかりでなく、自然法則においてもどれほどよく根拠づけられているかについて、われわれはここではこれ〔論理学〕との連関をはなれたところでたいへんよく知られている一例をあげることにしよう。摩擦が熱を生ずるということはすでに有史以前の人類にも実践的に知られていた。それを知ったのは、おそらく一〇万年も前に彼らが摩擦火を発見したときであり、あるいはそれよりももっと昔、彼らが冷えた体を摩擦によってあたためたときであった」(同)。
 「摩擦が熱の一源泉」だというのは、これは定有の判断だといっています。摩擦をするという個別の運動が熱という個別の結果を生ずるというのです。これは定有の判断であり、個別的な判断です。
「力学的運動はすべて摩擦を媒介にして熱に変わることができる」ということが認識され、これが反省の判断になります。さらに認識が普遍的なものへと発展したとして、マイアーの例をあげます。
 「運動の各形態は、すべて、それぞれの場合ごとにきまっている諸条件のもとでは、直接または間接に、運動の他のすべての形態に変わることができるし、変わらざるをえない。── すなわち概念の判断、しかも必然的判断、つまり判断一般の最高の形式である。」(同)
 このようにエンゲルスは、ヘーゲルの判断論が定有の判断から本質の判断をへて、概念の判断へと変化・発展していくと理解して、この点にヘーゲルの偉大さを見出したのです。こうして判断一般の最高の形式である概念の判断に到達して、判断は最高の判断に達するとみたのです。
 ヘーゲルは、真理を認識する程度・度合いに応じて、つまり真理の認識の発展していく形式として、この判断の諸形式をみています。そしてもっとも高い真理の認識が概念の判断なのです。ヘーゲルが概念・判断・推理を思考の形式、単なる容器としてではなく、それをつうじて形式そのものの真理を問題にしていることは非常に重要ではないかと思われます。


A 主観的概念(Der subjektive Begriff)

a 概念そのもの(Der Begriff als solcher)

概念は絶対的に産出する

 一六三節 概念そのものは、次の三つのモメントを含んでいる。⑴ 普遍(Allgemeinheit)――これは、その規定態のうちにありながらも自分自身との自由な相等性である。⑵ 特殊(Besonderheit)── これは、そのうちで普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている規定態である。⑶ (Einzelnheit)── これは、普遍 、および特殊の規定態の自己反省である。そしてこうした自己との否定的統一は、即自かつ対自的に規定されたものであるとともに、同時に自己同一なものあるいは普遍的なものである。

 概念というのは「真にあるべき姿」ですから自由な精神の働きの産物たる「普遍」です。その普遍はじっとしているものではなくて、エネルゲイアとしてのイデアです。精神の自由な働きとして生まれた概念そのものという、主観的な「真にあるべき姿」は、現実性に自己展開することによって主・客の同一性を実現します。それは別の面からいえば、普遍が特殊化して個別になるということです。だから概念は、普遍でありながら特殊と個別を含むという性格をもっています。普遍と特殊と個別が「曇りなく透明な姿」で存在しているのが概念なのです。
 「概念そのものは、次の三つのモメントを含んでいる」として、⑴ 普遍、⑵ 特殊、⑶ 個別をあげています。⑴ で普遍は特殊だとのべ、⑵ で特殊は普遍だと規定し、⑶ で普遍と特殊の統一としての個について述べます。「真にあるべき姿」としての概念は、客観世界にある個別のもののなかから、主観によって取り出される普遍です。
 以前にお話したように、美の概念(イデア)は「美そのもの」、美の普遍です。客観世界には花の美しさ、人間の美しさ、建物の美しさなどいろいろな美しさがあります。そのなかから取り出す「美そのもの」は、普遍的な美なのです。普遍というのは、概念の規定された姿、つまり花・人間・建物という個別のなかにあっても貫かれているような普遍という意味で「規定態のうちにありながらも自分自身との自由な相等性」なのです。
 二つ目の「特殊」ですが、普遍の規定されたものが特殊です。概念が規定され現実の姿となってあらわれているのです。現実となってあらわれている特殊においてもそのなかで普遍が自己の姿をそのまま保っていることを「普遍が曇りのなく自分自身に等しい姿を保っている」といっているのです。
 個(Einzelnheit) の日本語訳は、個別性の方がいいと思います)は、普遍および特殊の規定態の自己反省です。つまり普遍と特殊の統一です。普遍が特殊化したものが個別性です。「こうした自己との否定的統一」とは、普遍が特殊化されて普遍と特殊が一体となったものです。これが個別なのです。そしてこの個別が「即自かつ対自的に規定されたもの」であるというのは、絶対的に規定された姿としてあらわれるということです。つまり、客観世界における存在(規定態)は、すべて絶対的に規定された姿である個別としてあらわれるのです。
 一五九節の註釈で「根拠たる概念」、つまり「概念は根拠である」ということにふれました。根拠と概念とは同じ側面をもっています。根拠も根拠づけられたものとしてあらわれます。概念も、主観的な概念(普遍性としての概念)が現実世界にあらわれ出るのです。ですから、根拠と概念は共通点をもっています。しかし根拠は絶対的に規定された内容をもっておらず、そこが概念とは違うところです。「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」と、話しましたが、根拠の内容はその程度のものなのです。理由は、絶対的に規定された内容をもたないのです(㊦三九ページ)。しかし、概念は、自らが自己産出して現実性となってあらわれます。普遍が特殊化し、それ以外のものにはなりえないという意味で、絶対的に規定された内容です。同時に自己同一のもの、普遍的なものです。その普遍が特殊化して、個別となってあらわれるのです。その意味で普遍が個別に自己同一化したものなのです。

 個は現実的なものと同じものであるが、ただ個は概念から出現したものであるから、自己との否定的同一としての普遍的なものとして定立されている。現実的なもの即自的にのみ、すなわち直接的にのみ、本質と現存在との統一であるにすぎないから、それは産出することもできるものにすぎない。しかし概念の個別性は、絶対的に産出するものであり、しかも原因のように、他のものを産出するという仮象を持たず、自分自身を産出するものである。

 「個は現実的なものと同じである」、この現実的というのは本質論のCで述べた現実性のことです。普遍・特殊の統一としての個(普遍が特殊化した個)は、現実的なものと同じです。しかし、ここでの個は、内側にある本質が、外にあらわれ出たのではなくて、主観的な(精神の自由な働きによる)概念が客観としてあらわれ出たものです。個は概念から出現します。この点で、本質から出現した現実性とは違って、自己との否定的同一としての普遍的なものとして定立されているのです。
 個というのは、概念が個に同一化したものとして普遍でもあります。「真にあるべき姿」が客観化するということです。客観になってあらわれ出た「真にあるべき姿」のなかに普遍が貫かれているのです。
 「現実的なものは即自的にのみ、すなわち直接的にのみ、本質と現存在との統一であるにすぎないから、それは産出することもできるものにすぎない」とあります。ここでの現実的というのは、本質論でいうところの「現実性」です。本質論での「現実性」は、本質と現象との統一として、あらわれ出ることもあれば、出ないこともあるというものです。現実性のなかで可能性について論議しました。そして可能性・偶然性・必然性へと展開していきました。ですから可能性のあたりでは、産出することもあれば産出しない場合もある状況でした。だからこの現実性は可能性を含んでいる段階のカテゴリーです。
 しかし、概念の個別性はそういう段階ではありません。「真にあるべき姿」である概念は、現実になる力をもって、絶対的に産出するのです。これが理想と現実の統一を考え続けたヘーゲルが追及したエネルゲイアとしてのイデアなのです。絶対に現実となる力、現実となる力をもった理想、それこそが概念であるとヘーゲルは考えたのです。
 「概念の個別性は、絶対的に産出するものであり、しかも原因のように、他のものを産出するという仮象をもたず、自分自身を産出するものである」とありますが、原因の場合は、どんな結果を生むかあらわれてみないと分かりません。これに対して、概念が個別化するということは、自分自身がそのまま主観から客観にあらわれ出るという意味で自分自身を産出するものですから、他のものは生まれてきません。絶対的に自己産出の力をもっているのです。

 ── しかし個は、われわれが個々の物や個々の人と言う場合に意味するような、単に直接的な個の意味に解されてはならない。こうした意味を持つ規定された個は、判断においてはじめてあらわれる。概念のモメントの各々は、それ自身全体的な概念なのであるが(一六〇節)、しかし個、主体は、統体性として定立された概念である。

 普遍が特殊化した個別というのは、もはや、定有や現実性としての個々の物ではありません。このリンゴであるとか、あの人であるとかを問題にしているのではなく、真にあるべきリンゴ、または真にあるべき人を問題にしているのです。
 「概念のモメントの各々」つまり、普遍・特殊・個はそれぞれ全部が概念なのです。普遍の概念が特殊化されて個別の概念になります。そしてその個は、主体性、統体性として定立された概念なのです。
 真にあるべき姿としての人間は「主体」としての人間です。ここでヘーゲルが主体という言葉を使っているのは重要だと思います。真にあるべき姿、つまり概念を自己運動(自己展開)する主体としてとらえているのです。中心にすえられているのは、人間の精神の自由な働きによる、主体的な主・客の同一性の実現です。主・客の同一は人間という主体が存在することによって、はじめて定立されるのだとヘーゲルはいいたいのです。
 ヘーゲルは『精神現象学』の冒頭で「真なるものをただ単に実体として把握しかつ表現するだけでなく、全く同様に主体としても把握し表現する」と述べています。実体というのは客観世界の真なるものですから、ここには主体的な人間は出てきません。客観世界だけをみていてはダメなのです。人間の主体的な実践、主体的な認識と実践とをみないと、哲学は意味をもたないといいたいのです。

具体的普遍としての概念

 一六三節補遺一 概念と言うとき、人々は普通抽象的な普遍をのみ考えている。したがってまた人々は普通概念を一般的な表象と定義している。かくして人々は色、植物、動物、等々の概念について語り、そしてそれらの概念がどうして作られるかと言えば、色、植物、動物、等々はさまざまであって各々はその特殊性によって互に異っているのであるが、この特殊性を除去し、それらに共通なものを固持することによって作られる、と考えている。これが悟性が概念を理解する仕方であって、感情がこうした概念を空虚なもの、単なる図式および影にすぎぬものとするのは正しいのである。

 形式論理学でいう概念は、抽象的普遍です。例えば、リンゴには赤いもの、青いもの、甘いもの、酸っぱいものなどいろいろなリンゴがあります。いろいろあるけれども、それらの特殊性を除去したところにリンゴそのものという共通する普遍が生まれるのです。しかし、そういう概念は空虚なもの、単なる図式や影にすぎません。ヘーゲルのいう概念はそのようなものではなく、具体的なものなのです。

 しかし概念の普遍は、それにたいして特殊が独立の存在を持っている共通なものとはちがう。それは自ら特殊化するものであり、他者のうちにありながらも、曇りない姿で自分自身のもとにとどまっているものである。認識にとっても実践にとっても、単に共通なものを真の普遍と混同しないことが大切である。

 普遍としての概念は自ら特殊化する力をもつものです。他者としての特殊のうちにありながらも、そのなかで曇りない姿で自分自身にとどまっているのです。こういう普遍を抽象的普遍にたいして具体的普遍というのです。
 特殊化を自らのうちに含むような普遍という意味です。認識においても実践においても、この具体的普遍としての概念を考えることが大事なのだとヘーゲルは述べています。
 ヘーゲルは概念を認識と実践の課題としてとらえているのです「個は主体だ」という言葉がそれです。形式論理学でいう概念は抽象的な普遍ですから空虚なものです。ヘーゲルがそれを単なる図式および影にすぎないのだという批判をしているのは正しいのです。概念は抽象的なものではなく、具体的なものなのです。
「認識にとっても実践にとっても、単に共通なものを真の普遍と混同しないことが大切である」とありますが、認識にとっても実践にとっても大事なのは真の普遍、具体的普遍としての概念だといっているのです。だからヘーゲルが概念を、認識と実践の課題としてとらえているところを注目してください。それが「個別は主体だ」ということです。
 有論、本質論、概念論は、全体として認識論を述べたものであり、有論、本質論、概念論にいくにしたがってより深い認識になっていくというお話をしました。ここで更にそれを詳しくいうならば、概念論は単なる認識論ではなくて、認識論プラス実践論であり、人間の主体性を問題にしているのです。ヘーゲルは哲学の課題を真理の認識にあると考えます。その真理の認識は有論、本質論、概念論と進むにしたがってより深い認識になっていきます。もっとも深い真理の認識とは、実践をつうじて実現される真理なんだというのです。
 それは変革の立場に立つ科学的社会主義の理論の生命ともいうべきものではないかと、私は思います。科学的社会主義の理論は自然や社会を合法則的に変革する立場です。常に自然や社会を変革の対象としてみることをつうじて、真にあるべき姿を認識し、そこに向って実践をしていくということを意味しています。ですから、科学的社会主義における真理とは、実践をつうじて実現される真理なのです。それを「真理は必ず勝利する」という言い方で述べています。科学的社会主義の真理論は単なる認識論としての真理論ではなくて、実践をつうじて現実化する力をもった真理論なのです。認識論であると同時に実践論と結びついた真理論を科学的社会主義では問題にしています。その源流はヘーゲルにあると、私は理解をしております。

 感情の立場から思惟一般、特に哲学的思惟にたいしてしばしば加えられる非難、および思惟をあまり遠く駆るのは危険だという、よく繰返される主張は、こうした混同にもとづくのである。

 思惟することは、物事を抽象的に考えていくということです。具体的なものから抽象的なものへと考えていくことです。「思惟をあまり遠く駆るのは危険だ」というのは、どんどんものごとを抽象化していくと、それは普遍に到達するかもしれませんが、そんなものは抽象的で空虚なものであって、それを問題にするのは危険な思想なのだという考え方を述べたものです。抽象化するということは、抽象的普遍に到達することだと考えるような立場です。しかし、ヘーゲルの立場はそうではなく、物事を抽象化して考え、抽象化することをつうじて具体的普遍をつかむことにあるです。だから、いくら抽象化しても、それによって危険な立場に陥ることはないのです。

 真の包括的な意味における普遍は、人間の意識にはいるまでには数千年を要し、キリスト教によってはじめて完全に承認されるようになった思想である。ほかの点ではあんなにも高い教養を持っていたギリシャ人も、真に普遍的な神および人間を知らなかった。ギリシャの神々は、精神の特殊な諸力にすぎなかったし、普遍的な神、すなわちあらゆる民族の神は、アテナイ人にとってはなお隠れた神であった。またギリシャ人は、かれら自身と異民族との間には絶対の相違があると思っていたし、人間そのものが無限の価値と無限の権利を持っているということを認めるにいたっていなかった。人々は、現代のヨーロッパから奴隷制が消滅した根拠はどこにあるか、という問題を呈出し、この現象を説明するために、あれこれの特殊な事情を挙げている。キリスト教的ヨーロッパにもはや奴隷制が存在しない真の根拠は、キリスト教の原理そのもののうちにのみ求むべきものである。

 「真の包括的な意味における普遍」とは、特殊・個別を内に含んだような普遍、つまり具体的普遍のことです。そういう普遍が人間の意識に入るまでに数千年を要しました。人間の精神の働きとして、具体的普遍をつかまえるのは大変なことなのだといっているのです。それは「キリスト教においてはじめて完全に承認される」というのは、キリスト教の神と子と聖霊との三位一体説を念頭においているのです。神は天上にいて、その子供としてキリストが地上に誕生し、そしてキリストが死ぬことによって聖霊として復活します。だから、神と子と聖霊とは一体なのです。人間たるキリストは、その神の子なのです。神の子として、神と同じ普遍性をもっているという考えです。キリストは神の特殊化であり、特殊化された個別なのだというのです。個別のなかに神の普遍性が宿っているのです。こういう意味でキリスト教によって「人間そのものの普遍性」が完全に承認されるようになったとヘーゲルは述べるのです。
 「ギリシャ人も、真に普遍的な神および人間を知らなかった」とあります。ギリシャの神、例えば、太陽の神アポロとか、美の神アフロディテのように、それぞれの個別のなかに(特殊のなかに)、神を見出しているのです。真に普遍的な神を知らなかったから、逆に真に普遍的な人間も知らなかったというのです。ギリシャ人は「人間そのものが無限の価値と無限の権利を持つということを認めなかった」とありますが、ギリシャ時代はまだ奴隷制の社会ですから、都市における自由民は同時に奴隷の所有者でもあったのです。奴隷主は奴隷を対等の人間とは認めませんし、奴隷も自分自身を主人と対等な人間だとは認めません。奴隷も奴隷主も、人間そのものの普遍性を否定するという意味では人間の概念に該当しないのです。だから奴隷制を否定したキリスト教においてはじめて、人間の無限の価値、無限の権利が認められたというのです。すなわち人間の普遍性が認められたのです。人間は神の子であり、神と同一である。人間のなかに神が宿っているのだということで、神は普遍的なものですから、その普遍性を神の子である人間ももっているのだというのです。
 すべての人間が普遍的価値をもつというこのキリスト教の精神においてはじめて、奴隷制が否定されるようになったといっているのです。これに根拠があるかどうかは別問題です。唯物史観からいえば、そういう訳にはいかないと思います。しかし、ヘーゲルがいいたいことは分かります。

 上に述べた単なる共通性と真の普遍性との相違は、ルソーの有名な社会契約(contrat social)のうちに見事に言いあらわされている。ルソーは、国家の法律は普遍的意志(volonté générale)から生じなければならないが、といって決して万人の意志(volonté de tous)である必要はない、と言っている。もしルソーが常にこの区別を念頭においていたら、かれはその国家論にかんしてもっと深い業績を残したであろう。普遍的意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律はこの概念にもとづいている意志の特殊規定である。

 ルソーの社会契約論のなかでは、と、とを区別しています。ルソーの考えはvolonté générale volonté de tous国家の法律とは国家の意志であり、それは普遍的意志でなくてはならないというのです。普遍的意志というのは、具体的普遍(概念たる国家の意志)を問題にしているので、それは万人の意志である必要はないのです。国家の法律というのは、真にあるべき法律をつくらなくてはならないのです。真にあるべき法律は、国民の普遍的な意志としてあらわれるのです。場合によれば、この普遍的意志は少数のものの意志かもしれません。これは大事なことだと思います。
 われわれは常に、日本という国家の「概念」を問題にしているのです。日本という国家の「真にあるべき姿」はどうなのかということを問題にしています。それはまさに国家の普遍的意志は何かということを追求しているのです。それが革新三目標なのです。革新三目標は今、まだまだ少数のものの意志にすぎません。しかしこれは普遍的意志です。国家の概念です。それは未だ万人の意志でありませんが、普遍的意志というのは、真理であるがゆえに万人の意志となる必然性をもっているのです。もちろんヘーゲルはそこまで述べていませんが、この点は大事なところだろうと思います。
 統一戦線の目標は何なのかといいますと、それは、国民の大多数がそこに向って認識が一致できるであろうという目標です。この社会は非常に多様な価値観をもっている人々によって構成されています。多様な価値観、世界観があるにもかかわらず、どうして国民の認識が一致しうるのかといえば、それは目標とされるものが真理だからです。真理とは単一なものです。単一なものと同時に真理は真理であるがゆえに、必ず勝利する力をもっています。だから、真理としての「真にあるべき姿」、すなわち概念が、革新統一の目標としてかかげられる場合にのみ、はじめて普遍的意志として実現する力をもつことになるのではないでしょうか。だから、真理以外の政治革新の目標がかかげられた場合には、そこに向って国民の意志が統一される必然性はありません。真理でなければそこに国民の大多数を結集する必然性はないのです。真理であるからこそ、その真理の単一性によって人々の認識がそこに収斂されていくのです。ですから「真にあるべき姿」こそ、本当の意味の真理なのです。
 ルソーの「国家の法律は普遍的意志だ」と述べているところは、社会変革は普遍的意志の追求であり、国家の「概念」の追求であると読みとることができるのではないでしょうか。ルソーが普遍的意志という言葉と万人の意志という語とを区別したことには、非常に大きな意味があると思います。だからヘーゲルは、ルソーが普遍的意志という言葉のなかにヘーゲルのいう概念を思い浮かべていたら、国家論にかんしてもっと深い業績を残していただろうにと残念がっているのです。
 普遍的意志とは、意志の概念のことです。もろもろの法律はこの概念をつうじた意志の特殊規定であると述べています。国家の意志を実現するというのは、国家の概念を実現することになると思います。この辺は、われわれにとっても参考になると思います。

 一六三節補遺二 概念の発生および形成にかんして悟性的論理学が普通与えている説明について、なお注意すべきことは、概念は決してわれわれが作るものではなく、また概念は全く発生したものではないということである。概念は単なる有あるいは直接的なものでなく、媒介をも含んではいるが、しかしこの媒介は概念自身のうちにあるのであって、概念は自分自身によって、自分自身と媒介されたものである。まずわれわれの表象の内容をなしているさまざまの事物があり、その後に主観的活動が行われ、そしてこの主観的活動がそれらに共通なものを抽象し総括する働きによって概念を作る、という風に考えるのは誤りである。

 この辺はヘーゲルの観念論の非常に面白いところでもあります。プラトンやアリストテレスのイデア論を彼は念頭においているのですから、イデアというものが根本的存在としてあり、そのイデアのあらわわれとして現実世界があるという考え方にここではとらわれています。概念こそ根本的存在であり、概念が現実化することによって客観世界が生まれたのだという言い方をしているのです。ヘーゲルは一面で概念を神のように考えていたということを前に話しましたが、その面が非常に強く出ています。
 しかし、この後を読んでみるとちょっと矛盾があるようです。

 概念は真に最初のものであり、さまざまの事物は、それらに内在し、それらのうちで自己を啓示する概念の活動によって、現にそれらがあるような姿を持っているのである。

 ここでは、概念はさまざまな事物に内在するととらえています。だからこそ彼は有論、本質論をへたうえで概念論を展開しているのです。有論、本質論のなかに概念が潜在的な姿でひそんでいるから、それを主観の精神の働きによって取り出すことで、概念が生まれるのだという意味です。有論、本質論をへて概念が生成するという言い方を彼はしているのです。だから概念は事物に内在していると一面ではとらえているのです。論理学全体もそのように構成しているのです。構成していながらも、一面ではプラトンのイデア論にかなり強く引かれていて、概念こそ最初に存在するものだという言い方をしているのです。
 ヘーゲルは前にもいったように、客観世界というものは、歴史的に発展してきたのだということをつかまえたかったのです。ただ宇宙や、地球がどのように発生してきたのか、種がどんなふうに発生してきたのかそのメカニズムをまだ知らないのです。ですから、それは概念が作りあげたのだという言い方をしているのです。それは、ヘーゲルの歴史的な制約だと思います。しかし、これまで学んできたようにヘーゲルは、概念を闇夜に鉄砲を撃つみたいな形で、どこからかポンと生まれてきたのだとはとらえていません。

 神は世界を無から創造したとか、あるいは世界および有限な諸事物は神の豊かな思想と意志とから生じたとか言われるのは、このことを宗教的に言いあらわしたものである。そしてそれは、思想が、もっとはっきり言えば、概念が、無限の形式、すなわち自由な、創造的な活動であって、自己を実現するのに、自己は外に存在する材料を必要としないことを認めているのである。

 ここで述べていることは、概念を神と理解するのとほとんど同一です。神は無から世界を創造した、同様に概念は無から世界を創造したということになるのです。神は無から世界を創造するということは、神は、材料を必要としないのです。同様に概念も自由な創造(概念が自己運動すること)によって、この客観世界を造り出したんだというようにとらえることができるのです。ヘーゲルが概念を絶対的に活動的な力だととらえている点は評価することができます。自由な創造的な精神の活動として概念をとらえるという点も評価できます。しかし、まず概念が存在して、真にそれが最初のものだとする立場、さまざまな事物が概念によって造られたのだというところは、われわれ唯物論者としては、賛同するわけにはゆきません。ヘーゲル自身も「概念」というカテゴリーのなかにいろんな要素を持ち込んでいますから、われわれがそのなかから唯物論的なものをいかに引き出すのかが大事だと思います。

ヘーゲル哲学の時代的制約と観念論
 
 これまでのことを整理すると次のようになります。
 哲学の目的は真理の認識にあります。真理を認識するためには現象世界(客観世界)の必然性を認識するだけでなく、現象世界を生み出した必然性そのものを認識しなければならないとヘーゲルは述べています。「エンチクロペディー」の序論のなかで「思惟的な考察というものは、その内部に必然性を示し、その対象の諸規定のみならず、その対象の存在をも証明しようとする要求をそのうちに含んでいるものである」(㊤六一ページ)と述べているところにも、それをみることができます。
 目の前にあるものをそのまま肯定するのではなくて、なぜそのような形としてあるのか、そのものを生みだしたものを解明することが大切です。もとにあるものの必然的なあらわれとして現象世界があるととらえなければならないと、ヘーゲルは考えています。
 ヘーゲルの時代は、現代からみればまだ自然科学の発展がかぎられていた時代でした。地球がいかにして誕生したのか、動植物の進化はどのような形であらわれるのか、宇宙の発生はどのようにしてできたのか、など宇宙や地球、生命の発生の原理が解明されていませんでした。ヘーゲルは客観世界はすべて、運動・変化・発展するものだと考えていますから、現在あるものを生み出した根本の原因があるはずであると考えました。世界を生み出した根本原因を「概念」とか「理念」とかあるいは「精神」ととらえています。だから概念というのは絶対的なエネルゲイアとしてのイデアであるという言い方をするのです。
 世界の根本原因を概念あるいは理念としてとらえるということは、この限りで概念は世界の創造主としての神 と一致する側面があります。八節で「広い意味では、ヌースあるいは精神が世界の原因である」(㊤七四ページ)といっています。ヘーゲルはこのヌースあるいは精神と同じ意味で概念という語をつかっているのです。このかぎりで概念は神と一致する側面があることは否定できません。ここにヘーゲル哲学の観念論を見出す根拠はあります。しかし、ヘーゲルは客観的な自己原因として概念をとらえているのです。客観世界に存在する一つ一つの個物のなかに概念が存在すると考えているのです。個物のなかにイデアがあると考えているのですから、イデアとしての概念は「真にあるべき姿」としてもとらえられているといえます。
 われわれ唯物論者は、ヘーゲルの哲学とりわけ概念論のなかに客観的観念論があるといいますが、これは時代の制約のなかから生まれた観念論といってもよい側面が強いのではないかと思います。ヘーゲルは世界を生み出した原因を探求しようとしました。そしてそれが概念、理念だというのです。
 「概念」のなかから唯物論的側面をとりだして科学的社会主義の理論をより豊かな方向にするために使っていくという、ヘーゲル論理学の創造的な学習の仕方が求められているのです。そのためにこそ概念を「真にあるべき姿」としてとらえるべきではないかと思います。
 さらにもう一言つけ加えると、概念=「真にあるべき姿」と、有論のなかの「当為(Sollen」=「あるべき姿」とを、ヘーゲルが十分意識して区別していることに留意することが大切です。現代は変革の時代です。誰もが変革を唱えています。変革はあるべき姿をいうわけですから、これは当為です。あらゆる当為のなかから、唯一の真なる当為ともいうべき概念を示すところに、科学的社会主義の運動論があるのです。
 そして、その「真にあるべき姿」が真理であるからこそ、国民大多数を結集する展望が出てくるのであって、この意味で当為と概念の区別は、社会的実践の上からも重要なカテゴリーになってきています。ここにも概念論を学ぶ意義があるといえます。
 これらを前提としてヘーゲルは、概念(真にあるべき姿)が根本にあって、それが現実世界を生み出すのだと考えました。しかし、これだけであれば本当の観念論ですが、ヘーゲルはこの概念を客観世界のなかから導き出されるとみているのです。
 ここに主観と客観の直接性と媒介性の統一が確立されるのです。まず概念は主観の働きで生み出されます。客観世界のなかの必然性・法則性を認識し、そのことをつうじて「真にあるべき姿」としての(主観としての)概念が把握されます。その把握された主観的な概念にもとづいて、それを客観に現実化する実践・運動があるのです。これをつうじて主観としての概念が客観としての概念に一致するのです。主観と客観の同一性が定立されます。直接性と媒介性の統一といっているのは、そういうことです。最初に概念が客観のなかから生み出されますから、概念は客観に媒介されているのです。しかし媒介はされているのですが、客観の認識そのものではありません。概念は客観を否定する認識として、客観に媒介されているけれども客観から独立した直接性があります。この意味で主観としての概念は直接性と媒介性の統一として存在するのです。
 同時に頭のなかでつかまえられた主観としての概念(真にあるべき姿)は、とりあえず人間の頭のなかだけにあるので直接的存在ですが、実践をつうじて客観化されます。ですから直接的存在ではあるけれども媒介されて客観に至るのです。客観から主観へ、主観から客観へという往復運動を通じて二重の意味で「直接性と媒介性の統一」が実現されるのであり、それによって主客の同一性が確立されていくものとして、ヘーゲルは概念をとらえたのです。概念を媒介とする主客の交互作用をつうじて、次第に真理が実現されていくのです。

概念の透明性

 一六四節 概念は絶対に具体的なものである。なぜなら、個がそうであるような、即自かつ対自的に規定されたものとしての自分自身との否定的統一が、それ自身概念の自分自身との関係、すなわち普遍性をなしているからである。概念の諸モメントはこのかぎりにおいて不可分のものである。反省の諸規定は、対立した規定からはなれて各々それだけで理解され妥当するという意味を持っているが、概念においてはそれらの同一性定立されているから、概念の諸モメントの各々は直接に他のモメントから、また他のモメントとともにでなければ理解できないものである。

 概念における普遍・特殊・個別は、区別されながらその同一が定立されていて、普遍・特殊・個別をそれぞれ切りはなして理解することはできないと述べています。このことは「概念の透明性」として少し後に出てきます。
 「概念は絶対に具体的なものである」とありますが、単に主観でとらえたものではなく、現実性としてあらわれ出てくるものです。ですから絶対に具体的なものなのです。それは「個がそうであるような、即自かつ対自的に規定されたものとしての自分自身との否定的統一が、それ自身概念の自分自身との関係、すなわち普遍性をなしているから」です。概念があらわれ出た客観というものは、普遍が特殊化した個別としてそのなかに普遍がそのままあらわれているものであり、個と普遍とが統一されているのです。「概念の諸モメントはこのかぎりにおいて不可分のものである」とは、個別のなかに普遍がそのまま生きていることです。
 本質論で問題にした反省の諸規定は、対立物のそれぞれを、本質は本質、現象は現象として各々の一方だけで理解することができたのです。概念では普遍は普遍、特殊は特殊というわけにはいかないのです。普遍・特殊・個別は一体不可分のものとして同一性が定立されているのです。だから「概念の諸モメントの各々は、……他のモメントとともにでなければ理解できないのである」となります。例えば、Aさんという人間は、一個の人間としては個別です。しかし日本人としての特殊性をもち、人類という普遍性をもっています。一個のAさんという人間のなかに、個別と特殊と普遍がはいっているのです。

 普遍、特殊、個は、抽象的にとれば、同一、区別、根拠と同じものである。しかし普遍は、同時に特殊と個とを自己のうちに含んでいるという意味をはっきりもつ自己同一者である。また特殊は、区別あるいは規定態ではあるが、しかし自己のうちに普遍を内在させ、また個として存在するという意味を持っている。同時に個も、類と種とを自己のうちに含み、そしてそれ自身実体的であるところの主体であり根柢であるという意味を持っている。ここには、概念の諸モメントが区別されていながらも不可分であることが定立されている(一六〇節)。これがすなわち概念の透明性であって、概念のうちではいかなる区別も、中断や曇りをひきおこすことなく、あくまで透明である。

 「真にあるべき姿」という概念は、普遍も特殊も個別も全部もっているのです。透明といっているのはこの三つが重なっているのですが、ごちゃごちゃに重ならずに、三つのモメントが区別されながら重なっているのです。Aさんという個人のなかに種も類も透明でみとおすことができるのです「普遍、特殊、個は、抽象的にとれば同一、区別、根拠と同じものである」とありますが、普遍というのは自己同一の状態です。普遍のままに留まっているというのは、そのままじっとしているということです。しかしそれは特殊として区別されて、普遍が特殊化するのです。自己同一のものから区別が生まれてくるのです。普遍が特殊化したものが個ですから、個は普遍と特殊の統一としてあるのです。それはちょうど、同一と区別の統一として根拠があるのと同じです。
 同一・区別・根拠と違うのは、普遍は同時に特殊と個とを自己のうちに含んでいるような、そういう自己同一なのです。特殊は普遍性を自己のうちに含み、また個としても存在します。個も類と種(類と種は普遍と特殊ということ)を自己のうちに含んで、それ自身主体であるので概念の諸モメントと区別されながらも不可分であるのです。
 類・種は、人間におきかえて、人類・人種ととらえるとよく分かります。人類の方がより普遍的なのです。種の方が特殊化されているのです。類・種は普遍と特殊と同じ意味で使われています。
 普遍としての「真にあるべき姿」は、客観世界のなかから見出されるものです。つまり、客観世界の個別のなかから、普遍たるべき「真にあるべき姿」が生まれてくるのです。同時にその「真にあるべき姿」が、特殊化して客観世界の現実を変革するのです。普遍・特殊・個別は区別されながらも統一されると、ヘーゲルはこのようにとらえたのです。頭においているのは「真にあるべき姿」が、主観と客観の交互作用のなかで生まれかつ現、実化するということなのです。

《質問と回答》

 普遍、特殊、個別あるいは個という用語が出てきます。これがキーワードだと思うのですが「どうしてこういうカテゴリーを持ち出してくるのか理解できない」という質問がありました。
 概念はこれまでも話してきたようにイデアです。イデアは、客観としての個別のなかから導き出される普遍です。同時にヘーゲルはイデアは普遍にとどまるのではなくて、客観に具体化する力をもっているというエネルゲイアとしてのイデアを念頭においているのです。だから個別のなかから生まれる普遍でありながらも、その普遍は同時にまた自らを特殊化して個別になるという普遍です。イデアそのものがどのようにあらわれ、どのようにエネルゲイアとしての絶対的な力をもっているかを明らかにするうえで普遍、特殊、個別という、カテゴリーを使う必要があったのが一つの側面だろうと思います。
 もう一つの側面は、概念論のなかにおいて形式論理学で問題にしている、概念・判断・推理という思考の形式をもとりあげているのです。判断、推理という思考の形式のなかでは普遍、特殊、個別というカテゴリーを使わざるをえないのです。例えば「Aさんは人間である」という最も簡単な判断では「個は普遍である」という判断になりますから、思考の形式としての判断を問題にするかぎり、普遍、特殊、個別ということを問題にせざるをえないのです。この二つの面から、普遍、特殊、個別というカテゴリーを概念論のなかでとりあげたのだろうと思います。
 次の質問は、国家の概念、国家の「真にあるべき姿」を述べて、それは革新三目標だと話しました。真理を目標としてかかげることによってのみ国民の大多数を結集することができるのであり、真理以外の目的で国民の大多数を結集することはできないという話をしたと思います。それに対して「大東亜共栄圏はどうなのか。あれは真理ではないけれども国民は総動員されたのではないか」という質問がありました。
 真理が勝利しうるのは、やはり表現の自由が保障されている状況のもとでのみなのです。「大東亜共栄圏」の場合には、国民の一人一人の自発的な意志にもとづく多数の結集ではなくて、国家権力という強力装置を使って強制的に動員させたのですから、これは真理の問題とは全然別個の問題だろうと思います。だから表現の自由が十分、不十分はあっても一定保障されていることを前提として、被支配階級が議会の多数派を占めるということは、その社会における「国家の真にあるべき姿」、つまり「国家の概念」が正しく提示されたときにのみはじめて実現することができるのです。つまり真理の単一性です。その一つの真理に向かって全ての国民が認識を前進させていって真理に到達してゆくのです。真理に到達する人数が増えることによって多数が形成されていくのです。
 三つめに、概念は自己を実現するのに外に存在する材料を必要としないと書いてあるけれども、これはどういう意味だろうかという質問です。概念というのは先ほど話しましたように、エネルゲイアとしてのイデアです。イデアは自分自身のもつ絶対的な力において、イデアを実現していくのです。つまり他のものの力を借りてはじめて実現するものではなくて、自分自身の力で自分を生み出していく、自己産出するのです。真理は真理のもっている力によって、現実のものとなります。真理が現実となるにあたっては、他のものの力を借りる必要はないという意味でいっているのです。

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