『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第九講 概念論・主観的概念 Ⅲ

b 判断─ 続き

真理論と判断

 今日は判断のなかの質的判断からです。前回、判断というのは有論、本質論、概念論に対応して三つの段階があり、さらに本質論の部分が二つに分かれて反省の判断と必然性の判断に分かれるから、合計四つの判断があると説明しました。その四つの判断は単に横並びの四つの判断ということではなくて、真理を認識する諸段階をなすものとしてとらえるべきだということについてもふれたと思います。
 これまでにも「真理論」ということは折にふれて述べてきましたが、ここで少し整理してみます。唯物論では客観的実在と一致する判断を真理といっています。しかし、それは展開する必要があるように思われます。つまり客観的実在とは一体何なのかということがさらに問われるのです。表面的な現象もあれば奥に隠された本質もあります。いうなれば真理にも、いろんなレベルの真理があるのです。客観的現実と一致する判断といっても、客観的現実を正しく反映する反映的な一致の面があると同時に、その反映した真理を現実化して現実と認識が一致する実践的な真理もあるわけです。
 「真理は必ず勝利する」という言葉を使うことがありますが、それは認識としての真理が実践をつうじて客観化されるという意味で認識と客観的実在との一致を問題とする真理だといえます。ですから一言で客観的実在と一致する判断だといっても、いろいろな内容を含むと思われます。ヘーゲルの判断論はいろいろなレベルの真理を一歩づつ踏みしめながらより高い真理に到達していく、そういう段階的な認識の発展を判断の形式をつうじて問題にしているのだと思います。しかもヘーゲルは、低い段階の真理認識には、認識論上の限界があることを指摘しながら、その限界をのりこえる形でより高い真理の認識へと前進していくことを判断の形式をたどりながら展開しています。
 概括的に四つの判断について述べておきます。まず質的判断、言いかえると「定有の判断」はものごとの表面的な認識にもとづく判断のことです。「今日はいいお天気ですね」という場合、これは確かにいい天気をいい天気と認識するわけですから、それなりに正しい認識ということになります。しかしそれは表面的な正しさにすぎません。
 二つ目の「反省の判断」は、本質の判断と法則の判断の二つを含んでいるのだと思われます。これはものごとの表面的な姿の奥に隠された真理を認識する判断だといってもいいと思います。
 三つ目の「必然性の判断」は、前に本質論で論じた類としての実体を認識する判断になるわけで、本質や法則よりもっと深い真理になるわけです。ここまでがいわば客観世界における真理の認識になります。
 四つ目の「概念の判断」は、客観世界そのものには限界があり、有限な存在ですから、そこをのり超えるイデアの判断を問題にするのです。イデアというのは「真実在」と訳されることがありますが、概念の判断は、客観をのり超えた「真にあるべき姿」にかんする判断であると、大きくこのようにとらえられます。
 前に相関のところで、本質は表面から隠された本当の姿、実体はそのものの類としての姿・本来の姿、概念は主観の働きかけによって生まれた真理・真にあるべき姿といえるのではないかと問題提起しました。本質と概念はこれでいいと思うのですが、実体が「本来の姿」という言い方でいいのかどうか自分でもちょっとすっきりしないのです「ものごとの根底にある真の姿」といった方がいいというようにも考えてみました。。
 いずれにしても、表面的な正しい姿を認識することが質的判断における真理です。表面から隠された本当の姿を認識することが反省の判断における真理です。ものごとの根底にある真の姿を認識することが必然性の判断における真理です。真にあるべき姿を認識するのが概念の判断における真理です。とりあえずはこういっておきたいと思います。
 われわれがものごとを認識するときに、本質、法則性を認識するということはよくいいます。しかし実体を認識するとか、類を認識するとか、あるいは具体的普遍を認識するとか、概念を認識するとかいうことはあまり問題にしません。ヘーゲルの判断論における四つの判断の区別は、われわれがあまり意識しない真理の認識のレベルを区別したものとして重要なのではないかと思います。これからの講義のなかでは、それぞれの判断がどういう意味で真理の認識にとって限界をもつのか、なぜより高いレベルの判断まで前進していかなければいけないのか、それぞれの判断の意義と限界をしっかり理解することが重要なのではないかと思います。
 これらのことを前提にしてテキストに入っていきたいと思います。


イ 質的判断(Qualitatives Urteil)

肯定判断

 一七二節 直接的判断は定有の判断(das Urteil des Daseins)である。ここでは主語は、その述語であるつの普遍性のうちに定立されているが、この述語は一つの直接的な(したがって感性的な)質である。

 直接的判断というのは最初の判断という意味です。判断としての一番低いレベルの判断が「定有の判断」です。主語は個体です。述語はその個体の質を述べる判断です。有論のなかで定有は質なのです。だからある個体の一つの質にかんする判断は、そういう意味で定有の判断ですが、ここでは質的判断とよばれています。その例として「このばらは赤い」をあげることができます。

 定有の判断は ⑴ 個は一つの特殊なものである、という肯定判断(positives Urteil)である。しかし個は特殊なものではない。もっとはっきり言えば、そうした単一の質は主語の具体的な性質に適応しない。⑵ これが否定判断(negatives Urteil)である。

 定有の判断はさらに三つに分かれて、一つは肯定判断、二つ目が否定判断、三つ目は二つに分かれていて(一七三節になりますが)、同一判断と無限判断が論じられています。このような形で認識は前進しているということを述べているのです。
 「このばらは赤い」という判断が定有の判断のなかの肯定判断です。この判断は「このばら」は「赤い」という判断ですけれども「このばら」と「赤」とは同一ではありません。ばらにもいろんな性質があり、他方、赤い色のものは他にもたくさんあります。したがってヘーゲルは肯定的判断というのは一点で触れあうだけだといっています。
 だから、ばら=赤となっていますが、実際には、ばら=赤ではないのです。したがって肯定判断は真理を認識するうえで限界をもつところから「このばらは赤ではない」という否定判断に前進しなければならないのです。この二つ(肯定判断と否定判断)を合わせれば、ばらは赤であって赤ではないということになります。ヘーゲルは、すべての命題はその反対命題で補ってこそ真理に近づくといっています。
 確かにこのばら自体は赤い色をもっているけれども、ばらと赤とは同じかというとそうではありません。そういう意味で「個は特殊なものではない」と叙述しているのです。個と特殊は同じではない、ばらと赤とは同じではない。だから赤という質は、主語であるばらの具体的性質には適応しないから「ばらは赤ではない」という否定判断に前進しなければならないといっているのです。

 「ばらは赤い」とか「ばらは赤くない」というような質的判断が真理を含みうると考えるのは、普通の論理学の最も根本的な偏見の一つである。こうした判断も正しく(richtig)はありうる。言いかえれば、知覚、有限な表象および有限な思惟のかぎられた範囲内では、そうでありうる。そしてそれが正しいかどうかは、それ自身としては真理でない有限な内容に依存している。しかし真理は形式にのみ、すなわち、定立された概念とそれに対応する実在とにのみ依存している。しかしこうした真理は質的判断のうちには存在しない。

 ヘーゲルは「ばらは赤い」とか「ばらは赤くない」というような質的判断は、正しいか正しくないかということはいえても、真理ではないといっています。これは補遺でもっと詳しく述べられるのですが、われわれはやはりこれも真理というべきだと思います。赤いばらを「このばらは赤い」と認識することは、それはそれで表面的な認識ではあっても、客観的実在と一致する認識なのですから、真理なのです。だからヘーゲルのように「正しい」と「真理」を区別して「このばらは赤い」を、真理から切りはなしてしまうべきかというと、そうではないと思います。真理のなかの一番低いレベルととらえればいいのです。

 一七二節補遺 正しさ(Richtigkeit)と真理(Wahrheit)は普通同じ意味にとられており、したがってある内容が正しいにすぎない場合に、それが真理であると言われることがよくある。正しさとは、一般にわれわれの表象とその内容との形式的な一致をさすにすぎず、その内容がどんなものであるかは問題ではない。これに反して、真理〔真実態〕とは、対象の自分自身との、すなわちその概念との一致である。

 「正しさとは、一般にわれわれの表象とその内容との形式的な一致をさす」とあります。「われわれの表象」というのは認識「その内容」というのは対象、と理解してもいいと思います。つまりわれわれの認識がその対象、客観的実在と形式的に一致することをもって正しいとはいえますが、それは単なる正しさにすぎないというのです。ところで、唯物論において認識と客観的実在との一致をもって真理とする場合の真理は、普通このレベルでいっています。だからそれを単なる正しさであって真理ではないというと、唯物論でいっている真理観がある意味で否定されることになります。その意味でやはり正しさと真理を区別するヘーゲルの見地には疑問があります。認識と客観とが一致することは、表面的な姿の認識であっても、それはそれで真理だというべきだと思います。
 ヘーゲルのいう真理を「真実態」と訳しているのはなかなかの名訳だと思います。真実態というときは単に、認識の問題ではなくて、存在の問題を論じているのです。いわば「真にあるべき姿」としてある「真にあるべき姿」として存在している、そういうものを真実態といいます。だからヘーゲルのいう真理観は、認識論の問題であると同時に存在論の問題なのです。客観の問題です。主観の問題であると同時に客観の問題なのです。しかしわれわれがそう理解するかどうかは別問題であり、唯物論の立場からいえば、真理は客観的実在を正しく反映する認識として、認識の問題にとどめるべきだと思います。
 しかしヘーゲルは、真理を主・客の一致としてとらえることから、その認識としての真理が現実となる力をもっているという点を強く述べるのです。このいわばエネルゲイアとしてのイデアについては、われわれもそのとおりだとは思いますが、認識としての「真にあるべき姿」は、現実となる力をもっているといえば足りるのです。真理を真実態まで含めるところは、ちょっとわれわれの立場からするとゆきすぎになってしまうと思います。ヘーゲルは、客観的実在が概念と一致することをもって真理と理解しているのです。つまり概念判断における真理だけが真理といわれるにふさわしいと述べています。しかしわれわれはそれを真理の実現ととらえればよいのだろうと思います。

 或る人が病気であるとか、或る人が盗みをした、というようなことは、正しいかもしれない。しかしこうした内容は真理ではない。なぜなら、病気にかかっている肉体は、肉体の概念に一致していないし、また盗みは人間の行為という概念に適応しない行為だからである。この例から、直接的な個別について一つの抽象的な質を言いあらわす直接的判断は、それがたとい正しくても、その主語と述語とが互に実在と概念との関係をなしていないのであるから、真理を含むことはできないことがわかる。

 ある人が病気であるとする判断は、実際にその人が病気である場合には、われわれはそれを正しいといいますし、それは真理であると思うのです。しかし、へーゲルはこれは真理ではないといいます。それは「肉体の概念」に一致しないからです。
 肉体の概念は、肉体の真にあるべき姿であって、それは健康体ということになります。だから、病気である肉体は、肉体の概念に一致しないのです。このためヘーゲルはこれを真理とはいいません。盗みについていうと「人間の行為の真にあるべき姿」は、普遍的な道徳律を実践することにあるわけですから、盗みをすることはそのなかにはいっていません。だから盗みをするというのは「人間の行為の概念」「真にあるべき姿」に適応しないから真理とはいえないというのです。
 直接的判断としての質的判断・定有の判断は、或るものについてのひとつの質を判断するだけにすぎないものですから、概念との関係をまだ問題にしないのです。ですからヘーゲルにいわせると、そこには真理を見出すことはできません。せいぜい正しさが問題になるにすぎないのです。前に概念は「真にあるべき姿」として理解すべきであって、概念を有機体だと理解することは正しくないのではないかとお話しました。概念を有機体ととらえたのでは、概念と実在との一致が真理だといわれても何のことやら分からないことなってしまいます。やはり概念というのはあくまでも、イデアを念頭においたヘーゲルのカテゴリーなのです。プラトンのイデアは真実在と訳されることがありますけれど、概念は「真にあるべき姿」と理解しなければならないのではないでしょうか。

 さらにまた直接的判断の真理ではない点は、その形式と内容とが適応しあっていないことにある。「このばらは赤くある」と言うとき「ある」という繋辞は、主語と述語とが合致することを含んでいる。しかしばらは具体的なものであるから、単に赤くあるだけでなく、また香いや一定の形をも持ち、その他赤という述語のうちには含まれていない多くの規定を持っている。他方またこの述語は、抽象的な普遍として、単にこの主語にのみ属するものではなく、同じく赤くある他の多くの花や一般に他の多くの物が存在している。かくして直接的判断においては、主語と述語とは、言わば一点で触れあうにすぎず、互に合致はしない。

 ここのところは、定有の判断の限界なのです。「一点で触れあうにすぎない」肯定判断の限界です。「このばらは赤くある」というとき、このばら=赤という判断になるのです。しかし、このばらと赤とは同じかというと、それは違います。ばらというのは赤い色をもっているだけではなくていろいろな香りや形ももっています。さらに他方、述語である赤色の方も、ばらにだけあるのではありません。他のさまざまな花にもあるし、郵便ポストにもあるということになるのです「このばらは赤い」というときは、ばらと赤とがまさに一点で結びついているだけなのです。だからこれは正しい認識でも、非常に低いレベルの認識にしかすぎないことになるのです。

 概念の判断となるとちがう。「この行為は善い」と言えば、それは概念の判断であるが、こうした判断においてすぐに気のつくことは、ここでは主語と述語とのあいだに直接的判断におけるような、ゆるい、外面的な関係はないということである。直接的判断においては述語は一つの抽象的な質であって、それは主語に属することもあれば、また属さないこともありうるが、これに反して概念の判断においては、述語は言わば主語の魂であり、この魂の肉体である主語は魂によって全く規定されている。

 定有の判断のなかにおける肯定判断というのは、一点で触れあうにすぎないのですが、より高い真理を認識する概念の判断になってくると、主語と述語の関係は、述語は主語の魂という形で規定されていると述べています。肯定判断のなかの主語と述語は、ゆるい外面的な関係です。外面的な関係というのは、外側からくっつけられた関係であって、そのもの自身が生み出す結びつきではありません。ばらの述語には何をくっつけてもいいのです。赤をくっつけてもいいし、トゲがあるというのをくっつけてもいいし、良い香りだというのをくっつけてもいいという具合に、何をくっつけてもいいのです。外側からくっつけたにすぎない関係なのです。
 これに対して概念の判断においては、述語は主語の魂だと述べます。つまり概念の判断の例として「この行為は善い」をあげています。その行為の全体をとらえて、善いか悪いかと判断をしているのです。定有の判断は、主語と述語は同一だという形式にはなっていますが、内容のうえではただ一点で触れあうだけなのです。あくまでもそれは形式のうえだけの同一です。概念になってくると形式上も主語と述語は同一であるだけでなく、内容上も主語と述語は同一になってくるのです。

否定判断

 一七三節 最初の否定であるこの否定においては、主語と述語との関係が依然として存在している。このことによって述語は相対的な普遍として存在し、否定判断において否定されたのは、この普遍の規定性にすぎない(「ばらは赤くない」ということは「しかしそれはなお色を持ってはいる」ということを含んでいる。言いかえれば、それはまず他の一つの色を持っている。しかしこう言うと、それは再び肯定判断になってしまう。)

 ここでは二つ目の定有の判断である否定判断の説明をしているのです。「最初の否定であるこの否定においては」というのは、否定判断におけるこの否定においてはということです。「このばらは赤くない」には「主語と述語との関係が依然として存在している」というのです。「このばらは赤い」という肯定判断がどうして否定判断に前進するのかというと、前節でも述べましたが、ばらと赤とは同じではありませんから、肯定判断は正しくないのです。それでこういう否定判断に前進せざるをえないのだということになるのです。この「否定判断において否定されたのは」「普遍の規定性にすぎない」とありますが、赤いという色が否定されただけで、他にどんな色をもっているか、そのことはわからないのです「このばらは赤ではない」というのは赤い色をもっていることが否定されただけです。「ばらは赤ではない」といっただけでは、まだ何のことかわからないから、さらに認識は前進して次の第三段階にいくことになるのです。

 しかし個は普遍ではない。かくして判断は ⑶ 次の二つにわかれる。(イ)同一判断(identisches Urteil 、これは「個は個である」という空虚な同一関係である。(ロ) いわゆる無限判断(unendlisches Urteil)、これは主語と述語との完全な不一致の存在を示すものである。無限判断の例を挙げれば「精神は象でないものである」「ライオンは机でないものである」等々がそれである。こうした命題は「象は象である」、「精神は精神である」というような同一命題と同じように、正しくはあるが馬鹿らしいものである。こうした命題は、直接的判断、いわゆる質的判断の真相を示すものではあるが、しかしそれはおよそ判断ではなく、真実でない抽象さえも固持する能力を持っている主観的思惟においてのみ行われうる。

 肯定判断は、一点で触れあうのみです。だからそれの否定というのは、無限(全て)の点で触れあうか、それとも無限の点では触れあわないかのいずれかということになります。まず無限に触れあうとしたら「個は個である」という命題となります。それが同一判断であり、他方その無限の点で触れあわないという点での判断が、否定的無限判断なのです。「精神は象ではない「ライオンは机ではない、この何々でない」という判断が無限に続くのです。つまり肯定判断を否定することにおける真理は「個は個である」という同一判断と否定的無限判断ということになるのです。この無限判断というのは「正しくはあるが馬鹿らしいものである」、あまり意味のないものだと述べています。

 客観的にみれば、この判断は、有的なものの、あるいは感性的な事物の本性を表現している。すなわち空虚な同一と充実した関係── といってもその実、関係させられているものは質的に異っており、全く適合しあっていないのだが── とへの分裂を表現している。

 定有の判断が真理をもちうるとすれば「個は個である」「ばらはばらである」というか、それとも「ばらは象でない、ライオンでない、何々でない」というように無限に否定するかのどちらかです。だから定有の判断というものは正しいものとはいえないのです。

同一判断と否定的無限判断

 一七三節補遺 主語と述語との間にもはやなんらの関係もなくなっている否定的無限判断は、形式論理学では普通単に無意味な骨董的なものとして挙げられているにすぎない。しかし実際この無限判断は、主観的思惟の偶然的な一形式とのみ見られるべきものでなく、それは先行する直接的判断(肯定判断と単なる否定判断)の最初の弁証法的成果として出てくるものであって、直接的判断が有限であり真理でないということは、そのうちに明白にあらわれるのである。

 肯定的判断は正しくないので否定されなくてはなりません。どういう判断になれば定有の判断が正しくなるのかというと、結局「ばらはばらである」とか「ばらはそれ以外の無限に否定されるものではないものである」というしかないのだということです。否定的無限判断とは「無意味な骨董的な」命題としか考えられませんが、この否定的無限判断は、肯定判断と同一判断の否定として生まれた「弁証法的成果」であり、一定の成果であっても無意味なところに、定有の判断が全体として真理ではないことがあらわれているのです。

 犯罪は否定的無限判断の客観的な一例とみることができる。犯罪、例えば盗みを行う者は、民法上の係争におけるように、特定の物にたいする他人の特殊な権利を否定するのみでなく、他人の権利一般を否定するのであり、したがってかれは盗んだものの返還を要求されるにとどまらず、その上になお罰せられる。なぜなら、かれは法そのもの、すなわち法一般を傷つけたからである。民法上の係争は、これに反して、単なる否定判断の例である。というのは、そこでは特殊の法が否定されるにすぎず、したがって法一般は承認されているからである。

 犯罪は「否定的無限判断の客観的な一例」だとしています。時計を盗むという行為を考えてみますと、この時計はAのものでも、Bのものでも、Cのものでもない、誰のものでもないから自分のものにするのだということなのです。そういう意味で、否定的無限判断だというのです。犯罪は、誰のものでもないことを前提としてでないと成り立たないという意味では、特定の者に対する特定な権利の否定ではなくて、他人の権利一般の否定であり、それは否定的無限判断なのです。だから、刑事事件の場合には盗んだものを返すだけではなく、その上なお罰されるのです。これは法一般を傷つけたことになるからです。
 これに対して民法上の争いはAとBの間で、この時計はAのものかBのものかが争われるだけですから、単なる否定判断です。この時計はAのものであるという判断が否定されるだけだからです。そこでは法一般は承認されているのです。だから刑事事件と違って裁判に負ければ、Aのものとしては否定されることにしかならないのです。
 「この花は赤くない」という否定判断においても事情は全く同じである。それは、この花において、赤という特殊の色を否定するにすぎず、色一般を否定するのではない。なぜなら、この花はなお青、黄、等々でありうるからである。同じく死も、単なる否定判断である病気とはちがって、否定的無限判断である。病気においては、あれこれの特殊な生活機能が妨げられ、あるいは否定されるにすぎないが、これに反して死においては、普通ひとが言うように、肉体と魂とが離れ去るのであって、すなわち主語と述語とが全く分離するのである。
 前節の民法上の係争では、AとBの間でこの時計はどちらのものかという争いになります。Aのものであることが否定されることは、Bのものであることが肯定されたということではありません。だからこの意味では、民法上の係争は単なる否定判断です。特殊の法が否定されるのは、Aの所有が否定されるだけであって、所有権そのものが否定されるのではありません。この辺が刑事罰と違うところです。それから「この花は赤くない」という否定判断も、赤い色ではないというのは、赤い色が否定されるだけであって、青い色かピンクか黄色かということまで否定されたのではありません。死というのも、病気とは違います。病気は単なる否定判断です。つまり胃が重いとか、腸が悪いとか、心臓が悪いとかいうことです。しかし、死は否定的無限判断です。いうなれば、人間の各器官の機能が無限に多く否定され全部が悪くなって、死んでしまうのです。否定的無限判断は一見すると無意味なようにみえるのですが、そのなかに実は定有の判断の真理があらわれているといいたいのです。


ロ 反省の判断(Das Reflexions Urteil)

 次の反省の判断に進みましょう。この一七四節の「反省の判断」と次の一七七節の「必然性の判断」が大きな意味で本質の判断を構成しています。本質の判断としての「反省の判断」です。

 一七四節 個として(すなわち自己へ反省したものとして)判断のうちへ定立された個は、一つの述語を持っているが、自分自身へ関係するものとしての主語は、この述語にたいして、同時に他のものとしてとどまっている。── 現存在においては、主語はもはや直接に質的ではなくて、他のものすなわち外界と関係連関している。かくして普遍性は、このような相関性の意味を持つようになる(例えば、有用、危険。重力、酸。衝動、等々)。

 定有の判断は「このばらは赤い」という、或るものの一つの質にかんする判断です。それにたいして反省の判断は、或るものを全体としてみて、それは何なのかに関する判断です。有論の定有のなかで、或るものと他のものの関係をみましたが、或るものは、他のものではないという他のものとの関係において、はじめて存在します。或るものがまったくそれだけで独立して存在することはありません。だから或るものの個々の質をとらえるのではなくて、或るものを丸ごととらえる、全体としてとらえるためには、他のものとの関係をみなくてはいけないのです。それが反省なのです。
 「個として(すなわち自己へ反省したものとして)判断のうちに定立された個」というのは「定有の判断」とちがって、或るもの(個)を、全体としてとらえるときに、その或るものは他のものとの関係のなかにおいてとらえられるという意味だと思います。
 或るものを丸ごととらえるためには、他のものとの関係においてなにものであるかをとらえなければなりません。そういう判断が反省の判断です。
「かくして普遍性は」の普遍性は、主語となる普遍性のことです。その主語は他のものとの相関において意味をもつようになります。例えば、このものは有用であるとか、このものは危険であるとか、このものは重いとかの判断は、個別のものを他のものとの関係において全体としてとらえている判断です。他のものとの関係をみるのですが、他のものとの関係というところに、実は二つの意味あいがあります。一つは、或るもののなかにおける他のものとの関係です。それが本質です。もう一つは或るものの外における或るものと他のものとの関係です。それは、いわば法則をとらえることです。内側にある他のものとの関係ととらえれば、本質をとらえることになるし、外側にある他のものとの関係をとらえることになれば、法則をとらえることになります。そういう意味でこの反省の判断は、本質と法則との両方を念頭において述べているのではないかと思われるのです。

 一七四節補遺 反省の判断が質的判断とちがう点は一般に、その述語がもはや直接的な、抽象的な質でなく、主語と他のものとの関係を示すようなものであるという点にある。例えば「このばらは赤い」と言うとき、われわれは主語を他のものと関係なしに、直接の個別性において考察するのであるが、これに反して、われわれが「この植物は薬になる」という判断をくだす場合、われわれは植物という主語を「薬になる」という述語を通じて他のもの(治療さるべき病気)と関係しているものとして考察する。「この物体は弾性的である」「この道具は有用である」「この刑罰は威嚇の効果を持つ」等々というような判断も同じである。

 反省の判断が質的判断と違う点は、述語が一つの質として示されるのではなく、他のものとの関係、すなわち、本質や法則として示されるのです。「このばらは赤い」という質的判断においては、ばらの一つの質だけをみています。しかし「この植物は薬になる」という場合には「この植物」は、ある病気との関係において薬になるのです。例えば、ゲンノショウコは下痢との関係で薬になるとか熊の胆は胃薬として効くなど、要するに他のものとの関係において判断が行われるのです。
 「この物体は弾性的である「この道具は有用である「この刑罰は威嚇の効果を持つ」等の判断も同じです。だから「この植物は薬になる」というのは、この薬を飲めば何々に効くという一つの法則を述べているのです。この物体は弾性的だというのは、法則的な面もありますが、いうなれば物体の本質にかかわる問題です。ゴルフ ボールは飛ばなければ意味がありません。ですからゴルフボールの本質は弾性的だということになるのです。
「金槌はくぎを打つのに有用である」は、金槌の本質に関する判断です。「この刑罰は威嚇の効果を持つ」は法則の方でしょう。犯罪に対して、刑罰を加えれば威嚇の効果が生まれるというのは一つの法則でしょう。他のものとの関係が、あるものの外側にあるとみるのか、内側にあるとみるのか、そこから法則であるのか本質であるのかの違いが出てくるのです。

 こうした判断の述語は一般に反省規定である。そして主語の直接的な個別性はこれによって越えられているが、主語の概念はまだ示されていない。── 普通の理由づけは主としてこうした判断の仕方から生じる。問題となる事物が具体的であるほど、それはますます多くの見地を反省に提出するが、しかしそうした多くの見地はその事物に固有な本性、すなわちその概念をつくすものではない。

 「こうした判断の述語は一般に反省規定である」とは、述語となるものが他のものとの関係を示す規定であるということです。「主語の直接的な個別性はこれによって越えられている」とは、主語は定有の判断と違ってこのばらとか、このリンゴというものではありません。ばらそのものや、リンゴそのものを問題にするのです。ばらやリンゴという種をとらえるという意味で、個別性は超えられているのです。そうして種のもつ本質や法則性に迫るのです。
 他のものとの関係をみることは、そのものを全体としてとらえることです。ですから直接的な個別性は超えられているのですが、主語の概念はまだ示されてはいません。つまり主語となるものの「真にあるべき姿」はここではまだ示されていないのです。「普通の理由づけは主としてこうした判断の仕方から生じる」というのは、例えばリンゴを毎日一個食べると病気をしないとの判断は、リンゴにはビタミンが多いからという理由づけをもっているのです。本質や法則は根拠をもって示されなければなりません。
 「問題となる事物が具体的であるほど、それはますます多くの見地を反省に提出する」とありますが、本質は一つではないのです。人間を例にとれば、社会的な存在であるという本質もありますし、労働する動物であるという本質もあります。直立二足歩行する哺乳動物、言語をもつ動物としてもいいでしょう。同様に法則も一つではありません。
 いろいろな本質や法則があるのですから、反省の判断も定有の判断と同様に、ひとつとは限らないのです。ですから「事物に固有な本性、すなわちその概念をつくすものではない」ので、これしかないという判断には至、らず、反省の判断には限界があるのです。定有の判断は個々のものの一つの質的側面にかんする判断です。これに対して、あるものを全体として他のものとの関係においてとらえる判断としての反省の判断には、より高い真理があるのです。しかし、いくつもの判断がありうるという点ではまだまだ限界をもっているのです。

単称・特称・全称判断

 一七五節 ⑴ 単称判断(Singulares Urteil)において、主語、単一なものとしての個は一つの普遍的なものである。⑵ この点から言えば、主語はその単一性を越えている。この拡張は外的であり、主観的な反省であって、まず特称判断(partikulares Urteil)における無規定の特殊性である。

 反省の判断は三つに分かれています。単称判断・特称判断・全称判断です。まず単称判断ですが、この主語は、普遍的なものです。定有の判断では、あのリンゴ、このリンゴを問題にしていましたが、反省の判断ではリンゴそのものは何かを問題にします。こういう意味で主語は単一性を超えた普遍的なものなのです。リンゴそのものを問題にすることになれば、リンゴの本質・法則は、いくつかの種類の果物の本質・法則というように問題が広がっていきます。それで単称判断は特称判断につながっていくというのです。単称判断でのリンゴが健康にいいというのは、特称判断ではいくつかの果物は健康にいいとなり、全称判断ではすべての果物は健康にいいというように広がるのです。

 特称判断は、直接的に肯定的でもあれば否定的でもある。そこでは個が自分のうちでわかたれ、一部は自分自身に関係し、一部は他のものに関係している。⑶ いくつかのものは普遍的なものである。したがって特殊は普遍へ拡大されている。もっともこの普遍は、主語の個別性に規定されているから「すべて」(すなわち共通性、普通の反省的普遍性)である。

 ある果物は健康にいいけれども、ある果物は健康によくないといえば、これは直接に肯定的でもあれば否定的でもあることになります。いくつかの果物は健康にいいが、いくつかの果物は健康には無関係であるとなります。特称判断ではまだいくつかの果物にかぎられているのです。
 すべての果物へと認識が前進すると全称判断となります。ここでは、主語になるのは「すべて」です。或るものすべてに共通する本質や法則を認識することになるのです。ものの本質をとらえるためには、或るものが属する種や類をとらえなければなりません。したがって全称判断のなかでこそ、そのものの本質を正しくとらえることができるのです。反省の判断は全称の判断において最高の認識に到達することができるのです。

 一七五節補遺 主語は、単称判断において普遍的なものとして規定されていることによって、単なる個としての自己を越えていく。「この植物は薬になる」と言えば、それは、この一つの植物だけが薬になるのではなく、いくつかの植物がそうであるということを含んでいる。そしてこれが特称判断を与える(いくつかの植物、、は薬になる。幾人かの人間は発明の才能を持っている。等々)。

 単称判断におけるこの植物とは、ゲンノショウコなら、あそこに生えているゲンノショウコやここにあるゲンノショウコではなくて、ゲンノショウコそのものを示しているのです。この意味で単称判断の主語は普遍的なものとして規定されています。さらに、いくつかの植物も薬になることを含んでいるので特称判断に発展するのです。一つの植物が薬になるのであれば、いくつかの植物もそうなるであろうということを含んでいるのです。

 特称によって直接的な個物はその独立性を失い、他のものと連関を持つようになる。この人間としての人間は、もはやこの単一の人間ではなく、他の人々と並んで存在しているのであり、多くの人々のうちの一人である。しかしまさにこのことによってかれはその普遍に属し、かくして高められる。

 特称判断ではいくつかの植物は薬になることがつかめます。植物における普遍的な本質が特称判断のなかでだんだんと姿をあらわしてくるのです。ゲンノショウコも役に立てばヨモギもキハダも薬として役に立ちます。漢方薬のようにかなりの種類が薬につながってきます。さらに食べられるものは何でも医療に役立つ医食同源ということになります。
 ですから、いくつかの植物が薬になるということは、植物は薬になるという普遍的な本質・法則が浮かび上がってくることになります。このことから特称判断は全称判断に前進していくことになります。

 特称判断は肯定的であるとともに否定的でもある。いくつかの物体のみが弾性的であるにすぎないとすれば、その他の物体は弾性的でない。――ここにまた反省の判断の第三の形式、すなわち全称判断(すべての人間は死すべきものである。すべての金属は電気の導体である)への進展がある。「すべて」ということは、反省が普通最初に出くわす普遍性の形式である。ここでは個々のものが基礎をなしていて、これらを総括して「すべて」として規定するものは、われわれの主観的行為である。

 特称判断から全称判断にすすむと最初に「すべて」というのが出てきます。それは「反省が普通最初に出くわす普遍性の形式である」ということです。子供たちが親たちに何か買ってくれとせがむとき「みんな持っているから」と真っ先にいうのと同じです。「みんなが持っているから、自分も持つべき理由がある」というのです。

 普遍性はここでは単に、独立に存在して普遍性に無関係な個々のものを包括する、外的な紐にすぎないようにみえる。しかし実際は普遍は個別的なものの土台であり根柢であり実体である。例えば、われわれがカイウス、ティティウス、セムプロニウス、および或る都市または或る国のその他の住民を考えてみれば、かれらがすべて人間であるということは、単にかれらに共通な事柄ではなく、それはかれらの普遍でありであってこの類がなかったら、個個の人間は全く存在しないであろう。

 全称判断の主語は「すべて」ということですから、普遍を扱うのです。その普遍のなかには、抽象的な普遍もあります。そういう抽象的普遍と具体的普遍の両方を含んでいるところに反省の判断の限界があるのです。つまり普遍がまだ一義的に定まっていないのです。これ以外の判断はありえないという判断にはまだなっていません。この意味で反省の判断の一番高い認識の段階である全称判断においても真理の認識は限界をもっているのです。
 「すべて」という普遍性の形式には「単に独立に存在して普遍性に無関係な個々のものを包括する、外的な紐」のような普遍性もあるのです。このようなすべてのものに共通するような普遍性を抽象的普遍といいます。こういう抽象的普遍と同時に、実際には「個別的なものの土台であり根柢であり実体である」ような具体的普遍もあります。「すべて」というのは普遍性の形式ですが、この普遍性には抽象的な普遍と具体的な普遍(つまり類)があるのです。類としての普遍(具体的普遍)が、個々のものを生み出します。
 人類としての男と女がいて、はじめて個々の人間が生まれるのです。そういう具体的な普遍が根底にあって始めて、個別が生み出されるのです。こういう普遍こそを問題にすべきなのです。そしてそれが「実体」なのです。こうして反省の判断から必然性の判断へ移行していくことになります。

 これに反して、普通そう呼ばれているにすぎぬ表面的な普遍、すなわち、その実は単にすべての個に共通なものにすぎぬものにおいてはそうではない。人間は動物とちがって、すべて耳たぶを持っている、と言われている。しかしもし或る人が万一耳たぶを持たなかったとしても、そのことはかれのその他の存在、すなわちかれの性格、能力、等々に影響しないであろうが、これに反して、カイウスが人間でなくて、しかも勇敢であり、学問がある、等々と考えるのは、全く無意味であるのは明白である。個々の人間は、かれがまず第一に普遍的に人間そのものであるかぎりにおいてのみ、特殊の人間でありうる。そしてこの普遍的なものは、単にその他の抽象的な質や単なる反省規定の外に、それらと並んで存在する或るものではなく、あらゆる特殊なものを貫き、それらを自己のうちに含むものである。

 表面的な普遍は抽象的な普遍と同じことです。すべてのものに共通なものです。だから、すべての人間は耳たぶをもっているからといって、人間は耳たぶをもつ動物であると判断をした場合、これは全称判断ではあるが本質や法則をとらえた判断とはいえません。それは抽象的な普遍を扱っているにすぎないからです。これと違って、人間は社会的な存在であるという場合には、抽象的普遍ではなく具体的普遍をとらえています。ですからこの場合の全称判断には意味があります。全称判断はものごとの本質や法則をとらえることができる判断です。しかし、いつもそうなるとはかぎりません。一義的にそれをとらえることができないという意味では、まだ欠陥をもっている判断なのだとヘーゲルは述べています。
 あらゆるものを貫き、それらを自己のうちに含むという普遍が具体的普遍です。そしてそれが必然の判断になるのです。

反省の判断から必然性の判断へ

 一七六節 このように、主語も同じく普遍的なものとして規定されることによって、主語と述語との同一が定立され、同時にこのことによって判断規定そのものが無差別なものとして定立されている。内容が主語の否定的自己内反省と同一な普遍性であるという内容のこうした統一によって、判断の関係は必然的な関係となる。

 この一七六節は反省の判断から必然の判断への移行に関する節です。
 全称判断のなかの具体的普遍をとらえる判断は、もう必然の判断になると述べています。全称判断においては、「主語と述語との同一が定立され」ているとあります。例えば「すべての人間は言語を持つ」という場合の、「すべての人間」は普遍的なものです。その普遍的なものと言語の同一が定立されているのです。人間=言語ということになります。さらに「同時にこのことによって判断規定そのものが無差別なものとして定立されている」とは、それによって人間がトータルにとらえられているのです。ですから、いろいろな人間の区別がなくなっているのです。人間そのものをとらえることは、主語の普遍性が述語と同一になることなのです。要するに普遍でありながら同時に自らを特殊化して個となるような普遍のことを具体的普遍といいます。その具体的普遍として、主語が述語に具体化され、主語と述語との同一性が定立されているのです。具体的普遍である主語が自らを特殊化して述語である個別に同一化していく、というものが必然的な関係なのです。
 全称判断のなかにおいて具体的普遍の関係が定立されていて、それが必然的な関係になると理解すればいいのです。

 一七六節補遺 全称の反省判断から必然性の判断への進展は、われわれの普通の意識のうちにも見出される。われわれは、すべてに属することは類に属し、したがって必然的である、と言う。すべての植物、すべての人間、等々と言うのは、植物そのもの、人間そのもの、等々と言うのと同じである。

 全称判断で、すべてのもの、すべての植物、すべての人間といっているのは、植物そのもの、人間そのものと同じ意味であって、植物そのもの、人間そのものという具体的普遍が個別化する関係が必然性なのです。その意味では、全称の判断は必然性の判断と重なってくるということだと思います。


ハ 必然性の判断(Urteil der Notwendigkeit)

 必然性の判断は、類と種の関係です。種類という言葉がありますが、種と類は具体的普遍としての、人類と人種として考えると分かりいいと思います。類の方がより抽象化されたカテゴリーです。この必然性の判断に至ってはじめて、一義的に規定された判断になってくると、ヘーゲルは理解します。

 一七七節 必然性の判断、すなわち、内容が区別されていながらも同一である判断は、⑴ その述語のうちに一方主語の実体あるいは本性、すなわち具体的普遍である(Gattung)を含んでいるが、しかしこの普遍は、自己のうちに、否定的な規定性としての規定性を含んでいるから、他方排他的な本質的規定性、すなわち(Art)を含んでいる。これが定言判断(kategorisches Urteil)である。

 必然性の判断は三つに分かれます。「定言判断」仮言判断」「選言判断」です。定言判断は、種は類であるという判断です。例えば、金は金属である、金という種は金属という類に属するという判断です、こういう判断は一つしかありませんから一義的なのです。本質の判断のようにいくつかの本質があるのとは違って、種と類の関係というのは、一義的に規定されるのです。
 続いて、仮言判断は「ある類にもし種の特殊性が存在するならば、種である」という判断です。「もし―ならば」というのが仮言であり、だから仮言判断なのです。例えば「金属であって、その金属が王水にしか溶けないならば、それは金か白金である」という判断です。
 さらに選言判断というのは、類は種の全体であるという判断です。今の例でいうと「金属は金、銀、銅、鉄等々のいずれかである」というものです。
 このことを念頭において考えてみましょう。必然性の判断は、同一性の判断です。というのは主語と述語は類と種の関係で区別されているのですが、それは類が種となるという同一性が定立されるような判断です。述語のうちには、主語の実体あるいは本性すなわち具体的普遍である類を含んでいるのです。だから種は類であり、述語は具体的普遍である類なのです。しかし、この類は自分のうちに種を含んでいます。ですから種は、類の「否定的な規定性」です。類を自己否定し、規定して種とするのです。したがって定言判断というのは、種は類であるという判断なのです。これはある意味では必然的な関係です。
 金は金属であって、それ以外の類に属することはありえません。金は植物ではないし、鉱物ではあっても他の石などとは違い、金属です。そういう判断しか正しくありません。要するに必然性の判断における真理の判断は、反省の判断とちがって一つしかないのです。

 ⑵ 主語と述語という二つの項は、それらの実体性にしたがって、独立した現実性という姿をとり、両者の同一性は内的な同一性にすぎない。したがって前者の現実性は、同時にそれ自身の現実性でなく、後者の存在である。これが仮言判断(hypothetisches Urteil)である。

 少し分かりにくい言葉ですが、主語と述語は、類と種という二つの独立した現実性をもっていて、類の現実性は種差を条件として種の存在となってあらわれる、というような意味だと思います。
 この場合の現実性とは、本質論のなかで論じた現実性で、エネルゲイアとしてのイデアを念頭においているのです。だから、類は種を生み出すのですけれども、類に種差がつけ加わって種になるのです。先ほどの例でいうと、金属にもいろいろありますが、王水にしか溶けない金属は金と白金しかありません。金属という類に王水に溶けるという種差をつけ加えることによって、金または白金という種が特定されるのです。こういうことを類に種差という条件をつけることによって種になるといいます。それが仮言判断です。

 ⑶ 概念のこうした外化において同時に内的な同一性が定立されるとき、普遍は、その排他的な個別性のうちで自己同一であるような類である。判断の二つの項にこうした普遍を持つ判断、すなわち、一方では普遍そのものであり、他方では普遍の相互に排除しあう特殊化の全体でもあるような判断(この場合、特殊化のあれかこれかも、あれもこれもも同じく類である)、これが選言判断(disjunktives Urteil)である。これによって、最初は類として存在し、次には種の全体として存在する普遍は、統体性として規定され、定立されている。

 金属は金か銀か銅か鉄か、等々であるというような判断が「選言判断」なのです。つまり普遍は個別の総体として規定される類なのだという判断です。ですから主語は普遍である類であって、述語は特殊化の全体(類に属する種の全体)です。そういうものが選言判断です。これによって最初の主語は類として存在し、次の述語は種の全体として存在することになります。この選言判断になってくると普遍は普遍の特殊化された個別の総体であるという関係が定立されているのです。そこでは普遍と特殊と個別の同一化が定立されています。そういう意味でこの「必然性の判断」は「概念の判断」に移行するのです。
 概念は、普遍、特殊、個別が一体化したものです。必然性の判断は、類が種を規定するという意味での必然的な関係を述べています。ですから唯一の真理の判断がここで生まれてきます。いわばここまでは客観世界における真理の認識なのです。
 表面的な認識からはじまって本質や法則の認識に進んで、さらには必然性の認識あるいは、言いかえれば実体の認識に到達するのです。そこで人間の認識はストップするのかというと、そうではありません。人間の認識は客観世界における真理を認識すると同時に客観世界の不十分さをも批判するのです。不十分さを批判して、より客観世界を乗りこえた真理を認識するのです。いわゆる変革の立場です。それが概念の判断なのです。そういう点に、必然性の判断の限界をヘーゲルはみているのです。

《質問と回答》

 否定的無限判断が「直接的判断の最初の弁証法的成果」とあるのはどういう意味か、また「直接的判断が有限であり真理でないということは、そのうちに明白にあらわれる」(㊦一四七ページ)とはどういうことか、という質問がありました。
 これは肯定判断の不十分さを乗りこえていけば、否定的無限判断に至らざるをえないことを意味しています。たとえば「このバラは赤い」という肯定判断は、バラと赤色とが一点で触れあっているにすぎません。バラはバラでいろんな内容をもっているし、赤は赤でいろんな赤があるけれども、バラと赤は一点で結びついているにすぎないから、その認識はまだまだ不十分だというわけです。肯定判断は不十分で正しくないから否定されなくてはいけないというので否定判断(「このバラは赤くない」)に進むのですが、では正しくないとして否定されたうえで、どういえば正しいのかを考えると、それは同一判断か否定的無限判断しかないということになるわけです。
 だから一点で触れあう否定は、全てで触れあうか全く触れあわないかのいずれかとなります。同一判断はA=Aという判断ですから、これだと一点で触れあうのではなく全面で触れあうわけです。またどの点でも触れあわないことになると、それが無限の否定的判断になるわけです。そういう意味で否定的無限判断は、肯定判断の否定の否定という弁証法的性格をもつということです。
 次に、直接的判断が有限であり真理でないことが、その否定的無限判断のなかにあらわれているのはどういう意味かといいますと、本来、判断というのは何が正しいのかを示すものです。否定的無限判断は何が正しいのかを示さない判断です。これも違う、あれも違うといって、違うことを無限にあげるばかりですから、何が正しいかという判断のもつ本来の役割を果たさないのです。正しいものを示さないから、そういう意味でいかなる判断でもないのであって、そもそも判断ともいえないような判断だから、真理ではないということになるのです。
 だから直接的判断の成果として生まれてきた否定的無限判断は、そもそも直接的判断、肯定的判断をどういい直せば正しいのかということで生まれてきたものだけれども、判断に値しないようなものだから、そのことによって質的判断が全体として正しくないことが示されるという意味だと思います。
 それから一七七節の必然性の判断、これは次回やるところですけれども、定言判断、仮言判断、選言判断のところがちょっと分かりにくいんだけれども、どういうことでしょうかという質問がありました。
 必然性の判断は、簡単にいえば類としての判断です。類としての判断とはどういうことかといいますと、すべてのもの、個物、個体ですけれども、個体はそのなかに普遍をもっています。すべての個物は普遍、特殊、個別の統一としてあるわけで、個体としてのAさんという存在は、個別であると同時に特殊としては日本人であり、普遍としては人類です。これがAさんという人間に統一されているわけです。すべてのものがそういう形で、普遍、特殊、個別の統一としてあるわけで、必然性の判断は主語としての個体がいかなる類や種に属するかの判断なのです。
 今の例でいいますと、定言判断というのは個と種あるいは個と類との関係をみるわけで、Aさんは日本人であるという判断です。これは正しい判断なわけです。仮言判断というのは、なぜ日本人なのかという種差を明らかにするものです。種差を条件として明らかにする。類に種差を加えることによって個別を規定するのです。Aさんが日本に住んでおり、日本語を話すのであれば、それは日本人だという判断になるのです。だから日本に住んでいて日本語を話せればという条件が種差となるのです。仮言判断とはそういうことです。
 選言判断は、今度は普遍のなかにおける、あるいは類のなかにおける種をみるのです。類を種のトータルとしてみるのです。だから人類という類(普遍)は、白人種か黄色人種か黒人種であるという判断が、選言判断になるのです。種の総体が類だからです。その種をすべてあげることが選言判断となるのです。

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