『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第一二講 概念論・主観的概念 Ⅵ

c 推理・質的推理―続き

推理の三つの格の意味

 今日は一八七節の補遺からです。一八七節は、推理に三つの格があり、その格は、普、特、個のそれぞれが中間項になることによって三つの格が成立し、推理のそれぞれのモメントは自立しながらも相互に媒介されている、それが推理であるというものでした。それを受けて補遺は、ヘーゲル哲学の三つの部門がいわゆる三重の推理として示されているということを述べています。今日は、そこから学ぶことにしましょう。

 一八七節補遺 推理の三つの格の客観的な意味は、あらゆる理性的なものが三重の推理として示されるということ、すなわち、その各項はいずれも端項の位置を占めるとともに、また媒介する中間項の位置をも占めるということである。例えば、哲学の三部門をなす論理的理念、自然、および精神がそうである。

 推理に三つの格があるという意味は「あらゆる理性的なものが三重の推理として示される」ということですつまり、あらゆる理性的なものは、普遍、特殊、個別が、それぞれ自立しながら媒介し、あるいは媒介されているという関係をもってその同一性が定立されている形で存在しているのです。前々回、否定的自己反省についてお話しましたが、つまり自己同一性を保ちながらも区別されているという関係です。そういう概念のもつ否定的自己内反省が、三重の推理として示されているのが理性的なものだといっているわけです。
 ヘーゲルは無前提なもの(無媒介なもの)を認めないわけで、すべてのものを直接性と媒介性の統一としてとらえています。概念の三つの要素についてもそうです。哲学の三部門についていうと、ヘーゲル哲学では最初は論理学、次が自然哲学、そして精神哲学ですが、この三つの関係も相互に媒介しあう三重の推理としてとらえているのです。

 最初は自然が中間項、連結する項であって、直接的な総体性としての自然が、論理的理念および精神という二つの端項へ展開する。精神は、自然に媒介されているかぎりにおいてのみ、精神であるからである。しかし第二には、われわれが個的なもの、活動的なものとして知っている精神が中間項となり、自然と論理的理念とは端項となる。自然のうちに論理的理念を認識し、かくして自然をその本質にまで高めるのは、精神であるからである。同じく第三には、論理的理念そのものが中間項である。理念は精神および自然の絶対的な実体であり、普遍的なもの、すべてを貫いているものだからである。これが絶対的な三段論法の諸項である。

 ヘーゲル哲学(エンチクロペディー)の体系は、論理学、自然哲学、精神哲学という順序で展開されています。
 そこをみると自然が中間項になっています。この体系をとらえて「ヘーゲルは観念論者だ」という批判がされているのです。つまり論理学の中の一番最後の絶対理念が外にあらわれたものが自然であり、自然が再び自己を回復したものが精神だというとらえ方をしているところから、自然を絶対理念という何か観念的なもののあらわれだとみているところにヘーゲルの観念論があるという批判が一般的にされています。それはそれで正しい批判です。
 しかし、ヘーゲルはそこだけをみているのではなくて「第二には」というところでは、精神が中間項になって自然哲学から精神哲学、そして論理学につながっていく、これが二番目だといっているのです。これは、唯物論そのものなんです。自然から精神が生れ、自然の反映として精神が存在し、その精神の法則性として論理学が生れてくるというとらえ方は唯物論そのものだと思います。
 第三には、精神哲学から出発して論理学を媒介項にして自然哲学につながっていく。いずれにしても、哲学の三部門はいずれも概念が自己展開したものとして、それ自身絶対的なものでありながら他のものに媒介され自己否定されるものだ、だから「これが絶対的な三段論法の諸項」だといっています。ここでいっている推理は、形式論理学の推理よりも「真にあるべき姿」としての概念の自己展開を述べているととらえるべきだと思います。
 樫山さんは「ヘーゲルは『推理』こそは真実であると考えた。これは、概念が自己の契機(判断)の展開をへて自己に帰り、自己を実現したものという意味である」(『 エンチェクロペディー』解説」四七三ページ)と述べていますが、そういう意味の推理なのです。

量的推理

 一八八節 以上で三つのモメントのいずれもが、中間項および二つの端項の位置を経たわけであるから、今やそれら相互の特定の区別揚棄されている。諸モメント間に区別がなくなっているこの形式においては、推理はまず外面的な悟性的同一性、すなわち相等性(Gleichheit)をその関係として持っている。これが、もし二つのものが第三のものに等しければ、二つのものは相等しいという量的推理あるいは数学的推理(der quantitative oder mathematische Schluss )である。

 ㊦一六七ページに、アリストテレスは推理の三つの格しか述べていないけれども第四格は後世の人々がつけ加えたという記述があります。一八八節がこの第四格に相当するところです。
 第四格というのは、量的推理あるいは数学的推理のことです。「二つのものが第三のものに等しければ、二つのものは相等しい」という推理です。推理の形式でいいますと「AはCである」「BはCである」「よってAはBである」という推理です。言いかえればA=A=Aという推理です。つまり推理の三つの格をつうじて第四格が生まれるということをヘーゲルはここでいいたいわけです。推理の三つの格をつうじて普、個、特のいずれもが中間項になったり、大前提や結論の両端の位置を経たわけですから、そのことをつうじて三つの区別が揚棄されてしまっている。言いかえれば、どれも同じなんだということで「諸モメントの区別がなくなっている」といっています。諸モメントの区別がなくなるということは、A=A=Aになるわけで、それが「外面的な悟性的同一性」の推理だということです。第四格はばかばかしいとよくいわれますが、こういう推理の仕方はよくあるわけで、これはこれで必要な推理だと思います。

 一八八節補遺 ここに考察した量的推理は、誰も知っているように、数学においては公理としてあらわれており、人々は普通それについて、その他の公理についてと同じく、その内容は証明できないものであるが、しかし直接に明白であるから証明を必要としないものである、と言っている。しかし数学の公理というものは、その実、論理学上の命題にほかならず、そして論理学上の命題とは、特定の思想を命題の形で言いあらわしたものであるから、このかぎりにおいて、それは自己を規定する普遍的な思惟から導き出すことのできるものであり、これがまさにその証明なのである。数学において公理として掲げられている量的推理も同じことであって、それは質的推理あるいは直接的推理の最初の結果にすぎない。

 量的推理は数学の公理としてあらわれるもので、二つのものが第三のものに等しければ二つのものは相等しいということが定立されています。数学では公理は証明する必要はないというのですが、命題である以上、やはり証明される必要があるし、自分はそういう量的な推理を質的推理、あるいは直接的推理の「最初の結果」として証明したではないかといいたいのです。つまり、質的推理は一格、二格、三格の形式をもっているが、そのことをつうじて質的推理における個、特、普の区別は揚棄さ⑴れて、その同一性が定立されることにより量的推理は生まれるという論理の展開として自分は証明したではないか、と自慢話をちょっとしているわけです。

 ── 量的推理はその上全く没形式の推理である。なぜなら、ここでは諸項の概念によって規定された区別が揚棄されているからである。どの命題を前提としたらいいかは、ここでは全く外部の事情によるのであるから、人々はこの推理を適用する場合、すでにほかのところで確証されていることを前提するのである。

 量的推理は没形式の推理でA=A=Aですから、そこではもう区別がなくなっているからなんでも盛り込むことはできる、その程度のものなんだということです。

質的推理から反省の推理へ

 一八九節 以上のことから形式について次の二つのことが生じている。⑴ 三つのモメントはいずれも中間項、したがって全体的なものという規定および位置を獲得し、このことによってそれらが抽象であるという一面性(一八二節および一八四節)を即自的には失っている。⑵ 媒介(一八五節)が同じく即自的にではある が── すなわち互に前提しあう媒介からなる円としてではあるが ── 完成されている。

 一八九節は質的推理から反省の推理への移行にかんする節ですが、質的推理においては、普遍は普遍、特殊は特殊、個別は個別とバラバラに存在していて、ただ一点で結びつくだけの推理だということをいってきました。その推理は不十分ですから、三つの格をへて第四格まで至り、三つのモメントのいずれもが中間項をへてくることによって「抽象であるという」一面性を即自的には失っている。つまり不十分ではあるけれども抽象的な特殊ではなくなって、具体的な特殊になりつつある。だから、特殊は特殊、普遍は普遍、個別は個別というバラバラなものではなくて、不十分ではあるけれども具体的な特殊であるというのです。
 ㊦一五九ページを開いて下さい。直接的推理、つまり定有の推理ですが、それは「概念の諸規定が抽象的なものとして相互に単なる外的関係のうちに立っている推理である「したがって二つの端項は個と普遍とであるが両者を結合する中間項としての概念も同じく抽象的な特殊にすぎない」というのは、このことを意味しています。
 だから質的推理、定有の推理は、第一格は個―特―普として、中間項は特殊ですが、この特殊は普遍と切りはなされ、個別とも切りはなされた抽象的な特殊です「このバラは赤い「赤は色である「よってバラは色をもっている」という推理を例にとると、赤という特殊は別にバラと結びつかなくてもいいし、色と結びつかなくてもかまいません。そういう抽象的な特殊が中間項になってきたのですが、それが三つの格をへることによって、不十分であるけれども抽象的な特殊性をなくしつつあると、まず述べています。
 次に「媒介が同じく即自的にではあるが、完成されている」ということは、第一格から第三格をつうじて個、特、普がバラバラに存在するのではなくて、それの相互媒介が不十分であるけれども完成されているというのです。「即自的にではあるが」ということは「不十分ではあるが」という意味でしょう。

 第一格「個―特―普」においては、二つの前提「個―特」および「特―普」はまだ媒介されていず、前者は第三格において、後者は第二格において媒介される。しかしこれら二つの格の各々もまた、その二つの前提文を媒介するものとして他の格を前提している。
 したがって概念の媒介的統一は、もはや単に抽象的な特殊としてではなく、個と普遍との発展した統一として定立されなければならない。それはまず両者の反省的統一、すなわち、同時に普遍として規定されている個である。こうした中間項が反省の推理(Reflexionsschluss)を与える。

 この三つの格をつうじて、中間項は抽象的な特殊から不十分ではあるけれども具体的な特殊になってきているわけで、このような具体的特殊を中間項としてもつ推理が反省の推理だというのです。つまり反省の推理になってくると、普遍、特殊、個別がバラバラの関係ではなくなります。普遍の中に大きく特殊も個別も包み込むような形での一体化という関係が出てくるのです。
 反省の推理は、判断でいうと反省の判断に相当するのですが「反省」の意味はちょっとちがいます。反省の、判断の反省は、あるものと他のものとの関係をとらえていたのですが、反省の推理という場合は、普遍と個別の関係をみています。
 私は正しい判断を導く推理のあり方としては、この反省の推理に尽きるのではないかと思っています。定有の推理はそもそも推理にはあたらないような推理だし、必然性の推理も、反省の推理の中の一つの形態にすぎないのではないかと思われます。


ロ 反省の推理(Reflexions-Schluss)

演繹、帰納、類推

 一九〇節 ⑴ 中間項が単に主語の抽象的な特殊的規定性であるだけでなく、同時にすべての個別的な具体的主語である場合、したがってまた抽象的な規定性はこの主語の多くの規定性の一つにすぎない場合、この中間項は全称推理(Schluss der Allheit)を与える。しかし、特殊な規定性すなわち媒概念を全称性として主語に持っている大前提は、大前提を前提として持つべき結論を、むしろそれ自身前提としている。したがって全称推理は ⑵ 帰納(Induktion)に依存している。帰納の媒介項はa、b、c、d、等々、個別的なものの全体 である。しかし直接的な経験的個別性は、普遍性とは別なものであり、したがってけっして完全でありえないから、帰納は ⑶ 類推(Analogie )に依存している。類推の媒介項は個別的なものであるが、しかしそれは本質的な普遍性、類、あるいは本質的な規定性という意味を持っている。

 ここで三つの推理の仕方を述べているのですが、それぞれ全称推理、帰納推理、類推といっています。全称推理というのは普通、演繹推理とか演繹といっています。二つ目は帰納です。帰納と演繹は日常的によく使う言葉ですが、一つの対になった推理方法です。三つ目が類推です。ヘーゲルは演繹推理が不十分だから帰納推理が生まれ、帰納推理が不十分だから類推推理が生まれるというように論理を展開しています。
 全称推理、演繹推理というのは、特殊を媒介にして普遍から個を推理するやり方です。だから普―特―個の推理ということになります。よくいわれる例では「すべての人間は死ぬ」「カイウスは人間である」「よってカイウスは死ぬ」という推理の仕方です。「すべての人間は死ぬ」というのは普遍です。人間という普遍は死すべきものです。「カイウスは人間である」というのは特殊です。カイウスというのは特殊な人間です。「よってカイウスは死ぬ」、カイウスという個は死ぬという結論になります。こういう普―特―個の推理で、質的推理とどこが違うかというと、主語になっているのがまさに全称なのです「すべてのもの」が主語になっているのです。すべてのものが死ぬから「カイウスは死ぬ」という結論になるのです。
 ヘーゲルの論理の展開をみてみると「中間項が単に主語の抽象的な特殊的規定性だけであるだけでなく、同時にすべての個別的な具体的主語である場合」とあります。今の例でいいますと「カイウスは人間である」という中間項は「すべての人間」という主語の中に含まれます。だから中間項が主語の中に含まれてしまいます。そういう意味で、抽象的な特殊性ではないといっています。
 こういう演繹推理は結論を前提にしているとヘーゲルは批判しています。つまり「すべての人間は死ぬ」というのはある意味では証明されるべき結論であるのに、それを証明済みのものとして前提しているところに演繹推理の不十分さがあるというのです。われわれが知りうるのは個々の人間が死ぬということだけであって、すべての人間が死ぬことを経験しつくすことはできないのです。つまり、経験しうることは常に有限であって、すべてのものを経験することはありえません。それなのに「すべてのものは」という大前提を立てるのですから、ここに演繹推理の不十分さがあるというのです。
 この大前提となっている「すべての人間は死ぬ」ということが正しいかどうかを推理する方法が、帰納推理だということになるわけです。全称推理の非真理性が帰納推理を導くことになるわけです。
 演繹推理は普遍から個別を推理したのですが、帰納推理は逆に個別から普遍を推理します。先ほどの例でいいますと、大前提としてaが死んだ、中間項はbもcもdも死んだ、よってすべての人間は死ぬ、というのが帰納推理です。個別から、特殊を媒介にして普遍を推理する。帰納の媒介項は、bもcもdも死んだということであって、それは結局、個別的なものの全体なのです。ここでヘーゲルは「直接的経験的な個別性は、普遍性と別のものであり、したがってけっして完全ではありえない」といっています。bもcもdも死んだかもしれませんが、そういう個別的経験をいくら積み重ねても、それは「すべてのもの」という普遍性とは別のものであり、そこには飛躍があるのです。
 演繹推理は大前提が証明されていないのに証明されているかのように出発するところに問題があるのに対し、帰納推理には論理の飛躍があります。個別的な経験性から普遍性を推理するのですから、そこには経験してないことまで結論づける飛躍があるわけです。a・b・c・dは死んだということと、すべての人は死ぬということとの間には断絶があるのです。そういう意味で全称推理も帰納推理も不十分な推理ということになります。では、帰納推理の飛躍という不十分さをどこで補うことができるかといえば、それが「類推」だというのです。bもcもdも死んだから、eもfもおそらく死ぬだろうというのが類推です。そこから、すべての人間は死ぬだろうということになるわけです。類推の媒介項は、個別的なものではあるが、それは本質的な普遍性、類あるいは本質的な規定性という意味を持っていると述べています。
 ういうことかといいますと、例えば、日本人は言語(日本語)をもっている、それからイギリス人も言語(英語)をもっている、よって人間は言語をもつ、というように類推するのです。人間が言語をもつという類推は、ほぼ正しいでしょう。ところで野球のボールは丸い、バスケットボールも丸い、よってボールはすべて丸いという類推をしたら、これは間違いです。ラグビーボールもあるしバトミントンの羽根つきボール(シャトル)みたいなのもあります。なぜ、一方の類推は成り立って、他方の類推は成り立たないのかというと、類推は、類的同一性をふまえた推理でなければならないのです。「類としての同一性がある」という前提に立って推理をするのが類推なのです。
 日本人が言語をもつというのは、人間という「類」として言語をもっているわけで、その類的特徴に根ざして推理をしているから、正しい結論も出るのです。ボールの例でいうと、ボールの類的特徴は何かといったら、それは弾力性をもつものということでしょう。類推は一つの類における本質的な同一性、つまり類的特徴を前提として推理するかぎりにおいて正しい推理になるのです。

 ── 第一の推理は、それを媒介するものとして第二の推理を指示し、第二の推理は、第三の推理を指示する。しかしこの第三の推理も、今や個と普遍との外面的な関係のさまざまな形式を反省推理の諸格のうちで経ているのであるから、自己のうちで規定されている普遍性、あるいは類としての個を要求する。

 第一の推理というのは、全称推理のことです。全称推理は大前提を証明抜きに正しいものとして出発する不十分さをもっているから、それは帰納推理によって大前提を証明することを必要とするものであり、同時に帰納推理には飛躍があるから、それは第三の推理である類推によって、その不十分さを補わなければならないのです。この第三の推理は「類としての個を要求する」というのは、類としての同一性、類的特徴を要求することです。

 全称推理は、一八四節に指摘した、悟性推理の根本形式の欠陥を訂正するが、しかしまた新しい欠陥が生じてくる。すなわち、大前提は、結論であるはずのものをそれ自身前提しており、したがってそれを直接的な命題として前提しているのである。「すべての人間は死すべきものである、ゆえにカイウスは死すべきものである」「すべて金属は電導体である、ゆえに例えば銅もそうである」というような推理をみるに、その大前提は「すべて」という言葉のもとに直接的な個を表現しており、したがって本質的に経験的な命題であるはずであるから、こうした大前提を立てうるには、あらかじめ個人カイウス、個別的な銅にかんする命題が正しいものとして確証されていなければならない。「すべて人は死すべきものである、カイウスは人である、ゆえにカイウスは死すべきものである」というような推理をみると、誰しもそれが単に衒学的であるだけでなく、無意味な形式主義であると感じるのは当然である。

 全称推理は「悟性推理の根本形式の欠陥を訂正する」というのは、悟性推理は、内容においても形式においても偶然性という欠陥をもっていましたが、全称推理にはそのような偶然性はないのです。しかし、全称推理は結論であるはずのものをそれ自身前提しているという欠陥をもっています。すべての人間がもし死ななかったら、カイウスは死ぬという結論は成り立たないのです。本来、カイウスが死ぬということが証明されるべきものであったのに、大前提のすべての人間が死ぬことの中にこのカイウスが死ぬことも含まれてしまっているのです。だから全称判断は無意味な形式主義だといってるのですが、これはまるきり意味がないということではなくて、不十分だといいたいわけです。

 一九〇節補遺 全称推理は、個が連結する中間項をなしているところの帰納へ導く。「すべて金属は電導体である」と言うとき、これは経験的命題であって、あらゆる個々の金属にたいしてなされた実験の結果である。これによってわれわれは帰納推理をうるが、それは次のような形をもっている。
 普
 |
 個 個 個・・・
 |
 特
金は金属である、銀は金属である、銅、鉛、等々もそうである。これが大前提である。次に、すべてこれらの物体は電導体である、という小前提がき、そしてこれから、すべて金属は電導体であるという結論が出てくる。したがってここでは「すべての個」が連結の役目をしている。しかしこの推理もまた他の推理へ導いて、いく。この推理の媒介項は完全に枚挙された個である。このことは、一定の領域で観察および経験が完全に行われていることを前提する。しかし取扱われるものが個であるから、ここには再び無限進行(個、個、個・・・)が生じる。帰納においてはけっして個を余すところなく汲みつくすことはできない。すべての金属、すべての植物、等々と言うのは、われわれが今までに知っているすべての金属、すべての植物を意味するにすぎない。帰納はしたがって不完全なものである。人々はあれこれの観察、否多くの観察をしたであろうが、すべての場合、すべての個を観察したのではない。帰納のこうした欠陥が類推へ導くのである。

 全称推理の不十分さが帰納推理を生み出し、帰納推理の不十分さが類推を導くということを述べています。全称推理というのは、結論すべきところを前提としているので不十分だから、その大前提となっている結論そのものが証明されなくてはならない。そういう推理をするのが帰納推理です。金は金属である、銀も銅も金属である。このような個別の金属はすべて電導体であるという小前提があって、そこからすべての金属は電導体であるという結論が出てきます。しかし、すべての金属は電導体であるということは、経験しつくしえないわけで、われわれが経験している金属は、すべて電導体であるとはいえても、われわれが経験していない金属について、論及することはできないはずです。だから、帰納は不完全なものであり、論理の飛躍があるということになります。だから『大論理学』では帰納的推理は本質的に蓋然的推理であるといっているのです。帰納推理は「多分そんなものだろう」という推理だというわけです。『小論理学』では、帰納は不完全なものだから、帰納推理の不十分さから、それを補うものとして類推推理が生まれるといっています。

 類推においては、一定の類に属する事物が一定の性質を持つということから、同じ類に属する他の事物もまた同じ性質を持つことが推理される。例えば「人々はこれまでにあらゆる遊星においてこうした運動法則を、見出した。ゆえに新しく発見される遊星も、おそらく同じ法則にしたがって運動するであろう」と言うとき、これは類推である。類推が経験科学において非常に重んじられているのは当然であり、またこの方法によって非常に重要な成果が達成されている。類推は理性の本能であって、それは、経験的に見出される個々の規定が事物の内的な本性あるいは類にもとづいていることを予感させるものであり、さらにこの上に立脚しているのである。

 類推という推理がなぜ可能なのか。「一定の類に属する事物が一定の性質を持つということから、同じ類に属する他の事物もまた同じ性質を持つことが推理される」わけです。類としての同一性が、性質の同一性を推理させるという言い方をヘーゲルはしております。例えば、遊星(惑星)はある軌道をもって循環運動をしているという運動法則があります。「新しく発見される遊星もおそらく同じ法則にしたがって運動するだろう」というとき、これは類推であるといっています。同じ遊星ですから、同じ類に属するものの軌道という性質が同じであろうということが予感されるのです。「類推は理性の本能」である、個々の規定は「類にもとづいていることを予感させるもの」であるといっておりますが、あるものと他のものが同じ類に属するものであるという、類的同一性の判断は理性の働きによって生まれるということでしょう。
 へーゲルは種の進化とか宇宙の歴史とかいうものを知りません。例えば、種の進化は染色体におけるDNAが分化して種々の動物の分化がうまれてくるわけです。だから同じ一つのDNAがつぎつぎ分化していって、さまざまな動物のDNAを形づくっているわけで、そこに動物としての類的同一性があるわけです。今日ではそういうことが明らかになっていますが、ヘーゲルの時代にはまだそういうことは分かっていないのです。種の進化は分かってないけれども「理性の本能」にもとづいて、それを予感したのかなという気がします。宇宙の歴史が、ビッグバンによって、最初、素粒子が誕生し、原子核と電子が誕生し、原子が誕生し、それが物体になり、天体になりという発生の歴史のなかで、根っこは一つですから天体における運動の類的同一性が存在するわけです。一つのものからずっと分化し発生してきたという意味では、宇宙の歴史にしても種の進化にしても類的同一性があるのですが、そういうものを「理性の本能が予感させる」とヘーゲルはいったのではないかと思います。

 なお類推には皮相なものと深いものとがある。例えば「カイウスという人間は学者である、ティトゥスもまた人間である、ゆえにかれもまた学者であろう」というような類推はきわめて拙劣な類推である。というのは、人が学者であるといことは、けっして直ちに人間という類にもとづいてはいないからである。こうした皮相な類推は、しかし非常にしばしば行われている。例えば「地球は天体であって生物が住んでいる、月も天体である、ゆえに月にもまた生物が住んでいるであろう」というようなことがよく言われる。この類推は前の類推に少しもまさっていない。地球に生物がいるということは、単に地球が天体であることに依存しているのではなく、それにはそのほか多くの条件、特に大気に包まれていること、それに関連している水の存在、等々が必要であるが、こうした条件は、われわれが知るかぎりでは、月には欠けている。近頃自然哲学と呼ばれているものは、大部分空虚な外面的な類推をもってする無意味な遊戯にすぎず、こうした外面的な類推を深い成果と自称しているにすぎない。そして当然の結果として自然の哲学的考察は信用をなくしてしまったのである。

 類推には皮相なものと深いものとがあり、その皮相な類推は、いわば類としての特徴をとらえていない推理です。「カイウスという人間は学者である、ティトゥスも人間である、ゆえに彼は学者である」という類推の場合、人間の類的特徴が学者にあるわけではありませんから、皮相な類推になるのです。皮相な類推は、実は質的推理ではないでしょうか。質的推理は一点での同一性をとらえた推理です。カイウスもティトゥスも同じ人間であるという一点での共通性にもとづいて、学者を推理するのですから、ヘーゲルのいってる皮相な類推というのは、定有の推理だと思います。こういう推理はよくあります。表面的な類似点というか、何か一致しているところがひとつある、その一点での同一性をとらえて推理をするのです。ヘーゲルは、類推に皮相な類推と深い類推があるという言い方をしているのですが、それはいわゆる類推と定有の推理との違いではないかと思います。
 類推も十分ではないことから、今度は必然性の推理に展開していくことになります。


ハ 必然性の推理(Schluss der Notwendigkeit)

定言的推理、仮言的推理、選言的推理

 一九一節 単に抽象的な諸規定から見ればこの推理は、反省の推理が第二格にしたがって個を媒介項としているように、第三格にしたがって普遍を媒介項としている(一八七節)。もっとも、この普遍はそれ自身のうちで本質的に規定されているものとして定立されている。⑴ まず定言的推理(Kategorischer Schluss)においては、特殊が媒介規定であって、この特殊は特定のあるいはという意味を持っている。⑵ 仮言的推理(hypothetischer Schluss)においては、個が媒介規定であって、この個は直接的な存在、媒介するものでもあれば、媒介されるものでもあるという意味を持っている。⑶ 選言的推理(disjunktiver Schluss)においては、媒介の働きをする普遍が、またその特殊化の総体、個々の特殊、排他的な個として定立されている。したがって選言推理の諸規定のうちには、形式をのみ異にして同一の普遍が存在している。

 必然性の推理は、必然性の判断と対応するものになっているのですが、要するに類的必然性の推理になっています。この類的必然性・実体的必然性の推理について検討します。必然性の推理は定言的推理、仮言的推理、選言的推理の三つに分かれます。例えば、定言的推理というのは「両生類は脊椎動物である。カエルは両生類である。よってカエルは脊椎動物である」というものです。両生類は類的特徴として、脊椎があります。カエルはその両生類という類のなかに含まれますので、類的特徴としての脊椎がある、すなわち脊椎動物であると推理するわけです。仮言的推理は「もし両生類ならそれは脊椎動物である。カエルは両生類である。よってカエルは、脊椎動物である」というものです。それから選言推理は「両生類はイモリかカエルかサンショウウオかである。これはイモリでもサンショウウオでもない。よってこれはカエルだ」というものです。
 必然性の推理は「反省の推理が第二格にしたがって個を媒介項としているように(必然性の推理は)第三格にしたがって普遍を媒介項としている」とありますが、反省の推理はすべての個を媒介項にしていました。すべての人間(個)が死ぬ。だからカイウスは死ぬというわけです。ところが必然性の推理はすべての個ではなく、類を問題にしているのです。類という普遍性からその類に属する種の必然性を推理するのです。「もっとも、この普遍はそれ自身のうちで本質的に規定されているものとして定立されている」というのは、普遍としての類が種として規定されるという必然性として定立されることです。
 まず定言的推理ですが、特定の類が特殊を媒介にして、種が必然性として規定される。こういうものが定言推理です。次に仮言的推理においては、カエルという個が媒介規定であるということです。最後の「選言的推理においては、媒介の働きをする普遍が、またその特殊化の総体、ここの特殊、排他的な個として定立されている」とあります。先ほど両生類はイモリかサンショウウオかカエルかであるといいましたが、両生類という類は、種の総体としてとらえられるのです。
 問題は、ヘーゲルが必然性の推理を、何か反省の推理と別なものでより正しい判断を導きうる推理であるかのように論理を展開していることです。普遍たる類から種を推理するのは、反省の推理のなかの演繹的推理の一形態だと思います。演繹的推理は普遍から個を類推する推理ですから、類から種を類推する必然性の推理が、独自の推理の形式となりうるのか、疑問に思います。
 また、反省の推理の「類推」も類的普遍性にもとづく推理ですから、必然性の推理の一形態といえなくもありません。さらになぜ概念の推理がないのかも問題にすべきではないでしょうか。判断の種類は定有判断・反省判断・必然性の判断・概念の判断の四種類です。概念の判断の最後のところをもう一度思い出してほしいのですが、確然的判断というのがありました。㊦一五六ページをあけて下さい。そこに、この家はかくかくの性状、例えば基礎がしっかりしているからよい家だという判断です。一八〇節でこの確然的判断は、それぞれ根拠を述べているので判断ではあるけれども、根拠が示された判断としてそれは推理だということをいっています。一八〇節の中で「空虚な繋辞の充実」であり「すなわち推理である」といっています。確然的判断はもはや推理だということをいっているわけです。ですから、概念の判断(確然的判断)に見合う概念の推理があっておかしくないのです。たとえば「社会主義というのは国民が主人公の社会である」。これは大前提です。それで媒介項は「ソ連では国民が主人公になっていない」。結論「よってソ連は社会主義ではない」。これは社会主義の概念に照らして、ソ連という国家を推理したわけです。これは正に概念の推理なのです。確然的判断というのは、すでに足を一歩推理に踏み込んでいるわけで、概念の判断ではすでに推理なんだといいながら、概念の推理というものに言及しないのはおかしな話だといわなければなりません。今の例は概念に照らして個別の推理をするという意味では概念の推理と称されるべきものでしょう。さらにいうならば、概念は一種の普遍ですから、普遍に照らして個別の推理をするのは、これも全称判断の一つのあらわれです。そういう意味では必然性の推理も概念の推理も、或る意味では反省の推理のなかの演繹の推理ということであって、独自の推理の形式にはなりえないと思います。
 今までのところを整理してみます。定有の推理は一点の一致で推理する偶然的推理にすぎないわけですから、本来推理の名に値しないというヘーゲルの批判は、これはこれで正しいでしょう。ただ、ヘーゲルがあげている「このバラは赤い。赤は色である。バラは色を持つ」という例が、定有の推理として適当かどうかは疑問があります。この例が一点でふれあう推理の例として適当かどうか。むしろ皮相な類推の推理であげているところこそ、定有の推理への本質的な例といえるのではないかと思います。こういう推理はいろいろあるわけです。たとえば、「動物は移動する。ホヤは動かない。よってホヤは動物ではない」という推理はもちろん正しくない推理です。どうして間違っているかというと、動物というものを移動するか否かという皮相でとらえた類推だからです。
 反省の推理で述べている帰納推理・演繹推理・類推の推理を三つ切りはなしがたく結合することによって、はじめて正しい推理ができるのではないでしょうか。だからこの反省の推理こそが推理の本質的形式なのではないでしょうか。必然性の推理も概念の推理も、いわば普遍から個を推理するという意味では、反省の推理のなかの演繹の推理に属するのであって、独自の形式をなしていないのではないかと思われるのです。これはもう少し研究してみないと分からないのですが、実際にものごとをいろいろ推理して考えるにあたって、必然性の推理が推理の形式として不可欠なものだろうかと考えてみると、独自の形式に値しないと思えますし、またヘーゲルの論理からすれば概念の推理が存在しないことも納得できません。
 エンゲルスは『自然の弁証法』で、帰納法のヘッケル一派の批判をしていて、帰納だけの推理は正しくなく、帰納と演繹は相互に補いあう推理方法だということを述べています。「帰納によって、百年前、カニとクモとが昆虫であり、それより下等な動物はすべて蠕虫であることが見いだされた。帰納によって、今日では、このことが無意味であり、X個の綱があることが見いだされている。とすれば、いわゆる帰納推理なるものの利点はどこにあるのか? そしてこの帰納推理もまた誤りうることではいわゆる演繹推理と同様なのであって、しかも後者の根拠もまたじつに分類にあるのではなかろうか? 」(同五三四ページ)。
 帰納推理も演繹推理もそれだけ取り出してみると、両方とも誤りだといっているのです。これはヘーゲルも指摘しているところです。「百年前、カニとクモとが昆虫であり、それより下等な動物はすべて蠕虫であることが見出された」とありますが、蠕虫というのはミミズのことです。カニとクモとが昆虫だというのは足が六本以上あるのが昆虫だということで帰納したのでしょう。また帰納法の誤りとしてカモノハシの例がでています。ほ乳類は卵生ではなくて胎生だ、カモノハシは卵生である、よってカモノハシは哺乳類ではないといったのですが、カモノハシは卵生ではあるけれども哺乳類になるわけです。それまではカモノハシを知らなかったところから、すべての哺乳類は胎生だと結論づけたわけで、そこに帰納法の不十分さがあるということです。
 「ヘッケルが帰納法を擁護して狂信的に立ちあらわれてきたのが、まさに帰納の成果であるとされた分類がいたるところで疑問視されるにいたったその瞬間であり(カブトガニはクモであり、ホヤは脊椎動物か脊索動物であり、肺魚は両棲類のそもそもの定義にもかかわらず魚である)、従来の機能的分類全体をくつがえす新事実が日ごとに発見されつつある」として、帰納法は不十分だといっています。続いてここが大事なのですが「帰納推理は本質的に蓋然的推理であるというヘーゲルの命題のなんと見事な確証ではないか!」 と(同五三五ページ)いっています。
 それで「生物の分類でさえ、いまでは進化学説によって帰納法からそっくり奪いさられることになり、分類は『演繹』つまり進化系統に帰着させられ」ているとあります。現在の生物学上の分類は、DNAの分類ですから完全に演繹法として活用されています。ここでエンゲルスが全体としていいたいのは、帰納一本やりでも、演繹一本やりでも不十分であり、帰納と演繹とを補いあって推理する必要があるということだと思います。
 帰納と演繹以外の推理方法も「たくさんある推理形式のどれをも、上記の二形式のもとに押しこめられないかぎり」(同五三四ページ)とありますから、推理形式にはいろいろあるのに帰納と演繹の二つに無理矢理押しこむのはまちがいだといっています。たくさんある推理形式というのは、帰納と演繹以外に何があるかは述べていないのですが、類推が入るのはまちがいないと思います。
 類推・帰納・演繹以外に推理の形式はありうるのか、エンゲルスがここで述べているところだけでは必ずしも明らかではありませんが、少なくともエンゲルスは必然性の推理についてはまったく述べていないし、そういう点からしても帰納と演繹と類推という推理の三つの形式をおさえておけば、それでよいのだと思いますが、今後の研究課題にしておきたいと思います。

推理から客観へ
 
 推理は主観的概念の最後になり、ここから客観に移行することになります。つまり主観から客観への移行の論理になってくるのです。それがこれまで繰り返し述べてきました、いわゆる「エネルゲイアとしてのイデア」の問題になってくるわけです。

 一九二節 われわれは推理を、それが含んでいる諸区別にしたがって、考察してきた。そしてこれらの区別を経過してえられた一般的な成果は、この経過のうちでこれらの諸区別および概念の自己外有が揚棄されるということである。詳しく言えば、⑴ 諸モメントの各々はそれ自身諸モメントの全体、すなわち完全な推理であることがわかったのであり、したがってそれらは即自的に同一である。⑵ それらの区別および媒介の否定向自有である。したがってこれらの形態のうちにあるのは同一の普遍者であり、したがってそれはまたそれらの同一性として定立されてもいる。

 ここは客観への移行を述べたところですが、ヘーゲルは概念を客観の世界から導き出された真にあるべき姿としてとらえているわけです。けれども概念そのものは客観の否定として生まれた主観の産物なのです。真にあるべき姿は頭の中で描かれた主観的なものです。概念そのものは、単なる主観性なのです。しかしヘーゲルは単に主観的にすぎないものは、本来正しくない、主観と客観の弁証法的な統一にこそ真理があると考えるわけですから、単なる主観にすぎない概念が客観にあらわれ出ることによって、その概念は本当の姿になっていくものと考えます。このように考えるのは、ある一面ではこれは観念論です。一面で観念論ではあるけれども、他面では変革の立場、運動の見地を示すものでもあります。ヘーゲルはこの現実の客観世界にあるものをそのままで完成したものとは考えず、たえず生成しているものと考え、またイデア、概念によって真にあるべき姿に変革されるべき「有限性の世界」にすぎないと考えています。この主観から客観への移行をめぐる論理の展開には、以上の二つの面があることをみておく必要があります。
 さて、どのような論理によって主観的概念の最後の推理から客観に移行するのかをみてみましょう。もともと概念は普遍・特殊・個別が不可分一体のものとして存在する状況から、判断においてそれが区別されたものとして定立され、さらに推理において区別されたものがもう一度再統一される過程をみてきました。この推理の過程をつうじて、われわれは概念の普遍・特殊・個別の諸モメントが、相互に自立しながらも媒介されて概念としての統一性を保っているという状況にまで到達してきたことを学んできたわけです。
 「われわれは推理を、それが含んでいる諸区別にしたがって、考察してきた」というのは、普遍・特殊・個別の区別にしたがって考察してきたということです。「そしてこれらの区別を経過してえられた一般的な成果はこの経過のうちでこれらの諸区別および概念の自己外有が揚棄されるということである」とは、この推理の経過をへて普遍・特殊・個別が区別されながらも、やはり自己統一としてまた一体となってくるということです。
 それをやや詳しくいうと「 ⑴ 諸モメントの各々はそれ自身諸モメントの全体、すなわち完全な推理であることがわかった」、つまり普遍も特殊も個別も自立しながらそれぞれ相互に媒介されたものであり、いわば三重の媒介、三重の推理という関係になります。したがって普遍・特殊・個別は、相互に媒介されて相互に同一であるという関係が定立されてきたのです。
 「 ⑵ それらの区別および媒介の否定は向自有である」、つまり、そうやって推理の過程をへて、概念における普遍・特殊・個別の区別は揚棄され、概念はいまやそれ自体として存在する向自有(統体性)として存在しています。「したがってこれらの形態のうちにあるのは同一の普遍者であり、したがってそれはまたそれらの同一性として定立されてもいる」というのは、その概念の統一性は、いまや「同一の普遍者」すなわち具体的普遍として定立されている、具体的普遍として普遍・特殊・個別を内に含むものとして定立されているというのです。

 諸モメントのこうした観念性のうちで推理は、それが経過する諸規定性の否定を本質的に含むようになりそれとともに媒介の揚棄による媒介、主語を他のものとではなく、揚棄された他のものと、すなわち自分自身と連結するものとなる。

 この「概念は自分自身と連結する」とは、概念が客観化することです。「諸モメントのこうした観念性」というのは、概念の諸モメントが揚棄された、概念の統体性の回復のことです。推理の最後までくることによって概念は統体性を回復することにより、主観的概念としての自己を揚棄し、自分自身を客観化していくという意味です。これはヘーゲルの独自の論理展開ですから、その辺はあまり詮索してもしかたないのですが、頭にあるのは「エネルゲイアとしてのイデア」です。概念というイデアが、エネルゲイアとして客観に現実化していくということをいいたいわけです。

 第一九二節補遺 普通の論理学では、推理論とともに、いわゆる原理論をなしている第一部が終り、これに二部としていわゆる方法論が続いている。そして方法論において示さるべきものは、原理論で取扱われた思惟の諸形式を現存する諸客体へ適用することによって、いかにして一つの全体的な学問的認識が作り出されるかということである。これらの客観がどこから来るか、一般に客観性という思想はどういうものなのか、これについては悟性的論理学はそれ以上何の説明も与えない。

 普通の形式論理学では、推理論であつかった推理の形式を客体に適応した具体的な例をいろいろ述べる方法論をやるのですが、一番大事なことはこれらの客観がどこから来るかを説明することなのに、これについて形式論理学は何の説明も与えないと批判しています。ヘーゲルは目の前にある客観世界がどこから来るかということを説明しなければダメだといいたいのです。ここには客観世界は運動・変化・発展するものであり、現在の客観世界も生み出されたものとして存在するととらえるヘーゲルの問題意識があるわけです。

 そこでは思惟は単に主観的で形式的な活動と考えられており、思惟に対峙している客体はなんら主観の影響を受けぬ独立の存在と考えられている。しかしこうした二元論は真理ではない。このように主観性(Subjektivität)と客観性(Objektivität)という二つの規定を無造作に受け入れて、その起源を問わないのは、無思想な仕方である。

 主観と客観を媒介のない対立においてとらえることは、ヘーゲルにとって我慢ならないことであり、そういう二元論はまちがいだとします。では、どう一元的に考えるのかというと、目の前にある客観世界を主観的な普遍である概念の自己展開したものとしてヘーゲルはとらえているわけです。

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