『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第一三講 概念論・主観的概念 Ⅶ、客観 Ⅰ

c 推理・必然性の推理―続き

主観と客観の統一

 今回は一九二節補遺の中ほどからです。目次をご覧になったらわかるように、概念論は主観的概念、客観、理念と大きく三つに分かれております。その主観的概念のなかに、概念そのもの、判断、推理があって、推理の最後まで来たところで、主観的概念から、客観あるいは客観的概念に移行します。その移行の論理のところをいま学んでいるのです。
 テキストの解説に入る前に、まず主観と客観の関係をヘーゲルはどう考えているのか、ということについて最初にお話ししておきたいと思います。
 ヘーゲルは主観と客観の統一ないし同一にこそ真理があると考えて、それを自己の哲学の課題だと考えていました。例えば、主観と客観の関係というときに私たちが頭に思い浮かべるのは、人間の生産労働の問題です。生産労働はマルクスの言葉を借りると「人間と自然の物質代謝」(stoff)です。人間という主観(主体)と自然と」いう客観(客体)との間の交互作用をつうじて生産力が発展していくことを意味しています。そういう点からしても、ヘーゲルが主観と客観の統一ないし同一を自己の哲学と考えたことには、意義があると思います。
 客観は、ヘーゲルにいわせると「有限性の世界」です。この世にあるものはすべて運動・変化・発展して移り変わっていくわけですから、有限なるものです。そのかぎりで客観性というものは真実なものではないとヘーゲルは考えます。有論でお話したように、有限な定有から無限の有である向自有へ発展します。つまり有限な客観性をのりこえて無限な真なるものに客観が前進していく過程をとらえたわけで、その定有から向自有へというカテゴリーの移行をもう少し大きくとらえたときに、客観から概念への移行ということになってくるわけです。
 だから有限な客観は、イデアないし概念という主観の世界に移行することによって真理を獲得するとヘーゲルはまず考えます。同時に単なる主観性というものは、これもまた真実なものではないとヘーゲルは考えるわけです。以前、講義しましたように、プラトンのイデアはヘーゲルにいわせると主観にとどまっているイデアであり、それは真実なものではないのであって、アリストテレスのいうエネルゲイアとしてのイデア、つまり主観としてのイデアが客観にあらわれ出ることによって真実なものになっていくと考えるわけです。
 単なる主観も客観もそれ自身では真なるものではなく、その交互作用をつうじて両者の同一性が確立されるところに真理がある、それが概念論の一番最後に出てくる理念です。ですから論理学は、まず客観的論理学として有論、本質論を述べ、そして有論、本質論の真理として主観的論理学である概念論を論議するという構成になっているのです。主観的論理学としての概念論も、まず概念そのものは、単なる主観的なものにすぎないのであって、その単なる主観的なものにすぎない概念そのものが、客観にあらわれ出ることによってその真実態、真実の姿をかちとっていく。そういう主観的概念と客観的概念の統一あるいは同一として、理念に到達するという構成になっているわけです。論理学全体が、主観と客観の対立物の統一としてとらえられている、そこに真理があるという理解だと思います。
 
 前にもお話しましたが『ヘーゲル論理学入門』は、ちょっと違う立場をとっています。
 「ヘーゲルの論理学は『精神現象学』を前提しています。『精神現象学』では、感覚的確信から出発して、知覚・悟性・自己意識・理性・精神と、だんだんより高い意識の形態へとすすみ、最後に、意識と対象の完全な一致、対象の意識と自己意識の一致という、絶対知に到達します。そして、論理学はここから出発します。だから、論理学の立場は、はじめから、主観と客観が一致している立場です。ヘーゲルの論理学では、客観的なものの運動法則は、そのまま認識の運動法則とおなじです。ここには、世界の運動とそれをとらえる認識の運動とが、歴史のあゆみと論理のあゆみとが、究極において一致するという、深い思想がふくまれているのは事実です。しかしヘーゲルは、現実のあゆみと思考のあゆみの、それぞれの独自性をみないで、ときには思考のあゆみを現実のあゆみのように、ときには現実のあゆみを思考のあゆみのように、えがきます。論理学の諸カテゴリーが、概念の自己運動として展開されるのも、そのためです。
 ヘーゲル弁証法を合理的に摂取するための大前提は、なによりも、ヘーゲルが混同している思考のあゆみと現実のあゆみとを、明確に区別することです」(同八ページ)。
 この『入門』では、ヘーゲル論理学は精神現象学の絶対知から出発しており、その絶対知は主観と客観が一致している立場であり、そういう立場で論理学全体が貫かれているところにヘーゲルの観念論がある、というとらえ方になっています。三九ページにも同じようなことが出ています。有論のまとめ「論点」の真ん中あたりです。「ここには現実の過程と思考の過程とを混同し同一視するヘーゲルの欠陥があらわれています。これはヘーゲル哲学の観念論的性格のあらわれでもあり」というとらえ方になってます。
 つまりヘーゲル論理学は、主観と客観がいつでも一致しているという立場をとっていて、主観のことを述べるかと思えば客観のことを述べ、客観のことを述べるかと思えば主観のことを述べている、そこにヘーゲルの観念論があるという理解にたっております。この『入門』をリードして書かれた鈴木茂さんの『ヘーゲルの判断論』(文理閣)では、さらにその点が詳しく述べられています。折り紙のだまし舟のように、舳先をつかんだかと思えば帆をつかんでいる、帆をつかんだかと思えば舳先をつかんでいるというように、思考のあゆみを述べているかと思えば現実のあゆみを述べ、現実のあゆみを述べているかと思えば思考のあゆみを述べるというように、両者を混同しているところにヘーゲルの観念論があるという言い方がされています。
 しかし、それは違うのではないかと私は思います。精神現象学も主観と客観を最初から混同しているわけではありません。主観と客観を区別したうえで、その両者の統一が実現される過程を人間の認識の深まりとしてみて、最後は主観と客観の一致する絶対知に人間の認識は到達するといっているわけです。確かにヘーゲルの『大論理学』の「第一版の序文」では、精神現象学をふまえて大論理学を書くんだという言い方をしていますけれども、『大論理学』の構成全体をみてみると主観と客観とを明確に区別しながら、その交互作用をつうじて同一性がいかに確立されていくかという過程を述べています。
 ヘーゲルの判断論や推理論では、判断とか推理が二重の意味で使われていることはこれまでにもお話してきました。一つはいわゆる真にあるべき姿としての概念です。概念は具体的普遍であり、普遍でありながら特殊や個別を内に含んでいるのです。もう一つは形式論理学の判断や推理と同じ意味でとらえる面があります。ヘーゲルがその二つを適当に使いわけているというのは事実ですが、それはいずれも人間の認識の問題としてとらえているのであって、ヘーゲルが主観と客観を混同しているのではありません。
 ですから、主観と客観を混同するところにヘーゲルの観念論があるというとらえ方には、賛成できません。ヘーゲルは、主観と客観を対立し区別されたものであるということを当然の前提にしながら、とりわけ人間の生産労働やあるいは認識、実践をつうじてその統一がいかに実現されていくかという過程を重視しています。マルクスも述べているように人間と自然の物質代謝をつうじて、人間の認識が真理にむかって前進していく過程として、主観と客観の統一ないし同一をみているという意味で、むしろ積極的な評価を与えうるのではないかと、私は考えております。そういう意味でヘーゲルのいう主観と客観の二元論を克服すべきだという提唱は積極的に解すべきものと思われます。
 それではテキストの解説に入りましょう。前回は、㊦一七六ページの真ん中あたりまででした。主観と客観の二元論は真理ではないというところです。主観と客観とをそれぞれ孤立したものとして、あるいは媒介されないものとして、バラバラに存在するものとしてとらえるのは正しくないといってるわけで、主観から客観への移行の問題を扱います。

一九二節補遺 主観性も客観性も明かに思想であり、しかも規定された思想であるから、われわれはそれらを自分自身を規定する普遍的な思惟にもとづいているものとして示さなければならない。このことは、これまで述べたところにおいて、まず主観性にかんして行われた。われわれは主観性すなわち主観的概念を――これは概念そのもの、判断、および推理をそのうちに含んでいるが――論理的理念の最初の二つの主要段階、有および本質の弁証法的成果として認識した。

 「主観性も客観性も明らかに思想である」というのは、つまりものごとを抽象化してとらえられた人間の認識なのです。現実の世界、この世界全体を「客観」としてとらえることは、人間の認識において客観世界としてとらえるわけですから、思想ということもできます。主観が思想であるということはいうまでもないことです。だから、主観性も客観性も明らかに思想であり「しかも規定された思想」というのは、何か思いつきでとらえられたような思想ではなくて、ある必然性をもって規定される思想だというのです。だから「われわれはそれらを自分自身を規定する普遍的な思惟にもとづいているものとして示さなければならない」というのは、主観も客観も与えられた前提として認めるのではなくて、それが一体何なのかということを論理の展開として示す必要があるということです。
 われわれはまず主観性とは何なのかということをここまで考察してきました。今まで学んできたように「主観性すなわち主観的概念」は有および本質の弁証法的成果として生まれてくるものです。それは有論、本質論が客観的論理学であり、客観世界の必然性、法則を認識することをつうじて、真にあるべき姿としての概念が主観的なものとしてとらえられてくるということですが、自分は主観性を発生史的に展開して主観が何なのかを明らかにしてきたといっているのです。
 その前提にたって主観から客観への移行を論じます。

 概念が主観的、しかも単に主観的であると言うのは、全く正しい。なぜなら概念は主観性そのものであるからである。さらに判断および推理も、概念そのものにおとらず、主観的なものである。そしてこれら三つの規定は、いわゆる思惟法則(同一、区別、および根拠の法則)とともに、普通の論理学ではいわゆる原理論の内容をなしている。しかし、概念、判断、および推理という以上三つの規定から成っているこの主観性は、独立に存在している客体によって外部から充実されねばならない空虚な区劃ではなく、主観性そのものが、弁証法的なものとして、自己の制限をうち破り、推理を通じて客観性への道をひらくのである。

 主観的概念、あるいは概念そのものは、客観世界から生み出されたものですが、頭の中で考えられたという意味では主観的なものです。単に主観的なものは、ヘーゲルにいわせれば真実でないものです。プラトン的イデアではだめなので、エネルゲイアとしてのイデアでなくてはならないというわけです。概念そのものは単に主観的なものにすぎないので、こういう主観性は「弁証法的なものとして、自己の制限をうち破り、推理をつうじて客観性への道をひらく」、つまり主観性そのものは、単に主観的なものであるかぎりは真実ではないから自己の制約を打ち破って客観性への道をひらくというのです。
 エネルゲイアというのは、要するに運動することです。どのように運動するのかといったら主観から客観に絶対的な力を持って移行していく、そういうものが概念なのです。真にあるべき姿は、いつまでも主観という不十分なものにとどまっているのではなくて、客観に移行することによって完全な姿として完成されていくと考えているのです。
 一六三節で「概念の個別性は、絶対的に産出するものである」ということをいいました。真にあるべき姿はいつまでも主観にとどまっているのではなくて絶対的に客観にあらわれる、客観として自己を産出するものなんだといいましたが、今このことを論じているのです。単なる主観に止まるものは真なるものとはいえない、客観を獲得することによって真なるものにみずからを実現していくんだということです。
 一九三節にいきましょう。これも主観から客観への移行の節で、大変長い。一七七ページから一八三ページまであります。主観と客観との関係をいかにヘーゲルが重視していたかということが、この節をみても分かるだろうと思います。
 
客観とは概念の実現

一九三節 このように概念が実現された場合、前節に述べたように、普遍者は自己のうちへ復帰した一つの統体をなし(この統体の諸区別も同じくこうした統体をなしている、そしてこの統体は媒介の揚棄によって)自己を直接的な統一として規定している。概念のこうした実現がすなわち客観(Objekt)である。

 概念が実現されるといっているのは、主観的なものにすぎない概念が自らを実現して客観になるという意味です。そうなった場合「普遍者は自己のうちへ復帰した一つの統体をなす」とありますが、この普遍者というのは概念のことです。もともと概念は客観から生まれてきた主観です。その客観から生まれ出てきた真にあるべき姿が、本来、自分を生み出した客観に戻ってくるわけですから、そういう意味で「普遍者は自己のうちへ復帰した」というのです。
 「一つの統体をなす」というのは、客観は客観世界として一つのまとまりをもったものです。客観世界の統一性があるからこそ、そのなかにいろいろな法則があるのです。そもそも時間とは何なのかというと、この客観世界にあるものが相互に連関しながら統一した法則のものに動いているからこそ時間という単位に当てはめることができるのです。これが相互にバラバラに勝手に動いていたら、世界を一つの時間でとらえることはできません。
 「この統体の諸区別も同じくこうした統体をなしている」というのは、客観世界の中に一つひとつの個別が存在するわけで、その一つひとつの個別も、また、それなりにまとまりをもったものとしてあるということです。人間は人間、山は山、川は川としてあるのです。
 「そしてこの統体は媒介の揚棄によって自己を直接的な統一として規定している」。この「統体」というのは」客観のことですが、客観はもともと主観的なもの、主観そのものに媒介されて生まれ出たものなんですが、もはや主観そのものは消え去ってしまって、それだけで生まれながらに存在するような統一体として規定されているということです。
 「概念のこうした実現がすなわち客観である」。この文章をつかまえて、ここにヘーゲルの観念論の表現があるということはできるだろうとは思います。しかしここに何の意味もないのかというとそうではないのです。人類五〇〇万年の歴史は、人間と自然との物質代謝を無限に繰りかえすなかで、だんだん自然をわがものにしてきた過程です。人間の手の加わらない自然はほとんどないといってもよい状況です。大気ですら、炭酸ガスの比率が上昇するなど人間の手の加わったものになってきています。そういう意味では、主観が客観を作り出すという側面をみておくということは絶対に必要なことです。
 ヘーゲルがその側面だけしかみていないということであれば、観念論だということでしりぞければすむかもしれません。しかし、ヘーゲルはそこだけをみているわけではなくて、その前の過程では客観世界から主観が生み出されるという側面もみているのです。本質論から概念論への移行の過程では、反映論的なとらえ方になっているのに対し、ここでは人間の実践的な過程を念頭におきながら、客観世界を変革する見地から議論を展開しているところだろうと思います。

 主観すなわち概念一般から、もっとはっきり言えば、推理から客観へ移っていくということは、特に人々が悟性推理、および意識の作用としての推理を念頭においている場合には、一見非常に奇妙に思われるであろうが、しかし、この移行を表象にも納得できるようにしようとする必要はない。ここで問題となりうるのはただ、客観と呼ばれているものにかんする普通の表象が、ここで客観の規定をなしているものと大体一致しているかどうかということである。

 主観から客観へ移っていく、主観の一番最後の推理から客観に移っていくことは、一見すると非常に奇妙に思われるだろうが「表象にも納得できるようにしようとする必要はない」、常識的な考えの人にこれを理解してもらおうとする必要はないという意味のことをいっているのですが、これは疑問です。人間の実践とのかかわりでみた場合、常識的な考えからしても理解しうるところです。
 それはともかく、大事なことは客観とはいったい何を意味しているかを正確につかまえることで、ヘーゲルは客観とは何なのかということを展開します。

 人々は普通客観という言葉のもとに、単に抽象的な存在とか、現存在する物とか、現実的なもの一般ではなく、具体的で自己のうちで完結している独立的なものを理解している。この完全性こそ概念の統体性なのである。客観はまた対象であって、他のものにたいして外的なものであるという規定性は、後にそれが主観的なものへの対立のうちに定立されるとき、明かにされるであろう。ここではまずそれは、概念が自己の媒介からそのうちへ移っていったものとして、単に直接的な客観にすぎない。概念も同じく、後にそれが対立のうちにおかれるようになってはじめて主観的なものとして規定されるのである。

 ふつう客観というと、抽象的な存在とか、現存在するものとか、現実的なもの一般であるとかではなくて、具体的で自己のうちで完結している独立的なものと理解しています。つまり客観世界は客観世界として一つの独立した、まとまった世界として理解しています。どのように独立しているかというと、主観から独立したものとして存在している。「自己のうちで完結している」ということは、主観の作用を受けないでそれ自体として完結的に存在しているという意味です。その理解はある意味では正しいのです。どういう点で正しいかというと、自己完結的なものとしてあるというのは、概念の統体性を示しているという意味においてです。つまり概念はこれまでも学んできたように、具体的普遍なのです。具体的普遍として普遍・特殊・個別全体をつつむ統一体としてあるわけですが、そのように客観世界も概念のあらわれとして一つのまとまりを持った統一体としてあるという点では、こういう理解も正しいというのです。
 次に「客観もまた対象であって、他のものに対して外的であるという規定性」とは、どういうことでしょうか。客観というものは、主観に対立するもので、人間が実践する対象です。だから人間が相対する対象、もっといえば生産労働の対象ということになるわけで、そういう意味で主観的なものに対立する外的な規定性です。しかし「ここではまずそれは、概念が自己の媒介からそのうちへ移っていったものとして、単に直接的な客観にすぎない」といってますが、客観をいろいろなレベルでヘーゲルはみているのです。最初の客観はまだ不十分な、まだ完全ではない客観から出発してより完全な客観に発展するという、いわば客観それ自体の発展をヘーゲルはみているわけで、生まれたばかりの客観は、まだ直接的な客観にすぎないというのです。「概念も同じく、後にそれが対立のうちにおかれるようになってはじめて主観的なものとして規定される」というのは、概念そのものは主観的概念であって、まだ主観としては明確に認識されていないのです。ところが、概念が客観に移行することによって、今までの概念そのものが何だったのかを振り返ってみると、その概念そのものは主観であったと規定される。だから客観は、一つのまとまりをもった統体性、客観世界の統一性をもっていて主観に対立するものだといっているのです。

 さらに客観は、まだ自己のうちで規定されていない一つの全体、客観的な世界一般、神、絶対の客観である。しかし客観はまた自己のうちに区別を持ち、客観的な世界として不定数のさまざまなものにわかれる。そしてこれら個別的なものの各々もまたそれぞれ一つの客観であり、自分自身のうちで具体的な、完全な、独立的な定有である。

 「客観は、まだ自己のうちで規定されていない一つの全体」というのは、客観世界そのものをみているわけで、それは一つの全体をなしています。しかし、客観世界というものは、その中にいろいろな区別があるわけです。山があり、川があり、生物があり、人間の社会があるということで区別される。だから「客観はまた自己のうちに区別を持ち」「さまざまなものにわかれる」「これら個別的なものの各々もまたそれぞれ一つの客観」であって「自分自身のうちで完全な、独立的な定有である。そういう無数の独立したあるものから客観世界はなりたっているという、ごく当たり前のことをいっているにすぎません。

主観から客観への移行

 客観性は有、現存在、現実性と比較されたが、客観性への移行もまた、現存在および現実性への移行と比較されることができる(有は最初の全く抽象的な直接性であるから、有への移行というものはありえない)。現存在がそこからあらわれ出る根拠、および現実性へと揚棄される反省的相関は、まだ十分顕在的になっていない概念にほかならず、言いかえれば、概念の抽象的な側面にすぎない。すなわち、根拠は概念の統一が本質の領域においてあらわれたものにすぎず、相関は自己のうちへのみ反省していると考えられている、実在的な二つの側面の関係にすぎない。概念は両者の統一である。そして客観は単に本質にみられたような統一ではなくて、自己自身のうちで普遍的な統一であり、単に実在的な諸区別をそのうちに含んでいるのではなくて、諸々の統体としての諸区別を含んでいるのである。(岩波文庫では五行目「考えられている」の直後が「。」となっているが誤りだと思われるので訂正した)。

 これまで、客観性を示すカテゴリーとして、有、現存在、現実性というカテゴリーを有論、本質論で検討してきました。いずれも客観的に存在するものです。ではそれらのカテゴリーと客観性とは一体どういう関係にあるのでしょうか。まず有は、最初の抽象的な直接性であって、ただ「ある」というだけのものですから、ここから何かが生まれてくるというカテゴリーではありません。だから、何かが有に移行するということもないのです。これに対しそれ以外の現存在、現実性、客観性はいずれも移行から生まれてきます。現存在は根拠から生まれます。現実性は必然性あるいは実体からあらわれでてきます。それに対して客観は、概念があらわれでたものであるといっているのです。だから根拠も、必然性や実体も、あるいは概念も、ある意味でエネルゲイアとしてのイデアなのです。そのイデアがあらわれでて存在を獲得していく過程を、われわれはいままで内にあるものの、外への移行ととらえてきたといっているのです。根拠から現存在への移行、必然性から現実性への移行、概念から客観への移行、すべて内にあるエネルゲイアとしてのイデアが外に出て存在を獲得していく側面だというのです。
 ただ根拠とか必然性、実体というのは、まだ十分顕在的になっていない概念にすぎないといっています。それは何のことかといいますと、根拠とか実体、あるいは必然性というのは、内にある「現にあるべき姿」であって、「真にあるべき姿」ではないのです。「現にあるべき姿」が存在を獲得するという形で移行するというのが根拠から現存在への移行、それから実体から現実性への移行ということになるのに対し、概念から客観への移行はまさに内にある「真にあるべき姿」が客観へ移行するのであり、そういう違いがあるというのです。だから客観は概念としての普遍的な統一です。つまり概念における主観と客観の統一が、客観なのです。㊦一七九ページの最初からはそういうことをいっているのだと思います。
 「概念は両者の統一である」とありますが、両者の統一とは、本質にみられたような反省関係にあるものの統一ではなくて、自分自身のうちでの普遍的な統一、つまり概念という主観的なものが客観化する、概念という主観的なものが自ら客観に移行する、そういう形の統一だということです。本質論における根拠、実体があらわれでる姿と、概念論における概念があらわれでる姿、いずれも移行という点では共通ですが、概念論においてあらわれでるものは「真にあるべき姿」なのに対し、本質論では「現にあるべき姿」があらわれでるという違いがあるのです。

 これらすべての移行において、ただ一般的に概念あるいは思惟が存在から離しがたいものであることを示すだけではたりないのは明かである。すでにしばしば注意したように、有とは単純な自己関係にすぎず、こうした貧しい規定はもともと概念、否思惟のうちにさえ含まれている。しかしこれらの移行の意義は、単に含まれているままの諸規定をとりあげるということではない(有は実在性の一つであるという命題によって神の存在論的証明においてさえ行われているように)。それはまず概念を、有や客観というような別の抽象物とはまだ全く無関係に、概念そのものとして考察し、あくまで概念本来の規定性としてのその規定性に即しながら、この規定性が、概念に属し、概念のうちにあらわれている規定とはちがった形態へ移っていくかどうかをみ、また実際に移っていくのをみることにある。

 「これらすべての移行において」というのは、根拠から現存在への移行、実体(必然性)から現実性への移行、概念から客観への移行のことをいっています。こういうすべての移行において「一般的に概念あるいは思惟が、存在から離しがたいものであることを示すだけではたりない」とありますが「概念あるいは思惟」の「思惟」は、思惟によってとらえられた本当の姿という意味でしょう。そういうものが存在から切りはなしがたいことを示すだけでは不十分だというのです。真なるものは、単に存在を伴っているというだけではなくて、必然的に真なる存在となってあらわれでるというようにとらえなくてはいけないということです。
 「これらの移行の意義は、単に含まれているものの諸規定をとりあげるということではない」というのは、そういう意味です。「神の存在論的証明」はちょっとおいておきます。後から出てきますから。。
 「それはまず概念を、有や客観というような別の抽象物とはまだ全く無関係に、概念そのものとして考察し、あくまで概念本来の規定性としてのその規定性に即しながら、この規定性が概念に属し、概念のうちにあらわれている規定とはちがった形態へ移っていくかどうかをみ、また実際に移っていくのをみることにある」というところは、真にとらえられた本当の姿を存在と切りはなしがたいというだけでは不十分であって、真にあるべき姿―これが概念そのものになるわけですが―を「その規定性に即しながら」、つまり根拠とか実体とか概念とかの」、規定性に即しながら「ちがった形態」つまり外にあらわれる姿に移っていくのをみることにあるというのです。だから、真なるものが存在を獲得していく移行としてみることが重要なのであり「エネルゲイアとしてのイデア」として理解すべきなのです。イデアがいつまでもイデアにとどまっているのではなくて存在を獲得する、存在するものに移行していくのです。根拠から現存在への移行、実体・必然性から現実性への移行、それから概念から客観への移行、全体をつうじてヘーゲルは、エネルゲイアとしてのイデアを念頭においているのです。それが完成された姿として出るのが、概念の客観性への移行なのです。だから一七八ページのおわりから三行目で、根拠とか反省的相関はまだ「十分顕在的になっていない概念にほかならず」とは、現存在・現実性も、エネルゲイアとしてのイデアではあるけれども、まだ完成された姿にはなっていないということです。
 今日の講義の冒頭に、単なる主観的なものは真なるものではない、主観と客観とが一体となってはじめて真なるものだといいました。単なる考えられたもの、思惟されたもの、主観によってとらえられたものは、まだ真実なものではなくて、それが現実を獲得することによって、はじめて真なるものになりうるんだという、主観と客観の同一性を真理とみる考え方が、全体にあらわれています。

概念と客観との同一と区別

 この移行の産物である客観を、客観のうちでその特有の形式を失っている概念と関係させる場合、その結果を表現して、概念と── これはまた主観性と言ってもいい── 客観とは即自的には同じものであると言うのは正しい。しかしまた両者が異っていると言うのも同様に正しい

 概念が移行して客観になるわけですから、主観性としての概念と客観とは「即自的には同じものであるというのは正しい」ということになります。即自的というのは、ここでは潜在的にという意味です。「また両者が異っているというのも同様に正しい」というのは、概念から生まれたばかりの客観は、まだ客観としても未完成な姿だということです。未完成な客観と概念とは完全に同一ではありません。客観がどんどん発展していくなかで、本当の意味での主観と客観の同一というのが実現されるのです。ヘーゲルは客観を機械的関係、化学的関係、目的的関係に区別し、客観がより高度になっていく過程をあとづけています。生まれたばかりの客観は、機械的関係としての客観ですから、概念のあらわれとしては不十分なものであって、最後の目的的関係にまで至らないと、本当の意味で概念に一致しないといいたいのです。

 一方が他方と同様に正しいということは、まさに一方が他方と同様に正しくないということであって、こうした表現の仕方は本当の関係を言いあらわすことができない。概念そのものは一面的であって、その一面性は、それに対立している一面性であるところの客観へ移っていくことによって、自己を揚棄するのであるが、上に述べた即自は抽象物であり、しかも概念そのものよりなお一面的な抽象物である。したがってこの潜在性も自己を否定して自己を顕在性へと規定しなければならない。

 「概念そのもの」というのは、主観的概念のことです。主観的概念は一面的であり正しくないのであって、「その一面性は、それに対立している一面性であるところの客観へ移っていくことによって」より正しいものになるということです。ここからも主観も客観も両方とも一面的で正しくないことが分かります。主観は客観に移行していくことによって「自己を揚棄」します。しかし「上に述べた即自」、つまり客観の即自態、生まれたば」かりの客観は、まだ抽象物にすぎないものであって「概念そのものよりなお一面的な抽象物である、すなわち客観としての完成された姿にはなってないというのです。「したがってこの潜在性」、つまり客観の潜在的な姿は「自己を否定して自己を顕在性へと規定しなければならない」というのは、生まれたばかりの客観は、自己を否定して自己を客観の完成態にむかって規定していく、その完成態というのが、本当の意味の概念のあらわれとなるのです。

 あらゆる場合にそうであるように、思弁的同一は、概念と客観とが即自的に同一であるというような、平凡な同一性ではない。このことは幾度となく繰返して注意したことであるが、この同一にかんする浅薄な、そして全く悪意の誤解をなくしようと思えば、幾度繰返してもなおたりないであろう。そしてここにもう一度それを繰返しても、やはりその見込みはないのである。

 思弁的同一というのは、主観と客観の同一性ということです。ヘーゲルがいっている主観と客観の同一性は、概念と客観とが、展開されないまま、区別されないままに同一であるという平凡な同一性ではないのです。主観が展開して客観に移行し、その客観もまた展開されることによって、はじめて概念と同一になるのであって、その未展開のまま同一だというような平凡な同一ではないことを注意をしておきたいというのです。この箇所はある意味では『入門』で述べられている見解を「批判」しているとも、受け取れるところだと思います。
 ここまでくると「理性的なものは現実的」という意味もよく分かるのではないでしょうか。理性的なものとは理念です。理念は、現実になる力をもっていて現実性となります。そういう意味で「理性的なものは現実的である」といっているのです。すでに学んだように、一四三節以下において、現実性をさらにそのモメントに分解して可能性、偶然性、それから必然性へと展開していくことになるわけです。いずれも内側にあるものが外側にあらわれ出るという展開をしているわけですが、可能性・偶然性・必然性という三つのカテゴリーを使いながら現実性の問題をみていこうとするのです。

 この同一が全く一般的にとられて、それが即自的であるという一面性を顧みないとき、それは周知のごとく、神の本体論的証明のさいに前提されているもの、しかも最も完全なものとして前提されているものにほかならない。この証明のきわめて注目すべき思想を最初に表明したアンセルムスは、当然のこととしてまず、ある内容がわれわれの思惟のうちにのみ存在するかどうかということを問題にしているにすぎない。

 主観と客観の同一が展開されてはじめて同一になることを顧みないで、主観と客観の同一が展開されないままに同一だというとらえ方が神の存在論的証明なのだとヘーゲルはいっているのです。

アンセルムス批判

 アンセルムスの神の存在証明というのは、大変有名な証明です。中世において神は絶対者です。絶対者が存在することの証明がいかになされるべきかについていろいろ議論がありましたが、その決定版がアンセルムスの神の存在証明でした。彼の言葉を要約したものが、次の文章です。

 〔確かに、それより偉大なものが考えられないものは、知力のうちにのみ存在することはできない。なぜなら、もしそれが知力のうちにのみ存在するとしても、それはまた事物のうちにも存在すると考えることができ、そしてこのことの方がより偉大なことだからである。したがって、もしそれより偉大なものは考えられないものが、知力のうちにのみ存在するとすれば、それより偉大なものは考えられないものが、それより偉大なものが考えられるものとなってしまう。しかし、こうしたことは確かにありえないことである〕。

 ちょっと分かりにくいかもしれません。最も偉大なもの、つまり最も完全なものは「知力」、すなわち主観のうちにだけ存在するのではなくて「事物」、すなわち客観のうちにも存在する。単に主観的にすぎないものは一面的で不完全なものですから、完全なものというのは主観のうちにだけでなく、客観のうちにも存在しなければならない。神は最も偉大なものである。したがって神は客観のうちにも存在する。これがアンセルムスの神の存在証明なのです。それに対してヘーゲルは、アンセルムスは主観と客観との関係を展開しないまま、神と存在とを結びつけてしまったと批判したいのです。

 ――われわれが今そのうちに立っている諸規定にしたがえば、有限な事物とは、その客観性がその思想、すなわちその普遍的規定、その類、およびその目的に一致していないものである。デカルト、スピノザ、等々は、この同一をより客観的に言いあらわしているが、しかし直接的確実性あるいは信仰の原理を主張する人々は、むしろアンセルムスの主観的な仕方にしたがって、この同一を、神の存在という規定がわれわれの意識のうちで神の表象と不可分に結びついているという意味に理解している。

 ヘーゲルは「有限な事物とは、その客観性が、その思想、すなわちその普遍的規定、その類、およびその目的に一致していないものである」といっています。それはつまり客観的な存在がまだ未完成なために概念と完全に一致していないものが有限な事物だということです。未完成で概念に一致していないから、いずれは存在を失います。完全なものは主観と客観が完全に一致するわけで、存在も永遠なものになる。有限なものは客観が未完成だから、客観の方は途中で消滅してしまって主観だけになってしまう。
 信仰している人々は、神を思い浮かべることができるのは神が存在しているからだとして、神の存在を信じているということです。

 信仰の原理をとる人々は、また外的な有限な事物の表象についても、それが直感のうちで存在と結びついているという理由で、その意識とその存在とは不可分であると考えているが、これは一応正しい。

 信仰している人が神を思い浮かべることができるのは、神が存在しているからとしていますが、一般的に存在は意識に反映されるから、存在が意識に反映されているというのは一応正しいといっています。

 しかし、もしかれらが、われわれの意識のうちで存在が、神の表象に結びついていると同じ仕方で、有限な事物の表象と結びついていると考えているとしたら、それは甚しい無思想と言わなければならない。もしかれらがそんなことを考えているとしたら、かれらは、有限な事物は変化し消滅するものであること、言いかえれば、存在がそれらと結びついているのは一時的にすぎず、その結合は永遠でなく分離しうるものであることを、忘れているのである。

 有限な事物がなぜ有限なのかというと、主観と客観の結びつきが一時的なのです。だから一時的には存在しているが、いずれ存在しなくなってしまう。主観と客観の結合が永遠ではないのです。だからすべてのものが主観と客観が一致していると考えるのははなはだしく無思想であり、主観と客観がいつでも一致しているものは、無限なものにしか認められないというのです。

 だからこそアンセルムスは正当にも、有限な事物にみられるような結合を無視して、単に主観的にだけでなく同時に客観的にも存在するものをのみ完全なものと言ったのである。

 アンセルムスの神の存在証明は、神は完全なものですから有限な事物と違って一時的な主観と客観の結合ではなくて、主観的なものである神が同時に客観的にも存在するということができたのです。主観と客観が完全に一致することは完全なもののみについていえることであって、そのかぎりではアンセルムスの証明は正しいということです。

 いわゆる本体論的証明や完全なものについてのこうしたアンセルムス的規定をどんなに軽蔑しても、それは無益である。それはあらゆるとらわれない良識のうちに存在しており、またあるゆる哲学において、そうした意志もなくまたそれと気づかなくてさえ、直接的信仰の原理におけるように、帰ってくるからである。

 ヘーゲルのいう概念は真にあるべき姿ですから、客観を完全にかちとる力をもっています。「エネルゲイアとしてのイデア」である概念は、主観的なものですが、完全なものだから客観性を取得するのであり、その意味で「完全なものは、主・客の一致」とするアンセルムスの証明は正しいというのです。

 しかしアンセルムスの証明の欠陥は――デカルトやスピノザ、および直接的信仰の原理も同じ欠陥を持っているのであるが――最も完全なものとか、あるいはまた主観的に、真の知識とか言いあらわされているこの統一が前提されているということ、すなわち単に即自的なものと考えられているということにある。

 アンセルムスの神の存在証明は、完全なものは主観と客観が完全に統一されているという正しい結論を出してはいるのですが、不完全なもの、つまり有限なものにおいては主観と客観は一致していないという段階を経たうえで、完全なものは主観と客観が統一されているというのならいいのですが、いきなりその結論だけを証明なしに前提としているのは正しくないというのです。
 それに対してヘーゲルは、主観と客観の結合が不十分な形から、やがて全面的な統一に至るところまで、客観の働きをみているのだとして、そこにアンセルムスとの違いがあるといいたいのです。

 こうした抽象的な同一性には、とっくにアンセルムスにたいしておこなわれているように、すぐ二つの規定の差別が反駁に持ち出される。言いかえれば、有限なものの表象および存在が無限なものの反駁のために持ち出される。というのは、前にも述べたように、有限なものは客観ではあるが、同時にその目的、本質および概念に一致していず、それと異っているような客観だからである。別な言葉で言えば、それは存在を含んでいないような表象であり、そうした主観的なものだからである。

 アンセルムスのように、神は完全なものだから主観であると同時に客観として存在するというと、そんなことをいったってすべてのものが主観と客観と一致しているわけではないという反論が起きてくるというのです。

 こうした異論や反駁はただ次のようにしてのみ克服される。すなわち、有限なものは真実でないものであること、二つの規定は単独では一面的であり空無なものであること、したがって両者の同一は、両者がそれ自身でそのうちへ移っていき、そこで両者が宥和されているような同一であること、を示すことによってのみ克服される。

 こういう反論に対しては、有限なものは真実ではないから、その存在が一時的なのであって、アンセルムスがいっているのは、無限なものとしての神を論じているのであって、無限なものはいつでも主観と客観が一致しているという再反論ができるというのです。さらに「二つの規定」つまり主観と客観とは、単独ではいずれも一面的であり空無なものであり、したがって主観と客観の同一にこそ真理があるのであって、アンセルムスはそういうことがいいたかったというのです。神は真理なのだから、真理であり、無限なものであるかぎりでは、主観としてあると同時に客観としてある。こういっているところにアンセルムスの神の存在証明の値打ちがあるといっているのです。ここにも主観と客観の同一性のなかに真理があるというヘーゲルの哲学観をみることができると思います。


B 客観(Das Objekt)

 客観に入ります。概念そのもの、主観的概念が終わって、今度は概念が移行した客観ということです。客観をあくまで概念のあらわれとしてとらえており、その概念が不十分な形から完全なものに発展していくものとして、ヘーゲルは客観の三つの形態をみています。

客観は、独立と非独立との統一

一九四節 客観は直接的な存在である。なぜなら、客観においては区別が揚棄されているために、客観は区別にたいして無関心であるからである。それはさらに自己のうちで統体をなしているが、同時にこの同一は諸モメントの即自的な同一にすぎないから、それはまたその直接的な統一にたいしても無関心である。かくしてそれは諸区別へ分裂し、その各々がそれ自身統体である。したがって客観は、多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾である。

 「客観は直接的な存在である」というのは、客観は概念から生まれたものですが、概念そのもののもっていた主観性はもうここでは消えてしまって、客観だけが存在しているようにみえるという意味です。「なぜなら、客観においては区別が揚棄されている」。区別というのは主観(概念)と客観との区別です。客観は概念から生まれたものでありながら概念の姿はもう消え去って客観それだけで存在しているようにみえるのです。「それはさらに自己のうちで統体をなしている」とありますが、客観世界は客観としての統一世界としてあるわけです。前に「自己のうちで関係している独立的なもの」という言い方をしていましたが、そういうものとして一つの統一体としてあるのです。
 これは唯物論的にみても正しく、客観世界の統一性です。つまり客観世界に存在する個々のものは、相互に連関しあって一つのまとまりをもった世界として存在しているのです。そういう関連した一体性があるから「法則」をとらえることができるわけで、一体性がなかったら法則はありえないのです。また、一体性があるから本質をみぬくことができるわけです。本質と現象がバラバラだったら本質はみぬくことができません。法則とか本質をとらえることができるのは、すべて世界の統一性に起因しているといってもよいと思います。
 「同時にこの同一は諸モメントの即自的な同一にすぎない」といっておりますが、この世界の同一性はいろんなモメントを含む同一だというのです「かくしてそれは諸区別へ分裂しその各々がそれ自身統体である」。客観世界は統一体ですが、そのなかにはいろんな区別があり、しかも区別された自然、社会、人間などは、それ自身がまとまりをもったものとして存在しています。したがって、ここが大切なところなんですが、客観は「多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾である」というのです。ヘーゲルはすべてのものは直接性と媒介性との統一であるといっていますが、ここでは客観は独立と非独立との絶対的な矛盾だといっています。「多様なものの完全な独立」というのは客観世界は諸区別に分裂していますから、諸区別のそれぞれが独立していることです。独立しているけれども、それらは客観世界の統一のなかにあるものとして、それぞれが独立しながら相互に連関しあって一つの統体をなしているのです。これから機械的関係・化学的関係・目的的関係を検討していきますが、区別されたものの統一の関係を問題にしているわけです。

 絶対者は客観であるという定義は、ライプニッツのモナドのうちに最も明確に含まれている。モナドは各々一つの客観であるが、しかし即自的に表象するものであり、しかも世界の全体を表象するものである。その単純な統一のうちでは、あらゆる区別は単に観念的な、非独立的な区別として存在するにすぎない。

 「絶対者が客観である」を言いかえると、独立と非独立との統一としてあるということですが、それは「ライプニッツのモナドのなかに最も明確に含まれている」のです。ライプニッツのモナド論は、世界は単一不可分の実体としてのいろんなモナドからなっていると考えます。人間には人間のモナド、犬には犬のモナドがある。そういう単一不可分のモナドは、全宇宙をそこに表象する宇宙の鏡だとライプニッツはいっています。つまり一つひとつのモナドは独立しながらも全宇宙と関連しているとライプニッツはとらえています。そこに独立と非独立の統一の姿をみているというので、モナド論をヘーゲルは評価しているわけです。

 モナドのうちへは何ものも外からはいってこない。それは自己のうちで全き概念であり、ただ概念自身の発展の多少によって区別されるにすぎない。またこの単純な全体は無数の区別にわかれ、それらは各々独立のモナドである。諸モナドのモナドおよび諸モナドの内的発展の予定調和において、これらの実体は再び独立を失い観念的となる。かくしてライプニッツの哲学は完全に展開された矛盾である。

 ライプニッツは、人間のモナドと犬のモナドは互いに関係がないというわけです。関係がないから人間は人間として成り立つ、犬は犬として成り立つわけですが、しかし相互に関係のないモナドを相互に関係づけるのは神の予定調和だと理解するのです。一つひとつのモナドは独立しているけれども、神の予定調和のなかに統一されているという側面もあるわけです。「これらの実体は再び独立を失い観念的となる」とは、神の予定調和のなかに統一されることを意味します。こうして二重の意味でモナドは独立と非独立の統一としてヘーゲルのいう客観と同じだといいたいわけです。だから「ライプニッツの哲学は完全に展開された矛盾である」。つまりヘーゲルのいっていることと同じことを言っているというのです。

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