『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第一五講 概念論・客観 Ⅲ

a 機械的関係 ―続き

国家・市民社会・個人

 それでは第一六講を始めます。概念論のなかの「B 客観」の中の「a 機械的関係」のなかの最後、絶対的機械関係を一九七節から始めましたが、その絶対的機械関係が一九八節も続いています。それでこの一九八節の本文を先に解説しておきます。
 「上述の推理(個―特―普)は三重の推理である」となっておりますが、結局、絶対的機械関係は、太陽系の太陽と地球と月の関係を念頭におきながら展開しているのです。個別が月であり、特殊が地球であり、普遍が太陽ということで、ヘーゲルは月のことを中心性と呼び、地球を相対的中心、太陽を絶対的中心と呼んでいます。
 この三つは相互に媒介しあい、それを「三重の推理だ」といっているわけですが、それが正しいかどうかは、別問題です。
 三重の推理というのは、まず最初は個―特―普の推理であり、次に普―個―特の推理であり、最後は特―普―個の推理だと述べているわけです。だから一番最初の個―特―普では地球が媒介して太陽と月とを結びつけ、次
の普―個―特というのは月が媒介して太陽と地球とを結びつけている、それから特―普―個では太陽が媒介となって地球と月とを結びつけていると、このようなことをいっているわけです。この太陽と地球と月のことを念頭においた場合に、そういえるかどうかは問題があると思います。結局、三つのものが相互に媒介しあいながら、一つの全体を形づくっているような客観的な関係を、絶対的機械関係と呼んでいるということです。
 大事なのは、註釈で述べられている国家と個人と市民社会の関係だと思います。ヘーゲルの国家論は、この三つのものの相互媒介において国家は成り立っているということなのです。

 太陽系がそうであるように、実践的なもののうちでは、例えば、国家は三つの推理からなる体系である。
 ⑴ 個(個人)はその特殊(肉体的および精神的な諸要求)、これがそれだけで完成されたものが市民的社会(bürgerliche Gesellschaft である)を通じて普遍(社会、法、法律、政府)に連結される。⑵ 個人の意志、活動が媒介者であって、これが社会、法、等々に即して諸要求に満足を与え、また社会、法、等々に達成と実現とを与える。⑶ 普遍的なもの(国家、政府、法)が実体的な媒介項であって、そのうちで諸個人および諸個人の満足が達成された実在、媒介、および存立を持ちかつ維持する。これら三つの規定の各々は、媒介によって他の端項と連結されることによって、まさに自分自身と連結され、自己を生産するのであって、この生産が自己保存である。――こうした連結の本性によってのみ、すなわち同じ三つの項からなる推理のこうした三重性によってのみ、全体が有機的組織をなしていることが本当に理解されるのである。

 「国家は三つの推理からなる体系である」とありますが、つまり国家は、個人と市民社会と国家の三つのモメントからなりたち、まず、個人が個別、市民社会が特殊であり、国家が普遍であるとされています。この三つのものの相互媒介で国家はなりたっているという考え方なのです。これは国家にかんするいくつかの考え方を念頭におきながらヘーゲルはいっているのです。
 一つはジョン・ロックたちの「国家からの自由」という考え方です。当時、絶対君主制の国家からフランス革命などをへて近代資本主義社会が台頭してきました。それまでの封建制国家のもとにあっては、農民は土地に縛りつけられた農奴として存在していました。資本主義国家が誕生する過程のなかで「身分から契約へ」といわれるように、封建的な身分、土地に縛りつけられた状況から解放され、マルクスにいわせれば「二重の意味で自由な労働者」、つまり土地から解放された自由という意味と、いっさいの生産手段からの自由という二重の意味での自由な労働者が誕生します。
 新しく登場してきたブルジョワジーや労働者階級は「国家からの自由」を自由権として主張するわけです。たとえば、営業の自由とか、所有権の自由とか、あるいは思想の自由とか、表現の自由とかは、いずれも国家からの自由です。それは「国家は干渉するな」ということであって、国家から切りはなされた自立した諸個人の自由な関係の社会を市民社会ととらえたのです。だからジョン・ロックがいっているのは、国家から自由であるところに市民社会がなりたちうるのだというわけで、資本主義の自由競争の時代ですから、そういう考えが支配的だったのです。
 それに対してヘーゲルが、市民社会は国家から切りはなされて存在するべきなのか、ということを問題にしているのは、卓見ではないかと思います。ヘーゲルは『法の哲学』のなかで、近代社会としての市民社会はけっして自由や平等を実現するものではなくて、一方の側に富を蓄積し、他方の側に貧困を蓄積するという矛盾をもたらすことを洞察していました。ヘーゲルはそういう経済的な不平等をもたらす市民社会を克服する手段として国家を考えていたわけです。それは今日的用語でいえば、国家による大企業に対する民主的規制ということにもつながるものです。
 つまり資本は競争原理のうえに立脚しているかぎり、かぎりなくお互いが競争しあって労働者に長時間労働を押しつけたり、下請けいじめをしたりします。それを規制するのは国家にしかできないのです。だからそこに国家の役割があり、市民社会を国家から切りはなすことが必要なのではなくて、むしろ国家によって市民社会を規制していくことが必要なんだと考えたわけです。その後、労働者のたたかいをつうじて労働保護立法などができます。たとえば、労働基準法の考え方は、国家が労働条件の最低の基準を決めてそれを市民社会に守らせるということです。
 そういう点からすると、ジョン・ロックなどの市民社会は国家から自立すべきだという考え方よりも、国家の役割を評価するヘーゲルの方がもっと資本主義の現実を認識していたと思います。市民社会と国家とを、相互媒介の関係にあるとみているのは、正しいところだと思います。
 もう一つはロックやルソーの「人民主権論」です。人民主権論というのは個人が根本にあって国家があると考
えます。国家があって国民があるという考えではなくて、個人があって国家があるという関係です。つまり一人ひとりの個人の安全、生命、自由を確保するために国家がある。基本になるのは個人だという考えなのです。
 個人が媒介して国家を生み出すという考えですけれども、ヘーゲルはそればかりではないのではないかと考えるのです。逆に国家が根本にあって個人を守ってくれる面もあるのではないかと考えるわけで、たしかに社会保障などの面をみれば明らかにそういえるわけです。教育の問題でも公教育という問題、国家のやる教育は、それによって国民に人間らしい教養を与えることができます。個人と国家、国家と市民社会を一面的関係においてとらえないで、相互の媒介においてとらえるヘーゲルの考え方は、今日でも学ぶべきところがあると思います。
 昨日、NHKの参議院選挙徹底討論をみていましたら、加藤紘一・自民党幹事長が(一九九八年七月一三日)「自分たちは小さな政府だけれども、共産党は大きな政府だ」といったのに対し、不破哲三・日本共産党委員長が「そうじゃない。今はゼネコンにとって大きな政府であり、国民にとっては小さな政府なんで、それを改めるべきだといっている」と反論しました。なかなかおもしろい議論ですけれども、国家と個人の関係、国家と市民社会との関係をどうとらえるのかという問題でもあると思います。
 自民党は、日本共産党の考えは国家というものが市民社会(大企業の支配する社会)の自由な働きをおさえるものとして批判したのに対して、不破さんは市民社会への規制はむしろ強めるべきであると同時に、国民の暮らしを守るという点では政府は小さいほどよいというものではない。国民が自分の力で働けない場合に国が面倒をみるのは当然であり、そのためにわれわれは税金を払っている。そういう積極的な役割としての国家を評価するという点では、小さければ小さいほどよいという問題ではないというとらえ方をしていたと思います。ヘーゲルの国家・市民論に照らして考えてみるとおもしろいと思います。
 今読んだところをみますと、絶対的機械関係でいっていた太陽系と同じように、国家も三つの推理からなっているといっています。まず個別である個人はその特殊である市民社会をつうじて普遍たる国家(政府、法律)などに連結されるという面が一つあると同時に、二つ目には個人が中間項になって普遍である国家と市民社会とをつなぐという側面。三つ目には普遍である国家が媒介項になって個人と市民社会とを結びつける、そういう相互媒介の関係に国家はあるととらえるわけです。国家という有機的な組織は、そういう三つの項の推理の三重性として理解しなくてはいけないといっているわけです。
 この有機的な組織というのは、国家も社会もそうですし、資本も法人という法律上人格を与えられた組織であって、まさに有機的組織として生き物なのです。株式会社、有限会社などの資本は一つ有機体としてある。政党もそうだと思います。一人ひとりの個人はその中で党員としてあるわけですが、一人の党員が死に絶えてもその政党は存続しているのです。そういう有機体を考えるときに、普遍としての有機体とそれを構成する個別、あるいはその中間に位置する特殊としての器官などとの相互媒介の関係をみないと、全体を正しくとらえることはできないのだと思います。

機械的関係から化学的関係へ

一九九節 諸々の客観が絶対的機械関係のうちで持っている現存在は直接的である。しかし、諸々の客観の独立性は、それら相互の関係によって、したがってそれらの非独立性によって媒介されているのであるから、この点でこの直接性は即自的に否定されている。かくして客観は、その現存在において自己に固有の他者にたいして吸引的なものとして定立されなければならない。

 これは機械的関係から化学的関係に移行する節です。絶対的機械関係の中では、普遍、特殊、個別という三つのものの相互媒介を考えました。一つひとつのものはそれぞれ独立しているけれども、相互に媒介されることによって、その独立性は「即自的に否定されている」、潜在的には否定されているわけです。だから三つの項は独立していると同時に非独立的という関係としてあるわけで、この非独立の関係が発展していったとき二つの客観の間の関係は、自己とその固有の他者との関係として定立され、しかもその固有の他者が自己に吸引的なものとして定立される。これが化学的な関係だというのです。
 化学反応における中和などを念頭においているわけです。酸とアルカリはそれぞれ固有の他者の関係として定立されて、お互いに一体になろうとする。そういうものを「自己に固有の他者にたいして吸引的なものとして定立される」といっています。ある客観がそれに固有の他者としての客観をもち、両者が相互に補完しあいながら一つの全体を形づくるような関係、これを化学的関係と呼んでいるわけです。
 この化学的関係も大きな意味では機械的な関係のなかに含められて、大きく目的的関係との対比で論じられることがあります。だから一般には「機械論」対「目的論」という形で議論され、その場合の機械論は、ヘーゲルのいう機械的な関係と化学的な関係の両者を含んでいるのです。


b 化学的関係(Der Chemismus)

結合への衝動

二〇〇節 親和的な客観(das differente Objekt)は一つの内在的な規定性を持っており、これがその本性をなし、このうちにそれは現存在を持っている。しかしそれは概念の統体性が定立されたものであるから、その統体性とその現存在の限定性との矛盾であり、したがってそれはこの矛盾を揚棄し、そしてその定有を概念に等しくしようと努める。

 これは後に「中和への衝動」ということが出てくると思いますけれども、化学的な関係は中和への衝動だということをいいたいのです。「親和的な客観」というのは「化学的な関係にある二つの客観」という意味だと思います。「一つの内在的な規定性を持っており」とは、ある客観とその固有の他者としての客観という規定された関係としてあるということでしょう「これがその本性をなし、このうちにそれは現存在を持っている」というのは、相互に引きあって一体となろうとして存在しているということです。
 「しかしそれは概念の統体性が定立されたものであるから、その統体性とその現存在の限定性との矛盾である」とありますが、概念の統体性というのは、ある客観とそれに固有の他者である客観が中和して一体となることをいっているわけです。いわば親和的な客観は概念の統体性として一体性が定立されることが予定されていながら、しかし現在はまだ対立する二つのものとして存在する矛盾だというのです。「したがってそれはこの矛盾を揚棄し、そしてその定有を概念に等しくしようと努める」とありますが、矛盾を揚棄して、つまり中和して一体となってその自分の姿を統体性としての概念に等しくしようと努めるというのです。酸とアルカリ、電気のプラスとマイナス、生物のメスとオスなどは、親和的な客観ということでしょう。

広義の機械的関係と目的的関係

二〇〇節補遺 化学的関係は客観性の一カテゴリーであるが、概して特別に強調されず、機械的関係と一緒にされ、同じく機械的な関係と呼ばれて、合目的性の関係に対立させられている。この原因は、機械的関係化学的関係とは同じく潜在的にのみ現存在する概念にすぎないが、これに反して目的顕在的に現存在する概念であるという点に求められなければならない。

 これは先ほどいったことですけれども、化学的関係は機械的関係とまとめて広義の機械的な関係と呼ばれて、目的的関係に対立するものとしてとらえられます。なぜかというと、機械的関係と化学的関係は同じように「潜在的にのみ現存在する概念にすぎない」、つまり概念の生動性がまだ潜在的な形でしかあらわれていないからです。それに対して目的的関係は「顕在的に現存在する概念」、つまり目的的関係というのはいわば概念の生動性をもっているものなのです。つまり自己同一性を保ちながらその目的を実現していくという関係ですから、そこでは原因において目的があると同時に、結果において目的が実現されているわけです。そういうことをとらえて「顕在的に現存在する概念」という言い方をしています。

 しかし機械的関係と化学的関係とのあいだにはまた非常に明白な区別があって、機械的関係の形式のうちにある客観は、最初無関係な自己関係であるにすぎないが、他方化学的な客観はあくまで他のものへ関係している。もちろん、機械的関係においても、それが発展するにつれて、すでに他のものへの関係があらわれはする。しかし機械的な諸客観の相互関係はまだ外的な関係にすぎず、相互に関係している諸客観には、まだ独立性の外見が残っている。

 目的論との関係でいえば、機械的関係と化学的関係はひっくるめて大きく機械的関係ととらえられますが、しかし厳密にみるならばこの両者は区別されなければなりません。どういう理由で区別されるべきかというと、機械的関係のなかでは「客観は、最初無関係な自己関係であるにすぎない」というのは、時計なら時計という機械が部品を集めてなりたっているように、外から本来つながりのないバラバラの部品を寄せ集めてできあがった一つの統一体にすぎないということです。だから部品を変えればいろんなものになってしまいます。自動車でもボディは一緒だけれどもアクセサリーをいろいろ変えたら違う車種になるとか、エンジンを変えると違った車種になります。どんなものをくっつけるかは、まったく外的な関係にすぎないのです。
 それに対して化学的な客観は、あくまである客観とその個有の他者としての客観との関係においてなりたっているのです。なんでもよいから二つのものを持ってきてくっつけるわけにはいきません。化学反応し、その吸引しあう二つのものは、お互いに決まっているから、外的に結合しているのではなく、内的に結合しているのです。
 「もちろん機械的関係においても、それが発展するにつれて、すでに他のものへの関係が現われはする。たと」えば、親和的機械的関係だとか、絶対的機械関係などにおいては、二つあるいは三つのもののあいだの相互の関係を問題にするけれども、そこの機械的な客観における相互の関係はまだ外的な関係にすぎないのであって、相互に関係している諸客観には、独立性の外見が残っています。だから中和への衝動をもっていて、一つになろうとするのではないのです。機械的関係のなかでは、二つのものあるいは三つのものが一定の関係のなかにあるとしても、それはまだバランスをたもって引き合っている程度のものであって、相互に独立性を失って、ひとつの中和的な産物になろうとする化学的関係とは違うということです。

 一例を自然にとれば、太陽系を構成しているさまざまの天体は、相互に運動という関係に立ち、この運動によって相互に関係していることを示している。しかし運動は空間と時間との統一であるから、全く外的で抽象的な関係にすぎない。したがってこのように外的に関係させられている諸天体は、こうした関係がなくても、相かわらず現在あるがままの姿を保つようにみえる。── これに反して、化学的関係の場合はそうでない。化学的に親和性を持っている客観は、明白にただこの関係性によってのみそれらがあるところのものであり、したがって相補って一つの全体となろうとする絶対的な衝動である。

 太陽系の惑星の間の関係は、相互の運動という関係にある。その運動は時間と空間の統一であって、外的で抽象的な関係にすぎないといっているわけです。それをヘーゲルは外的、偶然的な関係といっています。ある意味では、そうなのかもしれません。太陽系ができあがる過程をみると、宇宙塵が集まってガス状のものが回転するなかで、だんだん中心への引力が強まって太陽ができて、吹き飛ばされたガス状の物体がしだいに惑星となって、九つの惑星をもつ太陽系が生まれたというのは、ある意味では偶然の所産です。必ず九つの惑星でなくてはならないということはないわけです。だから、太陽系のこの惑星相互の関係も、太陽系の発展の過程でつくられた偶然の所産だということでは、これはこれでよいかもしれません。
 「このように外的に関係させられている諸天体は、こうした関係がなくても、相かわらず現在あるがままの姿を保つようにみえる」といっていますが、今日的理解からすれば、正しくないでしょう。万有引力のバランスが保たれているからこそ、今のような状況を保っているだけであって、どちらかの引力が強くなってくれば、月もそのうち地球に落下してくるかもしれないし、そういうことはありうるわけで、いつまでもこういう状況が保たれているということではないのです。しかし当時の知識からいえばそうだったのかもしれません。
 「これに反して化学的関係の場合は」「親和性を持っている」とありますが、親和性というのは二つのものがいっしょになろうとすることですから、二つのものがいっしょになろうとしている客観は「この関係性によってのみそれらがあるところのもの」である。つまり、或るものとその個有の他者という関係においてのみ二つのものが存在する。したがってこの化学的関係においては「相補って一つの全体となろうとする絶対的な衝動である」といっています。親和的機械的関係でも、絶対的機械関係でも、相互に媒介しあった関係ではあるんだけれども、一つの全体になろうとする関係ではないという点で機械的関係と化学的関係は区別されるというのです。

結合の過程と分離の過程

二〇一節 したがって化学的過程の産物は、互に相手を待ちかまえている二つの端項の中和したものであって、二つの端項は即自的にはこのような中和的なものである。具体的な普遍者である概念が、客観の親和性(特殊化)を通じて、産物(個)と連結し、そしてそのうちでただ自分自身と連結するのである。

 ここでは中和的な過程を考えているわけですが、化学的な過程のなかの結合の過程では、二つの端項が中和して新しい別のものができあがるわけです。したがって二つの端項、酸とアルカリ、あるいは電気のプラスとマイナスでもよいと思いますが「即自的にはこのような中和的なものである」というのは、潜在的には、中和して、一体となろうという衝動をもっているということです。それはヘーゲルの言い方によると、具体的普遍である概念が二つのものをくっつけて、一体にさせて自らを実現するんだというヘーゲルらしいとらえ方で、それを述べ
ているわけです。
 「具体的な普遍者である概念が、客観の親和性を通じて、産物と連結し」「自分自身と連結するのである」という、二つのものを結合させようとする力、中和して結合しようとする力がどこにあるのかというと、これはもともと具体的な普遍者である概念というものがあって、それが二つのものをいっしょにくっつけようとするといっているのです。具体的普遍者としての概念は、できあがった中和の産物のなかに、自己自身を実現するのだという観念的な言い方をしております。

 この過程にはそのほかになお二つの推理が含まれている。すなわち、個別性もまた活動として同じく媒介者であり、また相互に相手を待ちかまえている二つの端項の本質をなし、産物のうちで定有するようになる、具体的な普遍者も媒介者である。

 化学的関係を大きく三つの過程としてヘーゲルはとらえているわけで、一つは結合の過程です。酸とアルカリがいっしょになって塩基ができるという過程、それから二つ目にはその中和的な産物が逆に二つの端項に分離する過程、水を電気分解して、水素とアルカリに分ける分離の過程。それから三つ目は、結合と分離を統一した全体的な過程をみているわけで、二〇一節の冒頭では結合の過程をみたわけです。
 「この過程のほかになお二つの推理が含まれている」というのは、分離の過程という推理であり、もう一つは結合と分離を統一した過程という推理だということをいっているわけです。どうして推理かというと、分離の過程においては、個別性―これは中和的産物のことです―が、媒介項になって二つの端項を生み出し、個別が媒介して二つの特殊を生み出すということをいいたいわけでしょう。
 「また相互に待ちかまえている二つの端項の本質をなし、産物のうちで定有するようになる、具体的な普遍者も媒介者である」。先ほど結合の過程も、具体的な普遍者である概念があって、その二つのものをくっつけてそこに自分自身を実現しようとするといいました。具体的な普遍者も媒介者だというのは、要するに結合と分離を統一した具体的で全体的な過程、これを作りあげていくのが具体的な普遍者だと考えているのです。概念が根本にあって、それが二つのものをくっつけたり、あるいはまたバラバラにしたりしている。そういう意味で全体的な過程のなかでは、具体的な普遍者が媒介者になる推理だといっているのです。

結合と分離は相互に外的

二〇二節 化学的関係は客観性の反省的関係(Reflexionsverhältnis)であるから、まだ諸客観の親和的な性質と同時に、それらの直接的な独立をも前提している。その過程は、以上二つの形態の間をいったりきたりすることにあるが、この二つの形態はあくまで相互に外的である。

 「化学的関係は客観性の反省的関係であるから」というのは、二つの客観がお互いに個有の他者として関係しあっているような反省的な関係だから、二つの客観はお互いが、一つの全体になろうとする親和的な性質をもつと同時に、その二つのものがそれぞれ独立することも前提としているということです。化学的関係は、二つのものが中和されて一体となり、中和的な産物が分解してまた二つのものになるという二つの形態のあいだを行ったり来たりすることにあるというのです。
 しかし、結合の過程と分離の過程はあくまでも相互に無関係であり、相互に外的です。結合の過程と分離の過程は、化学的関係においては切りはなされた別個の過程です。それが一体となっているのが、実は有機体なわけで、有機体では結合と分離の過程が一つの生命体のなかで不断に繰り返されるわけです。いわば、同化と異化の統一です。食べ物を外から取り入れて自らに同化する過程、これは結合の関係です。同時に、生命体が活動することによって自分の体内にあったものを対外に排出するという異化、これは分離の過程です。

 ── 中性的な産物のうちでは、二つの端項が相互にたいして持っていた特定の性質は揚棄されている。この点、中性的な産物は確かに概念に一致しているが、しかし中和的な産物は再び直接態となっているから、そのうちには分化という生動的な原理は存在しない。

 中和によって生まれた産物のなかでは、二つの端項がもっていた性質は揚棄されてしまっています。酸とアルカリをいっしょにしたら塩基ができるわけで、塩基は酸でもなければアルカリでもないわけですから、その二つの端項の性質は揚棄されています。「この点、中性的な産物は確かに概念に一致している」。つまり、そういう中性的な産物はたしかに統体性として概念とよんでもよいものですが「しかし、中和的な産物は再び直接態となっている」ということは、それ自身のなかにもう運動のエネルギーがないのです。中性的な産物はもうそれ自身が、一つの動かないエネルギーをもたない客観になってしまっていて、その中には分化するという「生動的な原理は存在しない」のです。だから、概念とは違うのだということがいいたいわけです。概念の生動性をもってないというわけです。

 中和的なものは分離の可能を持ってはいる。しかし、中和的なものを異った二つの端項に分裂させ、無関心的な客観に他のものにたいする関心と生動とを与える根本的分割の原理、および張りきるように分離する過程は、第一の過程とは無関係である。

 中和による産物も結合によって生まれたわけですが、それは分離の可能性をもっています。それを分離させるためには、それ自身の力では出来ないのであって、他の力を加えなければならないし、結合の過程とは全然区別された、無関係な独立した過程です。つまり、結合と分離とは全然別な過程だといっているわけです。

二〇二節補遺 化学的過程はまだ有限で制約された過程である。概念そのものは、まだこの過程の内にひそんでいるものにすぎず、顕在的に現存するにいたっていない。中和的な産物のうちで過程は消失しており、この中和的な産物に刺激を与えるものは、そのうちには存在しない。

 化学的な過程は、目的的関係、目的論のところとは違って、まだ概念そのものにはなっていません。概念はまだ「顕在的に現存するにいたっていない」のです。なぜなら結合と分離の二つの過程が分裂していて、化学的過程のなかでは、概念の生動性、つまり有機体のもつ同化と異化の統一のようなものは出てこないからだというのです。
 
化学的関係から目的的関係へ

二〇三節 差別されているものの中和的なものへの還元、および無差別なもの、あるいは中和的なものの分化という上述の二つの過程は、相互に外的であって、それぞれ独立的にあらわれるが、しかしこの外在性は二つの過程を揚棄している産物へ二つの過程が移行するということのうちに、二つの過程の有限性を示している。逆にこの過程は、差別されている客観の前提された直接性が、空無なものであることを表現している。

 この二〇三節は、化学的な関係から目的的関係へ移行する節です。化学的関係においては、結合の過程とその中和的なものがまた二つの端項に分化するという二つの過程に分かれるのですが、その二つの過程は相互に外的であって、それぞれ無関係なものとしてあらわれます。
 「しかし、この外在性は、二つの過程を揚棄している産物へ二つの過程が移行するということのうちに」とありますが、そういう結合と分化の過程を継続するためには外からの力を必要とするわけで、自分自身ではその全体的な過程を繰りかえすことはできないわけですから、そういう意味で有限な過程です。つまり、一つの自己運動的な全体的な過程を形成しているわけではないのです。

 ── 概念は、これまで客観として、外面性および直接性のうちへ沈められていたのであるが、今やそれらの否定によって概念はそうした外面性および直接性にたいして自由かつ独立なもの、すなわち目的(Zweck)として定立されている。

 機械的関係、化学的関係をつうじて、概念の統体性、有機的一体性をもって生動するという姿はまだ潜在的にしかあらわれていないのですが、今や化学的過程のもつ有限性を乗り超えることによって、それは「目的」として定立されるというのです。「今やそれらの否定によって」というのは、この化学的過程の持つ有限性を否定することによって「概念は外面性および直接性にたいして自由かつ独立なもの、すなわち目的として定立されている」といっています。つまり概念は、これまで機械的関係や化学的関係をつうじて、概念の真の姿を示していなかったが、今やその外面性、直接性を揚棄して、自己目的をもって自己産出する目的的関係として定立され、顕在化することになるという意味です。
 「自由かつ独立なもの」といっていますけれど、目的的関係では、有機体と生産労働の両方をイメージしています。有機体というのは、それ自身客観の一部ではあっても客観から自立したものです。有機体は客観の中に埋没せず、自己のうちに目的をもち主体性をもって存続しているわけで、そういうことを「自由かつ独立なもの」といっているのです。

二〇三節補遺 化学的関係から目的的関係への移行は、化学的過程の二つの形態が相互に揚棄しあうということのうちに含まれている。このことによって生じてくるものは、化学的関係および機械的関係においては即自的にのみ存在している概念が自由になるということであり、かくして独立的に現存する概念が目的である。

 化学的関係では二つの過程、つまり結合と分離の過程が相互に移行しあうことはないわけで、それぞれ別々の過程としてあり、一つに結びついてはいません。しかし、それをのりこえて二つの過程、結合と分離の過程を全体的過程のなかに統一する、そういうものが目的的関係ということになるわけで、目的的関係のなかではじめて概念が顕在化してくるのです。統体性をもった概念、主体性をもった概念が、ここであらわれてきます。目的的な関係というのは、化学的関係における全体的な分離と結合の関係が、自己運動として実現される関係をみているのです。化学的な関係における三つの過程の最後で、全体的な過程を検討しました。化学的な関係では、全体的な過程も外からのエネルギーを与えられてはじめて実現されるのに対し、目的的関係のなかでは、全体的過程が自己運動として実現されます。それを概念の顕在化といっているのです。


C 目的的関係(Die Teleologie)

目的とは概念である

 目的的関係に入ります。この目的的関係というのは、言いかえれば主体的関係といってよいだろうと思います。有機体というのは、客観の一部です。客観ではあるけれども、自己同一性を保って主体的に目的を実現する存在としてあるわけです。

二〇四節 目的とは、直接的な客観性の否定によって自由な現存在へはいった、向自的に存在する概念である。目的は主観的なものとして規定されている。というのは、上述の否定は最初は抽象的であり、したがって最初は客観性もまた単に対立しているからである。こうした主観性という規定性は、しかし、概念の統体性とくらべると一面的であり、しかも目的そのものにたいしても一面的である。

 「目的とは、直接的な客観性の否定」というのは、客観性のもつ外的な関係が否定されるということです。この「自由な現存在へ入った」というのは、主体性をもって自由に活動する自立した概念であり「向自的に存在する概念」とは潜在的な概念と違って、もう顕在化して自立して存在する概念だということです。
「目的は主観的なものとして規定されている」とありますが、この主観的というのは主体的と同じ意味です。
 ドイツ語のsubjektは主観とも主体とも訳されます。この場合、どちらかといえば主体的なものと訳した方がよいと思います。目的は主体的なものとして規定されている。したがって最初は主体的なものに対して客観はそれに対立するものとして存在している。しかし、こういう主体性という規定は、概念の統体性と比べるとなお一面的であり、しかも目的そのものに対しても一面的なのです。主体的関係はそれ自体客観の一形態にすぎないから一面的なのであって、これに対し概念は主観と客観の統一としての統体性であり、また目的における主・客の統一なのです。

 なぜなら、目的のうちには、あらゆる規定性が、揚棄されたものとして、定立されているからである。したがって目的にとっても、前提されている客観は観念的な本来空無な実在にすぎない。目的は、そのうちに定立されている否定と対立とにたいするその自己同一の矛盾であるから、それ自身揚棄であり、対立を否定して、それを自己と同一なものとして定立する活動である。これが目的の実現であって、そのうちで、目的はその主観性の他者になり、自己を客観化することによって、両者の区別を揚棄し、もって自己を自分自身とのみ連結し、自己を保存しているのである。

 目的とは有機体と生産労働を考えているのです。有機体は、主体と客観の統一としてあります。先ほども同化と異化の統一ということをいいましたが、有機体は客観を自己の内へ取り入れて、主体に同化すると同時に主体から異化したものを客観化する。そういう意味で主体と客観の統一です。生産労働は、何か物を作ろうという目的をもって、原材料を加工して商品を生産する、主体の客観化です。
 目的のうちにはあらゆる規定性が揚棄されたものとして定立されているので、目的は概念の統体性としてとらえるべきだといっていますが、このあらゆる規定性というのは、主観と客観のことでしょう。つまり目的のなかでは、主体(主観)と客観の一面性がそれぞれ揚棄されて、その統一が実現されているのです。したがって目的にとって前提されていた客観は、もはや観念的な空無な実在にすぎません。つまり目的である有機体や生産労働にとって、客観は自己と同一化する空無な存在にすぎない、あるいは変革される空無な対象にすぎないのです。ここで「観念的」といっているのは「絶対性の否定された」という意味だと思います。だから目的にとって客観は否定されるべき存在にすぎないのです。
 「目的は、そのうちに定立されている否定と対立とにたいするその自己同一の矛盾であるから、それ自身揚棄であり、対立を否定して、それを自己と同一なものとして定立する活動である」とありますが、目的というのは、客観という対立を否定してそれを自己と同一なものとして定立する活動なのです。「目的は、そのうちに定立されている否定と対立――」というのは、客観的世界の否定と対立とに対する自己同一の矛盾ということであって、目的に対して最初、客観は自己と対立するものとして存在しているわけですが、目的はそれを自己の内に取りこんでその対立を否定して自己と同一化してしまうのです。
 生命体の場合には、同化の作用によって客観を自己と同一化すること、それから、生産労働の場合には、客観を変革して自己の目的をそのなかに実現すること、それが対立を否定して自己と同一なものとして定立する活動です。客観のなかに目的を実現することが、目的の実現ということです。その目的が実現されるなかで、目的は単なる主観的なものではなく、自己を客観化することによって主観と客観の区別を揚棄し、主観と客観の統一として自己を実現していくのです。ですから、目的の実現とは、主観と客観の統一なのです。
 有機体が自ら生きていくということは、主観と客観の統一であり、人間が目的をもって生産労働をするのも、主観と客観の統一です。大事なことは、主観と客観の統一をつうじて、目的が自己同一を貫いているということです。目的は、主体のなかにあるのも客観のなかにあるのも、同じものであり、そこに主体性が出てくるのです。

 目的という概念は、一方では余計なものとされているが、他方では正当にも理性的概念と呼ばれて、特殊にたいして包摂的にのみ関係し特殊をそれ自身のうちに持っていない悟性の抽象的普遍に対立させられている。

 「目的という概念は、一方では余計なものとされている」というのは、アリストテレスの目的論が否定されて、世界は機械的な必然性のもとにあるとして、機械論一色の時代を迎えることになったことを意味します。近代的力学の発展・近代自然科学の発展のなかで、目的論はいったんはその場を奪われてしまいます。そのことをヘーゲルは、一方では余計なものとされているといったわけです。他方では正当にも理性的概念と呼ばれて、悟性の抽象的普遍に対立させられているといっていますが、これはカントのことを指しています。目的的関係をまったく考えなくてよいのかといえばそうではなく、生動性をもつ具体的普遍を考えるうえで、目的というのは必要なのだといいたいわけです。

目的因と作用因

 ── さらに目的原因(Endursache)としての目的と単なる作用原因(wirkende Ursache)、すなわち普通に原因と呼ばれている原因との区別はきわめて重要である。原因はまだ顕示されていない盲目的な必然に属する。だからそれは、その他者へ移行し、被措定有のうちでその本源性を失うものとしてあらわれる。原因が結果のうちではじめて原因であり、自己へ復帰するということは、単に潜在的なことがらにすぎない。言いかえれば、われわれがそれを見出さなければならないものにすぎない。

 ここではアリストテレスの用法に従って、目的因と作用因を区別することが大事である、といっています。作用因というのは、普通いわれている因果の関係で、この因果の関係というのは、機械的な関係です。だから機械論は「顕示されていない盲目的な必然に属する」とありますが、機械論は盲目的関係であるのに対して、目的論は自由な関係であるとヘーゲルはいいたいのです。原因と結果というは、外的な関係における必然性にすぎないのですが、目的的な関係は内的な関係における必然性だということであり、ヘーゲルはそういう区別をしています。
 だから、原因と結果の関係においては、原因が結果に移行するなかで原因はその本源性を失います。被措定有、つまり結果のうちでその本源性を失います。原因が結果に移行したら原因はもう消えてしまいます。
 「原因は結果のうちではじめて原因であり、自己へ復帰するということは、単に潜在的なことがらにすぎない」。つまり原因は結果となり、生まれかわって自らは消滅してしまうわけですが、ヘーゲルは、結果のなかに原因は生きているのだという言い方もしています。結果のなかに原因は「潜在的」に存在し「自己へ復帰」しているのですが、われわれが思考の力を借りて考えてみると、結果の中に原因の姿をみることができる、という程度にすぎないのであり、目的はそれとは違うといいたいのです。

 目的はこれに反して、それ自身のうちに規定性を含んでいるもの、言いかえれば、因果関係のうちではまだ別なものとしてあらわれているところの結果を含んでいるものとして定立されている。したがって目的は、その作用のうちで他のものへ移行することなく、自己を保持する。すなわち、目的は自分自身をのみ結果するものであって、終りにおいてはじめの、すなわち、本来の姿を保っている。こうした自己保持によってはじめて、真に本源的なものは存在するのである。

 水と太陽が原因となって稲が生育するという場合、生育した稲が結果です。水や太陽のエネルギーの転化したものが稲のなかに含まれているのですが、人間がよく考えてみればそうだということであって、実った稲のなかには水や太陽は消えてしまっています。そういう意味では水や太陽は稲のなかに潜在的にしか存在しないのです。
 これに対して目的は、結果のなかにそのまま自己を保持しています。だから有機体を考えた場合、有機体は主体と客観の交互作用、同化と異化を繰り返すわけですが、繰り返すなかで主体性を貫いているのです。自己同一を貫いているのです。つまり、いくら外のものを食べたからといって、他のものになってしまうことはないのです。
 「すなわち、目的は自分自身をのみ結果するものであって、終わりにおいてはじめの、すなわち、本来の姿を保っている」。つまり有機体の生命活動の中では、生命維持活動をつうじて自己同一性は貫かれている。あるいは生産労働においては、生産労働の始めと終わりをつうじて、或るものを生産するという目的は貫かれているのです。
 「こうした自己保持によってはじめて、真に本源的なものは存在するのである」とは、こういう主観と客観の交替のなかにおける自己同一性の維持こそ本源的なもののあり方であり、それが概念であるというのです。

 ── 目的は思弁的に理解されなければならない。というのは、それは、諸規定の統一および観念性のうちに本源的分割あるいは否定、すなわち主観的なものと客観的なものとの対立を含みながら、同時にまたその揚棄でもあるところの概念であるからである。

 この「思弁的に」とは、弁証法的にということでしょう。目的というのは弁証法的に理解しなくてはなりません「それは、諸規定の統一および観念性のうちに本源的分割あるいは否定、すなわち主観的なものと客観的な。ものとの対立を含みながら、同時に揚棄でもあるところの概念」とあります。つまり目的はある意味で概念そのものであって、主観と客観の対立を含みながら、それを統一するものとして存在しているのです。そういう主観と客観の弁証法的な統一として、目的は理解しなければならない。そのかぎりで、目的は概念といってもよいのです。

外的目的と内的目的

 人々は目的という言葉によって直ちに、あるいは単に、表象のうちにある一つの規定としてそれが意識のうちに存在する形式を考えてはならない。内的な目的性(innere Zweckmässigkeit)という概念によって、カントは、理念一般、特に生命という理念を再びよびさましたのである。生命にかんするアリストテレスの規定は、すでに内的な目的性を含んでおり、したがってそれは、有限な外的な目的性をのみ考えている近世の目的論の概念よりも、限りなく高い立場に立っている。

 エンゲルスが『反デューリング論』でも引用しているところです。デューリングは、目的といったら外的な目的しかないように理解していました。それに対してエンゲルスは、ヘーゲルの「内的な目的」を「事柄そのものの必然性のうちにふくまれている目的」と理解して、デューリングを「自然にたいして意識的、意図的な行為を押しつける無思慮なやり方」と批判しています(全集⑳六九ページ)。生命体が、自己保存の活動をする、あるいは種の維持活動をするというのは一種の内的目的性です。つまり、目的というのは、主観的に頭で考える目的だけではなくて、身体全体のうちに含まれている目的性もあるんだとエンゲルスはいっているのですが、それはこの部分を頭においているのです。
 人々は目的という言葉によって「意識のうちに存在する形式」だと考えるかもしれないけれど、それは外的目的性についてのみいえることであって、それと区別される内的な目的性も理解しなければいけないのです。カントは理念一般、生命を内的目的性というようにとらえたし、生命に関するアリストテレスの規定も内的目的性を含んでいるのです。したがってカントやアリストテレスの内的目的性というのは、外的目的性を考えている近世の目的論よりも限りなく高い立場に立っているといっております。意識あるものだけが目的をもつわけではないのです。意識がなくても有機体であれば、目的はあるのです。つまり、資本にも目的がある。政党にも目的がある。社会にも目的がある。国家にも目的がある。そういうのを内的目的性といっているのです。つまり、自己運動する有機体は、すべて自己目的をもっているわけです。目的をもって自己運動している、そういうことをいっているわけです。

 欲求、衝動は目的の最も手近な例である。それらは、生きた主体自身の内部でおこる矛盾が感じられたものであり、まだ主観的なものにすぎないこの否定性を否定しようとする活動へ移っていく。満足は主観と客観とのあいだに平和を作りだすが、これは、矛盾がなお存在しているかぎり、欲求の彼方に立っている客観を主観と合一させ、その一面性を揚棄することによって行われるのである。

 これは、外的目的性としての人間の欲求や衝動を頭においていっているわけですが、それは目的の一番手近な例だというわけです。たとえば、腹が空いた、ものを食べたいとの欲求がおこるのは、主体自身の内部でおこる矛盾が感じられることです。腹が空いたが食べ物がないという矛盾が、何か食べたいという欲求になるのです。
 欲求というのは、生きた主体自身の内部におこる矛盾が感じられたものです。だからこの矛盾を否定しようとする活動に移っていくわけで、食べ物を探しに出かけようかとゴソゴソはい出す。それが「まだ主観的なものにすぎない、この否定性を否定しようとする活動に移っていく」ということでしょう。腹が空いたなあという主観的なものを否定して食べ物を探しに行こうという活動に移っていくのだといっています。
 「満足は主観と客観とのあいだに平和を作りだす」。食べ物を見つけて腹いっぱい食べて満足すると、お腹が空いたということと、食べたいということの矛盾が克服されるわけです。ものを食べることによって主観と客観のあいだに平和が作りだされます。これは「矛盾がなお存在しているかぎり、欲求の彼方に立っている客観を主観と合一させ、その一面性を揚棄することによって行われるのである」。欲求の彼方に立っている客観というのは、あそこにあるおいしそうな果物のことです。それを「主観と合一させる」というのは、果物のところまで行って食べてしまうことです。そういう主観と客観を合一させて両者のもつ一面性を揚棄することによって満足が生まれるというのです。

 ── 有限なものが不変であり克服できないと主張し、主観的なものはあくまで主観的であり、客観的なものはあくまで客観的であると主張する人々は、あらゆる衝動のうちに、全く反対の実例を見出すわけである。衝動とは、主観的なものは一面的であって、客観的なものと同様になんらの真理をも持たないという確信であると言うことができよう。しかもそれはさらにこの確信の遂行であって、それは、あくまで主観的なものにすぎない主観的なもの、およびあくまで客観的なものにすぎない客観的なもの、という対立および有限性を揚棄するにいたるのである。

 ヘーゲルは単なる主観的なもの、単なる客観的なものというものを、いずれも一面的なものであって真理ではないと考えます。有限なものは克服できない、主観的なものは主観的、客観的なものは客観的というふうに主張する人は、衝動の中に主観と客観の矛盾を統一しょうとするのとは反対の実例を見出すのだといっています。そういう人たちは、衝動というものを気持のなかにおける単に主観的なもの、一面的なものとしてとらえようとするのです。ヘーゲルは、主観と客観は統一されてこそ、真理があるのであり、統一への欲求が衝動であるといっているわけです。しかもそれが「この確信の遂行であって、それは、あくまで主観的なものにすぎない主観的なもの、およびあくまで客観的なものにすぎない客観的なものという対立および有限性を揚棄するにいたるのである」とありますが、この衝動を遂行することによって、主観と客観の対立が克服される、つまり、目的というのは主・客の対立を統一する弁証法的なものなんだということをいいたいわけです。

 目的活動についてさらに注意すべきことは、目的活動は実現の手段を通じて目的をそれ自身と連結するという推理であるが、この推理においては本質的に三つの項の否定が見出されるということである。この否定は上述の、目的そのもののうちに見出される直接的な主観性および直接的な客観性(これはさらに手段と前提された客観とから成る)の否定にほかならない。それは、精神が世界の有限な諸事物や個人的な主観性を去って神へまで高まるときに行われるのと同じ否定である。このモメントが、序論および一九二節にも述べたようにいわゆる神の存在の証明のうちでこの高揚に与えられる悟性推理の形式においては、看過され除去されているのである。

 この目的的活動というのは生産労働のことを主として念頭においているのですが、有機体、生命体の場合も同様に考えることができます。目的活動は、まず主観的目的です。この主観的目的というのは生産の目的と理解したらよいと思います。手段というのは労働手段で、前提された客観は原材料です。この三つを連結する推理が生産労働だといっているのです。主観的な目的は、道具・機械を使い、原材料を使用して労働生産物を生産するにいたるという推理、三つがつながった推理だということです。同時にこの推理においては本質的に三つの項の否定が見出されるというのは、直接的な主観、つまり生産の目的は主観のままにとどまらないで客観化されるわけですから、主観性が否定されることになります。また労働手段も生産労働をつうじて償却されることによって、生産物の中に一部移行する形で否定されます。それから前提された客観、原材料も否定されて労働生産物に姿をかえます。直接的な主観性も、手段も、前提された客観もいずれも否定され、これら三つの項の否定によって主観と客観の統一が実現されるということがいいたいわけです。
 「それは、精神が世界の有限な諸事物や個人的な主観性を去って神へまで高まるときに行われるのと同じ否定である」とは、こういう主観と客観の対立が否定されて統一が実現されるのは、神が主観と客観の統一として存在するのと同じようなものだということをいいたいのだと思います。次の一九二節は、一九三節の誤りです。
 神の存在証明では、有限な諸事物とちがって神は完全なものとして単なる主観にとどまることなく客観性をもつにいたるととらえるべきだとされました。しかし神は完全なものであるからこそ、主観と客観の統一としてあるところが神の存在証明のなかでは見過ごされているといっております。
 この目的的関係というのは、主観と客観の対立を弁証法的に克服してその統一を実現するものであり、そこにこそ真実があるといいたいわけです。主観と客観がバラバラにあるかぎり、いずれも一面的であって真理ではないといっているわけです。

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