『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第一八講 概念論・理念 Ⅲ

b 認識(Das Erkennen)

認識─論理学の核心

 今日は「理念」のなかの二つ目「認識」というところをやりますけれども、二一五節補遺で、理念の最初の形態は生命、第二の形態は媒介あるいは差別の形態、これが認識としての理念だといっておりまして、この理念は「理論的理念および実践的理念という二つの形態をとってあらわれる」とあります。そして第三の形態の絶対的理念が再び統一を回復したものとしてあるわけです。理念はまず最初の形態は概念と客観との統一体としての生命を論じ、第二の形態は、主観的理念と客観的理念の区別と統一という関係をみて、最後に絶対的理念で再び理念の主客統一をみる、という構成になっています。
 これまで、概念は真にあるべき姿であり、理念というのはイデアであるということを学んできましたが、その理念をイデアとしてとらえるのに一番ふさわしいところがこの認識の節にあたります。ここで人間にとって一体理念とは何か、理念と現実との統一はいかにして実現されるのかという問題に入るわけで、この部分が論理学の核心になるといってもよいと思われます。

理念は、客観から自由な存在

二二三節 理念がその現存在のエレメントとして普遍性を持つかぎり、言いかえれば、客観性そのものが概念として存在し、理念が自分自身を対象として持つかぎり、理念は向自的に自由に存在している。かく普遍性へ規定されている理念の主観性は、それ自身の内部での純粋な区別であり、自己をこの同一な普遍性のうちに保っている観想である。

 ちょっと分かりにくいんですが、二二二節の生命の最後に類をみてきました。類というのは個別から切りはなされた普遍なのです。それを受けて、認識の問題を議論しています。つまり人間の認識、実践の前提となる普遍としての理念も、客観から離在した自由な存在であるというのです。
 理念は、客観のなかから生まれてくるものですが、それは人間の主観においてとらえられた、客観からは自由な存在です。つまり、これがイデアなのです。プラトンにおいても、イデアというのは個別の中から生まれながらも、個別とは切りはなされた普遍性としてとらえられましたが、ここでもヘーゲルはプラトンのイデアに学んで、客観における真にあるべき姿は、客観から自立して存在する、それが理念だといっているのです。
 「普遍性へ規定されている理念の主観性」というのは、客観から切りはなされた普遍としての理念、つまりイデアとしての理念は、主観的なものではありますが、理念自身のなかで区別された主観であって、それは「自己をこの同一な普遍性のうちに保っている観想」です。つまり人間の認識における理念は、主観と客観の統一というなかにおける区別としての主観的なものであって、観想として「自己をこの同一な普遍性のうちに保っている」のです。「観想」というのは、思惟の世界における存在です。つまり理念、イデアというものは、主観的なものとして、客観の世界ではなくて思惟の世界、考えられたところから生まれる世界、そういう思惟の世界における存在として普遍性を保っている、というのです。
 この観想(あるいは観照)という言葉は、もともとプラトンがいいだした言葉で、テオーリアというギリシャ語です。このテオーリアはイデアを述べるときによく使うわけで、例えばプラトンは「真実の観想は肉体を離れなければ得られない」という言い方をしたり「真実在の観想」という言葉を使ったりしています。要するに思惟の世界における存在という意味で使っております。理念というのは本来的には主客の統一ではあるが、とりあえず客観から切りはなされたイデアを議論するということです。

 しかしそれは特定の区別としては、より進んだ自己分割であって、統体としての自己を自己から突きはなし、まず自己を外的な宇宙として前提する。すなわち、ここには二つの本源的分割があるのであって、それらは潜在的には同一であるが、まだ同一なものとして定立されてはいないのである。

 ここで、その主観性としての理念、つまりイデアとしての理念が、さらにすすんだ自己分割を行うといっておりますけれども、言いかえれば主観的理念が自らを区別して主観的理念と客観的理念の対立のなかに自らをおくという意味です。どういうことかといいますと、人間が理念を認識するということは、エネルゲイアとしてのイデアを考えているわけで、主観的なものにとどまっているイデアではないのです。だから、それが客観化されていくまでの過程は人間の認識と実践の過程となるのであって、主観的理念と客観的理念の相互の関係においてエネルゲイアとしてのイデアはみずからを客観化していくことになるのです。そういうことを言いたいがために、理念は「特定の区別としては自己分割」「二つの本源的分割」であるという言い方をしております。つまり、主観と客観の対立のなかにおいて理念が論じられるということでしょう。
 「それらは潜在的には同一であるが」とある、この「潜在的には」というのは「本来的には」とほとんど同じ意味です。だから理念というのは本来的には主観と客観の同一として実現されるべきものではあるけれども、まだ主観的理念がとらえられた段階では主観と客観の同一性は定立されるには至っていないのです。本節の認識というのは広い意味での認識ですから、認識と実践の両方を含むのです。認識と実践を含む広義の認識は、まず主観と客観を分離し、そのうえにたってその同一性を定立することになるのです。同一性を定立する前に、まず主観と客観の区別を定立しなければならないということです。

認識と実践

二二四節 潜在的にあるいは生命としては同一であるところのこの二つの理念の関係は、したがって相対的な関係であって、このことがこの領域における有限性の規定をなしている。この関係は反省関係である。というのは、それ自身のうちでの理念の区別化は、第一の自己分割にすぎず、前提作用はまだ定立の作用として存在していないからであり、したがって主観的理念にとっては、客観的理念は目前に見出される直接的な世界であるからである。別な言葉で言えば、生命としての理念は個別的存在という現象のうちにあるからである。

 「潜在的にあるいは生命としては同一であるところのこの二つの理念の関係は、したがって相対的な関係」ということですが、主観的なものとしての理念と客観との関係は、相互に対立し相互に影響しあっている関係、反省関係にすぎないのであって、まだ同一性が定立される関係ではないのだというのです。「それ自身のうちでの理念の区別化は、第一の自己分割にすぎず、前提作用はまだ定立の作用として存在していないからである」というのは、理念が主観的理念と客観的理念に分かれただけにとどまっていて、まだその同一性が定立されるところまでいっていない、だからそれは反省関係にとどまっているというのです。
 「したがって主観的理念にとっては、客観的理念は目前に見出だされる直接的な世界であるからである」というのは、主観的理念にとっては、客観的理念はまだ自分の外に存在する、自分に対立するものにすぎないということです。「生命としての理念」というのは主観的理念ということですが、主観的理念は個別的存在という現象のうちにあって、まだ客観的理念と一体化するには至っていないのです。だから理念が大きく主観と客観に分かれて、その相互作用にある段階がいわば認識と実践の問題なのです。その完全な同一が定立されれば、それが絶対理念ということになるわけです。それはまだ先の話だということです。

 同時に、この自己分割が理念自身のでの純粋な区別であるかぎり(前節、理念は顕在的に自己である)とともにその他者であり、したがって客観的世界と自己との潜在的な同一性の確実性でもある。── 理性は、この同一性を顕現しその確実性を真理にまで高めうるという絶対的な信念をもって、また理性にとって潜在的に空無である対立を実際に空無なものとして定立しようとする衝動をもって、世界にあらわれてくる。

 主観的な理念はいずれ顕在化して客観という他者になるわけで、そのことを「理念は顕在的に自己であるとともにその他者」といっています。「したがって客観的世界と自己との潜在的な同一性の確実性でもある」とは主観的理念は客観的世界と本来的には同一なものとなる存在なんだというわけで、これがエネルゲイアとしてのイデアなのです。エネルゲイアとしてのイデアは絶対的に活動的・生動的であり、客観にならざるをえない必然性をもっています。言いかえれば、真理は客観に実現されざるをえない必然性をもっているのです。
 「理性は、この同一性を顕現し」の「この同一性」というのは主観と客観の同一性であって、主観的理念が客観となってあらわれることです。「その確実性を真理にまで高めうるという絶対的な信念をもって……世界にあらわれてくる」とありますが、エネルゲイアとしてのイデアは、自らを客観として実現し、真理にまで高めるという絶対的な信念をもっているのです。したがって理性にとって、主観と客観の対立というのは本来、空無なものであって、その対立は揚棄され、主観と客観の同一性が定立されるという衝動をもって世界にあらわれてくるのです。理念、つまりエネルゲイアとしてのイデアは、主観と客観の同一性を顕現することによって、自ら真理であることを示すことになるのです。
 マルクスの「フォイエルバッハに関する第二テーゼ」は、この二二三節、二二四節を念頭において述べたものではないかと思われます。「人間的思惟に対象的真理が届くかどうかの問題はなんらテオリーの問題になるのではなく、一つの実践的な問題である」とあります。ここでテオリーという言葉が使ってあるのは、先ほど二二三節で言いました、観想と訳してある言葉テオーリアと同じです。
 だから人間的思惟が真理に達することができるかどうかは、単に思惟の世界における問題ではなくて一つの実践的な問題だということです。つまり人間の思惟が本当に正しいものをとらえているかどうかは、実践をつうじてはじめて明らかになるといっているのです。
 続いてマルクスは「実践において人間は彼の思惟の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない」といっています。実践の中で、人間は彼の思惟が真理であって現実となる力をもち、向こう岸にあるのではなくて、現実のこちらの岸にあるものであるということを証明しなければならない、といっています。
?つまりイデアというのは真理ですから、真理であることによってエネルゲイアとして現実化するわけです。だから考え方が正しいかどうかは、実践をつうじて現実となる力をもっているかどうかによって試されるんだというのです。現実となりえないような思惟は本来、真理とはいえない。つまりエネルゲイアとしてのイデアをとらえたときに、はじめて現実となる力をもつのだというのです。「真理は必ず勝利する」のです。
 「思惟、実践から切り離された思惟が現実的か非現実的かの争いは一つの純スコラ的な問題である。つまり」実践をぬきにして思惟が現実となる力をもつかもたないかを議論するのは、純スコラ的な問題、観念的な論争にすぎないということです。マルクスも、このなかで本当に人間の思惟、人間の思考が真理をとらえているかどうか、イデアをとらえているかどうかは、それが現実となる力を発揮するかどうかによって示されるんだといっているわけで、二二三節、二二四節を念頭に置いて展開している命題ではないかと思われます。

認識は主観と客観の一面性の克服

二二五節 上述の過程が一般的に言って認識作用(Erkennen)である。そこでは主観性の一面性と客観性の一面性との対立が一つの活動のうちで即自的には揚棄されている。しかしこの揚棄は最初は即自的にのみ行われるから、この過程そのものが直接にこの領域の有限性をまとっており、異ったものとして定立されているところの理性の衝動の二つの運動に分裂する。

 この「上述の過程」というのは二二三節、二二四節をさしています。つまり人間がものごとを認識するという過程は、主観と客観の対立を前提としてその統一を実現するという過程としてあるわけで、こういうものを広い意味の認識作用といっているのです。
 「そこでは主観性の一面性と客観性の一面性との対立が一つの活動のうちで即自的には揚棄されている」とありますが、一つの活動というのは広義の認識作用のことで、それをさらに詳しくみれば、認識と実践との二つに分かれるのです。その認識と実践という二つの活動を通じて「主観性の一面性と客観性の一面性」が揚棄されるというのは、認識というものは、それが単に主観的であればまだ一面的なものにすぎないということです。現実となる力をもっているかどうか分からないわけですから、一面的なものにすぎません。同時に客観も直接的な姿、直接的な存在としては有限な存在であって、その限りにおいて一面的なものなのです。
 だから一面的な主観と一面的な客観とが人間の認識と実践という行為に媒介されて、いずれもその一面性を克服していくことになるのです。主観的理念も客観もその一面性を克服して、主観と客観の同一としての真理が実現されていくことになる、といっているのです。
 「しかしこの揚棄は最初は即自的にのみ行われるから」の「即自的に」というのは、一挙に実現されるわけではないということです。主観の一面性と客観の一面性が認識作用によって揚棄されるのですが、それは一挙に実現されるわけではありません。認識・実践の反復作用によって次第に実現されるわけですから、この認識と実践が反復される過程そのものが、実は認識の有限性をまだまとっているのです。
 つまり何を認識する場合でも、いきなり真理をつかむことはできません。部分的な真理をつかみ、それを実践し、またそのなかでもっと深い真理をつかみ再び実践していくことを繰りかえすことによって、だんだん認識も高まり客観もあるべき姿に変えられていくわけです。その過程を「この領域の有限性」といっているのです。
 「この過程は理性の衝動の二つの運動に分裂する」ということで、広義の認識をもう少し詳しくいうと、認識そのものと実践とに分かれるのだといっています。

 すなわち、それは一方では存在する世界を自己のうちへ、すなわち主観的表象および思惟のうちへ取り入れることによって、理念の主観性の一面性を揚棄し、自分自身の抽象的な確実性を、真理と考えられている客観性の内容をもってみたす。他方ではそれは逆に、偶然的なものおよび本来空無な形象、すなわち単なる仮象と思われている客観的世界を、真に存在する客観的なものと思われている主観の内面によって規定し前者のうちへ後者を形成し入れる。一方は真理を求める知識の衝動、認識そのもの、すなわち理念の理論的活動であり、他方は善を完成しようとする善の衝動、意志、すなわち理念の実践的活動である。

 広義の認識作用は二つの運動に分裂するということで、一方では存在する世界を自己のうちへ取り入れることによって、理念の主観性の一面を揚棄するんだといっています。これが狭い意味の反映論です。人間が頭の中にイデアをえがいたとしても、それは一面的なものにすぎないわけで、存在する世界、客観世界を主観のなかに反映させ、真理と考えられている客観性の内容をもってみたすことによって、理念の主観性のもつ一面性は揚棄されるのです。
 客観世界における本質、これは客観世界のなかにあるものです。その客観世界のなかにある本質を認識することをつうじて、今度は主観的世界の固有の産物である「真にあるべき姿」という理念を作りだしていくのです。こうして理念の主観性という一面を克服することができるわけです。だから客観世界を知らずして、真にあるべき姿をとらえることはできないのです。この辺は非常に唯物論的だと思います。
 他方では逆に、偶然的なもの、本来空無な形象、すなわち単なる仮象である客観的世界を「真に存在する客観的なものと思われている主観の内面によって規定する」、つまり真にあるべき姿をイデアとしてとらえることによって、客観世界をイデアにもとずいて変革する、それが客観の一面性を克服することになるという意味です。
 この「真に存在する客観的なものと思われている主観の内面」というのが、イデアとしての理念です。これは「真理を求める知識の衝動、認識そのもの、すなわち理念の理論的活動」、つまり理念を把握しようとする人間の知識の衝動なのです。狭い意味での認識は、イデアを認識しようとする人間の意識の能動的な働きなのです。
 「他方は善を完成しようとする善の衝動、意志、すなわち理念の実践的活動」であり、これはイデアを客観世界のなかに実現しようとする実践的な活動なのです。この「善を完成しようとする善の衝動」というのは、面白いところです。これはプラトンの「善のイデア」(最高のイデア)を念頭において「善」といっているわけです。善」のイデアは、アリストテレスのエネルゲイアとして、現実化しようとする「衝動」をもっているのです。
 こうやって主観と客観の一面性は、人間の認識と実践を相互に繰り返すことによって、しだいに揚棄され、主観と客観の統一が実現されていき、真理が具体的なものになっていくのだといっています。非常に唯物論的な叙述であって、しかも、人間の意識の能動的な作用としての理念を把握し、かつそれを実践するというところをとらえてるわけで、人間の意識を単に受動的なもの、客観世界の本質とか法則とか力とかを反映するだけのものとしてとらえない、ヘーゲルの積極さが示されているところだと思います。ヘーゲルの変革の思想が、よく出ています。


イ 認識(Das Erkennen)

概念は真理認識の導きの糸

 今まで述べたのは広い意味の認識作用で、それが狭い意味の認識と実践にわかれます。この「イ認識」というのは狭い意味での認識ということになってきます。

二二六節 広い意味での認識作用の一般的な有限性は、それが自己分裂して対立を前提し(二二四節)、認識の作用そのものがこの前提された対立への抗議を蔵しているということにある。ところでこの有限性は、認識そのものの理念に即して、さらに自己を規定し、理念の二つのモメントは互に別別のものという形態を持つようになる。

 広い意味での認識作用は、主観と客観にみずからを区別し、そして「認識作用はその主観と客観の対立への抗議を蔵している」とありますが、対立が揚棄されてその同一性が定立されねばならないという抗議を蔵しているという意味です。こういう認識作用の「有限性は、認識そのものの理念に即して、さらに自己を規定し」「二つのモメントは別別のものという形態を持つようになる」とあるのが、いわば認識と実践という二つの形態です。だから主観と客観の交互作用をみていくわけですけれども、交互作用といっても、認識と実践は方向がちがいます。認識は客観から主観への作用であり、実践は主観から客観への作用ですから、向きが違うのです。主観と客観の交互作用といっても方向が違うからこの二つは区別しなくてはならないのです。

 そしてこの二つのモメントが完全であっても、それらは反省の関係をとるにすぎず、概念の関係をとるにはいたらない。したがって与えられたものとしての素材を同化することは、他方ではやはり素材にたいして外的である概念諸規定のうちへ素材を取り入れることとしてあらわれる。そして概念諸規定そのものも互に別々のものとしてあらわれる。これは悟性として活動している理性である。

 客観から主観に移行する認識、そして主観から客観に移行する実践というこの二つは「それらは反省の関係をとるにすぎず、概念の関係をとるにはいたらない」とあります。つまり、実践は認識を前提し、認識は実践を前提するという、相互に関連する反省の関係にとどまって、両者一体の概念の関係までにはまだ至っていないということです。概念の関係というのは統体性ですから、統体性が実現されていないということです。
 「したがって与えられたものとしての素材を同化することは、他方ではやはり素材にたいして外的である概念諸規定のうちへ素材を取り入れることとしてあらわれる」とありますが、この素材を同化するというのは、客観世界における素材を認識の中に取り入れるということです。したがってあるものを認識するということは、与えられた素材を理念に同化することであり、言いかえれば「真にあるべき姿」としての概念の諸規定に素材を取り入れることです。
 善のイデアを「概念」、個々のイデアを「概念の諸規定」というように理解してここを読んだら分かりよいのではないでしょうか。素材を同化して認識を発展させることは、個々のイデアの階段を一歩一歩のぼって善のイデアに向かっていくことを意味しています。その階段の一歩一歩は、全部別々なものとしてあるわけで、それをのぼって善のイデアまでたどり着こうとする運動が、認識の発展なんだといっているのです。

 したがってこうした認識が到達する真理も、やはり有限な真理にすぎず、概念の無限の真理はそれにとってはあくまで潜在的にのみ存在する目標、彼岸にすぎない。しかしそれはその外面的な活動のうちで概念に導かれているのであって、概念の諸規定がその進展の内的な導きの糸をなしているのである。

 これは個々のイデアの階段をのぼって、だんだん善のイデアに接近するという過程をみているのです。「したがってこうした認識が到達する真理も、やはり有限な真理にすぎず」というのは、個々のイデアを認識することは有限な真理を認識するだけであって、無限の真理である善のイデアはあくまでも個々のイデアの目標であり彼岸なのです。だから人間の認識が前進するということは、個々のイデアを認識しながら善のイデアに向かって前進していくのですが、善のイデアはやはり到達すべき目標にすぎない。絶対的真理というのは、無限のかなたにあるわけです。
 「しかしそれは外面的な活動のうちで、概念に導かれているのであって、概念の諸規定がその進展の内的な導きの内的な糸をなしている」とありますが、そうやって認識がどんどん前進していくのは、ある意味では、概念の階段を、下から一歩一歩さかのぼっていくことを意味しているのであって、概念が真理認識の導きの糸となって前進していくのです。つまり人間の認識は、真にあるべき姿に向って真理の階段を一歩ずつ登っていく過程だということを言っているのです。
 志位和夫日本共産党書記局長がテレビ討論で、税金の問題をとらえるときには税の理念を考えなくてはいけないと言っていました。税の概念、善のイデアは何かといいますと、資本主義社会においては、法則的に富と貧困の両極が蓄積されるわけですから、それを税によって是正して、所得の再分配をすることなのです。ではどうやって再分配するかというと、所得そのものに税金をかけて所得の高いものほど高い割合で税率をかける累進課税で行うのです。だから税の理念という「概念」(善のイデア)から導かれる「概念の諸規定」 (イデア)が、所得に対する累進課税というイデアになってくるのです。ところが消費税は逆累進の税です。所得の少ないものほど税負担割合が高くなるという逆累進であるから、本来廃止されるべきであるという概念の諸規定がその下にもう一つでてきます。五%に上がって消費不況が深刻になったから消費税は本来廃止すべきものだけれども、せめて 消費不況の対策として、いま三%に戻すべきではないかということがさらにもう一つ下の概念諸規定(イデア)として出てくるわけです。なぜ、せめて三%にすべきかというと、これは税の善のイデア、税の概念が導きの糸となって消費税三%というイデアにつながっていっているのです。
 人間の認識は一歩一歩真理に向かって近づいていくんだけれども、それは逆にいうと真にあるべき姿である概念から、一歩一歩下がってきて、当面の課題にまで結びついていくんだといっているのです。認識の目標は、概念を認識することです。真にあるべき姿を認識することが認識の目的です。そこをつかまえてこそ、はじめて当面の課題においても正しい認識に達することができるのです。

タブラ・ラサ批判

二二六節補遺 認識の有限性は与えられた世界を前提するところにあり、その際認識する主観は tabula rasa(白紙)としてあらわれる。人々はこうした考えをアリストテレスに帰しているが、アリストテレスほど認識のこうした外面的な理解から遠い人はない。このような認識は、まだ自分が概念の活動であることを知らない認識であって、それは即自的にのみ概念の活動であるにすぎず、対自的にはそうでないのである。それは自分のふるまいを受動的だと思っているが、しかし実際は能動的なのである。

 「タブラ・サラ」(tabula rasa )というのは、ライプニッツがジョン・ロックの『人間知性論』(岩波文庫)を批判したときに用いた言葉です。ジョン・ロックはイギリス経験論哲学を確立した人だといわれています。人間の心は生まれた時は白紙なのであって、それが経験によって白紙がしだいに埋められていって、意識や観念というものが作られていくのだという考えです。人間が生まれながらにもっている観念はないというのです。
 つまりデカルトやライプニッツなどが、神とか実体というものを人間が認識するのは、生得観念(生まれながらにもっている観念)としてあるのだと考えたのにたいして、ジョン・ロックはそれの批判をしたのです。だから「認識の有限性は与えられた世界を前提するところにあり、その際認識する主観はtabula rasa(白紙)とし、てあらわれる」というわけです。
 アリストテレスは、人間の認識というものを客観世界を反映するものとしてとらえました。しかしアリストテレスのいいたかったことは、人間の認識は単に受動的なものではなくてもっと能動的なものであり、客観世界を反映するだけではなくて、客観世界をのりこえた概念を認識する、客観世界をのりこえた「真にあるべき姿」としての概念を認識することにあったとヘーゲルは、批判をしているわけです。
 白紙tabula rasaの考え方からすれば、その白紙なものが満たされるのは、客観世界の内容によってということになります。しかし経験によって満たされるというのは受動的なものにすぎないとヘーゲルは批判しているのです。そこには人間の精神の能動的なものが何にもない。「このような認識は、まだ自分が概念の活動であることを知らない認識」だといっています。tabula rasaという考えは、人間の認識を単に受動的なものととらえ概念を認識するという能動的なところまで到達することを知らない考えにすぎないと批判しているのです。

分析的方法

二二七節 有限な認識作用は、自分とは異るもの、与えられた、自分に対立している存在、すなわち外的自然や意識の多種多様な事実を前提するから、 ⑴ その活動の形式は普遍性の形式的同一性あるいは抽象である。したがってこの活動は与えられた具体的なものを分解し、その諸区別を孤立化し、そしてそれらに抽象的な普遍性の形態を与えるところにある。あるいはまた具体的なものを根柢としてそのままにしておき、本質的でないと思われる特殊なものを捨象することによって、具体的な普遍、あるいは力および法則を取り出すところにある。── これが分析的方法である。

 認識のなかの、認識を前進させる方法として、二二七節は分析的方法、二二八節は総合的方法について述べています。分析と総合というのは、一般的にも認識を前進させる手法として使っています。ヘーゲルの場合また独特の用法があるので、そこを正確にとらえておく必要があると思います。
 まず、二二七節「有限な認識作用は」「自分に対立している存在、すなわち外的自然」を前提とするから「その活動の形式は普遍性の形式的同一性あるいは抽象である」とあります。要するに認識作用は、客観世界を認識するのですから、客観世界を前提としているのであって、そのなかにおける抽象的普遍を取り出したり、あるいは具体的普遍、類、力、法則を取り出すのであって、これが分析的方法というものです。言いかえれば分析的方法というのは、抽象をつうじてその事物をなり立たせている普遍的なものをつかみ出すことなのです。ここで「普遍性の形式的同一性」という言葉がでてきますけれども、これは事物のなかの普遍的なものを、その事物をなり立たせている、その事物と同一なものとしてとらえることをいっているのです。
 だから抽象化するということは、そのものと違うものをとらえるということではなくて、そのものの同一性を損なうことなくより深い認識としてとらえることなのです。その抽象から生まれる認識は、個別的な事物、具体的な事物とは別なものではなくて、それと同一なものです。同一なものなのですが、より普遍的、根本的、本質的なものとしてとらえる。それが抽象的普遍であったり、具体的普遍であったり、類、力、法則であったりするのです。
 補遺へいきましょう。ふつうの考え方からいうと、分析的方法をとるか綜合的方法をとるかは、単に認識する側の方法の選択のように思いがちだけれどもそうではないんだとヘーゲルはいうわけです。ヘーゲルのいうところによると、分析的方法をつうじて最後に到達すべきものは概念なのです。そしてその概念の展開として示されるのが、総合的な方法だといいます。ここが、ヘーゲルの独自のとらえ方です。ですから分析的方法をとるか総合的方法をとるかは、単に選択の問題ではなくて、順序からいえば分析から総合へと前進するんだといいたいのです。
 また分析的方法は事物を抽象化するのですが、それは事物を変化させるという面をもつことを指摘しています。たとえば、肉をレトルトに入れて分解して、窒素、炭素、水素などに分解してそれでこれらの要素を発見したと言うけれども、窒素、炭素、水素に分解してしまったらもうそれは肉ではない。こういう点から分析による「要素還元主義」の批判をしているのです。要素に還元することは大事ですが、要素そのものが普遍の形式的同一性を保ちうるかというと、それは疑問だというのです。

総合的方法

二二八節 この普遍性は ⑵ また、規定された普遍性である。ここでは活動は概念の諸モメント── 概念といっても、有限の認識作用のうちにあるのだから、無限の概念ではなく、悟性的な規定された概念であるが── に沿うて進んで行く。こうした概念の諸形式へ対象を取り入れるのが綜合的方法である。

 分析的方法は、個別から普遍へ移行する認識です。普遍の最後のものとして概念を認識することになるのです。
それに対し綜合というのは、普遍が特殊化し個別化するという逆の過程を見るわけで、その出発点となる普遍が概念になるわけです。ヘーゲルは総合的方法を概念の特殊化としてとらえております。
 この総合的方法を普遍としての定義、特殊化としての分類、そして個別としての定理の三つに分けて論じています。概念が普遍、特殊、個別に分化していく、そういうものを定義、分類、定理としてとらえています。総合的方法を対象に即して概念の諸モメントの展開だととらえているのです。二二九節がまずその普遍としての定義であり、二三〇節が特殊化としての分類であり、二三一節が個別としての定理という関係になっております。

定義─概念の普遍的規定性

二二九節 (イ)対象がまず規定された概念一般の形式のうちへもたらされ、これによって対象のおよび普遍的規定性が定立されるとき、これが定義(Definition)である。定義の材料および基礎づけは、分析的 方法(二二七節)によってえられる。しかしこの規定性は単に目じるしの役目をするにすぎない。言いかえれば、対象に外的な、単に主観的な認識に役立つためにあるにすぎない。

 定義とは何かといいますと、対象を普遍化しようとするものです。つまり対象の類、普遍的規定性、ひいては概念をとらえるもの、これが定義なのです。対象を普遍化するにあたり概念をしっかりとらえればいいのですが、抽象的普遍をとらえるにとどまって定義してしまうと、いい加減な定義になってしまうのです。「単に目じるしの役目をするにすぎない」ことになります。定義の材料、基礎づけは、分析的方法によってえられます。分析的方法によって概念がつかまれれば、その概念にもとづいて定義をするわけです。しかし定義というのは、概念にもとづかなくてもおこなわれうるのであって、そういうものは単なる目じるしの役目にすぎないものだといっているのです。
 人間の定義を考えた場合、人間の「真にあるべき姿」とは何かということが問われるわけです。「人間は、直立二足歩行する動物である」、これが人間についての一つの定義です。しかし、正しい定義をすることはそう簡単ではありません。ちょっと補遺をみてみましょう。

二二九節補遺 ── 定義の際まず生ずる問題は、定義はどうして作られるかということである。これにたいして一般的には、定義は分析的方法によって生じると答えることができる。しかしまた定義が分析的方法によって生じるからこそ、提出された定義の正しさについてあんなに論争があるのである。というのは、分析的方法によって定義が作られる場合、人がどんな知覚から出発し、どんな見地を念頭に持っていたかということに、すべてはかかっているからである。定義さるべき対象が豊かであればあるほど、言いかえれば、それが考察にたいして示す側面が多ければ多いほど、それについて掲げられる定義もますますさまざまであるのが普通である。かくして例えば、生命、国家などには無数の定義がある。

 だから、定義が分析的方法によって作られるというのは、それはそれでいいのです。分析的方法によって概念までつかまえたら正しい定義になるのですが、概念にまで至らない普遍から出発する定義は、いろんな定義が考えられるわけで、必ずしも正しいとはいえないのです。「一般に定義された対象の内容には必然性がない」といって「綜合的方法は分析的方法におとらず哲学には適しないものである」といっています。つまり分析的方法は要素還元主義に陥って、そのものの本当の姿(概念)をとらえきれない面があり、同様に総合的方法も概念から出発しないときには、そこから生まれる定義は正しくないという意味で、両者とも哲学には適しないというのです。
 「哲学は何よりも先にその対象が必然性を持っていることを証明しなければならないからである」。だから分析的方法は概念をとらえるところまでいかないといけないし、また総合的方法は概念から出発しないといけない、そうでないかぎり分析的方法も総合的方法も哲学の対象にはならないのです。

 哲学においてもしばしば綜合的方法の使用が試みられた。特にスピノザは定義をもってはじめ、例えば、実体は自己原因(causa sui)であると言っている。スピノザの諸定義のうちにはきわめて思弁的なものが含まれているが、それらは単なる断言の形をとっている。このことはまたシェリングについても言える。


 スピノザ哲学は「実体は自己原因である」という定義から出発しているわけです。要するに哲学というものを、ある定義から始めているわけです。定義というのは、本来分析的な方法によって帰納されることによってつかまれるわけですけれども、いきなり定義から出発するのは定義が正しければいいのですが、正しいのかどうかはここでは何も証明されていません。
 スピノザの定義には正しいものが含まれているのですが、それはあくまでも単なる断言であって、その定義の正しさはここでは証明されていないから不十分なのです。総合的な方法というのは分析的方法を前提としないかぎり哲学的には不十分であるという一つの例として述べているのです。

分類─概念の特殊化

二三〇節 (ロ)概念の第二のモメントを、すなわち特殊化としての普遍の規定性を示すのが分類(Einteilung)である。これもやはり外的な見地からなされる。

 総合的方法の二つ目の問題は、普遍の特殊化としての分類です。この分類もいろいろな見地からなされるわけで、一般的には外的な見地からなされる分類が多いのです。外的な見地というのは、そのものの概念に根ざした必然的な分類ではないものです。どんな分類が正しいのかというと、それは概念に基づくものが正しい分類だといっているわけです。概念を基準にして、その特殊化としてとらえることによって分類を正しいものとしてとらえることができます。生物の分類などは今日でいえば、DNAを基準にするときにはじめてそれは正しい分類ということになるわけです。もともと地球上の生物は一つのDNAが複雑化し、多様になっていったのです。そのDNAが異なるごとに新しい生物の種が生まれるのですから、DNAにもとづく分類がヘーゲルのいう概念にもとづく分類ということになるわけです。そうではなくて哺乳類を爪で分類するとか、歯で分類するのは、必然性がないわけで、概念にもとづかない分類であり、正しくありません。

二三〇節補遺 分類は完全でなければならない。そしてそのためには、一つの原理あるいは分類根拠が必要であるが、しかしこれは、これにもとづいている分類が、定義一般によって示された領域の全範囲を包括するように作られていなければならない。しかしさらに分類において大切なことは、分類の原理が、分類さるべき対象そのものから取り出されなければならないこと、したがって分類は自然的でなければならず、単に人為的、すなわち勝手なものであってはならないということである。

 分類には分類根拠が必要です。その根拠によって分類し、対象の全範囲を包括し、例外をもたないようにしなければなりません。例外があるということは、分類根拠が正しくないということにもなってしまうわけで、根拠がまったく正しければ例外をつくらなくてすむことになります。その根拠になるものが概念なのです。
 さらに大切なのは、分類の原理が分類されるべき対象そのものから取り出されなければならないこと、したがって分類は自然的でなければならず、人為的であってはダメだといっています。この自然的な分類が概念にもとづく分類ということになるわけで、だから「一般に真の分類は概念に規定されているものと考えられなければならない」ということになります。概念を根拠とし、その概念の特殊化として分類を行うことによってのみ、正しい分類をすることができるのです。

定理―概念の展開

二三一節 (ハ)具体的個別性においては、定義における単純な規定性が関係と考えられているから、対象は具体的個別性のうちにあるとき、異った諸規定の綜合的関係である。すなわちそれは定理(Theorem)である。これらの諸規定は異ったものであるから、それらの同一は媒介された同一である。媒介項をなす材料を持ち出してくるのが構成(Konstruktion)であり、認識作用にたいして上述したような関係の必然性を 作り出す媒介そのものが証明(Beweis)である。

 定理とは何かといいますと、一番最初の普遍としての定義だけから論理的に導き出される命題です。だから定理というのは普遍としての定義の個別化だとヘーゲルはとらえるわけです。この定理というのは「異なった諸規定の綜合的な関係」だといっていますが、つまり定理は或るものと他のものとの一定の関係としてとらえられるものです。
 有名なピュタゴラスの定理は、直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しいというものです。ですから直角三角形の斜辺の二乗というものと、他の二辺の二乗との「綜合的な関係」がそこに示されているわけです。定理は異なった諸規定のなかで、それらの媒介された同一性として規定されます。ピュタゴラスの定理でいうと、斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しいという、この「等しい」というところが大事です。それを媒介された同一性といっているのです。
「媒介項をなす材料を持ち出してくるのが構成である」の構成とは、幾何学などでいう補助線のことです。補助線などを媒介にして、定理に必然的な関係を証明するということです。次に総合的方法と分析的方法についてもう一度述べて、どちらをとるかは人々の勝手のようにみえるけれどもそうではないといっています。

 このように選択が任意であるのは、どちらの方法も外的に前提されたものから出発するからである。概念の本性から言えば、分析が最初にくる。というのは、分析が与えられた経験的に具体的な材料をまず普遍的な諸抽象物という形式へ高め、そこではじめてこれらの抽象物が綜合的方法のうちで定義として冒頭におかれうるからである。

 総合的方法と分析的方法が「外的に前提されたものから出発」するかぎり、選択が任意であるといっているのは、要するにどちらも概念をとらえ、概念から出発しないというかぎり、どちらをとるかは自由なのだということです。しかし、その両者をいずれも概念との関係においてとらえたときには、論理的に分析が最初にくる。まず分析によって概念をつかむ、つかんだ概念にもとづいて総合的方法として概念の特殊化、あるいは個別化としてそれを展開する。総合的方法と分析的方法は、概念をとらえないかぎりは哲学的認識には使用できないという批判をしています。

 これら二つの方法は、それらが本来用いられるべき領域では、本質的な意義をもち、また輝やかしい成果を収めているが、しかしそれらが哲学的認識に使用できないことは自ら明白である。というのは、これらの方法は前提を持っており、ここで認識がとる態度は、悟性の態度、形式的同一性にそうて進む態度だからである。

 一般的意味で用いられる分析的方法は、具体的な個別的存在を前提にして、それを分析するわけですから、そういう前提をもっている。また総合的方法も定義という前提をもっていて、そこから出発する。いずれも前提をもっているから、前提を認めない哲学的認識には使えないというのです。また「認識がとる態度は、悟性の態度、形式的同一性にそうて進む態度」というのは、総合的方法も分析的方法も、形式論理学を問題にしているのであって、それだけではまだ限界があるといっているのです。㊦二三二ページ冒頭の「悟性的形而上学」というのは、形式論理学と同じ意味です。

 ── かつては哲学および科学において、これらの方法がその形式主義をともなって濫用されたが、現代ではいわゆる構成の濫用がこれに代っている。数学はその諸概念を構成するものであるという観念はカントによって流布されたものであるが、こうした観念の意味することは、数学は概念を取扱うのではなく、感性的直感の抽象的な諸規定を取扱うにすぎない、ということにほかならない。したがって実際人々が概念の構成と呼んでいるものは、概念を避けて知覚から拾いあげてきた感覚的諸規定の提示と、それに加えるに、哲学や科学の対象を前提された図式にしたがって図表的に(それができないところでは勝手な思いつきによって)分類する形式主義とにすぎない。

 人々が概念の構成と呼んでいるものは、概念そのものを認識することをさけて、前提された図式から出発して対象を形式的に分類する形式主義にすぎない、と批判をしているわけです。

 その際概念客観性との統一としての理念にかんするおぼろげな表象、および理念は具体的なものであるというおぼろげな意識が背後にひそんではいる。しかし、人々が構成と呼んでいるいいかげんな方法は、概念そのもののみがそうであるような上述の統一の叙述とはおよそ別なものであるし、また直観の感性的具体性は理性および理念の具体性とは全く異ったものである。


 分析的方法や総合的方法を考えたとき、その分析的方法をつうじて概念を認識しなければならないし、総合的方法は概念から出発しなければならないことをおぼろげながら表象はしているのだけれども、しかし概念そのものをつかもうとしないという点で、いい加減な方法にすぎないと批判をしています。ものごとを定義するとき、つまり総合的な方法としての定義を考えるとき、定義とは概念だとおぼろげながらつかまえます。それから分析的な方法についても、ものごとを抽象化して本当の姿をとらえるときは、結局は概念をつかまえなければいけないということがおぼろげながら理解できます。しかしそれを正面からきちっととらえようとしないから、哲学的方法としてはダメなのだと批判をしているのです。

 幾何学は空間というような感性的ではあるが抽象的な直観を扱うのであるから、空間のうちで単純な悟性的諸規定を固定するになんの困難も感じないのであって、そのためにひとり幾何学のみが有限な認識の綜合的方法を完全な形において持っている。しかし、これはきわめて注目すべきことであるが── 幾何学も先へ進むにつれて、ついには通約できないものおよび非合理的なものにぶつかるようになり、それ以上規定を進めようとすれば、悟性的原理を越えなければならなくなる。

 幾何学は、形式論理学でほとんど完全に説明できるものです。だから幾何学における総合的な方法というのは、まず定義からはじまって分類し、定理へと前進するわけです。例えば、点とは位置だけあって大きさのないものであるとか、線とは二点間の最短距離を結ぶ幅員のないものであるとか、このような定義から出発していき、だんだん定理を作りあげていくわけです。そういう意味で有限な認識の総合的方法として完全な形をもっている。形式論理学で幾何学はきっちりと構成されている。しかし幾何学も先にすすむと、形式論理学ではもうすすめなくなってしまうといっているのです。

 ここでも、他の場合しばしばみられるように、言葉の意味が正反対になるのがみられる。すなわち、合理的と呼ばれるものは悟性的のものとなり、非合理的と呼ばれるものはかえって理性的なもののはじまりとなり、証跡となるのがみられる。

 ここは非ユークリッド幾何学のことをいっているのです。ユークリッド幾何学というのは形式論理学なのですが、非ユークリッド幾何学は形式論理学では説明しえないのです。つまり直線と曲線とが分かれる限界点においては、直線と曲線とは等しいものとみる考え方になってくるわけで、これは弁証法でなければとらえられなくなってくるのです。

 数学以外の諸科学は、数学のように空間とか数のような単純なものを対象とするのでないから、必然的に、またしばしば、悟性的な方法ではこれ以上進めない点に達する。すると人々はその困難を実に無造作に片づけてしまう。すなわち、人々は悟性的進行から必然に導き出される帰結を中断して、必要なものを── これはしばしば先行するものと正反対のものであるが── 外部から、すなわち表象や意見や知覚などから取り入れるのである。

 数学以外の諸科学では形式論理学の妥当しないものが非常に多い。とりわけ社会科学といわれる分野ではそうです。そのとき、形式論理学を使って解決できない問題に出くわすと、外部からいろいろな意見や知覚などを取り入れて解決しようとするが、それは正しい解決方法ではないというのです。

 こうした有限な認識は、自分が用いている方法の本性も、方法の内容にたいする関係も、自覚していないために、定義、分類、等々を通って進む場合、自分が概念の諸規定の必然性に導かれているのだということを知らず、また自分がどこで自分の限界にぶつかっているかも知らず、さらにまた、この限界を越えている場合でも、自分がもはや悟性の諸規定の通用しない分野にはいっているのだということは知らずに、相変わらず不作法に悟性の諸規定を用い続けるのである。

 数学以外の諸科学は必然的に弁証法を必要としているにもかかわらず、相変わらず不作法に悟性の諸規定を用い続けていると批判しています。「概念の諸規定の必然性」といっているのは、概念こそまさに弁証法なのだといいたいわけです。最初に概念というのは、普遍・特殊・個別が不可分一体をなしているものだといいました。それは対立物の統一として概念をとらえることでもあります。ここでは、概念の諸規定の必然性と弁証法とを同じ様な意味で使っています。

認識から意志へ

二三二節 ⑶ 有限な認識が証明のうちで作り出す必然性は、最初は単に主観的知識のために作り出される外的必然性である。しかし必然性そのもののうちで、有限な認識はその前提および出発点、すなわちその内容が目前に見出されまた与えられているという事態を越えてしまったのである。

 総合的方法の最後のところで、定義とか証明を学びましたが、証明はある意味では、必然性を明らかにすることです。この総合的方法のなかで認識の到達した必然性は、主観的知識のために作り出された外的必然性であると述べています。つまり客観世界における法則的必然性の認識にすぎないといっているわけです。外的必然性というのは主観的認識の外にある必然性であって、客観世界における法則的な必然性という意味です。だから認識が前進して一定の必然性を認識するようになるのですが、それはまだせいぜい客観世界の必然性を認識したという程度にとどまっているのです。そこにとどまっていたのでは、それこそ、タブラ・ラサ(白紙)にすぎないわけで、受動的な認識の機能にとどまっているのであり、それだけではまだ不十分だというのです。
 「しかし必然性そのもののうちで、有限な認識はその前提および出発点、すなわちその内容が目前に見出されまた与えられているという事態を越えてしまったのである」というのは、必然性を追求するなかで、客観世界の必然性を認識することをのりこえていくのだというのです。のりこえてどこへ行くのかということが問題なのですが、それは次のところで証明されています。

 必然性そのものは即自的には自己関係的な概念である。主観的理念はかくして即自的に、絶対的に規定されたもの、与えられたものではないもの、したがって主体に内在するものに到達したのであり、これによって意志の理念へ移っていく。

 「必然性そのものは即自的には自己関係的な概念である」とありますが、即自的にはというのは、本来的にはということです。必然性とは、本来的には自立した概念に規定された必然性なのです。必然性の本来の姿は、客観世界をのりこえて自立した概念に規定されたような必然性であり、概念の転化としての必然性だというのです。
 「主観的理念はかくして即自的に、絶対的に規定されたもの、与えられたものではないもの、したがって主体に内在するものに到達したのであり」とあります。今まで、認識が前進する過程をみてきたわけですけれども、この認識が前進する過程で必然性を認識し、その必然性をつきつめていくと結局、客観世界のなかにおける必然性ではなくて、客観世界をのりこえ、主体に内在するものとしての必然性に到達します。つまり人間の主観の働きとしての必然性であって、これが意志の理念だというのです。主体に内在する必然性、これがまさに「エネルゲイアとしてのイデア」ということになってくるわけです。

二三二節補遺 認識が証明によって到達する必然性は、認識の出発点をなすものとは正反対である。その出発点では、認識は、与えられたそして偶然的な内容を持っていたのであるが、今やその運動の終においては、それは内容が必然的であることを知っている。そしてこの必然性は主観的活動によって媒介されたものである。同じく主観性も最初は全く抽象的で、単なる白紙にすぎなかったが、今やそれは自己が規定するものであることを証明している。ここに認識の理念から意志の理念への移行がある。この移行は、これを立入って考えてみると、普遍が真実には主体性として、すなわち運動し、活動し、諸規定を定立する概念として、理解されなければならないことを意味する。

 この単なる白紙というのは、先ほど言ったタブラ・ラサのことです。ですから認識は、出発点では与えられた偶然的な内容のものですが、証明によって必然性にまで到達したとき、もはや与えられたものを乗りこえて、単なる白紙ではなく自己規定するものになっています。それによって認識の理念から、意志の理念へと移行するということでしょう。言いかえれば、認識の段階では、客観世界の反映にとどまっていたけれども、意志の世界、意志の理念になってくると、客観世界を乗りこえた自己規定された必然性だということです。これを立ち入って考えてみると、認識が追求する真理たる普遍は、主体性として、あるいは諸規定を定立する概念として理解しなければならないことを意味しているのです。意志の理念は実践の意志です。人間が理念を目標としてもち、実践しようとする意志を問題にしているわけで、理念を主体性として、運動するものとして、理解しなければならないといっているのです。


ロ 意志(Das Wollen)

 この意志というのが、実践的な意志、あるいは実践ということを意味しています。だから広義の認識は狭義の認識と意志とに区別されることになります。

善の実現

二三三節 即自かつ対自的に規定されたものであり、かつ自己同一で単純な内容である主観的理念は、(Das Gute)である。この主観的理念が自己を実現しようとする衝動は、の理念とは反対に、見出され た世界を自己の目的にしたがって規定することに向っている。

 「即自的かつ対自的に規定された」というのは、客観の中から生まれながら、かつ自立した絶対的なものとして規定された主観的理念、つまりイデアということです。「自己同一で単純な内容である」というのは、イデアとしての内容をもっているということでしょう。要するに、人間が実践するにあたって実現しようとする主観的な意図としての理念、そういうものを善と呼ぶのだというのです。この善というのは、プラトンの「善のイデア」からとってきたものです。それに由来した言葉としてヘーゲルは使っています。
 「この主観的理念が自己を実現しようとする衝動は、真の理念とは反対に見出された世界を自己の目的にしたがって規定することに向っている」とは、こういうイデアとしての主観的理念は、目の前に存在する客観世界を自己の目的にしたがって規定する、自己の目的にしたがって変革しようとする、そういう衝動としてあらわれてくるのです。いわば変革の意志です。

 ── こうした意志は、一方では、前提された客観が空無であるという確信を持っているが、他方、それは有限なものであるから、それは主観的にすぎない理念としての善の目的および客観の独立性を前提している。

 真にあるべき姿を実現しようとする意志は、目の前にある客観が自己の目的にしたがって変革さるべき対象にすぎないという確信をもっています。「他方それは有限なもの」というのは、そういう変革の意志は、真にあるべき姿をめざしているわけですが、まだ客観化されていないわけです。それは単に主観的にすぎない理念として、善の目的、つまり実践をする目的となるものであり、したがって自分の前には目的によって変革されようとする客観が独立して存在していることを前提にしています。言いかえれば、真にあるべき姿を実践しようとする意志は、客観と対峙しているのであって、同時にそれは客観を変革しようとする意志としてあらわれてくることになるのです。

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