『ヘーゲル「小論理学」を読む(下) 』より

 

 

後期第一九講 概念論・理念 Ⅳ

b 認識―続き

 最後の講義を始めます。前回から「理念」の中の「b認識」というところをやっていまして、認識のなかに大きく分けて狭義の認識と意志という二つの項目があります。それは認識と実践の意志ということを意味していて、全体として認識と実践をつうじて客観を合法則的に変革していく精神の働きについて述べているのです。
 今日は二三四節からです。

意志の活動は矛盾

二三四節 この活動の有限性は、だから、善の目的が客観的世界のそれ自身矛盾している諸規定のうちで実現されると同時に実現されないという矛盾、善の目的が本質的であると同時に非本質的なもの、現実的であると同時に単に可能的なものとして定立されているという矛盾にある。

 「この活動」というのは意志の活動です。つまり意志というのは、あるべき姿としての概念を認識し、それに基づいて客観に働きかける活動を意味しているわけで、それが一つの矛盾に出くわすといっているのです。どういう矛盾かといいますと「善の目的」とは最高、究極のイデアのことですが、意志を通じてイデアは客観世界のなかで実現されると同時に実現されない矛盾としてあるのです。イデアというものは、当面のイデアを解決した先にまた新たなイデアが登場し、究極のイデアに至るまで無限のイデアの諸段階が介在しているのです。真理は無限なのです。
 「善の目的が本質的であると同時に非本質的なもの」というのも同じようなことで、本質的なものとして善の目的は、実現されると同時にそれは非本質的なものでしかないことが明らかになり、実現されていながらなおかつ実現されていない。「現実的であると同時に単に可能的なもの」というのも同じことで、イデアが現実化されると同時にそのことによって再び新たなイデアが登場し、それはまだ現実化されていない可能的なものにとどまっているという矛盾だといっています。矛盾の無限進行というのは、そういうことなのです。実践を通じて一つひとつあるべき姿を実現していくのですが、あるべき姿を実現しても、新たなあるべき姿がまた登場してくるということを、このような言い方で述べているのです。

 この矛盾は善の実現の無限進行としてあらわれ、善はそのうちでゾレンとして固定されているにすぎない。しかし形式の点から言えば、この矛盾の消滅は、活動が目的の主観性を揚棄すること、そしてそれとともに客観性をも揚棄して、二つのものを有限化している対立を揚棄することにある。

 あるべき姿を実現しようとする意志は、いわば客観世界を合法則的に変革しようとする働きかけの無限の進行としてあるわけで、そのなかで究極のイデアとしての善のイデアは実現されるべき目標として固定されているだけなんです。ゾレンとしてのイデアが実現された途端に、新たなゾレンが登場することになるのです。主観と客観が完全に一致して、これ以上先に進みようがない絶対的な真理に到達して対立が消滅する、そういう状況になれば矛盾はなくなってしまうのですが、現実には完全な主観と客観の同一性が定立されて真にあるべき姿が絶対的なものとして実現するということはありえないわけですから、無限進行の矛盾は消滅しえないものなのだということです。
 「矛盾の消滅は、活動が目的の主観性を揚棄すること、そしてそれとともに客観性をも揚棄して、この二つのものの対立を揚棄することである」とありますが、主観と客観の対立を揚棄して二つのものが完全に一体となって、これ以上変化しようがない絶対的なあるべき姿として固定すれば、矛盾は消滅するということだと思います。
その次も同じようなことです。

 しかも単にこの主観性の一面性のみならず、主観性一般が揚棄されなければならない。なぜなら、他の同じような主観性がまた生ずるとすれば、すなわち、対立がまた新しく生み出されるとすれば、それはすでに揚棄されたはずの以前の主観性となんら異るところがないからである。

 「単にこの主観性の一面性のみならず、主観性一般が揚棄されなければならない」とありますけれども、主観的理念そのものが生まれてこないような状況になるということです。つまり真にあるべき姿が新たに生まれてこないような状況、そうなれば矛盾は消滅するといっているわけですが、それは現実にはありえないことです。

 以上述べたような自己内復帰は同時に、であり二つの側面の即自的な同一性である内容の自己内化である。そしてそれはまた、客観はそれ自身に即して実体的なものであり真実在であるという、理論的態度の前提(二二四節)の想起である。

 この善の無限進行を自己内復帰といっているわけですけれども、それは主観と客観の同一性を定立しようとしながら定立しえないという関係なのです。「二つの側面」というのは主観と客観ですが、この二つの側面の即自的な同一性を自己の内に実現しようとすることです。それはまた、客観をそれ自身に即して自己のあるべき姿に変革しうるものとしてとらえることです。善の無限進行というのは、主観的理念もたえず再生産され、客観もたえず再生産されて真実在に向かって前進していくこと、こうして主観と客観の交互作用がくりかえされるということです。

意志は世界をあるべき姿に変えようとする

二三四節補遺 知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする。直接的なもの、目前にあるものは、意志にとっては不変の存在ではなく、即自的に空無なもの、仮象にすぎない。

 この言葉のなかにヘーゲルの変革の立場がよく示されていると思います。要するに「理念」の二番目の項目である「認識」、あるいは認識と実践の統一は、全体として客観世界の合法則的な変革を念頭において論理を展開しているわけです。ヘーゲル弁証法は実践の意義を高く評価しているのです。マルクスは「フォイエルバッハに関する第一テーゼ」のなかで、これまでのすべての唯物論は実践を正しく位置づけていなかった、それはむしろ観念論によって展開されてきたという言い方をしているところがありますが、それはヘーゲルのこのところをとらえた言葉だと思われます。
 「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎない」。知性とありますがいわゆる認識です。狭い意味の認識は単に世界をあるがままに受けとめるだけですが「意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする」のです。このあるべき姿というのが概念であり、概念の実現したものが理念になるわけです。
「直接的なもの、目前にあるもの」というのは、これは客観世界のことです。客観世界として人間の目前にあるものは「意志にとっては不変なものではなく、即自的に空無なもの、仮象にすぎない」とありますが、意志にとっては変革されるべき対象にすぎないということです。

 ここには道徳(Moralität)の立場に立つ人々が空しくその解決を求める矛盾があらわれる。これが実践にかんするカント哲学の立場であり、フィヒテの哲学の立場でさえなおそうである。この立場によれば、善はわれわれが実現しなければならないもの、その実現のために働かなければならないものであり、意志とは活動しつつある善にほかならない。もし世界があるべき姿を持っているとすれば、意志の活動はなくなるのであり、したがって意志はそれ自身、自己の目的が実現されないことをも要求するものである。これは意志の有限性を正しく言いあらわしている。

 道徳の立場とは、特にカントの道徳に対する考えです。カントのいう善なる目的というのは、道徳的に最高の価値をもっているわけで、そこに向かって常に接近するという当為の立場です。だからカントの意志というのは善が実現されないところに当為があるわけです。最高の目的、最高の道徳的目的が実現されてしまったらやるべきことがない。カントの意志はあるべきものが実現されないところになり立つという矛盾を抱えていると、ヘーゲルは批判しているのです。
 「人々が空しくその解決を求める矛盾があらわれる」というのは、善はわれわれが実現しなければならないけれども、しかし実現しえないという矛盾をもっている。もし世界があるべき姿をもっているとすれば、意志の活動はなくなってしまうわけで、だからそういうものは認めないのです。いつまでも当為として先に置いておく。
 カントの意志というのは、意志の実現を要求しながらも実現されないことを求めるという矛盾に置かれているのであり、それが意志の有限性を示すものだが、自分の立場はそうではないというのです。それではヘーゲルはどう考えるのかということが次に問題になるわけです。

 しかしこうした有限性のもとに立ちどまることは許されない。意志の過程そのものが、こうした有限性およびそのうちに含まれている矛盾を揚棄する。矛盾の解決は、意志がその結果のうちで認識作用の前提へ帰り、かくして理論的理念と実践的理念とが統一されることにある。意志は、目的が自分自身のものであることを知り、知性は世界が現実的な概念であることを知る。これが理性的認識の真の態度である。空無なもの、消滅するものは、世界の表面にすぎず、真の本質ではない。この本質こそ即自かつ対自的に存在する概念であり、かくして世界はそれ自身理念である。

 全体としてどういうことを言っているのかといいますと、ヘーゲルは認識と実践をくりかえすなかで、世界のあるべき姿が不断に顕在化していくととらえるわけです。だからカントのように解決しえない永遠の矛盾の中をのたうっているのではなくて、矛盾の一つひとつを解決すること自体が理念が実現される過程、真理が実現されていく過程なんだとみているわけで、それが世界の合法則的な発展を認めるということではないでしょうか。
 だからここのとらえ方は、非常に唯物論的だと思います。やや詳しくみますと、意志の過程そのものがこのような矛盾を解決するとありますが、理論と実践をくりかえすなかで一つひとつ当面のイデアが実現される、その積み重ねによって、世界の表面的な空無なものは消滅するけれども、世界の本質的なものは次第に自分の姿をあらわしていく。「空無なもの、消滅するものは、世界の表面にすぎず、真の本質ではない。この本質こそ即自かつ対自的に存在する概念であり、かくして世界はそれ自身理念である」というのも、人間の認識と実践をくりかえすことをつうじて、世界は真のあるべき姿に向かって次第にその姿を変えていくことになるわけです。

 世界の究極目的が不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識するとき、満足を知らぬ努力というものはなくなってしまう。一般的に言ってこれが大人の立場である。若い者は、世界は全く害悪に満ちていて、根こそぎ改革されねばならぬと思っている。宗教的意識はこれに反して、世界は神の摂理に支配されており、したがってそのあるべき姿に一致していると考える。しかしこうしたあるあるべしとの一致は、硬化した、過程のないものではない。なぜなら、世界の究極目的である善は、常に自己を産出することによってのみ存在するからであり、精神の世界と自然の世界とのあいだには後者は不断に循環しているにすぎないが、前者はそれのみならずまた発展するという相違があるからである。

 この部分をどのように読むかは、いろんな議論がありまして『ヘーゲル論理学入門』や『ヘーゲル大論理学概念論の研究』は、ここにヘーゲルの保守主義があるという見方をしています。
 『概念論の研究』は「この実践の問題を取り上げた小論理学では、青年はよく害悪に満ちたこの世界は根本から改革しなければならないと考えたりするけれども、大人の立場に立ってよく見れば世界は神の摂理に支配されており、したがってそのあるべき姿に一致しているとして既存の世界はいくら不満があったとしてもそのあるがままの姿で受け入れよといわんばかりのことをいっています。この恐ろしく革新的なものと恐ろしく保守的なものとは隣り合わせで、何の苦もなく互いに入れ替わっている所にヘーゲルの観念論がある」(二四〇ページ)、現実の歩みと思考の歩みとを混同するという考えがあらわれている、というとらえ方をしているわけです。
 しかし私はそうではないと思います。「世界の究極目的が不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識するとき「満足を知らぬ努力というものはなくなってしまう」とありますが、どん」、なに時間的・歴史的な制約、あるいは個人的な制約があって限られた認識であったとしても、あるべき姿を掲げて世界の変革に取り組むということは「世界の究極目的が不断に実現されつつある」ということ、つまり世界が合法則的に発展しているということであって、その点に満足を見いだすのは当然のことであり、これが大人の立場なのだというわけです。
 それに対して若い者は「世界は全く害悪に満ちていて、根こそぎ改革されねばならぬと思っている」。つまり」若い者は根こそぎの改革でなければ、当面あるべき姿に向かって前進することを少々やったとしても、そんなことは意味がないんだと考えている。また「若いもの」とは反対に「宗教的意識は世界は神の摂理に支配されており、したがってそのあるべき姿に一致していると考える」。つまり宗教的意識は現在の世界がそのままであるべき姿なんだという、完全な現状肯定の立場にたっている。若い者の、根本的な変革でなければ意味がないとの立場と、宗教の完全な現状肯定の立場とに対し、われわれはそのいずれでもなく、究極の善のイデアに向かいつつ、当面のあるべき姿を求めてそれを積み重ねていく努力に無駄なものは何一つないとの立場であって、それが全体として世界を合法則的に発展させていくことになるんだというのです。
 われわれが階級闘争をたたかっていくなかでも、例えば、最近の金融関連法案の問題にしても労基法の改悪の問題にしても、たたかってもたたかっても支配の側では彼らの思惑通りにあるいは多少の修正をしながら、その目的を実現するのですが、ではわれわれの努力は意味がなかったのかといったら、そうではないのです。その努力は世界のあるべき姿を探求したものであり、ヘーゲルの言葉を借りれば、世界の究極目的が不断に実現されつつある一過程なのです。
 日本共産党第二〇回大会の報告で志位さんは「前衛党の歴史に対する責任は何か」という問題を取り上げていて、真理を掲げてたたかうところに前衛党の役割があるんだといっています。真理を掲げてたたかったからといって、直ちにそれが実現されるという問題ではないのですが、その真理を掲げてのたたかいには無駄なところは一つもないのであって、いろいろなジグザグはあっても必ず実現していくと述べています。基本的にはそれと同じ立場なのです。
 だから、ここをとらえてヘーゲルの保守主義の典型がある、あるいはヘーゲルの観念論があるという見方は正しくないと私は思うのです。むしろここの部分にこそ、ヘーゲルの変革の立場、客観世界の合法則的発展をめざす人間の認識と実践の役割の正当な評価という見地が非常にはっきりあらわれているのではないか。マルクスが「フォイエルバッハに関する第一テーゼ」で指摘したのは、まさにこの見地を評価しているのではないかと思われます。
 「あるとあるべしとの一致は、硬化した、過程のないものではない」という、ここも大事です。「あるべし」という目標を掲げて闘って、それが実現されたときには「あるべし」が「ある」になります。しかしそれによって「ある」と「あるべし」の矛盾は解決されたのかといったら、そうではなくて実現された「あるべし」は、更にもう一つ上の「あるべし」との対比では、それはまた「ある」に戻ってしまっているのです。イデアと善のイデアの関係で、そういう意味では「ある」と「あるべし」との一致は一時的な一致で、またすぐに「ある」と「あるべし」の不一致をもたらすことになるわけです。
 「世界の究極目的である善は、常に自己を産出することによってのみ存在する」とありますが、世界の究極目的であるイデアは、不断に真理を追究して世界を変革していく過程にのみ存在するということだろうと思います。つまり、相対的真理を追究する過程が絶対的真理なのです。

理念から絶対的理念へ

二三五節 善が即時かつ対自的に達成されているということ、したがって客観的世界は即自かつ対自的に理念であると同時に、たえず自己を目的として定立し、活動によって自己の現実を生み出すということ、このことによって善の真理は理論的理念と実践的理念との統一として定立されている。── このように、認識の差別と有限性とから自己へ復帰し、そして概念の活動によって概念と同一となった生命が、思弁的あるいは絶対的理念である。

 「善が即時かつ対自的に達成されているということ」というのは、主観的理念が客観のなかに実現されてイデアが達成されることです。それは「理論的理念と実践的理念との統一として定立されている」とありますけれども、まずイデアが目的として掲げられ、それが実践をつうじて客観のなかに達成され、達成された客観のなかでさらに新たなイデアが目的として定立されるくりかえしのなかで、客観世界は合法則的に変革され、あるべき姿に向かって前進するということです。概念、真にあるべき姿としての概念をかかげた認識と実践の統一によって主観と客観の同一が実現されたとき、それが「思弁的あるいは絶対的理念」だということです。思弁的というのは弁証法的ということであり、絶対的理念というのは理念のなかの理念だという意味です。
 概念の活動によって、概念と同一になった主観と客観の同一の理念が、絶対的理念です。いよいよ最後の「c絶対的理念」というところに入ります。


c 絶対的理念(Die absolute Idee)

 あらかじめこれ以下で述べられているところを要約しておきますと、ひとつは絶対的理念とは絶対的真理であるという意味です。ヘーゲルの場合、真理は概念と客観の一致です。つまり、真理は単なる認識の問題ではなくて、そのあるべき姿としての認識が客観に実現されることも含めて、ヘーゲルは真理といっているのです。この場合も絶対的真理というのは、主観と客観が完全に一致し、主観と客観の一致したものが概念と同一になった、
?そういう主客の一致をヘーゲルは絶対的真理と呼んでいるわけです。
 もう一つは、この絶対的理念というのは、主観のなかにも客観のなかにも貫かれている真理の論理的な形式だといってるわけで、それがつまり弁証法です。真理を認識するための論理的な形式、それが弁証法だということで、絶対的理念の中では、弁証法という方法もあわせて述べられているのです。

絶対的理念とは絶対的真理

二三六節 主観的理念と客観的理念との統一としての理念は、理念の概念であって、それにとっては理念そのものが対象であり、客観は理念である。すなわち、それはあらゆる規定を包括している客観である。したがってこの統一は、絶対的な且あらゆる真理、自分自身を思惟する理念であって、しかも論理学のうちでは思惟的な、すなわち論理的理念としてそうである。

 理念は大きく生命、認識、絶対的理念の三つに分かれています。生命は主観的理念と客観的理念の統一としてあったのです。ところが認識においては、この二つが分かれます。主観と客観に区別したうえで、その交互作用をつうじて統一が実現されるという過程をみてきました。絶対的理念というのは、生命における即自的な統一認識における主観的理念と客観的理念の区別と対立をへて、もう一度、主観的理念と客観的理念を再統一したもの、これが絶対的理念になるわけです。主観と客観が完全に一体となり、それがしかも概念と同一である、という真理ですから、二三六節の冒頭は、主観的理念と客観的理念との統一としての理念、これが絶対的理念であり、絶対的理念は「理念の概念」であるといっています。理念の概念というのは理念の真にあるべき姿だと、だから理念中の理念です。「それはあらゆる規定を包括している客観である」とありますが、この絶対的理念は主観と客観の統一としてあるのですから、客観そのものを全体としてとらえており、客観のなかのあらゆる諸法則、あらゆるカテゴリーをそのなかに含んでいるわけです。つまり今まで有論、本質論のなかで論じてきた客観のさまざまなカテゴリーを、全体として含んでおり、そのなかにおける論理的な形式を取り出したものが、弁証法なんだということです。
 「したがってこの統一は、絶対的な且あらゆる真理」だとありますが、絶対的理念というのは、主観的理念と客観的理念が統一して、概念と一体となった絶対的な真理だというのです。絶対的理念は、一面では「絶対的な且あらゆる真理」、絶対的真理だということをいっていて、もう一面ではそれは論理的理念だというわけです。論理的理念というのは先ほどいいましたように、論理的形式の真理、論理的形式の理念である弁証法になるわけです。だから絶対的理念は、絶対的真理と弁証法の二つを含んでいるのです。

絶対的理念は理論と実践の統一

二三六節補遺 絶対的理念は、まず理論的理念と実践的理念との統一であり、したがって同時に生命の理念と認識の理念との統一である。認識においては、理念は差別の形態のうちにあった。そして認識の過程はこの差別の克服であり、その直接態においてはまず生命の理念として存在する統一の回復であった。生命の欠陥は、それが即自的に存在する理念にすぎないことにあるが、これに反して認識は、同じく一面的に、単に対自的に存在する理念にすぎない。この両者の統一および真理は即自対自的に存在する理念、絶対的理念である。

 絶対的理念は、生命という即自的統一から認識という区別、対立をへて、再統一を実現したものだとお話しましたが、そのことが述べられています。「絶対的理念は、まず理論的理念と実践的理念との統一」とありますが絶対的理念は認識と実践の統一としてあるわけで、だから認識のなかで区別されたものが、再統一されるということです。
 「同時に生命の理念と認識の理念との統一である」とありますが、もうちょっと大きくいえば生命が即自的統一の理念であり、認識が区別された理念であり、その両者を統一したものが絶対的理念です。「認識においては理念は差別の形態のうちにあった」の「差別」は区別と考えていいと思いますが、認識では主観的理念と客観的理念が一応区別されています。区別された上で統一を生み出したわけですから「認識の過程はこの差別の克服であり」、認識の過程は、認識と実践の統一を通じて主客の同一を実現するという区別の克服になるわけです。
 「その直接態においてはまず生命の理念として存在する統一の回復であった」とありますが、認識の過程をつうじて、区別が克服されて統一が実現される方向に進んできたということです。それをまとめてみると、生命のところでは理念は即自的な統一体としてしか存在しなかった。続いて認識では主観的理念と客観的理念が区別され対立するという関係にとらえられている。そして「この両者の統一および真理は即自対自的に存在する理念、絶対的理念である。つまりこういう二つの過程をへて、絶対的理念では主観的理念と客観的理念が統一された」ものとしてあるのです。

 ── これまではわれわれが、さまざまの段階を通って発展する理念をわれわれの対象として持っていた。しかし今や理念は自分自身の対象となる。それはアリストテレスがすでに理念の最高の形態と呼んでいる「思惟の思惟」である。

 絶対的理念がヘーゲル哲学の最後のカテゴリーになります。理念のいろいろな段階をみてきましたけれども、理念の最後の段階、理念の理念を問題にしており、それをアリストテレスは「思惟の思惟」と呼んでいるのです。思惟のなかの思惟であるということです。前にも少しお話したかと思いますが、エンチクロペディーの最後、要するに論理学、自然哲学、精神哲学の体系全体を述べたうえで、その最後に、アリストテレスの『形而上学』第一二巻第七章を引用しているのですが、そこでアリストテレスは「思惟の思惟」を述べています。
 結局ヘーゲルは何がいいたいのか。それは、主観も客観も一面的だということを前提にしながら、人間の認識と実践こそ、主観の一面性と客観性の一面性を克服して、主客の同一を定立し、この同一となったものが概念に一致するということです。言いかえると「真にあるべき姿」が主客の同一として定立されるというところにこそ、絶対的真理があると考えるわけで、そのことをアリストテレスは「思惟の思惟」と呼んでいたんだということです。ヘーゲルを観念論だというとらえ方は、人間の意識こそ根源的な存在であって、客観は第二義的なものだということだと思いますけれども、ヘーゲルの場合は主観と客観との交互作用をみるわけですから、必ずしもそうはいえないのではないかと思います。まず主観的な理念はどこから出てくるのかといいますと、客観のなかに存在するものを主観の側で取り出すんだというふうにとらえるわけです。その客観のなかから取り出された主観的理念を、今度は客観のなかに実現することによって、客観が理念そのものに変わっていくんだとみるわけです。
 しかも善の無限進行という形で、主客の交互作用を無限にくりかえすことによって、世界が全体として理念として姿をあらわすというようにみているわけです。その意味からいうと、単なる観念論者として切り捨てるのはどうだろうかと思います。
 つまり、アリストテレスがいっている「思惟の思惟」も、主観と客観の完全な一致、しかもそれが本当のあるべき姿として実現されるところに真理があるとみているのです。いずれにしても、主観と客観の交互作用をつうじての主客の同一のなかに真理があるといえるわけです。

絶対的理念は弁証法

二三七節 絶対的理念のうちでは移行もなければ前提もなく、一般にあらゆる規定性が流動的で透明であるから、絶対的理念は対自的に、その内容を自己そのものとして直観するところの概念の純粋な形式である。この純粋な形式はそれ自身内容である。

 絶対的理念というのは主観と客観の同一が実現した真理ですから、もはや「主観から客観に」とか「客観から主観に」という相互の移行はないわけです。前提がないというのは、主観が客観を前提にし、客観が主観を前提にするという前提もない、ということです。
 あらゆるものは「流動的で透明である」というのは、主観と客観はもう一体となって区別しがたいものだから、その中で何が残るのかといったら、概念の形式だけが残るというのです。概念の純粋な形式とは何かというとつまり真理の論理形式です。真理というものがいかなる論理形式のもとに実現されるのかという純粋な形式が、そのなかから浮かび上がってきます。

 というのは、それは自分自身を自己から観念的に区別するものであり、区別されたものの一方は自己同一的なものではあるが、しかもこの自己同一のうちには、形式の統体性が内容諸規定の体系として含まれているからである。この内容が論理の体系である。ここで形式として理念に残るものは、ただこの内容の方法すなわち理念の諸モメントの価値にかんする明確な知識にすぎない。

 この概念の「純粋な形式はそれ自身内容である」とありますけれども、概念の純粋な形式というのは、真にあるべき姿がどういう形で実現するのかという形式であり、それはそれ自身、主観と客観の内容となっているものなんです。つまり、弁証法というのは、客観のなかに貫ぬかれると同時に、その反映として主観のなかにも貫ぬかれているわけで、その意味では主観の内容であると同時に客観の内容になっているのです。だからこの形式はそれ自身内容であり、主観と客観の内容における真理の形式を抽象化した方法が弁証法なんだということです。
 二三七節の補遺は、時間もないので要約しておきます。絶対的理念とは、絶対的で普遍的な形式だということです。絶対的真理は形式をもっているわけです。その形式は弁証法だということになります。有論、本質論、概念論の全部を読んできて、客観の世界の諸法則を学び、それから主観の世界の問題も学んだうえで、はじめて全体としてつらぬく形式は何なのかというのを総括することができるわけで、それが絶対的理念としての弁証法だといっているのです。それをヘーゲルは思弁的方法といっているわけですが、思弁的方法はすなわち弁証法であるということです。

弁証法①─ 端初

二三八節 思弁的方法の諸モメントはまず、aあるいは直接的なものである端初である。これは端初であるという単純な理由によって自立的である。しかし思弁的理念からみれば、概念の絶対的否定性あるいは運動として自己分割し、そして自己を自分自身の否定的なものとして定立するものは、思弁的理念の自己規定である。

 思弁的方法の諸モメントということで、まず二三八節は「a有あるいは直接的なものである端初」、それから二三九節は「b進展」。これは理念の自己分割、あるいは反省のモメントと出ておりまして、さらに二四二」節で「c」というのがありますが、これは要するに統一ということです。簡単にいうと未分化の統一としての端初から始まり、その中で矛盾が定立され、その矛盾が止揚された再統一が実現するという形で真理は発展していく、それを思弁的方法と呼ぶということです。
 本文に入りますが、弁証法的方法には三つのモメントがあり、最初のモメントは「有あるいは直接的なものである端初である」とあります。予備概念のところで論理的形式の三つの側面というのを学習しました。七九節以下です。それと基本的には同じことをいっているのです。七九節では、普遍的なものは形式上、悟性的側面、否定的理性の側面、肯定的理性の側面という三つの側面があるということをいいましたけれども、この悟性的側面にあたるのが、二三八節の有とか端初のことです。つまり或るものを直接的な存在するものとして、或るものを自立したものとして認識するところから出発するのです。しかし真理を認識するというのは、自立したもののなかに自立したものを否定するものを見いだすことにあります。そのことをヘーゲルは「思弁的理念からみれば、概念の絶対的否定性あるいは運動として自己分割し、そして自己を自分自身の否定的なものとして定立するものは、思弁的理念の自己規定である」といっております。つまり、端初としての直接的で自立的なものを弁証法的にとらえるならば、そのもの自身のなかにそのものを否定するものを見いだすことが大事なんだということです。

 したがって、端初そのものにとっては抽象的な肯定とみえるは、むしろ否定であり、措定されたものであり、媒介されたものであり、前提されたものである。しかし有は概念の否定であって、概念は、その他者のうちにありながらも、あくまで自己同一で自分自身を失わないものであるから、有はまだ概念として定立されていない概念、すなわち即自的な概念である。── だからこの有は、まだ規定されぬ、言いかえれば即自的あるいは直接的にのみ規定された概念として、普遍的なものでもある。

 最初にあるものとしてとらえたものは、出発点になるから自立しているようにみえるけれども、その内部においてそれ自身を否定するものを含んでいるととらえたときに、最初の或るものは、その否定するものによって措定されたもの、否定するものによって媒介されたもの、否定するものを前提として存在するものととらえることができるのです。例えば、自民党政治は自民党政治として自立しているようにみえます。しかし、よくみると国民との関係では逆立ちした政治だということがわかってくる。逆立ち、それが否定性というわけです。逆立ちした政治によって、措定され媒介されるものとしてとらえることができるわけです。だから弁証法的なものの見方は、直接的に存在するようにみえる或るもののなかに、そのものの否定的な要素を見いだすことから出発するわけで、それが或るものの内部における矛盾を見いだすということになるわけです。
 その次に「有は即自的な概念だ」というのがでてきますが、これも『小論理学』上巻の八三節冒頭で、論理学は有論、本質論、概念論の三つに分かれるというのを述べながら、有論というのは即自的概念に関する理論、本質論は概念の対自有に関する理論、概念論は即自かつ対自的概念に関する理論というのを学びました。まず有を出発点としてとらえる段階では、それがどういう方向に発展するのかまだ見いだしえないわけです。そのもののあるべき姿というのはまだでてきません。そのものが有るという形でしか示されていないわけであって、そのもののあるべき姿、すなわち概念は、まだそのなかに潜んでいるにすぎない。概念がどんな形であらわれるのかというと、或るもののなかに或るものを否定するものを見いだすことによって、はじめて或るものの「あるべき姿」がみえてくるのです。
 端初は直接的な存在という意味では、直観および知覚から取られ、有限な認識の分析的方法の端初であるが、普遍という意味では、綜合的方法の端初である。しかし論理的なものは、直接的に普遍であると同時に
有であり、概念によって先行的に措定されたものであると同時に、直接的に有るものでもあるから、その端初は綜合的であるとともに分析的な端緒である。
 端初というのは、分析的方法の端初であると同時に総合的方法の端初である、と述べています。ヘーゲルがいっている分析的な方法というのは、いうなれば概念に到達する方法です。総合的方法というのは、概念から出発してそれが展開するという方法として理解しているわけです。それを念頭において考えると、端初はそこから出発して概念に向かうという意味では、分析的方法の端初といえると同時に、端初は即自的な概念であり、そのなかに概念が含まれているわけです。その含まれている概念を引き出すという意味では総合的方法の端初だともいえます。有のなかに潜んでいる即自的な概念を引っぱり出してくる過程だとみれば、それは総合的方法ともいえるということです。

二三八節補遺 哲学的方法は、分析的でもあればまた綜合的でもある。しかしそれは、有限な認識のこの二つの方法を単に並置するとか、交互に用いるとかいうような意味でそうなのではなく、両者を揚棄されたものとしてその内に含むのであり、したがって哲学的方法は、その運動のあらゆる点において、分析的であると同時に綜合的である。

 哲学的方法は、分析的でもあれば総合的でもあるとあります。分析的であるというのは、分析によって概念あるいは理念をつかみ出すという意味では分析的です。総合的だというのは、理念ないし概念の展開として示すという意味では、総合的方法だともいえるのです。
 哲学的思惟がその対象である理念を単に受け入れ、自由にその道を歩ませ、そしてその運動および発展を言わば単に眺めているというかぎりでは、それは分析的である。このかぎりにおいて哲学的思惟は全く受動的である。しかし哲学的思惟はまた綜合的でもあって、それは概念そのものの活動である。もっともそのためには、絶えず顔をもたげようとするわれわれ自身の思いつきや特殊な意見を遠ざける努力が必要である。
 哲学的思惟が理念を単に受け入れ、自由に道を歩ませる限りでは分析的であるというのは、客観的実在のなかに潜んでいる理念をあるがままに取り出す、という意味では分析的だということです。その意味では受動的だというのは、客観のなかから理念を引き出すという限りでは、受動的だということなのでしょう。しかし哲学的思惟は概念あるいは理念という、真にあるべき姿を念頭において、それの展開として物事を理解しようという点では総合的だというのです。この総合的方法を使用するためには、われわれ自身の思いつきや特殊な意見を遠ざける努力が必要であるとありますが、これは大事な点です。
 概念そのもの、真にあるべき姿は客観的に規定されるわけですから、思いつきによって生まれるものではないのです。その意味で概念そのものの活動は、一種の必然的な展開としてあるわけで、概念を思いつきや特殊な意見から切り離さなければならないということでしょう。

弁証法②─ 進展

二三九節 理念の第二のモメントはb、進展であって、これは理念の自己分割の定立されたものである。直接的な普遍は、即自的概念として、自分自身に即して自己の直接性と普遍性とを一モメントにひきさげる弁証法である。この弁証法によって、端初の否定あるいは規定された最初のものが定立される。それは相関的であり、区別されたものの関係であり、反省のモメントである。

 理念の第二のモメントは進展であるといっています。つまり端初から進展していくわけです。どういう方向に進展するのかというと、その最初のものの中における否定的なものを見出すという方向での進展になるわけで、それを理念の自己分割の定立されたもの、という言い方をしています。
 どうすれば最初の端初になった有を一モメントに引き下げることができるかというと、それは端初のなかに、それと対立するものをとらえることによって端初は単なる一モメントになるわけです。
 最初にあるものとしての自民党政治は、それはそれとして自立したもののようにみえるわけです。しかし自民党政治は逆立ち政治だととらえることによって、逆立ち政治と国民本位の政治という対立がとらえられて、自民党政治は特殊な一政治形態にすぎないことが明らかになってきます。そういうことをモメントに引き下げるといっているわけです。つまり最初の普遍的なものを、その否定するものとの対比においてとらえることによって、対立物の一モメントに引き下げるということです。
 「この弁証法によって、端初の否定あるいは規定された最初のものが定立される。それは相関的であり、区別されたものの関係であり、反省のモメントである」というのも、同じことなのですが、端初のなかに端初を否定するものを見いだして、その端初とその否定との関係が相関(対立)の関係、区別された関係、反省の関係にある。つまり対立物の関係であるととらえるのです。
 これは予備概念における論理学の三つの形式でいうと、否定的理性の側面になります(㊤二四〇ページ)。まず、或るものを或るものとして規定されたものとしてとらえ、次にそのなかにおける否定的なものをとらえる。そして最初の或るものを否定的なものとの対立という相関においてとらえるのです。つまり当初のある自立したものを対立の一契機としてとらえることになります。

 この進展は分析的である。というのは、内在的な弁証法によって定立されるのは、直接的な概念のうちに含まれているものだけであるからである。と同時にそれは綜合的でもある。なぜなら、直接的な概念のうちにはまだ区別が定立されていなかったからである。

 もともと理念は対立物の統一としてあるわけですから、最初にある統一体のなかにおける否定的要素を見出すことによって対立物としてとらえることは、分析的といえます。同時に統一体から対立物に進展することは、理念の展開という意味では総合的だということです。

二三九節補遺 理念の進展のうちで、端初が即自的に持っていた規定、すなわち、端初は定立され媒介されたものであって、有的で直接的なものではないことが明かになってくる。それ自身直接的な意識にとってのみ自然が端初的で直接的なものであって、精神が自然によって媒介されたものである。実際はしかし自然こそ精神によって措定されたものであり、自然を自己の前提とするのは精神自身にほかならないのである。

 その内部における対立物をみることによって、端初も有的で直接的な自立したものではなく対立する否定的なものによって定立され、媒介されたものとしてとらえられてきます。自然と精神の関係でみると、自然が最初に存在して端初だとみえるけれども、自然はそのなかに精神を含んでいるわけであって、精神によって媒介されたものとしてあるのです。だから、自然は自然として独立しているようにみえるけれども、精神との対立において自然は存在しているのだということになります。

二四〇節 進展の抽象的形式は、有においては他者と他者への移行(Übergehen)であり、本質においては対立したものにおける反照(Scheinen)であり、概念においては普遍の区別である(もっとも、普遍はその本性上、自己から区別されているもののうちへ自己を連続させ、区別されたものとの同一として存在している)。

 このように端初が進展してくると対立物としてとらえられるのですが、もう一度ふりかえってみると、有論においては、或るものが端初、直接的なものだったのです。しかし或るものは、他のものとの関係においてはじめて存在するという関係でとらえることになります。本質論では、或るものを本質に媒介されたものとしてとらえたわけで、或るものは或るものとして自立しているようにみえるけれども、そうではなくて本質に媒介されているのだという、本質と現象との反照関係をみたわけです。概念論では、或るものは或るものにすぎないようにみえながら実はそのなかに普遍をもっている、個と普遍の統一としてあるという、こういう対立をみてきたわけです。
 このように真理を認識するということは、或るものを他のものとの媒介においてとらえる、或るものを否定するものとの対立物の統一としてとらえることが大事なのです。

二四一節 第二の領域においては、最初即自的に存在していた概念が反照(Scheinen)にまで到達しており、したがってそれはすでに即自的に理念である。── この領域の発展は、最初の領域の発展が第二の領域への移行であるように、最初の領域への後退である。ただこうした二重の運動によってのみ、区別はその本当の姿をうるのである。というのは、区別された二つのものの各々は、それ自身に即して考察されながら自己を完成して統体となり、そしてこの統体のうちで自己を他者との統一とするからである。ただ二つのものの一面性が自分自身に即して自己を揚棄することによってのみ、統一は一面的でないのである。

 弁証法の第二の領域は、即自的に存在していた概念が反照にまで到達しており即自的な理念になっていますが、その反照をつうじて概念がだんだん明らかになってくるということがいいたいのです。
 有としてとらえられた段階では、概念は全然みえません。しかし、有を対立物の統一としてとらえられたときには、その対立する姿をつうじて対立物の統一というその「真にあるべき姿」がだんだんみえてくるのです。第二の領域では「すでに即自的に理念である」とありますが、対立物の統一としてとらえたときに、真にあるべき姿がみえてくるのです。
 自民党政治を、逆立ち政治だという否定においてとらえたときに、その政治のあるべき姿は逆立ちした政治をまともな政治に戻すこと、つまり国民本位の政治に戻すことがみえてくるわけです。いわば発展方向がみえてくるといっているのだと思います。まずあるものの内部における矛盾を見ないと、その発展方向である真にあるべき姿もみえてこないのです。
 次に「この領域の発展は、最初の領域の発展が第二の領域への移行であるように、最初の領域への後退である」とありますが、第二の領域から第三の領域へ前進するというのは、いわば再び統一を回復することです。最初の(a)というところの有は、即自的な統一体です。それが進展の中では、対立あるいは区別としてとらえられたわけです。第三の領域は、再統一して「真にあるべき姿」に前進します。その意味で「この領域の発展は……最初の領域への後退である」という言い方がされているわけです。最初の領域というのは統一としての領域という意味でしょう。再統一へ向かって後退する「ただこうした二重の運動によってのみ、区別はその本当の、姿をうるのである」。統一・区別・統一をくりかえすことによって真理が実現されていくということです。

弁証法③─ 対立物の統一

二四二節 第二の領域は、区別されたものの関係を、その関係の最初の姿、関係そのものに即した矛盾── これは無限進行においてみられる── にまで発展させる。この矛盾はc、異ったものが概念のうちにあるものとして定立される終結のうちへ解消される。終りは最初のものの否定であり、また最初のものとの同一として自分自身の否定である。したがって終りは、はじめの二つのものがそのうちで観念的なものおよびモメントとして、揚棄されたものとして、すなわち同時に保存されているものとして、存在しているところの統一である。

 「区別されたものの関係を」「矛盾にまで発展させる」とありますが、区別されたものは、最初のあるものを否定するものとしてとらえるわけです。その否定するものと、最初のあるものとの関係が矛盾にまで発展して、この矛盾の解決として第三の領域に前進するのです。このcの第三の領域というのは、矛盾を止揚した統一だという言い方が次に出てきます。「この矛盾は、異なったものが概念の内にあるものとして定立される帰結のうちへ解消される」とありますが、この概念のうちにあるものとして定立されるというところが大事なのです。矛盾が解決されるということは、真にあるべき姿に向かって前進することです。
 「終りは最初のものの否定であり」という「終り」とは、矛盾が解決して新しく生まれたものです。これによって最初のものが否定されるのです。「また最初のものとの同一として自分自身の否定である」というのは、最初のものが自己否定して、自己の真にあるべき姿に生まれ変わるわけです。「終りは、はじめの二つのものがそのうちで観念的なものおよびモメントとして、揚棄されたものとして、すなわち同時に保存されているものとして、存在しているところの統一である」というのは、矛盾の解決によって生まれたあるべき姿は、最初のものの否定であると同時に保存です。矛盾の解決は最初のものの否定と同時に保存としての統一であり、それが矛の解決としてのあるべき姿なのです。要するに矛盾を解決するということは、保存しながら否定するということです。
 清算的な否定ではありません。だから発展の契機を含む否定ともいわれているのです。

 このようにその即自有から出発して、区別と揚棄とを介して自己を自分自身と連結する概念が、実現された概念、詳しく言えば、その諸規定の被措定有をその向自有のうちに含んでいる概念であって、これがすなわち理念である。

 この即自有というのが第一の領域です。区別と揚棄が第二の領域のことです。そこを経て第三の領域で概念が実現されるのだというのです。つまり或るものはその内部に矛盾をもつものであることを経て、真にあるべき姿が定立され、それが実現されるのです。だから矛盾を揚棄するというのは、概念の実現だといっています。
 「その諸規定の被措定有をその向自有のうちに含んでいる概念」とありますが、最初の有の積極的な面をそのなかに保存しているような、そういう概念としてあるのです。真にあるべき姿は、現実の矛盾のなかから導き出されるということが非常に大事なところだと思います。ヘーゲルの唯物論的側面です。

 理念は絶対に最初のもの(方法において)であるから、理念にとってはこの終結は同時に、端初が直接的なものであって理念は成果であるという仮象の消滅にほかならない。そしてそれは理念が一つの統体であるという認識である。

 矛盾の止揚によって実現された概念が理念だといっているわけで、それはまた、絶対に最初のものだといっています。矛盾の克服、つまり矛盾の止揚によって、概念は実現され、理念となるわけですけれども、実現された概念(理念)自身のなかに、また新たな概念が生まれるわけです。実現された概念が再び端初となって、そのなかに区別を生み出し、その区別が揚棄され、さらに新たな理念へと展開していくことになるわけです。
 端初から出発して第三の領域の理念に到達したということは、理念が端初の成果ということになりますが、その理念がまた新たな端初になるということは、理念は成果であるという仮象の消滅となります。この理念が成果として生まれ、これで終わりかというとそんなものではなく、また新たな理念にむかって矛盾が生まれ、それが克服されていくのだといっているのです。

弁証法の真理が理念

二四三節 方法はかくして外的な形式ではなく、内容の魂であり概念である。方法が内容と区別される点は、ただ概念の諸モメントがそれら自身に即してもその規定性において概念の統体性としてあらわれるようになるという点にすぎない。この規定性あるいは内容は、形式とともに理念へ復帰し、これによって理念は体系的な全体としてあらわれる。そしてこの全体は一つの理念であり、その特殊の諸モメントは即自的に同一であるとともに、また概念の弁証法によって理念の単純な向自有をも生み出すのである。── かくして学は、理念を対象とする純粋な理念としての学自身の概念を把握することをもって完結する。

 「方法はかくして外的な形式ではなく、内容の魂であり概念である」とあります。弁証法的な思考方法あるいは認識方法は、単なる形式ではなくて主体的に真理を実現する方法として、内容の魂であり概念なのだということです。この場合の概念は、真理を実現する真にあるべき姿という意味なのでしょう。それが弁証法なんだということです。
 ヘーゲル哲学は「理念を対象とする純粋な理念としての学自身の概念を把握することをもって完結」します。言いかえれば、主観と客観のあらゆるカテゴリーを議論してきましたが、その全体をつうじて真理を認識するためには、ものごとをまず即自的な統一体としてとらえ、ついでそのなかにおける矛盾をとらえ、そのことをつうじて、矛盾を解決するものとしての真にあるべき姿を実現し、そしてこの運動を反復していくことであり、その絶対的形式としての弁証法をとらえることによって、この理念を探求してきた哲学は完結することになるのです。弁証法を認識することによって、哲学はついに最後の真理に到達したということでしょう。
 二四四節で一応、論理学は終わるのですが、論理学が出発となって、次に自然哲学に移行し、さらには精神哲学に前進するということが述べられています。

エンチクロペディー全体の構成とまとめ

 最後にエンチクロペディーの全体の構成を話しておきたいと思います。最初にもお話しましたが、まずエンチクロペディーの序論が一節から一八節まで、論理学が一九節から二四四節まで、自然哲学が二四五節から三七六節まで、精神哲学が三七七節から五七七節となっています。
 そして絶対的精神の五七七節の最後にアリストテレスの「形而上学」のなかの「思惟の思惟」の問題が出てくるのです。アリストテレスの「思惟の思惟」というのは、いわばヘーゲルの「エンチクロペディー」の最後のまとめのようなものになっています。自然哲学、精神哲学は今回やっていませんが、全体をまとめたものとしては、今は絶版になっています河出書房新社の『ヘーゲル・エンチェクロペディー』という本がありまして、これは五七七節まで全部入っています。しかしこの本には補遺の部分はありません。本文だけなのです。全部学ぼうと思ったら、とりあえず日本にはこれしかないと思います。
 最後にもう一言。マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼの第一テーゼ」(全集③三ページ)をみてください。
 「これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのをもふくめて)の主要欠陥は対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえられて、感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえられないことである。それゆえ能動的側面は、唯物論に対立して抽象的に観念論――これはもちろん現実的な感性的な活動をそのようなものとしては知らない――によって展開されることになった」。
 これまでのあらゆる唯物論の主要な欠陥は対象を観照の形式のもとでのみとらえられて、感性的人間的な活動実践として、主体的にとらえられてないとあります。このテーゼの最後、第一一テーゼに「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝心なのはそれを変えることである」という文章が続くわけです。
 つまりマルクスは、これまでの唯物論が変革の立場に立たず、実践を哲学のなかに盛り込んでいないという批判をして、その後で「能動的側面」(感性的人間的な活動、実践を哲学のなかに取り込むという側面)は「唯物」論に対立して抽象的に観念論」によって展開されることになった、と述べています。この観念論というのは、ヘーゲルを念頭においているのです。ここにダッシュがしてあって── 「これはもちろん現実的な感性的な活動をそのようなものとしては知らない」── というようにありますが、これは生産労働のことを頭においているのでしょう。ヘーゲルは実践を取り上げましたが、生産労働そのものは「理性の狡智」として取り上げてはいるものの、深く分析したわけではありません。つまりヘーゲルは『資本論』を知らないわけですから『資本論』の見地は、ヘーゲルには全然ないわけで、社会の法則を分析しようという見地は欠けているし、史的唯物論の見地も当然もっていないのです。しかし、ヘーゲルが人間的な活動、実践をとらえようとした点を、マルクスは高く評価したのです。
 実践を考えたときに一番大事な問題は、実践の目的として掲げられるものが一体何なのかということであって、それがいわゆる理念でありイデアの問題なのです。実践を論ずるかぎりは理念の問題を欠かすわけにはゆきません。そういう意味で、これまで唯物論の側から実践の重要性は指摘しながらも、理念の問題について十分な研究がされてこなかったことは一つの課題だろうと思うわけです。
 特に最近、政権論が現実的な課題として提起され、日本の政治における理念は何なのかということが、さまざまな段階の社会発展の問題とも関連して議論されるようになっており、ヘーゲルが哲学のなかで最も大事なこととして、理念の問題をとりあげ、人間の実践の問題をとりあげ、そして社会あるいは自然を合法則的発展の対象としてとらえ変革の対象としてとらえたところは、改めて光があてられなくてはならないと思います。
 「フォイエルバッハに関するテーゼ」の第二テーゼ「人間的思惟に対象的真理がとどくかどうかの問題はなんら観想の問題などではなくて、一つの実践的な問題である。実践において人間は彼の思惟の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない」というところは、まさにヘーゲルの言葉をそのまま念頭におきながら書いたものと思われます。
 何度も引用しましたけれども、エンチクロペディーへの序論、第六節の最後のところでヘーゲルは「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」と述べて、現実になる力をもった理念を探求しています。科学的社会主義の理論は、この現実となる力をもった理念を探求する科学ですから、その掲げる理念を自らの実践をつうじて現実性と力、此岸性を証明することになるだろうと思われるわけです。そういう点に今日、ヘーゲル論理学を学ぶ意義があるのではないかと考えているところです。
 合計三九回の講義、まだまだ不十分でしたけれども、一応、無事に終えて、私としても肩の荷をおろしたつもりでおります。ヘーゲル哲学に関し、科学的社会主義の理論をより豊かにする立場で一定の問題提起をしたつもりですので、今後のご批判、討論をつうじて実りあるものとなることを期待します。長い間、聴講いただいてありがとうございました。

→ 「あとがきにかえて」を読む