『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より
第三講 有論
一、有論の構成
有論の構成
「第一巻 有論」に入ります。
有論は大きく分けて、A質、B量、C度合の三つに分かれています。有論では、感覚的な認識が問題とされます。事物の表面的な浅い認識を扱い、それが本質論、概念論へと移行するに従って、より深い認識に前進していくわけです。表面的な浅い認識とは、事物をある質をもったものとして認識することです。質というのは「或るもの」を或るものとして特徴づけるもので、たとえば、椅子であれば「人間が腰かけるのに適した家具」という質をもっているということです。
しかし、全ての事物は事物としてのある質をもっていると同時に、その事物に特有の一定の量をもっています。だからすべての事物は質と量の統一としてあるということを、この有論では全体として述べております。イスというのも、それに適した大きさや高さがあるでしょう。大きすぎても小さすぎても具合が悪い。イスとしての機能を果たさないわけです。全ての事物は、それに固有な「質と量の統一」としてあるのです。
このようにヘーゲルは、有論のなかで質、量、度合(質と量の統一)を論じ、度合のところで、有名な、「量から質への転化」が論じられています。
「質」の構成
「質」は、さらに「有」、「定有」、「対自有」の三つに区分されています。
「有」は、何かが「ある」とか何々で「ある」という認識です。人間の認識はまず、「何であるのかはわからないが何かがある」というところから出発し、次に、その「何か」を認識する段階へ進みます。その「何か」が「定有」です。ヘーゲルは「定有」を「規定された有」だといっています。客観世界に存在するものはすべて「定有」なのです。そして「対自有」へ進む。「対自有」というのはヘーゲル独自の用語でドイツ語ではfürsichsein。直訳すれば「自己へ向かう有」で、「向自有」という訳もあります。この「対自有」というのは、「定有」の完成された姿を論じています。
二、直接性と媒介性の統一
「媒介性と同様、直接性〔媒介性〕を含んでいないものも、天にも、自然にも、精神にも、およそどこにもなに一つ存在しない」(七五ページ)というところにレーニンは三本線を引いてNB(注意)と書きこんでいます。
全てのものは「直接性と媒介性の統一」としてあります。直接性というのは、独立して存在しているとか、自立して存在しているということです。その直接性に対立する言葉が媒介性です。媒介性というのは、なにかと連関しているということです。ですから、それらの統一とは、すべての事物は独立していると同時に連関のなかにあるということです。従って「直接性と媒介性の統一」は、世界の根本的かつ普遍的弁証法ということができます。
地球を例にとってみましょう。地球は独立した一つの天体、惑星です。ではまったく他の天体から独立しているかというと、そうではなくて太陽に媒介されて太陽系の中の一つの惑星として存在しています。
人間も同じです。一人ひとりが独立した人格をもっています。しかし、それは同時に他の人に媒介されている。親、先生、友人などに影響をうけ、その連関のなかで一人ひとりの人格は形づくられているのです。
レーニンは、媒介性に注目して、「全てのものは媒介されている」、これは「全世界の合法則的な結合」をとらえたものだ、というコメントを残しています。バラバラなものは何一つ存在せず、全てのものは相互につながりをもち、全体としてのまとまりをもった連関の中にあるというふうにとらえる。
レーニンは媒介性のみを指摘していますが直接性と媒介性というのは相対立する概念であり、その二つを統一してとらえないと、世界の本当の事物をとらえることができません。ここに世界全体の連関を弁証法的にとらえるヘーゲルの鋭い見方があるのだろうと思います。
物質と意識の関係
ヘーゲルは直接性と媒介性の統一を論議するさい、物質(存在)と意識(思考)との関係をも念頭においています。
物質と意識のどちらが根源的かをめぐって、哲学は唯物論と観念論の陣営に大きく別れます。唯物論は、物質を第一義的、根源的な存在と位置づけ、人間の意識はその反映であるというとらえ方をします。
人間の意識は物質に媒介されているのですが、それだけではありません。ヘーゲルは、意識が自立した直接性をもっているということ、いいかえれば意識の創造性を重視しました。この観点は、唯物論にとっても重要です。
世界をあるがままの姿として認識するだけならば、人間の意識の反映機能というのは動物の認識機能とほとんど変わらないということになります。しかし、人間は手と頭を使い、道具や機械、あるいは様々な社会的組織をつくりだし、自然や社会に働きかけています。それは、いわば、人間の意識が物質から自立した直接性をもっている、ということです。そのことをとらえてレーニンは「人間の意識は客観世界を反映するだけでなく、それを創造しもする」(一八一ページ)と述べています。
創造というのは自らつくりだすわけですから、「何ものにも媒介されない」ということを意味しているわけです。人間の意識は、一面では、物質に媒介されて物質をそのあるがままの姿として反映するという媒介性の側面をもつと同時に、主体的に世界を変革しうる、創造しうるという直接性としての側面をもっています。その意味で人間の意識は、直接性と媒介性の統一としてとらえなければならないというところに、ヘーゲル哲学の一つの大きな特徴があると私は考えております。
この直接性と媒介性の統一という弁証法的な世界観にレーニンが着目したのは、さすがだと思います。
レーニンは「天―自然―精神、天を取れ¨唯物論だ」(七五ページ)と書いています。天すなわち神さまをとれば、自然と精神の相互の働きかけが残る。この点を考察することは唯物論であるというのでしょう。さらに「私は総じてヘーゲルを唯物論的に読むようにつとめている¨ヘーゲルは逆立ちした唯物論である(エンゲルスによると)」(七六ページ)という記述もあり、レーニンは、ヘーゲルの観念論に陥らないでヘーゲルを唯物論的に読み解こうとしています。
ヘーゲル哲学の観念論と「無数の宝」
この「エンゲルスによると」というのは、『フォイエルバッハ論』のことをさしています。ここで、エンゲルスがヘーゲルの哲学のどこをとらえて、ヘーゲルの観念論があると考えていたかということを紹介しておきましょう。
「彼(ヘーゲルのこと)は創造的天才であったばかりでなく、百科全書的博識の人でもあったから、いたるところで画期的な仕事をした。『体系』が必要とするものにしいられて彼がここでなん回もあの無理なこしらえものに逃げこまなければならなかったことは、言うまでもない……しかしこうしたこしらえものは、彼の仕事のわくであり足場であるにすぎない。むだにここに足をとめず、もっと深くこの巨大な建物のなかにはいりこんでいってみると、そこには、今日でもなお完全に値うちのある無数の宝がある」⑴ 。
枠組みそのものは観念的だけれども、中に入れば唯物論の立場からしても「完全に値うちのある無数の宝がある」のです。レーニンははじめ、観念論に陥らないようにしようということを強く意識しながら、ヘーゲルを読んでいきます。しかし、読み進むうちにヘーゲル哲学のとらえ方が変わっていくのです。『大論理学』を読み終えたレーニンの感想は次のようなものです。
「そしてもう一つ¨ヘーゲルのこのもっとも観念論的な著作のうちには、観念論がもっとも少なく、唯物論がもっとも多い。〝矛盾している〟しかし事実だ!」(二〇三ページ)。
「無数の宝」と出会ったレーニンの率直な思いが出ています。
三、質
有
まず第一に、「有論」「第一篇規定性(質)」のなかの「有」=純粋な有(七七ページ)に入ります。
「それ以上のどんな規定をも持たない」と書いてありますが、「純粋な有」とは、何かが「ある」とか、何かで「ある」という感覚的な認識であり、事物そのものから切り離して、「存在する」ということだけを問題にしている。そういう有と、規定された有というのを区別しています。「規定はすでに質である」とありますが、有が規定されると、質をもった有になり、それが「定有」です。
ですから、この世の中に存在するものは全て「定有」です。それは「或るもの」ということもできます。机、イス、人間、建物など、全て「或るもの」、定有するものです。
それならなぜ、「純粋な有」を議論するのかというと、運動をとらえるためなのです。客観的事物そのものから切り離された純粋な有なり、純粋な無なりを考えないと、運動、生成や消滅をとらえることができないからです。
「エレア学派の人々、特にパルメニデスが、最初に有というかかる抽象に達した」(同)とあります。パルメニデスは、「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」といいました。この世の中には、「ある」か「ない」かのどちらかで、あるものはある、ないものはない、「ない」ものから「ある」ものが生まれるなんてことはない、というのです。
しかし、これに対して、世の中において根本的なものは「無」であるという考え方もあるでしょう。たとえば仏教的な無常観がそれにあたります。全ては無に帰す、無こそ世界の根本原理だというのです。
この両論を止揚するものとして、ヘラクレイトスが「パンタレイ」、すなわち「万物はする」というとらえ方を提示します。
すべてが「ある」といってしまっても、すべてが「ない」といってしまっても、世界を正しくとらえることはできない。ヘラクレイトスは変化、すなわち運動することに世界の根本をみたのです。テキストに「ヘラクレイトスにあっては《すべては流れる》……すなわち、《すべては成である》」(同)とあります。「全ては流れる」とは、全ては運動するということです。それは有と無の統一としてとらえることができるのです。
有と無の統一としての成というのは、どういう意味でしょうか。第一に有は有であって無ではなく、無は無であって有ではないという区別から始まります。しかし、区別することにとどまれば、変化はなく運動もありません。だから一度区別したものを、媒介において考えることが必要であり、それが弁証法的な考え方なのです。
第二に、有は有でありながら無を含み、無は無でありながら有を含んでいることをみる必要があります。
「《有と無の両者を自己の内に含んでいないものは、天にも地にもどこにもない》」(七八ページ)のです。レーニンは、このヘーゲルの言葉にアンダーラインを引いています。
有と無というのは、いったんは切り離されているのだけれども、同時に、それぞれその内に自己に対立するものを含むことにより、相互に媒介されてもいるのです。
ですから、第三に、有と無は不可分であり、有のみとか無のみのものはどこにも、この世には存在しないのです。「ヘーゲルにおいては、〝有〟と〝無〟との統一、あるいは不可分性(九〇ページ、この表現の方がときには統一ということよりもいいことがある)が、移行、成をあたえる」。
第四に、「《有と無との中間状態でないようなものは、まったく存在しない》」(七九ページ)。
以上をまとめてみましょう。有と無というのは区別されながらも、有は無の、無は有の要素を含んでいるから、有と無は相互に移行しあうということです。
「成。その二つの契機、発生と消滅」(同)とあります。発生というのは、無から有への移行です。何もないところから生まれてくるのが発生なんです。なぜ無から有へ移行するのかというと、無のなかに有の要素があるからです。無のなかの有の要素がだんだん拡大していって、ついには有に移行するのです。
消滅は有から無への移行です。なぜ物事は消滅するのかというと、有のなかに無の要素があるからです。無の要素が大きくなって最後に有は無に移行し、消滅するのです。
有と無との中間状態とは、発展と衰退です。有における無の要素が減っていくことが発展であり、有の中における無の要素が増えていくのが衰退です。すべてのものが、発生し、発展し、衰退し、消滅する。これら一連の過程を全体として運動と呼ぶのです。
定有(dasein)
今度は「定有」、いいかえれば相対的固定性としての「或るもの」をみていきます。
この「定有」は、規定された有、ある質をもった有です。ですから「或るもの」というのは「机」とか、「建物」とか、「人間」ということです。
この世の中に存在するものは、全て「或るもの」として相対的固定性をもっていますが、この「或るもの」もいつかは「他のもの」へ変化します。この変化をとらえるうえでヘーゲルは、「或るもの」がもっている「質」のなかに、「即自有」と「向他有」の二つの側面をみいだします。
「即自有」(An-sich-sein)とは、「或るもの」の質を特徴づける側面であり、「向他有」(Sein-für-anderes)とは、「他と向きあっている有」であり、「或るもの」が「他のもの」と関係する側面のことです。
定有の可変性、有限性
テキストに「定有は規定された有である」から、「他のものから区別される質であり、可変的にして有限的である」(八〇ページ)とあり、レーニンは三本線をひいて、NB(Nota Bene よく注意せよという意味)と注意を促します。「即自有」「向他有」というカテゴリーは、「或るもの」の要素を分析し、なぜ「或るもの」が可変的で有限であり、「他のもの」に移行するのかということを明らかにしようとしているのです。
レーニンは、「規定性は否定である」というスピノザの大変有名な規定を「この命題は測りしれぬほど重要である」(同)というヘーゲルの言葉とともに書き抜いています。
規定することは、否定することです。例えば、「青年期」だというふうに規定することは「少年期ではない」、「壮年期ではない」と否定することであり、このスピノザの規定は、定有の持つ向他有の側面をとり上げた命題だといってもいいだろうと思います。
カントの「物自体」批判
次に、カントの「物自体」(Ding an sich)の批判が展開されます。
物自体というのは、カントの「つまずきの石」だといわれています。私たちが知ることができるのは物の現象にすぎず、物自体は認識しえないというのです。「ほんとうのことは分からない」という不可知論です。
ヘーゲルはカントのこの不可知論を「或るもの」の「即自有」(物自体)を「向他有」から切り離し、「或るもの=即自有」としてとらえるものだから、そんな空虚なものを認識しえないのは当然のことだと批判します。レーニンは「物自体は総じて空虚で生命のない抽象物である」というヘーゲルのカント批判をとりあげたうえで、「生命と運動のうちでは、ありとあらゆるものがつねに〝即自的〟にも、他のものとの関係において〝対他的〟にも有り、一つの状態から他の状態へ転化している」(八一ページ)ととらえております。
運動、変化、発展の必然性
なぜ「或るもの」が運動、変化、発展するのかといえば、それは「或るもの」が「他のもの」と関係しているからです。最初は、抽象的に有と無の統一が成という運動を生みだす、ということをみてきましたが、ここでは、「或るもの」と「他のもの」の統一が、「或るもの」の運動、変化、発展を生じざるをえない必然性を明らかにしています。
まず第一に、「或るもの」は「他のもの」ではなく、「他のもの」は「或るもの」ではないと区別します。第二に、しかし、「或るもの」は「他のもの(向他有)」を含み、「他のもの」は「或るもの(向他有)」を含んでいる。第三に、したがって「或るもの」と「他のもの」の中間状態でないものは何もない。第四に、「或るもの」と「他のもの」とは限界において切り離され、限界において接している。たとえば、青年期と少年期は、一八歳前後という限界において、接すると同時に区別されているのです。その意味で限界は、同一と区別の統一です。
弁証法というのは、「運動に関する一般的な法則」だというふうにエンゲルスはとらえました。では、なぜ、すべてのものは運動するのかといえば、その構造は定有の中における即自有と向他有、或るものと他のもの、といった関係においてとらえることができるからです。全てのものは他のものから区別されることによって有限性をもち、だからこそ、限界をこえることによって「他のもの」になっていくという可変性をもっている。この変化の必然性を明らかにしたことは、ヘーゲルの大きな功績です。
弁証法とは
レーニンも、次第にヘーゲル弁証法の奥行きの深さに気がつくわけで、「非常にいい」とか「非常に深遠である」などとあちこちに書きつけています。早くもここで、レーニンは弁証法について一定の整理をしておきたくなったのでしょう。次のように書いています。
「弁証法は、どうして対立したものが同一であることができ、またどうして同一であるのか(どうして同一となるのか)、── それらは、どんな条件のもとで、たがいに転化しあいながら、同一であるのか── なぜ人間の頭脳はこれらの対立したものを死んだ、硬直したものとしてではなく、生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものと取らねばならないのか、ということにかんする学説である。ヘーゲルを読みながら)…」(同)。
レーニンは「生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものと取らねばならないのか、ということに関する学説」と、鋭く弁証法の本質をえぐりだしています。
つまり、対立するものが相互に移行し、転化しあうことによって運動が生じる、ととらえる学説として、弁証法を理解したのです。ここまでの有と無の統一としての成、即自有と向他有の統一としての「或るもの」、「或るもの」と「他のもの」との限界における同一と区別の統一としての運動、変化をこのように整理しているのです。
続いて「或るもの」が「他のもの」に移行するという論理について「明敏で賢明だ!普通には死んだものとしておもわれている諸概念をヘーゲルは分析して、それらのうちに運動が有ることを示している」(八二ページ)と述べています。
「或るもの」を漫然とみているだけでは、「或るもの」は「或るもの」にとどまってしまいます。一見すると変化も何もないようみえ、相対的に固定、安定している「或るもの」を、即自有と向他有という二つの要素の統一としてみることによって、運動を洞察していることを「明敏で賢明」という評価をしているのです。
また、「有限的なものとは?終わりに向かって運動しているもののことである!或るものとは?── 他のものであるものではないということである。一般に有とは?── 有=非有であるような無規定性である。諸概念の全面的な、普遍的な柔軟性、対立物の同一性にまで達する柔軟性、── ここに核心がある。この柔軟性が主観的に適用されると=折衷主義と詭弁。客観的に適用された柔軟性、すなわち、物質的な過程の全面性およびこの過程の統一を反映する柔軟性は、弁証法であり、世界の永遠の発展の正しい反映である」(同)。
「対立物の同一性にまで達する柔軟性」といっていますが、「或るもの」が対立する「他のもの」へ移行することをとらえて、そういっているのだと思います。
真無限
そこで、次に有限と無限の統一としての真無限というところに入ります。どうして「質」のところで、無限を論じるのでしょうか。これまで定有は有限であるがゆえに可変的だということを論じてきました。弁証法は対立するものの統一としてものごとを理解しますから、有限なものは無限なものとあわせて検討する必要があるのです。
まず悪無限というのがでてきます。
「悪無限――あたかも有限的なものは此岸であるが、無限的なものは彼岸であるかのように、また無限的なものは有限的なものの上に、有限的なものの外に立っているかのように、有限性に質的に対立し、有限性と連関しておらず、有限性から切りはなされているところの無限性……けれども実際には、それら(有限的なものと無限的なもの)は、不可分離的である。それらは統一である」(八四ページ)。
悪無限とは、一般的に考えられている無限、つまり有限から切り離された無限のことです。たとえば、数学の無限系列、無限小とか無限大というものがそうです。しかし、哲学上はそういう悪無限を議論しても意味がない。有限というのは川岸のこっち側(此岸)にあって、無限というのは川岸の向こう側(彼岸)にあるというように、両者を切り離すとらえ方は誤りだといいます。有限と無限とは切り離すことはできず、それらは統一されているのであって、そういう無限を悪無限と区別して真無限と呼んでいるのです。
有限と無限の弁証法は、有限は有限であり、無限は無限であるという区別から始まり、ついで、しかし有限と無限とは不可分であり、有限から切り離された無限は悪無限であり、論ずるに値しない。すべての有限なものは無限を含んでおり、無限なものもまた有限なものからなっているのです。レーニンは「有限的なものと無限的なものとの統一」に関連して「原子と電子との関係に適用すること、一般に物質の無限性は奥深きところへ……」(八四ページ)とメモしています。
物質というのは、それ自体は「或るもの」として有限的なものです。しかしミクロの世界へ向かえば、分子から始まって、原子、原子核、陽子、中性子、クォークまで解明されているわけですが、さらに無限に小さい単位につながるものでしょう。
また人間の頭脳というのも、有限な人間のなかに無限な認識能力があるのです。このように、有限との結びつきのなかでこそ無限を論じる意味があるのです。
エンゲルスは、「無限性ということが一つの矛盾であり」、「無限性が有限なものばかりからなりり立っているということそれ自体が、すでに一つの矛盾」⑵ だと述べております。
対自有
次に、真無限と定有とはどういう関係になるのかということが問題とされ、それが対自有(向自有)というカテゴリーになってきます。
「対自有(Fürsichsein)=無限的な有、完成された質的な有、質は頂点に達して量となる」(八五ページ)とあります。対自有というのは真無限の定有です。だから定有の中における即自有の側面、つまり有限な質の側面が無限に発展していき、その質が本来持つ姿に向かって前進していって「完成された質的な有」になることが対自有なのです。
ヘーゲルのいう対自有というのは、プラトンのイデア論をふまえています。イデアとはヘーゲルのいう「概念」、つまり真にあるべき姿であり理想の姿、「真実在」です。或るものの理想の姿とは、完成された定有であり、無限に高まった質をもつつ定有、真無限の定有なのです。対自有とはこのイデアとしての定有であり、或るもののイデアです。また真にあるべき姿は一つしかありませんので、対自有は一者だとされます。そして、一者(一)は量であるところから、質から量に移行するという展開になるのです。この辺の論理展開には、だいぶ無理があります。
だからレーニンは「なぜ対自有が Eins(一者)であるか、私には不明瞭である」といっています。
イデア
レーニンは「《こうして総体性としての対自有の観念性は、第一に実在性に転化する」というヘーゲルの説明を引用したうえで「観念的なものが実在的なものに転化するという思想は深い」「NB(注意せよ)¨観念的なものと物質的なものとの区別もやはり無条件的でも度はずれでもない」(八六ページ)と述べております。
対自有において、「観念性」という言葉をヘーゲルがどういう意味で使っているのかが問題になります。観念性はドイツ語で Idealität ですが、この言葉には観念と理想という両方の意味があります。Idealismus(英語のIdealism)は観念論とも理想主義とも訳しうるのです。ですから、ここの観念性というのは、理想を意味するものとして理解しないと、何をいっているのかわからない。ヘーゲルは対自有という概念を通じて、或るものの理想の姿が現実に転化する必然性を議論しており、レーニンもそれを感じとったのでしょう。
レーニンは、この辺まで読み進んでくると、ヘーゲルの論理学がギリシャ哲学などを踏まえた哲学の歴史の総括の上にたっているということが、だんだん分かってくることがよみとれます。
「あきらかに、ヘーゲルは諸概念、諸カテゴリーの自己発展を哲学の全歴史と結び付けて取り上げている。このことは論理学全体にもう一つの新しい側面をあたえている」(八七ページ)。
「もう一つの新しい側面」とは、ヘーゲル哲学が哲学史の全総括から生まれているということです。「人類の知識の総和」として生まれているということに、レーニンは気づくのです。
四、量、度合
質は対自有(向自有)において最高の段階まで達しましたので、次は量の問題に入っていくことになります。
量とは何かというと、「或るもの」から質を捨象したものです。「或るもの」というのは質と量の統一としてあるわけですから、そのなかから質を取り除くと、残るのは量です。量の弁証法の基本となるのは、連続性と非連続性の統一です。
量は連続性(つながっている)と、非連続性(つながっていない)です。さらに、連続性の問題は単位となり、非連続性の問題は集合となって、全ての数は単位と集合の統一だという形で展開されていきます。
この辺は、レーニンもあまりノートしていないので、簡単にしておいて今度は、量と質の統一としての第3篇 度合(度量)というところにいきます。
度合とは質と量の統一
「《抽象的に言えば、度合のうちでは質と量とが結合されている》」(九二ページ)とあります。
全てのものは、質と量の統一(度合)としてある。これを俗っぽくいうと「ものには限度がある」ということです。全てのものは質をもっていますが、その質には固有の量が対応していて、それがその質の限度をもたらしています。限度を越えれば他のものになるのです。
酒は少々であれば「百薬之長」ですが、限度を越せば、アルコール依存症や肝臓病などの原因になるでしょう。
こうして度合は量と質の弁証法を生みだすのです。それは量から質への転化、またその逆の転化の法則といわれるものです。ソクラテス学派は、「はげ頭」と「穀物の堆積」をあげました。どういうことかと言いますと、頭の毛を一本抜いたらはげ頭になるのかといえば、それはならない。しかし、次々抜いていって、ある段階にきたら必ず、はげ頭というところまでくる。だから「毛を一本抜けば、はげ頭になる」というのは正しいというのです。
同様に、穀物一粒で堆積といえるかといえば、それはいえない。では、二粒ではどうか、三粒ならどうか、と論じていって、あと一粒加われば堆積といえるところまでくる。だから「一粒は堆積である」というような議論を展開しています。なかなか面白いでしょう。
質と量の弁証法
まさに、量が質に転化するということを問題にしてるのですが、なぜ量が質に、質が量に転化するのか、そこを弁証法的にとらえることが大切です。
質と量の弁証法は、まず第一に、質は量ではなく、量は質ではないという区別から始まります。ですから、質的変化は必ず量的変化から始まるというふうにとらえたら、間違いです。質的変化は、質的変化をもたらすような要因によって生じるわけですが、同時に、量の変化も質の変化をもたらすのです。量だけ追求していたら質が変わるというほど簡単なことではないのです。同様に、量的変化は量の増減によって生じると同時に、質的変化によっても生じるのです。
だから「量とともに質を」追求しなくてはならないのです。
第二に、全ての事物は質と量の統一としてある。限度を越えると量的変化は質の変化をもたらし、「量から質へ」転化します。そこを度量の結節点と呼んでいます。
同様に、質がその限度をこえて新しい質になると、その質のもっている固有の量も飛躍的に増大することになります。「質から量へ」の転化です。日本共産党が最近、量的飛躍をとげているのも、自民党政治への告発と建設的提案の統一、当面の解決策と抜本的解決策の統一などの政策的前進による質的変化によるものではないでしょうか。
量と質の弁証法は、漸次性の中断、飛躍を生みだします。エンゲルスは、有論の弁証法の中心をここにみたわけです。しかし、有論の弁証法は、それにつきるわけではありません。いままでお話しした直接性と媒介性の統一、有と無の統一としての成、即自有と向他有の統一としての定有、限界の弁証法も重要です。そういうものと合わせて、量と質の弁証法の問題もとらえることが必要でしょう。
⑴ マルクス・エンゲルス全集㉑二七四ページ。
/『フォイエルバッハ論』古典選書、二一~二ページ。
⑵ マルクス・エンゲルス全集⑳五二ページ。
/『反デューリング論』①、国民文庫、七七ページ。
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