『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より
第一二講 哲学史 一 哲学の歴史は認識発展の歴史
一、哲学の歴史とはなにか
哲学史こそヘーゲル哲学の源泉
ヘーゲルは、生涯の間に一〇回ほど大学で「哲学史」の講義を行い、最後の講義は一八三一年十一月一〇日。亡くなる四日前でした。コレラで亡くなったのですけれども、最後の最後まで哲学史を語り続けたのです。しかも、その講義した哲学の内容というのは、ギリシャ哲学に始まり中世の哲学、最新のドイツ古典哲学にいたる壮大なものでした。西洋哲学ばかりか、中国哲学やインド哲学まで説き及んでいます。ヘーゲル哲学の特徴は、実はこの点にあり、まさに「哲学史」の研究そのものから生まれたということができます。
ヘーゲルの『大論理学』などを読みますと、なぜこんなことを思いついたのかというようなカテゴリーや議論に出くわすのですが、これも哲学史上のさまざまな論争をすべてとりこもうとしたからなのです。ヘーゲル自身も「哲学史の研究こそ即ち哲学そのものの研究だ」⑴ と述べています。
そのことをレーニンはきちんととらえています。
「哲学の歴史は、それゆえ、簡単に言えば、認識一般の歴史、知識の全領域」だということで、「個々の科学の歴史、児童の精神発達の歴史、動物の精神発達の歴史、言語の歴史」などをあげ、「これが、そこから認識論と弁証法がつくらるべき知識の領域である」(三二二ページ)と、レーニンは書いています。つまり、哲学の歴史というのは人類の知識の総和であり、それを総括するものとして、認識論と弁証法が生まれてくるというのです。ヘーゲル哲学が科学的社会主義の哲学の直接の源泉となりえたのは、哲学史を繰りかえし学び、人類の知識の全総括のうえに自らの哲学を構築したからです。
マルクスやエンゲルスもヘーゲルの「哲学史」を非常に高く評価しています。エンゲルスは、シュミット宛の手紙のなかで「最も天才的な著作の一つ」⑵ といっていますし、マルクスはラサール宛の手紙のなかで「哲学の全史をはじめて理解したヘーゲル」⑶ と評価しています。
世界で初めてヘーゲルが、哲学の全歴史を正しく総括することによって自らの哲学を打ちたてることができたという意味でしょう。マルクスは『資本論』の「第二版へのあとがき」で「私は自分があの偉大な思想家の弟子である」⑷ と称したのも、それだけヘーゲル哲学を高く評価していたからでしょう。
哲学は、弁証法的な認識の発展追求
さて、ヘーゲルは哲学の歴史をどのようにとらえたのか。
哲学の歴史は、ある意味で、先人の哲学を後世の哲学者が批判し続けてきた歴史です。「見よ、君を担ぎだす者の足がすでに門口に立っているのを」という聖書の言葉をヘーゲルは引用していますが、これまでの哲学者で後世の批判をまぬがれた人は誰もいないのです。そのときは絶対的な真理だと思われていたものが、次の哲学者によって直ちに批判されるという歴史を積み重ねてきました。そうすると哲学の歴史というのはいわば「阿呆の行列」「阿呆の画廊」なのかといえば、決してそうではありません。哲学史は弁証法的な否定の過程を積み重ねることによって真理に向かって人類の認識の前進していく過程であり、哲学の歴史を真理探求の弁証法的な発展過程とヘーゲルはとらえたのです。
「より先の体系とより後の体系との関係は、論理的理念のより先の段階とより後の段階との関係と同じであって、より後のものがより先のものを揚棄されたものとして自己のうちに含む」⑸ 。
この「論理的理念」というのは真理と読みかえてもよいと思います。
哲学史は、真理のより浅い段階からより深い段階へと人類の認識の前進していく歴史的な過程であって、しかも後から生まれた真理は先の真理を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいるのです。
「普遍的なものは、さらに規定されていく各段階へ、それに先だつ内容の全量を高め、そしてその弁証法的な進行によってなにものも失わず、なにものをも背後にのこさないのみでなく、かえってその獲得したすべてのものを携えてゆき、そして自己を自己のうちで豊富にし稠密にする」(二〇〇ページ)。
後の体系が先の体系を批判することによって先の体系は無に帰したのかというとそうではなくて、後の体系の中により発展した形で生かされていく、これが哲学の歴史だ、というわけです。
それは、いいかえれば、「論理的なものと歴史的なものとの対応」ということにもなってくるわけです。論理学におけるカテゴリーの発展、最も単純なカテゴリーからより複雑なより高度なカテゴリーへの発展というのは、歴史的な発展の段階にほぼ対応しているというとらえ方にもなってくるわけです。
ヘーゲル論理学のカテゴリーは全哲学史の総括から生まれたものなのです。先ほど紹介しましたエンゲルスのシュミット宛の手紙の中で「ヘーゲルにおいては、それぞれの範疇が哲学史の一段階を代表する」⑹ とあるとおりです。「範疇」とはカテゴリーのことですが、ヘーゲルは先人たちの論じた問題をすべて自分のカテゴリーのうちに継承発展させて、取り入れたのです。 レーニンもそのことをヘーゲル研究の早い段階で学び取ったようで、これは有論における量と質の問題についてのコメントですが、「あきらかに、ヘーゲルは諸概念、諸カテゴリーの自己発展を哲学の全歴史と結びつけて取りあげている。このことは論理学全体にもう一つの新しい側面をあたえている」(八七ページ)としています。「もう一つの新しい側面」とは、ヘーゲル哲学が人類の知識の総和から生れたものだということです。
レーニンは、ギリシャ哲学だけをノートしており、それ以降の中世の哲学、近世哲学には一言も触れていません。なぜヘーゲルの「哲学史」のうち、ギリシャ哲学のみにノートをとどめたのかといいますと、人類の「知識の全領域」を総括した哲学史になって、「ギリシャ哲学はこれらすべての契機に着目した」(三二二ページ)からです。つまり哲学史上に登場した諸問題は、ほとんどギリシャ哲学のなかに、その原形を持っているという理解のうえにたって、ギリシャ哲学にとどめたノートになったのではないかと思われます。
本来は歴史上の哲学者がどんなことを述べたのか、それに対してヘーゲルがどのようにコメントし、そこからレーニンが何を学んだのかを学習するという手順をふむべきなのですが、時間の制約上今回の講義では、主としてレーニンが「哲学史」の中から弁証法をいかに学びとったかということと、ヘーゲル哲学の出自にかかわる問題に絞って学習することにします。
二、運動をとらえる哲学の歴史
「哲学史」に入っていきますが、概括的な歴史について少し話しておきましょう。
哲学は、なぜこのような世界が存在するのだろうか、いったい誰が創ったのか、という疑問から出発するわけです。最初のまとまった考え方は、神話の世界です。ギリシャ神話では、神々の誕生によって世界が創られオリンポスの神々が太陽や宇宙、月、星、海などを支配していったということになっています。人間の認識が前進していくなかで、そういう神話に満足しない問題意識から、「イオニア学徒の哲学」である自然哲学が登場します。自然哲学は、われわれの目の前にある物質世界の多様さを生みだすような根源的な物質は何かを探求しました。その最初の人はイオニア学派のターレスといわれた人で、「万物の根元は水である」といいました。さらにそれを一歩前進させ、地球上にある個々の物質が根元的なものではなくて、もっと抽象化された普遍的なものである「数」こそが根元的なものであると考えたのが、ピュタゴラス学派です。
ターレスの「万物の根元は水である」というとらえ方も、ピュタゴラスの「数」のとらえ方もヘーゲルにいわせればまだ純粋な思惟の産物ではありません。つまり、水も数(すべてのものは質とともに一定の量をもっているわけですから)も、「物質」から完全には離脱しておらず、抽象化された本当の認識とはいえない。ところが「有」「何かが有る」というのは、思想の力のみによる認識であり、はじめてここにおいて、思想が純粋に「物質」から離れて独自の歩みを始めたというのです。だから、エレア学派が本当の意味での哲学の出発点だとヘーゲルはいうのです。
エレア学派
では、エレア学派の弁証法に入ります。
エレア学派のパルメニデスは「有のみがあり、無はない。なぜなら無は認識することも言い表わすこともできないから」といいました。「有」という「思惟の純粋な運動」を初めてとりあげ、客観的実在のうちにおける有と無という対立をみいだしたわけで、この意味で「弁証法の始元」(二一九ページ)だ、とヘーゲルはいっています。さらにここには、「認識とは何か」という主観と客観の関係も問題とされています。レーニンはそこに非常な感動を覚え、「弁証法についてのヘーゲル」(同)との見出しをつけ、ノートに整理しています。
「ここには本質的には弁証法の二つの規定が(定義ではなく、規定が)ある」(同)として、一つは「概念における思惟の純粋な運動」、つまり、主観の面における弁証法的な運動をとらえなくてはならない。二つには「対象の本質(そのもの)のうちに、それ(その本質)がそれ自身のうちに持っている矛盾(を明らかにすること)(あばきだすこと)」、つまり客観の中における矛盾をとらえなくてはならない。これが「本来の意味における弁証法」(二一九~二二〇ページ)である、としています。
つづいて「別な言葉で、ヘーゲルのこの〝断片〟はつぎのように言いあらわされなければならない」(二二〇ページ)として、更にレーニンの弁証法に関する考えを次のように展開しています。
「弁証法は、一般的には、〝概念における思惟の純粋な運動〟である(すなわち、観念論の神秘主義をぬきにして言えば:人間の諸概念は不動のものではなくて、永遠に運動し、相互に移行しあい、相互に流動しあっている、そうでなければ、それらは生きいきとした生活を反映しない。諸概念の分析、諸概念の研究、〝諸概念を運用する技術"(エンゲルス)はつねに諸概念の運動、それらの連関、それらの相互移行の研究を要求している)」(二二〇ページ)。
ここは、エンゲルスの『反デューリング論』のつぎの文章を念頭においているのです。
「いずれにしても、いまや自然科学は、もうこれ以上弁証法的な総括をまぬかれられないところまできている。だが、自然科学上の諸経験を総括した成果が概念であること、そして、概念を運用する技術は、生れつきそなわっているものでも、普通の日常的な意識にともなってあたえられているものでもなくて、ほんとうの思考を必要とするものであり、そしてこの思考は、これまた長い経験的な歴史をもっている点で、経験的自然研究にまさりもおとりもしない」⑺ 。
連関し、運動する事物を、連関から切り離し、固定してとらえるものが、概念ですから、概念を弁証法的に運用しなかったならば、認識としては間違ったものにならざるをえないわけです。概念を対立物の相互移行、対立物の統一としてとらえ、連関と運動を把握するためには、長い経験的な歴史が必要だったのです。
またエンゲルスは、「むりに固定された境界線や類別こそ、近代の理論的自然科学にその狭い形而上学的な性格をあたえたものなのである」⑻ と述べています。人間が抽象化された概念を使って思考せざるをえない以上、概念のもつ相対的固定性から、形而上学的な考え方におちいる危険が常にあるのであって、それをまぬがれるためには「概念を運用する技術」、つまり弁証法を身につけなければならないのです。
エレア学派の「有のみがあり、無は存在しない」ということの具体的な中味をもう少しみてみたいと思います。そのエレア学派の巨匠ゼノンの逆説のことが詳しくノートにされていますので、それを紹介します。ゼノンは、運動は真理をもたないということをいった人物です。なぜ真理をもたないのかというと、運動はそのような矛盾をもっているからだというので、四つの例をあげています。矛盾をもつものの空無性を明らかにしたという意味で、ヘーゲルはゼノンを弁証法の創始者だといっております。
ゼノンの運動反駁
ゼノンにおける運動反駁の一つは、「或る目標にむかって運動しているものは、まずそこにいたる路程の半分を経過しなければならない。そしてこの半分から、まずこの半分の半分を経過しなければならない。こうして無限につづく」(二二四ページ)というものです。ある目標に向かって運動するものは、その目標に無限に近づくことはできるが、絶対に到達できないという結論をだして、だから運動などというものは無であって、真理をもたない、といったのです。
これをどう批判をするのかということに関し、「ヘーゲルは、ディオゲネスが歩いてみせて運動〔運動否定論〕を反駁した逸話を語ってから、つぎのように書いている」。しかし「すなわち、ひとりの弟子がこの反駁で満足したとき、ディオゲネスは彼をなぐりつけた。その理由は、師〔ゼノン〕は論拠にもとずいて議論したのだから、弟子もまた論拠にもとづいた反駁によってのみ師に答えなければならないというのであった」(二二三~四ページ)といっています。
これでは反論になっていないというのです。では真の反駁とはどうあるべきか。「哲学的体系の反駁に関して《虚偽なるものは、その反対のものが真であることを理由にして、虚偽として証明されるべきではなく、それ自身に即して証明されなければならない》」(二二一ページ)と述べています。
ゼノンの逆説は長い間、なぞとされてきたのですが、さすがにアリストテレスはその批判のポイントに気がついていました。「アリストテレスは答えて言った¨空間と時間とは無限に分割されうる(可能的に)、しかし無限に分割されている(現実的に)のではない」(二二四ページ)。「運動は連続性(時間と空間との)と非連続性(時間と空間との)との統一である。運動は矛盾であり、矛盾したものの統一である」(二二五ページ)のです。「運動するとは、この場所にあって、同時にこの場所にあらぬということ」(二二六ページ)であり、レーニンはこの部分に「NB 正しい!」とメモしています。
ゼノンのいい方は、目標までの行程は連続していて、無限に分割されることが可能だから、どこまで行っても目標に近づくことはできるが到達することはないというものです。しかし目標の半分の地点まで到達したということは非連続性をみているのです。連続性、つまり無限分割可能性をいいながら、実際には非連続性の問題を論じているのであり、そこに論理の誤りがあります。アリストテレスはこの点に気がついたわけで、時間と空間は無限に分割されうる可能性をもっているのですが、それでは現実に無限分割をなしうるのかといえば、それはできないのです。
現実に分割されるときには、いくつかの非連続の部分すなわち有限な部分に分割されざるをえないのであって、もはや無限な存在ではなくなるのです。一見、非連続性を論じるようにみえながら、その中に連続性の問題をもちこんでいるところにゼノンの混乱があると反駁しなければならないというのであり、この辺は、なかなか哲学の面白さを感じさせるところだと思います。
ゼノンは、運動というものをとらえようとしたら矛盾におちいらざるをえず、したがって運動というのは真理でないと主張しました。その意味で彼は「弁証法の創始者である」(二二一ページ)けれども、弁証法を否定的なかたちで論じたのです。つまり、矛盾をもつものは空無なものであり、したがって、「有のみがあり、無はない」としたのです。これをヘーゲルは「外的な弁証法」「主観的な弁証法」だといい、それは、「対象を考察し、そのうちにもろもろの根拠や側面を指摘する一つの仕方であって、それによってわれわれは、普通には確固としたものとされているものすべてを動揺させる」(二二一ページ)と述べました。
これに対して本当の弁証法とは何かといえば、「ところで、もう一つの弁証法は、対象の内在的考察である¨対象は、前提、理念、当為なしに、また外的な諸関係、諸法則、諸根拠にしたがってでなく、それ自身において取りあげられる」(二二二ページ)としています。レーニンはこれを「客観的弁証法」とノートしております。
運動(成)は有と無の統一
ここで運動ということについて、今まで講義した点を整理しながらまとめてみましょう。
ゼノンの誤りは、運動における連続性(無限分割可能性)を非連続性(分割完了)と混同しているところにありました。では運動の真の客観的弁証法とは何かというと、「運動は連続性と非連続性との統一である」こと、いいかえれば「ここにあってここにない」、ということです。「ある」と同時に「ない」から「有と無の統一」ということになります。
「ここにある」ということは、一点にとどまっていることであり、非連続性です。非連続性だけですと、「ここにあって、ここにある」ままだから、次の地点に行かない。また連続性だけでとらえると一瞬たりとも「ここにいない」わけですから、ある一点を通過することをいいあらわすことができません。
運動するということは、必ずこの一点を通るのです。なぜこの一点を通ることができるのかといえば、「ここにある」からこの一点をとおり、「ここにない」から次の地点へすすむのです。このように運動を真の弁証法においてとらえることが必要なのです。ここでも「概念を運用する技術」(エンゲルス)が問われているわけです。
この「運用の技術」を誤るとどうなるのでしょうか。
「困難をつくりだすものはつねに思惟である、なぜなら、思惟は現実において結合されているところの、対象の諸契機を、それら相互の区別において考察するからである」(二二七ページ)。運動というのは、実際には「ここにあってここにない」という二つのものが結合しています。ところが人間の思惟というのは結合されたものをバラバラにするわけで、「ここにある」ということだけでとらえたり、その対立物である「ここにない」だけを切りはなしてとらえます。この二つを混同したのが先ほどのゼノンの例でした。
ですから人間が概念を使って物事を思考する場合に、現実に結合されている対立物を区別したままにしておくことによって、真理をとらえそこなう危険が常にあるのです。
これに対し、運動のもつ矛盾を回避しようと試みたのがチェルノフという人であり、彼は「運動とは、物体が一定の瞬間には一定の場所にあり、つぎの他の瞬間には他の場所にあるということである」(二二六ページ)と説明しました。なるほどこの記述の中に矛盾はありませんが、では、これで本当に運動をとらえたことになるでしょうか。
レーニンはこれを次のように批判しています。
「この反駁は正しくない:(一)それは運動の結果を記述しているが、運動そのものを記述していない:(二)それは運動の可能性をしめさず、それを包含していない:それは運動を静止状態の総和、連関として描きだしている、つまり(弁証法的)矛盾はそれによっては除去されず、たんにおおわれ、わきへよせられ、かくされ、ヴェールを掛けられているだけである」(二二六ページ)。ある瞬間にここにあり、次の瞬間には次のところにあるというのでは、なるほど運動の結果としてそうなっていることは分るが、ではどうして次のところまでいっているのかが何ら説明されていないのです。チェルノフの理解は「運動を静止状態の総和」、つまり非連続性の点の総和としてとらえているわけです。しかし点の総和では運動の結果は記述できても、運動の原因は説明しえません。同じような問題でこの他に、「アキレスは亀に追いつかない」、「飛んでいる矢は静止している」、「二分の一は二倍に等しい」などのゼノンの逆説がテキストに出ていますが、割愛いたします。
ヘラクレイトス
こうしてエレア学派の「有のみがあって、無はない」とする見解は正しくないということになるわけで、そのエレア学派をのりこえて誕生したのがヘラクレイトスの哲学です。
ヘーゲルは「ヘラクレイトスの命題で、私が私の論理学のうちに取りいれなかったものは一つもない」(二二九ページ)と述べるほどヘラクレイトスを高く評価していますが、そのなかでも「成」のカテゴリーを自己の哲学に取りいれたのです。マルクスもまたギリシャ哲学の中で私が好きなのはアリストテレスに次いでヘラクレイトスだといっております ⑼ 。なぜヘーゲルやマルクスが注目したのかというと、ヘラクレイトスは運動一般を弁証法的にとらえた最初の人だからです。彼の有名な言葉として「万物は流転する(Panta rhei)」とか「闘争は万物の父であり、万物の王である」などが残っています。
しかし、もっとも注目すべきは、「有と非有とは真理のないただの抽象物であり、第一の真なるものはただ生成のみである」(二二九ページ)というものです。つまり有と非有(無)の統一としての生成だけが真理であり、有だけあるいは非有(無)だけというのはいずれも真理ではない、というのです。弁証法の最も普遍的形態は何かと問われたら、運動そのものを表現した「有と無の統一は成である」という命題だと思います。
ヘラクレイトスにおいてはじめて、真の客観的弁証法が登場したのです。テキストに「おのおのは、自己の他者を即自的にその概念のうちに含んでいるかぎりにおいてのみ、有るのである」(二三〇ページ)とありますが、定有するもの、或るものは、そのうちにそのものを否定する他のものを含んでおり、それゆえに他のものに移行するのです。レーニンは、「自己の他者としての、自己の対立物への発展としての〝他者〟── は、きわめて正しくまた重要である」と書きしるしております。この有と無の統一としての成というカテゴリーをヘラクレイトスが最初にとらえ、それをヘーゲルが学んで、「有ならびに無の真理は成」「成は最初の具体的な思想であり、これに反して有と無とは空虚な抽象物」⑽ と述べたのです。
近代の自然科学はこの弁証法を見失ってしまいます。この点は、エンゲルスが『空想から科学へ』のなかで強調した点であり、自然を個々の部分に分解して研究する自然科学は、事物の全体的連関と運動を見失う形而上学を生み出したのです。ヘーゲルはヘラクレイトスの弁証法的自然哲学に比べて、「自然科学者たちの狭隘性」(二三一ページ)を指摘しています。「彼ら自然研究者たちの言うところを聞くと、彼らはただ観察し、自分が見るものを語るだけである:しかしこれは真実ではなく、彼らは、見たものを直接に概念によって無意識に変化させている。そこで争いは観察と絶対的概念との対立ではなくて、絶対的概念にたいする狭隘な固定した概念の対立である。彼らは変化を存在しないものとして示す」(二三一ページ)。自然科学者は或るものを概念によってとらえますが、概念は相対的固定性をもっていますから、客観的事物を全般的連関、連続のなかから切りはなし、動かないものに変化させてしまうのです。形而上学的反映は、客観世界の連関・連鎖、運動・変化・発展を見失います。いうなれば「世界は運動し、概念は固定する」のです。人間が思惟するうえで不可欠の形式であり必要としている「概念」は、そういう危険性をつねにはらんでいるのです。
レーニンは次のようにまとめています。
「非常に正しくまた重要である―まさにこのことをもっと大衆むきの形でくりかえしたのはエンゲルスである、すなわち彼はこう書いている。自然科学の諸成果が概念なのであり、概念をうまくあやつる術は生まれつきのものではなくて、自然科学と哲学との二〇〇〇年にわたる発展の結果であるということを、自然研究者たちは知らねばならない、と。自然科学者たちにあっては、転化の概念が狭隘であり、彼らには弁証法の理解がない」(二三二ページ)。
三、ヘーゲルの「対自有(向自有)」と「概念」の関連
原子論
つぎは、レウキッポスです。デモクリトスと合わせて両者は、原子論者と呼ばれております。この二人は、世界の根元はこれ以上分析不可能なアトムであるといった人たちで、唯物論的な哲学者です。レーニンは「ここには非常に深くて正しい、本質において唯物論的な思想(現実の歴史が土台、基礎、有であり、意識はそのあとを追って行く)がある」(二三三ページ)と書いていますが、全くその通りだと思います。人間の認識は客観世界を反映するわけですから、哲学の歴史はその反映が深まっていく歴史であり、論理的なカテゴリーが次第に発展していく歴史となります。
原子論者は、世界の根本が原子と空虚とから成っていると考えました。原子とは、もうこれ以上分割できない最終的な物質の単位をなすもので、それが無限な空虚の中を運動し、原子相互の間で結合したり分離することによって多様な世界が生まれると説明したのです。拙著『ヘーゲル「小論理学」を読む』の中で、現在の量子力学における「場の理論」を先取りしているのではないかとコメントしたことがあります。原子論者は、物質の根本を原子や素粒子だけでとらえるのではなく、それを空間との統一としてとらえるのです。素粒子の運動をみた場合、運動する場が必要であり、場の動きの中で物質が生まれるというのが今の量子力学の考えです。そういう意味で原子論者の弁証法的な考えは、物質そのものを解明するうえで先見的なものだったのです。
さらにレウキッポスやデモクリトスが原子を一者ととらえ、その一者から万物が成りたっているとして、一と多の弁証法の関係をとらえました。この点を、ヘーゲルは非常に高く評価し、そこから向自有(一者)というカテゴリーを引き出しています。
ヘーゲルは「最も根本的なものは、一者、向自有である。この規定は、我々がこれまでもたなかった偉大な原理である。パルメニデスは有または抽象的普遍を、ヘラクレイトスは過程を立てた。向自有の規定はレウキッポスのものである」(11十)と述べています。
ヌース=内的目的性=概念
つぎにアナクサゴラスですが、彼は「ヌースは、〝世界とすべての秩序との原因〟である」(二三六ページ)といった人です。物質世界、客観世界は一定の秩序をもった統一体をなしています。ではどうしてそのような統一体をなしているかというと、それはヌースというものが支配しているからだととらえたのです。ヌースというのは自然に内在する法則です。
「客観的な思想……世界のうちにあり、また自然のうちにもある、理性、―あるいはわれわれが自然のうちにある諸類について語る場合にそうであるように、それらは普遍的なものである」「この法則、この悟性、この理性が、それ自身、自然に内在しており、自然の本質なのである;自然は、人間が椅子を作るように、外から形づくられるものではない」(二三六ページ)。
このヘーゲルの記述に、レーニンは非常に注目しています。つまり自然は外から神が作ったものではなく、それ自身がもつ内在的な法則によって自分を生み出してきているというのです。自然は自然自身の法則、自然のもつ内的な目的性によって発展してきているものであって、それがアナクサゴラスのいうヌースという言葉で表現されている、ととらえたのです。客観世界は秩序をもった一つの統一体として動いている。それを動かすだけのものが内部にあるはずであり、それをヌースとしてとらえたところに、アナクサゴラスの偉大さがある。レーニンもNBとメモし、「類概念は〝自然の本質〟であり、法則である」ととらえています。
すべてのものの運動、変化、発展する見地をヘーゲルは徹底して貫くわけです。では、客観世界は、何故、運動、変化、発展するのかということが当然論じられなければなりません。ところが、ヘーゲルの時代には、まだ自然科学が未発達ですから、宇宙がどのように発生してきたのか、生物の種がどのように進化してきたのかを語ることができないわけです。
しかし、世界に内在する法則があるのではないかということをヘーゲルは洞察するわけで、それが何であるか自分にははっきりわからないが、いうなればアナクサゴラスの「ヌース」であるとして、そこからヘーゲルは「概念」あるいは「理念」というカテゴリーを引き出しているのです。
ヘーゲルは客観的観念論者なのですが、科学が未発達であったがゆえにそうならざるをえなかった面があることも指摘しておかなければならないだろうと思います。
また、当時の唯物論は機械的唯物論なのです。彼にとっては、人間を機械の寄せ集めであるかのように考える唯物論に我慢がならないわけです。ヘーゲルはたしかに観念論者ですけれども、観念論者だから間違いで、学ぶべき点がないというような反駁の仕方では駄目なのです。
やはり、われわれがヘーゲルを批判するときに、その認識論的な誤りの根拠にまでさかのぼって批判し、積極的なものを汲み取る姿勢が大切です。
テキストに戻りましょう。「概念は、事物が即自かつ対自的にあるところのものである」(二三七ページ)とありますが、前後関係の文脈が省略されていてここだけでは分りにくいので、説明しましょう。
アナクサゴラスはヌースを内的目的性としてとらえています。内的目的性というのは、客観世界自身の中にあってそのものを発展させるような内的な要因であり、しかもその発展というのは一つの方向性をもった発展で、ヘーゲルのいう「概念」なのです。発展といっても、目的がなくては多方面への単なる変化になってくるだけです。今は右を向いて走ったかと思えば、次には左を向いて走る、今度は後向きに走るという具合に……。しかし、生物の種の進化をみても、そのような無秩序な変化ではなくて一定の方向性があるのです。つまり、無生物から生物に前進し、生物も単細胞生物から多細胞生物へ、そして魚類から両棲類、爬虫類を通じて哺乳類へと進化にも一定の方向性があるわけです。そういうものをヘーゲルは内的目的性と呼んでいるわけです。アナクサゴラスのヌースには内的目的性があるとヘーゲルはとらえて、彼の目的論を展開しています。エンゲルスも『反デューリング論』のなかで非常に高く評価しております。「目的」というと意識をもったものにしか存在しないかのように勘違いしているデューリングを批判し、ヘーゲルがいっているのは内的目的性を「事柄そのものの必然性のうちにふくまれている目的」⑿ だととらえています。
アナクサゴラスのヌースにおける目的というのは、「草は動物に喰われるためにある」のような、外的目的のことではなく、内的目的性(概念)なのです。したがって「概念こそ実は〔客観的な〕目的であり、真の原因である。しかも自分に帰還する原因である」⒀ ということになります。
つまり、ヌースというのは客観的な内的目的として世界を発展させる真の原因になっているものであり、それを自分は「概念」と呼んでいると、ヘーゲルはいうのです。
⑴ ヘーゲル全集⑪『哲学史』上六一ページ。
/長谷川宏訳『哲学史講義』(河出書房新社)上三五ページ。
⑵ マルクス・エンゲルス全集㊳一七〇ページ。
⑶ 同、㊳四二八ページ。
⑷ 同、㊳a二二ページ。/新日本新書版『資本論』①二八ページ。
⑸『小論理学』㊤二六四ページ。
⑹ マルクス・エンゲルス全集㊳一七〇ページ。
⑺ マルクス・エンゲルス全集⑳一四~一五ページ。
/『反デューリング論』①、国民文庫一七~一八ページ。
⑻ 同、一四ページ。/同、一七ページ。
⑼「ラサールあて手紙 一八五七年一二月二一日」
マルクス・エンゲルス全集㉙四二七ページ。
⑽『小論理学』㊤二七〇ページ。二七五ページ。
⑾ ヘーゲル全集⑪『哲学史』㊤三九〇ページ。
/長谷川訳『哲学史講義』㊤二九七ページ。
⑿ マルクス・エンゲルス全集⑳六九ページ。
/『反デューリング論』①、国民文庫、一〇一ページ。
⒀ ヘーゲル全集⑪『哲学史』㊤四四一ページ。
/長谷川訳『哲学史講義』㊤三三三ページ。
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