『科学的社会主義の源泉としてのルソー』より
第一一講 科学的社会主義と人民主権論
一、人民主権論とプロレタリアート執権
パリ・コミューンの教訓
パリ・コミューンは、文字どおり、「人民の、人民による、人民のための国家」でした。それはルソーのいう人民主権論と直接民主主義を体現した人民主権国家でした。ルソーの人民主権論は、パリ・コミューンをつうじて、プロレタリアート執権という概念と結びつき実質的にマルクス、エンゲルスの創始した科学的社会主義の理論にとりこまれていったのでした。
一八七一年のパリ・コミューンは、フランス大革命のときのパリ・コミューンを再現したものでした。一七九二年八月一〇日、パリの市民は、外敵と結んで革命を押しつぶそうとする国王にたいして立ち上がり、王制廃止と第一共和制をかちとる「八月革命」を実現しました。この八月革命と第一共和制を推しすすめる原動力となったのが、サン・キュロットによる下からの自治組織パリ・コミューンでした。パリの諸区は、ひとつの中央委員会をつくり、それを常設機関としました。そこには、受動的市民、手工業者、商店主、また国民衛兵も加わり、ロベスピエールと山岳派に導かれ、はじめて人民が輝かしく歴史の舞台に主人公として登場したのです。
同様に一八七一年のパリ市民は、国防政府が「共和国」でありながら人民主権にそむいて外敵と結び、パリ市民を抑圧、弾圧をしようとする行為が許せなかったところから、再び大革命の経験に学びパリ・コミューンを結成したのです。
一八七一年、コミューン結成の直前、二月一九日各区パリ市民による「監視委員会」は、二〇区代表団とともに、次の「原則宣言」を発しました。
「すべての監視委員会のメンバーは、革命的社会主義党に属すると宣言する。したがってあらゆる可能な手段によって、ブルジョワジーの特権の廃止、ブルジョワの支配階級としての失権、労働者の政治的支配、一言でいえば社会的平等を要求し、追及する。雇傭主階級も、プロレタリアも、階級(そのもの)も、もはや存在しない。労働を社会構成の唯一の基礎と認める。この労働の全成果は、労働者に帰すべきである。
政治的領域においては、共和制を多数決原理の上におく。それ故に、多数者が国民投票という直接的手段によるにせよ、彼らの道具である議会という間接的手段によるにせよ、人民主権の原則を否定する権利を認めない」(桂圭男『パリ・コミューン』九七ページ岩波新書)。
ここでは、搾取と階級の廃止という社会主義的要求が、「人民主権」と結びついて提起されていることに注目したいと思います。しかも、その人民主権は、「共和制」と同義にとらえられ、多数決原理にもとづく全体意志ではなくルソーのいう一般意志の実現として理解されているのです。「共和制を多数決原理の上におく」というのは、「一般意志にもとづく人民主権の共和制を多数決原理の上におく」という趣旨に理解すべきものでしょう。
コミューン史家のシューリは、この「原則宣言」の要求する権力を「プロレタリアート執権」と規定していますが(同九八ページ)、これは、プロレタリアート執権と人民主権論とを一体不可分の関係としてとらえたうえでのものといっていいでしょう。
二〇区代表団(二〇区共和主義中央委員会)は、三月二六日のコミューン選挙を前にして、次の選挙宣言を発表しています。
「コミューンは、家族が社会の胚珠であるように、あらゆる政体の基礎である。
コミューンは自律的でなければならない。すなわち自らを統治し、その特殊的能力、伝統、必要にしたがって自己管理し、政治的、国民的、連合的集団の中で、完全な自由と個性と、都市の中の個人としての完全な主権とを保持する、道徳的人格として存在しなければならない」(同一三三ページ)。
コミューンは、治者と被治者の同一性を実現する人民主権国家を目指していたのです。一八七一年のコミューンは、一七九二年のコミューンの復活を目指したものでした。
しかしそこには、ある意味で決定的な違いがありました。一七九二年コミューンは、サン=キュロットという被抑圧人民の連合であり、人民をリードする特別の階級は存在しなかったのにたいし、一八七一年のコミューンでは、一八四八年の二月革命以来頭角をあらわしてきた労働者階級が、被抑圧人民全体をリードし、組織し、指導する役割を担って登場してきたのです。
労働者階級は、パリ・コミューンをつうじて、「社会的主導性を発揮する能力をもった唯一の階級」(全集⑰三二〇ページ)であることを証明しました。「パリの中間階級の大多数──小店主、手工業者、商人」のあいだに「たえずくり返されるあの争いの原因──債務者と債権者の勘定の問題──を賢明に解決して」(同)、中間階級をコミューンの旗のまわりに結集して、人民が社会の主人公となる人民主権の政治を実現しようとしたのです。
エンゲルスは、「パリ・コミューンをみたまえ。あれがプロレタリアートの執権だったのだ」(全集⑰五九六ページ)とのべ、マルクスは「それは、本質的に労働者階級の政府であり、・・・・・・労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった」(同三一九ページ)と指摘しました。
コミューンはプロレタリアート執権
彼らが、人民主権国家・コミューンをあえて「プロレタリアートの執権」、「労働者階級の政府」とよんだのは、労働者階級の指導のもとに実現された人民の権力であり、この点に一七九二年コミューンとの違いを見出したからでした。
「プロレタリアート執権」は、その出発点において、人民主権論と結びついた概念だったのであり、新しい情勢下で、労働者階級の役割をいち早く見出したマルクス、エンゲルスの慧眼は高く評価されるべきものです。
しかし、あえていうならば、マルクス、エンゲルスが、一八七一年のコミューンをプロレタリアート執権という新しい概念でとらえるのであれば、それがルソー以来用いられてきた「人民主権論」と結びついた人民主権国家であることを、もっと明確に語るべきだったものと思われます。
しかし、マルクスは、「フランスにおける内乱」のなかで、コミューンを一方で「人民による人民の政府」(同三二三ページ)、「人民自身の政府」(同三三五ページ)とよびながら、他方で「労働者階級の政府」(同三一九ページ)、「真に国民的な政府であったが、それと同時に、労働者の政府」(同三二三ページ)と称するにとどめて、その両者の関係を必ずしも明らかにしていません。
パリ・コミューンを「プロレタリアート執権」の現実態としてとらえる新しい問題提起は、全世界をゆさぶるほどの大きな理論的影響を与えました。その問題提起が強烈であり、しかもそれが人民主権論と結合した概念であることが明示的に語られなかったところから、それ以後プロレタリアート執権が、「人民が主人公」の人民主権国家の見地から切り離されて一人歩きする理論的余地を残したのでした。
それは残念ながら、その後の歴史のなかで現実のものとなってしまったのです。
プロレタリアート執権論の一人歩き
科学的社会主義の理論に新しく登場した「プロレタリアート執権」の概念は、ロシア革命のなかで生まれた「ソビエト」(評議会)という大衆的政治的組織と結びつき、革命を指導したレーニンのもとで、大きく歪曲されていきます。
レーニンは、労働者、兵士、農民などの各代表ソビエトを「新しい革命権力機関」ととらえ、この特殊な権力を、普遍的意義をもつ「プロレタリアート執権」と同一視します。そのうえで、この執権概念を「なにものにも制限されない、どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接強力に依拠する権力以外のなにものも意味しない」(レーニン全集⑩二三三ページ)と規定しています。
ここでは、もはや労働者階級が人民の導き手となり、人民が主人公となる権力という執権概念の当初の意味が全く損なわれ、それは「直接強力に依拠する権力」として、強力革命必然論、労働者階級の無制約的権力論に転化させられてしまったのです。
そしてこの執権論は、ついにはスターリンの時代に労働者階級の政党としてのソ連共産党の一党支配を合理化する理論となり、人民主権論から完全に切り離されたのみならず、人民抑圧の理論にまでおとしめられてしまい、ソ連、東欧崩壊の一因となってしまったのです。(詳しくは『人間解放の哲学』一四〇ページ以下参照)。
また、他面からいえば、プロレタリアート執権論が一人歩きすることにより、「人民が主人公」の見地が科学的社会主義の学説と結びつけて正面から議論される機会もまた奪われていったのです。
しかし、科学的社会主義の学説が、搾取も抑圧もない真に平等で自由な人間関係からなる共同社会、という人間解放の社会を唱えている以上、人間解放につながる人民主権論とフランス共産主義の影響から逃れることのできないのは当然のことでした。
こうして、人民主権論は、いわば、科学的社会主義の学説の地下水脈として流れつづけ、レーニンの死後、ふたたびその姿を歴史の舞台に登場させることになるのです。
二、人民戦線と人民民主主義
反ファシズム統一戦線
第一次大戦がはじまると、第二インターはこの帝国主義的植民地争奪の侵略戦争を、「祖国防衛戦争」と称してこれに協力・加担したため崩壊し、レーニンの手によって、一九一九年三月第三インター(コミンテルン)が結成されます。
一九三〇年代になると、経済危機を背景として、日本、ドイツ、イタリアなどでファシズムが台頭してきますが、同時に、中国、フランス、スペインなどで、反ファシズムのたたかいも前進します。
こうした状況のなかで、一九三五年七月モスクワでコミンテルン第七回大会が開かれ、ファシズムに反対し、国際平和をいかに実現するかが議論されました。
それまで、コミンテルンは、侵略戦争に協力した社会民主主義者を「社会ファシズム」だとして、ファシズムと同列におく批判をくわえていました。
しかしナチスの国会放火デッチ上げ事件の被告人としてたたかうなかで、反ファッショのたたかいの方向性に確信をもったコミンテルン書記長ディミトロフは、反ファシズム人民統一戦線を提案します。それはファシズムに反対することが広範な人民の当面の要求になっているところから、共産党と社会民主主義政党との共同を軸に、反ファシズムの一点で一致する広範な人民の統一戦線を打ち樹て、ファシズムに反撃していこうというものでした。これは、「社会ファシズム論」の誤りを克服し、人民が主人公、人民主権の基本的立場に立って、すべての被抑圧人民の結合を訴える画期的な方向転換を示すものでした。
「人民戦線は、これを個々の国に適用したばあい、労働者階級と農民と都市中産階級の大部分との未曾有の同盟を発展させるという、共産主義者にとってまったく新しい政策を意味した。その国の国民の大多数をふくむこのような広範な結合がはっきり要求することは、今後共産主義者は、たんに労働者階級の名においてだけでなく、全国民の名において発言しなければならぬ、ということであった」(フォスター『三つのインターナショナルの歴史』四三八ページ、大月書店)。
このよびかけにこたえて、「膨大な人民大衆、あらゆる国の人口の大多数を動員するという見通しをたてれば、当然、人民戦線政府の樹立の可能性という問題が出てこざるをえない。大会はこの問題にとりくんだ」(同四三五ページ)。
反ファシズムのたたかいの先頭にたっていたスペイン、フランスでは、このよびかけをうけて、一九三六年あいついで人民戦線政府が誕生します。
スペインでは、ヒトラーとムッソリーニの支援をうけたフランコが、誕生した人民戦線政府に反乱を起こします。全ヨーロッパとアメリカの共産党は、スペイン共和国を救えとよびかけ、実に三万から四万の国際旅団が結成されました。ヘミングウェーの『誰がために鐘はなる』は、このときのアメリカからの国際旅団とスペイン共和国軍との共闘をえがいたものです。
結局三年間の戦闘ののち、一九三九年三月、マドリードは陥落し、内乱は終わりますが、スペイン人民戦線の輝かしい闘争は、末永く人々に語りつがれるところとなり、また、第二次大戦後の人民民主主義諸国の誕生につながっていくのです。
ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビアなどの東欧諸国は、第二次大戦後ファシズムの手から解放されると、地下のレジスタンス運動に参加してきた反ファッショ勢力を結集して全国政府の樹立にすすみました。
「その結果生まれた人民民主主義は、事実上、一九三五年共産主義インターナショナル第七回大会がうちだした反ファッショ戦線政策を、さらにおしすすめて適用したものであった」(同五〇五ページ)。
人民民主主義諸国に共通しているのは、いずれも人民主権、普通選挙、議会制民主主義と、民主共和制を共通の課題としながら社会主義を建設しようとするものであり、いわばソビエト型社会主義を否定するものとして登場してきたのです。
ここにルソーの人民主権論は、バブーフ以来、約一五〇年の歴史を経て、ここに公然と社会主義・共産主義の理論と結合して登場するに至りました。
そこで人民民主主義の憲法を、ユーゴスラビア、ポーランドの順でやや詳しくみていきましょう。
人民民主主義共和国
まずユーゴは、ソ連軍の援助によらず、唯一自力でドイツの占領から国土を解放したところから、独自の社会主義をめざすことになりました。「ユーゴスラビア連邦人民共和国憲法」(一九四六年)をみてみると、ユーゴが「共和国型の同盟的人民国家」であり、「すべての権力は人民から発し、人民に属する」(宮沢俊義他編「人権宣言集」三〇〇ページ、岩波文庫)と、人民主権が明記されています。それに続いて、「人民は自由に選挙された国家権力の代表機関、すなわちファシズムと反動に対する民族解放闘争の中で発生および発展」した、各段階の「人民委員会を通して自分の権力を行使する」(同)と規定され、共和国が反ファッショ人民戦線の延長線上のものであることが、特記されています。
また「国家権力のすべての代表機関は、普通、平等および直接の選挙権にもとづいて、秘密投票により、市民によって選挙される」(同)として、近代選挙法の原則がそのまま採用されています。普通選挙は制限選挙に、平等選挙は一票の価値に差を設ける等級選挙に、直接選挙は間接選挙に、それぞれ対立する概念であり、すべての人民は、労働者階級も含めて、選挙権において平等であるとされています。
しかし、間接民主主義は、人民の意志に離反する危険がありますから、半代表制、半直接制の考えがとりいれられなければなりません。そこで、「国家権力のすべての機関における人民の代表者は、自分の選挙人にたいして責任を負う」として、代表者は、人民の公僕である趣旨がとりこまれ、さらに「選挙人がどのような場合に、どのような条件で、またどのような方法で自分の人民代表者を、かれらが選挙された任期の満了前にリコールすることができるかは、法律によって定められる」(同三〇〇、三〇一ページ)とされています。「国家権力のすべての機関」がリコールの対象とされているところに、ルソーの直接民主主義、パリ・コミューンの教訓をみることができます。
「市民の権利および義務」も、近代民主主義の諸原則を、より発展させたものとなっています。
ユーゴは、多民族国家として、民族問題、宗教問題を抱えていたところから、民族的、人種的、宗教的平等を強調するとともに、「民族的、人種的、もしくは宗教的な憎悪および敵意のあらゆる宣伝は、違憲であり、処罰せられる」(同三〇三ページ)とされていました。このことは、民族問題、宗教問題も、政治的民主主義をつらぬくことによって解決しうることを示すものであり、けっして、これらの問題をもって、解決不能な国際紛争の原因となしえないことを示しています。
一八才以上の普通選挙権、男女同権、良心、言論、出版、集会、結社、示威行進の自由、人身の自由、などに加え、科学・芸術の自由が保障されているのは注目されます。また「結婚および家族は国家の保護を受ける」(同三〇五ページ)というのも、社会主義的政策といえます。
また社会権にかんして、「各市民は自分の能力におうじて労働する義務を有する。社会に与えないものは、社会から受取ることはできない」(同三〇六、三〇七ページ)とあるのも、国家が労働する機会を保障し、失業者をださないことを前提としているものといっていいでしょう。「国家は保健業務を組織し、病院、薬局、保養所、治療所、休息の家およびその他の医療施設を設置し、これらの活動を監督することによって、人民の健康について配慮する」(同三〇七ページ)という規定は、とても新鮮な感じがします。また、「国家は住民のすべての層に学校およびその他の教育および文化施設への入学を保障する。国は青年に特別の注意をはらい、かれらの教育を助成する」(同三〇七ページ)と、教育権も保障されています。
社会主義・共産主義は、生産手段の社会化による搾取の廃止を基本的特徴としていますが、この点もなかなかユニークなものとなっています。
「共和国における生産手段は、全人民的財産すなわち国家の手中にある所有か、または人民協同組合の所有か、または私的な自然人および法人の所有」(同三〇一ページ)として、一定程度生産手段の私的所有をも保障し、「市場経済をつうじての社会主義」への道を探求しています。
次に「ポーランド人民共和国憲法」(一九五二年)について、ユーゴ憲法と異なるところを中心にみていきます。
ポーランドは、ナチス・ドイツの支配に反対する人民戦線・ポーランド国民解放委員会が、戦後政権を握り、人民民主主義国家への道を歩みはじめます。「ポーランド人民共和国は人民民主主義の国家である」(宮沢俊義「世界憲法集」第二版三二二ページ、岩波文庫)と第一条で宣言され、「勤労人民は、普通、平等、直接選挙権にもとづき、秘密投票」により代表選出をしますが、「人民の代表者は、自分の選挙人にたいして責任を負い、かれらによって解任されることができる」(同)とされています。
「共和国の法は、勤労人民の利益と意志の表現である」として、法を一般意志の表現とするルソーの考えも導入されています。
特徴的なことは、人民の意志を国家機関に反映させるための、独特の規定をもっていることです。
「すべての国家権力機関と行政機関は、その活動にあたって、非常に広いはんいの人民大衆の意識的、積極的な協力をたよりとし、さらに次のことをしなければならない。
一、自分の活動について国民に報告する。
二、拘束力をもつ法律にしたがってなされた市民の正当な提案、苦情および希望を注意深く検討および考慮
する。
三、国家的、経済的および文化的な活動の個々の部門について、人民権力の政策の基本的な目的と指針を勤労 大衆に説明する」(同三二三ページ)。
また、地方自治体に相当する機関は、「国民評議会」とよばれていますが、ここではさらに人民主権と人民意志の尊重が強調されています。
「国民評議会は、勤労人民の意思を表現し、国民の力、福祉および文化をますために勤労者の創造的なイニシァティヴと積極性を発展させる」(同三三三ページ)。
「国民評議会は、国家権力と都市および農村の勤労人民とのむすびつきを強化し、非常にひろい範囲の勤労大衆を国家の統治に参加させるようにする」(同)。
いずれも、九三年憲法やパリ・コミューンの経験をいかして、いかに人民の意志を忠実に国政や地方政治に反映するかに腐心し、人民主権をより発展させたものにしようと工夫を重ねています。
しかし、自主的、民主的な社会主義への道を歩もうとしたユーゴは、ソ連共産党のいいなりにならなかったところから、スターリンの激しい干渉を受け、「帝国主義の手先」ときめつけられてしまいます。
こうして、ユーゴの「チトー主義」との闘争以降、東ヨーロッパ諸国の人民民主主義の道はソ連によって批判の対象とされ、その後の自主的・民主的な社会主義への道は、五六年のハンガリー事件、六八年のチェコ五ヶ国軍隊侵入事件、八〇年代のポーランド問題など、ソ連がことごとく軍事力によって押しつぶしてきたのです。
しかし、東ヨーロッパ諸国の探求した人民民主主義共和国への道は、人民主権論と科学的社会主義を結合させ、合法則的な社会発展を示したものとして、不滅の輝きを放っています。
三、日本共産党と人民主権論
日本共産党の創立
第一講でお話ししたように、日本最初の社会主義政党「社会民主党」を結成した幸徳秋水は、東洋のルソー・中江兆民の弟子でした。彼は、ルソーの思想をつうじて社会主義の理論に到達したのです。
同党の宣言は、「階級制度を全廃する」という社会主義的要求を掲げてはいたものの、「天皇制廃止」を正面から掲げることなく、当面の行動綱領として「普通選挙法」を掲げるにとどまっていました。九三年憲法が、はじめて普通選挙を人民主権の立場にたって導入したことからしても、この要求が、人民主権論に根ざしたものであったことは否定できませんが、それはまだ絶対主義的天皇制との対決を避けるため、暗示されるにとどまっていました。
社会民主党は、ただちに治安警察法により解散させられますが、日本における科学的社会主義の理論に、人民主権論をもち込むうえでの先駆的役割を果したのです。
幸徳、堺利彦らは、「平民新聞」で一九〇四年に『共産党宣言』を、雑誌「社会主義研究」で『空想から科学へ』を、それぞれ翻訳、紹介し、しだいにマルクス主義(科学的社会主義)に接近していきます。
幸徳は、一九一〇年「大逆事件」のでっちあげで死刑にされますが、幸徳とともに活動してきた堺は、山川均、近藤栄蔵らとともに、一九二二年七月一五日科学的社会主義の政党・日本共産党を設立します。
同党は、一九二三年三月、臨時党大会をひらき、あたらしい日本への進路を示す「綱領草案」を検討しました。
この草案は、政治的分野の要求の第一に「君主制の廃止」を掲げ、「一八歳以上の男女の普通選挙権」を要求しました。
これは、「日本共産党がなしとげるべき中心的な任務として、国民の苦しみのおおもとにある天皇絶対の専制政治をやめさせ、主権在民の民主政治をつくる民主主義革命の旗をかかげ」、「民主主義革命を完成させ、ひきつづいて社会主義革命に前進するという革命の展望をあきらかにした」(『日本共産党の八〇年』二一ページ、同党中央委員会出版局)ものでした。ここに人民主権論は、たんに民主主義革命の問題のみならず、社会主義日本においても貫かれるべき科学的社会主義の理論の中心的な柱の一つに位置づけられたのです。
これは、ルソーにはじまった「フランス共産主義」の流れを継承し、ソ連流のプロレタリアート執権論の一面性を克服した貴重な理論的遺産となるものでした。以後同党の綱領は、そのときどきの情勢の変化につれて、発展していきますが、人民主権論は、同党を一貫してつらぬく理論的主柱として今日に至っているのです。
また、帝国憲法第一条に、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と定め、戦争と軍事を、「天皇の大権」とすることによって、日清、日露の侵略戦争をおしすすめていった天皇制の体制のもとで、この「君主制の廃止」を主権在民の立場から掲げたことは、当時の状況からしても画期的意義をもつものでした。
「天皇制にたいするいっさいの批判が過酷な刑罰によって禁止され、一九一〇年代以降のいわゆる『大正デモクラシー』とよばれる民主主義運動の高揚期にも、『民本主義』など天皇主権論のわく内での普通選挙権や議会の権限拡大をもとめる主張が支配的だった状況のもとで、日本共産党が、日本の政党としてはじめて綱領草案に君主制の廃止を明記したことは、日本共産党の先駆的、科学的な展望と不屈の革命的気概をしめしたものであった」(『日本共産党の七〇年』上、三七ページ、同党中央委員会)。
戦前の日本共産党は、生まれながらにして非合法とされましたが、社会民衆党や社会大衆党など、一般に社会主義をなのる政党は、一九四〇年に「大政翼賛会」という挙国一致の戦争推進体制に至るまで、合法政党として、その存在が認められていました。というのも、これらの政党は、「財閥打倒」とか、「社会主義」を口にはしても、最大の問題である天皇制を正面から問うことをしなかったからです。
希代の弾圧法、「治安維持法」は、日本共産党とそれ以外の「社会主義」政党とを、この点ではっきり区別して、日本共産党にねらいをさだめて弾圧を加えるものでした。
すなわち、一方で「国体変革」、つまり天皇制の体制を変革することを目的とした日本共産党の組織者には、死刑または無期という極刑を課すことができました。しかし他方で「私有財産制度」を否認することを目的とした他の政党、つまり「社会主義」政党を組織するものは、一〇年以下の懲役という比較的軽い刑にとどめられたのです。
「だから、誕生のその時から、日本共産党にたいする弾圧と攻撃は、言語を絶するものがありました。日本の支配者が、こうしてわが党に攻撃を集中した理由は、『日本共産党が社会主義、共産主義の党だ』というところにあったのではなかったのです。日本共産党が、天皇制を否定して、本気で民主主義を求める党だ、天皇の名でおこなわれる戦争に反対する党だ、ここに、戦前の日本共産党弾圧の最大の理由がありました」(不破『日本共産党綱領を読む』四三ページ、新日本出版社)。
新憲法の制定と日本共産党
日本共産党は、激しい弾圧にもかかわらず、けっして、主権在民と侵略戦争反対の旗をおろすことはありませんでした。
「日本共産党以外のすべての政党が侵略戦争に協力、加担したなかで、人類史の進歩への確信に燃え、理性の光にてらされて、命がけで侵略戦争に反対し、主権在民の旗をかかげつづけた党が存在したことは、日本の戦前史の誇りです」(『日本共産党の八〇年』六七ページ)。
ファシズム連合の最後の一員となった日本は、一九四五年敗北。反ファッショ連合国を代表するアメリカ、イギリス、中国、ソ連の署名による「ポツダム宣言」は、帝国主義・軍国主義の日本を、平和で、民主的な日本に転換させる対日占領政策を打ち出し、アメリカ占領軍の支配下に、新憲法の制定が論議されます。
「日本共産党は、はやくも、一九四五年十一月に『新憲法の骨子』を発表しました。この提案は、『主権は人民にある。民主議会は主権を管理する。民主議会は一八歳以上の男女の選挙権・被選挙権の基礎に立つ』、『政府は民主議会に責任を負う』、『人民の生活権、労働権、教育される権利を具体的設備を以て保障』するなど、主権在民、普通選挙権、議員内閣制、基本的人権の保障などを、戦後日本の政治の原則としてあきらかにしていました」(同七七ページ)。
その後各党の憲法集もあいついで発表されましたが、人民主権を明確にうち出していたのは、日本共産党のみでした。同党創立以来の人民主権論が、新憲法制定にあたっても遺憾なく力を発揮することになったのです。
占領軍・GHQの草案をもとに、一九四六年二月政府案が上程されました。
「政府の憲法草案は、日本共産党の提案した『主権在民』を徹底する立場には到達していませんでしたが、他の政党が提起した憲法案にくらべれば、はるかに民主主義的な内容をもっていました。同時に、アメリカが昭和天皇の戦争責任を不問に付し、『天皇制を残す』ことを対日政策の大方針としたために、その思惑と戦前型の体制を残そうとした日本政府の抵抗とが重なりあって、民主主義の政治体制の面で、主権在民の民主主義に矛盾するあいまいさも残していました。その最大のものは、憲法草案に主権在民の原則を明記せず、『国民の総意が至高なもの』という表現にとどめたことにありました」(同八一ページ)。
日本共産党は、主権在民の明記と天皇条項の削除などを求め、主権論争は、議会の内外で新憲法制定をめぐる最大の争点となり、結局、現憲法のように修正されて結着をみたのです。
それは、まず前文において、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と宣言され、第一条に「主権の存する日本国民」と明記されるに至ったのです。
「国民が主人公」
日本共産党は、結党以来の人民主権論を、現在「国民が主人公」という命題に定式化しており、社会主義・共産主義の日本を、「国民が主人公」となる社会と位置づけています。
すなわち、改定綱領(二〇〇四年一月)では、「搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、『国民が主人公』という民主主義の理念は、政治、経済、文化、社会の全体にわたって、社会的な現実となる」とされています。この観点は、社会の根本をなす生産の現場でもつらぬかれなければなりません。社会主義の基準となる生産手段の社会化についても、「生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない」と「国民が主人公」の立場が強調されているのです。
それだけではなく、当面する日本の改革についても「国民が主人公」の民主主義的立場から、資本主義の枠内の民主主義的変革と位置づけ、「国民主権の原則の首尾一貫した展開」を強調しています。
同様に「国民が主人公」の立場から、社会変革も、「多数者革命」の見地にたって国民の大多数の合意にもとづいて一歩づつ段階的にすすめていくという民主的、段階的変革を訴えています。
こうして、革命の道すじ、当面の民主主義革命、社会主義・共産主義の全体にわたって、結党以来の精神である人民主権論がつらぬかれているところから、「国民が主人公」は、改定綱領のキーワードに位置づけられているのです。
世界最初の共産主義が、ルソーの人民主権論を継承発展させたフランス共産主義として登場していることからしても、この日本共産党の立場はルソーの人民主権論の正当な継承者ということができるでしょう。
人民主権論は、パリ・コミューンにおいて科学的社会主義の理論に結合しながら、一時プロレタリアート執権論の陰にかくれ、また執権論の歪曲の影響を受け、科学的社会主義の理論において、正当な位置づけがなされないままとなっていました。
それでも、人民主権論は、人民戦線や、東ヨーロッパの人民民主主義のなかに脈々として受けつがれ、いま日本共産党の綱領路線のなかで、正当な位置づけを確保し、開花するに至っているのです。
それだけに、少なくとも日本における科学的社会主義の学説上においては、ルソーはその源泉として位置づけられるべきではないかと、あらためて思うものです。
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