『科学的社会主義の源泉としてのルソー』より
第一講 科学的社会主義の源泉
はじめに
今日から、一二回にわたって、ジャン・ジャック・ルソー(一七一二~七八)の『人間不平等起源論』(以下『不平等論』)、『社会契約論』(以下『契約論』)(いずれも岩波文庫)をテキストとして、ルソーと科学的社会主義の関係について、皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。
桑原武夫、前川貞次郎訳の『契約論』は、ルソーの代表作の一つですが、この訳本は一九五四年一二月に第一刷、二〇〇二年一二月に第七〇刷が発行されていますので、今日の日本でもなお読み継がれている大ベストセラーであるといってよいでしょう。
それだけではありません。訳者の桑原氏は、その前書きで、次のように語っています。「有史以来、人間の精神にもっとも大きな影響を与えた本として、イギリス労働党の学者キングスレイ・マーチンは、『聖書』、『資本論』、そしてこの『社会契約論』の三つをあげている。民主主義の本質を明らかにした、このルソーの名著は、つとに中江兆民の『民約訳解』によって日本につたえられ、自由民権運動の精神となった。しかし、その後、ルソーの精神は日本で十分に根を張ったとはいえない。だから戦後、主権在民という言葉は一とき流行したが、その真意は、覚えぬさきに忘れられかけている。わたしたちは、もう一度この名著を読みかえして、元気をつける必要があると思う」(三ページ)。
「国民が主人公」という民主主義は、社会主義の基本的理念だといわれることがあります。そうであれば、民主主義の本質を明らかにし、主権在民を唱えたルソーは、科学的社会主義の源泉だったのではないか、との疑問が生じてくるのも、ある意味では当然のことといわねばなりません。
一八世紀の啓蒙思想家であるルソーは、フランス革命に最も大きな思想的影響を与えた人物であり、一九世紀前半のフランスは、ルソーの影響圏内にあったといわれています。
一九世紀の半ば頃から活躍を始め、一八四八年に『共産党宣言』を出版したマルクスやエンゲルスが、その時代の精神ともいうべきルソーの思想を受け継ぎ発展させたとしても不思議ではないのですが、これまでルソーは、科学的社会主義の源泉としては理解されていませんでした。
そこで今回あらためて、ルソーに立ち返って研究し、またルソーと科学的社会主義の思想的系譜をたどってみようと考え、本講座を始めるに至ったものです。
一、科学的社会主義の源泉
レーニン「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」
科学的社会主義の源泉を明らかにするという作業は、けっして過去を省みるという懐古趣味の問題ではありません。科学的社会主義の理論を発生論的に明らかにすることによって、科学的社会主義とは何かの問題に答え、その理論的主柱を浮き彫りにする作業につながるものとなるのです。
マルクス、エンゲルスは、膨大な著作の他に、数多くのメモ、ノート類を残しておりますが、その全容を明らかにする作業は、「新メガ(新しいマルクスエンゲルス全集)」として、現在もまだ継続中であり、二一世紀前半の課題として残されています。すでに四〇数巻(五〇数冊)が刊行されていますが、最終的には全一一四巻という途方もないものとなります。科学的社会主義の源泉とは何かの問題は本来これらのすべてを検討した上で結論がだされるべき問題だと思います。
しかし、これまで、科学的社会主義の源泉は、ドイツの古典哲学、イギリス古典経済学、そしてフランス社会主義の三つだとするのが定説とされてきました。この三つをもって源泉として定式化したのは、レーニンの「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」(レーニン全集⑲三ページ以下)というわずか数ページの論文です。
「マルクス主義には、世界文明の発展の大道のそとで発生した、なにか閉鎖的で、硬化した学説という意味での『セクト主義』らしいものはなにもない。反対に、人類の先進的な思想がすでに提起していた問題に答えをあたえた点にこそ、まさにマルクスの天才がある。彼の学説は、哲学、経済学、社会主義のもっとも偉大な代表者たちの学説をまっすぐ直接に継続したものとして生まれたのである。・・・・・・それは、人類が一九世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のものの正統の継承者である」(同三四ページ)。
レーニンは、「カール・マルクス」(同全集21)のなかでも同様の見解を示し、「マルクスは、人類の三つのもっとも先進的な国に属する一九世紀の三つの主要な思想的潮流の継承者であり、天才的な完成者であった」(同三七ページ)として、ドイツ古典哲学、イギリス古典経済学とあわせて、「フランスの革命的諸学説と結びついたフランス社会主義」をあげています。
では、一体レーニンは、何故マルクス主義(科学的社会主義)の「三つの源泉」を問題としてとりあげたのでしょうか。
それは、源泉を取り上げることにより、その源泉から生まれた科学的社会主義を構成する理論的主柱を明確にしようとする試みだったのです。レーニンが「三つの源泉と三つ構成部分」と題したのも、三つの源泉をもとにして、科学的社会主義の理論的主柱となる三つの構成部分が生まれたことを鮮明にするところに、この論文のねらいがあったのです。
レーニンは、ドイツ古典哲学、とりわけ、ヘーゲル、フォイエルバッハを源泉として、弁証法的唯物論と史的唯物論が誕生し、アダム・スミス、リカードによって代表されるイギリス古典経済学を源泉として、剰余価値学説が生まれたことを明らかにしています。この点については全く何の異論もありません。
問題は、「フランス社会主義」です。レーニンは、「フランス社会主義」を源泉として、「階級闘争の学説」が生まれたとしているのですが、その箇所を詳しくみてみますと、まず資本主義のもたらす搾取と抑圧から「最初の社会主義」としての「空想的社会主義」がフランスに登場したことをとりあげ、その限界を明確にします。
「しかし、空想的社会主義は真の活路をしめすことはできなかった。それは、資本主義のもとでの賃金奴隷制の本質を説明することも、資本主義の発展法則を発見することもできず、また新しい社会の創造者となる能力をそなえた社会的勢力を見いだすこともできなかった。そのあいだに、ヨーロッパのいたるところで、とくにフランスで、封建制度、農奴制の没落に伴うあらしのような革命は、階級闘争が全発展の基礎であり推進力であることを、ますます明瞭にしめした。・・・・・・マルクスの天才は、彼がだれよりもさきに、世界史のおしえる結論をここからひきだし、それを首尾一貫しておしすすめることを理解した点にある。この結論が階級闘争の学説である」(同全集⑲七、八ページ)。
ここには、レーニンらしからぬ論理の乱れがあることに気がつきます。
論理の展開としては、「フランス社会主義」を源泉として、マルクスの階級闘争の学説が生まれたということにならないと源泉の意味はありません。ところが、レーニンは、「フランス社会主義」には、階級闘争による社会発展の見地は存在しなかったけれども、「ヨーロッパのいたるところで、とくにフランスで」あらしのような革命運動が発生し、この革命運動の中で明確になってきた階級と階級との対決という実践から、階級闘争の学説が生まれたといっているのです。それであれば、「フランス社会主義」を階級闘争の源泉として持ち出す必要は存在しません。一九世紀における労働者階級の台頭とその自主的な運動を源泉にあげれば十分ではないかと思われます。
さらにいうならば、階級闘争の理論は、史的唯物論の一内容をなすものとなっています。マルクスは、「ドイツ・イデオロギー」(マルクス・エンゲルス全集〔以下、全集〕③)において、ドイツ古典哲学、とりわけフォイエルバッハの批判をつうじて、弁証法的唯物論と史的唯物論を仕上げていきました。そうなると、史的唯物論と階級闘争の理論の源泉はドイツ古典哲学だということになり、ますます「フランス社会主義」を階級闘争の学説の源泉として掲げる必要があるのかが問題になってくるといっていいでしょう。
では、何故レーニンが、我田引水的な理論の展開までして、「フランス社会主義」を源泉に掲げたのかといえば、エンゲルスの『空想から科学への社会主義の発展』(全集⑲一八六ページ以下)を念頭において、それに引きずられたからではないかと思われます。そこで次に、『空想から科学へ』に依りつつ、科学的社会主義の源泉を考えてみましょう。
エンゲルス『空想から科学へ』
科学的社会主義の古典中の古典ともいうべき『空想から科学へ』は、一九世紀に登場してきた空想的(ユートピア)社会主義が、いかにして科学的社会主義に転化していったのか、またそれをもたらした「源泉」は何であったのかを解明したものです。そこには、サン・シモン、フーリエ、オーエンという三人のユートピア社会主義者が登場しています。エンゲルスは、この三人の社会主義者たちの考え方を紹介したうえで、彼らのすべてにとって、社会主義とは、「絶対的真理、理性、正義の表現」であって、その内容は、「各流派の開祖によってそれぞれ違っている」から、絶対的真理の相互の衝突からは、様々の宗派の開祖たちのあれこれの命題を寄せ集めた「折衷的な一種の平均的社会主義」が生じるほかはなかった(同一九八ページ)と指摘しています。
こうしたユートピア社会主義の批判のうえに、エンゲルスは「社会主義を科学にするためには、まずそれを実在的な基盤の上にすえなければならなかった」(同)として、その「実在的な基盤」つまり「源泉」の検討に入ります。
その「基盤」について、まず第一に、エンゲルスは、ドイツ古典哲学の頂点に立ったヘーゲルの弁証法、とりわけ人類の歴史を、「無意味な暴力行為」の「雑然としたもつれあい」(同二〇二ページ)としてではなく、内的法則にもとづく「発展過程」としてとらえた社会発展観(同二〇三ページ)をあげています。
ついで、「歴史観に決定的な方向転換を引きおこした歴史的諸事実」(同二〇四ページ)として、一八三一年のリヨンでの労働者の蜂起、一八三八~四二年のイギリス・チャーチスト運動をあげ、「プロレタリアートとブルジョワジーとの階級闘争が、ヨーロッパの最も先進的な国々の歴史の前面に現われてきた」ことを指摘しています(同)。
こうした事実に迫られて、「これまでのすべての歴史は、原始状態を別にすれば、階級闘争の歴史であった」とする唯物史観が誕生することになります。今や社会主義の課題は「これらの階級とその対立抗争とを必然的に発生させた歴史的な経済的経過を研究し、この経過によってつくりだされた経済状態のうちにこの衝突を解決する手段を発見することであった」(同二〇五ページ)。
こうして、マルクスは経済学の研究にむかい、「唯物史観と剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露」という「二つの偉大な発見」によって、「社会主義は科学になった」と結論づけられることになります(同二〇六ページ)。
こうしてみてくると、『空想から科学へ』においても、エンゲルスは、フランスのユートピア社会主義を科学的社会主義の先達としてはとらえていても、けっしてその理論的源泉としてとらえているのではないことがわかります。
では、エンゲルスは、フランス革命を通じて一八世紀後半から一九世紀前半のヨーロッパをゆさぶり続けたフランスの階級闘争から、何も理論的源泉となるべきものを学びとらなかったのかといえば、そうではないのです。
一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちが立てた諸原則
「近代の社会主義は、その内容からいえば、なによりもまず、一方では、今日の社会にひろく存在している有産者と無産者、資本家と賃金労働者との階級対立を、他方では、生産のなかにひろく存在している無政府状態を、認識した結果として生まれたものである。しかしその理論上の形式からいえば、それは、はじめは、一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちが立てた諸原則を受けついでさらに押しすすめ、見たところいっそう首尾一貫させたものとして現われる」(全集⑲一八六ページ)。
これは、『空想から科学へ』の冒頭の文章です。フランスの啓蒙思想家は、理性の国の出現を求めましたが、フランス革命をつうじて誕生した「理性国家、ルソーの社会契約は、ブルジョワ的民主共和国としてこの世に生まれでたし、またそのようなものとして生まれでるよりほかはなかった」(同一八七ページ)としているところからも、エンゲルスのいう「一八世紀のフランスの偉大な啓蒙家」を代表する人物の一人がルソーであることは否定できないところです。
エンゲルスのいう「ルソーの社会契約」とは、後にみるように『不平等論』と『契約論』の二つの著作を指しているといってよいでしょう(この二つの著作の関係については、第三講で取り扱うことにします)。
エンゲルスの指摘からみる限り、ルソーがこの二つの代表作をつうじて展開した理論的諸原則は、科学的社会主義の理論に継承発展させられたものとして理解することができます。したがってルソーの理論は、一九世紀のフランス社会主義のあれこれの潮流(当時の社会主義は、百家争鳴の状態)に引きつがれ、マルクス、エンゲルスの理論にも発展的に継承されたのではないか、との仮説を立てることができます。
しかもその仮説は、日本の状況にてらしてみるとき、たんなる一仮説以上の重みをもって迫ってくるのです。
先にもみたように日本において、最初にルソーを紹介したのは、中江兆民でした。そこから兆民は、「東洋のルソー」と呼ばれることになりましたが、その一番弟子が幸徳秋水です。秋水は、片山潜などと共に、一九〇一年日本で最初の社会主義政党「社会民主党」を創立した社会主義者でした。この秋水と一緒に「平民新聞」を刊行した社会主義者堺利彦は、「兆民論集」に次のような序文を書いています。
「日本に措けるルソーの思想的継承者は兆民先生である。兆民先生の思想的継承者は幸徳秋水である。……然し、秋水は兆民先生の思想を其のままに継承した者ではなかった。彼は先生の思想を発展させて、社会主義にまで到達させたのであった。然し其の発展は自然の道程であった。従って猶それを継承と目することができる」(中江兆民集四一六ページ、明治文学全集、筑摩書房)。
何故ルソーから社会主義者に至る道が、「自然の道程」なのか。その理由について堺は、先に述べた『空想から科学へ』の冒頭の文章を引用しながら、「ルソー等の自由民権主義と社会主義との関係が、之で明白に分る」として、ルソーの自由民権主義を「受けついでさらに押しすすめ、見たところいっそう首尾一貫させたもの」として、社会主義者兆民が誕生したことを明らかにしています。
ルソーの社会契約に示された自由民権主義とは、どのような内容をもつのか、その思想は、本当に科学的社会主義の理論に継承発展させられているのか、またこれらの問題の検討をつうじてルソーを科学的社会主義の源泉ととらえうるのか、どうか。こういう見地から、ルソーの二つの代表作の内容に入っていきたいと思います。
二、ルソーについて
ルソーの略歴と業績
ルソーの人生は、波乱にみちています。
ジュネーブの時計職人の子として生まれたルソーは、少年時代に放浪生活を送り、独学で幅広い教養を身につけます。やがてパリに出て、デイドロ、ダランベール、コンディヤックなど、「百科全書派」として知られる哲学者たちと交流するようになります。ルソーを一躍有名にしたのは、一七五〇年ディジョンのアカデミー懸賞論文に「学問芸術論」が一位当選したところからでした。
一七五三年ディジョンのアカデミーは、再び懸賞論文を募集します。これに応募したのが『不平等論』です。
少年時代の放浪生活によって絶対主義下の人民の惨状を目にし、生涯貧しく抑圧された人民に共感を寄せ続けたルソーは、この作品で、当時の封建制社会を鋭く告発し、体制側から激しい攻撃を受けることになったのです。
しかし、ルソーは、サロンに属したディドロたちの「百科全書派」と決別してまでも、社会改革に燃える信念をつらぬき、揺るぐことがありませんでした。一九六二年『エミール』と同時期に出版された『契約論』は、ルソーの政治思想家としての地位を確実にしますが、同時に、ルソーに対する迫害も始まってくるのです。
パリ高等法院は、ルソーに逮捕状を出したところから、ルソーは故郷のジュネーブに亡命の旅に出ますが、ジュネーブ市会は、『エミール』と『契約論』の押収を指令し、また、ルソーに逮捕命令を出します。そのうえ二つの書物を市役所の門前で焼き捨てるという強硬な態度までも示しました。
ルソーは、晩年に著した『告白』のなかで、「この二つの逮捕状は、未曾有のはげしさをもって全ヨーロッパにわたってまきおこった、わたしにたいする呪いの叫びの合図となった。ありとあらゆる新聞、雑誌、パンフレットが世にもおそろしげな警鐘を鳴りひびかせた」(『ルソー』世界古典文学全集四九巻三七六ページ 筑摩文庫)と述べています。こうして、ルソーは、失意と病苦のうちに晩年を送ることになったのです。
ルソーの座右の銘は、「真理のために命を捧げる」でした。文字どおり、ルソーは、この生涯を貫いたのです。
『契約論』は、一七八〇年代には、ヨーロッパ中のベストセラーになり、フランス革命を思想的に準備する強力な武器となりました。
「歴史はその進行のなかで、『社会契約論』の真価を明らかにした。『社会契約論』の公刊後二七年、ルソーの死後一一年にして勃発したフランス革命がこれであった。一七九〇年一二月、革命議会は、『エミール』と『社会契約論』の著者を記念して、『自由なフランス国民からJ・J・ルソーへ、真理のために命を捧げる』と彼が好んで自らの標語としたジュヴェナリスの句を刻んだ銅像を建てることを決議し、さらに一七九四年四月の国民公会はルソーの遺骸を『偉人の殿堂』たるパンテオンに移葬することを決定した。国民公会の指導者ロペスピエールはこのことについて語った。『おお、なんじ真の崇高なる人類の友よ。羨望と陰謀と専制によって迫害されたなんじ、不滅のジャン・ジャックよ。この名誉はまさになんじにこそあたえられるべきものだ』」(河野健二『社会契約論』二三六ページ)。
近代民主主義の父・ルソー
ルソーの思想は、フランス革命を思想的に準備したところから、ルソーは、近代の父とか近代民主主義の父とか、呼ばれるようになりました。
しかし、結果的にルソーがブルジョワ民主主義革命に貢献したとしても、ルソーの思想がその枠内にとどまり、「百科全書派」と同じレベルの思想家としてとらえうるのか、といえば、それはまた別問題だといわねばなりません。
エンゲルスが、「理性国家、ルソーの社会契約は、ブルジョワ的民主共和国としてこの世に生まれでたし、またそのようなものとして生まれでるよりほかはなかった」(全集⑲一八七ページ)というとき、それはルソーの限界を意味するものなのか、それとも時代の限界を意味するものなのかは、一箇の検討すべき課題であるといっていいでしょう。
とりわけ、エンゲルスが、『不平等論』と『契約論』という二つの著作をふまえて次のように述べていることは、重要なヒントを与えてくれるものです。
「自然な野蛮状態では、人間は平等であった。・・・・・・しかし、この平等な獣人は、他の動物よりもすぐれた一つの特性をもっていた。それは、完成化能力、みずからをいっそう発展させる能力である。そしてこれが不平等の原因となった。……文明のどの新しい進歩も、同時に不平等の新しい進歩である。……不平等はふたたび平等に転化する。だがそれは、言語を知らない原人の古い自然のままの平等ではなく、社会契約にもとづくより高度の平等である。抑圧者は抑圧される。それは否定の否定である。だからルソーのこの書物には、すでにマルクスの『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがあるだけでなく、個々の点でも、マルクスが用いているのと同じ弁証法的な論法が、多数見いだされるのである」(全集⑳一四四ページから一四六ページ)。
エンゲルスのこの指摘は、『資本論』の次の文章を念頭においてのものです。
「生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的な外被とは調和しえなくなる一点に到達する。その外被は粉砕される。資本主義的私的所有の弔鐘が鳴る。収奪者が収奪される。
資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、それゆえ資本主義的な私的所有は、自分の労働に基づく個人的な私的所有の最初の否定である。しかし、資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生みだす。これは否定の否定である」(『資本論』④一三〇六ページ 新日本出版社)。
エンゲルスが、ルソーの社会契約国家をもって「否定の否定」による「より高度の平等」社会ととらえ、「『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがある」と述べているのをみると、ルソーの思想には、近代民主主義をのりこえ、科学的社会主義に接近する思想が含まれているのではないかを予測させるものとなっています。
思想史上ルソーをどう位置づけるかについては、いまだ評価の固まっていない問題といえるのではないか、という問題意識をもちつつ、次回から、いよいよ本論に入っていきたいと思います。
二〇〇三・七・八
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