『科学的社会主義の源泉としてのルソー』より
第二講 人間論
一、ルソーの唯物論
自然法とは
今日から『不平等論』に入っていきます。
「人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないものは、人間に関する知識であるように私には思われる」(『不平等論』二五ページ)。『不平等論』は、この文章から始まっています。かつて、アテナイのデルフォイの神殿の入り口の柱には「汝自信を知れ」との格言が刻まれていました。ルソーは、この格言をも引きながら、「まず第一に、人間そのものを知らなければ、どうして人々の間の不平等の起原を知ることができようか」(同)として、まず第一部で人間論の考察に入り、第二部において不平等の起原を考察するという構成をとっています。ルソーのこの著作は、ディジョンのアカデミー懸賞論文として準備されたものですが、そのとき提出された問題は、「人々の間における不平等の起原はなんであるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」というものでした。
当時自然法思想というものが流行していたところから、この懸賞問題も、自然法にてらして、人間の不平等が許されるか否か、という問いを発したのです。自然法とは、現実に国家によって定められた法(実定法)に先だって、自然を支配し、実定法を規制する超越的価値を持つ法を意味しています。自然法が存在するというのは、もとよりフィクションにすぎないのですが、この考えは反封建闘争を押し進めていくうえでのイデオロギー的武器として流行するところとなったのです。アメリカの独立宣言をみると「我々は、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信じる」とあります。
ここにいう、「天賦の権利」というのが、自然法から生じた権利という意味です。わたしたちは、基本的人権という概念を用いています。アメリカの独立宣言やフランス人権宣言以来こうした「人権」という用語が用いられるようになりました。基本的人権とは、人間がただ人間であるということのみにもとづいて、生まれながらにもっている、奪うことも、譲り渡すこともできない権利であるとされています。この近代の人権思想が自然法思想に由来していることは否定できません。
しかし本来観念的なフィクションにすぎない自然法思想に依拠して、人権を論ずるのは、元々存在もしないものを根拠とするのですから、根拠薄弱といわざるをえません。
ルソーが当時の自然法思想家から抜きんでているところは、懸賞論文で自然法が問題とされていながら、観念論的な自然法を否定しつつ、この問題に解答を出しているところにあります。それは、人間の本質の探究という唯物論的見地に立って人権を説き起こそうというものです。
自然法に対するルソーの態度
まずルソーは、自然法が観念の所産であるところから、その内容には、客観的基準となるものは存在せず、「それを論じたさまざまな著者のあいだにはほとんど意見の一致が見られない」(同二八ページ)として、次のように批判しています。
「この法をそれぞれ自分流に定義して、彼らはみなきわめて形而上学的な原理の上にこれを打ち立てるので、われわれのあいだでさえも、これらの原理を自分で発見することはおろか、これを理解しうる人もほとんどないほどである」(同二九ページ)。
したがって、自然法といっても、それは根拠をもたない砂上の楼閣にすぎないことになります。
「人は共通の利益のためには人々がおたがいのあいだで協定するのが適当であるような規則を探求することからはじめる。次に、これらの規則の集合に自然法の名を与えるが、それを一般に実施してみてその結果が良いということ以外にはなんらの証拠もない。確かにこれは定義を作り出し、ほとんど勝手な便宜によって事物の自然を説明するしごく安易なやり方である」(同三〇ページ)。
では、自然法は存在しないということになるのか。いやそうではない、人間の本質がすなわち自然法なのだ、とルソーはいうのです。
「自然法の真の定義についてあれほどの不確実さと曖昧さとを投げかけているのは、人間の本性に関するこの無知なのである。なぜならビュルラマキ氏の言うところによれば、法の観念は、いわんや自然法の観念は、明らかに人間の本性(自然)に関する観念だからである。それゆえ、と氏は続けていう、この人間の自然そのものから、人間の構造とその状態とから、この学問(法学)の諸原理を演繹しなければならないと」(同二八ページ)。
こうしてルソーは、うまく自然法問題を回避して、人間の本質の検討に入っていきます。
しかし、人間の本質を探究する作業をつうじて、原始状態の人間を解き明かすことになると、ここにもう一つ大きな壁が立ちふさがってきます。それは、キリスト教の『旧約聖書』です。その「創世記」は、神による天地創造と、アダムとイブらの誕生が記載されているからです。
そこでまたもやルソーは、この問題に挑戦し、これを巧みにクリアしていきます。こういうところにも、言論の自由が保証されなかった時代に真理を探究するものの苦労があられています。
「まずすべての事実を無視してかかろう。なぜなら事実は問題に少しも関係がないのだから。われわれがこの主題について追求できる研究は歴史的な真理ではなく、ただ憶測的で条件的な推理だと見なさなければならない。そうした推理は、事物の真の起原を示すよりも事物の自然(本性)を示すのに適している」(同三八ページ)。
ここにいう「事実」とか「歴史的な真理」とかは、「創世記」に書かれている事実であり、「憶測的で条件的な推理」こそ、真の歴史的事実を意味しています。それは、これに続いて次のように述べていることからも明らかです。
「宗教がわれわれに信じるように命じているところによれば、神自身が万物創造のすぐ後で人間を自然状態から引き出したのであるから、人間が不平等であるのは、そうであるように神が望んだからであるという。しかし、もし人類が自分だけですておかれたとしたら、彼らはどうなっていたろうかということについて、人間とそれをとりまく存在との自然(本性)だけをもとにして推測を立てることは、宗教もこれを禁じてはいない」(同三八、三九ページ)。
こうやって、自然法思想と聖書という二つの観念論的制約をのりこえ、ルソーはやっと人間の自然状態の検討をつうじて人間の本質を探るという唯物論的探求の道に入ることになります。当時の歴史的認識からして、人類の自然状態を探求することには大きな困難が伴ったことと思いますが、ルソーは大胆に筆を進めていきます。
二、ルソーの評価
自由な意識
まずルソーは、自然状態の人間と動物との違いはどこにあるのかを考察し、「自由な意識」にあることを見い出します。
「動物のあいだで特別に人間を区別するものは知性ではなくてむしろ彼の自由な能因という特質である。自然はすべての動物に命令し、禽獣は従う。人間も同じ印象を経験する。しかし彼は自分が承諾するも抵抗するも自由であることを認める。そしてとくにこの自由の意識おいて彼の魂の霊性が現れるのである」(同五二ページ)。
この人間の持つ自由な意識が、人間の本質から生じる自由への希求となってあらわれるのです。ルソーにとって、「自由は人間の様々な能力のなかでも最も高尚なもの」(同一一四ページ)であり、「自由は彼らが人間たる資格によって自然からさずかる贈り物」(同一一六ページ)なのです。
ちょっと長くなりますが、ルソーの格調の高い自由への讃歌を聞いてみましょう。
「調教された馬は笞や拍車をじっと堪えしのぶが、馴らされていない駿馬は、ただクツワを近づけるだけでも鬣を立て、地を踏みならし、激しくあばれる。それと同じように野蛮人も、文明人がおとなしくつける軛にむかって、けっして首をさし出さない。そして平穏な屈従よりも、波瀾万丈の自由を選ぶ。だから、人間に、屈従に対する自然的性向があるか否かを、奴隷となった人民の堕落によって判断すべきではなく、すべての自由な人民が圧迫から身を守るために行った奇跡的な事業によって判断すべきである。私は前者がその鉄鎖につながれながら享受している平和と安息をたえずいちずに謳歌し、『この上もなくみじめな奴隷状態を彼らが平和と名づけている』のを知っている。しかし、後者がただ一つしかないが、それを失くした人々からはあれほど軽蔑されているあの(自由という)財産の保存のために、快楽や休息や富や権力、そして生命をすら犠牲にするのを見るとき、また自由な身に生れて、囚われることをひどく嫌う動物が、牢屋の格子に頭を打ちつけて割るのを見るとき、また多数の丸はだかの未開人たちがヨーロッパ人の官能的快楽を軽蔑し、ひたすら自分たちの独立を守ろうとして餓えや鉄火や死をすら物ともしないのを見るとき、私は自由について論議することは奴隷の仕事ではないとつくづく感じる」(同一一二ページ)。
ルソーにとって、自由な意識は、さらに人間と動物を区別するもう一つの特質、人間の能動的な活動と結びついています。人間は自由な意識によって、自然をつくりかえて生産力を高め、また人間自身をも改善していくことになるのです。
「それは自己を改善(完成)する能力である。すなわち、周囲の事情に助けられて、すべての他の能力をつぎつぎに発展させ、われわれのあいだでは種にもまた個体にも存在するあの能力である」(同五三ページ)。
しかし、天性の弁証法家であるルソーは、この自己と自然を改善する能力が、社会発展をもたらすと同時に、 「人間のあらゆる不幸の源泉」であることを指摘します。
「平穏で無辜な日々が過ぎてゆくはずのあの原初的な状態から、時の経過とともに人間を引き出すものがこの能力であり、また、人間の知識と誤謬、悪徳と美徳を、幾世紀の流れのうちに孵化させて、ついには人間を彼自身と自然とにたいする暴君にしているものこそ、この能力であることは、われわれにとって悲しいことながら認めないわけにはいかないだろう」(同五三ページ)。
人間の自由な意識にもとづく改善能力は、人間を、人間自身と自然とにたいする暴君とするというのです。ここに階級対立と階級支配、生産力の発展に伴う自然の乱開発の萌芽を、早くもルソーが予見しているのをみることができます。
平等
ルソーは、原始状態の人間には、支配・従属の関係は存在せず、すべて平等な関係にあったことを、自由と並ぶもう一つの特質として指摘しています。
自然状態の人間は、どんな生活をしていたのでしょうか。
「結論を述べよう、──森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった」(同八〇ページ)。
ルソーは、こうした状態のなかからは、長期かつ継続的な人間の人間に対する支配と服従の関係は生じえないことを明らかにします。なるほど、こうした状況のもとでも、力の強いものが、弱いものに対して、一時的に暴力によって支配することはできるかも知れません。しかし、暴力による支配は、支配されるものが逃げ出してしまえばそれで終わってしまうのであって、長期かつ継続的な支配・服従の関係を生み出すことはできません。
そこでルソーは、支配・服従の関係は一体どこから生じるのか、またなぜ自然状態の人間には、支配・従属関係が存在しなかったのかを説き明かしていきます。
「一人の人間が他の人間のちぎった果物や、その殺した獲物や、その隠れ場となっていた洞窟を横取りするようなことはできるだろう。けれどもその彼がその人間をどうやって服従させることができようか。そして何も所有しない人々の間にいかなる服従関係の鉄鎖がありうるだろうか。もし私が一つの樹から追われるなら、それをすててほかの樹へ行きさえすればよい。もし私が或る場所で苦しめられるなら、ほかの場所へ移るのをだれが妨げるだろうか」(同八二ページ)。
所有のないところに、支配・服従の関係は生じない、これがルソーの結論です。所有する者と所有しない者とに分化され、所有しない者は、所有する者に依存しなければ生きていけないという経済的諸関係のもとにあって、はじめて長期かつ継続的な支配・従属の関係が確立することになるのです。
「ある人を服従させることは、あらかじめその人間を他の人間がいなくてはやっていけないような事情の下におかないかぎり不可能である、ということは、だれでも知っているにちがいない。このような状況は自然状態には存在しないから、そこでは誰でも束縛から自由であり、強者の法律は無用になっている」(同八三ページ)。
生産力に乏しく、やっと生きていくだけのものしか手にしえない自然状態では、私的所有は生じえませんので、支配・従属関係は存在せず、人と人とは平等な関係のなかに生活しているのです。ルソーは、この自然状態と、その後の社会発展のもとでの社会状態とを対比して、次のように述べています。
「いま社会状態のさまざまな階級を支配している、教育と生活様式のおどろくべき多様性を、みんなが同じ食物を食べ、同じように生活し、正確に同じことをしている動物や未開人の生活の単純さと一様性とに比較するならば、人と人との差異が、自然の状態においては社会の状態よりもいかに少いものであるか、また自然の不平等が人類においては制度の不平等によっていかに増大せざるをえないかが理解されるであろう」(同八一ページ)。
個人の尊厳とその疎外
こうして、ルソーは、自然状態の人間は、自由で平等であり、こうした状態のもとでの人間こそ、本来の人間の姿であること、自由と平等が人間の本質であることを明らかにしています。
「自然状態とは、われわれの自己保存のための配慮が他人の保存にとってもっとも害の少い状態なのだから、この状態は従ってもっとも平和に適し、人類にもっともふさわしいものであった」(同七〇ページ)。
自由と平等のもとの人間は、「自己保存」のための「自己愛」とあわせて、「他人の保全にとってもっとも害の少い」「隣みの情」(同七一ページ)を持つに至ります。他人への「隣みの情」は、家族愛、隣人愛、ひいては社会愛、愛国心となって平和な社会を生み出していくのです。
一人ひとりの人間が、自ら人間らしく生きていることに確信をもてるとき、社会全体を友愛が支配し、争いのない平和な社会が実現されるというのです。
ここから、いよいよ本書の本題である「その不平等の起原と進歩とを人間精神の連続的な発展のなかで示」(同八三ページ)していくことになります。
ルソーが、「不平等の起源と進歩」といっていることに注目してください。社会発展は、進歩であると同時に退歩であると、弁証法的にとらえられています。
エンゲルスは、この点に注目して、「ルソーは、不平等の発生を一つの進歩と見るのである。しかし、この進歩は敵対をふくむものであった。それは同時に一つの退歩であった」(全集⑳一四五ページ)と述べています。
ルソーのいう自然状態から社会状態に突入することによって、生産力は発展し、物質的豊かさが実現されていくことになりますが、同時に、それは不平等と支配・従属関係を生みだし、人間の本質が疎外されていく過程となるのです。
人間の本質が疎外されていくことは、人間としての尊厳、個人としての尊厳が失われていくことを意味しています。これからその過程を追いかけていくことになるのですが、結論を先取りして見てみることにしましょう。
「未開人と文明人とは、心情と性向との根本から非常にちがっているので、一方の最高の幸福となるものが他方を絶望に陥れるほどである。前者はただ安息と自由とを呼吸し、生きることとなにもしないでいることしか望まない。そしてストア流の平静(アタラクシア)でさえも、未開人の他のあらゆる物に対する深い無関心には及ばない。これに反して、社会人は、常に活動的で、汗を流し、動きまわり、なおいっそう骨の折れる仕事を求めてたえず心を労する。彼は死ぬまで働き、生きることのできるようになるためには、死を急ぐことさえあり、あるいは不朽の名声を獲んがために現世を放棄する。彼は自分の憎んでいる権力者や軽蔑している金持たちにこびへつらい、彼らに奉仕する光栄をえんがためにはどんなことでもいとわない。彼は自分の卑しさと彼らの保護とを得々と自慢する。そして、自分の奴隷状態を誇り、それにあずかる名誉をもたない人たちのことを侮蔑して語るのである」(『不平等論』一二八、一二九ページ)。
このように、社会状態の文明人は、人間性を奪われていくのですが、ルソーはそれを人間が自己喪失し、疎外される過程としてとらえています。
「これら一切の相違の真の原因は、次のようなものである。つまり未開人は自分自身のなかで生きている。社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きられない」(同一二九ページ)。
桑原武夫氏は、ルソーが不平等による人間疎外をマルクスと違って客観的経済分析から導き出してはいないものの、「今日一般にいわれている人間の疎外状況なるものが、いかにして形成されたかを最初に究明した人間としての名誉を失わない」(『ルソー』二〇頁 岩波新書)と指摘しています。
三、科学的社会主義の人間論と疎外論
発生論的人間論
以上ルソーの人間論を『不平等論』にもとづいてみてきましたが、ここには驚くほど科学的社会主義の人間論と共通するものがみられます。
まず人間の本質をとらえる手法の問題があります。
マルクス、エンゲルスは、ヘーゲル論理学に学んで、事物の本質をとらえるうえでの発生論的手法を重視しました。ヘーゲルは、「本質とは過ぎ去った有である」いっています。「過ぎ去った有」とは、本質を問題とするその事物の発生時の姿を意味しています。すべての事物は、発生したときには、そのものの本質をそのままの姿で示していますが、その事物は時間を経るにしたがって様々な現象形態をもつに至り、本質が見えにくくなってきます。そこで事物の本質を把握するには、発生時にまで遡って考察する必要がある、というのが、発生論的手法です。
こうした見地から、エンゲルスは、マルクスの「遺言の執行」として人類の発生史を解明した『家族、私有財産および、国家の起源』を著しました。
そこでは北アメリカのネイティブ・アメリカン(インディアン)の自然状態、氏族社会が、次のように画き出されています。
「その成員はすべて自由人であり、たがいに他の者の自由を守りあう義務を負っている。個人的権利においては平等で、──サケマも軍事指導者も、なんらの優位も要求しない。……自由、平等、友愛は、定式化されたことは一度もなかったが、氏族の根本原理であった。・・・・・・だれもがインディアンに認める不屈な独立精神と個人的な威厳ある態度とは、これによって証明される」(全集21 九二ページ)。
自然状態の人間の根本原理は、「自由、平等、友愛」であり、このような根本原理を身にまとった人間は、「不屈な独立精神と個人的な威厳ある態度」を保つ、人間としての尊厳を有していた、というのです。
これは、晩年のエンゲルスによる人類の歴史的な考察の結果ですが、マルクスは、若い時期に、ルソーと同様の理論的考察をつうじて、人間の本質を把握しようとしています。
理論的人間論
マルクスは、まず人間の本質を考えるにあたって、人間と動物を区別するものは一体何なのかを問題とします。
そして、その答えを、人間がある目的意識をもって、生産することに見いだします。
「動物はただ直接的な肉体的必要に押されて生産をするのにたいして、人間自身は肉体的必要から自由な状態で生産をするし、そしてその必要から自由な状態においてこそほんとうの意味で生産をする。動物はただそれ自身のみを生産するのにたいして、人間は全自然を再生産する」(全集40 四三七ページ)。
したがって、「意識的な生活活動は人間を直接に動物的生活活動から区別する。まさにこのことによってのみ人間は一つの類存在なのである」(同)。
「類存在」というのは、ききなれない用語ですが、「人類としてのあるべき姿(存在)」という意味です。
こういう目的意識的な生産労働をつうじて、自然と人間自身を変革していくところに、人類の本質があるのです。それをいいかえれば、人間の本質は、「自由な意識」にあるということになります。
「生活活動の仕方のうちに一つの種の全性格、それの類性格があるのであって、そして自由な意識的な活動は人間の類性格である」(同四三六ページ)。
マルクスが、もう一つの人間の本質として指摘するのは、生産労働にもとづく生産物の交換からうまれる、人間の共同的本質です。
「生産そのものの内部での人間活動の交換も、人間の生産物の相互的な交換も、いずれも類的活動と類的精神に等しい。そしてこの類的活動と類的精神の、現実的で意識的な真の定在が、社会的な活動と社会的な享受である。人間の本質は、人間が真に共同的な本質であることにある」(同 三六九ページ)。
人間が真に共同的な本質であるとは、共同して生産し、共同して所有する共同社会の一員となるところに人間の本質があることを意味しています。つまり人間と社会とが切り離しがたく結びついて、一人はみんなのために、みんなは一人のためにという関係が確立した時に人間は人間の本質を実現することになるのです。
それは、言い換えれば、支配・服従の関係の存在しない、対等・平等な、真に民主的な関係のもとにおける共同社会の一員となることを意味しています。
マルクスは、人間の真の共同的本質を、その裏側から、その疎外された形態をつうじて明らかにしています。
「この疎外された人間の社会は、人間の現実的な共同的本質の、すなわち人間の真の類的生活の、カリカチュアであるということ、それゆえ彼の活動は苦悩として、彼自身の創造物は彼にとっては疎遠な力として、彼の富は貧困として、彼を他の人々と結びつける本質的なきずなは非本質的なきずなとして現象し、むしろ他の人間からの分裂が彼の真の定在として現象するということ、・・・・・・これらはいずれも、同一の命題である」(同三六九、三七〇ページ)。
人間の疎外
マルクス、エンゲルスは、人間の本質を自由な意識と共同社会性に求めました。この点では、ルソーと共通の人間論に立っているといっていいでしょう。
それだけではありません。マルクス、エンゲルスは、私的所有にもとづく搾取が、人間の本質を疎外することを明らかにしました。
労働生産物は、人間の自由な意識を外在化したものです。したがって生産者が自分の労働にもとづく労働生産物を取得することは、自由と個人の尊厳の根幹をなすものです。しかし搾取制度のもとでは、生産者が生産すればするほど、彼の所有しうるものはますます少なくなって、自由な意識を疎外されると同時に、生産すればするほど搾取者の生産者に対する支配が強化され、共同社会性もまた疎外されることになります。そしてこの人間疎外をもたらす搾取制度を生みだすものが、生産手段の私的所有であることを明らかにします。
私的所有が、人間の本質を奪い、人間疎外を生みだすという疎外論においても、ルソーとマルクス、エンゲルスは共通の土台に立っています。
マルクスは、この疎外からの人間性の回復こそ共産主義であることを明らかにしています。
「人間的自己疎外としての私的所有のポジティブな廃棄、したがってまた人間による、また人間のための人間的本質の現実的獲得としての共産主義。したがって、社会的すなわち人間的な人間としての人間の、意識的に、かつ従来の発展のまったき豊かさの内部でなされた、自身にたいする完全な還帰としての共産主義」(同四五七ページ)。
マルクスは、共産主義をして、人間が、私的所有によって疎外された本質を回復し、人間性を取り戻すヒューマニズムの理論としてとらえています。
ルソーの人間論と疎外論が、この先未来社会論としてどのように展開するのか、マルクスと同様の結論に達するのかどうかは、これからのお楽しみ、というところです。
二〇〇三・七・一一
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