『科学的社会主義の源泉としてのルソー』より
第六講 直接民主主義
一、主権は代表されえない
ローマの民会
ルソーは、人民が一般意志を形成するためには、人民が公共の広場で一堂に会し、この人民集会で全体意志をきめることが前提となると考えていました。一般意志は、全体意志のなかからしか生まれてこないからです。いわゆる人民自身が直接に国家意志を形成するという直接民主主義の原則です。
「ギリシャ人のもとでは、人民のなすべきすべてのことが、人民自身によってなされた。人民は絶えず広場に集会した」(『契約論』一三五ページ)。
とくにローマでは、「いかなる法律の承認も、いかなる行政官の選出も、民会においてしか行われなかった。そしてまた、いかなる市民も、どれかのクリア(註、部族のなかの区分)、どれかの百人組、どれかの地区に編入されていないものはなかったから、その結果、いかなる市民も投票権を与えられないものはなく、ローマの人民は名実ともに真の主権者であった」(同一六二ページ)。
こういう人民の全体意思を形成する人民集会は、国家意志(法)を決定する場となるものですから、厳格な要件が必要となります。ただ人民が集まりさえすればいい、というものではないのです。
「民会が合法的に召集され、そこで決められたことが、法律としての力をもつためには、三つの条件が必要であった。その第一は、民会を召集する団体、または行政官が、そのために必要な権限を与えられていることであり、第二は、法律によって許されている日に、集会が行われることであり、第三は、占いが吉とでることであった」(同)。
ルソーは、祭日や市の日には、農村の人たちは、ローマに出かけて、地元の公共の広場で一日をすごすことができないため民会を開くことは許されなかったとのべています。当時の民会は、いろんなレベルで開かれ、一度聞かれると、丸一日かかったのかも知れません。
「この首府(ローマ)とその周辺の、おびただしい人民が、しばしば集会するのは、なんと困難なことかと、想像されるであろう。ところが、ローマの人民が集会しなかった週はほとんどなく、それどころか、週に数回も集会した。ローマの人民は、主権者としての諸権利だけでなく、政府の諸権利の一部をも行使した。彼らは、ある種の問題を処理し、ある種の事件をさばいた。そして、この人民全体が、公共の広場では、ほとんど同じくらいひんぱんに、市民であるのと同時に行政官であった」(同一二七、一二八ページ)。
民会をつうじて、ローマの人民は、行政官つまり統治者であると同時に市民つまり被統治者だったのです。そこでルソーは、「人民は集会したときにだけ、主権者として行動しうる」(同一二七ページ)と結論づけることになります。
主権は譲り渡すことができない
人民集会をつうじて形成される一般意志は、国家の意思、国家が人民を統治する意志となります。
ルソーは、この国家の統治意思を「主権」としてとらえます。人民は、国家意志を形成する主体として「主権者」とよばれるのです。
主権とは、国家の統治意志であるということになれば、この意志そのものは、人民全体に属するのであって国家統治の主体である政府に譲りわたすことはできないし、人民全体の意志としては統体性をもつ単一なものですから分割することもできないということになります。
「だからわたしはいう、主権とは一般意志の行使にほかならぬのだから、これを譲りわたすことは決してできない、と。またいう、主権者とは集合的存在にほかならないから、それはこの集合的存在そのものによってしか代表されえない、と。権力は譲りわたすこともできよう、しかし、意志はそうはできない」(同四二ページ)。
「主権は譲りわたすことができない、というその同じ理由によって、主権は分割できない」(同四四ページ)。
立法権、行政権、司法権など、「主権から出てくるにすぎないものを、主権の一部だととり違え」てはならない、とルソーはいうのです(同四五ページ)。
主権代表されえない
同様に、主権は、人民全体の意志に属していますから代表者に一任することは許されない、ということになります。
「主権は譲り渡されえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに在する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない」(同一三三ページ)。
しかし、主権は代表されえないということになると、人民が代表を選出し、代表をつうじて人民の意志を実現するという代議制度、間接民主主義そのものが一切許されないということにもなりかねません。
事実ルソーは、そのような批判を受けているのです。
「ルソーの政治理論の最大の欠陥はいうまでもなく直接民主制に固執したことにある。そのために彼の理論のうち、原理的部分をのぞいた技術的部分は、現代にあってはほとんど意味を持たない」(恒藤武二『ルソー研究』一五七ページ)。
しかし、ルソーの真意は代議制度そのものを否定することにあるのではなく、間接民主主義によって、人民の一般意志が容易に踏みにじられることを問題としているのです。
「人民の代議士は、だから一般意志の代表者ではないし、代表者たりえない。彼らは、人民の使用人でしかない。彼らは、何ひとつとして決定的な取りきめをなしえない。人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」(同一三三ページ)。
ここには、大きく三つの論点が含まれており、個別に検討してみる必要があります。
第一に、人民が自由なのは選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや人民は奴隷となる、という箇所は、大変有名な文章でよく引用されているところです。
この命題は、全体意志は、一般意志と同じではない、多数決は必ずしも真ならず、という命題の変形として、わたしたちも実感をもって受け止めることのできる正しい命題ということができます。
第二に、代議士は「人民の使用人でしかない」という部分ですが、ここは多少異論のあるところです。
憲法四三条一項は、「両議員は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と規定していますが、ギリシャ・ローマの都市国家とちがって、数千万、数億人という人口をかかえる近代国家において代議制を採用することは、ある意味で不可避といってもいいでしょう。
問題は、代表とは何か、にあります。ブルジョワジーは、人民と代議士との関係を断絶するために、純粋代表制の理論をとっています。つまり、代表は、全国民の代表であって、具体的な選挙民からは独立しているので、いったん代表として選出された以上、選挙民(人民)の意志から独立して行動しうるし、行動すべきだというものです。先にのべたルソーの第一の命題は、これを批判したものといってよいでしょう。
しかし、ルソーのいうように、代議士を、「人民の使用人」として、人民の意志に拘束され、人民の意志を機械的に議会に反映するのみだということになれば、そもそも代議制を採用する意味がないことになってしまいます。パリ・コミューンの時代には、ルソーの説にしたがい、コミューンの議員は、「拘束的委任」を受けたものとされていましたが、エンゲルスは、「『フランスにおける内乱』の序文」(全集⑰五九五ページ)のなかで、この拘束的委任について、「なくもがなのことであった」と批判的に取り扱っています。
代議士は、人民の一般意志から相対的な独立性を有し、一定の裁量(とりわけ、その一般意志をさらに練りあげたものに仕上げていくという方向において)を持ちながらも、できるだけ人民の一般意志に忠実でなければならないという意味に理解すべきものでしょう。
第三に、「人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効」とする、という点はどうでしょうか。
ルソーの理論からすれば、法は一般意志の宣言ですから、人民が承認しないかぎり、すべての法律は無効だというのは、当然の結論となります。
しかし、これも代議制度のもとで議会が立法権を有する場合に、全法案について人民の承認が必要だということになれば、立法府の存在理由が消滅してしまいます。
したがって、憲法改正はもとより、国家予算、重要な国内法案や条約などについては、人民投票による人民の承認を必要としながらも、一般法案については、議会の議決で制定されるとすべきものでしょう。但し、その法案が人民の一般意志に反するものであれば、代議士に対する人民のリコール権が認められる、という限度において、「人民の承認」問題を理解すべきものであると考えます。
このように、代表制をとりつつも、人民の一般意志を尊重する立場から、部分的に人民投票やリコール制を採用することにより議会の暴走を規制する考えを、フランスでは半代表制とか半直接制とよんでいます。
ルソーのいわんとするところは、半代表制ないし、半直接制というべきものでしょう。つまり代表であって代表でなく、直接民主主義であって直接民主主義ではない、そういう代議制を採用したものといっていいでしょう。
政府とは何か
人民の一般意志は、法に結実することになりますが、この法を執行するのが、政府です。ですから、「立法権は人民に属し、また人民以外のものに属しえない」のに反して、「執行権は、立法者、あるいは主権者としての人民一般には属しえない」(同八四ページ)ことになります。
では、人民と政府とは、いかなる関係にたつことになるのか。
「それでは、政府とは何であるか?それは臣民と主権者との間の相互の連絡のために設けられ、法律の執行と市民的および政治的自由の維持とを任務とする一つの仲介団体である」(同)。
ルソーのいう人民主権は、人民における治者と被治者の同一性を実現する制度ですが、統治する側の人民を「主権者」、統治される側の人民を「臣民」とよんでいます。
政府は、人民が治者でありながら被治者であるという、一見矛盾した立場を調整する「一つの仲介団体」だというのです。人民は治者の立場からすれば、一般意志としての法律の執行を求めることになりますし、被治者の立場からすれば、社会契約の趣旨にしたがって「市民的および政治的自由の維持」を求めることになります。いわば、政府は、一般意志の執行の面でも、また社会契約上の国家の人民にたいする義務を履行する面でも、二重の意味で、人民に責務を負うことになります。執行権という強力な国家権力を持つ政府は、決して人民から自立して存在するものではないだけでなく、二重の意味で人民につくすべき存在なのです。
したがって、「政府は、主権者の公僕にすぎないのだ」(同)とルソーは言っていますが、より正確には、「政府は、主権者でありかつ臣民である人民の公僕だ」というべきものでしょう。
政府が人民の公僕だということになれば、ここにも、半直接性の原理が働くことになります。
「政府をつくる行為は、決して契約ではなく、一つの法であること。執行権をまかされた人々は、決して人民の主人ではなく、その公僕であること。人民は好きなときに、彼らを任命し、また解任しうること。彼ら(執行権をまかされた人々)にとって、問題は、契約することではなく、服従することであること」(同一四〇ページ)。
「その場合首長は、主権者のたんなる役人として、主権者から委ねられた権力を、主権者の名において行使しているのであり、主権者は、この権力を、すきなときに制限し、変更し、取りもどすことができる。というのは、このような権利を譲渡することは社会体の本性と両立せず、結合の目的にも反するからである」(同八四ページ)。
もちろん「すきな時に」といっても、「恣意的に」という意味ではないでしょう。政府が、人民の一般意志を無視したり、それに反する行為をしようとしたり、あるいは社会契約の趣旨に反して、個人の尊厳、自由、平等、生活の保障を否定するような場合には、いつでも執行権を制限し、変更し、場合によれば執行権を人民の手にとりもどすことになるのです。
政府の越権をいかに防ぐか
政府が人民の公僕だということになれば、人民の一般意志を尊重し、社会契約の目的を実行することがよい政府ということになりますが、ルソーは、なかなか面白い判別の基準を持ち出しています。
「政治的結合の目的は何か?それは、その構成員の保護と繁栄である。では、彼らが保護され繁栄していることを示す、もっとも確実な特長は何か?それは、彼らの数であり、人口である。……他のすべての条件が等しいとすれば、外からの方策、帰化、植民などによらずに、市民が一だんと繁殖し増加してゆくような政府こそ、まぎれもなく、もっともよい政府である。人民が減少し、衰徴してゆくような政府は、もっとも悪い政府である」(同一一八ページ)。
いま日本では少子化現象が社会問題になっています。統計によると、世代が五〇年違うと、人口は約半分になっています。このまま少子化が進行すれば、五〇年先に、日本の人口は二分の一になり、一〇〇年後には四分の一、一五〇年後には八分の一になってしまいます。少子化の原因には、青年の高失業・無業(一度も就業するに至らないままの状態)、晩婚化、子育て施設の不足、教育費の高騰、住宅事情、不安定雇用の増大に伴う劣悪な労働条件などの様々の要因が考えられますが、要するに、現在の日本が若者にとって住みにくい社会となっていることは間違いなさそうです。
日本共産党の綱領改定案が、日本の民主的改革の方向として、「少子化傾向を克服する立場から、子供の健康と福祉、子育ての援助のための社会施設と措置の確立を重視する」として、少子化対策を打ち出していることは、ルソーの指摘するところにてらして、重要な意味をもっていると思います。
さて、ルソーは、このようによい政府と悪い政府とがあると指摘しつつも、政府は、執行権という強力な国家権力を掌中にすることによって、主権者・人民の一般意志を踏みにじって独走する危険性が一般的に存在することを強調しています。現実には、よい政府よりも悪い政府の方が圧倒的に多いのです。
ルソーは、「政府の悪弊とその堕落の傾向について」(同一二〇ページ)について、次のようにのべています。
「個別意志が、たえず一般意志に対抗してはたらくのと同じように、政府は不断に主権に対抗しようと努める。この努力が増すにつれて、国家組織はますます悪化する。そして、その場合、統治者の意志に抵抗して、それと釣り合いをたもつような団体意志は、ほかに存在しないのだから、遅かれ早かれ、統治者がついに主権者を圧迫して、社会契約を破棄するときがくるにちがいない。これこそ、ちょうど老衰や死が、ついに人間の身体を破壊するのと同様に、政治体の出生の当初から、たゆみなく、それを破壊しようとしているところの、避けがたい内在的な悪である」(同一二〇ページ)。
ここを読むと、せっかく社会契約によって人間解放の社会をつくったとしても、「統治者がついに主権者を圧迫して、社会契約を破棄するときがくる」というのですから、ルソーは、未来社会についてニヒリズムに陥っているようにみえますが、けっしてそうではありません。ルソーは、「政府の越権をふせぐ手段」(同一四〇ページ)について、ちゃんと目配りしているのです。
それはいうまでもなく、人民による監視とチェックです。ルソーの言葉をかりれば、一般意志を形成する場としての人民集会によるチェックです。
ルソーは、人民集会の冒頭に、つねにまず二つの議案が審議され、そのうえで時々の政治的課題について審議がおこなわれるべきだというのです。
「社会契約の維持というほかに、なんの目的ももたぬこの集会は、開会にあたって、つねに次の二つの議案を提出せねばならない。これはけっして略することはできない。そして二つは別々に投票に付すべきである。
第一議案──『主権者は、政府の現在の形態を保持したいと思うか』
第二議案──『人民は、現に行政をまかされている人々に、今後もそれをまかせたいと思うか』」(同一四二ページ)。
人民は、人民集会をつうじて、一般意志を執行する政府の形態について、もっとも人民の意志を正確に反映しうるような任意の形態にいつでもあらためることができるし、また政府のメンバーが、それにふさわしい人物であるか否かをいつでも、チェックすることができるのです。
この二つの議題について審議され、政府の形態を変更すべきだとか、政府のメンバーのあれこれ、あるいは全員を交替させるべきだとかになれば、その結論が実行されることにより、新しい人民の公僕としての政府が誕生することになるのです。
二、人民主権論のまとめ
人民主権論と科学的社会主義
以上、ルソーの人民主権論と、それにもとづく直接民主主義をみてきました。きわめて示唆に富むものであり、現代資本主義の立場から未来社会を展望するうえでもなお基本的に有効性を保っている理論だとは思いますが、その後の歴史の発展のなかで、若干修正すべきものを含んでいることは否定できません。とりわけ直接民主主義と間接民主主義の関係をどうとらえるかは、検討すべき重要な課題だと思います。
そこで、ルソーの人民主権論の今日的意義と今日的課題をあらためて整理してみることにしましょう。
まず第一に、人民主権の社会とは、一般意志を媒介に、治者と被治者の同一性を実現する、「人民が主人公」、人間解放の社会だということです。
人民が、国家意志の形成に参画しても、人民を統治すべき国家意志が、一般意志とならない場合には、人民は社会の主人公になることはできません。ヘーゲルが、人民を「定形のない塊り」とよんだことは理由のないことではありません。
ですから、人民主権を実現するには、人民を一般意志へと導く、導き手が必要となります。資本主義社会から未来の人民主権の社会へ前進していく際にその導き手となるのは、労働者階級であり、とりわけ労働者階級がみずからを階級に組織するために生みだした政党、科学的社会主義の政党です。
一般意志は、未来の真理をとらえた人民の意志です。科学的社会主義は、弁証法的唯物論と史的唯物論を武器として、社会の現実を深く分析し、そのなかから社会の発展方向を科学的に導き出すことによって、人民の進むべき未来の真理を探究する理論です。科学的社会主義の学説の誕生によって、はじめて人類は、目的意識的にみずからの歴史をつくりあげていくことができるようになったのです。
科学的社会主義の政党の誕生により、一般意志を媒介とする人民主権の社会は、神のような天才の出現を待つ偶然の所産ではなくなり、現実となるべき必然性をもった理論に発展することができたのです。
科学的社会主義の政党を先頭とする労働者階級の指導のもとに、人民が主人公となる人民主権の社会が誕生したとき、それは「プロレタリアートの執権」となるのです。
直接民主主義の原則
人民主権とは、人民がみずから統治者となって人民を統治する治者と被治者の同一性の実現です。
人民は、一般意志を形成し、この一般意志にもとづいて統治することになります。いわば人民による直接民主主義が、国家統治の原則となります。国家を統治する統治権は、人民自身(人民の連合、人民の統一戦線)が直接に掌握しますので、立法府、行政府、司法府などの国家機関は、人民の一般意志を忠実に実行すべき責務を人民に対して負っています。国家機関は、間接民主主義をあらわしている存在ですが、間接民主主義は、あくまで直接民主主義を補完するものでしかありません。全人民が直接統治者となることができないかぎりにおいて、人民はやむなく国家機関に、一般意志の執行を委任しているにすぎません。
ルソーは、「人民が、主権をもつ団体として、合法的に集合するやいなや、政府の裁判権は全く停止され、執行権は中絶され、最下層の市民の身体も、最上級の行政官の身体と同じく神聖で不可侵なものになる。というのは、代表されるものが、みずから出ているところには、もはや代表者は存在しないからだ」(同一三〇ページ)として、間接民主主義の補完性を強調しています。
ルソーは、一般意志を形成する直接民主主義の場を、「人民集会」ととらえていました。しかし今日的状況からすれば、日常的には人民連合の統一戦線における最高会議がそれに相当することになるでしょう。
また文字どおり、直接全人民の意志を問うべき問題については、一八才以上の全人民による人民投票が、人民の意志を決定する最高の決議機関となります。
地方自治の本旨は、「住民の、住民による、住民のための政治」だとされています。その意味からすると、そもそも地方自治体の規模は、すべての住民の顔の見える規模とし、そこでは、「住民集会」や「住民投票」も含めた直接民主主義が、国政の場合にくらべてより広範にかつより根本原理としてつらぬかれねばなりません。
間接民主主義と半直接制
間接民主主義は直接民主主義の作用しない場において、直接民主主義を補完する役割を担うのみとなり、また間接民主主義には半直接制の原理が作用せねばなりません。
すなわち、国家機関が、人民の一般意志に違反しないように、人民の手によって、それがチェックされる制度が保証されなければなりません。
まず直接民主主義の原則は、ルソーの人民集会にとってかわる人民投票として実現されます。その対象となるのは、憲法改正、国の予算、国内の重要法案、外交の重要問題、議会の解散などです。これらの審議にあたっては人民投票に付されることを要件とし、立法府はその投票結果を尊重しなければなりません。
また政府が、憲法違反の疑いのある行為をしようとする場合には、人民は、政府の不信任を人民投票にかけることを要求しうるものとされねばなりません。憲法六九条は、内閣不信任決議を衆議院の権限としていますが、本来かかる重要問題は、主権者たる人民の権限とされるべき問題です。
また現憲法では、具体的争訟とならないかぎり、政府の憲法違反が問題となっても、憲法訴訟を起こせないこととされていますが、一般的・抽象的に憲法判断をすることができるような憲法裁判所が設置されなければなりません。
政府のメンバー、国会議員、高級行政職員、裁判官については、人民のリコール権が保証されねばなりません。
憲法一五条一項は、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と定めています。しかし、地方自治法には、首長や議員のリコール権は定められているものの、国政上の高級公務員のリコールを定める法律は定められていません。これはまさに立法府の怠慢といわなければなりません。憲法のこの条文を具体化する法の制定は、半直接制の直接的要請となっています。
また公務員は、つねに人民の一般意志を考慮して行動しなければなりません。ルソーが国家機関に携わる公務員を、「人民の使用人」とか「人民の公僕」であると言っているのは、文字どおりの意味においてではなく、一般意志をすべての行動の基準にすべきだという、規範的意味において理解すべきものです。憲法一五条二項に「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定されていますが、これもすべて公務員は一般意志に奉仕すべきものであって、あれこれの特殊意志に奉仕するものであってはならない、と解すべきものでしょう。
こうしてみてくると、ルソーの人民主権論は、全体として今日においても、あるべき未来社会を理論的に体系化して示したものとして、なお生命力をもっているものといわなければなりません。
それどころか、人民主権あるいは国民主権原理は、二〇世紀全体をつうじて全世界に普遍的価値を有するものとして評価され、大きな広がりをみせました。
人民主権原理にもとづく普通選挙制と民主共和制は、二〇世紀初頭には、アメリカ、フランス、スイスの三ヶ国しかありませんでしたが、今日、日本も含めて全世界に広がり、今や逆に君主制の国は、二八ヶ国にすぎません。
そこで問題は、ルソーの人民主権論は、科学的社会主義の学説とどのようなつながりをもっているのかが、これからの検討課題となってきます。
そこで以上で、ルソーの『不平等論』、『契約論』の検討を終えることとし、次回以降、果たしてルソーは科学的社会主義の源泉といえるのか、の検討に入っていきたいと思います。
二〇〇三・七・二五
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