『科学的社会主義の源泉としてのルソー』より
第七講 源泉とは何か
一、源泉と構成部分
認識の弁証法的発展
どんなに創造的、革命的に思える思想であっても、それは人類の認識史上の一存在であることをまぬがれることはできません。何らかの意味で先人の認識、思想を継承し、かつそれを否定することをつうじて、より発展させた新思想が、歴史の舞台に登場してくるのです。その意味では、人類の認識史は、無限に絶対的真理に接近していく、弁証法的な「否定の否定」の歴史といっていいでしょう。
ヘーゲルは、この点でも、なかなか含蓄に富む見解を示しています。
「論理的理念の諸段階は、継起的にあらわれてくる諸哲学体系という形で哲学の歴史のうちに見出さ」れ、「より先の体系とより後の体系との関係は、論理的理念のより先の段階とより後の段階との関係と同じであって、より後のものがより先のものを揚棄されたものとして自己のうちに含むという関係をなしている」(『小論理学』上二六四ページ、岩波文庫)。
ということは、「哲学史を研究すると、歴史上あらわれた哲学体系で反駁されなかったものは一つもない」(同二六五ページ)ということになりそうですが、ヘーゲルは、二つの意味において、「あらゆる哲学が反駁されたことを承認しなければならないと同じ程度に、一つの哲学も反駁されなかったし、また反駁されえないと主張しなければならない」(同)と、述べています。
では、二つの意味とは何か。
「一つには、哲学の名に値するあらゆる哲学は、理念一般をその内容として持っているという意味でそうであり、もう一つには、どの哲学体系も理念の一つの特殊な契機あるいは段階の表現であるという意味でそうである」(同)。
ここでは、哲学に限定して議論していますが、学問とか思想全体についての見解として受けとめることができます。ヘーゲルがここで言っている「理念」は、「真理」と考えていいでしょう。
歴史上価値ある学問、思想には、何らかの真理(相対的真理)の一粒が存在しています。より後の体系は、より高い、より普遍的な、より絶対的真理に接近した立場から、先の体系が、真理の「一つの特殊な契機」、より低い「段階の表現」として批判し、それを揚棄するのです。
だから二つには、「或る哲学を反駁するとは、その哲学の制限を踏み越えて、その哲学の特殊の原理を観念的な(ideell)契機へひきさげることを意味するにすぎない。したがって哲学の歴史は、その本質的な内容からみれば、過ぎ去ったものをではなく、永遠で絶対に現在的なものを取扱うのであり、その成果は人間の精神が犯したさまざまの過ちの陳列場ではなく、神々の姿のまつられてあるパンテオンに比すべきものである。そしてこれらの神々の姿は、弁証法的発展をなして次々とあらわれる理念の諸段階である」(同)。
「その哲学の特殊の原理を観念的契機へ引き下げる」と訳されている部分は、他の箇所の「idee」が「理念」と訳されていることからしても、「理念的契機へひきさげる」と訳さるべきものです。つまり、それまで真理の最高の段階にあると思われていた哲学が、後の哲学によって反駁されると、後の哲学の方がより普遍的真理を示していることが明らかになります。その結果、先の哲学は、後の哲学からみると、普遍的真理の一形態としての特殊的真理にすぎないものとして、より低い理念的契機へひき下げられてしまうのです。
弁証法的発展とは、「否定しつつ、より高いものとして保存する」ことを意味しています。先の思想のなかの真理を、より高い、より普遍的な立場から否定しながらも、それをより高い、より普遍的な真理に包摂される特殊な真理として保存するのです。
源泉とは何か
以上からして、どんな思想も、人類の認識の二五〇〇年以上に及ぶ弁証法的な発展の一過程として位置づけるべきものといえるでしょう。その意味では、何らかの思想を「源泉」としてもたない思想はない、といえます。
では、ある思想体系からみて、どんな思想がその思想の「源泉」になりうるのでしょうか。その思想に何らかの影響を及ぼしたものを、すべてを「源泉」ととらえるべきかといえば、そうではありません。何故なら、影響を及ぼすという範囲にとどまるのであれば、ほとんど無限にその範囲を広げることになるでしょうし、また影響を及ぼす程度も大小さまざまでありうるからです。さらには、先の思想と後の思想とがどのような関係にあるのかも問題です。
思うに、ある思想の理論的柱といいうる契機が、先人の理論の弁証法的発展として誕生している場合に、先人の理論が、その思想の源泉といいうることになるのではないでしょうか。
つまり、先人の理論における真理となる箇所を、保存しつつ、それを否定してより高度の、より普遍的な、より絶対的真理に接近させた理論に発展させた場合に、先の理論が後の理論の源泉としてとらえられることになるのです。したがって、源泉となるには、三つの要素が必要となります。
第一に、先の理論が、後の理論体系の柱となっている理論に関するものであること。
これは、後の理論体系からすれば、枝葉末節にすぎない位置づけしかもたない先の理論については、源泉として問題になりえないことを意味しています。
第二に、先の理論が後の理論に保存されていること。
源泉といううえで、これがもっとも重要な要素となります。先の理論が後の理論に保存されていなければ、源泉となりえないことは明らかです。
第三に、先の理論は、後の理論によって弁証法的に否定され、より発展したものとなっていること。
すなわち、その否定の仕方は、そこから発展が生まれてくるような、独特の否定の仕方でなくてはなりません。
第一講でお話ししたように、レーニンは「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」のなかで、一九世紀のドイツ古典哲学、イギリス古典経済学、フランス社会主義を、マルクス主義の三つの源泉として掲げました。そしてこの三つの源泉を弁証法的に止揚するものとしてマルクス主義の三つの構成部分という、三本の理論的柱が生まれたことを明らかにしようとしたのです。レーニンは、源泉とは何かについて積極的に解明しようとしているわけではありませんが、その内容からするならば、右にのべた三つの観点から、三つの源泉と三つの構成部分とが解明されようとしていることは間違いありません。
まず哲学の問題でいえば、ヘーゲルの弁証法とフォイエルバッハの唯物論を源泉としながら、ヘーゲルの観念論、フォイエルバッハの唯物論の社会面における不徹底を批判し、それを弁証法的に発展させたものとして、弁証法的唯物論と史的唯物論が誕生したことを明らかにしています。
ついで経済学では、アダム・スミス、リカードの労働価値説を源泉としつつ、その不徹底さ、中途半端さを克服して剰余価値学説が生まれたことを示しました。
さらに、第一講で、「階級闘争の学説」に関するレーニンの論理展開には乱れがあることを指摘しましたが、それはさておき、その源泉とされるフランス社会主義における、空想的社会主義者と、フランスの階級闘争を源泉として、階級闘争の学説が生まれた、とされているのです。
以上の観点に立って、それではいよいよ本講座の主目的である、ルソーは科学的社会主義の源泉としてとらえうるのか、の検討に入っていきたいと思います。
しかしこの問題を探究するにあたって、源泉についても構成についてもレーニンの定式化を絶対化することから出発することを避けたいと思います。
何故なら、レーニンの時代に、レーニンが目にしえたマルクス、エンゲルスの文献は限られたものであり、本来、源泉の全面的検討は、「新メガ」完成時まで持ちこされるべきものだからです。
また、どんな天才といえどもけっして逃れることのできない、個人的、歴史的な認識の限界を、レーニンもまた持っていることも否定できない事実ですから、この点からもレーニンの定式化を絶対化することは危険です。
しかし、もっとも重要なことは、科学的社会主義の学説そのものがもっている弁証法的な性格です。今日何故わたしたちが、「マルクス・レーニン主義」という個人の名称を呼称に使わないで、「科学的社会主義」とよんでいるのかというと、そもそも科学的社会主義の学説は、人類の認識の前進に応じて不断に進歩、発展する、開かれた学説であり、マルクス、エンゲルス、レーニンの言説を絶対化しないと同時に、レーニン死後においても世界の共産主義運動によって豊かにされ続けてきた学説だからです。
とりわけ、わたしたちは、日本における科学的社会主義の理論と運動が、こうした人類の知的遺産を積極的に受けつぎ、創造的に発展させたものとして、生命力を発揮していることを知っています。
いわばわたしたちは、今日の科学的社会主義の到達点にたって、あらためて、その源泉を考えてみる必要があるのです。
したがって、レーニンの定式化が正当なものであるか否かも含め、今日の到達点にたってルソーを科学的社会主義の源泉としてとらえうるのか否かを検討することにしましょう。
二、「階級闘争の学説」とその源泉
レーニンの定式
もう一度レーニンの「三つの源泉と三つの構成部分」に立ち返ってフランス社会主義を源泉とする階級闘争の学説の部分を詳細にみてみましょう。
資本主義がこの世に現われ、「勤労者の搾取と抑圧」があきらかになると、その反映とそれへの抗議として、 「ただちにさまざまな社会主義学説が発生しはじめた」(レーニン全集⑲七ページ)。
「最初の社会主義は、空想的社会主義」であり、それは、「資本主義社会を批判」しましたが、「真の活路をしめすことはできなかった。それは資本主義のもとでの賃金奴隷制の本質を説明することも、資本主義の発展法則を発見することもできず、また新しい社会の創造者となる能力をそなえた社会的勢力を見いだすこともできなかった」(同)。
空想的社会主義者は、資本主義を批判し、あるべき社会主義を口にしながらも、そこに至る道すじも、階級闘争による社会発展も、労働者階級の歴史的使命も明らかにすることはできなかったのです。
「そのあいだに、ヨーロッパのいたるところで、とくにフランスで、封建制度、農奴制の没落に伴うあらしのような革命は、階級闘争が全発展の基礎であり推進力であることを、ますます明瞭にしめした」(同)。
この「あらしのような革命」がフランス革命をはじめとする一九世紀前半のフランスにおける階級闘争を指していることは間違いないでしょう。しかし、レーニンはこの論文では、源泉として「フランス社会主義」をあげているのみであってフランス革命を生みだした諸学説そのものは、指摘していません。他方「カール・マルクス」のなかでは、「フランスの革命的諸学説とむすびついたフランス社会主義」とより広くとらえています。「フランスの革命的諸学説」というのであれば、異論はあるにしても、ルソーもそのなかに含めて考える余地を残しています。「農奴主階級にたいする政治的自由のどの権利も、必死の抵抗にあわずに獲得されたものは一つもなかった。どの資本主義国も、資本主義社会のさまざまな階級のあいだの生死をかけた闘争によらずに、多少とも自由な民主主義的基礎のうえに形成されたものは一つもなかった。
マルクスの天才は、彼がだれよりもさきに、世界史のおしえる結論をここからひきだし、それを首尾一貫しておしすすめることを理解した点にある。この結論が階級闘争の学説である」(同)
『空想から科学へ』
レーニンの観点からするとルソーを科学的社会主義の源泉としてとらえうるか、の問題は、より具体的には、科学的社会主義のうちに「階級闘争の学説」の源泉となりうるか、の問題ということができます。
レーニンが、フランス社会主義を「階級闘争の学説」の源泉としてとらえた根拠は、『空想から科学へ』にありました。そこでこの点に関する『空想から科学へ』の記述をもう一度みていていくことにしましょう。
『空想から科学へ』の第一章は、フランス革命によって生みだされた「資本主義的生産の未熟な状態、未熟な階級の状態」が、「未熟な理論」としての、ユートピア社会主義を生みだしたことを指摘しています。
「社会的な課題の解決は、未発展の経済関係のうちにまだ隠されていたので、頭のなかからそれをつくりださなければならなかった。社会は弊害を示すばかりであった。これらの弊害をとりのぞくのは思考する理性の任務であった。社会制度の新しい、より完全な体系を考えだして、これを宣伝によって、できれば模範的実験の実例をつうじて、社会に外から押しつけることが必要であった」(全集⑲一九一ページ)。
こうして、頭のなかからつくり出されたあれこれのユートピア社会主義は、「折衷的な一種の平均的社会主義」となる他はなく、「社会主義を科学にするためには、まずそれを実在的な基盤の上にすえなければならなかった」(同一九八ページ)として、第一章を終えています。
科学的社会主義は、この「実在的な基盤の上に」すえられたわけですから、この「実在的な基盤」こそ、科学的社会主義の源泉にふさわしいものといえます。
第二章では、この「実在的な基盤」の検討がおこなわれています。
まず「近代のドイツ哲学の最大の功績は、思考の最高形式としての弁証法をふたたびとりあげたこと」(同)にあるとして、弁証法の紹介があり、「この近代のドイツ哲学は、ヘーゲルの体系によってその完結に到達した」(同二〇二ページ)ことが確認されます。
ヘーゲルの功績は、「自然的・歴史的・精神的世界の全体が一つの過程として、すなわち、不断の運動・変化・転形・発展のうちにあるものとして叙述されたのであり、またこの運動や発展の内的連関を証明しようとする試みがなされたのである」(同二〇二ページ)。
ヘーゲルは、この観点から、人類の歴史における「あらゆる外見上の偶然性をつらぬくこの過程の内的法則性」(同二〇三ページ)を指示しようとします。
では、人類発展の「内的法則性」とは何か。ヘーゲルは、それを自由の発展ととらえました。
「世界史とは自由の意識の進歩を意味するのであって、──この進歩をその必然性において認識するのが、われわれの任務なのである」(ヘーゲル『歴史哲学』上、四四ページ、岩波書店)。
「世界史は自由の意識を内実とする原理の発展段階を叙述するものである」(同九三ページ)。
ヘーゲルのいう自由とは、「必然を揚棄して自己のうちに含む」ことを意味しており、人間が、自然や社会の必然性(法則)を認識して、その主人公となるところに自由を認めたのですから、人類の歴史を自由の拡大・発展の歴史ととらえたことには一面の真理があります。しかし社会発展の土台を生産力と生産諸関係との間の対立・矛盾に求める史的唯物論の見地からヘーゲルの歴史観をみるとき、ヘーゲルは社会の発展法則を発見しえなかったとの批判をエンゲルスから受けるのも当然のことといわねばなりません。
「ヘーゲルの体系が自分で自分に課したこの課題を解決しなかったということは、ここではどうでもよいことである。彼の画期的な功績は、この課題を提起したことであった」(全集⑲二〇三ページ)。
何よりもヘーゲルは観念論者でした。「すべてのものが逆立ちさせられ、世界の現実の連関はまったくひっくりかえされていた」ところから、「ヘーゲルの体系そのものは巨大な流産」でした(同)。
こうしてドイツ観念論のまちがいがわかれば、唯物論へとすすまざるをえず、しかも自然科学の発展によって宇宙や自然にも歴史があることが明らかになってくると、弁証法的な唯物論へとすすまざるをえませんでした。
他方「歴史観に決定的な方向転換を引きおこした歴史的諸事実」(同二〇四ページ)が登場してきました。リヨンでの労働者の蜂起やイギリスのチャーチスト運動などをつうじて、「プロレタリアートとブルジョワジーとの階級闘争が、ヨーロッパの最も先進的な国々の歴史の前面に現われてきた」(同)。
こうした新しい事実にせまられて、これまでの歴史の全体が検討しなおされ、ついに、社会の発展法則が、マルクス、エンゲルスの史的唯物論によって解明されるに至ったのです。
「すなわち、これまでのすべての歴史は、原始状態を別にすれば、階級闘争の歴史であったということ、これらのたがいにたたかいあう社会諸階級は、いつでもその時代の生産関係と交易関係との、一言でいえば経済的諸関係の産物であるということ、したがって、社会のそのときどきの経済構造が現実の土台をなしているのであって、それぞれの歴史的時期の法的および政治的諸制度や、宗教的、哲学的、その他の見解からなっている上部構造の全体は、究極においてこの土台から説明されるべきであるということが明らかになった」(同二〇五ページ)。
こういう科学的社会主義に至るまでの、理論的、歴史的経緯を概観したうえで、エンゲルスは、第二章のまとめに入ります。
「こういうわけで、いまでは社会主義は、もはやあれこれの天才的な頭脳の持主の偶然的な発見物としてではなく、歴史的に成立した二つの階級、プロレタリアートとブルジョワジーとの闘争の必然的な産物として、現われたのである。社会主義の課題は、もはや、できるだけ完全な社会制度を仕上げることではなくて、これらの階級とその対立抗争とを必然的に発生させた歴史的な経済的経過を研究し、この経過によってつくりだされた経済状態のうちにこの衝突を解決する手段を発見することであった」(同)。
これにたいして、「従来の社会主義はこういう唯物論的な見方とはあいいれなかった」として、エンゲルスは、レーニンが、「三つの源泉と三つの構成部分」で、「空想的社会主義者」の認識の限界として紹介したものに該当する部分で、次のように述べています。「従来の社会主義は、なるほど現存の資本主義的生産様式とその帰結とを批判しはしたけれども、それを説明することはできなかったし、したがってまたそれに決着をつけることもできなかった。……従来の社会主義は、資本主義的生産様式と切りはなせない労働者階級の搾取を激しく非難すればするほど、ますます、この搾取の本質がなんであるか、どうしてそれが発生するのかを明らかにすることができなくなった」(同二〇五、二〇六ページ)。
この問題に回答を与えたのが、剰余価値学説でした。
「これら二つの偉大な発見、すなわち唯物史観と剰余価値による資本主義的生産の秘密と暴露とは、マルクスのおかげでわれわれにあたえられたのである。これらの発見によって社会主義は科学になった」(同二〇六ページ)。
レーニンの定式とエンゲルス
以上、『空想から科学へ』の第一章、第二章を要約して紹介しました。
レーニンの定式とエンゲルスのとらえ方には、共通部分もありますが、レーニンの独自の工夫もなされており、それだけに、レーニンの定式自体の当否もあらためて検討されねばならないことになります。
第一に、レーニンは、「階級闘争の学説」を、第一の構成部分としての史的唯物論から切り離し、科学的社会主義の構成部分を、①弁証法的唯物論と史的唯物論 ②剰余価値学説を中心とする『資本論』の経済学 ③階級闘争の学説という三つの構成部分としています。
これにたいし、エンゲルスは、科学的社会主義の構成部分を、必ずしもそれに限定している趣旨がどうかは明確でないものの、史的唯物論(唯物史観)と剰余価値学説という二本柱でとらえ、階級闘争の理論は、史的唯物論のなかに含めて論じています。
レーニンは、「カール・マルクス」のなかで、階級闘争の学説を非常に重視し、「この側面のかけた唯物論は中途半端で、一面的で死んだものだ」(レーニン全集21六二ページ)とまでいっています。
ですから、この論文の構成をみると、
「マルクスの学説
哲学的唯物論
弁証法
物史観
階級闘争
マルクスの経済学説
社会主義
プロレタリアートの階級闘争の戦術」(同三七ページ以下)
となっていて、「学説」の構成部分に「階級闘争」があげられているだけでなく、「プロレタリアートの階級闘争の戦術」という大きな柱までたてているのです。
エンゲルスの二本柱にたいし、レーニンが三本柱としているのは、レーニンの工夫であり、科学的社会主義の変革の立場を鮮明にしたものとして、積極的に評価されるべきものと考えます。
第二に、階級闘争の学説をどう位置づけるかはともかく、エンゲルスもレーニンも、階級闘争の学説の源泉について論及しています。
まずレーニンは、「三つの源泉と三つの構成部分」で空想的社会主義者には、階級的観点がなかったことを批判し、とくにフランスにおける革命と階級闘争の実践が、階級闘争の学説の源泉となったことを指摘しています。しかし、フランスの階級闘争を支えた理論について何ら言及することなく、階級闘争の実践からただちに階級闘争の理論が生まれたとするのは、理論的源泉を論ずるにしては粗雑すぎる感じがします。
むしろ、「カール・マルクス」でレーニンが指摘したように、「フランスの革命的諸学説」あるいは、「フランスにおける一八世紀後半から一九世紀にかけての階級闘争を生みだした諸学説」をもって、理論的源泉とした方が妥当であると思われます。
このようにとらえるなら、ルソーを源泉としてとらえることが可能となります。ルソーの『契約論』は、何よりも当時革命の書として受取られていたからです。
「フランスの人民が、ブルボンの絶対王政のクビキをふりほどき、自由を回復するたたかいに起ち上がったのは、ルソーの死後一一年目であった。フランス革命勃発の前年、マラーはパリの街頭で『社会契約論』の一部を朗読して、人民の奮起をうながした。ロベスピエールはアルトワ州から三部会の第三身分代表に選出されて、郷里アラスを出発するにあたって、『ルソーへの讃辞』を書き、『ルソーの尊い足跡を追い』、『その著作からくみとったインスピレイションにたえず忠実に』行動することを誓った。『苦難を代償として、時期尚早の死さえも代償として』ルソーの思想を生きようと決意したのである。
革命の聞幕とともに、ルソーの影響力はにわかに増大し、『一般意志』『社会契約』などという言葉は、革命家の日常用語となった。反革命派も反対するためにその著作を読まねばならなかった」(『ルソー』一七六、一七七ページ、岩波新書)。
これにたいし、エンゲルスが、階級闘争の源泉として掲げているのは、ヘーゲルの社会発展観とチャーチスト運動などの階級闘争です。
しかし、ここで一言しておきたいのは、もし社会発展観を問題とするのであれば、ヘーゲルよりもはるかにルソーの方が史的唯物論に接近した理論を展開しているということです。エンゲルスも、『不平等論』と『契約論』には、原始状態(原始共産制社会)の平等、社会状態(階級社会)の不平等、社会契約国家(社会主義・共産主義社会)のより高度な平等との思想が展開されており、「ルソーのこの書物には、すでにマルクスの『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがある」とのべていたことは、すでに紹介しました。
しかも、ルソーは、この社会発展を私的所有の問題に関連させて議論していることは、歴史を唯物論的見地から解明したものとして、史的唯物論と同じ立脚点に立つものです。
「『不平等起源論』の意義は、ルソーの死後、社会主義の思想や運動がひろがるにつれて、改めて顧みられるようになる。とくに、マルクス主義が普及するにつれて、マルクス以前にすでに財産問題の重要性と、その弊害をこれほど深刻にルソーが分析しえたことが驚嘆の念をもって回想されてくる」(同二〇ページ)。
第三に、フランス社会主義(空想的社会主義)を源泉とするのは、レーニンの独自の考えであるということです。
エンゲルスの場合は、「空想的社会主義」は、社会主義を科学にする必要性を実感させるものとしての意義をもつことは指摘されながらも、科学的社会主義を生みだした「実在的な基盤」、つまり源泉としてはとらえられていません。
またレーニンの場合も、「フランス社会主義」が源泉としてかかげられながらも、論理的には、その理論が科学的社会主義の理論の柱として保存されているかといえば、そうはいっていないのです。
こうしてみてくると、あらためて「フランス社会主義」を階級闘争の学説の源泉としてとらえるべきなのか否かは、問題であるといわざるをえないことになります。
講をあらためて、この問題を検討してみることにしましょう。
二〇〇三・七・二八
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