『科学的社会主義の源泉としてのルソー』より
第九講 一七九三年憲法
フランス人権宣言
フランス革命は、絶対主義と封建的土地所有とを徹底的に廃棄した、代表的なブルジョワ民主主義革命でした。 この革命は、ブルジョワジーとパリの民衆が推進力となったのですが、権力を握ったブルジョワジーは、一七八九年「人および市民の権利宣言」(フランス人権宣言)を発して、封建的な身分制を廃止し、立憲君主制などを実現します。
フランス人権宣言は、一見するとルソーの思想を体現したような装いをもっていました。ルソーのいうオムとシトワイヤンの区別にしたがい、「人(オム)および市民(シトワイヤン)の権利宣言」と題されただけではなく、第一条に「人間は自由なものとして生まれ、かつとどまり、また権利において平等である」と、『契約論』の冒頭の文章が引用され、自由・平等が謳われました。
第二条には、「あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」として、社会契約説がとりこまれ、第六条には、「法は一般意志の表明である」として、人民主権を特徴づける一般意志までもが規定されたのです。
しかし、それは、ルソーの「社会契約論」の主張するところと、全く似て否なるものでした。
第一に、ルソーが不平等の根源として批判した私的所有は、自然法としての所有権として保障され、ブルジョワジーの取引の自由、搾取の自由を認めたのです。
第二に、主権に関しては、「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する」として、あえて、「人民」ではなく「国民」と表現されました。
そして、国民(ナシオン)とは、人民(プープル)の総体という抽象的な集合体であり、この集合体が主権者だというのです。しかし、国民という抽象体は、みずから主権を行使する意思能力を欠きますから、選挙によって選ばれた人民代表が実際の主権の行使者となるというのです。となると、選挙は、主権の行使そのものではなく、主権の行使者を選ぶ「職務(公務)」にすぎないことになり、租税や身分による制限選挙も許されることになります。こうして、市民は、平等原則に反して能動的市民と受動的市民に区別され、受動的市民としての民衆には選挙権は与えられませんでした。
第三に「法は一般意志の表明である」という規定からすると、一般意志は、全体意志から形成されますから、すべての市民が一般意志形成に参画することが必要になりますが、「すべての市民は、自身でまたはその代表者を通じて、その作成に協力することができる」とされるのみで、実際には、代表者のみが、法を制定しうることにされたのです。
ブルジョワジーは、いったん権力を握ると、ルソーの思想の体現を求めるサン=キュロット(貴族のはいていた細く短いズボン〈キュロット〉をはかない民衆)とよばれる、小商工業者、職人、労働者、小経営主(親方)などの革命的な要求を押さえ、王党派と結んで革命を裏切る行為にでます。
怒った民衆、サン=キュロットは、武装蜂起して一七九二年八月王制を廃止し、第一共和制を実現します。第一共和制は国民公会によって運営されますが、それを担ったのは、いずれも小ブルジョワジーの政党であるジャコバン党とジロンド党でした。他方、サン=キュロットは制限選挙によって国民公会から排除されていたため、議会外にとどまり、独自の政治クラブをつくって共和制を支えます。一七九三年六月ジャコバン党の山岳(モンターニュ)派がサン=キュロットの支持をうけてクーデターにより政権を握り、ジャコバン(山岳派)独裁の政治となります。
ジャコバン独裁の指導者が、ロべスピエールや、サン・ジュストであり、彼らはルソーの思想的影響を強く受けていました。
ジャコバン独裁のもとで、サン=キュロットの圧力もあり一七九三年憲法が制定されますが、小ブルジョワジーの党・ジャコバンはその実施を口実を設けて延期し、結局実施されないまま、ブルジョワジーによるクーデター、いわゆる「テルミドールの反動」でロベスピエールは処刑されてしまい、フランス資本主義は、みずからの権力を確立するに至るのです。
ジャコバン独裁
パリの民衆を中心とするサン=キュロットは、革命の全過程において文字どおり革命の推進力となり、フランス革命を「自由・平等・友愛」の理念のもとに、最後まで遂行しようとした勢力でした。
彼らは、都市生活者として共通していたところから、生活必需品の高騰、特に食糧危機が運動の動機となりましたが、他方で能動的・受動的市民に区別する不平等な制限選挙にも反対していました。
彼らの社会理念は、所有の否定ではなく、所有の平等性を志向するものであり、政治理念においては、人民主権を唱え、革命のなかで直接民主主義をつらぬきました。国民公会の議員は、「人民の代表者ではなく、人民の受託者と呼ばれなくてはならない」とか、「代議員は自由ではなく、代表者という形容詞を僭称すべきでないことを想起せよ。・・・・・・意志は代表されることはできない」などと主張しました。(柴田三千雄『バブーフの陰謀』四三、四四ページ、岩波書店)。
いわば、サン=キュロットは、その社会理念においても、政治理念においてもルソーの影響を強く受けていました。
これにたいして、議会勢力として終始革命の指導的地位にあったのがジャコバン党であり、そのなかの山岳(モンターニュ)派は議会外のサン=キュロット運動を議会に仲介する役割を担いました。
こういう議会内外の連携した運動のもとに一七九三年のジャコバン憲法が制定されたのです。
「ルソーの影響が本格的となるのは、ロベスピエールらのモンターニュ派が主導権をにぎってからで、この時期に愛国主義と民主主義がかたく結合され、民衆の政治参加が決定的となる、そして一七九三年憲法は、はっきりと人民主権と普通選挙を規定し、リコール制や国民投票などの直接民主主義の方式を導入した。ジュネーブの哲学者(註、ルソーのこと)の思想が、一般民衆のあいだにまで浸透したことは、『国民公会』に提出された多くの請願文のなかにはっきり認められる」(『ルソー』一七七ページ、岩波新書)。
一七九四年四月、ジャコバン独裁の国民公会は、ルソーの遺骸をエルムノンヴィルの緑の島から「偉人の殿堂」パンテオンに移送することを決定し、ロベスピエールは、「おお、なんじ真の崇高なる人類の友よ。羨望と陰謀と専制によって迫害されたなんじ、不滅のジャン・ジャックよ。この名誉はまさになんじにこそあたえらるべきものだ」と語ったのです(『契約論』二三六ページ)。
一七九三年憲法
以上を背景として、「人権宣言集」(岩波文庫)に収録された九三年憲法の内容をみてみましょう。
まずその「解説」をみると、「この宣言は、一般にきわめて民主主義的であるものといわれ、その民主政的傾向は、この宣言自体が直接人民から発しているような立言を行なっていること」に窺われると、その全体的評価がなされています(同一四二ページ)。
まず主権については、「主権は人民に存する。それは単一かつ不可分であり、消滅することがなく、かつ譲渡することができない」(同一四六ページ)と規定され、一七八九年人権宣言の国民主権が否定されると同時に、ルソーの人民主権と一般意志論の特徴がそのまま採用されています。
また、「法は総意(註 一般意志)の自由かつ厳粛な表明である」(同一四三ページ)とされるのみならず、「おのおのの市民は、法を作成し、およびその受任者またはその代理人を任命する平等の権利を有する」(同一四六ページ)として、代表者は、人民の「受任者または代理人」として位置づけられています。これは純粋代表制を否定し半代表制または半直接制を採用したものであり、直接民主主義の原則がつらぬかれています。
この直接民主主義は、公務員を、人民の公僕とするところにもあらわれており、「公職は、本質的に有期的である。それは優遇または褒賞とは考え得ず、義務とみなすべきである」(同)とされています。
また政府も、主権者の公僕であるとの観点から、「政府が人民の権利を侵害するときは、叛乱は、人民および人民の各部分のため権利の最も神聖なものでかつ義務の最も不可欠なものである」(同一四七ページ)として、人民の革命権、抵抗権が規定されています。
こういう人民主権と直接民主主義の原理にたって、「人(オム)」としての権利は、自然権としての、「平等・自由・安全・所有権」(同一四三ページ)と定められています。平等権が、自由権に先行しているところに、サン=キュロットの社会理念があらわれています。
平等権については、「すべての人々は、本性により、かつ法の前に平等である」とされたのみならず、「すべての市民は、平等に公職に就任することができる。自由な人民は、その選出に当り、徳性および才能以外の優先事由を知るものではない」(同一四三ページ)として、資産や身分による制限選挙を否定し、普通選挙制を明記していました。
自由権については、「自由は、他人の権利を害しないすべてをなし得る人の権利」(同)とされ、出版の自由、集会の自由、人身の自由が具体的に定められています。
また、自由を人間の本質として、奴隷契約を否定したルソーを反映して、「すべての者は、その奉仕、その時間の拘束を契約することができる。しかしながら自己を売却し、または売却されることはできない。その一身は譲渡しうる所有物ではない。法は奴婢の状態をみとめない」(同一四五ページ)と規定しています。
ルソーは、「政治的結合の目的は何か?それは、その構成員の保護と繁栄である」(『契約論』一一八ページ)と語っています。九三年憲法は、一方では、所有権の自由を認めながらも、他方で「構成員の保護と繁栄」を確保するための社会権的規定をもいち早くもりこんでいるのには驚ろかされます。
「公の救済は、一の神聖な負債である。社会は、不幸な市民に労働を与え、または労働することができない人々の生存の手段を確保することにより、これらの人々の生計を引きうけなければならない」。
「教育は、すべての者の需要である。社会は、その全力をあげて一般の理性の進歩を助長し、教育をすべての者の手の届くところに置かなければならない」。
「社会的保障は、各人にその権利の享有および保全を確保するためのすべての者の行動に存する。この保障は、国民主権の上に基礎を置くものである」(同一四五、一四六ページ)。
この社会権的規定は、フランス革命の掲げた「友愛」の精神を具体化したものでした。
こうして、九三年憲法は、フランス革命のスローガンである「自由・平等・友愛」を名実ともに実現するものであり、フランス革命の精神を完成させるものでした。それは一方では、八九年の「人権宣言」のもつブルジョワ民主主義の制約を打ち破るとともに、他方では、ルソーの「社会契約論」の思想をより具体化し、発展させたものということができるでしょう。
マルクス、エンゲルスの九三年憲法批判
このように、九三年憲法は、現代のブルジョワ民主主義憲法の水準からしても、抜きんでた存在としてそびえたっています。
しかし、マルクスは、一八四三年秋に執筆した「ユダヤ人問題によせて」のなかで、九三年憲法が、「市民社会の成員の権利、すなわち利己的人間の、人間と共同体とから切りはなされた人間の権利にほかならない」(全集①四〇一ページ)との見地から、全面的な批判を加えています。
まず、「自由の本質はどこにあるか」と問い「他人の権利を害しないすべてをなし得る、人の権能」という自由権の規定は、「人間と人間との結合にもとづくものではなく、むしろ人間と人間との区分」にもとづく、「自己に局限された個人の、権利」(同四〇二ページ)と批判しています。
そして、「自由の人権の実際上の適用は、私的所有という人権」であり、それは、「他人にかまわずに、社会から独立に、その資力を収益したり処分したりする権利、つまり利己の権利」(同)にすぎないときめつけています。
平等という人権も、「各人がひとしくこのような自立的なモナド(註 ライプニッツの用語で、原子のようなもの)とみなされること」(同)にすぎず、安全という人権も、「全社会はその構成員の各自にたいして、その一身、その権利およびその所有の保全を保障するためだけに存在するという、警察の概念」(同四〇三ページ)にすぎない、とされています。
こうして、九三年憲法は、次のように総括されます。
「だから、いわゆる人権はどれ一つとして、利己的な人間以上に、市民社会の成員としての人間以上に、すなわち自分の殻、私利と我意とに閉じこもり共同体から区分された個人であるような人間以上に、こえでるものではない」(同)。
マルクスは、この見地にたって、八九年の人権宣言を内容とする九一年憲法と九三年憲法を同列に並べて批判をしています。
一八四四年九月から一八四六年二月にかけて、マルクス、エンゲルスの著した「聖家族」では、この見地をさらに展開して、次のようにのべています。
「近代国家による人権の承認は、古代国家による奴隷制の承認となんらちがった意味はもたない。つまり古代国家が奴隷制をその自然的土台としたのとまさにおなじように、近代国家が自然的土台としたのは、市民社会、ならびに市民社会の人間、すなわち、私的利害と無意識の自然必然性というきずなによって人間と結ばれていることにすぎない独立の人間、営利活動と彼自身ならびに他人の私利的欲望の奴隷である。近代国家は、そのようなものとしてのみずからのこの自然的土台を普遍的人権のかたちで承認した」(全集②一一八ページ)。
ここにいう「市民社会」とは、ヘーゲルの『法の哲学』で使用された概念ですが、ここでは資本主義経済社会という意味に理解すればいいでしょう。
マルクス、エンゲルスは、ブルジョワ民主主義革命をつうじて、一見すると政治的解放を実現したようにみえるけれども、それは他方では、資本主義の発展をもたらす条件を生みだしたにすぎないことに注意を喚起したものです。そして資本主義的生産様式そのものは、本来社会共同体の一員として、社会とともにある人間を、資本主義の競争原理によって、バラバラな原子的かつ利己的人間に解体し、人間疎外をも生みだしたことを批判したものといっていいでしょう。
この現実的分析のうえにたって、マルクス、エンゲルスは、社会の根本的改革のためには、政治的改革では足りない、社会の土台となっている経済的諸関係そのものを改革しなければならないとして、以後「市民社会」つまり経済学の研究に打ちこんでいくのです。
そのかぎりでは、このマルクス、エンゲルスの人権のとらえ方も理解できないわけではありませんが、今日的状況からすれば、大いに問題があるといわざるをえません。
以下その問題点を検討してみることにします。
マルクス、エンゲルスの人権論批判
まず第一に、マルクス、エンゲルスが、人権そのものについて、積極的評価を与えていないのは、問題だといわざるをえません。
史的唯物論は、「これまでのすべての歴史は、原始状態を別とすれば、階級闘争の歴史であった」(全集⑲二〇五ページ)としてとらえます。階級社会における社会発展の原動力は、階級闘争に求めることができます。
「近代国家の人権」は、アメリカの独立宣言(一七七六年)とフランス人権宣言(一七八九年)とをもって、二大嚆矢としています。この二つの人権宣言は、いずれも激烈な階級闘争の結果、ブルジョワジーが勝利した革命によって手にすることのできた階級闘争の産物です。この二大革命が、封建制社会から、資本主義社会へと社会を発展させる大きな力となったことは否定できません。いわば、これらの人権宣言は、階級闘争による社会発展を象徴的に表現するものといっていいでしょう。
人間が人間として尊重され、人間が人間であるというだけで、自由や平等などの基本的人権を享有し、個人の尊厳が認められることは、類としての人間そのものの歴史的発展を示すものです。
人間が猿から分離して人類として誕生して以来、人間は類本質として持っていた自由な意識と社会共同性のもとで、自由と民主主義への欲求を、その内的本質に根ざした類的要求として持ち続けてきました。
しかし、生産力の発展のなかで、私有財産が生まれ、搾取と階級支配、階級支配の機関としての国家の成立のなかで、自由と民主主義は様々に歪曲され、制限され、剥奪されてきました。
ブルジョワ民主主義革命から生まれた人権宣言は、人間の類的本質に根ざす自由と民主主義を、はじめて人間が生まれながらに有する「権利」だと宣言することにより、人類史上画期的な意義を持つに至ったのです。
この人権思想はその後の階級闘争を発展させる有力な武器になると同時に、また階級闘争の前進は、人権の内容をより豊かなものとして発展させました。自由・平等を中心とする人権は、第一世代の人権とよばれています。その後ロシア革命の影響により、資本主義諸国においても、第二世代の人権とよばれる社会権(労働の権利、生存権、教育を受ける権利)が誕生しました。日本国憲法は、非軍事平和と平和的生存権を打ち出しましたが、この平和的生存権は、第三世代の人権とよばれています。
マルクス、エンゲルスが、近代の人権思想に消極的姿勢をみせていることは、彼らが科学的社会主義に脱皮する以前から、検閲を批判して出版の自由を主張し(「プロイセンの最新の検閲訓令にたいする見解」全集①三ページ)、「営業の自由、財産・信教・出版・裁判の自由」(同七九ページ)などを主張していることからしても、納得のいかないところです。
またマルクスが、一八六四年リンカーンが大統領に再選された際の祝辞として、「まだ一世紀もたたぬ昔に一つの偉大な民主共和国の思想がはじめて生まれた土地、そこから最初の人権宣言が発せられ、一八世紀のヨーロッパの革命に最初の衝激があたえられたほかならぬその土地」(全集⑯一六ページ)として、アメリカの独立宣言を積極的に評価していることとも矛盾するものといわざるをえません。
二〇世紀は、人権思想の普遍的価値が全世界的に確認され、一九四八年には、「世界人権宣言」が国連総会で採択されています。こうした点からも、マルクス、エンゲルスの「ユダヤ人問題によせて」と「聖家族」にみられる人権思想への一面的批判と軽視は、今日の到達点からして批判をまぬがれることはできないでしょう。
第二に、マルクスが、九一年憲法と九三年憲法を同列にみていることも、階級闘争との関係で問題であるといわざるをえません。
その箇所をみておきましょう。
「まさに自己を解放しはじめ、さまざまな民族成員間のすべての障害を粉砕しはじめ、一つの政治的共同体を建設しはじめた民族、こうした民族が、同胞や共同体から区分された利己的な人間の是認を堂々と宣言したこと(一七九一年の宣言)、そればかりかもっとも英雄的な献身だけが国民をすくうことができ、したがってこうした献身が強制的に要求された瞬間・・・・・・に、こういう宣言がくりかえされたこと(一七九三年の、人・・・・・・の権利宣言)は、それだけでもすでに謎である」(全集①四〇三ページ)。
憲法というものは、一国の最高法規となるものですから、憲法を根本的に改正するということは、階級闘争の結果として一国の社会体制が根本的に変革したことを前提としています。
フランス革命は、大きく三つの段階に分けることができます。
「まず『貴族の反抗』または『貴族革命』によって口火を切られ、フイヤンやジロンダン系の大ブルジョワ中心の自由主義的革命が第一段階にあたる。第二段階は、下層民衆のエネルギーを背景とし、短期間独裁権力を集中した山岳党=ジャコバン系の小ブルジョワの民主主義的革命であり、最後の段階が『テルミドール以後』である」(平岡昇『平等に憑かれた人々』二〇ページ、岩波新書)。
この区分でいくと、九一年憲法は、大ブルジョワの自由主義的革命の産物であり、九三年憲法は、小ブルジョワの民主主義革命の産物です。革命の推進力となったサン=キュロットをはじめとする民衆は、第一の革命にあき足らず、第一共和制を樹立して、九三年憲法を制定させたのです。ここには明らかに、社会発展の異なる二つの段階が存在し、それをもたらしたものは、階級闘争の発展なのです。
したがって両者を、「近代国家の人権」でひとくくりにし、同列に論ずることは、階級闘争を原動力とする社会発展を否定するに等しい議論といわなければなりません。
実際にも、九一年憲法のもとでは、制限選挙により民衆の政治参加の道はとざされていましたので、階級闘争の手段としては、蜂起以外に考えられませんでした。しかし九三年憲法により、普通選挙が認められましたので、これにより人民が議会の多数派を形成し、議会をつうじて社会改革をおしすすめることに道が開かれ、階級闘争の形態そのものに大きな変化をもたらすことが予定されていたのです。
第三に、先にも紹介しましたように、九三年憲法は、フランスにおいてはフランス共産主義を生みだし、イギリスにおいては、チャーチスト共産主義を生みだすきっかけとなったことは、マルクス、エンゲルスも認めているところです。
何故、九一年憲法では生じなかったことが九三年憲法のもとで生じたのかといえば、九三年憲法の人民主権論は、サン=キュロットをはじめとする民衆にとって、人民解放の土台をきずくものとして受けとめられたからに他なりません。
国民主権と人民主権とでは、天地のちがいがあることをパリの民衆は見ぬいていたからこそ、制限選挙の撤廃と普通選挙の実施を求め、人民主権を求めて王制を倒し、共和制を実現したのです。人民主権を規定した九三年憲法は、少なくとも、人民を政治的に解放する理論的武器として受けとめられたために、この武器をつかって、階級の廃止にまでつき進もうという、共産主義の理論に結びつくことができたのです。
二一世紀の今日、人権の持つ意義はますます重くなっています。マルクス、エンゲルスは、社会主義・共産主義の社会を、「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会」(全集④四九六ページ)とか、「各個人の完全で自由な発展を基本原理とするより高度な社会形態」(『資本論』④一〇一六ページ、新日本新書)などととらえ、自由と民主主義の全面的に開花した人間解放の社会ととらえました。
その意味では、マルクス、エンゲルスは社会発展を、階級社会のもとで歪曲、制限、制約されている人間の類本質としての自由と民主主義が、階級闘争をつうじて、次第に回復、拡大し、自由と民主主義のより完全かつ全面的発展に向かって前進していく人間解放への道と、大きくとらえていました。
それはいわば、社会発展を階級闘争の発展による人権の拡大・発展の歴史としてとらえることでもあります。
それだけに、「ユダヤ人問題によせて」や「聖家族」での人権軽視の思想にたいしては、原則的立場から批判しておくことが必要だと考えるものです。
またこうした観点からも、人間の本質を自由・平等ととらえ、人権思想の幕をきって落としたルソーの役割について、改めて今日的評価が加えられるべきものと思います。
二〇〇三・七・三一
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