『弁証法とは何か』より
第一講 ヘーゲル哲学とは何か
一、はじめに
講義の目標
今日から全二十回で、ご一緒にヘーゲル『小論理学』を使って弁証法とは何かを学んでいくことにしましょう。
いうまでもなくヘーゲル哲学は科学的社会主義の学説の源泉の一つであり、いまだにくめどもくみつくせない深遠な弁証法の源泉ということができます。
マルクスは、『資本論』の「あと書き〔第二版への〕」で、「私は、自分があの偉大な思想家の弟子であることを公然と認め」(前掲書①二八ページ、新日本出版社)る、とまでいっています。
ヘーゲル哲学を代表する著作が「論理学」であり、そこには『大論理学』(武市健人訳、岩波書店)と『小論理学』(松村一人訳、岩波文庫)という別個の二つの著作があります。
この講義では、ヘーゲルの晩年の哲学体系を構成する『小論理学』をテキストにしていきます。テキストが手に入りやすいのに加え、内容的にもヘーゲルのより完成された哲学になっていると思われるからです。
今回の講座で、まず第一に心がけたいことは、労働者に分かる内容にするということです。ヘーゲル哲学は難しいことで有名ですが、できるだけ分かりやすく、しかもその真髄をとらえた内容にしていくのが目標です。
第二に、科学的社会主義の理論をより豊かにするためにヘーゲル弁証法を学ぶのであって、ヘーゲル哲学それ自体を解説することを目的とするものではない、ということです。
ヘーゲル弁証法は観念論哲学だといわれています。マルクスは、「弁証法はヘーゲルにあってはさか立ちしている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない」(前掲書二八ページ)といっています。もちろん形式的にひっくり返せばよいということではなくて、唯物論的見地にたってヘーゲル弁証法の積極的部分を学ばねばならないという意味でしょう。
講座名を「ヘーゲル『小論理学』を読む」ではなく、「ヘーゲル『小論理学』に学ぶ」としたのも、その意図のあらわれです。
ヘーゲル哲学は、難解ではあっても読むに値する著作です。それにとどまらず現代において、もっと読まれるべき著作といっていいでしょう。一見すると現代は、全世界的規模での貧困と格差の拡大、地球温暖化と環境破壊、暴力の連鎖など、閉塞感のただよう時代となっています。こうした時代にあってヘーゲル哲学は、人間らしくより善く生きる心の支えとなり、生きる力と勇気を与えてくれる哲学です。
労苦を惜しまず、最後まで読み通せば、必ず深い満足感が得られるであろうことを確信するものです。
なぜ再び『小論理学』か
一九九九年に『ヘーゲル「小論理学」を読む』(学習の友社)という著作を出版しています。にもかかわらず、今回、同様の講義をくり返すのは、前著のもついくつかの制限を打ち破りたいと考えたからです。
まず第一に、前著は、『小論理学』の文章をほぼ全文引用し、それに解説を加えるというコンメンタール形式をとったために、上下二冊、千百ページの大著となりました。そのため、労働者にとってとっつきにくいものとなっていたことへの反省です。前著は数年前に完売となり、増し刷りを要請する声も多数届いていたところから、多少手直しして増刷しようかとも思ったのですが、あらためて、ポイントを押さえたコンパクトな読みやすいものにとの思いから、再度の試みとなったものです。
第二に、『小論理学』は『大論理学』と異なって独立した著作ではなく、『哲学的諸学のエンチクロペディー』(通称『エンチクロペディー』)の第一部「論理学」を指しており、第二部が「自然哲学」、第三部が「精神哲学」となっています。
この『エンチクロペディー』には、第一部から第三部までの全体にかかわる「エンチクロペディーへの序論」(第一節から一八節)があり、この「序論」で、そもそもヘーゲル哲学とは何か、という基本姿勢が述べられています。さらに、『小論理学』には「論理学」そのもののたいへん長い「予備概念」(第一九節から八三節)がついていて、第八四節からようやく本論ともいうべき「有論」が始まっているのです。この「予備概念」では、「序論」の基本姿勢を受けて、ヘーゲル哲学は近代合理主義のうえにたった諸哲学の制限を乗り越える科学的な哲学として誕生したことが示されています。
したがって「序論」と「予備概念」を学んでから本論に入る方がヘーゲルの主旨にも沿っているし、本論の理解を容易にすることができます。
ところが前著ではこの部分を省略し、いきなり本論に入っていましたので、今回はそれを補った講義にしたいと考えたのです。
第三に、ヘーゲル哲学は弁証法的論理学です。客観世界を正しく認識し、真理をとらえる思惟形式(思惟の方法、思惟の法則、思惟の枠組み)が論理学とよばれるものです。
論理学には客観的事物をバラバラな、かつ静止したものとしてとらえる形式論理学と、事物を連関し運動するものとしてとらえる弁証法的論理学(略して弁証法)があります。
客観世界とは物質の世界であり、「運動は物質の存在の仕方」(全集⑳六一ページ/『反デューリング論』上八八ページ)です。したがって運動のない物質は存在しないのであり、また運動は物質相互の関連を生みだします。バラバラな、静止した物質というのは一時的、相対的な運動の形態にすぎず、運動し連関する物質の特殊な一運動形態にとどまります。
真理をとらえる思惟形式として、形式論理学と弁証法とは、どちらも必要なものですが、特殊な運動をとらえる形式論理学は、運動一般をとらえる弁証法という思惟形式に包摂されているということができます。
したがって弁証法という思惟形式が唯一の真理認識の方法であるということになるのです。
ヘーゲルは、「弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で叙述した」(『資本論』①二八ページ)のであり、それを試みたのが論理学です。
しかし、ヘーゲル弁証法はその論理学にとどまらず、ヘーゲル哲学全体を貫く太い柱となっています。とりわけ、論理学とならぶヘーゲルの主著『法の哲学』では、その序文で、わざわざそこに用いた方法は弁証法であると指摘し、弁証法を使って論理を展開したところに『法の哲学』の真理性があるとまで述べています。
マルクスは、それにならって『資本論』の「あと書き〔第二版への〕」で、『資本論』で用いた方法は弁証法であったと語っているのです。
このヘーゲル弁証法を意識的に継承・発展させようとしたのが、ロシア革命を指導したレーニンであり、その成果は『哲学ノート』(レーニン全集㊳)に結実しています。
こうしたこともあって、前著発刊以降、『変革の哲学・弁証法 ── レーニン「哲学ノート」に学ぶ』(二〇〇一年、学習の友社)、『ヘーゲル「法の哲学」を読む』(二〇〇五年、一粒の麦社)、『「資本論」の弁証法』(二〇〇六年、一粒の麦社)など、弁証法に関わる著作を次々と発表してきました。
自分なりに弁証法の理解も八年前より深まったと感じていますので、今回はこれらの成果のうえに立って、もう一度『小論理学』をテキストとしながら弁証法そのものを学び直してみようというものです。
二、ヘーゲル哲学の本質
ヘーゲル哲学の二面性
本論に入る前に、ヘーゲル哲学の本質はどこにあるのかについて一言しておきます。ヘーゲル哲学には、革命的な側面と保守的な側面があるようにみえます。そのためヘーゲルの死後ヘーゲル学徒は、ヘーゲル左派(青年ヘーゲル学派)とヘーゲル右派(老ヘーゲル学派)に分かれることになりました。マルクスも、若い頃青年ヘーゲル学派に属していました。
エンゲルスは『フォイエルバッハ論』において、その分岐点を「弁証法的方法を主要なものと見た者」(全集㉑二七五ページ/古典選書『フォイエルバッハ論』二四ページ、新日本出版社)と「ヘーゲルの体系に重点をおいた者」(同)とにおき、「ヘーゲル自身は、その著作のなかで、かなりひんぱんに革命的な怒りを爆発させているにもかかわらず、全体としては保守の方へ傾いているように見えた。なにしろ彼にとっては、自分の方法よりも自分の体系の方がずっと『骨の折れる思想上の仕事』を必要としたのであったから」(同)と述べています。
しかしヘーゲルほどの哲学者が、一個の人格(主体)のなかに矛盾する二つの思想的立場をもつということは、およそ考えられないことです。そうでなければ、ヘーゲルは二重人格ということになってしまいます。最近のヘーゲル研究をつうじて、ヘーゲル哲学の本質は、ただ一つ、その革命的性格にあり、保守的な側面は、次第に反動化していったプロイセン当局に対する隠れ蓑だったのではないかとの解釈が定着しつつあるように思われますし、この見地にたってこそヘーゲル哲学を正当に評価することができると考えるものです。
ヘーゲル(一七七〇~一八三一年)の生きた時代は、フランスで革命が勃発(一七八九年)し、王制廃止と第一共和制(一七九二年)、ジャコバン独裁と恐怖政治、テルミドールの反動(一七九四年)によるブルジョアジーの権力確立、ナポレオンのクーデター(一七九九年)とナポレオン帝政、ナポレオン戦争を経て反動的ウィーン体制の確立(一八一五年)、革命の継承・発展を求めた三月革命(一八三〇年)とその失敗など、フランス革命の起承転結のすべてが展開した激動の時代でした。
「彼は生涯一度も、この革命を、完結した出来事として、対岸の火事を見るようにこの革命の動乱とは関係ない安定した世界から、回顧することなどはできなかった。一七八九年から一八三〇年にいたる時期を満たしているもののすべてが、 ── 希望と恐怖となって ── 彼自身の運命ともなる」(ヨアヒム・リッター『ヘーゲルとフランス革命』出口純夫訳、一九ページ、理想社)。
ヘーゲル哲学の本質は革命性
「自由・平等・友愛」を旗印に革命がはじまったとき、大学生だったヘーゲルは熱狂して友人のシェリングやヘルダーリンらとともに「自由の樹」を植え、革命歌を高唱しながら踊りまわったといわれています。
その後の恐怖政治やブルジョア権力の確立を目の前にしながらも、ヘーゲルは自由の精神を賛美し続け、挫折したフランス革命の精神を自己の哲学において完成させようとして、『法の哲学』を著すのです。
しかし当時ヘーゲルは、すでに反動的プロイセン王国が官僚養成機関として設立したベルリン大学哲学教授の地位にあり、言論弾圧から逃れるためには、奴隷の言葉で革命の哲学を語らなければならなかったのです。
エンゲルスは、『法の哲学』が、「プロイセン王国の国定哲学の位にまでまつりあげられてさえいた」(全集㉑二六九ページ/『フォイエルバッハ論』一二ページ)としながらも、ヘーゲルの「重苦しい退屈な文章のうちに、革命がかくれている」(同)との重要な指摘をおこなっています。
『法の哲学』をつうじて、ヘーゲルはプロイセンの反動的立憲君主制を賛美する保守主義者との評価が固まっていきます。しかし、ハイネの『ドイツ古典哲学の本質』(岩波文庫)によると、ヘーゲルは臨終のベッドで「わしの意見がわかってくれたのは、ただ一人いただけだ」と言ったものの、そのすぐあとに「いや、あの男もほんとうに分かってはくれなかった」とつけくわえた、とされています(前掲書一八九ページ)。
『法の哲学』の「序文」のなかで、ヘーゲルは「哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである」(『世界の名著・ヘーゲル』一七一ページ、中央公論社/中公クラシックスⅠヘーゲル『法の哲学』二七ページ)といっています。その意味ではヘーゲル哲学は、フランス革命という時代の精神を「思想のうちにとらえた」ものということができるでしょう。
『小論理学』を学ぶ姿勢
もちろんヘーゲル哲学の二面的現象は、『法の哲学』にとどまるものではありません。『エンチクロペディー』は、一八二七年に第二版、一八三〇年に第三版と、死の直前まで手直しがされたものですから、当然『小論理学』にも反映されていると考えるべきでしょう。
ヘーゲル哲学をよく学んでみますと、「序論」「予備概念」「論理学」の全体をつうじてその内容はほとんど唯物論的といっていいものであり、いわば唯物論的内容を観念論的外皮がとりまいているという感じがします。ヘーゲル哲学の難しさ、分かりにくさの大きな理由の一つが、この唯物論的内容と観念論的外皮との対立・矛盾にあるのではないかと思われます。
さらに推測をすすめるならば、この観念論的外皮こそ、革命的な唯物論的内容を押し隠す隠れ蓑の役割を果たしているのではないかと思われるのです。
なぜそう考えうるのかの問題も、本講座の一つの課題にしておきたいと思います。
ヘーゲルの真意がどこにあったかはともかくとして、私たちが『小論理学』を学ぶ場合には、「真にあるべき姿」をかかげて理想と現実の統一をめざす弁証法の革命的性格と唯物論的内容とを学ぶという姿勢を貫くことが重要と思われます。この姿勢を貫くうえで、哲学を学ぶ心構えを、テキストの「聴講者にたいするヘーゲルの挨拶」から紹介しておきましょう。
「さしあたり私が諸君に要求しうることは、ただ諸君が学問にたいする信頼、理性にたいする信念、自分自身にたいする信頼と信念を持つということだけである。……精神の偉大さと力は、それをどれほど大きく考えても、考えすぎるということはない。宇宙のとざされた本質は、認識の勇気に抵抗しうるほどの力を持っていない。それは認識の勇気の前に自己をひらき、その富と深みを眼前にあらわし、その享受をほしいままにさせざるをえないのである」。
三、序論
哲学とは何か
「序論」の主題となっているのは、そもそも哲学とは何を対象とし、何をする学問なのかということであり、この問いに答えることによって、ヘーゲル哲学の基本姿勢が結論的に示されることになります。いきなり結論部分を学ぶだけに難解なものとなっています。全部学び終わってから今一度たち返って学んだ方が分かりやすいのですが、とりあえずテキストの順序に従って概略を学んでいくことにしましょう。
哲学の対象となるのは、「有限なものの領域、すなわち自然および人間の精神、それらの相互関係」(一節)です。
ヘーゲルは、自然を「有限なものの領域」としてとらえているのに対し、人間の精神および精神活動の産物(法、道徳、宗教、社会、国家)を無限なものととらえています。ヘーゲルの時代には、まだ自然に歴史があるとは考えられていなかったのです。その後の自然科学の発展は、自然も無限なものとしてとらえうるようになっていますが、ここではヘーゲルの理解にしたがって話を進めることにしましょう。
人間の精神活動は無限に発展しうるものであるとの立場から、自然と人間の精神、有限なものと無限なものとの「相互関係」を探究することが哲学の課題だというのです。
また「有限なもの」として「静止し固定したもの一般」を、「無限なもの」として「運動し連関するもの一般」をもとらえていますので、注意しておいてください。
ヘーゲルは、哲学は「最高の意味における真理を対象としている」(同)といっています。哲学の対象となるのは、自然の真理、人間の精神の真理、そして両者を統一した真理、いわば世界のすべての事物についての真理の認識という認識論なのです。
自然に真理があることに疑問をもつ人はいないでしょうが、人間の精神に真理があるというと、疑問をもつ人もいるでしょう。ヘーゲルは『法の哲学』の「序文」でこの問題をとりあげ、「精神的宇宙は偶然と恣意にゆだねられており、神に見すてられているのだ」との見解を批判し、人間の精神についても「なにが正しいかの尺度をおのれのうちにもっている」(「序文」追加)として、その真理を肯定しています。そして、人間の精神の産物である法、道徳、市民社会、国家については、これらを「概念において把握すること」(同)が真理であると論じているのです。
こうして『エンチクロペディー』という哲学体系は、真理認識の形式をとりあげた第一部「論理学」、有限なものの真理をとりあげた第二部「自然哲学」、無限なものの真理をとりあげた第三部「精神哲学」から構成されているのです。『法の哲学』は、「精神哲学」のうちの「客観的精神」を独立の著作にまで発展させたものです。ヘーゲルのいう「真理」には独特の意味合いがありますので、おいおいお話ししていくことになりますが、この「真理」を探求したのが、『エンチクロペディー』第一部の「論理学」ということになります。
では、どのようにして真理の認識に到達するのかといえば、「対象を思惟によって考察する」(二節)ことによってです。
対象を思惟するとは、具体的には何を意味するのでしょうか。
「哲学は、思惟の一つの独自の様式、すなわちそれによって思惟が認識となり概念的認識となるような様式である」(同)。ヘーゲルは、人間の精神が客観に相対することから生じる「感情、直感、欲求、意志」(三節)などの意識をまとめて「表象」(同)とよんでいます。表象とは、具体的事物の姿を自分の意識のなかに思い浮かべ、イメージすることです。「一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだ」(同)というのです。
つまり哲学とは、対象からえられる感性的な「表象」を、思惟によって思想やカテゴリー、概念という「思惟の一つの独自の様式」、独自の思惟形式にまで高めることによって真理に到達しようとする学問なのです。
カテゴリーとは、「最高類概念」のことです。具体的事物を抽象する度合いを高め、普遍化していくと、例えば人間はヒト科、霊長目、哺乳類、動物、生物というように、これ以上抽象化できない普遍にまで到達しますが、最高に抽象化された普遍的概念が哲学的カテゴリーとなります。その哲学的カテゴリーを最も端緒的、根源的なカテゴリーからより発展した、複雑なカテゴリーへと弁証法的に発展させ、体系化したものが「論理学」です。これは、ちょうど種が芽を出し、葉を出し、茎となり、花を咲かせるなかで一本の木としての同一性を保つような発展であるところから、「萌芽からの発展」とよばれています。
論理学は第一部「有論」、第二部「本質論」、第三部「概念論」という構成になっていますが、そのなかで「有」というカテゴリーから始まり、「絶対的理念」というカテゴリーで終わっています。
ヘーゲルは、「概念」を二通りの意味で使用しています。一つは、通常の意味の概念、すなわち事物に共通する「抽象的普遍」という意味での概念であり、「最高類概念」の概念は、この意味の概念です。もう一つは、ヘーゲル独特の用語としての概念で、事物の「真の姿」、または「真にあるべき姿」としての普遍です。「真にあるべき姿」としての普遍は自らを特殊化し、個別となる普遍として、「具体的普遍」ともよばれています。したがって「思弁的な意味での概念と、普通に概念と呼ばれているものとは区別されなければならない」(九節)のです。第三部「概念論」の概念にもこの二つの意味が込められています。
哲学がわかりにくいとされる理由は、このように事物を抽象化してとらえ、具体的な事物の表象から切りはなされた思想そのものを対象とするところにあるといっていいでしょう。哲学の面白さにたどりつくためには、抽象的な思惟に慣れる訓練が必要です。
有論から本質論へ、本質論から概念論へと進むにしたがって、より高くより深い真理認識の形式へと前進していくことになります。概念論における概念とは、「真にあるべき姿」を意味しています。「概念がはじめて真実なもの、もっとはっきり言えば、有および本質の真理」(八三節補遺)なのです。したがって概念論の最後の「絶対的理念」(二三六節)が最高の絶対的真理の形式となるのです。
哲学の最高の究極目的は理想と現実の統一
以上、哲学の対象となるのは、自然、社会、人間の精神という世界全体であり、哲学の課題はその対象を思惟することによって「思惟の一つの独自の形式」に高め、真理をとらえるところにあることをみてきました。
その意味では、「一口に言えば哲学の内容は現実」(六節)であり、「この内容を最初に意識するものがいわゆる経験」(同)ですから、哲学は「現実および経験と必ず一致せねばならない」(同)のです。
ヘーゲル哲学にとって「現実」は、重要なカテゴリーの一つとなっています。ヘーゲルのいう「現実」とは、「単に現象にすぎないもの」(同)、「偶然的な存在」(同)から区別される、必然的な「現実」あるいは「存在する理性」(同)を意味しています。「哲学の内容は現実」という場合の現実は、二つの意味をもっています。一つは、客観的事物を思惟することによってえられる「現実」という意味であり、言いかえれば事物の本質や法則という「真の姿」を客観的事物から取り出すことを意味しています。もう一つは、客観的事物を思惟することによって、その事物が「必然的な現実」ではなく、単なる現象、偶然的な存在にすぎないことを見いだし、これを「必然的な現実」に転化させるということです。これは、現象のなかから事物の「真にあるべき姿」を取り出し、これを目的に掲げて実践し、客観的事物を「真にあるべき姿」という「必然的な現実」に変革するものということができます。
この後者の意味の現実は、いわば「理想と現実の統一」です。ヘーゲルは、それを「哲学の最高の究極目的」(同)だといっています。ヘーゲルの「概念論」は「真にあるべき姿」をかかげての理想と現実の統一を論じているのです。
「自覚的な理性と存在する理性すなわち現実との調和を作り出すことが、哲学の最高の究極目的と見られなければならない」(同)。
「自覚的な理性」とは、理性のとらえた「真にあるべき姿」を示しています。この文章を解説するものとして、ヘーゲルは『法の哲学』の序文にある「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(同)という有名な命題をあげています。「理性的なものは現実的」とは、理性的なものとしてうちたてられた理念、理想は、現実となる必然性をもつという意味です。さしずめ「真理は必ず勝利する」というところでしょう。「現実的なものは理性的」とは、「必然的な現実」のなかにこそ、その事物の理念や理想が潜んでいるという意味でしょう。
この命題にヘーゲル哲学の真髄が示されており、エンゲルスも『フォイエルバッハ論』で、ここにヘーゲル哲学の「真の意義と革命的性格」(全集㉑二七一ページ/『フォイエルバッハ論』一五ページ)が秘められていると指摘しています。
またこの命題に一切の現実を肯定するヘーゲルの保守主義の典型をみた人々に対し、ヘーゲルは嘲笑をもって応え、これは、理想と現実との統一を訴えた変革の立場を明らかにしたものだといっています。つまり、人間の精神の最高のカテゴリーとしての概念と、客観世界の最高のカテゴリーとしての現実とは、その「相互関係」、人間の実践をつうじて統一されなければならないというのです。
ヘーゲルにとって「理念(イデーまたはイデア)」は、最も重要なカテゴリーの一つです。この「理念」はプラトンの「イデア論」に由来するものです。プラトンは感覚のうちにとらえられた個物の世界は真の世界ではなく、理性によって認識されるイデアの世界こそ真実在の世界、「真にあるべき世界」だととらえました。そのうえで、客観世界における個物はイデアを模写し、あるいはイデアを分有するイデアの影にすぎないとしました。例えば、「ばら」という個物が美しいのは、ばらが美のイデアを分有するからだと考えたのです。ヘーゲルはこのプラトンのイデアを念頭におきつつ、これを「概念」ととらえ、概念が客観化したものを「理念」(二一三節)としたのです。ですからヘーゲルのいう「理念」とは、概念と客観とが一致した真理を意味しています。しかしときには、理念を本来の意味のイデアの意味でも用いており、六節はその例外的使用の一事例です。
ヘーゲルは、「理念や理想は幻想にすぎず、哲学とはそうした幻想の体系にすぎない」(六節)という考えや、「理念や理想は現実性を手に入れるにはあまりに無力である」(同)という考えのいずれをも批判して、次のようにいっています。
「理念と現実とを切りはなすことを好むのは、悟性的な考え方」(同)にすぎないのであり、「哲学はただ理念をのみ取り扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレン(あるべき姿 ── 高村)にとどまって現実的ではないほど無力なものではない」(同)。
ヘーゲルにとって現実の世界がどうあるのかの問題と、それがどうあるべきかの問題とは切りはなしえない問題であり、真にあるべき姿としての概念を高くかかげ、これを実践をつうじて必然的に現実に転化させ、理想と現実の統一を実現することが、「哲学の最高の究極目的」(同)なのです。ヘーゲルが「具体的普遍」というとき、自らを特殊化し、現実性に転化させる「概念」をまず念頭においているのです。
経験論の意義と限界
このように「現実」の内容を「最初に意識するものがいわゆる経験」(同)であるということは、客観的事物を意識のうえに反映した経験が、あらゆる思惟活動の出発点となることを意味しています。
まずヘーゲルは、経験の意義を次のように明らかにしています。
「経験の原理は、限りなく重要な規定をふくんでいる。それは、人が或る内容を受け入れ信じるには自分自身がそれに接していなければならないということであり、もっとはっきり言えば、そのような内容が自分のたしかめたことと一致し結合するのを見出すということである」(七節)。
こうした経験をつうじて、事物の本質や法則がとらえられることになります。
ヘーゲルの時代には、「経験的個別性の大洋のうちにある確かな基準および普遍的なものの認識、一見無秩序ともみえる無数の偶然事のうちにある必然的なものや法則の認識に従事」(同)する経験的諸科学は、すべて哲学とよばれていたようです。
「われわれはこれまで哲学と呼ばれてきた諸科学を、その出発点からみて経験的科学と呼んでいる。しかしそれらが目ざしかつ作り出す本質的なものは法則、普遍的な命題、理論であり、一口に言えば、現存するものの思想である。ニュートンの物理学が自然哲学と名づけられていたのは、こうした根拠を持っているのである」(同)。
しかし、経験的諸科学は、その内容・形式のいずれの面においても一定の限界をもっており、その限界を越えるところに哲学の独自の役割が求められます。
まず内容面からいうと、哲学は、経験的諸科学の対象となる有限な自然に含まれない「自由、精神、神」(八節)のような「無限なもの」(同)をも対象とします。先にもみたように、ヘーゲルは人間の精神そのものとその精神活動の産物(法、道徳、社会、国家など)および運動と連関するものを「無限なもの」ととらえており、これを対象とすることが、内容面からする哲学の独自性となるのです。
ヘーゲルは、「ヌース(宇宙の理性 ── 高村)あるいは精神(これはヌースのより深い規定である)が世界の原因である」(同)と主張するところに、ヘーゲル哲学の特徴があるといっています。ヘーゲル哲学の観念論を示す象徴的な言葉にも思えますが、後にまた詳しく検討することにしましょう。
次に形式面からいうと、本来の哲学は、「最も広い意味での必然性」(九節)を求めるものであり、この観点からすると「経験的科学の方法は次の二つの点で不十分なところを持っている」(同)といっています。
その一つは、経験的科学のとらえる法則等は、抽象的普遍をとらえるのみで、「特殊との連関を持たず、普遍的なものと特殊なものとは互に外的であり偶然的」(同)な関係にすぎません。普遍が自らを必然的に特殊化する具体的普遍、つまり「概念」は、まだ経験のうちにおいてはとらえられていないのです。
もう一つは、「経験的科学は常に直接的なもの、与えられたもの、前提されたものからはじめる」(同)ということです。つまり出発点には、例えば生物学は生物を前提としているように、ある与えられた前提が存在するのであり、その前提が正しいか否か、必然的な「現実」であるか否かは問題とされないのです。
ヘーゲルは「この二つの点から言って、経験的科学の方法は必然性の形式を満足させないもの」(同)と批判し、この要求を満足させるのが「真の哲学的な思惟」(同)であるヘーゲル哲学(思弁的哲学)だと自負しているのです。
では、どこにヘーゲル哲学の真髄があるのかといえば、経験諸科学と共通する「諸形式のほかになお独自の諸形式を持っており、そしてこの独自の諸形式の普遍的な形式は概念である」(同)といっています。つまり、ヘーゲル哲学は、「概念論」をもつことによって、経験諸科学を超える哲学となっているのです。
ここで明確にしておかなければならないことは、ヘーゲル哲学は観念論だといわれていますが、実際には客観的な事実の経験から出発する唯物論の見地に立っており、科学の成果をも受けいれるものだということです。
「思弁的な学問は経験的な諸科学のうちに見出される普遍的なもの、法則、類、等々を承認して、それらを自己の内容のために役立てる。しかしさらにまた思弁的な学問は、経験的な諸科学からえた諸カテゴリーのうちへ他のカテゴリーをも導き入れかつ使用するのである」(同)。
その「他のカテゴリー」こそ「概念」にほかならないのです。
人間は絶対的真理を認識しうるか
人間がその思惟をつうじて経験から出発し、次第により深い認識に前進するとしても、絶対的真理を認識することができるのか、果たしてそれだけの認識能力をもち合わせているのか、という問題があります。
この点について疑問を提起したのがカントの『純粋理性批判』です。カントは「神や事物の本質やの認識にとりかかる前にまず認識能力そのものを吟味して、それが果してそうした能力を持っているかどうかを吟味しなければならない」(一〇節)として、その検討をおこない、結論的には、絶対的なもの、無限なもの、物自体は認識しえないという「不可知論」にいきつきました。
ヘーゲルには、この「不可知論」が許せないし、まず認識能力を吟味しないと真理を認識できるか否かも判断できないというやり方も許せないのです。人間が、「絶対的な対象を認識する能力」(同)をもっているか否かは「それ自身哲学的認識であるから、哲学の内部にのみ属する」(同)のであって、「認識作用の吟味ということは、認識しながらでなければ不可能」(同)であり、認識する以前に認識能力を吟味しようというのは、「水にはいる前に泳ぎをならおう」(同)というようなものだと批判しています。
こうしてヘーゲル哲学は、その哲学の内容をつうじて人間の認識能力は無限であり、真にあるべき姿の認識も含めて無限に絶対的真理に接近しうることを明らかにしていくのです。
人間は、一度に絶対的真理に接近することはできません。認識の不十分さが実践をつうじて検証され、また実践をつうじて新たな認識を生みだすというくり返しによって、人類としても個人としても、次第に認識は発展し、絶対的真理に向かって無限に前進することになるのです。絶対的真理は客観的に存在するものですが、人類はそれに向かって無限に接近することはできても、そこに到達し、すべてを認識し尽くし、これ以上認識が前進しえないということはけっしてありません。ヘーゲルもこのように真理の認識過程を無限の弁証法的発展過程としてとらえています。
いかにして絶対的真理に接近するのか(直接性と媒介性の統一)
この認識と実践の反復による真理への接近、つまり客観から主観へ、主観から客観へという過程のいずれをもヘーゲルは「直接性と媒介性の統一」としてとらえています。直接性とは、他のものに媒介されないで、それだけで存在するという意味であり、媒介性に対立する概念です。「媒介とは第一のものから出て第二のものへ移っていること」(八六節)です。第一のものが直接的なものであり、第二のものが、第一の直接的なものによって媒介されたものとなります。
まず思惟は経験に媒介されながら、経験から「遠ざかりそれを否定するような関係をとるようになる。思惟はこのようにしてまず自己のうちに、すなわち経験的諸現象の普遍的本質をなす理念のうちに ── この理念(絶対者、神)は多かれ少なかれ抽象である ── 満足を見出す」(一二節)。
つまり、経験をつうじて、事物の表面的認識からその本質、法則、類へとより深い認識へ前進し、抽象的認識によって「経験から遠ざか」るのです。こうした本質、法則、類の認識は、いずれも客観から出発し、客観に媒介された認識です。このような媒介された本質、法則の認識をつうじて、思惟は経験的事物を「真にあるべき姿」ではないとして「それを否定するような関係をとるよう」になります。客観に媒介されつつも、客観を揚棄した直接的な思惟の働きをつうじて、事物の「真にあるべき姿」、つまり概念を認識するようになります。ヘーゲルはそれを「思惟が自己のうちへ帰った」(同)、「思惟の自己安住」(同)の状態だといっています。それが思惟の直接性といわれるものであり、思惟は出発点において客観的事物に媒介されながら、その媒介性を揚棄し、思惟の直接的産物としての「真にあるべき姿」を認識して、ここに満足を見いだすのです。
ここまでの「思惟の媒介性から直接性への移行」が認識の発展の第一段階です。続いての第二段階は、「思惟の直接性から媒介性への移行」であって、この「真にあるべき姿」の認識(主観)が実践を媒介にして現実性に転化し、理念(客観)になるという「思惟の自己発展」(同)の過程です。
ヘーゲルは、もし思惟が「理念の普遍性から一歩も進まないならば、それは当然公式主義の非難を受けなければならない」(同)といっています。
すなわち、経験的諸科学は、最終的には自然や社会の変革を目的としているものですから、思惟(理念)を「普遍性および即自的に与えられているにすぎない満足から引き出して」(同)、「本源的な思惟という意味で自由に、事柄そのものの必然にしたがってあらわれ出るという形態を与える」(同)のです。
このように、客観から主観へ、主観から客観へのいずれの過程においても「直接性と媒介性の統一」としてとらえられ、この過程を反覆することにより認識は絶対的真理に前進していくのです。まず第一段階として客観的事物に媒介されつつ、その媒介を揚棄した直接性として、事物の「真にあるべき姿」の概念を認識する。次に第二段階として「真にあるべき姿」の認識は、その直接性を揚棄して実践に媒介され「理念」という現実性に転化する。さらに第三段階として、この現実性に媒介されて、また新たな「真にあるべき姿」が認識されるということを反復しつつ、「真にあるべき姿」とそれを実現した客観とが発展して絶対的真理に無限に前進するのです。これが「哲学の最高の究極目的」(六節)である理想と現実の統一といわれるものです。
ヘーゲルは、この「概念」「理念」というカテゴリーをつうじて、客観世界の合法則的発展という変革の立場を打ち出していったのです。
「このように哲学はその発展を経験的諸科学に負いながらも、目前にあるものおよび経験された事実をそのままに是認するのではなく、諸科学の内容に思惟の自由(先天的なもの)という最も本質的な姿と必然性の保証とを与え、事実をして思惟の本源的な、かつ完全に独立的な活動の表現および模倣たらしめるのである」(同)。
ここも結論を先取りした形になっているのですが、「真にあるべき姿」としての「概念」は、客観世界の普遍性、法則、類を認識したうえで、客観世界の媒介を揚棄し、客観世界を否定した「思惟の自由」の産物です。この概念は、単に彼岸的な理想にとどまるものではなく、実践を媒介として現実性に必然的に転化し、現実を「真にあるべき姿」に変革するのです。「事実をして思惟の本源的な、かつ完全に独立的な活動の表現および模倣たらしめる」とは、この概念にもとづく現実の変革を意味しています。事実を思惟の「表現および模倣たらしめる」とは、概念という思惟の「完全に独立的な活動」(実践)によって、客観的事実を概念に一致させ、概念の「表現および模倣」に変革することをいっているのです。認識から実践へ、実践から認識へという作業を反復することにより、認識および客観世界は無限に発展し、理想と現実の統一としての絶対的真理に接近することになります。
ここにヘーゲル哲学のもつ「変革の立場」がはっきりと示されており、科学的社会主義の学説に継承されるべきものがあるのです。
マルクスは、「フォイエルバッハにかんするテーゼ」(全集③)で次のように述べています。
「これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのをもふくめて)の主要欠陥は対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえられて、感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえられていないことである。それゆえ能動的側面は、唯物論に対立して抽象的に観念論 ── これはもちろん現実的な感性的な活動をそのようなものとしては知らない ── によって展開されることになった」(同三ページ/『フォイエルバッハ論』一〇五ページ)。
ここにいう「観念論」とは、ヘーゲルを指す言葉であることに間違いないと思います。マルクスの墓碑銘ともなった「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」(同五ページ/同一〇八ページ)とのテーゼは、ヘーゲルに負うものということができるでしょう。
哲学の歴史と哲学の体系
ヘーゲルは二千五百年以上に及ぶ哲学の歴史を、「さまざまの連絡のない諸原理」(一三節)の歴史とみるのではなく、真理を探究する「発展段階を異にする一つの哲学」(同)、「一つの生きた精神」(同)としてみるべきだと主張しています。したがって最後の哲学(つまりヘーゲル哲学)こそ「最も発展した、最も豊富な、最も具体的な哲学である」(同)としています。
ヘーゲルは、自己の哲学が中世のスコラ哲学以降の「形而上学」「経験論」「批判哲学」「直接知」という近世の合理的哲学のもつそれぞれの制約を打ち破り、止揚したものであることによって「あらゆる哲学の原理を含」(同)む「最も発展した、最も豊富な、最も具体的な哲学」であることを証明するために、以下の「予備概念」でこれらの哲学の批判を展開しているのです。
この哲学の歴史にあらわれている思惟の発展は、ヘーゲル「哲学そのもののうちに」(一四節)総括して示されているといっています。哲学の歴史を総括したヘーゲル哲学は、真理を探究する理念そのもの、あるいは「絶対者の学」(同)として、「必然的に体系」(同)となっています。というのも、真理とは偶然的なものの寄せ集めではなく、真理の低い段階から高い段階への弁証法的な必然的発展という、「萌芽からの発展」の体系をもたねばならないからです。
「体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的なものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である」(同)。
マルクスは、このヘーゲルの考えを受けついで『資本論』を著し、「たとえどんな欠陥があろうとも、僕の著書の長所は、それが一つの芸術的な全体をなしているということなのだ」(全集㉛一一一ページ)と語っています。
この見地からヘーゲルは、一つのカテゴリーから次のカテゴリーへの移行を、外的で偶然的な、「もまた」という継起の形式でとらえるのではなく、弁証法的な必然的発展の形式においてとらえようとします。こうしたカテゴリーの必然的発展の連鎖をつうじて、ヘーゲル哲学は統体としての体系をもつに至るのです。ですから一つのカテゴリーから次のカテゴリーへの移行時には、弁証法的論理のつながりがあることを理解し、その弁証法的展開を学ぶことが重要だと思います。
ヘーゲル哲学の体系は、理念の体系という形式をとっています。第一部「論理学」は、「即自かつ対自的な理念の学」(一八節)、そもそも理念とは何か、なぜそれが最高のカテゴリーとなるのかを明らかにする哲学です。第二部「自然哲学」は、「本来の姿を失った姿における理念の学」(同)です。有限な世界である自然界は、理念のあらわれではあっても、無限な理念が「本来の姿を失った」形であらわれた分野であることを明らかにする哲学です。これに対し第三部「精神哲学」は、「自己喪失から自己のうちへ帰る理念の学」、つまり理念が本来の人間の精神と精神活動へとたち返って、無限なものとして展開される哲学であり、その中心となるのが『法の哲学』なのです。
「哲学の諸部分の各々はいずれも一つの哲学的全体であり、それ自身のうちで完結した円であって、そこでは哲学的理念は特殊の規定性あるいは領域のうちにある」(一五節)。「哲学の諸部分」としての論理学、自然哲学、精神哲学はいずれも個々の円としてのまとまった体系をなしており、全体としての『エンチクロペディー』は、三つの円からなる一つの完全な理念の体系としての円としてあらわれてくることになります。
なおここで、訳者注(上巻九〇ページ)で述べられている、「即自的、対自的、即自かつ対自的」という用語は、ヘーゲル哲学を特徴づける独特の用語の一つですので、よく頭に入れておいて下さい。
これは、事実についても認識についても用いられる弁証法的展開を示す用語であり、事実の場合には、それぞれ「対立の未分化の状態、対立の発展した段階、対立の同一、統一によって対立が解決された状態」(九〇ページ)を、認識の場合には、「対立したものを自覚しない段階、対立を自覚した段階、そしてこの対立の同一を認識して対立を解決した段階」(同九一ページ)を意味しています。
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