『弁証法とは何か』より
第八講 本質論 ②
一、「ロ 区別」
弁証法の核心は対立物の統一
今日は「A 現存在の根拠としての本質」の「a 純粋な反省規定」の二つ目、「区別」から始めます。
前講で「本質の立場は一般に反省の立場」(一一二節補遺)であることを学びました。「反省」というのは「反射」と同じ意味であり、相手方に行って帰ってくることを意味しています。本質論におけるすべてのカテゴリーは、対立する二つのものの間の反省関係、つまり相互媒介の関係を問題にしているのです。
エンゲルスは、『自然の弁証法』のなかで、ヘーゲル「『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占め」(全集⑳三七九ページ/『自然の弁証法〈抄〉』四三ページ)るのが、この反省関係、言いかえると「対立物の相互浸透の法則」(同)であるといっています。
本質と有(或るもの)との関係をもう少しみておくことにしましょう。本質は、普遍的なもの、同一なもの、永続的なもの、内にあるものとして「有の真理」であり、本質との関係における有は個別的なもの、多様なもの、一時的なもの、外にあるものとして「仮象」にすぎません。
この本質と有との反省関係を論じるうえで必要なカテゴリーが同一と区別なのです。有から本質への反省は、様々な形態をもつ区別された有のなかにおける同一性、つまり区別のもとにおける同一性の認識であり、本質から有への反省は、同一性としての本質が規定されることによって様々な形態をもった区別としてあらわれる、つまり同一性のもとにおける区別の認識となります。有から本質への反省とは、例えば、アメリカ型資本主義とヨーロッパ型資本主義とは、異なった形態ではあるけれども同じ資本主義としての本質をもつという認識であり、本質から有への反省とは、同じアメリカ型資本主義ではあっても平和憲法をもつ日本資本主義はアメリカ資本主義から区別されると認識することを意味しています。こうして本質と有との反省関係は同一と区別の統一として議論されることになります。
この本質と有との反省関係を反復することにより、「有の真理」としての本質が次第に明確な形でとらえられるのです。
こうしたことを前提として、ヘーゲルは区別の三つの種類、差異(差別)、対立、矛盾を論じています。この三つの区別は、鈍い区別から鋭い区別への移行を示しています。
「思惟的理性は、……差異的なものにおける鈍い区別、表象の単なる多様性を、いわば本質的な区別、即ち対立にまで尖鋭化する。ここにはじめて、多様なものは矛盾の尖端にまで駆り立てられ、互に活発に作用しあうことになって、この矛盾の中で自己運動と躍動との内在的脈動であるところの否定性を獲得するのである」(『大論理学』中巻八一ページ)。
対立と矛盾は弁証法にとってもっとも重要なカテゴリーであり、レーニンは「弁証法の問題について」という覚え書きのなかで、対立物の統一を「弁証法の核心」「根本的な特性あるいは特徴の一つ」(レーニン全集㊳三二六ページ)といっています。物質と運動とは不可分の関係にあり、物質の運動一般をとらえるには、対立物の統一という弁証法の形式が必要となってきます。運動の特殊な一形態としての固定し静止した物質も、例えば定有の即自有と向他有の統一で学んだように対立物の統一としてとらえられるのです。
弁証法的唯物論において、対立物の統一は対立物の相互浸透(相互移行)、対立物の同一、対立物の相互排斥(闘争)などの内容が含まれ、対立物の闘争が矛盾とよばれています。弁証法は、真理認識の思惟形式なのですが、それがなぜ対立物の統一としてとらえられなければならないのか、また対立物の統一には、なぜ対立物の相互浸透と対立物の相互排斥という対立する二つの側面があるのか、などがこの本質論で論じられますので、弁証法とは何かを理解するうえで重要な箇所だということを念頭において学んでいくことにしましょう。
ヘーゲル以前の哲学は矛盾に積極的意義を認めようとはしませんでした。形式論理学の基本原理となる矛盾律は、「AはAであると同時に非Aであることはできない」(一一五節)として、矛盾を否定するものでしたし、カントはそのアンチノミー(矛盾)をつうじて不可知論に陥ってしまいました。
これに対しヘーゲルは、すべての事物は矛盾をもち、「矛盾は、あらゆる運動と生命性の根本である。或る物は、それ自身の中に矛盾をもつかぎりにおいてのみ運動するのであり、衝動と活動性とをもつのである」(『大論理学』中巻七八ページ)ととらえました。矛盾を運動の原動力ととらえることによって、ヘーゲルは弁証法的論理学を完成させたのです。
区別とは何か
「本質は、それが自己に関係する否定性、したがって自己から自己を反発するものであるときのみ、純粋な同一性であり、自分自身のうちにおける反照である。したがって本質は、本質的に区別の規定を含んでいる」(一一六節)。
一一五節では、本質とは「反省した自己関係、自己との同一性」(一一五節)であることが指摘されました。或るものが様々に変化するなかで、不変の自己同一性を貫くものが本質だとされました。また同一性にも抽象的同一性と具体的同一性の区別があり、本質とは具体的同一性であることまでが明らかになりました。
しかし一一五節では、まだこの具体的同一性が何を意味するかは論じられていません。それを解明しているのが一一六節です。
具体的同一性とは、区別をうちに含む同一性です。本質とは或るものを貫く自己同一性ですが、その内にある本質が外にあらわれでると「区別の規定を含んでいる」(一一六節)同一性、つまり具体的同一性となってあらわれるのです。
具体的な同一性とは、内にある本質が自己を否定して外にあらわれ、「他在」という区別となることなのです。
「ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない」(同)。
本質が自己を否定して生みだす「他在」は、本質が外にあらわれたものですから、或るものに対する他のもののように、本質から質的に区別されるものではありませんし、本質との間で限界が問題になることもありません。
「今や否定は、自己へ関係するものである本質のうちにあるのであるから、同時に関係として存在する。すなわちそれは区別であり、定立されて有るものであり、媒介されて有るものである」(同)。
この本質の否定としての「他在」は、本質の「自分自身のうちにおける反照」ですから、本質の「定立され」た、「有るもの」なのです。つまりそれは、本質と同一なものでありながら、本質に「媒介されて有るもの」であり、したがって本質との「関係として存在する」有るものであり、それが「区別」だというのです。
「同一はいかにして区別となるかというような質問をする人があるとすれば、こうした質問のうちには、同一性は、単なる同一性すなわち抽象的な同一性として、単独に存在するものであり、区別も同様に単独に存在する或る別なものである、という前提が含まれている」(同補遺)。
ヘーゲルは、こうした質問自体が「全く無意味」(同)だといっています。というのも区別から切り離された同一性とは何かを考えてみると、「その人にとって同一性とは空虚な名称にすぎない」(同)のであって、同一性という概念から何も積極的なものは生まれてこないからです。
こうして、同一性は、区別の規定を含んでおり、同一と区別の「関係」を問題とする限りで同一性を論じる意義があることをまず明らかにして、ヘーゲルはその同一と区別とはどんな関係にあるのかを、区別の三つの形態にそってみていこうとしています。
差異
本質は、第七講で学んだように、有のもつ「直接的な規定性の揚棄によって生成した」(一一五節補遺)、無規定な有です。その本質が規定されて外にあらわれることによって区別が生じるのです。
第一の区別は、「差別」(「差別」というと、平等に対立する概念として理解されますので、「差異」と訳されるべきもの。『大論理学』では差異と訳されています)という区別です。以下引用文にかぎり原文に従って「差別」を使い、それ以外は「差異」という訳を使用することにします。
「区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々それ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である」(一一七節)。
差異とは、区別されたものの各々の間に何の関係もないような区別です。いわば、区別されたものは「他のもの」(他の区別されたもの)との「関係には無関心」であり、区別された各々は、単に「外的な関係」、言いかえると内的なつながりのない関係におかれているのです。
「こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性であり、それらの不同一性としては、不等性である」(同)。
差異された二つのもの相互の間には何の関係もないのですが、この二つのものは「同一の基体」をもつことによって、外的に比較検討することは可能となります。比較から生まれる同一性が「相等性」であり、不同一性が「不等性」です。
「比較というものは、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている」(同)。
例えば、犬と人間とでは、哺乳類という「同一の基体」がありますから比較することができますが、犬と本とでは「同一の基体」がありませんので、そもそも比較することができないのです。
『資本論』第一章商品のなかで、商品交換においては交換される商品の割合(交換価値)が比較され、等価交換されなければならないが、そのためには交換される二つの商品はどちらも、それが交換価値である限り共通の第三者に還元されなければならない、といっています。こうしてマルクスは、諸商品の諸交換価値(交換割合)に共通する「基体」として、商品の「価値」を導き出し、「諸交換価値は、この共通物の多量または少量を表わす」(前掲書①六三ページ/五一ページ)ことを明らかにしたのです。
学問は単なる差異からすすんで「比較によって相等性および不等性という規定を持つようになる」(一一七節補遺)として、比較解剖学や比較言語学などがあげられています。しかし、「単なる比較というものは、まだ学問の要求を究極的に満足させうるものではなく、真の概念的認識の……準備にすぎない」(同)のです。比較検討する学問は、まだ事物の必然的連関を明らかにするというところまでいかないとの批判でしょう。
次に、ヘーゲルはこの差異に関連して、形式論理学における「差異法則」の批判をしています。
「差別も同じく一つの命題に変えられている。『すべてのものは異なっている』とか、『互に全く等しい二つのものは存在しない』という命題がそれである」(一一七節)。
無神経にも一方では「同一の法則」を主張しながら、他方でそれと矛盾する「差異法則」を立て、両者を並列してみせる形式論理学のやり方を批判すると同時に、ヘーゲルはこの「差異法則」を主張したライプニッツの真の意図を次のように解説しています。
「ライプニッツが或る時宮廷で差別の原理を述べたとき、廷臣や女官たちは庭を逍遙しながら、互に区別できないような二枚の木の葉をみつけ出してかれの思惟法則を反駁しようとした、……しかし、ライプニッツの命題について注意すべきことは、そこで言われている区別とは単に外的で無関心な差別ではなく、本質的な区別と解されねばならず、したがって区別されているということが本性的に事物に属する、ということである」(同補遺)。
「本質的な区別」というのは、本質から生まれる区別、つまり「同一性のなかにおける区別」のことです。ライプニッツは、すべてのものは自己同一性を保ちつつも不断に自己自身を変化させ、区別を生みだしているという意味で「すべてのものは異なっている」という差異法則を唱えたのであり、すべてのものは「外的で無関心な差別」のうちにあると主張したものと理解してはならない、と批判しているのです。
「或るもの自身が、第二の命題に言われているように、異っているとすれば、それは或るもの自身の規定性によってそうなのである」(一一七節)。
つまり、差異法則が何らかの意味をもつとすれば、或るものは不変の本質にもとづき自己同一性を保ちつつ自身を変化させ規定するという、本質のもたらす区別の意味に理解すべきものなのです。
差異から対立へ
二つ目の区別は「対立」です。差異から対立に移行することによって、区別はより鋭い区別、より深い真理の認識となります。
「相等性とは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互に反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別、特定の区別となる」(一一八節)。
「反省の区別」「それ自身に即した区別」「特定の区別」とは、すべて「対立」を意味しています。「差異」の関係にある二つのものは、「区別にたいして無関心」(一一七節)な「外的な区別」にすぎません。しかし「差異」のうちにある二つのものを比較するにいたると、二つのものは「相等性」または「不等性」の関係に入ることになります。相等性と不等性とは、相互に「関係しあい一方は他方なしには考えられないような一対の規定」(一一八節補遺)であり、したがって「反省の区別」、つまり「対立」という関係となり、こうして差異から対立へ移行することになります。
ヘーゲルが、相等性と不等性に関して、相等性とは互に区別されたものの同一性であり、不等性とは同一性のなかの区別であるととらえているのは、鋭い指摘となっています。ここにも同一と区別の統一がみられます。
「区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明かなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別しえないような人に、われわれは大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば『ぶな』と『かし』、寺院と教会)にしか相等性を見出しえないような人を、われわれは相等性を見出す勝れた能力を持っている人とは言わない。つまりわれわれは、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである」(同)。
では、差異と対立とはどのように異なるのでしょうか。
「自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なものと否定的なものである。肯定的なものは、否定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものでないという仕方でそれ自身区別されたものである」(一一九節)。
「対立」という区別は、例えば「肯定的なものと否定的なもの」、上と下、左と右というように、「一対の規定をなしていて、二つの項は切りはなしえない」という関係にある区別、つまり「一方は他方なしには考えられないような一対の規定」(一一八節補遺)にある区別を意味します。
「両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は対立であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である」(一一九節)。
先に、差異する二つのものを比較するには、二つのものが「同一の基体」(一一七節)をもち、二つのものが「同じ基体の異った側面」でなければならないことを学びました。同様に対立も「同一の基体」をもっており、その基体が「本質」であるところから、対立は「本質的な区別」とか、「本質の区別」とよばれているのです。つまり対立とは、一つの本質の異なる二つの側面を意味しています。対立する二つのものは、一つの本質のもとに統一されているため、「対立物の統一」の関係にあるのです。しかもその異なる二つの側面は、肯定的なものと否定的なもの、上と下とか、左と右のように「一対の規定」をなしていて、一方は他方が存在しなければ存在しえないという関係にあります。肯定的なものは、否定的なものでないものであり、上は下ではないものとしてのみとらえうる関係にあります。なぜ対立する二つのものが一対の規定として存在しうるのかといえば、一方は一方であることを即自有とし、他方ではないことを向他有としてもっているからです。だから、お互いに他方あっての一方、一方あっての他方という関係、つまり、「他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省している」という関係にあるのです。お互いに、「各々は固有の他者」をもつことによって自己となるのです。いわば、対立とは、二つのものがそれぞれ固有の他者をもつことにより、相互に相手なしでは存在しえないという必然的な関係におかれることを意味しています。
これに対し、差異の場合、一方にとっての他方は、一方以外のすべてのものを含む「他者一般」にすぎず、「固有の他者」ではありませんから、両者は必然的連関のうちにはないのです。
ヘーゲルはこの対立に関しても、「対立物の相互浸透」ないし「対立物の同一」という弁証法の見地から、形式論理学の「排中律」に対して批判を加えています。
「本質的な区別は、『すべてのものは本質的に区別されたものである』、あるいは別な言い方によれば、『二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない』という命題を与える」(一一九節)。
これが「排中律」といわれるものです。つまりAと非Aという対立物の関係において、中間をなす「第三のもの」は存在しないとして矛盾を否定し、中間を排除するところから、「排中律」とよばれているのです。
「排中の原理は、矛盾を避けようとし、しかもそうすることによって矛盾を犯す、有限な悟性の命題である。Aは か でなければならない、とそれは言う。しかしこれによってすでに、+でも−でもなく、しかも としても としても定立されている第三のもの、Aそのものが言いあらわされている」(同)。
このように、 と とのあいだにはAという「第三のもの」が言いあらわされていることにもみられるように、矛盾を否定しようとしても矛盾は現に存在しているではないか、と一般的な「排中律」の批判をしたうえで、ヘーゲルは、更に「排中律」の「空虚」(同)さは「右に述べたような対立したすべての述語のうち一方のみが属して他方は属さない、したがって精神は白であるか白でないか、黄色であるか黄色でないかである、等々、というような、普遍的法則の言わば大げさな表現のうちにはっきりあらわれている」(同)といっています。
つまり、「排中律」と言われるものも、つきつめて考えてみれば、「同一律」という普遍的法則の「大げさな表現」にすぎないではないかと批判しているのです。
形式論理学においては「同一律」がすべての基本となっており、その展開として「差異法則」や「矛盾律」「排中律」がとらえられていることになります。そこには、同一は同一、区別は区別として、それぞれを絶対化し、「それらの制限を動かしがたいものと考えて、再びそれを否定しな」(二八節補遺)いという予備概念で考察した「古い形而上学」(同)が貫かれているのです。
しかし と とのあいだには、Aという「二つの互に矛盾した表徴のいずれも属さないような概念」(一一九節)や、「いずれも属するような概念」(同)も存在するのだとして、対立物は相互に移行、浸透し合ったり、同一となったりするという「対立物の統一」を主張しているのです。
このように、事物を相互に無関係な「差異」において、言いかえれば、或るものとその「他者一般」(同補遺)という「鈍い区別」においてとらえるのではなく、「対立」という「鋭い区別」の関係においてとらえることは、必然性を認識する哲学の目的となるのです。
「哲学の目的は、これに反して、このような無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある」(同補遺一)。
対立関係にある二つのものは、お互いに相手を自己の固有の他者とする関係、つまりそうあってそれ以外ではありえないような必然的な関係です。すべてのものは自己に対立する固有の他者をもっています。自己をその固有の他者との対立関係においてとらえることが、「諸事情の必然性を認識すること」になるのです。言いかえると、或るものの「必然性を認識」しようと思えば、或るものそれ自体を考察するのみでは足りないのであって、或るものをそれに対立する「固有の他者」との関係においてとらえなければならないのです。日本共産党とは何かといえば、その固有の他者である自民党を否定するものです。事物を一つの本質から生まれた二つの対立するものの関係においてとらえることによって、偶然的な認識から脱し、必然性の認識に到達することができるのです。
「われわれは、抽象的悟性の命題である排中の原理にしたがって語るかわりに、むしろ『すべてのものは対立している』というべきであろう。悟性が主張するような抽象的な『あれか、これか』は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである」(同補遺二)。
この意味で、対立物の統一は必然的な法則、後に述べる必然の法則となるのです。また一つの本質のなかにおける対立物を認識することは、対立物の闘争・矛盾によってその事物の発展の必然性と発展方向を規定することにもなるのです。
対立は矛盾
三つ目の区別は、「矛盾」です。形式論理学では、「同一律」がその基本法則となっており、それを否定面からみた、「AはAであると同時に非Aであることはできない」(一一五節)という「矛盾律」(正確には矛盾を否定するものだから、「矛盾否定律」とよばれるべきもの)をもその法則の一つとしています。
しかし、ヘーゲルは、「AはAであると同時に非Aである」という矛盾を認めてこそ有限なものを絶対化、固定化することなく、運動、変化、発展するものとしてとらえうるという見地に立つことによって、古い形而上学を乗り越えることができたのです。
ヘーゲルは『大論理学』では、区別には差異、対立、矛盾の三つがあるとしながら、『小論理学』では対立と矛盾を明確に区別していません。
例えば、一一九節は、全体として対立とは何かを問題にしている節なのですが、その「補遺二」では「すべてのものは対立している」といいながら、「対立のうちに静かにとどまっているものではなく、常に自己の即自を実現しようと努めているものである。一般に世界を動かすものは矛盾である」として、対立は対立のままにとどまるのではなく、矛盾に移行するものとしてとらえています。
しかし対立とは、相互に固有の他者をもつ二つのものの間の関係というこれまでの説明からすると、上と下、左と右のように相互前提の調和的な関係であり、これに対して、矛盾とは「世界を動かす」生動的な関係ですから、両者は本来区別さるべきではないかとの疑問が生じます。
現にこの点をとらえて、ヘーゲルは対立と矛盾を混同するものであり、ここにマルクスとの違いがあるとの批判もなされているようです。
『大論理学』と違って、『小論理学』で対立と矛盾とを区別しなかったのは、ヘーゲルなりの認識の進展があり、対立そのものが矛盾でもあるからこそ、対立と矛盾との区別は相対的なものにすぎず、対立から矛盾への移行も生じるととらえたからではないでしょうか。一二〇節はその点を解明した重要な節だと思います。
「肯定的なものとは、向自的であると同時に自己の他者へ無関係であってはならないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己へ関係し、向自的でなければならない。しかしそれは同時に、否定的なものとして、こうした自己関係、すなわち自己の肯定的なものを、他のもののうちにのみ持たなければならない」(一二〇節)。
肯定的なものと否定的なものとは対立する関係にあります。肯定的なものは、否定的なものという「固有の他者」を排斥することによって「向自的」「独立的」に肯定的なものとして存在することになります。しかし、肯定的なものは、「固有の他者」が存在することによってはじめて自分も存在しうるという点からするならば、非独立的、非自立の存在といわなければなりません。いわば対立する二つのものは、自立していると同時に自立していないという矛盾する関係にあるのであって、対立とは矛盾なのです。
「両者はしたがって定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じものである。また、両者はそれぞれ他方の否定であるとともに自分自身の否定であるから、両者は顕在的にも同じものである」(同)。
肯定的なものと否定的なものという対立する二つのものは、絶対的に区別されているようにみえますが、両者は自立していると同時に自立していないという「定立された矛盾」のうちにありますから、肯定的なものを否定的なもの、その逆に否定的なものを肯定的なものと呼んでも何ら事態は変わりません。大事なのは両者の関係だけなのです。両者は自立の面からすると「他方の否定」であり、非自立の面からすると「自分自身の否定」であって、どちら側からみても同じ関係である「同じもの」なのです。
このように、「対立物の統一」における二つのものは、自立していると同時に自立していないという「定立された矛盾」です。この矛盾する二つの側面に対応して、対立物の統一は、「対立物の相互排斥」と「対立物の相互浸透」という二つの対立する弁証法としてとらえられることになります。すなわち、自立の側面からすると、対立する二つの項は他者を排斥することによってのみ自立しうることになりますので、「対立物の相互排斥」または「対立物の闘争」(矛盾)となります。他方非自立の側面からすると、二つの項は固有の他者と「同じもの」となる調和的な「対立物の相互浸透」または「対立物の同一」となるのです。
このように、対立する二つの項を自立と非自立の矛盾ととらえることによって、対立物の統一は、なぜ「対立物の相互排斥」と「対立物の相互浸透」という対立する二つの弁証法として定立されることになるのかも明らかにされるのです。
対立物の相互排斥、つまり矛盾は、その相互作用をつうじて対立関係は揚棄され、新たな統一が実現されます。これが事物の発展です。新たな統一のなかで、これまでの対立物は統一物のなかにおける二つのモメントとなります。この矛盾の止揚または矛盾の解決こそ運動の原動力となるものです。
他方、対立物の相互浸透は、上と下、左と右のような調和的な対立物の統一となっていて、運動の原動力にはなりえません。
しかし重要なことは、対立物の相互浸透と対立物の相互排斥は、いずれも「対立物の統一」の二つの側面にすぎませんから、絶対的な区別ではなく、相互に移行し合うことになります。対立物の相互浸透から対立物の相互排斥への移行が、一般に「対立から矛盾への移行」といわれるものです。
例えば、資本家と労働者とは、搾取する者とされる者という対立物の統一です。労使関係が平穏な間は、対立物の相互浸透の関係にありますが、階級間の矛盾が激化すれば、対立物の相互排斥、つまり階級闘争を生みだすことになるのです。
いわば、対立とは矛盾であり、しかも即自的な矛盾であるということができるのです。
矛盾
ヘーゲルはカントのアンチノミーに関連して、「悟性の諸規定によって理性的なもののうちに措定される矛盾が本質的であり必然的であるという思想は、近代の哲学の最も重要な、最も根本的な進歩の一つとみられなければならない」(四八節)として、矛盾の意義を高く評価しています。
或るものは、すべて「自分自身のうちに」対立・矛盾を含むことにより、運動、変化、発展するのです。
「事物の有限性は、その直接的定有が、それが即自的にあるところのものに適合していないことにある。例えば無機的自然において酸は即自的には同時に塩基である。すなわち、それに固有の他者に関係しているということのみが、その有をなしているのである。だから酸はまた対立のうちに静かにとどまっているものではなく、常に自己の即自を実現しようと努めているものである」(一一九節補遺二)。
「即自的にあるところのもの」とあるのは、「本来的、本性的にあるところのもの」の意味です。すべての事物は、その「現にある姿」と「本来的にあるべき姿」との対立におかれており、そのなかで「対立のうちに静かにとどまっているのではなく、常に自己の即自を実現しようと努め」、この矛盾のなかで「本来的にあるべき姿」に向かって運動、変化、発展していくのです。
「一般に、世界を動かすものは矛盾である。矛盾というものは考えられないと言うのは、わらうべきことである。このような主張において正しい点はただ、矛盾は最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄するということである」(同)。
すべての事物は、対立を含みながら、「対立のうちに静かにとどまっているものではなく」、対立から矛盾に移行しますが、矛盾は矛盾のうちにとどまる「最後のもの」ではなく、対立物の闘争をつうじて自分自身を揚棄するのです。
運動の根本を説明することは、自己運動の根拠を明らかにすることです。他者によって始まる運動は、その他者の運動はいかにして始まるのかと、無限にさかのぼることになり、最後は、自己運動するものにまでたどりつかなければ運動の根本原因を説明することになりません。つまり運動を説明することは、結局のところ自己運動を説明することでなければならないのです。
ヘーゲルは、矛盾の概念を肯定することにより、「一般に、世界を動かすものは矛盾である」として自己運動の根本原因を明らかにするという偉大な功績を残したのです。
本質は根拠である
以上、本質とは区別をうちに含む同一性、つまり同一と区別という対立するものの統一であることをみてきました。対立関係にある同一と区別は、区別あっての同一、同一あっての区別という対立物の同一の関係におかれています。
本質がこのような同一であると同時に区別、区別であると同時に同一という対立する二つのモメントをうちに含むとき、本質は具体的同一性としての本質、本来のあるべき本質となるのであり、こういう具体的同一性としての本質が根拠とよばれます。すなわち、本質は根拠となるのです。
「自分自身へ関係する区別と言えば、それはすでに、この区別が自己同一的なものであることを言いあらわしているのであり、対立したものは一般に、或るものとその他者、自己と自己に対立したものとを自己のうちに含んでいるものである。本質の内在性がこのように規定されるとき、それは根拠である」(一二〇節)。
本質が「自分自身へ関係する区別」だということは、本質のうちに本質それ自身(同一性)とそれに対立するもの(区別)とを含んでいるのであり、この二つのモメントを含んだ本質は、うちから外へとあらわれでるというその限りにおいて「或るものの根拠」(一二一節)となるのです。
二、「ハ 根拠」
すべての事物には、存在するだけの根拠(理由)があります。事物のより深い真理をとらえるためには、事物を存在させる根拠を認識し、事物をその根拠によって媒介され、根拠づけられたものとして認識することが求められます。
ヘーゲルは、根拠は同一と区別の統一という「矛盾として定立された対立の最初の結果」(一一九節補遺二)であり、本質が同一と区別の統一として外にあらわれでる限りにおいて根拠になるととらえています。
本質と根拠は同じものではありませんから、当然異なるカテゴリーとして規定されています。しかし、本質は内から外にあらわれでるものであり、そのあらわれは同一と区別の統一としてのあらわれである、というかぎりでは根拠であるとされているのです。
「根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性として定立された本質である」(一二一節)。
根拠と理由とは、同じドイツ語のグルント(Der Grund)です。根拠が同一と区別の統一であることは、すでに前節でみてきところです。ここで新しいことは、内にあった本質は矛盾の揚棄として外にあらわれでて「或るものの根拠」(同)となり、「或る他のものの根拠であるかぎりにおいてのみ、根拠」(同)となるというところにあります。本質が外に表れ出るという意味では、自己から「他者への反省」となりますが、同時に、あらわれでたかぎりで根拠となるという意味では、他者から「自己への反省」となるのです。
「すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である」(同)。
この「すべてのものはその十分な根拠を持っている」との命題は、形式論理学において「充足理由律」とよばれています。「根拠」というのは、事物をその直接態においてではなく、媒介態においてみようとする「反省の立場であって、われわれは言わば事柄を二重にみようとする」(同補遺)のです。したがって、「すべてのものはその十分な根拠を持っている」とする根拠の原理は、「事物は本質的に媒介されたものとみられなければならない」(同補遺)ということを意味しています。
根拠は、同一であると同時に区別されてもいます。区別には、さまざまな区別があり、同じ一つの本質から生じた区別でありながら対立にまでいたる区別をも含んでいるのです。したがって、根拠は「同じ内容にたいしてさまざまな理由を挙げることができる。そしてさまざまの理由というこの差別性は、区別の論理にしたがって、同じ内容を肯定する理由および否定する理由という形における、対立にまで進んでいく」(同)。
裁判というものは、本質的に、この根拠のもつ差異性の上に成り立っています。つまり一つの本質的内容をめぐって、原告と被告(民事)または、検察官と弁護人(刑事)との間でそれを肯定する理由と否定する理由とが主張され、その対立する理由の一方の側をとりあげて判決が下されるのです。
このように、根拠(理由)は、即自的に対立する理由を生みだしうるものであり、「まだ絶対的に規定された内容を持た」(同)ないのです。いわば、「理屈と膏薬とはどこにでもくっつく」のです。判決には法律で必ず理由を付けなければならないとされていますが、その理由はどんな理由でもいいのですから、ここにまた判決のもつ恣意性があり、裁判に階級性がもちこまれることにもなるのです。
したがって、そもそも理由には「十分な理由」(同)などというものはありえないのであり、「この十分なという形容詞は余計なものであるが、そうでないとしたら、理由というカテゴリーを越えたもの」(同)ということになります。したがって、「すべてのものは十分な根拠を持っている」とする形式論理学の充足理由律は正しくない、と批判しているのです。理由と違って「絶対的に規定された、したがって自己活動的な内容」(同)をもつものが、概念論でいう「目的」や「概念」なのです。
「今日のような反省と理由づけにみちた時代には、あらゆるもの、最も悪く最も不合理なものにたいしてさえ、何かしかるべき理由を持ち出すことのできないような者は成功はおぼつかない。すべて世の中の腐敗したものは、しかるべき理由があって腐敗したのである。理由を持ち出されると、人々は最初はたじたじとなりやすい。しかし理由というものが本来どんなものかがわかってくると、人々はそんなものになかなか耳を傾けなくなり、またそんなものにもはや威圧されなくなる」(同)。
政治屋のふりまわす詭弁にまどわされないためにも、理由、根拠のもつ制約をしっかり認識しておかなければなりません。
「本質はまず自己のうちで反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として定立されている。したがってこれは直接態あるいは有の復活である。が、この有は媒介の揚棄によって媒介されている有、すなわち現存在である」(一二二節)。
本質は「自己のうちで反照し、媒介されているもの」として有の内側にあったのですが、根拠となることにより、内から外へとあらわれでて「直接態あるいは有の復活」をとげます。こうして、本質が表面にあらわれでた有が「現存在」とよばれ、現存在に対して本質は現存在の根拠となるのです。
現存在という有は、「媒介の揚棄によって媒介されている有」といわれています。それは有は媒介されて本質にいたり、本質は媒介を揚棄した根拠となることによって現存在へと媒介されている、という意味なのです。
「根拠は絶対的に規定された内容を持たず、また目的でもない。したがってそれは活動的でも産出的でもなく、現存在は根拠から単にあらわれ出るにすぎない」(同)。
絶対的に規定された「概念」とか「目的」とかのカテゴリーは、第三部「概念論」で学ぶものですが、絶対的に活動的であり、自己産出するものです。これに対し、現存在とは、根拠という大した内容をもたないものですから、「単にあらわれ出るにすぎない」という程度の現存する有である、と理解しておけばいいでしょう。この現存在が「現象」とよばれるものであることが後に明らかにされます。
現存在(エクシステンツ)という言葉は、ラテン語の「出現する」(エクシステーレ)という動詞から作られたものであり、「出現している有」(一二三節補遺)を示すカテゴリーです。
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