『弁証法とは何か』より
第九講 本質論 ③
一、「b 現存在」
現存在とは何か
前講までで、本質論「A 現存在の根拠としての本質」の「a 純粋な反省規定」を終わりましたので、今日は、「b 現存在」「c 物」そして「B 現象」の一部を講義したいと思います。
それでは「現存在」に入っていきましょう。
「現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。ここでは根拠はそれ自身現存在であり、現存在も同じく、多くの方面に向って、根拠でもあれば根拠づけられたものでもある」(一二三節)。
根拠は「或るものの根拠」(一二一節)です。この根拠に対して、或るものは「根拠づけられたもの」とよばれます。こうして根拠をつうじて根拠と根拠づけられたものという関係が生じます。
前講で、本質は根拠となることを学びました。その本質が根拠としてあらわれでた定有が「現存在」です。しかし本質があらわれでたものであっても、「現存在」はもはや本質に媒介された面影を失い、あたかも直接的に存在するかのようにみえる定有なのです。
「現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である」(一二三節補遺)。
ヘーゲルはその例として、落雷により火事となった建物をあげ、落雷が火事の根拠になっているものの、火事という現存在にとって、もはや落雷による出火という根拠は揚棄され、見えなくなっているといっています。さらにこの建物の出火が一つの根拠となって、隣家に延焼することになれば、落雷によって「根拠づけられた」建物の出火が、今度は逆に隣家の出火の「根拠」となっていきます。
こうして現存在の世界は、「根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在」(一二三節)となります。
先に、有論の「或るものと他のものの弁証法」で、変化と連関の普遍性を学びましたが、この普遍的連関は、現存在においてさらに展開された形態で示されるのです。
この「現存在」のカテゴリーの制限を論じるなかで、「世界の究極目的は何か」という問題提起がなされることになります。
「このような種々様々の関係のうちには、まずどこにも確かな拠りどころが見出されない。すべては、他のものに制約されるとともに、他のものを制約する相対的なものとしてのみあらわれている。反省的悟性はこれらの全面的関係を探り追求することを仕事としているのであるが、それでは、究極目的は何かという問題は解決されないままに残る。したがって概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行くのである」(同補遺)。
人間の認識が現存在の段階にとどまるかぎり、客観世界は「無限の連関」からなるという循環論にとどまり、客観世界を動かしている根本原因は何なのかを明らかにすることはできません。そこで「反省的悟性」、つまり客観世界を生みだす根拠となるものは何かを探求する悟性的思惟は、客観世界の生みだす根本原因を求めて、現存在の認識から概念論へと移行し、最後は、「ヌースが世界を支配している」(二四節補遺一)「世界のうちには理性がある」(同)にまで到達することになるのです。
「現存在するもの」は「物」
一二三節では、現存在そのものが論じられたのに対し、一二四節は「現存在するもの」が論じられ、それは「物」であるととらえられます。物とは、根拠と現存在との統一です。
有論の定有(九〇節)のところで、定有というカテゴリーが具体的事物と結びつくとき、「定有するもの」となり、それは「或るもの」であるとされました。それと同様に現存在というカテゴリーが具体的事物と結びつくと「現存在するもの」となり、それは「物」とされます。
この「物」というカテゴリーにおいて、はじめて客観世界を構成する具体的個物がとらえられ、客観世界は諸々の「物」から成る世界となるのです。
「しかし、現存在するものの他者への反省は、自己への反省と不可分である。なぜなら、根拠は両者の統一であって、現存在はこの統一からあらわれ出たものだからである。したがって、現存在するものは、相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している。かくして現存在するものは物(ディング)である」(一二四節)。
現存在は根拠(同一と区別の統一)を揚棄した有ですから、自己のうちに同一と区別とをもっています。いわば、現存在するものは「自己のうちへ反省」した自己同一性をもつと同時に、「諸他の現存在と自分とのさまざまな連関」という区別をもっているのです。これは有論で論じた「或るもの」における「即自有」と「向他有」の展開した形式ということができます。
この即自有と向他有の統一としての現存在するものが、「物(ディング)」とよばれているのです。
「カント哲学においてあんなに有名になった物自体(ディング・アン・ジッヒ)は、ここでその発生において示される。すなわちそれは、他者への反省および一般に異った諸規定が排除されて、そうした諸規定の空虚な基礎である抽象的な自己内反省が固執されているものである」(同)。
つまりカントのいう「物自体」とは、即自有と向他有の統一としてある「物」から、向他有を「排除」して「即自有」にのみ「固執」するのですから空虚な抽象物であり、そんな空虚なものを「認識しえない」とするのは当然のことだ、ということになるのです。
「物自体は認識できないものであるという主張は、次のような意味でのみ正しい。すなわち、認識するとは、対象を具体的な規定性においてとらえることを意味するのに、物自体は、全く抽象的で無規定の物一般にすぎないのである」(同補遺)。
どんな形状をし、どんな性質をもっているのか分からない「物自体」は、認識のしようがないのです。
物は、即自有と同時に向他有をもっているのであり、それにより「抽象的な自己内反省である単なる自体を越えて進み、更に他者への反省として自己を示すにいたる。かく考えられるとき、物は諸性質を持つのである」(同)。
こうして物の向他有は、物の諸性質としてとらえられることになります。
二、「c 物」
物は諸性質をもつ
「物は根拠と現存在という二つの規定が発展して一つのもののうちで定立されているものとして、統体である」(一二五節)。
物は、同一と区別の統一としての根拠があらわれでた有として「統体」、つまり、具体的個物としての一つのまとまりをもって現存在するものであると同時に、そのうちに、同一(即自有)と区別(向他有)のモメントをもっているものです。
「そのモメントの一つである他者内反省からすれば、それに即してさまざまの区別を持ち、これによってそれは規定された、具体的な物である」(同)。
「そのモメントの一つである他者内反省」というのが、向他有(区別)としての諸性質のことであり、「物」は向他有のもつさまざまな「規定」性によって、それぞれの物としての特徴を備えた「具体的な物」となるのです。
「 これらの諸規定は相互に異っており、それら自身のうちにではなく、物のうちにその自己内反省を持っている。それらは物の諸性質であり、それらと物との関係は、持つという関係である」(同)。
物の即自有は物自体をなすのに対し、物の向他有は物の諸性質となり、物と諸性質との関係は物が諸性質を「持つ」という関係なのです。有論で考察された質は或るものと一体をなしていて、それを失えば或るものではなくなってしまうのに対し、物がその諸性質を失っても、その物であることに変わりはないのです。物は「物自体としては、自己同一なもの」(同補遺)であり、「物が持っている諸性質は、現存している区別」(同)なのです。
諸性質は独立して質料となる
「 しかし根拠においてさえ、他者への反省はそれ自身直接に自己への反省である。したがって諸性質はまた自己同一であり、独立的でもあって、物に結びつけられていることから解放されてもいる。しかしそれらは、物の相互に区別された諸規定性が自己のうちへ反省したものであるから、それら自身具体的な物ではなく、抽象的な規定性として自己へ反省した現存在、質料である」(一二六節)。
根拠における同一と区別は、諸性質にもあらわれ、諸性質は物自体から区別されていると同時に、それ自体「自己同一であり、独立的」でもあり、物から解放されてもいます。しかし、諸性質は物から解放されるとはいっても、「それら自身具体的な物ではな」く、物の材料となる「抽象的な現存在」としての「質料」となるのです。いわば、「物が持つ諸性質が独立して、それらから物が成立する質料となる」(同補遺)のです。例えば、粘土は陶器の質料となり、小麦粉はパンの質料となります。粘土も小麦粉も、一定の性質を持った「質料」として「抽象的な現存在」であり、それが「形式」を伴って、具体的な陶器やパンという「物」を存立させることになるのです。さらにいえば、分子、原子、素粒子なども質料ということができます。
「かくして質料は抽象的な、すなわち無規定の他者内反省であり、あるいは、同時に規定されたものとしての自己内反省である。質料はしたがって定有的な物性であり、物を存立させるものである」(一二七節)。
質料と形式
今度は、質料の立場から同一と区別を考察しています。質料とは、「定有的な物性であり、物を存立させるもの」いわば素材です。質料は素材として「規定されたものとしての自己内反省」として自己同一性をもちつつ、「抽象的な、すなわち無規定の他者内反省」、つまり様々な区別された物を生みだしていくのです。
「かくして物はその自己への反省を諸質料のうちに持ち(一二五節の反対)、自己に即して存立するものではなくて、諸質料からなるものであり、諸質料の表面的な連関、外面的な結合にすぎない」(同)。
最初は「物が諸性質を持つ」と規定されていたのに、諸性質が独立したものとなった質料にまですすんでくると、逆に「物は諸質料からなる」という「諸質料の表面的な連関、外的な結合」としてとらえられることになります。
「 質料は、現存在の自己との直接的統一であるから、規定性にたいして無関心でもある。したがって、さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる。他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互に持っている外面的な関係は、形式である。これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である」(一二八節)。
この「質料と形式」というカテゴリーは、アリストテレスの「質料と形相」に学んだものです。
アリストテレスは、存在そのものを、「それ自体としての存在」と「付帯的な存在」とに区分し、それ自体としての存在を「実体」としてとらえました。そして実体は「質料と形相」を統一した統体(個体)だとしました。質料はすべての実体の原材料となる受動的なものであるとし、形相はそれに形式を与える能動的なものととらえたのです。
すなわち「物はすべて同一の質料をその基礎に持ち」(同補遺)、しかもその「質料は、それ自身は全く無規定的でありながら、しかもどんな規定でも受け入れることができるもの」(同)としてとらえられていたので、多様な個物は、すべて形式から生まれるとされました。
ヘーゲルは、このアリストテレスの「質料と形相」のカテゴリーに触発されながらも、質料はすべて同一ではなく、いろいろな質料があるし、また質料と形式とは絶対的に区別されたものでもないし、受動と能動の関係でもない相互媒介の関係としてとらえるべきだとして、それに代わる「質料と形式」のカテゴリーを打ち出したのです。
まず最初に、質料は「規定性にたいして無関心でもある」(一二八節)として、形式には無関係だということが指摘されます。
さまざまな質料は、すべて形式をもたず、またものの材料となるものですから、材料としての同一性にもとづき「合して一つの質料」となることができます。クォークは合して素粒子に、素粒子は合して原子になり、原子は合して分子に、分子は合して具体的個物となります。さらに具体的個物としての小麦粉と牛乳という質料をまぜ合わせて、パンの材料とすることができるのです。
これに対して、質料における区別は、質料に「形式」という「様々の規定性」を加えることによって生まれます。こうして同一性のうちにあった質料は、食パンや菓子パンという区別された形式をもつ「物」となるのです。
「この無規定的な一つの質料もまた物自体と同じものである。ただ異るところは、物自体が全く抽象的な存在であるに反し、前者は即自的に他者との関係、まず第一に形式との関係を含んでいる点にある」(同)。
質料も、無規定な現存在という点では、カントのいう「物自体」と異なるところはありませんが、質料は「物自体」と異なり、本来的に形式との関係を自己のうちに含んでいるというのです。
というのも、質料は「ただ相対的にのみ……形式に無関心なのであって、けっして一般的に無形式ではない」(同補遺)からです。例えば、小麦粉という質料は、パンの原料にはなりえても、大理石と違って彫刻の質料にはなりえません。
したがって、「質料という概念は、あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいる」(同)のです。
「かくして物は質料と形式とにわかれる。この両者はいずれも物性の全体であり、おのおの独立的に存立している。しかし肯定的で無規定の現存在たるべき質料も、それが現存在である以上、自己内有とともにまた他者への反省を含んでいる。こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である。しかし形式は、諸規定の総括であるという点だけから言ってもすでに、自己への反省を含んでいる。言いかえれば、それは自分自身へ関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている。両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異ったものでもあるところの質料と形式との関係である」(一二九節)。
このようにヘーゲルは、質料と形式とは相互に独立し区別されながらも同一であるとして、質料と形相を絶対的に区別したアリストテレスを批判したのです。しかし質料と形式の同一性とは、一定の質料は一定の形式を自己のうちに含んでいるという意味での同一でしかありません。この質料と形式の同一と区別の統一、つまりその同一性の側面をもっと発展させたのが、物質とその運動の関係をとらえた「内容と形式」のカテゴリーなのです。
それはともかく、「物」は質料と形式の同一と区別という「統体性としての矛盾」(一三〇節)をもち、「物においては、もろもろの質料の独立性と同時にそれらの否定が定立されて」(同)います。
この矛盾のうちに、物は自分自身を揚棄して「本質的な現存在、すなわち現象」(同)となるとして、次のカテゴリー「B 現象」に移行します。
ヘーゲルの用語とは少し異なりますが、具体的な形(形式)をもち、かつ質量(重さ。質料ではない)をそなえていて客観的に存在する物質は「物体」とよばれています。物体の総称が物質です。
三、「B 現象」
こうして、「A 本質」から「B 現象」へと移行することになりました。
「B 現象」の構成は、まず一三一節が総論であり、各論は「a 現象の世界」「b 内容と形式」「c 相関」の三つに分かれ、さらに、「相関」は「全体と部分」「力とその発現」「内的なものと外的なもの」の三つに分かれています。
「a 現象の世界」では、現象の世界(物質世界)がイデアの世界との対比で論じられています。現象の世界における相互媒介関係は、物質とその運動という「内容と形式」のもとで現象の法則を生みだします。この現象の法則が、「相関」または「本質的相関」とよばれるものです。
これに対し「C現実性」は、物質相互の必然性を取りあげ、必然の法則を明らかにしています。その必然の法則が「絶対的相関」とよばれるものです。
現象とは何か
まず総論からみましょう。
「本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照するとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである」(一三一節)。
本質は、「自己のうちへはいっていった有」(一一二節)として、有の内にあるもの、その背後に隠されたものなのですが、いつまでも有の内面にとどまるものではなく「自己を直接態へ揚棄する」、つまり外にあらわれでて現存在となるのであり、この外にあらわれでた現存在としての本質が「現象」です。すなわち、現象とは現存在するにいたった本質であり、現存在はいまや現象としてとらえられます。しかもそれはたまたま外にあらわれ出るというものではなく、本質は「自己のうちで反照する」ものとしてあるのですから、その反照、自己自身への反発によって、必ず外にあらわれでるものなのです。ですから、「本質は現象しなければならない」のであり、現象しない本質はありえないのです。
では、本質が現象するとは何を意味しているのでしょうか。本質は同一と区別の統一であり、その本質があらわれでて現存在となったものが現象ですから、現象は「現存在の矛盾が定立されたもの」(一三一節補遺)、つまり、同一と区別の矛盾が定立されたものです。
現象は、本質が現存在したものとして本質という同一性を含んでいると同時に、無規定な本質が規定された区別として、「多くの多様な現存在する物」(同)でもあります。現象の世界は、後に述べるように「多様な現存在する物」の「無限の媒介」の世界なのです。
したがって、諸科学の仕事は、「一見無秩序ともみえる無数の偶然事」(七節)のなかに普遍的な本質を見いだすことにあるのです。
もし、現象がこの多様性をもたず、本質がむき出しの姿で表面にあらわれていれば、諸科学の必要性はなくなり「われわれは肉体的にも精神的にも直ちに餓死してしまう」(一三一節補遺)ことになります。
その意味では、「われわれの周囲にある事物が現象にすぎず、確固とした独立の存在でないことを喜ぶ理由が大いにあると言わなければならない」(同)のです。
次いで、ヘーゲルは「現象を単なる仮象と混同してはならない」(同補遺)といっています。
本質論の冒頭において、本質とは有の「真の姿」(一一二節補遺)であることを明らかにすると同時に、本質との対比における有は、「本質がかくされている外皮あるいは幕」(同)にすぎないものであって、「仮象へひきさげられている」(一一二節)といっています。
それを受けて、「仮象は有あるいは直接態の最初の真理である。直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない。かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている」(一三一節補遺)と述べています。
つまり、仮象とは本質との対比において直接的にとらえられた有であるのに対し、現象とは本質に媒介され現存在となった有であるとして、現象は仮象よりもより高次のカテゴリーとされているのです。
「現象は単なる有よりも高次のものである。現象は有の真理であり、有より豊富な規定である。というのは、現象は自己への反省および他者への反省という二つのモメントを自己のうちに合一して含んでいるが、有あるいは直接態はまだ関係をもたないものであり、(外見上)自己にのみ依存しているものだからである」(同)。
しかし、今日では、現象も仮象も、本質に媒介された現存在であって、現象は本質がそのままの姿であらわれた現存在、仮象は本質が転倒した姿であらわれた現存在という意味で使われるのが一般的だろうと思われます。例えば天動説とは、実際には、地球は他の惑星とともに太陽の周りを回っているにもかかわらず、その本質が転倒して、太陽、星などが地球を中心に回転するという仮象をとらえた学説ということになります。天動説も、地動説という本質に媒介された認識であることにかわりはないのであり、なぜ本質が転倒した姿であらわれるのかを解明するのが、科学の役割となっているのです。
続いて、ヘーゲルは、「現象にすぎない」という言葉を引きつつ、現象というカテゴリーの制限を明らかにしています。
「上述の現象にすぎないという言葉は、たしかに欠陥を示してはいるのであって、その欠陥は、現象がまだ自己のうちで分裂しており、自分自身のうちに拠りどころを持たないところにある。単なる現象より高次のものはまず現実性であるが、これについては本質の第三の段階として後に論じるであろう」(同)。
つまり、現象というカテゴリーは、本質に媒介された現存在であることは分かっていても、まだそれが偶然的な現存在なのか必然的な現存在なのか何も明らかにされていないという意味で「現象にすぎない」のであり、こうした偶然性か必然性かの考察は、「C 現実性」で検討されることになるのです。
単なる現象から現実性へと認識が発展するところに、人間としての喜びがあるのであり、外見だけですべてが分かってしまうことになれば、われわれは退屈さのあまり「肉体的にも精神的にも直ちに餓死してしまう」(同)ことになるでしょう。
「a 現象の世界」
「現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる」(一三二節)。
この節から「B 現象」の各論に入ります。この節では全体として「現象的なものの現存在の仕方」が問題とされ、結論的に言えば、本質が現象するという「現存在の仕方」によって、客観世界は「無限の媒介」による「有限性の総体、つまり現象の世界」(同)という発展した形態をもつことが明らかにされます。「現存在」のところでお話ししたように、客観世界における事物の普遍的連関は、まず有論における「或るものと他のものの弁証法」によって原理的に明らかにされ、次いで本質論の「現象」において、「現象の世界」における事物の普遍的連関の形態がより具体的に検討され、さらに「現実性」で、無限の連関からなる世界の必然的連関が解明されることになるのです。
こうして客観世界の全体的連関の構図が、認識の形式の発展につれて次第に明らかにされることになります。
以上を前提に、もう一度一三一節に立ち戻ってみていきましょう。
本質が現象した「直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある」(一三一節)。
本質が現存在となった現象は、まずそれ自体で存立する一つの「質料」としてあります。しかし、それは本質に媒介されたものとして、自己のうちに確たる存立の基盤をもたない「自己を揚棄する存立」という「形式」をもっているのです。
それを受けて、「現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性が直接的に揚棄され」(一三二節)ているといっています。いわば、現象のもつ「存立性」は本質に媒介されているという「形式そのものの単なる一モメント」(同)に落とされてしまっており、この本質に媒介されているという形式が、現象の「存立性」を自己のうちに取り込んでその自立性を奪ってしまっているのです。
「かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ」(同)。
現象的なものは、本質に媒介されているという形式をもつかぎりにおいて、その存立性をもつにすぎません。したがって現象の世界は、無限の媒介の世界なのです。
「形式という現象の根拠も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく」(同)。
「現象の根拠も同じく現象的なもの」というのは、現象というものは本質に媒介された現存在であり、その現象の根拠となる本質もまた一つの「現象的なもの」にすぎないから、すべての現象は「存立しつつ非存立である」という関係として、「無限の媒介へ進んでいく」というのです。
「この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている」(同)。
現象は個々の「物」が相互に媒介し媒介されるという「無限の媒介」をつうじて、独自に運動する一つの統一体をなしており、現象の世界は物質世界、客観世界となっています。エンゲルスもいうように「世界の現実の統一性はそれの物質性にある」(全集⑳四三ページ/『反デューリング論』上六六ページ)のです。
なぜ私たちの物質世界が統一性をもっているのかといえば、すべてはビッグバンから始まり、一つのビッグバンによって物質世界の全体がつくり出されているからです。
アインシュタインは次のようにいっています。
「私たちの世界が内的調和を持っているという信念を欠いては、科学はまるであり得ないでしょう。この信念こそは、あらゆる科学的創造に対する根本的な動機なのでありますし、またいつになってもそうなのでありましょう」(『物理学はいかに創られたか』下一九二ページ、岩波新書)。
物質世界、客観世界は、相互に媒介された統一体としてあるからこそ、そのなかには法則という思惟形式が存在するのです。もし客観世界を構成する個々の「物」が、一つずつバラバラに存在し、客観世界がバラバラな個物の寄せ集めから成っているとしたら、そこに法則は存在しませんし、科学は成り立ちえないのです。
「無限の媒介は、同時に自己への関係という統一」であるというのは、個々の事物の「無限の媒介」は自立した客観世界として統体性をもつという意味でしょう。この媒介のなかで、個々の現存在するものは「現象すなわち反省された有限性の総体」として、「現象の世界」を形づくっているのです。
「天上であれ、自然の中であれ、精神の中であれ、或いは他の如何なる所であれ、この直接性とともに媒介を含まないようなものは何一つとして存在しない」(『大論理学』上巻の一、五八ページ)。
ヘーゲルは、「論理学の第二部、本質論の全体は、直接性と媒介性との本質的な相互定立的な統一を取扱うものである」(六五節)と述べていますが、本質論も同一と区別の統一から始まり、「現象」にいたって、ようやく「直接性と媒介性の統一」という本質論の中心的カテゴリーに到達することができたのです。この直接性と媒介性の統一を展開したものが、「相関」および「絶対的相関」といわれるカテゴリーです。
現象の世界とイデア界
では、現象の世界に対立する世界は何でしょうか。『小論理学』では明言していませんが、ヘーゲルは『大論理学』で、それは「イデア界(真にあるべき姿の世界)」であるといっています。
すなわち、「現象的世界と即自有的世界」(『大論理学』中巻一七四ページ)と題する箇所で、次のように述べています。
「実存する世界が感覚的世界」(同一七七ページ)と呼ばれるのに対し、「即且向自的に存在する世界は、また超感覚的世界とも呼ばれる」(同)。「物は或る他の超感覚的世界の物となることによってはじめて、第一に真の実存するものとして、第二に有的なものに対立する真なるものとして措定される」(同一七八ページ)。
この「即且向自的世界」が何を意味するかについては、様々な議論があります。ヘーゲルが六ページにもわたって「即且向自的世界」について述べていることからしても、ヘーゲルにとって重要な意義をもつものとしてとらえられていることは明らかです。
思うに、ヘーゲルが現象の世界と「即且向自的世界」とを対立する二つの世界としてとらえたのは、プラトンが「見られる世界(可視界)」と「思惟される世界(可知界)」とを区別し、前者を現存する客観世界、後者をイデア界ととらえたのに対応するものということができます。ヘーゲルが、「自己に反省した現象は、いまや即且向自的世界として現象する世界の上に位するところの一世界」(同一七七ページ)と述べているのも、「現象する世界のうえに位する」世界は、イデア界以外にはありえませんので、現象の世界は反省してその根拠となるイデア界となることを意味するものということができます。いわば、有は反省して本質となり、現象の世界(本質論)は反省してイデア界(概念論)となるのです。このように現象の世界(物質世界)とイデア界とを対立する世界ととらえることは、プラトンのようにイデア界を物質世界の彼岸としてとらえることを意味するものではありません。ヘーゲルは、イデア界(概念の世界)は客観世界のなかに潜在するものと理解し、「世界のうちには理性がある」(二四節補遺一)といっています。
無限の媒介からなる現象の世界では、世界の「究極目的は何かという問題は解決されないままに残る」(一二三節補遺)として、「反省的悟性」(同)は、「このような単なる相対性の立場を越えて進んで行」き、「概念をとらえようとする」(同)とあるのも、この『大論理学』の文章に対応するものということができます。概念は現象の世界を生みだし、現象の世界の根拠として世界の究極目的となります。『大論理学』で、即且向自的世界が「現象世界の根拠」としてとらえられているのも、イデア界として理解する根拠となりうるものです。
何よりも、「即且向自的世界」をイデア界としてとらえることにより、ヘーゲルの「概念論」がそのイデア界を論じたものであることが明確になるのです。
この「即且向自的世界」をイデア界としてとらえようとしたのが寺沢恒信氏です。寺沢氏は、「この表現でまず思い浮かぶのはプラトンの『イデア界』であろう」(寺沢訳『ヘーゲル大論理学』②三六八ページ、以文社)としながらも、「以下の叙述の中にイデア論の面影をよみとることはほとんどできない」(同)として、結局この考えを自ら否定してしまっています。寺沢氏は、「概念論」をイデア界を論じたものととらえなかったところから、「即且向自的世界」をイデア界ととらえきれなかったということができるでしょう。
いずれにしても、「即且向自的世界」の解釈は「概念論」をどうとらえるかにかかっているのです。これまで、
「即且向自的世界」がイデア界としてとらえられなかったのも、「概念論」の概念が「真にあるべき姿(イデア)」としてとらえられなかったことに関連しているのです。
したがって、「即且向自的世界」は、ヘーゲル論理学の構成を全体として読み解く鍵になるものといわなければなりません。しかし、ヘーゲルはこの鍵ともいうべき「即且向自的世界」を『小論理学』では丸ごと削除してしまいました。いったい何故そうしたのでしょうか。
思うに、概念論はイデアを論じたものであり、そのイデアは、客観世界の「否定性をつうじて自己を自己へ媒介する」という反省関係から生まれるものでした。もしこのことを明言すれば、プロイセンの絶対主義的国家を否定して自由の理念を追求したフランス革命を正面から賛美することにつながりかねないところから、ヘーゲルは保身のために、あえて『小論理学』からイデア界の叙述を削除したのではないかと推測するものです。『大論理学』で「即且向自的世界」をわざわざ分かりにくく叙述するだけではまだ足りないとして、『小論理学』では丸ごと削除してしまったために、「概念論」の主題は極めて分かりにくいものとなってしまったのです。
第一講でお話ししたように、ヘーゲルは死の床にあって、誰も自分の真意を理解してくれなかったといって嘆いたとの逸話がハイネによって残されていますが、ヘーゲルは自己の革命的本質を押し隠すために、「論理学」の変革の立場をことさら分かりにくくしたのではないかと推測するものです。
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