『弁証法とは何か』より

 

 

第一〇講 本質論 ④

 

一、「b 内容と形式」

「内容と形式」は物質とその運動

 今日は本質論「B 現象」の「b 内容と形式」「c 相関」を講義し、「B 現象」を終える予定にしています。
 前講で「本質は現象しなければならない」(一三一節)、本質が現象した現存在は、直接性と媒介性の統一として「無限の媒介」へ進み、「現象の世界」(同)へ発展させられていくという総論部分を学びました。今日はこの総論を受けて、では現象の世界における直接性と媒介性の統一はどのように展開されるのかを、より具体的にみていくことにしましょう。
 「現象の世界」とは、イデア界に対立する「客観世界」「物質世界」を意味しています。本質論が「主として形而上学および科学一般の諸カテゴリーを含」(一一四節)むというのも、本質論では客観世界を考察の対象とし、そこにおける普遍的な形式を探求するからにほかなりません。この点で本質論での論議においては、エンゲルスの『反デューリング論』や『自然の弁証法』(いずれも全集⑳)が参考になることを最初に指摘しておきます。
 「現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている」(一三三節)。
 個々別々の現象は、直接性と媒介性の統一により、相互に媒介し媒介されるという関係として、「無限の媒介」のなかにおかれていますので、「現象の世界」、つまり客観世界は「全体として一つの統体」をなしています。
 個々の現象(物)は、「現象の世界の自己関係」、客観世界がもっている時間と空間という存在の根本形式のもとにある統体性のうちに「包含されている」のです。いうなれば、個々の現象は物質世界の統一性のなかにあるということです。
 「かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容であり、その発展した規定性は現象の法則である」(同)。
 現象の世界に入って、なぜ「内容と形式」というカテゴリーがいきなり出てくるのかと思われるかもしれませんが、ヘーゲルは物質の世界は内容と形式の統一として成り立っていることを訴えたいのです。ここにいう内容とは物質を、形式とは運動を指しており、内容と形式のカテゴリーを使って物質と運動との関係を論じているのです。
 「現象の自己関係」、つまり物質の世界は「完全に規定され」た統体性として、「自分自身のうちに」その運動形態という「形式を持っている」のです。物質は運動し、運動するかぎりで物質であるという意味で「形式は内容」であり、物質の運動の「発展した規定性」が「現象の法則」という普遍的法則を生みだすのです。
 「これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である」(同)。
 多様な現象のうちには、一時的、偶然的な、非本質的な現象もあります。こういう「現象の否定的な方面」の運動は何ら現象の法則をなすものではなく、法則と「無関係的な、外的な形式」にすぎません。これに対して、現象の法則となる現象は、恒常的、必然的、本質的な現象なのです。
 「形式と内容という対立において、けっして忘れてならないことは、内容は無形式なものではなく、形式は内容にたいして外的なものであると同時に、内容は形式を自分自身のうちに持っている、ということである」(同)。
 この箇所はエンゲルスの次の文章を思い出させます。
 「運動は物質の存在の仕方である。……運動のない物質が考えられないのは、物質のない運動が考えられないのと同じである」(全集⑳六一ページ/『反デューリング論』上八八ページ)。
 物質(内容)は、物質がどのようにあるかという存在形式(形式)、つまり運動と結びついています。したがって物質世界には、偶然的な外的な運動もあれば、法則的な運動もあり、物質(内容)と運動(形式)は切りはなしがたく一体をなしているのです。
 「ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容とは、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる」(一三三節)。
 内容と形式とは、区別されながらも「絶対的な同一となる過程」(一五〇節)として、内容は形式に、形式は内容に相互転化する関係にあるのです。
 すなわち、力学的、化学的、生物学的、あるいは社会的な、すべての運動(形式)は、物質(内容)そのものを変化させ、そこから生まれた新しい物質は、また新たな運動を生みだしていくのです。
 素粒子の運動から原子の運動に、原子の運動から分子の運動に、分子の運動から個物の運動に、化学的運動から生命体の運動にと、運動が質的に飛躍するごとに物質も異なった階層へと飛躍していくのであり、物質はまたその階層ごとの独自の運動をすることになります。
 しかし、内容と形式との相互転化は、まだ相互転化しうるという関係にとどまり、「絶対的相関」のように絶対的な必然性をもって相互転化するわけではありません。こうした絶対的、必然的転化は「絶対的相関においてはじめて顕在するようになる」(一三三節)のです。「絶対的相関」とは内的必然性をもった相関であり、「相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程」(一五〇節)を意味しています。

現象の法則

 前講でみたように、現象のなかには同一性としての本質と、区別、つまり本質の規定性としての多様性があります。現象のなかに含まれる本質相互間の相対的に固定した普遍的関係が「法則」とよばれるものです。序論で、哲学とは「無数の偶然事のうちにある必然的なものや法則の認識に従事」(第七節)するものであることが明らかにされましたが、ここに来て、世界は無限に媒介された物質世界の統一性のもとにあることをつうじて、その現象のもつ多様性のなかにおける二つの本質的現象間の普遍的、必然的連関が、広義の「現象の法則」という形式としてとらえられることになるのです。
 ヘーゲルは『大論理学』において、「現象は非本質的な多様性の形態をとるところの存在的な多面的差異性」(『大論理学』中巻一六九ページ)、と同時に「変転の底にある恒常なもの」(同)があり、この「恒常なもの」という「区別の二面の間の本質的関係」(同一七〇ページ)が法則であるとしています。
 その意味で「法則の国は実存する(現存在する ── 高村)世界、または現象する世界の静止的な映像」(同一七二ページ)であり、事物の真の姿を認識するうえで法則をとらえることは極めて重要な意義をもっているのです。
 ヘーゲルは『法の哲学』「序文」追加において、法則には「自然の法則と法のおきて」、つまり、自然の法則と国家、社会の法則の二種類があるといっています。『法の哲学』は国家、社会の法則を扱ったのに対し、ここでは、「自然の法則」すなわち広義の「現象の法則」が問題とされているのです。
 自然の法則とは、区別された二つの本質間において同一性が定立されることを意味しています。本質論のはじめにみたように、区別には、差異と対立、矛盾があります。
 「哲学の目的は、……このような(差異のような区別されたもの ── 高村)無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある」(一一九節補遺一)。
 したがって広義の「現象の法則」にも、「差異」する二つの本質間の同一性を定立する法則と、「対立」する二つの本質間の同一性を定立する法則の、二種類があることになります。前者は狭義の「現象の法則」であり、後者は必然の法則(高村)です。必然の法則こそ論理学全体をつうじてヘーゲルが論じている「対立物の統一」という弁証法的法則なのです。
 狭義の現象の法則として、ヘーゲルはガリレイの「落下の法則」をあげています。落下の法則とは、「通過した空間は経過した時間の二乗に比例する」というものです。ここでは、空間と時間という二つの本質の同一性が定立されているものの、「法則の両側面相互の間の同一性もなお直接的な、従って内的な同一性にすぎず、言いかえると必然的でない同一性にすぎない」(『大論理学』中巻一七三ページ)のです。
 いわば、現象の法則(狭義)は単に経験的に見いだされる法則にすぎないのであって、その必然性の証明された法則ではないのです。
 予備概念の「経験論」への批判のなかで、ヘーゲルは、「経験は、継起する諸変化あるいは並存する諸対象にかんする知覚を示しはするが、しかし必然の連関を示さない」(三九節)と述べています。エンゲルスは『自然の弁証法』のなかでこの箇所にふれ、「観察による経験だけでは、けっして必然性を十分に証明しつくすわけにはいかない。ポスト・ホック(post hoc それのあとに)ではあるが、プロプテル・ホック(propter hoc それのゆえに)ではない。……そして必然性の証明は人間的活動のうちに、実験のうちに、労働のうちにある。すなわち、もしわたしがポスト・ホックをつくりだすことができるなら、そのポスト・ホックはプロプテル・ホックと同一となるのである」(全集⑳五三七ページ)と述べています。
 ポスト・ホックとは経験的に見いだされる狭義の現象の法則、プロプテル・ホックとは必然の法則を意味しています。
 しかし、ヘーゲルはこの重要な意味をもつ法則に関し、わずかに「現象の法則」について一言ふれるにとどまり、必然の法則にいたっては、実際には「C 現実性」において「絶対的相関」として論じながら、正面からは一言も論じていないのです。必然の法則については、必然性を論じた「C 現実性」のところであらためて論じることにしましょう。
 ここからは推論となりますが、ヘーゲルが『大論理学』ではさりげなく触れていた必然の法則について『小論理学』で一切触れようとしなかったのは、必然の法則に触れることは、発展の法則にも言及せざるをえなくなるからではないでしょうか。そうなれば当時のプロイセン国家をも否定することになり、反動的プロイセン国家から弾劾、弾圧を受けざるをえないため、あえて必然の法則に言及することを回避したのではないかとも推測されるところです。

内容と形式

 以上を前提として、内容と形式の問題をもう少しみていきましょう。
先にもふれたように、内容(物質)と形式(運動)とは相互転化する関係にあります。いわば内容と形式とは対立する関係にありながら、相互に浸透し、対立する相手と同一になるような関係にあるのです。
 これが、一般的に「対立物の相互浸透」または「対立物の同一」といわれるものであり、弁証法という思惟形式のきわめて「重要な法則の一つ」(一三三節)なのです。
 ヘーゲルは、その例として、本の装丁(形式)は内容と無関係ではないし、「真の芸術作品は、その内容と形式が全き同一を示しているようなものである」(同補遺)といっています。いわば、「内容が真実で価値あるものであるか否かは、それが形式と一体をなしているか否かにかかっている」(同)のです。
 本の装丁は「運動」に関係ないと思われるかもしれませんが、「運動は物質の存在の仕方」(全集⑳六一ページ/『反デューリング論』上八八ページ)であり、物質がどのようにあるかという存在様式が運動なのですから、装丁も運動の一形態なのです。
 「しかし、直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。したがってそれは内容の規定性にたいして外的でもあるが、しかし他方内容がその存立性というモメントによって持つところのこの外面性は、内容にとって同じく本質的でもある」(一三四節)。
 現象の世界において現象するもの(「直接的な現存在」)は、内容と形式をもっています。その場合の形式は、物質のあらわれ(物質の運動)として、「内容の規定性にたいして外的」なものということができますが、反面、物質は運動するものの内容となっているという意味では、内容と形式は同一であるということもできます。
 つまり、現象の世界において、内容と形式とは相互に転化するとはいっても、外的対立の関係にあると同時に同一でもあるという程度の相互転化にすぎないのです。絶対的相関では、対立する二つのものは絶対的、必然的に同一になるのに対し、ここではまだそこまでの同一性は定立されていません。 
 「このようなものとして定立された現象が相関であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである」(同)。
 このような運動する二つの物質の間の関係が、「相関」という「現象の法則」なのです。つまり「相関」とは、二つのものは、「外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在」するような関係です。「同一的な関係」とは、「異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのもの」、お互いに相手なくしては自らも存立しえないような「対立」の関係にあることを意味しています。

 

二、「c 相関」

現象の世界は相関の世界

 まず最初に、「相関とは何か」をみていきましょう。
 「論理学の第二部、本質論の全体は、直接性と媒介性との本質的な相互定立的な統一を取扱うものである」(六五節)。
 すべての事物は直接性と媒介性の統一としてあります。本質論の前半で「反省」をみてきたのに対し、後半では「相関」をみていくことになります。「反省」とは「対象を直接態においてではなく、媒介されたものとして知ろうとする」(一一二節補遺)、つまりすべての事物を媒介においてとらえようとするものでした。これに対し「相関」とは、物質(内容)と運動(形式)の統一のように、対立する二つの項が独立、自立しつつも同一となるという対立物の相互浸透という普遍的関係をみていこうというものです。いわば「相関」とは、直接性と媒介性の統一のより発展した形式としての対立物の相互浸透の関係ということができます。
 したがって、現象の世界は相関の世界ということができるのです。
 「本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である」(一三五節補遺)。
 つまり、あらゆる事物とその対立物とを対立物の相互浸透という相関の形式においてとらえることによって、「あらゆる現存在の真理」をとらえることができるのです。
 エンゲルスが「対立物の相互浸透の法則」が、「本質論の全体を占めて」(全集⑳三七九ページ/『自然の弁証法〈抄〉』四三ページ)いるといっているのも、この「本質的な相関」と、後に述べる「絶対的相関」とを念頭においたものでしょう。
 「したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。
しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である」(一三五節補遺)。
 「単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみある」というのは、単に直接的に存在するのではなく、他のものとの媒介、関係のうちにのみある形式と解釈すればいいでしょう。
 しかし、相関は「他のものとの関係のうちにある」といっても、「それは他のもののうちで自己へ関係する」、つまり他のものとの関係のうちにありながら自立した形式として存在しているのです。
 したがって、「相関は、自己への関係と他者への関係との統一」、つまり、「他者との関係のうちにのみあると同時に自立している」という、媒介性と直接性の統一としての「同一的な関係」(一三四節)、対立物の相互浸透の関係なのです。

全体と部分

 「相関」の各論では「全体と部分」「力とその発現」「内的なものと外的なもの」という三つの「相関」が取り上げられています。
まず、「全体と部分」の相関です。
 「 直接的な相関は、全体と部分とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式)から成っている。諸部分は相互に異っていて、独立的なものである。しかしそれらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし総括は部分の反対であり否定である」(一三五節)。
 全体と部分という相関は、おなじみのカテゴリーですから、多くの説明はいらないでしょう。これを「直接的な相関」とよんでいるのは、相関関係が次第に深まっていくと、最後は「対立物の必然的な同一」という「絶対的相関」にまで到達するのですが、全体と部分の相関はその第一歩としての端緒的な相関にすぎない、という意味からです。
 どうして端緒的かといえば、部分が総括されたら、部分は否定されて存在しなくなり、全体になってしまうという関係、つまり、全体があれば部分がなく、部分があれば全体がないという「相互の同一関係においてのみ」成立する相関にすぎないからです。
 「全体と諸部分という相関は、その概念と実在とが一致していないかぎりにおいて、真実でないものである。全体という概念は、諸部分を含むということである。しかし、全体がその概念上あるところのものとして定立されると、すなわち、それが分割されると、それは全体でなくなる。全体と部分という相関に対応しているような事物もあるにはあるが、しかしそれはまさにそれゆえに低い、真実でない存在である」(同補遺)。
 予備概念で学んだように、「哲学的な意味では、真理とは、……抽象的に言えば、或る内容のそれ自身との一致」「事物の本性あるいは概念と事物の存在」(二四節補遺二)との一致を意味しています。相関の「概念」は、対立する二つのものが直接性と媒介性の統一、つまり自立しつつ媒介されている、というところにあります。ところが全体と部分とは、全体があれば部分がなく、部分があれば全体がないという、媒介されてはいるものの自立していないという関係にすぎないので、「その概念と実在とが一致していないかぎりにおいて、真実でないもの」(一三五節補遺)なのです。
 全体と部分という関係は、機械的関係において成立する相関にすぎないのですが、「反省的悟性は、その実一層深い関係が問題である場合でも、この関係で満足していることが多い」(同)。
 例えば有機体の肢体や器官は、「統一のうちにおいてのみ、肢体や器官」(同)であるにもかかわらず、これを「単に部分とのみみる」のが「反省的悟性」なのです。
 これに対しヘーゲルは、「全体と諸部分というような外部的で機械的な関係は、有機的生命の真の姿を認識するには不十分」(同)であり、「精神および精神の世界の諸形態に適用すれば、その不十分ははるかに著しいものとなる」(同)と批判しています。
 人間集団と個人との関係は、「精神の世界」の問題ですから、単に全体と部分という関係でとらえることはできません。マルクスは『資本論』において、「個々別々の労働者の力の機械的な合計は、多数の働き手が、分割されていない同じ作業で同時に働く場合……に展開される社会的能力とは、本質的に違っている」(前掲書③五六七ページ/三四五ページ)として、これを「それ自身として集団力であるべき生産力の創造」(同)といっています。さらにマルクスは、工場を「一つの機械的怪物」(同六六一ページ/四〇二ページ)という有機的生命の支配する場としてとらえ、「労働者はただ意識のある諸器官」(同七二五ページ/四四二ページ)にすぎないとしています。
 こうして、全体と部分というカテゴリーは、それ自身のもつ限界によって、より高い第二の相関としての「力とその発現」に移行することになります。

力とは何か

 本論に入る前に、若干予備的な説明をしておきましょう。
 まず第一に、物質は牽引と反発という二つの力の統一、対立物の統一からなっているということです。
 ヘーゲルは「物質を斥力と引力との統一とみることによって、完全な物質観を与えたのは、カントの功績である」(九八節補遺一)と述べていますが、このカントの理論は現代物理学においても、その正しさが証明されています。
 自然には基本単位間の力によって区別される三つの階層があります。第一の構造系列の基本単位となるのは素粒子であり、そこでは、陽子と中性子の間において「核力」が働いています。核兵器は、この核力の牽引または反発を利用したものです。第二の構造系列(原子、分子から人間、地球まで)の基本単位は原子であり、そこでは原子核と電子の間において「電磁力」が働いています。第三の構造系列の基本単位となるのは巨視的天体であり、そこでは天体間に「重力」が働いているのです(池内了『宇宙進化の構図』二〇ページ、大月書店)。
 今日素粒子論や宇宙論の科学は日進月歩の状況にあり、自然の階層性や、これらの「力」を固定したものととらえることはできません。
 しかし、すべての物体は、牽引と反発という二つの対立する力のつりあいのもとにおいて、物体としての安定した状態を保持することができるという事実は、これからも変わることはないでしょう。ここにも対立物の統一にこそ真理があるという弁証法の正しさが示されているのです。
 第二に、物体を変形させたり、物体の運動状態を変化させる作用が力とよばれることです。
 「運動がある物体から他の物体に伝達される場合、みずからを伝達し能動的にふるまうかぎりでの運動を、伝達され受動的にふるまうかぎりでの運動の原因と見なすことができる。この能動的な運動をわれわれは力と名づけ、受動的な運動を力の発現と名づける」(全集⑳六一~六二ページ/『反デューリング論』上八九ページ)。
 したがって力とその発現とは同一の運動であり、同じ大きさとなります。
 第三に、運動の原因となるものをすべて力で説明しようとすることは、「変化の真の原因をあげる労をはぶくために、われわれは虚構の原因をもってこれに代え」(同三九六ページ)ることになってしまうことす。
 ヘーゲルも、「ルネッサンスの時代に、個々の自然現象をその根底にあるさまざまの力に還元しようとする試みがなされた」(一三六節補遺二)が、この試みは「力とその発現は本質的に媒介された相関」(同)にすぎないにもかかわらず、「力を根源的なもの、すなわち自己にのみ依存するものとみる」(同)ものであって、これは「力の概念に矛盾する」(同)と批判しています。
 第四に、現在では、力として表現されるもののかなりの部分はエネルギーに置きかえられて理解されていることです。物体に仕事をする能力があるとき、その物体はエネルギーをもつといわれるのです。
 「これまではいわゆる力として、説明のつかぬ謎の存在であった自然における無数の作用原因 ── 力学的な力、熱、輻射線(光と放射熱)、電気、磁気、化学的な結合力と分離力 ── のすべては、いまや同じ一つのエネルギーつまり運動の、特殊な形態ないしは存在の仕方であることが立証された」(全集⑳五〇七ページ)。
 エネルギーは、力学、化学、電気、熱、波、核などのエネルギーがあり、相互に形態を転化しあいながら、全体としては一定に保たれています。それがエネルギー転化の法則、エネルギー保存の法則とよばれるものです。物理学の歴史は、エネルギー概念の拡大の歴史であり、新しい現象が発見されるたびに、エネルギー保存の法則についてのチェックが行われてきました。一時的には、この法則が破れているのではないかと疑われる現象に行きあたりながらも、その度ごとに新たなエネルギーが発見され、エネルギー保存の法則の貫徹することが確かめられてきたのです。
 しかし、力にしろエネルギーにしろ、「それが運動関係の一側面、作用だけは包括するが、反作用は包括しないという点で、運動関係全体を正しく表現するものではない」(同三九六ページ)のです。
 以上を前提として、本文の検討に入っていくことにしましょう。

力とその発現

 「 したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である」(一三六節)。
 ここでは、もう一度全体と部分の相関を別の観点から批判しています。すなわち、「この相関のうちにある同一なもの」、つまり両者の「同一的な関係」(一三四節)は「直接に否定的な自己関係」、つまり一方が成立するとき他方が否定されるという、二つのものの間の関係を否定するような関係なのです。
 したがって、全体と部分とは媒介された関係にはありながらも、「否定的な自己関係であるというような媒介」、つまり関係を否定する関係というような媒介にすぎません。
 「そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち力とその発現である」(一三六節)。
 「否定的な自己関係」として、全体と部分との相関は「全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移って」(同)いきます。それを「自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになる」といっているのです。
 これが、全体と部分の相関なのですが、これに対して「力とその発現」とは、力から発現へ移行するのみならず、「逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる」、つまり、逆に力の発現は、発現をつうじて力を確認するという意味で、力へ「復帰させる」のです。
 全体から部分へ、部分から全体への移行は、「或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考え」(同)るものです。力とその発現は、この本質から非本質への移行を、力とその発現とが本質としての役割を互いに交換しながら、無限に「否定的な自己関係」、つまり力からその発現へ、力の発現から力への移行をくり返すという関係にある相関です。
 「力は、発現することによってはじめて力であることを示し、また発現それ自身が再び力であるから、発現のうちで自分自身へ帰る」(同補遺一)のです。
 その意味では、力とその発現との相関は無限なものとみることもできますが、同時に「この相関もやはり有限」(同)ということができます。
第一に、力は「外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する」(一三六節)という制限をもっています。
 ここでは、力学的な力を念頭においているのですが、この力は「まだ運動の絶対的なはじまりが欠け」(同補遺一)、外部からの衝撃を必要とし、自分自身で自己を反発する力はもっていません。
 こうして、力が外部からの衝撃に依存するということは、主体性の契機をもたないということですから、「盲目的に作用する」ことになるのです。バットで打たれたボールはどこに飛んでいくか分からないから野球は面白いのです。したがって、力の発現がどのように現れるかという「内容もまた制限され偶然的」(一三六節)であり、主体性の契機をもち「絶対的に規定されている概念や目的」(同)とは異なります。
 第二に、力は「その存立のために自己以外のものを必要とする」(同補遺一)という制約をもっています。
 例えば、磁気という力を発揮するには、鉄による誘発を必要とするように、あらゆる力は「すべて自分以外の他のものに制約され、媒介されている」(同)のです。
 「認識できるのは力の発現にすぎず、力そのものは認識できないものであるという、非常にしばしば繰返される主張は、根拠のない主張である。なぜなら、力とはまさに発現するものにほかならず、したがってわれわれは、法則として把握された発現の総体のうちに、同時に力そのものを認識するからである」(同補遺二)。
 力は発現し、「発現された総体のうちに」力を認識するのですから、「人々があくまで認識できないと考えているものは、その実自己への反省という空虚な形式にすぎない」(一三六節)のです。力とその発現とは、無限の反省関係そのものという相関です。
 「しかしてこの場合みのがしてならないのは、力そのものが認識できないという主張には、この相関が有限だという正しい予感が含まれているということである」(同補遺二)。
 なぜかというと、われわれは個々の力の発現をつうじて力を認識しようとしますが、力にも「重力、磁気、電気力」などさまざまな力があるため、これらの諸々の力は「それらの単なる並存においては偶然的なものとしてあらわれ」(同)ます。そこで偶然的なものとしてあらわれる諸々の力を一つの根源的な力に還元しようとする要求が生じてきます。
 しかし「力とその発現は本質的に媒介された相関であるから、力を根源的なもの、すなわち自己にのみ依存するものとみるのは、力の概念に矛盾する」(同)ことになるので、結局この相関の有限性からして根源的力は認識しえないことになるというのです。
 こうして、力をもってする説明というのは「有限なものをあくまで究極的なものと考えるにいたる」(同)のであり、神を否定する考えにつながるとヘーゲルはいっています。
 力とその発現とは、力からその発現へ、その発現から力へを無限にくり返す相関ですから、「二つの項の差別」(一三七節)は揚棄されてしまいます。
 「力の発現はそれ自身、この相関のうちにある二つの項の差別の揚棄であり、潜在的に内容をなしている同一性の定立である。力と発現との真理はしたがって、その二つの項が内的なものと外的なものとしてのみ区別されているような相関である」(同)。
 力とその発現の区別は、相互に移行することをくり返すことで揚棄され、その後に残るのは「内にあるものが外にあらわれた」という形式的な区別だけになるのです。
 こうして、第三の相関としての「内的なものと外的なもの」との相関に移行します。

内的なものと外的なもの

 「 内的なものは、現象および相関の一側面という単なる形式としてあるような根拠であり、自己内反省という空虚な形式である。そしてそれには、他者への反省という空虚な規定を持ち、同じく相関のもう一つの側面という形式としての現存在が、外的なものとして対立している」(一三八節)。
 内的なものは内にある根拠であり、外的なものは根拠としての内的なものが外にあらわれでた現存在です。内的なものは、単に内にあるという形式だけを問題とするものであって、内容を問題としない、内容には無関心なものですから、「自己内反省」、つまり内にある「空虚な形式」にすぎませんし、外的なものも、外にあるという形式だけの「空虚な規定」にすぎません。
 「内的なものと外的なものとの同一は、実現された同一であり、内容であり、自己への反省と他者への反省との統一が力の運動のうちで定立されたものである。両者は同じ一つの総体であり、この統一が両者を内容とするのである」(同)。
 言いかえると、どんな内容のものであろうと一つの内容をもつものが内から外にあらわれでたとき、「内的なものと外的なもの」の相関をなすのであり、この相関では内的なものが外的なものとなることによって同一の内容が実現されるため、「内的なものと外的なものとの同一は、実現された同一」なのです。いわば、この同一の定立は、内的なものが外的なものと同一となり、外的なものは内的なものと同一になるのであって、「両者は同じ一つの総体」なのです。
 「したがってまず第一に、外的なものは内的なものと同じ内容である。内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある。現象が示すものはすべて本質のうちにあり、本質のうちにあるものはすべて顕現されている」(一三九節)。
 いわば、「内的なものと外的なもの」との相関は、「本質は現象しなければならない」(一三一節)とした、本質と現象の相関を端的に示すカテゴリーであり、だからこそ「B 現象」の最後に位置し、本質と現象の統一である「C 現実性」への橋渡しのカテゴリーとなっているのです。
 「第二に、内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもいる。しかも、一方は自己同一という抽象物であり、他方は単なる多様性あるいは実在性という抽象物であるから、全く正反対のものである」(一四〇節)。
 内的なものと外的なものとは、内にあるか外にあるかという形式のみによる区別ですから、「形式規定としてはまた対立」しあってもいます。すなわち、内的なもの(本質)は不変な「自己同一」、つまり一つの物であり、他方外的なもの(現存在)は「多様性と実在性」という形式上の区別・対立をもっています。
 「しかし両者は、一つの形式のモメントとして、本質的に同一なものであるから、一方の抽象物のうちに定立されているにすぎないものは、直接にまた他方のうちに定立されているにすぎない。したがって内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない」(同)。
 本来、内的なものと外的なものとは、媒介された関係においてはじめて本来の姿としてあるものですから、単に内的なものにすぎないものは、単に外的なものにすぎないものと同様に「欠陥を持つもの」にすぎないのです。
 「対象が単に内的なものであり、かくして同時に単に外的なものである場合、あるいは同じことだが、対象が単に外的なものであり、かくして単に内的なものである場合、その対象は欠陥を持つもの、すなわち不完全なものである」(同補遺)。
 ヘーゲルはその例として、子どもをあげています。子どもも人間である以上理性的存在ではありますが、その理性はまだ単に内的なものですから、子どもへの教育という理性は、単に外的なものになるのです。
 またその逆に、内と外の「総体」性の例として、「人が行うところのものがすなわちかれである」(同)とか、「樹は果によりて知らるるなり」(同)という聖書の言葉をあげています。
 「人は、個々の点では自己の姿をいつわったり、多くのことをかくすこともできるが、かれの内部全体をそうすることはできないのであって、それは一生のうちには必ずあらわれるものである。したがってこの点でもまた、人はその行為の系列にほかならない」(同)。
 したがって、多くの歴史家が、「内的なものと外的なものとの不当な分離によって、多くの偉大な歴史的人物に不法な取扱いを加え」(同)ているのは間違いであって、「偉大な人々はかれがなしたことをなそうと欲したのであり、またかれらが欲したことをなしたのであることを承認しなければならない」(同)としています。
 「同一の内容をなお相関のうちにひきとどめようとする二つの空虚な抽象物は、互のうちでの直接的な移行のうちで自己を揚棄する」(一四一節)。
 内的なものと外的なものとの内容の同一性は、内的なものと外的なものとの形式的同一性にまで移行することによって、「相関」という関係そのものを揚棄することになります。
 「この定立は空虚な抽象物による媒介であり、それはそれ自身のうちで消滅して直接態となる。そしてこの直接態においては内的なものと外的なものとは即自かつ対自的に同一であって、両者の区別は単に被措定有として規定されているにすぎない。このような同一性がすなわち現実性である」(同)。
 内的なものと外的なものとの相関を揚棄するということは、二つのものの対立を揚棄して「対立物の統一」という「直接態」となることを意味しています。
 この内的なもの(本質)と外的なもの(現存在)との統一が「現実性」というカテゴリーです。ここで、「被措定有」という言葉がでてきましたが、他のものによって「措定」(定立)された直接的な有、言いかえれば「媒介された直接性」という意味です。ここでは、現実性において本質と現存在とは一体化して同一となっており、その区別は、あってないような区別(措定され、媒介されつつ、直接的な区別)にすぎないことを、「両者の区別は単に被措定有として規定されているにすぎない」といっているのです。