『弁証法とは何か』より

 

 

第一一講 本質論 ⑤

 

一、「C 現実性」

「現実性」の主題と構成

 第九講から客観世界の諸法則の検討に入りました。前回は「B 現象」でしたが、今回から「C 現実性」を論じます。
 「現実性」というカテゴリーは、ヘーゲルにとってきわめて重要なカテゴリーであり、「一口に言えば哲学の内容は現実である」(六節)とまでいっています。
 では、「現象」と「現実性」とは、どういう関係にあるのでしょうか。
 「世界の思慮深い考察はすでに、内的および外的存在の広い世界のうちで、単に現象にすぎないもの、すなわち一時的で無意味なものと、それ自身真に現実の名に値するものとを区別している」(同)。
 単なる現象が「一時的で無意味なもの」であるのに対し、現実性とは意味のある確たる存在です。また現象から区別される現実性のなかにも、真の現実性とそうでない現実性があります。
 「現実性」というカテゴリーは、アリストテレスの新造語「エネルゲイア」に由来しています。彼は古くから「力、能力」の意味で用いられた「デュナミス」に「エネルゲイア」を対立させ、可能性と現実性という対概念を哲学史上はじめて明確なかたちで導入したのです。ヘーゲルはそれを継承・発展させて、ヘーゲル独自の「現実性」というカテゴリーを生みだしました。
 現実性は一四二節から一五九節まで、ページ数で四十ページもの内容をもっています。一四二節から一四九節までは総論部分であり、一五〇節以下が各論となっています。
 現実性の主題となっているのは必然的現実性です。ヘーゲルは、哲学の任務は「偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識することにある」(一四五節補遺)といっています。総論部分では、全体として現実性が展開すると必然的現実性となることが明らかにされています。その導入として可能性と現実性、偶然性と必然性のカテゴリーが検討され、必然性とは何かが明らかにされます。さらに必然性にも外的必然性と内的必然性のあることが論じられています。そして内的必然性とは「現象」で論じられた「本質的な相関」(一三五節補遺)と異なり、「絶対的な相関」(一五〇節)であることが示されます。この絶対的相関の内容が現実性の各論となるものであり、「a 実体性の相関」「b 因果性の相関」「c 交互作用」と展開されています。交互作用とは対立物の統一であることが明らかにされます。
 ヘーゲルは、第一部「有論」第二部「本質論」を全体として客観的論理学ととらえ、客観世界がどのようにあるのかという認識論を展開しています。その最後に「現実性」をとりあげたのは、現実性こそ客観的存在の最高のカテゴリーであり、ここにこそ客観世界の最も一般的かつ普遍的な「必然の法則」があると考えたからにほかなりません。ヘーゲルは「現象」では現象の法則を語りながら、「現実性」では語られるべき必然の法則を省略していますので、それをここで補っておきたいと思います。

現実性とは何か

 では「現実性」の総論に入っていくことにしましょう。まず現実性とは何かが検討されます。
 「現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである」(一四二節)。
 すなわち現実性とは、「内的なものと外的なもの」とが「直接的な統一」となったものです。内にあった本質が外にあらわれでて「現存在」となったものという意味では「本質と現存在との統一」です。
話を先取りしておきますと、ヘーゲルは現実性のカテゴリーに三つの意味合いをもたせています。
 一つは、一四二節本文にみられるような、単に内的なものが外的なものとなってあらわれるという「形式」のみの現実性であり、それが偶然性です。偶然性も現実性の一形式であって、単なる現象と異なり無意味なものではありません。
 二つには、しかし本来の現実性とは、このような形式をもつにとどまらず、自分自身が内から外にあらわれる、つまり「自分自身の顕現」(同)という内容をもつ、内容と形式の統一された必然的な現実性であるととらえています。
 三つには、この必然的現実性もまだ真の現実性ではなく、真の現実性は、イデアが内から外にあらわれた「現実性としてのイデア」(同補遺)であるとしています。ヘーゲルはこの意味の現実性を「理念」(二一三節以下)とよんでいます。
 現実性(ドイツ語のヴィルクリッヒカイト)のヴィルクリッヒには「真の」という意味が含まれているところから、ヘーゲルは真の現実性をイデアのあらわれとしての現実性という意味に理解したのです。
 以上を予備知識として、テキストをみていくことにしましょう。
 最初にふれたように、現実性は客観的存在の最高のカテゴリーです。これまで客観的存在に関わるカテゴリーとして、有、定有、現存在(現象)などのカテゴリーを学んできました。現実性も客観的存在を示すカテゴリーの一つですが、有、定有、現存在と比較すると、最も高く、もっとも真理に接近したカテゴリーなのです。
 というのも、有、定有は、いずれも「無反省の直接態」(一四二節)としての客観的存在であり、そのものが何故そのものとして存在しているのかという存在の根拠をもたない存在にすぎません。ですから、定有するものとしての或るものは、単に「他者への移行」(同)として他のものと関係するにとどまります。
 次の現存在は、本質に媒介された有であり、存在の根拠をもつ有です。現存在するものとしての現象には、本質がそのままあらわれた本質的現象もあれば、そうでない非本質的現象もあります。その意味で現象は、単に根拠をもっているにすぎない「根拠から出て根拠へ帰る」(同)存在にすぎません。
 これらに対して、現実性とは自己のうちに根拠をもち、自分で自分を媒介する客観的存在です。いわば、現実性においては、内にあった自己が、自分で外にあらわれていくのですから、「自己と同一となった相関」(同)であり、したがってその外面性はもはや移行ではなく、自己の「顕在態」(同)です。したがって「現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる」(一四三節補遺)のであり、展開された現実性は必然的な客観的存在として、最高のカテゴリーとなるのです。
 序論で「一般に存在は一部は現象であるから、現実であるのは一部にすぎない」(六節)とか、「どんなにみすぼらしい一時的な存在でも、手あたり次第に現実と呼ばれている」(同)が、「偶然的な存在は真の意味における現実という名には値しない」(同)とかいわれているのも、ここに来てやっとその真意が理解できます。
 ヘーゲル哲学は「必然性の形式を満足させ」(九節)る哲学であり、その必然性とは何かが、以下において検討されることになります。

理想と現実の統一

 さて、以上概略的に現実性とは必然的現実性であることを説明したうえで、ヘーゲルは六節でも問題にした現実性と理想との関係をどう考えるべきかの問題を検討していきます。
 「人々は、普通、よく考えもしないで、現実と思想(正確に言えば、理念)とを対立させており、かくしてわれわれは人々がよく次のように言うのを聞く。すなわち、或る思想が正しく真理であることに異論はないが、しかしそうしたものは現実のうちには存在しない、あるいは、現実のうちにそれを実現することはできない、と。しかしこういう言い方をする人は、それによって、かれらが思想の本性をも現実の本性をも正しく把握していないことを証明しているのである。このような言い方においては、思想は主観的表象、計画、意図などと同じ意味に理解され、現実は外的な、感覚的な現存在と同じ意味に理解されている」(一四二節補遺)。
 現実と思想(理念・イデア)とを切りはなし、思想は思想、現実は現実としてしか理解しない者は、「思想の本性をも現実の本性をも正しく把握していない」のであって、現実を「現存在」と同じ意味に理解しているにすぎません。
 第一講で、ヘーゲル哲学には革命的な側面と保守的な側面という二つの側面があること、しかしヘーゲルの本心は革命的側面にあることをお話ししましたが、この箇所は、もっとも直接的にヘーゲルの素顔を示した、ヘーゲル哲学の真髄を語ったものということができるでしょう。
 「抽象的な悟性が理念と現実という二つの規定をとらえて、その区別を動かすことのできない対立にまで高め、われわれはこの現実の世界においては理念を頭から作り出さねばならないなどと言う場合には、われわれはこのような考え方を学問および健全な理性の名において決定的にしりぞけなければならない」(同)。
 なるほど「理念を頭から作り出さねばならない」というような人々の理念であれば、現実との間の架け橋を見いだすことはできないかもしれません。しかしヘーゲルのいう理念はそうではなく、「現実の世界」から導き出されるものだからこそ、現実に転化する必然性をもっているのだ、というのです。この一箇所をみるだけでも、ヘーゲルを「観念論者」だとして一刀両断にする見解が、どんなに一面的なドグマティズムであるかが理解できるのではないでしょうか。
 「なぜなら、一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもないからである」(同)。
 理念は「現実の世界」から導き出されるものですから、「われわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なもの」ではなく、「絶対的に活動的なもの」であって、必然的に「現実的なもの」となるのです。
 なお、「現実は、無思想な……実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもない」というのは現状を肯定したものではなくて、単なる現象ではなく現実といえるほどのものは、理念のあらわれとしてそれなりの合理性をもっているとの趣旨として理解すべきものでしょう。
 むしろ、理念(理性的なもの)と現実性との関係は、内的なものとしての理念が外的なものとしての現実性に転化したものであり、したがって「現実的なものはまったく理性的なもの」としてとらえるべきなのです。
 こうしてヘーゲルは、真の現実性を理念(イデア)のあらわれとしてとらえることにより、理念と現実性、理想と現実の統一こそ真理であるとしています(二四節補遺二参照)。

現実性とはエネルゲイアとしてのイデア

 最後にヘーゲルは、ヘーゲルの「絶対的観念論」(アプゾリューター・イデアリスムス、四五節補遺)が、プラトンの「イデア論」ではなく、アリストテレスの「イデア論」を継承・発展させたものであることを、次のように述べています。
 これまでの「偏見によれば、プラトンとアリストテレスとの相違は、前者がイデアを、しかもただイデアをのみ真実なものと考えるに反して、アリストテレスはイデアを排して現実的なものを固守し、したがって経験論の創始者および旗頭と考えられなければならないところにあるとされている。ところが、現実がアリストテレスの哲学の原理をなしているにはちがいないが、しかしそれは直接的に現存しているものというような卑俗な現実ではなく、現実性としてのイデアなのである」(一四二節補遺)。
 バチカンの「ラファエロの間」に、「アテネの学校」というギリシャ時代の哲学者たちを描いた有名な壁画があり、中央にプラトンとアリストテレスが描かれています。プラトンは天を指し、アリストテレスは地を指していますが、これは一般にプラトンが観念論者であり、アリストテレスが唯物論者であることを示すものとされています。しかし、ヘーゲルはこれを「広く行われている偏見」(同)だと批判し、アリストテレスのいう現実性は、ヘーゲルと同じ「現実性としてのイデア」、つまりイデア(理念)が現実性となったものだといっています。
 「すなわち、アリストテレスはプラトンのイデアを単なるデュナミスと呼び、これにたいしてイデアが ── これが唯一の真実なものであることは二人とも同じく認めているのである ── 本質的にエネルゲイアであること、言いかえれば、端的に外にあらわれている内的なものであること、したがって内的なものと外的なものとの統一、あるいは本節で私が強調したような意味での現実性であることを主張するのである」(同)。
 デュナミスは可能態、エネルゲイアは現実態と訳されています。ヘーゲルは、プラトンもアリストテレスも、イデアを真にあるべき姿としてとらえたのは同じであるが、プラトンはそれを単なる可能態として内にとどまるものと解したのに対し、アリストテレスは現実態として現実性に転化するものとしてとらえた点に違いがある、と理解したのです。
 現実性(エネルゲイア)という用語は、デュナミスとの対概念として用いられていますが、もう一つ、キーネーシス(運動、動き)との対比でも用いられています。
 藤沢令夫氏の『ギリシア哲学と現代』(岩波新書)によると、キーネーシスは単なる物体の運動であるのに対し、エネルゲイアは人間の生き方・行為としての活動を意味しています(前掲書一七二ページ)。
 いわば、キーネーシスはある目的に向かってすすむ効率主義の求められる運動であるのに対し、エネルゲイアは学ぶとか、健康になるとかの、善く生きる生き方、行為として、目的をその内に含んでいる活動です(同一七六、一七七ページ)。
 キーネーシスは目的に到達しないかぎり意味のない不完全な運動であるのに対し、エネルゲイアはその運動自体が目的であり、いかなるときにも完全な運動、人間本来の行為なのです。
 ヘーゲルがアリストテレスのエネルゲイアに学んで現実性のカテゴリーを取り込んだのは、現実性をつうじて、理想と現実の統一のなかに、より善く生きるという生き方の問題への含みをもたせたかったのではないかと思われます。
 こうして、現実性は、いかにより善く生きるかをも主題とした概念論への移行を準備するものとなっているのです。

 

二、可能性、偶然性、必然性

可能性(抽象的可能性)

 これから現実性の具体的内容の検討に入っていきますが、最初は「真に現実の名に値」(六節)しない現実性、つまり単なる形式のみの現実性をとりあげています。それが可能性と偶然性の問題です。
 「現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(一四一節)」(一四三節)。
 一四二節でみたように、現実性は「本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一」としての現存在ですから、そのうちに本質の規定性としての区別、つまり、本質がそのままあらわれたり、非本質的なあらわれ方をしたりすることも含まれます。可能性とは非本質的なあらわれであるのに対し、現実性、必然性とは本質的なあらわれです。その意味で可能性は「仮象、すなわち単に措定されたもの」といわれているのです。 「 同一性一般としては現実性はまず可能性、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである」(同)。
 現実性とは、内的なものと外的なものとが同一となる「同一性一般」です。可能性とは、内にある本質が外的なものとして定立されるにあたり、非本質的な規定性として定立されるような内的なもの(自己内反省)です。「抽象的で非本質的な本質性」というのは、本質の規定されたものという意味では「本質性」であっても、その規定性(あらわれ方)からすると非本質的であるということを意味しています。
 可能性は、非本質的なあらわれ方をするのですから、抽象的な「単に可能であるような仕方」の現実性にすぎません。いわば本来の現実性とはいえないような現実性なのです。こういう可能性を一般に「抽象的可能性」とよんでいます。
 「可能性はまず、現実的なものとしての具体的なものにたいして、自己同一という単なる形式であるから、可能性の基準はただ、或るものが自己矛盾を含まないということにすぎない。かくしてすべてのものは可能である」(同)。
 抽象的可能性とは、内的なものが外的なものになることができるという「自己同一の単なる形式」ですから、「自己矛盾」を含みさえしなければ「すべてのものは可能」なのです。生あるものは死ぬので、「人間が永遠に生きることが可能だ」ということはできませんが、「人間は三百歳まで生きることは可能だ」といっても許されます。
 しかし、三百歳まで生きることは、「可能である」ともいえるし「不可能である」ともいえます。「だからこのような可能、不可能の議論ほど空虚なものはない」(同)のです。
 「一般にこのような空虚な形式のうちをうろついているのは、空虚な悟性であって、哲学の任務は、こうした形式の無価値と無内容を示すことにある」(同補遺)。

偶然性

 「 しかし、自己内反省としての可能性から区別された現実性は、それ自身外的な具体物、非本質的な直接的なものにすぎない。あるいは直接的に言えば、現実性がまず(一四二節)内的なものと外的なものとの、単純な、直接的でさえある統一として存在するかぎり、それは非本質的な外的なものとして存在しており、かくして同時に(一四〇節)単に内的なもの、自己内反省という抽象である」(一四四節)。
 先に「内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない」(一四〇節)ことを学びました。抽象的可能性は内にある非本質的なものですから、それが外にあらわれて現実性となったとき、「非本質的な外的なもの」となります。非本質的な外的なものは、内にある本質から切り離された単に外的なものですから、抽象的可能性も「単に内的なもの」にすぎないのです。
 「したがって現実性自身が単に可能なものとして規定されている。このように単なる可能性という価値しか持たぬ現実的なものは、一つの偶然的なものである、そして逆に、可能性は単なる偶然そのものである」(一四四節)。
 抽象的可能性という「単に内的なもの」が、たまたま外にあらわれて単に外的なものとなるとき、その現実性は「一つの偶然的なもの」となります。その意味で抽象的可能性は、「単なる偶然そのもの」となるにすぎません。
 「可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである」(一四五節)。
 つまり、内にある可能性が外にあらわれた偶然性というのは、内から外へという形式をもつというかぎりでの現実性であって、「真に現実の名に値する」(六節)現実性ではありません。それをヘーゲルは、「現実的なものの外面性をなす単なる形式」といっているのです。
 「この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている」(一四五節)。
 可能性と偶然性とは、単なる形式だけの問題であって、「形式規定が内容から区別されて」います。いわば可能性から偶然性へ移行するという「自己内反省」の契機をこれらのモメントは自己の内にはもっていないのであって、それを規定するものは、可能性・偶然性とは別個の「内容」ということになるのです。
 言いかえると、「偶然的なものとは一般に、その存在の根拠を自分自身のうちにでなく、他のもののうちに持つ」(同補遺)のです。根拠を「他のもののうちに持」っているから、偶然性は「それが存在するか、存在しないか、およびそれが或る形で存在するか、あるいは他の形で存在するか」(同)ということを自分自身できめることができないのです。
 したがって、われわれの任務は「このような偶然を克服」(同)し、「そこからさらに自然の内的な調和と法則性とへの洞察に進まなければならない」(同)のです。いわば、「学問および特に哲学の任務」(同)は「偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識することにある」(同)のです。
 しかし、このように偶然性をとらえることは、偶然性を無意味なカテゴリーだとすることではありません。つまり、偶然性もやはり「現実性」の一カテゴリーとしての意味をもちます。
 「偶然性もやはり理念の一形式であるから、それは当然客観的な世界のうちにその位置を持っている」(同)。
 偶然性を不当に持ち上げてもならないし、不当に低くみてもならないのであって、偶然性は偶然性として「あるがままに認めなければならない」(同)のです。
 現象のところで、現象には本質的現象と非本質的現象があることを学びましたが、それは同時に、現象の世界の「豊かさと多様性」(同)を示すものとなっています。自然の事物のもつ「豊かさと多様性」は「混沌とした偶然性の直感を与え」(同)ているのです。
 客観の世界は、すべて偶然と必然の統一として存在しています。直感的に偶然性とみられるもののなかに必然性を発見することによって、科学は進歩していきます。ヘーゲルはまだダーウィンを知りませんから、「動植物の個々の変異のさまざまの姿」(同)を単なる偶然性のあらわれととらえました。
 しかし、科学が進めば客観世界から偶然性は一切排除され、存在しなくなるのかといえばそうではありません。
 偶然性一般を否定する理論を「決定論」と呼びます。決定論では「エンドウのさやに五つのエンドウ豆がはいっていて四つでも六つでもないこと、この犬の尾が五インチの長さでそれより少しでも長くも短かくもないこと」(全集⑳五二六~五二七ページ)をも必然的なものとしてとらえるのです。
 エンゲルスはこの決定論を批判して、「ここでは偶然性が必然性から説明されているのではなく、むしろ必然性のほうがたんなる偶然的なものを生みだす母体にまで引きおろされているのである」(同五二七ページ)といっています。
 この偶然性で特に重要なことは、ヘーゲルが「意志にかんする偶然性を正当に評価」(一四五節補遺)すべきだと述べていることです。
 意志とは自由なものであり、その本質は自ら決定することにあります。意志の自由とは、決定する自由を意味しています。「意志にかんする偶然性」とは、恣意的に決定する自由を意味しています。
 「人々はしばしば意志の自由という言葉を単なる恣意、すなわち偶然性の形式のうちにある意志と解している。確かに恣意は、さまざまの決定をする能力であるから、その概念上自由なものである意志の本質的モメントではあるが、しかしそれはけっして自由そのものではなく、形式的な自由にすぎない」(同)。
 偶然性の意志とは、単に決定をする自由を有する意志、単なる恣意にすぎませんが、それでも「概念上自由なものである意志の本質的モメント」を有する意志として、「正当に評価しなければならない」というのです。なるほど恣意は自由な意志ではあっても、それは単なる形式のみの自由、つまり「形式的自由」にすぎません。したがって「内容からすれば真実で正しいものを選ぶ場合でさえ、気が向いたらまた他のものを選んだかも知れないという軽薄さを持っている」(同)のです。これに対して本当の自由は、形式と内容の統一としての自由です。「本当に自由な意志は、その内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識していると同時に、それが自分自身の内容であることをも知っている」(同)のです。
 形式的自由は「偶然性の形式のうちにある意志」にすぎないのに対し、「本当に自由な意志」は、その意志の内容が、事物の必然性をとらえたうえで決定する自由な意志、いわば「必然性の形式のうちにある意志」です。それをヘーゲルは「その内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識している意志」といっているのです。その意味で「本当に自由な意志」は、形式と内容の統一した自由であり、自由と必然の統一した自由なのです。この自由と必然の統一した自由には、さらに普遍的(必然的)自由と概念的自由の二つがありますが、詳しくは第一二講でお話しすることにします。
 意志は本来自由なものです。『法の哲学』でヘーゲルは、「自由は、重さが物体の根本規定であるの同様に、意志の根本規定」(四節補遺)といっています。その自由な意志において、決定の自由、選択の自由は「形式的自由」にすぎないものではあっても、「意志の本質的モメント」として尊重されなければならないとして、ヘーゲルは思想・表現の自由などの自由権(基本的人権の一つ)について正当な評価を与えたのです。
 これは、自由とは何か、を考えるうえできわめて重要な指摘です。思想・表現の自由こそ、自由の根本規定であって、ここを出発点にしながら自由とは何かを考えていかなければならないのです。
 ヘーゲルは自由と必然性という対立物を統一してとらえることにより、真の自由とは何かの問題について、はじめて正しい解答を示しました。真の自由は必然性との統一としてとらえなければならないのですが、自由の即自的形態が形式的自由にあることを否定すると、そもそも自由とは何か、の問題が分からなくなってしまいます。
 この点でエンゲルスが、『反デューリング論』で「意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定をおこう能力をさす」(全集⑳一一八ページ/『反デューリング論』上一六三ページ)といっているのは問題だといわざるをえません。この規定によると、必然性を認識した自由のみが自由の名に値するのであって、形式的自由すなわち思想・良心の自由が、自由の概念には含まれないことになってしまうからです(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』一粒の麦社参照)。

条件と事柄

 「偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは条件である」(一四六節)。
 偶然性は可能性が外にあらわれたものとして「直接的な現実性」ですが、偶然的なものは「存在することもできれば、存在しないこともでき」(一四五節補遺)るような現実性として、確固として自立するものではないため、「揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定め」(一四六節)をもっています。偶然的なものはその存在の根拠を「自分自身のうちにではなく、他のもののうちに持」(一四五節補遺)つところから、いつでも「他のもの」によって揚棄され「他のものの可能性」となる定めをもっているのであり、したがって「条件」となるのです。
 条件とは、「抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性」(一四六節補遺)であり、自己は消滅して「他のものの実現に役立つ」(同)ような偶然性です。したがって条件は、常に「或る事柄の条件」(同)として、或る事柄と結びついているのです。
 では「事柄」とは何でしょうか。先に現実性とは本質のあらわれ、本質の規定性であり、本質の規定性には、本質的規定性と非本質的規定性があることをお話ししました。非本質的規定性が偶然性(条件)であるのに対し、本質的規定性が事柄なのです。「事柄」も広義では諸条件の一つですが、必然性の内容となる本質的条件であり、この点で事柄に吸収される「条件」とは区別されるのです。
 その意味で「現実性のもう一つの側面は本質性」(同)としての事柄であり、条件が事柄と結びついて「或る事柄の条件」となるとき、この規定性は、「自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいる」(同)のです。
 条件は、消滅しながらも、「全く別な或るもの」のうちで、「ただ自分自身とのみ合一する」(同)のです。

具体的可能性

 「 現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄である」(一四七節)。
 実在的可能性とは、抽象的可能性に対する具体的可能性を意味しています。「可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円」とは、「可能性」としての条件と「直接的現実性」としての事柄という「二つの規定」が結合して統体性となることを指しています。これは、もはや新しい現実性を生みだすかもしれないし、生みださないかもしれないし、どんな新しい現実性になるかも分からないような抽象的可能性ではなく、この二つの規定が結びついて動きを与えさえすれば、特定の現実性を生みだす具体的可能性となっているのです。
 その特定の現実性の内容を規定するものが、本質的規定性としての事柄の内容なのです。
 この事柄と条件とが結合することにより、内的なものから外的なものへと「動いていく」(同)ことが「活動」(同)とよばれます。この「活動」はすべての条件が整い、結合することから生じるのです。
 「あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである」(同)。
 事柄と条件が結合して活動となることによって、具体的可能性は現実性へと転化します。しかもそれは、自分自身の力によって必然的に現実性に転化するのです。この新しい現実性の内容を規定するのが、「それ自身諸条件の一つ」でありながら、本質的条件である事柄です。
 「展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性である」(同)。
 このように具体的可能性の展開として生まれた現実性が、必然性なのです。

必然性とは何か

 ヘーゲルは、「必然性という概念は非常に難解な概念である」(同)といっていますが、ヘーゲル哲学にとってキーワードともなる重要なカテゴリーです。
 「序論」の冒頭に、「思惟的な考察というものは、その内容の必然性を示し、その対象の諸規定のみならずその対象の存在をも証明しようとする要求をそのうちに含んでいるものである」(一節)ことが、まず指摘され、それを受けて「このように哲学はその発展を経験的諸科学に負いながらも、……諸科学の内容に思惟の自由(先天的なもの)という最も本質的な姿と必然性の保証とを与え、事実をして思惟の本源的な、かつ完全に独立的な活動の表現および模倣たらしめるのである」(一二節)と述べています。
 ここにいう必然性とは、必然的に現実性に転化するような内的なものということを意味しており、第一二講で取り扱う「必然の法則」の必然とは意味を異にしますので、注意しておいてください。
 では、必然性とは何を意味しているのでしょうか。
 「或ることが必然だと言われるとき、われわれはまず最初に、なぜそうなのかと問う。これによってわれわれは必然性が措定されたもの、媒介されたものとして示されることを要求するのである」(一四七節補遺)。
 まず必然性とは、媒介されたものです。しかし媒介されるといっても他のものに媒介されるのであれば、それは偶然性にほかなりません。
 したがって、「われわれが必然的なものに要求することは、これに反して、自分自身によってそれが現にあるところのものとしてあるということであり、したがって媒介されているとはいえ、同時に媒介を揚棄されたものとして自己のうちに含むということ」(同)であり、いわば自分で自分を媒介し、自己産出するという「他のものによって制約されない自己関係」(同)を意味しているのです。
 ヘーゲルは、「必然性の真理」(同)は、概念(真にあるべき姿)だといっています。真にあるべき姿は他者の手を借りることなく、絶対的に自己産出し、自分だけの力で現実性に転化するからです。これに対し、必然性とは条件、事柄、活動という「相互に全く無関係でなんら内的関係をもたないようにみえる」三つのモメントの結合から、「全く別の或るもの」(同)が生まれる過程です。この三つのモメントの結合は、偶然性に委ねられている場合もあれば、必然的な場合もあるということからすると、必然性は自己産出するといっても、まだ「必然は盲目」にすぎないのです。その意味で「必然性は即自的には概念」ということができるのです。
 次にヘーゲルは、「必然という見地は、われわれの心情および態度にかんして、非常に重要な意義を持っている」(同)といっています。というのも、必然性は、われわれに関係なく、それ自身の力で動くものですから、われわれの自由にならない、われわれにとっては「不自由な関係」(同)のようにみえるからです。
 そこから、一方では必然性を運命ととらえ、運命だから仕方がないとして、あきらめる態度が生まれてきます。他方キリスト教では、「神はすべての人々が救われることを欲する、という教義を含んでおり」(同)、「絶対の慰めの宗教」(同)となっています。この立場からすると「自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める」(同)ことにより、必然性のなかに自業自得を見いだし、満足して受けとめることになります。
 ヘーゲルは、「一般に不自由とは、反対のものへの執着にもとづくもの」(同)だとして、必然性を運命としてとらえる立場もキリスト教の立場も、必然性に執着することなく、それをそのまま肯定する自由の立場であると主張しているかのようにみえます。
 しかしヘーゲルの真にいいたいことは、必然性にたいして、それを満足か不満足かという「心情および態度」によってとらえることで終わりとする解釈の立場ではなく、必然性を乗り越えてより良いものを求める変革の立場こそが重要なのだということなのです。それは後述するように、「必然の真理は自由」(一五八節)の言葉にはっきりと示されています。

必然性の三つのモメント

 ここでまとめてみますと、必然性とは、条件、事柄、活動という三つのモメントにより、「自分自身によってそれが現にあるところのものとしてある」(一四七節補遺)という自己産出の関係を意味しています。この三つのモメントの相互媒介の関係をみているのが、一四八節です。
 まず条件です。条件は「事柄と無関係に存在する偶然的な、外的な事情」(一四八節)であり、「諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく」(同)のです。
 次に事柄ですが、「まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容」(同)をもち、「諸条件を使用することによって外へあらわれ」(同)、その「内容諸規定によって自己を事柄として示す」(同)のです。
 最後の活動は、「諸条件および事柄のうちにその可能性を持」(同)ち、「それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動」(同)、いわば「事柄に存在を与える運動」(同)です。
 例えば作物を作る場合、「事柄」に相当するのは種であり、「諸条件」は畑と水、肥料、「活動」は水をまいた畑に種を播くことです。この三つは、人間という「他のもの」によって結合されてはじめて種は芽を出し、花を咲かせて作物に必然的に転化することになるのです。
 問題は、この必然性の三つのモメントが外的に与えられ、偶然に結合するのか、それとも内的につくり出され、必然に結合するのかにより、この必然性は外的必然性と内的必然性とに区別されることです。作物の例はいうまでもなく外的必然性であり、内的必然性の真理は、真にあるべき姿としての概念です。内的必然性は、自分で条件をつくり出し、自分で自分を媒介することによって絶対的に自己産出するのです。

偶然と必然の統一

 以上みてきたように客観世界は、偶然と必然の統一として存在し、偶然のなかに必然があり、必然のなかに偶然があることになります。
 エンゲルスは、ダーウィンの進化論について、この偶然と必然の内的連関を証明するものとなっていると述べています。
 すなわち、「ダーウィンの学説が、必然性と偶然性との内的連関についてのヘーゲルの叙述を実地に証明したものであることを示すこと」(全集⑳六〇七ページ)として、次のように述べています。
 種の進化は、適応(変化)と遺伝(保存)の統一です(同六二一ページ)。種のもつ個体の多様性を越える差異としての突然変異は、個体の「偶然的な差異」(同五二九ページ)にすぎません。しかしこの個体の偶然性が、種のもつ「無意識的な目的活動」(同七三ページ)にてらし、その種の生存にとって有益かつ必要な変化であったとき、種は、この個体の変化を選択して自己のうちに取り込み、遺伝子を変化させ必然的な進化へと転化するのです。このとき個体の突然変異は「条件」、種の内的目的性は「事柄」、種の選択が「活動」となり、必然性としての進化を生みだすのです。つまり種の進化は、偶然性の必然性への転化なのです。
 ミクロの素粒子(光子、電子など)は、粒子であると同時に波であるという対立物の統一です。粒子としては非連続性であり、波としては連続性という対立物の統一でもあります。素粒子の粒子としての動きは、全くデタラメな偶然なものにすぎませんが、素粒子の波としての動きは、一定の山と谷が必然的なものとしてあらわれてくるのです。また放射性物質の場合、その半減期(原子核が崩壊して二分の一になるまでの時間)は放射性同位元素ごとに必然的なものとして決まっています。しかしはじめにあった原子核のなかでどの原子核が崩壊し、どれが崩壊しないで残るのかは、まったく偶然でしかないのです。いわばミクロの世界においては偶然のなかに必然が、必然のなかに偶然が貫かれているのです。
 エンゲルスは、必然性を偶然性から全く切りはなす「これまでの観念は用をなさな」(同五二九ページ)くなったにもかかわらず、この考えに固執することは「生きた自然の内的必然性をことごとく否認し混沌たる偶然の王国を一般に生きた自然の唯一の法則として宣言することである」(同)と述べています。
 いわば、偶然か必然かという二者択一の形而上学は、必然性を偶然性に引き下げることになってしまうと同時に、偶然性を必然性にもちあげてしまうことになるのです。

外的必然性から内的必然性(絶対的相関)へ

 「必然性はしたがって即自的には、自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的でありながらも、内容にみちた一つの本質である。そしてこの同一的なものは、同時に絶対的な形式として、直接的なものを揚棄して媒介されたものとし、媒介を揚棄して直接的なものとする活動である」(一四九節)。
ここにいう必然性とは本来の必然性、つまり内的必然性です。「即自的には」とは、「本来的には」の意味です。
 内的必然性は、自分で条件をつくり出して「直接的なものを揚棄して媒介されたものとし」、この条件によって自己産出する活動、つまり「媒介を揚棄して直接的なものとする」「絶対的な」自己運動の形式なのです。
 これに対し外的必然性は、自己媒介、自己産出による必然性ではなく、偶然性に媒介された必然性にすぎません。
 「必然的であるものは、他のものによってそうなのである。そしてこの他のものは、媒介する根拠(事柄と活動)と直接的な現実、すなわち、同時に条件でもある偶然的なものとにわかれる。他のものによるものとしての必然は、絶対的でなく、措定されたものにすぎない」(同)。
 ここでは事柄と活動の結合したもの(種を畑に播くこと)が根拠とよばれていることに注目して下さい。
 マルクスは、『資本論』で、恐慌の必然性をヘーゲルの三つのカテゴリーを使って説明しており、恐慌の事柄としての「生産と消費の対立」と、活動としての「競争と信用」の結合とを「恐慌の根拠」ととらえ、それに条件としての「流通過程の短縮」が結合して、恐慌が必然的な現実性となることを説明しています(拙著『「資本論」の弁証法』参照)。
 それはともかく、根拠と条件の外的結合という「他のものによるものとしての必然」は「外的必然性」だとされるのです。
 しかし、外的必然性の中核を担う、事柄だけを取り出してみると、内にあった事柄がそのまま外にあらわれ、「事柄は自分自身と合一」(一四九節)することになります。
 「根拠と偶然的な条件は、直接態へ移され、そしてこのことによって、措定されたものは揚棄されて現実となり、事柄は自分自身と合一するからである。このように自己のうちへ帰ったものとしての必然的なものは、無条件的な現実性として端的に存在する」(同)。
 このように、自分自身で内から外にあらわれるような必然性が「外的必然性」に対して「内的必然性」とよばれ、それが「絶対的相関」をなすのです。「自己のうちへ帰ったものとしての必然的なもの」とは、偶然性に媒介されない必然性という意味であり、これは、偶然的な条件を必要としない必然性であるところから、「無条件的な現実性」とよばれます。
 「必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。すなわち、必然的なものは、諸事情が必然的であるから、必然的なのである。と同時に、必然的なものは、媒介されないで必然的である。すなわち、必然的であるから、必然的なのである」(同)。
 とはいっても、内的必然性を動かすのに諸条件が必要でないということではありません。内的必然性の場合、自己自らが諸条件をつくり出し、その自己の生みだした諸条件に媒介されて動くのであり、その意味で外面的な偶然性には媒介されないのです。したがって内的必然性は、「一群の諸事情に媒介されて必然的」であると同時に、外面的な偶然に「媒介されないで必然的」なのです。こういう、自己媒介により、内から外にあらわれる自己同一性、つまり内的必然性が「絶対的な相関」とよばれるものです。
 内的に必然的なものは、媒介されると同時に媒介を揚棄して、「媒介されない」から必然的なのです。

「現実性」総論のまとめ
      
 以上、「B 現象」に対して「C 現実性」とは何か、という現実性の総論をみてきました。
 要約してみますと、現象とは内にある本質のあらわれとしてその内に本質を含みながらも、一時的で無意味な単なる現象をも含むものであったのに対し、現実性とは必然的な現存在でした。現象も現実性も後ででてくる「客観」を構成する存在であり、客観世界は統一性をもった物質世界です。この統一性は客観世界を構成する諸物質が相互に関連し、運動しながら、全体として統一した運動をしているところにみることができます。したがって客観世界には、その運動をもたらす内在的な法則があります。それが現象の法則と必然の法則です。「現象」では現象の法則が、「現実性」では必然の法則が論じられています。
 現実性の総論部分では、正面からは必然の法則が論じられてはいませんが、客観世界には必然の法則が存在するのであり、それが「絶対的な相関」として各論で論じられることになるのです。