『弁証法とは何か』より

 

 

第一二講 本質論 ⑥

 

一、「a 実体性の相関」

 前講から、本質論「C 現実性」に入っており、前講でその総論部分を終えました。
 そこで学んだことは、現実性とは必然性として展開された現存在、必然的現実性だということでした。またこの必然性には外的必然性と内的必然性があることを学びました。外的必然性とは、必然性を生みだす条件が外から与えられるのに対して、内的必然性とは自分で条件をつくり出し、他者の力を借りない必然性でした。
 この内的必然性が「絶対的な相関」(一〇三節)とよばれるものであり、今回は、「現実性」の各論としての「絶対的な相関」を学びます。絶対的相関では「a 実体性の相関」「b 因果性の相関」「c 交互作用」という、三つの絶対的相関が論じられることになります。この三つの絶対的相関は、この順序で相関における同一性が強まっていくことになります。最後の交互作用を通じて、必然の法則とは何かを検討し、それが対立物の統一という弁証法であることを明らかにしたいと思います。
 それでは、最初の「実体性の相関」からみていくことにしましょう。

実体とは何か

 「実体は、ギリシア語のヒポケイメノン(基体=根底に横たわるもの)に由来し、それ自身によって存在するもののこと」(岩佐茂他編『ヘーゲル用語事典』一二一ページ、未来社)です。
 物理学の歴史は、物質の実体となるものは何かを探究する歴史でした。こうして原子、原子核、陽子、電子、中性子、さらにはクォークなどの微小な粒子が実体としてとらえられることになり、これらの実体から偶有としての物体が説明されるようになっています。
 また哲学の歴史においても、実体のカテゴリーは長い歴史をもっていると同時に論争の種にもなってきました。
 アリストテレスは、主語となっても述語にならない個体を第一実体、述語となりうる類、種を第二実体とよびました。近世に入ってデカルトは神を無限実体、精神と物体とを有限的実体と見なす二元論の立場に立ちました。またスピノザは、神を唯一の無限な実体としてとらえ、精神と物体を実体の「属性」とみなし、個々の精神や物体を実体が有限化した「様態」と考えました。ヘーゲルは、スピノザの実体論の影響を強く受けつつ、その批判もしています。
 このように、哲学史上実体とは全ての物体の基底となるものであり、実体の展開が現象の世界を構成する個別的事物を生みだすものとしてとらえられてきたのです。
 とりわけアリストテレスのいう第二実体としての類・種は、中世において有名な「普遍論争」を呼び起こすことになりました。普遍論争とは、類・種という普遍は実在するのか、それとも観念のなかにしか存在しないのか、また仮に実在するとすれば、それは個別的事物と同一なものかそれとも区別された存在なのか、という主として二つの問題をめぐっての論争でした。普遍は実体であるとしてその存在を肯定するものは「実在論」とよばれ、個物のみが実在し、普遍は名目にすぎないとするものは「唯名論」とよばれ、二つの陣営で激しい論争となりました。

ヘーゲルの実体論

 ヘーゲルの実体論は、事実上この二つの陣営のいずれもが一面的であると批判し、その対立を弁証法的に止揚して、同一と区別の統一としてとらえたところにその特徴があります。
 すなわち、まず普遍といわれるもののなかには、抽象的普遍と具体的普遍の二つがあり、両者は区別されなければならないことを指摘します。
 抽象的普遍とは、個物の「特殊性を除去し、それらに共通なものを固持することによって作られる」(一六三節補遺一)普遍です。これに対して具体的普遍とは「自ら特殊化するものであり、他者のうちにありながらも、曇りない姿で自分自身のもとにとどまっている」(同)ような普遍、つまり自己のうちに自己を特殊化した個物を含むような普遍です。
 抽象的普遍は、観念のうちにしか存在しませんが、具体的普遍は実在するというのです。
 では具体的普遍としてヘーゲルが念頭においているのは、何でしょうか。一つには、生命体における「類・種」であり、もう一つは、概念論で論じられる「概念」なのです。
 ヘーゲルは、「思弁的な学問は経験的な諸科学のうちに見出される普遍的なもの、法則、類、等々を承認して、それらを自己の内容のために役立てる」(九節)として、「類」を法則と並ぶ重要な普遍的なものをとらえるカテゴリーに位置づけていますが、それがヘーゲルの実体論で展開されることになるのです。
 「概念」のことは後に論じることにして、ここでは、類・種のカテゴリーを、ヘーゲルの「自然哲学」においてみておきましょう。
 生命体は「具体的な普遍、すなわち、類として規定」(樫山欽四郎他訳『エンチクロペディー』三六六節、河出書房新社)されることによって、「個別的な主体性と関わる関係と過程のなかへ入」(同)ります。「類とは、主体の具体的な実体」(同三六七節)であり、類は実体(具体的普遍)として「種一般へと特殊化され」(同三六八節)、「種がさらに進んで個別性」(同三六九節)として規定されることになります。
 こうして、類と個物との関係は、同一であると同時に区別されているという関係にあります。一人の男性という個人は人類に属し、類と同一です。しかし人間は一人では人類になることはできません。一人の男性と一人の女性が結合してはじめて人類になるのであり、その意味で一人の男性は人類から区別されてもいるのです。
 ヘーゲルは面白い言い方をしています。一個の個体は、「他者との合一によって自己を補い、この媒介によって自己と類を〔推論的に〕連結し、類を現存へもたらそうとする衝動であって、これが性交である」(同)。
 それはともかく、ヘーゲルは生命体の類をその生命体の真理態としてとらえ、個物をその特殊化として理解しているのです。以上を前提として「実体性の相関」をみていくことになりますが、実体とは類、偶有とは個体を念頭におけば分かりやすいでしょう。

実体性の相関

 「必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である」(一五〇節)。
 ここにいう「必然的なもの」とは、内的必然性を意味しています。つまり、内的に必然的なものは「絶対的相関」である、なぜなら自己のうちに媒介を定立し、それを「揚棄して絶対的な同一となる過程」だから、というのです。内的必然性は、自分自身が必然的なものとして外にあらわれ(自己産出し)現存在となることにより、「絶対的な同一」を実現するという相関なのです。
 「その直接的な形態は実体性と偶有性との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する」(同)。
 「実体性の相関」とは、「実体性と偶有性との相関」です。
 スピノザは、唯一無限な神のみを「実体」としてとらえ、この実体は、自己同一性を保ちつつ他のすべての存在者の「原因」となる「自己原因」であるととらえました。
 本質論の総論で「同一性」を論じた際、「本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、……高い意義を持つカテゴリーである。神にかんする真の知識は、神を同一性、絶対の同一性として知ることからはじまる」(一一五節補遺)と述べているのも、「実体」を念頭においたものなのです。
 そしてこの「本当の意味における同一性」は、「有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性」(同)であるとしていますが、ここに至ってそれが実体であることが明らかにされます。
 実体と偶有性の相関において、「実体は必然性」であり、「自己同一」を保ちつつ必然的に外にあらわれでて、「自己を現実性として定立する」のです。
 「しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移が形式活動(一四八節および一四九節)としての実体的同一性である」(一五〇節)。
 しかし、実体により「現実性として定立」されたものは、実体の「外面性の否定」としての偶有性にすぎません。偶有性は実体性のあらわれではあっても、「単なる可能性」の一つがあらわれでたにすぎないものとして、実体の「外面性の否定」です。また偶有性は、実体の「単なる可能性」にすぎないものですから、別の可能性である他の現実へと「移っていく」ことになるのです。
 「したがって実体は偶有の全体であり、偶有のうちで実体は、それが偶有の絶対的否定、すなわち絶対の力であること、しかも同時にあらゆる豊かな内容であることを顕示する。この内容はしかしこうした顕示そのものにすぎない」(一五一節)。
 ここでヘーゲルがイメージしている「実体と偶有」は、「類と個」といっていいでしょう。人類という実体は、個々の人間の全体を合わせたものであるという意味で、「偶有の全体」です。同時に、人類は個々人を生みだす「絶対の力」、内的「必然性の力」(同)なのです。人類が存在しなければ個人も存在しません。人類は、個人という偶有をつうじて「あらゆる豊かな内容であることを顕示する」のです。
 「というのは、自己へ反省して内容となった規定性そのものは、実体の力のうちで移り変っていく、形式の一モメントにすぎないからである。実体性は絶対的な形式活動であり、必然性の力である。そしてあらゆる内容は、ひたすらこうした過程に属するモメントにすぎず、形式と内容との絶対的な交互転化である」(同)。
 ここにいう「自己へ反省して内容となった規定性」というのは、偶有のことです。偶有は、実体によって生みだされる「形式の一モメント」にすぎませんから、「実体の力のうちで移り変わってい」きます。いわば、その偶有が生まれるか生まれないか、存在するかしないか、どんな内容をもって存在するかは、すべて「実体の力」に依存しているのです。つまり、個々の偶有は、実体から生まれる「絶対的な形式活動」の産物だからこそ、豊かな内容をもっているのであり、それをヘーゲルは、「形式と内容との絶対的な交互転化」といっているのです。
 以上が「実体性の相関」です。ヘーゲルはまだダーウィンの進化論を知りませんから、類は不変な実体であり、一方的に個を生みだす絶対的な力だととらえましたが、現在では類を不変とする考えは修正されるべきでしょう。つまり個体の突然変異が一定の条件下で類を進化させるという反作用をもたらすことによって、種(類)の変化が生まれるのであり、種の進化とは、実体と偶有との交互作用なのです。
 しかしこの点でも逆に、実体性の相関は、絶対的な相関の「直接的な形態」(一五〇節)にすぎず、後に述べる交互作用においてそれが完成態にいたる、としているヘーゲルの正しさをも証明することになっています。  続いて、スピノザの実体論批判が展開されています。ヘーゲルの批判は、まず第一に、内容上の批判です。すなわちスピノザは実体としての神のみが存在するとして、「すべて有限なものを一時的なもの、消滅するもの」(一五一補遺)としてのみとらえることにより「この哲学が差別あるいは有限性の原理を正当に認めない」(同)というものです。
 スピノザは、実体という同一性から区別される「個別」、つまり客観世界における個々の事物を「正当に認めない」、「無世界論と呼ぶべきもの」(同)だというのです。ヘーゲルは「この哲学によれば有限な事物、あるいは世界一般は全く真理を持たない」(同)ことになってしまう、と批判しています。
 第二に、「このような内容上の欠陥は、同時に形式上の欠陥ともなっている」(同)との批判です。すなわち、スピノザは、実体としての神の属性が、「思惟(精神 ── 高村)と拡がり(物体 ── 高村)」(同)となり、この両者を統一したものが神という実体となるとしているのですが、ヘーゲルは、「かれがどうしてこうした区別に到達し、またどうしてこの区別を実体的統一に還元するにいたったかを証明してはいない」(同)と批判しています。
 これに対してヘーゲルは、「実体と偶有性」との関係を「絶対的相関」としてとらえたからこそ、同一と区別の統一としてとらえることができたのであり、スピノザのように「弁証法的な媒介」においてとらえない実体は、「形式上の欠陥」をもつゆえに内容上の欠陥をももち、内的必然性の力をもたない「無世界論」におちいらざるをえないと批判しているのです。
 「あらかじめ弁証法的な媒介をせずいきなり実体を把握すれば、実体は普遍的な否定力として、あらゆる規定された内容を本来空無なものとして自己のうちへ呑みこみ、自己のうちからはなんら積極的な存在をも生み出さない、暗黒で形のない奈落のようなものとなってしまう」(同)。
 スピノザ主義においては、「形式が内容に内在しているものとして意識されていず、したがって形式が単に外的で主観的な形式」(同)としてのみとらえられているところに問題があります。
 これに対してヘーゲルの実体は、内容と形式の統一をそのモメントとしてもっているがゆえに、形式としての偶有も、実体の内容をもち、「単に外的で主観的な形式」ではない、と批判しているのです。
 「実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を偶有性へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である」(一五二節)。
 実体は自己を規定し、内的必然性の力として自己のなかから偶有性という区別を生みだしますので、実体と偶有性は、同一と区別の統一という「本来の相関」となっています。
 ヘーゲルは、この同一と区別の統一としての「本来の相関」が「因果性の相関」であるとして、次のカテゴリーに移行します。

 

二、「b 因果性の相関」

人間の活動が因果性の試金石

 因果性の相関とは、原因と結果の相関であり、一般に因果法則と呼ばれるものです。原因は結果を生みだす内的必然性の力なのです。
 第一〇講で、ポスト・ホックとプロプテル・ホックをとりあげ、前者が狭義の現象の法則であり、後者が必然の法則を意味していることをお話ししました。
 人間の認識は、ポスト・ホックの認識から、プロプテル・ホックの認識へと前進していきます。それが「何故そうなるのか」という原因の科学的探求であり、原因を把握することにより、人間はその意図する目的を結果として実現することができます。
 「運動する物質を観察する場合にまずわれわれの目につく最初のことは、個々の物体の個別的運動の相互間の連関であり、それらの運動のそれら相互による被制約性である」(全集⑳五三七ページ)。
 われわれが個々の物体の観察をつうじて最初に目にすることは、Aに続いてBが起こるというポスト・ホック(それのあとに)の法則です。
 「ところがわれわれの見いだすことは、ある運動のつぎに別のある運動がつづいているということだけではなく、ある特定の運動が自然のなかで起こるさいの諸条件」(同)、つまり原因の認識へと前進していきます。
 そして、この原因を「われわれの手でつくりだしてやることによって、この特定の運動を起こさせることがわれわれにはできる」(同)のです。
 この原因の探求により、人間は、自然的現象としては決して生じえないような産業をつくり出してきたのです。
 「これによって、すなわち人間の活動によって、因果性の観念、つまりある運動が別のある運動の原因であるという観念が根拠づけられる」(同五三八ページ)のであり、したがって、「人間の活動が因果性の試金石となる」(同)のです。
 同時にこのような因果性の観念は、カントやヒュームの不可知論の誤りを証明することにもなるのです。
 エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』において、「彼らは、世界が認識できるということに、あるいは少なくともあますところなく認識できるということに、異論をとなえている。そのなかにはいるのは、近代の哲学者のうちではヒュームとカント」(全集㉑二八〇ページ/『フォイエルバッハ論』三四ページ)と指摘し、次のように批判しています。
 こうした哲学的妄想に「たいする最も適切な反駁は、実践、すなわち、実験と産業とである。もしわれわれがある自然現象を自分自身でつくり、これをその諸条件から発生させ、そのうえそれをわれわれの目的に役だたせることによって、この自然現象についてのわれわれの認識が正しいことを証明することができれば、カントの認識できない『物自体』はそれで終りである」(同二八〇~二八一ページ/同三五ページ)。
 以上を前提にしつつ、ヘーゲルの「因果性の相関」をみていくことにしましょう。

因果性の相関

 「実体は一方では、偶有性への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因である」(一五三節)。
 実体は原因となり、偶有性は結果となる、ということです。原因とは「必然性」のところでお話しした本質的条件としての「本源的な事柄」であり、結果のなかにその内容を実現します。原因は結果という「現実を産出する」のですが、それは、原因が事柄としての「自己そのものの否定」をつうじて、必然的に結果に移行する内的必然性として、結果のなかにその内容を実現するのです。
 「原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである」(同)。
 原因と結果とは、内容の同一性と形式上の区別という同一と区別の統一なのです。原因の内容が、そのまま結果の内容となるという「同一性」のうちに、原因が「本源的な事柄」であることが示されているのです。
 いわば、原因は結果に移行することによって揚棄されるのですが、原因が揚棄されれば結果もまた「原因にもとづく結果」であることが揚棄され、後に残るのは、原因と結果に共通する内容の同一性のみとなるのです。
 ヘーゲルは、その例として原因としての雨と結果としての湿りをあげ、雨は湿りのうちで消失するとともに「また結果という規定も失われてしまう」(同)のであり、後に残るのは、「同一の現在する水」(同)のみであるといっています。
 このように、原因と結果は内容の同一性と形式上の区別の統一なのですが、この「形式上の相違も同じくまた揚棄される」(同補遺)ことになります。
 「なぜなら、結果が原因そのものと同一であるという面からみれば、それは原因として、しかも同時にはじめの原因とは別の原因として規定され、そしてこの原因は再び他の結果を持つ、という風に無限に進んでいくからである」(一五三節)。
 こうして原因は結果になり、結果は原因になるのですが、「しかし原因はそれが原因であると同じ関係において結果ではな」(同補遺)く、原因が結果になると、その結果は別の結果の原因になるというように直線的な「無限進行を出現させる」(同)のです。
 これに対して、原因と結果とが「同じ関係において」原因が結果となり、その結果がまた原因となって、最初の原因となるような、作用と反作用の関係が交互作用とよばれるのです。
 「交互作用において……原因から結果への、および結果から原因への直線的な運動が、自己のうちへ曲り戻らされていることによって、原因と結果との無限進行は真の仕方で揚棄されている」(一五四節)。
 つまり交互作用とは、因果関係のように直線的な無限進行の運動としてではなく、二つのものが自己のうちにおいて、原因が結果に、結果が原因にと無限にくり返される相関をいうのです。
 こうして、因果性の相関は、交互作用へと移行することになります。

 

三、「c 交互作用」

客観世界の認識は「有」にはじまり「交互作用」で終わる

 第一部「有論」、第二部「本質論」をつうじて客観世界における物質の運動の諸法則を学んできました。
 交互作用がなぜ客観世界の諸法則の最後に位置するのかといえば、交互作用において物質の運動法則が、最も一般的かつ普遍的法則、必然の法則として展開されているからです。したがって、これまで有論、本質論で展開されてきた運動の諸法則は、この交互作用に包摂され、交互作用に収れんされることになるのです。この交互作用を言いかえれば、「対立物の統一」という形式になり、そのなかに、対立物の相互移行も、対立物の相互浸透も、対立物の同一も、対立物の闘争もすべて包摂されることになります。
 こうして、交互作用において客観世界の認識は真理に到達したことになり、したがって第一部、第二部の客観的論理学から、第三部主観的論理学としての「概念論」に移行することになるのです。
 この点を、エンゲルスの『自然の弁証法』で、もう少し詳しくみていくことにしましょう。
 現象の世界、つまり客観世界において、物体は相互に依存し、相互に連関するという普遍的連関のなかにおかれ、また不断に運動しています。因果法則はこの相互連関の一面的な、不完全な表現であったのに対し、その完全な表現が交互作用です。
 「交互作用は、われわれが今日の自然科学の立場から運動する物質を全体として考察するときぶつかる最初のものである。力学的運動、熱、光、電気、磁気、化学的な結合と分解、集合状態間の移行、有機的生命というような一連の運動形態を見ればわかるように、それらはすべて……相互に移行しあい、相互に制約しあって、ここでは原因、かしこでは結果となり、しかもそのさい運動の総和は変転するあらゆる形態をつうじていつも同一にたもたれている」(全集⑳五三九ページ)。
 これがいわゆるエネルギー保存の法則とエネルギー転化の法則です。エンゲルスは、唯物論的かつ弁証法的な自然観が確立する契機となった三大発見として、細胞の発見、ダーウィンの進化論に並んで、このエネルギー転化の法則をあげています(同五〇七ページ)。
 ここでエンゲルスが、「物質を全体として考察するときぶつかる最初のもの」が交互作用だといっているのは、それが物質の運動の最も一般的かつ普遍的法則として誰の目にもとらえられる法則だという意味でしょう。それは、それに続く文章からも明らかになります。
 「このような交互作用の認識以上にさらにさかのぼることはわれわれにはできない。なぜなら、まさにその背後には認識すべきなにものもないからである。われわれが物質のもろもろの運動形態を認識してしまうときには、……われわれは物質自体を認識したのであり、またそれとともに認識は完了しているのである」(同五三九ページ)。
 いわば、交互作用という物質の運動の一般的かつ普遍的法則をとらえることにより、必然性、法則性にかんする「認識は完了」しているのであって、それ「以上にさらにさかのぼることはわれわれにはできない」のです。
 したがって、因果法則というのは、科学的に真理を探究するうえで重要な法則であるにもかかわらず、交互作用という普遍的法則の一側面をなすものにすぎません。
 「この普遍的な交互作用からわれわれははじめて現実の因果関係に到達する。個々の現象を認識するためには、われわれはこれを普遍的な連関からきりはなし、孤立させたままこれを考察しなければならない、そしてそうした場合にこそ交替変化する諸運動は、一つが原因、他が結果として現われることになるのである」(同五四〇ページ)。
 交互作用が「物質のもろもろの運動諸形態」を包摂する一般的かつ普遍的法則だということは、第一〇講でお話しした「必然の法則」の一般的かつ普遍的表現である「対立物の統一の法則」の別の表現だということに帰着します。
 エンゲルスは、ダーウィンの進化論について、結論そのものは評価しながらも、それを、種のもつ内的目的性によって説明するのではなく、生存闘争という主体と無関係な要因として説明していることを批判し、次のように述べています。
 生物界には生存闘争もあれば協動もありますが、「どちらの見解も、ある限界内で一定の正しさをもっていますが、両者ともに一面的で、狭隘です。自然物 ── 生命のないものも、あるものもふくめて ── の交互作用は、調和をも衝突をも包含し、闘争をも協動をも包含しているのです」(全集㉞一三八ページ)。
 同様の趣旨は、『自然の弁証法』(全集⑳)にもあります。すなわち、ダーウィン以前には「生物界の調和的な協働」が主張されていたのに対し、ダーウィンの登場により「調和的な協働」にかわって生存闘争だけをみるような見解が支配的となりました。エンゲルスは、両者を批判して次のように述べています。
 「二つの見解は狭い限界の内部では正しいが、しかし両者はともに等しく一面的であり偏狭である。生命なき自然物の交互作用ということは調和と衝突とを含意し、生命ある自然物のそれは意識的および無意識的な協働と意識的および無意識的な闘争とを含意している」(同六〇九ページ)。
 エンゲルスは、生命あるもの、生命のないもの、すべての自然物について交互作用が存在し、それは調和と衝突、協働と闘争を包含しているというのです。
 対立する二つのものの交互作用、つまり対立物の統一には、対立物の相互移行、相互浸透、同一という調和もあれば、対立物の相互排除、闘争、つまり矛盾をも包含しています。この立場からエンゲルスは、種の進化とは適応(生物と自然との闘争、変化)と遺伝(生物と自然との調和)を統一したものであると主張したのです。

必然の法則=弁証法

 第一〇講でも述べたように、ヘーゲルは、なぜか『小論理学』では一言も「必然の法則」という用語を使用していません。そのため現象の法則と必然の法則の関係も論じられていませんし、『小論理学』全体を貫く必然の法則が対立物の統一という弁証法であることも明らかにされていません。ただ「論理学のより立入った概念と区分」(七九節以下)において、悟性的側面、否定的理性の側面、肯定的理性の三つの側面が「あらゆる論理的存在の、すなわちあらゆる概念あるいは真理のモメントである」(七九節)と述べられるにとどまっています。また最後の「絶対的理念」においても、その「真の内容は、これまでわれわれがその発展を考察してきた体系全体にほかならない」(二三七節補遺)として、有論、本質論、概念論が端初、進展、終結の弁証法としてとらえられています。
 しかし、必然の法則について、全く述べていないのかといえばそうではありません。ヘーゲルは、本質における同一と区別を論じていますが、区別の一形態としての「対立」のところで、次のように述べていました。
 「哲学の目的は、これに反して、このような無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとしてみることにある」(一一九節補遺一)。
 つまり、対立は全自然を貫く「普遍的な自然法則」(同)なのであって、すべての事物は対立・矛盾においてとらえることによって事物の運動の必然性を認識することができるのです。したがって必然の法則とは、対立物の統一という弁証法にほかならないのです。
 ひとこと注意しておくと、「必然の法則」における「必然」とは、二つの事物の間の必然的な関係という意味であって、第一一講で論じた必然的な現実性という意味ではありません。
 この必然の法則を弁証法の三法則としてとらえようとしたのが、ほかならぬエンゲルスの「自然の弁証法」でした。エンゲルスは、弁証法の三法則として、「量から質への転化、またその逆の転化の法則」「対立物の相互浸透の法則」「否定の否定の法則」(全集⑳三七九ページ/『自然の弁証法〈抄〉』四三ページ)をあげ、次のように述べています。
 「第一の法則は『論理学』の第一部、存在論のなかにあり、第二の法則は彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている」(同)。
 エンゲルスの指摘も参考にしながら、物質の運動における必然の法則を整理してみましょう。手がかりになるのは、概念論における「概念の進展は、もはや移行でもなければ、他者への反照でもなく、発展である」(一六一節)との指摘です。ヘーゲルは、これを必然の法則を述べたものだとはいっていませんが、これは、有論における「対立物の相互移行」、本質論における「対立物の相互浸透」「対立物の同一」、概念論における「対立物の相互排斥(対立物の闘争)」という、各部の必然の法則を弁証法的に示したものとして理解することができます。
 このヘーゲルの指摘をもとにすれば、現象の法則と必然の法則を、次のようにとらえることができるのではないでしょうか。
 物質の運動における必然の法則は対立物の統一として示される。対立物の統一の法則は、第一部においては、対立物の相互移行の法則となって展開される。質から量へ、量から質への移行もその一例である。これは事物の表面的な連関と運動をとらえるものである。
 第二部においては、事物の内面に分け入った連関と運動がとらえられ、法則も現象の法則と必然の法則に区別される。現象の法則はエンゲルスのいう「ポスト・ホック」であり、事物の経験的連関と運動をとらえた法則である。これに対し必然の法則は「プロプテル・ホック」であり、事物の内的必然的連関と運動をとらえた法則である。人類の認識の深化は、現象の法則が必然の法則であることを解明することに向かう。
 第二部における必然の法則は、主として対立物の相互浸透または対立物の同一の法則として展開される。その代表的なものが因果法則、つまり「プロプテル・ホック」である。
 第三部における必然の法則は、主として対立物の相互排除(矛盾)とその止揚の法則として展開される。現にあるものと真にあるべきものとの対立・矛盾、あるいは主観と客観の対立・矛盾を止揚した理想と現実の統一が主題になる。これがいわゆる発展法則といわれるものであり、この発展法則は「否定の否定の法則」とも呼ばれる。
 こうしたとらえ方が論理学全体を貫く必然の法則としての弁証法を理解する一助となれば幸いです。
 以上を前提として「交互作用」の本文に入っていくことにしましょう。

交互作用

 「交互作用のうちであくまで区別されている二つの規定は 即自的には同じものである。すなわち、一方の側面は他の側面と同じように原因であり、本源的であり、能動的であり、受動的である、等々」(一五五節)。
 交互作用は、本質論の最後に位置し、第三部「概念論」の橋渡しとなるカテゴリーです。「現実性」の総論で、「現実性」の最も展開された形態は内的必然性であることを学びました。
 すなわち、外的必然性とは「他のものによるものとしての必然」(一四九節)であって、「絶対的でなく、措定されたものにすぎない」(同)のであり、これに対し、他のものの力を借りることなく、絶対的に自己産出するものが、内的必然性としての「絶対的相関」であり、その真理が「概念」なのです。
 「概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を揚棄されたものとして含んでおり、逆に必然性は即自的には概念である」(一四七節補遺)。
 こうして必然性から概念への移行を、いよいよ具体的に学んでいこうというのです。ヘーゲルは、「必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆきは、最も困難なものである」(一五九節)といっています。ヘーゲル論理学の「最も困難」なところにいよいよ踏み込むのですから、腰をすえて学んでいきたいと思います。
 さて、交互作用において区別されている二つの規定は、「原因は結果のうちで原因であり、結果は原因のうちで結果であるという同一性」(一五四節)であり、二つの規定は「即自的には同じもの」(一五五節)なのです。
 すなわち、原因は結果、結果は原因というと、二つの原因が対峙して存在しているようにみえるかもしれませんが、一つの作用が同時に反作用でもあるという関係にすぎないのであって、二つの作用が存在するわけではないのです。
 「したがって二つと言われた原因の区別は空虚であって、即自的にはただ一つの原因」(同)が存在するにすぎません。
 しかも、この二つの規定の区別を空虚なものにするのは「われわれの反省」(一五六節)、つまり、われわれがそのように認識しうるというだけの問題ではなくて、それが交互作用といわれるものの作用なのです。それをヘーゲルは、二つの規定の同一性は、単に即自的に同じものであるにとどまらず、「 しかしこの同一性はまた対自的でもある」(同)と表現しています。
 このように「交互作用は完全に展開された因果関係」(同補遺)として、客観世界の一般的かつ普遍的な法則なのですが、しかし真理を認識しようとした場合、「この関係の適用で満足してはならない」(同)のです。

交互作用の不十分さ

 というのも、客観世界を交互作用の見地のもとにみるということは、客観世界はいかにあるのかという「単なる事実を取扱うにすぎ」(同)ないからです。
 因果関係を問題にするということは、事物の根拠(媒介)は何かを探求することでしたから、「完全に展開された因果関係」としての交互作用においても、交互作用そのものを生みだす根拠とは何か、つまり「客観世界は何故このようにあるのか」が問われなければならないのです。しかし交互作用のカテゴリーによっては、「因果関係を適用する際まず問題になっている媒介の要求は、再び満足されないままに残る」(同)ことになってしまいます。
 先に「現存在」を学んだときに、現存在する世界、つまり客観世界は、「無限の連関からなる世界」(一二三節)であるが、「このような種々様々の関係のうちには、まずどこにも確かな拠りどころが見出されない」(同補遺)として、ヘーゲルは次のように述べていました。
 「反省的悟性はこれらの全面的関係を探り追求することを仕事としているのであるが、それでは、究極目的は何かという問題は解決されないままに残る。したがって概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行くのである」(同)。
 客観世界をとらえるカテゴリーは、現存在から現実性へ、そして交互作用へと前進してきましたが、交互作用にまできても、やはり客観世界は、一種の循環論のなかにおかれていて、「究極目的は何か」という問題は残されたままなのです。そこで、「このような単なる相対性の立場を越えて」、客観世界からイデアの世界へ進んでいくことになるのです。
 「交互作用という関係の適用がなぜ不十分であるかをよく考えてみると、それは、この関係が概念に等しいものでなく、まず概念的に把握されなければならないものである、という点にある」(一五六節補遺)。
 第九講で現象の世界とイデア界との関係を学びましたが、世界の究極目的となるものこそイデアとしての概念、つまり「真にあるべき姿」なのです。客観世界における交互作用という普遍的法則も、「より高い第三のもののモメント」(同)としての「概念のうちに根拠を持つもの」(同)ととらえることによって、循環論を脱却することができるのです。
 イデア界は、客観世界の根拠となるのであり、こうして、本質論は概念論へ移行することになるのです。

交互作用から概念論へ

 「したがってこのような純粋の自己交替は、顕現されたあるいは定立された必然性である。必然性そのものの紐帯は、まだ内的で隠れた同一性である。なぜなら、この同一性は、それらの自立性がまさに必然性たるべきものではあるが、諸々の現実的なものと考えられているものの同一性であるからである。したがって実体が因果性と交互作用とを通過するということは、独立性が無限の否定的自己関係であるということの定立である」(一五七節)。
 交互作用(「純粋の自己交替」)において、客観世界の必然性は対立物の統一の法則として、「顕現」されることになります。しかし、客観世界が何故そのようなものとして存在しているのかという「必然性そのものの内的紐帯」はまだ隠されたままですが、この隠れた内的紐帯が概念なのです。
 概念は、客観世界の根拠となり、客観世界の必然性を概念の「同一性」として定立するイデアです。
 言いかえれば、客観世界は「独立性」をもった世界のようにみえながらも、実体から因果性へ、因果性から交互作用へとその必然性をたどってみると、必然性の真理としての概念に到達するのであり、この概念をとらえることによって、客観世界は概念の「無限の否定的自己関係」、つまり主観的な概念が否定されて生まれた現実性としてとらえ返されることになるのです。

 

四、本質論から概念論へ

必然の真理は自由、実体の真理は概念

 「したがって必然の真理は自由であり、実体の真理は概念 ── すなわち、自己を自己から反撥してさまざまな独立物となりながらも、この反撥のうちで自己同一であり、交替運動をしながらも、あくまで自分自身のもとにとどまる、すなわちただ自己とのみ交替運動をする自立性 ── である」(一五八節)。
 結論的にいいますと、必然と実体とは「自然哲学」の世界、客観世界のことであり、自由と概念とは「精神哲学」の世界、イデア界を意味しています。自然界、客観世界の真理態は、精神界、イデア界であるという意味で「必然の真理は自由であり、実体の真理は概念」といわれているのです。
 イデアとしての概念は、客観世界の根拠となるものです。イデアは、客観世界の中から生まれた主観的なものです。しかしいつまでも主観のうちにとどまることなく、自らを現実性に転化して客観世界にあらわれでます。自然界から精神界に、精神界から自然界にと移行しながらもイデアはイデアとしての同一性を貫きます。そのことをヘーゲルは、「自己を自己から反撥してさまざまな独立物となりながらも、この反撥のうちで自己同一」であるとか、「交替運動をしながらも、あくまで自分自身のもとにとどまる」などと表現しているのです。
 「必然の真理は自由」という箇所をもう少し補充しておきますと、必然性というものは、客観世界の法則性に支配される不自由さをもっています(一四七節補遺参照)。これに対して、概念というものは客観世界を乗り越えた精神として、客観世界の必然性から解放された自由をもっているのです。
 ヘーゲルは、「精神哲学」(岩波文庫、舟橋信一訳)において、「必然性から自由へのこの移行」(五節補遺、三三ページ)は、「自然のなかにかくされている概念を外面性というおおいから解放し、そしてそのことによって外面的必然性を克服する」(同)ことだと述べています。つまり客観世界のなかに潜在的に含まれている概念をとらえることによって人間は客観世界の必然性の支配をのり越え、客観世界を自由に支配することができるようになるのです。
 エンゲルスが、『空想から科学へ』のなかで次のように述べているのは、この箇所に学んだものです。
 「これまでは、人間自身の社会的行為の諸法則が、人間を支配する外的な自然法則として、人間に対立してきたが、これからは、人間が十分な専門知識をもってこれらの法則を応用し、したがって支配するようになる。……これまで歴史を支配してきた客観的な、外来の諸力は、人間自身の統制に服する。このときからはじめて、人間は、十分に意識して自分の歴史を自分でつくるようになる。……これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である」(全集⑲二二三~二二四ページ)。

自由と必然

 第一一講でも検討しましたが、ここで、もう少し自由と必然との関係をみておきましょう。ヘーゲルは『小論理学』でも一四五節補遺で「形式的自由」について述べていますが、自由と必然の関係を全面的に展開したのは『法の哲学』においてです。
 すなわち、自由を必然との関係において、低い段階から高い段階へと発展する三段階の自由として論じているのです。
 第一段階の自由は、必然性(法則性)を無視した自由です。これは単なる意志決定をするという形式のみの自由、形式的自由であり、内容のない自由、つまり恣意にすぎないとしています。
 第二段階の自由は、必然性を認識したうえで、意志決定する自由であり、必然的自由または普遍的自由とよばれています。これにより合法則的に意志決定をすることができますが、まだこの客観世界の法則性に支配され、従属するという不自由さをもっています。
 第三段階の自由は、概念的自由です。概念的自由は、客観世界の法則性を揚棄して、客観的事物の概念(真にあるべき姿)をとらえる自由です。この概念的自由は、客観世界を自由につくりかえ、支配する真の自由なのです(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』一粒の麦社)。
 人間は客観世界をつくりかえる自由な意志をもつことにより、動物一般から区別されています。その意味で人間の本質は自由な意志にあるということができます。人間は、理想と現実を統一する概念的自由の立場に立ってこそ真に自由になり、人間らしく生きることになるのであり、したがってより善く生きることになるのです。ヘーゲルが「概念」をエネルゲイアとしてのイデアとしてとらえたのは、そこにギリシャ語の「エネルゲイア」がもつより善く生きるという意味をも含ませたものと、理解することができます。
 この必然的自由から、概念的自由にいたることが、『小論理学』でいう「必然の自由への変容」(一五八節補遺)なのです。
 「ここから、自由と必然とを相容れないものとみるのが、どんなに誤っているかがわかる。もちろん必然性そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」(一五八節補遺)。
 ここにいう自由を概念的自由、必然を必然的自由ととらえると理解しやすいでしょう。
 エンゲルスは、『反デューリング論』のなかで、「ヘーゲルは、自由と必然の関係をはじめて正しく述べた人である」(全集⑳一一八ページ/『反デューリング論』上一六三ページ)と指摘したのに続けて、次のように述べています。
 「自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。……だから、自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである。したがって、自由は、必然的に歴史発展の産物である」(全集⑳一一八~一一九ページ/同)。
 科学的社会主義の自由論は、ヘーゲルの自由論を土台にしているのです。
 「有徳な人は、その行為の内容が必然的でありかつ即自対自的に妥当するものであることを意識しているが、しかもこのことは、かれの自由を少しも傷つけるものではなく、むしろそれによってはじめてこの意識は、まだ無内容で単に可能的な自由としての恣意とはちがった、現実的で内容のある自由となるのである」(一五八節補遺)。
 つまり有徳な人とは真に自由な人なのです。というのも、有徳な人は自己の行為を恣意的な「無内容で単に可能的な自由」としてではなく、概念を認識することによって「現実的で内容のある自由」としているからなのです。
 人間の最高の自由、最高の自立性は、「自分が全く絶対的理念に規定」(同)されていること、つまり、概念という真にあるべき姿によって規定されていることを知るところにあるのです。
 「必然の真理は自由であり、実体の真理は概念」(一五八節)とは、概念をとらえることによって、真に自由となることを意味しています。

概念は有および本質の真理

 「かくして概念が有および本質の真理である。というのは、概念においては自分自身への反省という反照が、それ自身同時に独立的な直接性であり、さまざまの現実のこうした有が直接に自分自身への反照にすぎないからである」(一五九節)。
 概念が「有および本質の真理」ということには、二つの意味があると思います。
 一つは、有および本質というのは、客観世界を意味しており、これに対して概念というのは、客観世界をのり越えた真にあるべき世界(イデアの世界)、主観の世界として「有および本質の真理」なのです。ヘーゲルは、『大論理学』においては有論と本質論を客観的論理学、概念論を主観的論理学としてとらえています。この見地から、有、本質と概念との関係をみる必要があるのです。「実体の真理は概念」(一五八節)という場合の「実体」も、同様に客観世界と理解すべきものです。
 もう一つは、概念(真にあるべき姿)は、「それ自身同時に独立的な直接性」としての「有」の側面をもつと同時に、自己を自己から反発する「自分自身への反省」として、本質の側面をもつのであり、有と本質のもつそれぞれの制限(有は反省を伴わず、本質は直接性をもたないという制限)をのりこえ、有と本質を統一した真理だ、という意味です。すなわち概念は具体的普遍として、普遍としての「独立的な直接性」をもちつつも、「自分自身への反省」、つまり自己を特殊化して個別にいたる普遍、同一と区別の統一としての普遍なのです。
 「必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆきは、最も困難なものである。というのは、独立的な現実は移行および他の独立的な現実との同一のうちで、その実体性のすべてを持っているものと考えられなければならないからである。概念もまた、それ自身がまさにこうした同一性であるのだから、最も困難なものである」(一五九節)。
 客観世界は客観世界で普遍的連関性をもつ自己同一性としての統体性を持ち、イデアの世界はイデアの世界で同様に自立した世界をもっているので、客観世界からイデアの世界へ移行すべき必然性は存在しないのではないかと思われるために、その「移りゆき」を必然的展開としてとらえるのは「最も困難な」課題である、というのです。
 では、この困難な課題をどうやって解決するのかといえば、それは客観世界を思惟することによってです。
 「必然を思惟するということは、これに反して、むしろこの困難の解決である。なぜなら思惟するということは、他のもののうちで自分自身と合致することだからである」(同)。
 「必然を思惟する」というのは、「客観世界を思惟する」ととらえればいいでしょう。客観世界を思惟することによって、客観世界の「真にあるべき姿」がとらえられ、「現実から概念への移りゆき」が実現するのです。
 「この合致は自由になることを意味するが、しかもその自由は捨象による逃避ではなく、現実的なものが必然の力によって結びつけられている他の現実のうちで、自己を他のものとしてでなく、自分自身の有および定立として持つという自由である」(同)。
 概念という真にあるべき姿を認識することによる自由は、客観世界から逃避した自由ではなく、客観世界を自分自身のうちにとらえる自由であり、「概念そのものは必然の力と真の自由を実現するもの」(同)なのです。