『弁証法とは何か』より

 

 

第一四講 概念論 ②

 

一、「b 判断」

概念、判断、推理の諸形式は真理をとらえる

 今日は第三部「概念論」、「A 主観的概念」の「b 判断」を講義します。
 主観的概念は、概念、判断、推理の三つから構成されており、これらのカテゴリーは、形式論理学では物事を論理的に考える思惟形式、思考の枠組みだと考えられています。ヘーゲルは、そのこと自体は否定しませんが、そこにヘーゲル独自の意義を見いだそうとしています。
 ヘーゲルは、「論理学の仕事は、思惟諸規定がどの程度まで真理をとらえうるかを研究することにある」(二四節補遺二)といっています。
 概念、判断、推理も、思惟形式ではあっても、単なる形式であって内容のないものではなく、内容をともない、真理をとらえうる形式だととらえているのです。
 「概念の論理学は普通単に形式的学問と考えられ、それは概念、判断、および推理の形式そのものを取扱って、或るものが真理であるかどうかは全く問題とせず、そうしたことは全く内容にのみ依存する、と考えられている」(一六二節)が、もしそうであれば、それは「真理にとって全く余計な、なくてもよい記述」(同)にすぎないことになります。しかし「実際はこれに反して、それは概念の諸形式として、現実的なものの生きた精神」(同)であって、概念、判断、推理という「形式を通じ、またそのうちで、真理であるもののみが真理」(同)なのです。
 形式論理学(「概念の論理学」)は、概念、判断、推理という思惟形式を客観的事物から独立した思惟の独自の産物としてとらえています。これに対し、ヘーゲルは、これらの思惟形式は客観的事物の反映である「概念の諸形式」であるから、「現実的なものの生きた精神」だというのであり、きわめて唯物論的な見地に立っているということができます。

概念の二つの意味と判断の二つの意味

 ヘーゲルはこうした見地から、概念には抽象的普遍としての概念と、真にあるべき姿(具体的普遍)としての概念の二つの意味があることを指摘し、具体的普遍としての概念が真理をとらえるものであることを明らかにしました。
 これを受けて、判断にも二つの意味があることを明らかにしています。一つは、形式論理学の判断です。これは、主語と述語という二つの独立した項を「私が結合することによって判断が成立する」(一六六節)と考えるものです。
 これに対してヘーゲルは、普遍、特殊、個別が不可分一体となった具体的普遍としての概念が、自らを特殊化し、「それ自身の活動によって自己をその異った諸モメントへ区別するものであって、この区別の定立されたものが判断」(同補遺)であるととらえています。
 言いかえれば、判断とは「事物に内在している」(同)概念を意識することによって「対象を把握する」(同)ことです。この意味の判断のみが、単なる思惟形式ではなく、真理をもとらえうるものとなっているのです。

判断論の構成

 判断は、五つに区分されています。まず総論(一六六~一七一節)と各論に分かれ、総論では「判断とは何か」が論じられます。各論では、判断には有、本質、概念に対応して有の判断、本質の判断、概念の判断という「三つの主要な種類」(一七一節補遺、但し、「本質の判断」はさらに二つに分かれるので、計四種類)のあることが明らかにされています。
 総論では、判断が、抽象的判断としてではなく、具体的判断としてとらえるべきことが指摘され、「個は普遍である」(一六六節)との判断において、述語となっている普遍が、有的普遍、本質的普遍、概念的普遍として展開することにより、判断は、次第により深い真理をとらえるところとなっていくことが明らかにされます。
 これを受けて各論では、有の判断としての「質的判断」、本質の判断としての「反省の判断」と「必然性の判断」、概念の判断としての「概念の判断」の四種類が検討されます。
 ヘーゲルは、「概念の判断」こそ「真の価値判断」(『大論理学』下巻一一九ページ)であり、「真理である」(同一二〇ページ)ととらえています。ここにヘーゲルの一元論的世界観と変革の立場が示されているのです。
 以上を前置きとして、判断の総論に入っていくことにしましょう。

 

二、「判断」総論

判断とは何か

 「判断は特殊性における概念である。というのは、判断は、向自的に存在するものとして定立されている、したがって同時に、相互にではなく自己と同一なものとして定立されている、概念の諸モメントを区別しながら関係させるものであるからである」(一六六節)。
 ふつう判断というと、主語(個)と述語(普遍)という「異種の概念」(同補遺)を、「私が結合する」(一六六節)ことによって成立するものと考えられていますが、ヘーゲルはそうではなくて、具体的普遍としての概念が、自ら「概念の諸モメントを区別しながら関係させる」という概念の特殊化をもって判断だととらえているのです。
 ヘーゲルは、ドイツ語の「判断(ウアタイル)」にはもともと一つのものが分割するという意味があることをとらえ、ここに「概念の統一が最初のものであること、したがって概念の区別が原始的分割であること」(一六六節)が表現されており、「これが判断の真の姿」(同)であるといっています。
 さらに判断は、主語と述語とを「である」という繋辞で結合するのですが、この繋辞もまた「外化のうちにあっても自己と同一であるという概念の本性にもとづいている」(同)のだといっています。
 つまり、判断というのは、個、特殊、普遍を不可分一体のものとして含む「透明性」(一六四節)をもった概念が「それ自身の活動によって自己をその異った諸モメントへ区別するもの」(一六六節補遺)であり、「概念の特殊化」(同)による概念の区別の定立が判断だというのです。したがって、もともと統一のもとにあった概念の諸モメントが、「個は普遍である」という判断の形式において区別されながらも同一として定立されるのは、概念の本性からして当然のことであり、決して「私が結合する」というものではないというのです。
 ヘーゲルは、形式論理学にいう「判断」は、主語と述語とを「私が結合する」ととらえる欠陥をもっていると同時に、それによって「判断一般が偶然的なもののようにみえ、概念から判断への進展が示されていない」(同)と批判しています。

判断とは「概念的把握」

 ヘーゲルは、すべての事物には、その事物の真にあるべき姿(イデア)が含まれ、そのイデアによってその事物は現にあるような姿をもっているととらえています。
 プラトンは、「このばらが美しいのは、美のイデアを分有しているからだ」と考えました。ヘーゲルはここではこのプラトンのイデア論の論理をそのまま援用しています。
 「概念は事物に内在しているものであり、そしてこのことによって事物は現にあるような姿を持っているのである。したがって対象を把握するとは、その概念を意識することである」(一六六節補遺)。
 つまり判断とは、事物に内在する「概念を意識する」ことによって対象をとらえる作業なのです。その事物には概念(真にあるべき姿)がどの程度含まれているのか、またどのような形態において含まれているのか、を意識することによって、対象となる事物を把握しようとするのが判断です。この意味の判断において、判断は単なる思惟形式ではなくて、その内容の真理性が問題となってくるのです。
 したがって、判断において「われわれは対象を、その概念によって定立されている規定態において考察する」(同)ことになるのです。

「あらゆる事物は判断」

 このように、判断とは概念の規定態だとされ、またあらゆる事物には概念が内在しているととらえられることにより、「あらゆる事物は判断である」(一六七節)と規定されます。
 「判断は普通主観的な意味にとられ、自己意識的な思惟においてのみみられる操作および形式と考えられている。しかしこうした区別は、論理の世界ではまだ存在していないのであって、判断は全く普遍的に解せられなければならない。あらゆる事物は判断である。言いかえれば、あらゆる事物は、自己のうちで普遍性あるいは内的本性である個物である。言いかえれば、個別化されている普遍的なものである。普遍と個は、事物のうちで区別されているが、しかし同時に同一でもある」(同)。
 なぜ「あらゆる事物は判断」なのかといえば、あらゆる事物は、概念の特殊化であり、個別と普遍の統一として存在しているからです。「個は普遍である」(例えば、「このばらは赤い」)という判断は、このばらという個別が、同時に赤いという普遍であること、つまり個別と普遍の統一であることを示しているのです。その意味であらゆる事物は「個別化されている普遍的なもの」であり、「普遍と個は、事物のうちで区別されているが、しかし同時に同一でもある」のです。
 哲学は、対象となる事物を思惟することによって、その真理をとらえる学問です。思惟によって、個別的、具体的事物のなかに、本質、法則、類、実体、概念などの普遍的なものをとらえることによって、真理に接近していくのです。つまり、われわれは、「単なる感覚的現象では満足せず、その奥をさぐり、それが何であるかを知り、それを把握しようとする」(二一節補遺)のですが、それを普遍的に表現するならば、われわれは「すべての個に通じる普遍的なものを認識しようとつとめる」(同)のです。したがって、あらゆる事物は、「個は普遍である」という判断をつうじて真理に接近していくことになります。
 判断と似て非なるものに「命題」があります。命題における主語と述語は、個と普遍という関係をもっていません。
 「判断と命題とはちがう。命題は、主語にたいして普遍性という関係を持っていない主語の規定、すなわち或る状態、個々の行為といったようなものを含んでいる」(一六七節)。
 つまり、「このばらは赤い」という場合、ばらという主語(個別)は、赤いという述語(普遍)と「関係を持って」いるから、「個は普遍である」という判断になりうるのに対し、「カエサルはルビコン河を渡った」という場合は、述語となるルビコン河は、主語のカエサルに関し「普遍性という関係を持っていない」から、単なる命題にすぎない、というのです。判断の場合には、主語としての個別のもつ普遍性が述語として規定されるのに対し、命題の場合には、主語としての個別に対し、その個別のもつ普遍性とは無関係に、われわれの主観によって勝手な述語を「結合する」にすぎないからです。
 しかしこのような命題も一定の条件下では、判断に転化することになります。
 「一口に言えば、まだ確定されていない表象をわれわれが確定しようとする場合にのみ、そうした命題も判断となるのである」(同)。
 カエサルがルビコン河を渡ったかどうかが確定せず、問題となっている場合にのみ、「カエサルはルビコン河を渡った」の表現は、命題から判断に転ずるのです。なぜこの場合に命題が判断に転化するのかといえば、カエサルは河を渡ったか渡らないかのいずれかであり、どちらの場合も、主語であるカエサルは述語であるルビコン河と関係をもつに至っているから、例外的に判断に転化するのです。

主語と述語の弁証法

 「判断の立場は有限の立場である。この立場における事物の有限性は、事物が判断であること、すなわちその定有とその普遍的本性(その肉体と精神)が合一されてはいるが ── でなかったら事物は無であろうから ── これらのモメントはすでに異っており、また一般に分離しうる、ということにある」(一六八節)。
 先に、概念は普遍・特殊・個別の不可分一体の統体性として「無限の形式」(一六三節補遺二、一六六節補遺)であることを学びました。本節では、概念は無限であるのに対し、判断は有限であるといっています。というのも判断においては、定有(個別)とそれに関係する普遍性とは統一されてはいるものの、「原始的分割」(一六六節)により、主語と述語の関係として「一般に分離しうる」ものとして定立されているからです。
 こうして、具体的普遍として「無限の形式」をもつ概念は、判断における「原始的分割」により有限となり、さらに推理において再統一され、再び無限の立場を回復するのです。推理は、「さまざまの判断形式が単純な同一性へ復帰したもの」(一八一節)としての概念なのです。
 「個は普遍であるという抽象的判断においては、主語は、否定的に自己に関係するものとして、直接に具体的なものであり、これに反して述語は抽象的なもの、無規定なもの、普遍的なものである。しかし主語と述語とは、『である』によって連関しているのであるから、述語は普遍的でありながらもまた主語の規定性を含んでいなければならない。かくしてこの規定性は特殊性であり、そして特殊性は主語と述語との定立された同一性である」(一六九節)。
 「個は普遍である」という判断において、個と普遍は「である」によって同一性が定立されています。区別された個と普遍とは「である」という特殊性に媒介されて同一となるのです。
 「特殊は、かく主語と述語という形式的区別に無関係なものとしては、内容である」(同)。
 つまり、主語は主語それ自身では空無な内容であり、述語も述語それ自身では内容をもちません。しかし主語(個)と述語(普遍)とが「である」という繋辞で結合され、特殊化されることによって、はじめて判断となって一定の内容が生まれてくるのであり、したがって特殊は内容なのです。
 判断が進展するにつれて、「個は普遍である」から、「特殊は普遍である」「個は特殊である」というように、主語と述語も変化し、それにつれて判断の内容も、単純なものからより高度なものへと発展していきます(同補遺)。
 「主語は否定的な自己関係であるから……確固とした根柢であって、そのうちに述語がその存立を持ち、観念的に存在している(すなわち述語は主語に内属している)。そして主語は一般にかつまた直接に具体的なものであるから、述語の特定の内容は主語の多くの規定性の一つにすぎず、主語は述語より豊かで広いものである。逆に述語は普遍的なものであるから、独立に存立し、或る主語が存在するかどうかには無関係である。それは主語を越えて進み、主語を自分のもとに包摂し、主語よりも広いものである。述語の特定の内容(前節参照)のみが両者の同一をなすのである」(一七〇節)。
 判断は、概念の「原始的分割」ではあっても、主語と述語とは当然異なっています。主語は、「多くの規定性」をもっているのに対し、その一つの側面をとらえたものが述語ですから、「主語は述語より豊かで広い」といえると同時に、述語は普遍的なものとして主語から独立し、「主語よりも広い」ともいえるのです。このように外延の異なる主語と述語との同一性が定立されることにより、はじめて、判断は「特定の内容」をもつにいたります。
 「主語、述語、および特定の内容あるいは同一性はまず、関係のうちにありながらも、異ったもの、分離するものとして判断のうちに定立されている。しかしそれらは本来すなわち概念上同一なものである」(一七一節)。
 判断における主語と述語とは、「特定の内容」において同一性が定立されているにすぎないものですから、異った組み合わせによる異なる内容をもちうるものです。しかし、異なる内容といっても、判断は概念という同一なものの「原始分割」ですから、その組み合わせもけっして「無規定の多様性」(同)を意味するものではないのです。
 「繋辞において主語と述語との同一が定立されてはいるが、しかしそれはさしあたり抽象的な『である』として定立されているにすぎない。しかしこの同一性にしたがえば、主語はまた述語の規定のうちにも定立されなければならないから、これによって述語もまた主語の規定を持つようになり、かくして繋辞は充実される。これが内容豊かな繋辞を通じての判断の推理への進展である」(同)。
判断における繋辞は「抽象的な『である』」にすぎませんから、なぜそのような判断が成り立つのか、その根拠は示されません。この繋辞が「充実され」、主語と述語の同一性が定立される根拠となるとき、判断は推理へと進展していくのです。

判断の進展

 「まず判断に即して行われる進展は、最初抽象的な、感覚的な普遍性が、すべてに属するものになり、次に類および種へ進み、最後に発展した概念的普遍性になることである」(同)。
 ヘーゲルは、判断の種類としてあげられているものは、「概念の自己規定の進展とみられなければならない」(同)といっています。つまり、概念は有、本質、概念へと進展したのに対応して、判断も「有、本質、および概念という三つの段階に対応する判断の三つの主要な種類」(同補遺)(但し、本質の判断は、「再び自己のうちで二重化」〔同〕することにより、計四つの種類)でなければならないとしています。
 その判断の進展とは、「個は普遍である」という判断の述語となる「普遍」が、次第にその内容を充実させていくことによる進展を意味しています。
 最初の質的判断における普遍は「抽象的な、感覚的な普遍性」、つまり質としての普遍であり、反省の判断における普遍は「すべてに属する」本質としての普遍であり、必然性の判断における普遍は「類および種」としての普遍であり、概念の判断における普遍は「概念的普遍性」となるのです。
 このような「判断の諸種類は、同じ価値を持つものとして並列さるべきものではなく」(同補遺)、有、本質、概念が認識の発展段階を示すのと同様に、「段階をなすものと考えられなければならない」(同)のです。
 ヘーゲルはその例として、「この壁は緑である」(同)との判断には、「非常に貧弱な判断力」(同)しか認められないのに対し、「或る芸術作品が美しい」(同)との判断は、「本当に判断のできる人」(同)の判断だといっています。この場合には、「対象がそのあるべきもの、すなわちその概念と比較され」(同)るところから、より高い内容の判断となります。

 

三、「判断」各論

「イ 質的判断」

 「直接的判断は定有の判断である。ここでは主語は、その述語である一つの普遍性のうちに定立されているが、この述語は一つの直接的な(したがって感性的な)質である。定有の判断は 個は一つの特殊なものである、という肯定判断である。しかし個は特殊なものではない。もっとはっきり言えば、そうした単一の質は主語の具体的な性質に適応しない。 これが否定判断である」(一七二節)。
 最初の判断は、定有の判断であり、対象の「質」をとらえる判断です。例えば「ばらは赤い」という判断において、ばらは赤い色をもつという質が判断されているところから、「質的判断」とよばれています。しかし「赤い」という述語は、主語である「ばら」の「具体的な性質」のすべてをとらえるものではありませんから、「ばらは赤い」という肯定判断は、「ばらは赤ではない」という否定判断で補わなければ正しくないのです。
 ヘーゲルは、このような「質的判断が真理を含みうると考えるのは、普通の論理学の最も根本的な偏見の一つ」(同)であり、実際には、正しいか正しくないか、だけの判断にすぎないといっています。
 というのも「真理〔真実態〕とは、対象の自分自身との、すなわちその概念との一致」(同補遺)だからです。
 ここには、ヘーゲルの独特の真理観が示されています。しかし唯物論的真理観では、真理とは客観と認識との一致を意味していますから、定有の判断も「真理を含みうる」ものではありますが、それは低いレベルの真理であり、本質の判断、概念の判断と進展するにつれ、より深く、より高い真理に前進していくと理解すべきものと思います。
 ヘーゲルのいう概念(真にあるべき姿)と客観との一致という真理は、いわば最高の真理の実現ということができるでしょう。この真理観の問題は、「理念」のところでさらに詳しくお話しすることになります。
 それはともかく、定有の判断の制限を次のように述べているところは、傾聴に値するものとなっています。
 「ばらは赤い」というとき、花の種類の一つとしてのばらと、色の種類の一つとしての赤とは、「一点で触れあうにすぎず、互に合致はしない」(同)のです。これに対し、「概念の判断においては、述語は言わば主語の魂であり、この魂の肉体である主語は魂によって全く規定されている」(同)のです。
 いわば、定有の判断では、主語と述語とはただ「一点で触れあう」にすぎないところから、最も低い真理であるのに対し、概念の判断では「述語はいわば主語の魂」として主語をひとまとめにして総括的にとらえるところから、最も高い真理となるのです。
 ただ一点で触れあう肯定判断を否定する単なる否定判断は、論理的にいえば「全ての点でふれあう」かまたは、「全ての点でふれあわない」という判断になり、前者は同一判断、後者は否定的な無限判断となります。
 同一判断とは、「『個は個である』という空虚な同一関係」(一七三節)です。これに対して無限判断とは、「ばらは、赤でも、ピンクでも、黄色でも、何色でもない」という判断であり、「主語と述語との完全な不一致の存在を示すもの」(同)です。
 ヘーゲルはこの無限判断のうちに、「直接的判断が有限であり真理でないということは、そのうちに明白にあらわれる」(同補遺)といっています。というのも、直接的判断には、一点でふれあう肯定判断とそれを否定する否定判断とが存在しますが、その両者の「弁証法的成果」(同補遺)が否定的無限判断という全く意味のない判断を生みだしているからです。
 ヘーゲルは「民法上の係争」は、「単なる否定判断の例」であるのに対し、「犯罪は否定的無限判断の客観的な一例」(同)だとしています。というのも、民法上の係争に敗訴することは、「これは私のもの」であることが否定されるにすぎませんが、刑法上の窃盗は、「これが誰のものであろうが盗む」ことにより「他人の権利一般」(同)を否定することになるからです。

「ロ 反省の判断」

 定有の判断は対象の質をとらえる判断でした。これに対し「反省の判断」は、対象の本質をとらえる判断です。
 「現存在においては、主語はもはや直接に質的ではなくて、他のものすなわち外界と関係し連関している。かくして普遍性は、このような相関性の意味を持つようになる(例えば、有用、危険。重力、酸。衝動、等々)」(一七四節)。
 反省の判断では、「個は普遍である」という述語の普遍が、本質としての普遍となります。対象となる事物の本質は、それ以外の他の事物との違いを浮き彫りにするものですから、「他のものすなわち外界と関係し連関している」といっているのです。
 「われわれが『この植物は薬になる』という判断をくだす場合、われわれは植物という主語を『薬になる』という述語を通じて他のもの(治療さるべき病気)と関係しているものとして考察する」(同補遺)。
 この反省の判断において、「主語の直接的な個別性」(同)は越えられ、他のものとの関係にまで広がっているという意味で、より高い真理をとらえるものということができますが、「主語の概念」(同)(真にあるべき姿)はまだ示されていない、という制限をもっています。
 反省の判断は、単称判断、特称判断、全称判断に分かれます(一七五節)。
 「この植物は薬になる」「いくつかの植物は薬になる」「すべての植物は薬になる」との判断がそれぞれ、単称判断、特称判断、全称判断といわれるものです。
 全称判断は「反省が普通最初に出くわす普遍性の形式」(同補遺)です。「すべて」が普遍性だというと、普遍性というのは「個々のものを包括する、外的な紐にすぎない」(同)ようにみえるかもしれませんが、実際は、個別的なものの実体、類となるものです。
 例えば、「すべての人間」という場合、それは人類という「普遍であり類であって、この類がなかったら、個々の人間は全く存在しない」(同)のです。その意味で「すべて」にあらわれる普遍性は「外的な紐」ではなく「あらゆる特殊なものを貫き、それらを自己のうちに含む」(同)ものなのです。
 「このように、主語も同じく普遍的なものとして規定されることによって、主語と述語との同一が定立され、同時にこのことによって判断規定そのものが無差別なものとして定立されている。内容が主語の否定的自己内反省と同一な普遍性であるという内容のこうした統一によって、判断の関係は必然的な関係となる」(一七六節)。
 全称判断においては、主語も普遍となりますから、これまでの「個は普遍である」との判断から、「普遍は普遍である」との判断に移行することになります。そのことをヘーゲルは、「主語と述語との同一が定立され、……判断規定そのものが無差別なものとして定立されている」といっているのです。
 では、この「普遍は普遍である」との判断がなぜ必然性の判断になるのかといえば、もしこの判断が「同一判断」(一七三節)でないとすれば、主語の普遍性と述語の普遍性とが同一の内容をもちながらも、その外延を異にする関係、つまり種と類という「必然的な関係」でなければならないからなのです。というのもすべての種をあわせたものが類であり、種と類とは同じ内容をもち、かつすべての種は類に包摂されるという必然的な関係にあるからです。

「ハ 必然性の判断」

 「必然性の判断、すなわち、内容が区別されていながらも同一である判断は、 その述語のうちに一方主語の実体あるいは本性、すなわち具体的普遍である類を含んでいるが、しかしこの普遍は、自己のうちに、否定的な規定性としての規定性を含んでいるから、他方排他的な本質的規定性、すなわち種を含んでいる。これが定言判断である」(一七七節)。
 必然性の判断とは、主語と述語とが種と類という必然的関係におかれている判断です。
 必然性の判断には、定言判断、仮言判断、選言判断の三つがあります。
 まず定言判断とは、「金は金属である」というように、「種は類である」とする判断です。主語となる「金」は、「この金」ではなく「すべての金」ですから、普遍であり、述語の金属も普遍ですから、「普遍は普遍である」という判断となります。類は「種を含んでいる」ところから、種は類の一内容を構成するものとして、「種は類である」との判断は、必然性の判断となります。
 ヘーゲルは、事物を「類によって必然的に規定されているもの」(同補遺)としてとらえるこの必然性の判断によって、「はじめて判断は本当の判断となりはじめる」(同)といっています。というのも、この判断は事物の「実体的本性」(同)をとらえる判断であり、すべての事物は、「実体的本性にかなっているかぎりにおいてのみ、価値と意味を持っている」(同)からです。
 しかし、定言判断は、なぜ金は金属の一種なのかという金属の種差をとらえるものになっていません。つまり「それは特殊性のモメントに正当な地位を与えていない」(同)という不十分さをもっているのです。
 そこに、定言判断が仮言判断へと進んでゆかなければならない理由があるのです。
 仮言判断というのは、例えば「その金属が緑色に錆びるなら、その金属は銅である」というような判断です。緑色に錆びるという銅の種差としての「特殊性」を正当に評価して、「その金属は銅である」という必然性の判断をするのです。
 選言判断というのは「金属は、金か、銀か、銅かなどである」という判断です。この判断は、逆に「類は種である」との判断です。この判断が成り立つのは、主語の類に対し、述語が「種の全体」(一七七節)、つまり類となっており、結局「類は種の全体としての類である」という、類と種の必然的関係が判断されるからです。
 選言判断において、述語である特殊の全体は、主語である普遍性と同一なものとして定立されています。「類はその種の全体であり、種の全体は類である。普遍と特殊とのこのような同一が概念であり、今や判断の内容をなしているものは概念である」(同補遺)。
 選言判断において、普遍と特殊とは同一となっており、「このような同一が概念」なのです。こうして、必然性の判断は概念の判断に移行することになります。

「ニ 概念の判断」

 「概念の判断の内容をなしているものは概念、すなわち単純な形式における総体性、完全な規定性を具えた普遍者である」(一七八節)。
 概念の判断とは、事物をその事物の概念(真にあるべき姿)にてらしておこなう判断です。
 「日常生活においても、ある対象、行為、等々が善いか悪いか、真実であるかそうでないか、美しいかそうでないか、等々という判断がはじめて判断と呼ばれている」(同)。
 概念の判断は、その事物の概念にてらして「善いか悪いか、真実であるかそうでないか」を判断するものであり、人間の生き方、行為のあり方、つまり価値に関する判断です。本来、世界や自然がどのようにあるのかを知ることと、そのなかで人間がどのように生きるか、ということは一つに結びついています。しかし近代科学の発展のなかで「自然科学の没価値性」が強調されるようになり、「知ること」と「生きること」とが切り離されるという二元論が大手を振って横行しはじめたのです。
 こうした二元論は、他面で人間の生き方、行為のあり方について「より善く生きる、行動する」という「価値」について、「価値観の多様性」の一言で片づけ、価値についての真理を否定してしまったのです。
 こうした二元論に異を唱え、「知ること」と「生きること」とを結びつけ、「よりよく知ることは、より善く生きること」という一元論を唱えたのが、ほかならぬヘーゲルなのです。マルクス、エンゲルスの創始した科学的社会主義の学説も、このヘーゲルの一元論的世界観を継承・発展させ、資本主義をよりよく知ることはより善く生きることでなければならないとして、社会主義・共産主義という「より善く生きる」ための未来社会を展望したのです。
 ヘーゲルはこの一元論の世界観にたって、この生き方、行為のあり方に関する判断、つまり概念の「判断がはじめて判断と呼ばれている」として、価値判断こそ最高の判断であると位置づけたのです。「価値観の多様性」などと称して、より善く生き、行為する価値を求めない判断は、そもそも判断の名に値しないのです。
 「われわれは、或る人が『このばらは赤い』、『この絵は赤い、緑である、ほこりだらけである』等々のような肯定判断や否定判断をくだしうるからといって、その人に判断力があるとは言わないであろう」(同)。
 価値判断以外の判断は、「判断力がある」判断とはいえないのです。
 概念の判断には実然的判断、蓋然的判断、確然的判断の三つがあり、後者になるほどより高い真理となります。
 実然的判断における主語は「 まず、特殊な定有のその普遍者への反省を述語として持っている個である。すなわち、この述語は、特殊な定有と普遍者との一致あるいは不一致をあらわすものであって、善い、真実である、正しい、等々がそれである」(同)。
 実然的判断とは「特殊な定有と普遍者との一致又は不一致」、すなわち、主語となる「特殊な定有」が、具体的普遍者である「概念」と一致するかしないかの判断なのです。この判断をつうじて、生き方や行為が価値あるものであるか否かが判断されることになります。
 しかし、この価値判断は「実然的な〔断言的な〕判断」(同)にすぎませんので、なぜそうした判断となるのか、その必然性は何ら明らかにされていないという制限を持っています。
 「この原理を主張しているいわゆる哲学的著作には、理性や知識や思惟などについておびただしい断言がみられるが、これは、今日ではもはや外的な権威はあまり役に立たないので、一つことを何度も何度も繰返すことによって信用をえようとするのである」(同)。
 親が子供を叱るとき、「何回いったら分かるの!」ということがありますが、子供が理解しえないことに責任があるのではなく、親が単なる「断言」にとどめているために、「何度も何度も繰返すことによって信用をえようとする」ところに問題があるのです。
 「実然的判断は、その述語においては、特殊と普遍との関係を表現しているが、その主語は直接的であるから、主語においてはこの関係を含んでいない。この判断はしたがって主観的な特殊性であり、これには反対の断言が同等の権利をもって ── あるいはむしろ不当をもって ── 対立している。したがってそれは すぐに単なる蓋然的判断となる」(一七九節)。
 蓋然的判断というのは、真理であることもあれば、そうでないこともあるという価値判断です。実然的判断は断言する価値判断であり、その必然性が示されていませんので、「反対の断言が同等の権利をもって対立」しています。つまり実然的判断は、真理であることも、真理でないこともあるという「蓋然的判断」なのです。
 「しかし 客観的な特殊性が主語に即して定立され、主語の特殊性が主語の定有の性状として定立されるにいたれば、主語は客観的な特殊性と主語の性状すなわち類との関係を表現し、したがって述語の内容をなしているものを表現する(前節)。この(直接的な個体性)家(類)は、かくかくの性状(特殊)を持っているから、よい、あるいは悪い。これが確然的判断である」(同)。
 確然的判断とは、主語となっている個(この家)が、普遍(家の類)としての性状(特殊)をもっているから、家の概念(真にあるべき姿)に一致する、あるいは一致しないという価値判断です。この確然的判断により、価値判断は真理としての判断に到達するのです。
 「すべての事物は、特殊な性状を持つ個別的な現実性のうちにある類(事物の使命および目的)である。そしてそれらの有限性は、それらの特殊性が普遍にしたがっていることもあれば、そうでないこともある、という点にある」(同)。
 すべての事物(個)は、その事物の概念のそなえる「特殊な性状」(特殊)をもっているか否かにより、概念に一致するかどうかを判断されるのです。
 例えば、「この家は、土台がしっかりしているから、よい」という場合、家の真にあるべき姿は長期間同じ姿勢を保つことにあり、「土台がしっかりしている」という性状(特殊)があるから、この家(個)は家の概念に一致することになります。
 「かくして主語および述語は、各々それ自身全き判断である。主語の直接的な性状はまず第一に、現実的なものの個別性と現実的なものの普遍性とを媒介する根拠、すなわち判断の根拠としてあらわれる。実際そこに定立されているものは、概念そのものとしての主語と述語との統一である」(一八〇節)。
 先ほどの例でいうと「土台がしっかりしている」という「主語の性状」は「この家」と「真にあるべき家」とを「媒介する根拠」となっており、その意味でこの性状は「主語と述語」(個と普遍)を統一する特殊なのです。
 「概念は『である』という空虚な繋辞の充実であり、概念の諸モメントは主語および述語として区別されながらも、概念は両者の統一、両者を媒介する関係として定立されている。これがすなわち推理である」(同)。
 これまでの判断は、「個は普遍である」というように、個と普遍を関係づける繋辞は「である」という「空虚な」ものでした。しかし確然的判断になると、この繋辞が「特殊」となっていて、「個 ── 普」という形式から「個 ── 特 ── 普」という形式に発展しています。このように主語の個と述語の普遍が、特殊によって媒介されているという思惟形式が推理とよばれるものなのです。
 「確然判断においてわれわれは、その性状を通じてその普遍、すなわちその概念に関係する個を持つ。ここでは特殊は個と普遍との間を媒介する中間項としてあらわれるが、このことこそ推理の根本形式なのである」(一八一節補遺)。
 こうして、判断は推理に移行することになります。