『弁証法とは何か』より
第一六講 概念論 ④
一、主観と客観
主観と客観
現代において、主観と客観というカテゴリーは、分かりきったものとして日常的に使われています。
これに対してヘーゲルは、「主観性と客観性という二つの規定を無造作に受け入れて、その起源を問わないのは、無思想な仕方である」(一九二節補遺)と批判しています。
というのも、「主観性も客観性も明かに思想であり、しかも規定された思想であるから、われわれはそれらを自分自身を規定する普遍的な思惟にもとづいているものとして示さなければならない」(同)からです。
主観と客観というカテゴリーが定着するまでには、人類にとって長い歴史が必要だったのです。
中世までは、アリストテレスの自然哲学が絶対的なものとされていました。アリストテレスは主観と客観とを明確に区別せず、自然を動かす原因の一つに主観に関わる「目的因」をあげていました。「高い所から物を落とすと、重いものほど早く落ちる。それは、重いものほど地球の中心に向かう目的をより多く持っているからだ」と説明したのです。いわば客観(物質)のなかに、主観(目的)があると考えたのです。
それを批判したのがガリレイです。実験によって、重さに関係なく同じ速度で落下することを明らかにし、アリストテレスの「目的因」を批判しました。
これが一つの契機となり、近代自然科学の発展のなかで物質的世界観が確立していきます。世界の基礎には物質があり、諸物質の連関のなかで、統体性をもつ客観世界が存在しているという考えです。この物質的世界観は哲学にも反映し、デカルトの二元論が誕生します。
デカルトは近世哲学の父といわれています。「デカルトは、再び仕事を完全に発端から始めて、哲学の地盤を新しく形成した巨人である。事実この地盤に哲学は一千年も経過した後に初めて立ち戻ったのである」(ヘーゲル『哲学史』下巻の二、七四ページ)。
彼は中世哲学にみられた教会の権威から出発することを否定し、哲学は思想そのものから出発しなければならないと考えました。彼はそのことを「一切を疑わねばならない」と表現します。そのうえに立って「我思う、故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)という命題を打ち立てます。この命題は、「我思う」という主観と「我あり」という客観とは、直接に不可分であることを示すものでした。
こうしてまずデカルトは「レース・コーギタンス」(思惟するもの、思惟実体)を認め、ついでこの思惟実体から区別される「レース・エクステーンサ」(延長をもつもの、延長実体、物体的実体)を認めることにより、精神と物質の二元論を確立することになります。この精神の世界と物質の世界の二元論は近世哲学の「基盤」となり、やがて精神の世界は主観、物質の世界は客観とよばれるようになり、主観と客観のカテゴリーが慣用化されるに至るのです。
二元論は真理ではない
デカルトの二元論は、世界を科学的に考察するうえで大きな役割を果たしました。それまで自然の認識においても「目的因」的説明がなされてきたことが完全に払拭され、自然はすべて機械論として説明されるようになりました。
思考と存在、主観と客観、精神と物質とは、世界の二大要素をなしており、そのいずれを根源的と考えるかによって、観念論と唯物論の二大陣営に分かれることになります。
唯物論は、物質こそ第一次的なもの、根源的なものであり、精神は第二次的なものとする科学的世界観です。これに対して観念論とは、精神が第一次的、物質を第二次的とする非科学的、宗教的世界観であり、自然科学の発展により、人間が存在する以前から地球や宇宙は存在していたことが明らかになり、次第に唯物論が支配的な世界観となりつつあります。
また精神と物質、主観と客観とを対立したままと考えるのか、それとも相互に影響しあう対立物の統一と考えるのかにより二元論と一元論に区別されます。一元論は、両者を対立物の統一としてとらえる弁証法の立場であり、二元論は、主観は主観、客観は客観として、両者を別個の問題ととらえる立場です。それを言いかえると、自然や社会という物質の世界がどうあるかということと、人間がどのように生きるかとを、切りはなして考えるのかどうかの問題です。これを一般に「事実と価値」「存在と当為」の区別か、それともその統一かの問題とよんでいます。いうまでもなく、事物と存在は物質を、価値と当為は精神を意味しています。価値とは人間がより善く生きるうえでの基準となるものであり、当為とは、どう生きるべきかという「かくあるべし」を問題としているのです。
唯物論的一元論とは、物質こそ根源的なものとしたうえで、物質と精神の統一を主張する立場です。
「哲学がめざしているのは、こうした(主観と客観との ── 高村)統一を証明すること、すなわち、思想あるいは主観性は、本質的に、存在あるいは客観性と不可分であることを示すことにある」(六四節)。
しかし、現代社会を圧倒的に支配しているのは経済中心、物質至上主義の論理にたつ唯物論的な二元論です。
というのも、それが資本主義社会の直接の産物だからです。資本主義の本質は利潤第一主義にあります。儲けのためにひたすら生産力の発展を競い合い、それが自然科学の脅威的な発展を生みだしました。
自然科学は物質を対象とします。物質を対象にした科学が成立しうるのは、物質には感覚がなく(センスレス)、価値がなく(ヴァリューレス)、目的をもたない(パーパスレス)からだとされるに至ります。特に重要なのは、物質には価値がないとされる問題です。価値の問題は精神(人間の生き方、行為のあり方)の問題であり、物質とは無関係だとされたのです。したがって、自然科学に人間の価値観を持ち込んではならないとされ、これが「自然科学の没価値性」といわれるものです。
この自然科学の発展は、物質的世界優位論を生みだしてきました。それはまず人間の生き方、行為のあり方に間接的にかかわる政治、経済、法律などの社会科学は物質を対象とするものではないから、厳密には科学の対象にはなりえず、そこには真理は存在しえないとされます。また人間の生き方、行為のあり方に直接的にかかわる対象としては、価値、道徳、倫理などがあります。唯物論的な二元論は価値、道徳、倫理を、そもそも厳密な意味の知識の対象にはなりえないとし、そこではそもそも真理は問題にならないとして、「価値観の多様性」を主張するにとどまるのです。
こうして、社会科学や価値・倫理の問題は、「価値観の多様性」のもとにその真理性が否定ないし軽視されることになりました。それは同時に、自然科学の発展が人間の生き方、行為のあり方の問題と無関係に絶対化され、科学万能論のもとで、人類の絶滅につながる核兵器、劣化ウラン弾の開発や、地球環境の破壊などを生みだしてきたのです。
ヘーゲルは、このような二元論を次のように批判しています。
「そこでは思惟は単に主観的で形式的な活動と考えられており、思惟に対峙している客体はなんら主観の影響を受けぬ独立の存在と考えられている。しかしこうした二元論は真理ではない」(一九二節補遺)。
思うに、唯物論的な二元論には、三つの誤りがあるといってよいでしょう。一つは、主観、つまり人間の生き方、行為のあり方に真理はないとして、すべての生き方、行為のあり方を「価値観の多様性」の名のもとに等し並に取り扱ってしまうことです。これに対しヘーゲルは、多様な価値観のなかに真理となる価値観があると主張しているのです。二つには、人間がより善く生きることこそ世界の根本目的であって、物質世界はそのための手段にすぎないにもかかわらず、二元論は、この目的と手段の関係を逆転させてしまうことです。三つには、人間がより善く生きることを根本目的にすえないことから、社会科学の対象となる国家・社会をそのまま肯定し、それを概念(真にあるべき姿)にもとづいて変革するという変革の立場に立ちえないことです。
こうしたことを前置きとして、テキストを学んでいくことにしましょう。
主観から客観への移行
このように、二元論は真理ではないととらえることは、そもそも、主観、客観というカテゴリーの意味を問い返すことが求められることになります。
ふり返ってみますと、ヘーゲルは、論理学の最初から、主観・客観というカテゴリーを使用しているわけではありません。まず、有論、本質論を論じ、「有および本質の弁証法的成果」(一九二節補遺)として「概念そのもの」をとりあげ、「概念は主観性そのもの」(同)であるとして「主観性」のカテゴリーを導き出してきました。
こうした論理の展開のうえに、ヘーゲルは一九二節、一九三節で、主観から客観への移行を「規定された思想」(一九二節補遺)として展開しようとしているのです。
「われわれは推理を、それが含んでいる諸区別にしたがって、考察してきた。そしてこれらの区別を経過してえられた一般的な成果は、この経過のうちでこれらの諸区別および概念の自己外有が揚棄されるということである」(一九二節)。
推理というのは、両端項を中間項が媒介し、媒介するものと媒介されるものとが区別されるという形式をもっていました。しかし、三重の推理という「完全な推理」(同)のもとで、「その各項はいずれも端項の位置を占めるとともに、また媒介する中間項の位置をも占める」(一八七節補遺)ことになりました。したがって、「完全な推理」のもとでは、媒介するものと媒介されるものとの区別が消失することによって、推理の形式は揚棄されることになります。
では推理が揚棄されてどうなるのかといえば、推理は主観的概念の一形態ですから、主観的概念がその主観性という一面性から抜け出し客観性をも獲得する、つまり客観へ移行することになるのです。「概念の自己外有が揚棄される」とあるのは、「概念の持っている主観性という外面的形式が揚棄される」という趣旨でしょう。
いわば、主観的概念は、「完全な推理」を通じ、自己の形式を止揚して客観性に移行するのです。
「概念、判断、および推理という以上三つの規定から成っているこの主観性は、独立に存在している客体によって外部から充実されねばならない空虚な区劃ではなく、主観性そのものが、弁証法的なものとして、自己の制限をうち破り、推理を通じて客観性への道をひらくのである」(一九二節補遺)。
ヘーゲルが、「あらゆる理性的なものは推理である」(一八一節)といっているのも、ヘーゲルの概念論(イデア論)がアリストテレスのイデア論に立脚しているのを示しています。主観的な概念はイデアとして客観(現実性)に必然的に転化していくのです。
先にもお話ししたように、「絶対的観念論」とは絶対的イデア論です。
ヘーゲルのイデア論はプラトンのイデア論とちがって、アリストテレスの「エネルゲイアとしてのイデア」論です。つまり、主観的な真理としてのイデア(概念論の概念、真にあるべき姿)は、いつまでも主観の世界にとどまり続けるのではなく、客観となってあらわれでることにより、自らをイデアとして完成させるのです。
「理念(イデア ── 高村)はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものである」(一四二節補遺)。
ヘーゲルは、主観も客観もともに一面的な存在であり、イデアという主観は客観性を獲得することにより真なるものとして自己を完成させると考えています。「ヌースあるいは精神(これはヌースのより深い規定である)が世界の原因」(八節)だといっているのも、このイデアの現実性への移行を意味しています。
ここには事物の真にあるべき姿を事物をとおしてつかみ、この真にあるべき姿を目標としてかかげる実践によって合法則的に自然や社会を変革しようとする、科学的な変革の立場が示されているのです。
客観は概念の実現
「このように概念が実現された場合、前節に述べたように、普遍者は自己のうちへ復帰した一つの統体をなし(この統体の諸区別も同じくこうした統体をなしている)、そしてこの統体は媒介の揚棄によって自己を直接的な統一として規定している。概念のこうした実現がすなわち客観である」(一九三節)。
概念の実現したものが「客観」だとされていますが、「概念の実現」とは何を意味しているのでしょうか。一六一節で概念の進展は「発展」であり、発展とは「すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない」(一六一節補遺)ことを学びました。
主観的概念、つまりイデアはまだ人間の主観のなかにのみ潜在している一面的なものにすぎません。このイデアはエネルゲイアとして現実に転化し、顕在化すると同時に全面的となるのであり、それが「概念の実現」としての客観なのです。
では、概念の実現された客観とはどんなカテゴリーでしょうか。
「人々は普通客観という言葉のもとに、単に抽象的な存在とか、現存在する物とか、現実的なもの一般ではなく、具体的で自己のうちで完結している独立的なものを理解している。この完全性こそ概念の統体性なのである」(一九三節)。
客観とは、これまでの定有するもの(或るもの)、現存在するもの、現実的なものなどをすべて包摂し、「概念の統体性」の展開された「自己のうちで完結している独立的なもの」としての物質世界なのです。
「物質そのものということは純然たる思考の創造であり、抽象である。われわれがもろもろの物を物質的に現に存在するものとして物質という概念のもとに総括するとき、われわれはそれによってそれらの物の質的差異を度外視する」(全集⑳五六一ページ)。つまり物体の総称が物質であり、客観なのです。
客観世界は、一つの完結した統一体として存在しています。いわゆる物質世界の統一性であり、この統一性があるからこそ、時間と空間のなかで物質世界は全体として法則的な運動をすることができるのです。エンゲルスも「世界の現実の統一性はそれの物質性にある」(全集⑳四三ページ/『反デューリング論』上六六ページ)といっています。概念は推理をつうじて再び具体的普遍性を回復し、この完結した統一性を手にして客観に移行したのです。
「客観はまた対象であって、他のものにたいして外的なものであるという規定性は、後にそれが主観的なものへの対立のうちに定立されるとき、明かにされるであろう。ここではまずそれは、概念が自己の媒介からそのうちへ移っていったものとして、単に直接的な客観にすぎない。概念も同じく、後にそれが対立のうちにおかれるようになってはじめて主観的なものとして規定されるのである」(同)。
ここでは、まだ概念が客観に移行したというのみであって、概念は客観に対立する主観的なものとしては定立されていません。もし客観と主観の対立が定立されるならば、客観とは、主体(主観性)の「対象であって、他のものにたいして外的なもの」という規定性が与えられることになるのです。
「さらに客観は、まだ自己のうちで規定されていない一つの全体、客観的な世界一般、神、絶対の客観である。しかし客観はまた自己のうちに区別を持ち、客観的な世界として不定数のさまざまなものにわかれる。そしてこれら個別的なものの各々もまたそれぞれ一つの客観であり、自分自身のうちで具体的な、完全な、独立的な定有である」(同)。
物質世界の統一性は、個々の「独立的な定有」、物体という客観の区別をもった統一性なのです。
概念の客観性への移行
これまで、客観的存在に関わるカテゴリーとして定有、現存在、現実性について学んできました。
ヘーゲルは、概念から客観性への移行は、本質が概念として外にあらわれる現存在への移行、内的なものから外的なものとしての現実性への移行と「比較されることができる」(同)といっています。
先に「有および本質の諸規定」は、「限定された概念、即自的な概念」(一六二節)であることを学びました。
ここまできてふり返ってみると、「現存在および現実性への移行」(一九三節)も、「まだ十分顕在的になっていない概念」(同)が客観に移行したものということができます。いわば客観は「自分自身のうちで普遍的な統一」(同)であり、現存在、現実性というような「諸区別を含んでいる」(同)のであって、定有、現存在、現実性など存在に関わるこれまでのすべてのカテゴリーは、客観というカテゴリーのなかに包摂されることになるのです。
「これらすべての移行において、ただ一般的に概念あるいは思惟が存在から離しがたいものであることを示すだけではたりないのは明かである」(同)。
本講のはじめの方で、哲学がめざしているのは、主観と客観との統一を証明することだということを学びました。デカルトの命題も主観と客観との直接的統一、つまり媒介されない不可分の統一を示すものでした。しかしヘーゲルは、このような主観と客観は「直接かつ不可分に結びついている」(六四節)とするだけでは納得せず、その媒介された統一を証明する必要があるというのです。それが主観から客観への弁証法的移行という問題です。
「それはまず概念を……概念そのものとして考察し、あくまで概念本来の規定性としてのその規定性に即しながら、この規定性が……ちがった形態へ移っていくかどうかをみ、また実際に移っていくのをみることにある」(一九三節)。
客観的存在に関わるカテゴリーは、すべて概念が客観性へ移行したものとしてとらえることができます。イデアは絶対的に現実となる力をもっているがゆえに、これらのカテゴリーは主観的なものから客観的なものへと移行し、存在と結びつくことになるのです。
ヘーゲルは、概念を「エネルゲイアとしてのイデア」(一四二節補遺参照)としてとらえています。つまり、真にあるべき姿としてのイデアは、単なる内的なものではなく、内的なものと外的なものとの統一を生みだすエネルゲイアなのであり、したがって単に主観的なもの、内的なものは、単に客観的なもの、外的なものと同様に一面的なものにすぎません。
「概念そのものは一面的であって、その一面性は、それに対立している一面性であるところの客観へ移っていくことによって、自己を揚棄するのである」(一九三節)。
概念と客観とは、「即自的に同一であるというような、平凡な同一性」(同)ではなく、一面的、潜在的な主観的概念が、客観性に移行することによって、全面的、顕在的になるという同一性なのです。
有名なアンセルムスの「神の存在証明」は、概念と客観との単なる即自的同一性を根拠とした証明となっています。
すなわち、神というものはもっとも偉大なものであり、もっとも偉大なものは単に「知力のうちにのみ存在する」(同)ものではなく、「事物のうちにも存在」(同)しなければならない、よって神は客観的に存在する、というのです。この場合の客観性は、「有限な事物」(同)を指しているのではありません。というのも、「有限な事物は変化し消滅するもの」(同)であって、その存在との結合は一時的であり、有限な事物と存在とは分離しうるからです。
「だからこそアンセルムスは正当にも、有限な事物にみられるような結合を無視して、単に主観的にだけでなく同時に客観的にも存在するものをのみ完全なものと言ったのである」(同)。
しかし、ヘーゲルは、アンセルムスの証明における概念(主観)と客観の同一性は、ヘーゲルのいう「平凡な同一性」にすぎないと批判し、こういう「平凡な同一性」に対しては、「二つの規定の差別が反駁に持ち出される」(同)としています。
客観ではあっても有限なものは無限な神のあらわれとみなしえないではないか、との反論です。
「こうした異論や反駁はただ次のようにしてのみ克服される。すなわち、有限なものは真実でないものであること、二つの規定は単独では一面的であり空無なものであること、したがって両者の同一は、両者がそれ自身でそのうちへ移っていき、そこで両者が宥和されているような同一であること、を示すことによってのみ克服される」(同)。
すなわち、概念が客観に移行することによって主・客の同一性が実現されること、概念に一致しない客観は真実なものではないから有限であるととらえることによって、アンセルムスの証明も完全なものとなり、それへの批判も克服しうることになるのです。
二、「B 客観」総論
主観と客観の弁証法
以上を前提とし、「B 客観」に入ります。一九四節は客観の総論であり、今日はこの総論のみを論じることにします。
「客観は直接的な存在である。なぜなら、客観においては区別が揚棄されているために、客観は区別にたいして無関心であるからである。それはさらに自己のうちで統体をなしているが、同時にこの同一は諸モメントの即自的な同一にすぎないから、それはまたその直接的な統一にたいしても無関心である。かくしてそれは諸区別へ分裂し、その各々がそれ自身統体である。したがって客観は、多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾である」(一九四節)。
客観そのものは、統一性をもった物質世界一般であり、そこでは存在するもの一般の世界として「区別が揚棄」されていますので、「客観は区別にたいして無関心」です。しかし同時に、客観は客観世界を構成する様々な物体という客観の諸モメントからしか成り立ちえないのであって、これらの物体は自立し独立したものとなっています。
こうして、「客観は、多様なものの完全な独立と、区別されたものの完全な非独立との絶対的な矛盾」なのです。
「絶対者は客観であるという定義は、ライプニッツのモナドのうちに最も明確に含まれている。モナドは各々一つの客観であるが、しかし即自的に表象するものであり、しかも世界の全体を表象するものである」(同)。
ライプニッツは、世界を単一不可分の実体、一としてのモナドから成るものと考えました。各モナドはそれぞれに独立している「一つの客観」ですが、それら相互の間には正確な対応関係がみられ、「世界の全体を表象する」「内的発展の予定調和」(同)がみられると考えました。
このライプニッツのモナド論に学んで、ヘーゲルは、その「客観論」を展開しているのです。
さらに、もう一度主観と客観の関係の問題に立ち戻り、「科学および特に哲学の任務」(同補遺一)は主観と客観との対立を「思惟によって克服することにある」(同)として、次のように述べています。
「一般に認識の目的は、われわれに対峙している客観的世界からその未知性をはぎとり、そのうちに自分自身を見出すことにある。自己を見出すことはすなわち、客観をわれわれの最も内的な自己である概念へ還元することである」(同)。
科学の目的は、「客観的世界からその未知性をはぎとり」、世界がいかにあるかという世界の真の姿を知るにとどまらず、世界を知ることをつうじて世界の「真にあるべき姿」、つまり概念を認識することにあるのです。概念を「われわれの最も内的な自己」とよんでいるのは、精神の精神たるゆえん、もっとも創造的な精神活動の産物が概念だという意味でしょう。
また、「客観」を「概念へ還元する」といっていることにも注目して下さい。ヘーゲルは「概念は真に最初のもの」(一六三節補遺二)であるといったり、あるいは概念の客観への移行(一九三節)を唱えたりしているので、とかく「概念」を観念論的産物であるかのようにとらえがちなのですが、そもそも概念がどこから生まれてくるのかといえば、「客観」から生まれてくるのです。
ヘーゲルは、本質論から概念論への移行のところで、「必然の真理は自由であり、実体の真理は概念」(一五八節)であるとか、「必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆき」(一五九節)とかの表現はしていますが、本質論ではまだ「客観」というカテゴリーが登場してきませんので、客観から概念が生まれるという概念の生成論については、「B 客観」にいたるまで全く触れられていないのです。
ヘーゲルは、主観と客観との関係は「あくまで弁証法的」(一九四節補遺一)だとしています。すなわち、主観から客観へ、客観から主観へという対立物の相互移行がなされることにより、理想と現実の統一が実現されると考えています。この「客観」というカテゴリーに到達するにいたってようやく、概念は客観から還元されるという、その唯物論的性格があきらかになるのです。
「エンチクロペディーへの序論」のなかで、「哲学という名称は、経験的個別性の大洋のうちにある確かな基準および普遍的なものの認識」(七節)に与えられているが、それだけでは不十分であり、「表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだ」(三節)といってきた意味が、ここにきてようやくはっきりすることになります。
「両者はあくまで弁証法的である。最初単に主観的である概念は、外的な材料また素材を必要とすることなしに、それ自身の活動にしたがって自己を客観化するようになり、他方客観は凝固し過程のないものでなく、その過程は自己を同時に主観的なものとして示す過程であって、これが理念への進展をなしている」(一九四節補遺一)。
つまり、概念(主観)から客観へ、客観から概念へ、概念から理念(主観と客観の統一)へという、弁証法的な展開が示されることになるのです。
機械的関係、化学的関係、目的的関係
「客観性は、機械的関係、化学的関係、および目的的関係という三つの形態を含んでいる。機械的に規定された客観は直接的で無差別の客観である。もっとも、それは区別を含んではいるが、しかし別々になっているものは相互に無関係であって、それらの結合はそれらにとって外的であるにすぎない。化学的関係においてはこれに反して客観は本質的に区別されている。すなわち、多くの客観は相互に関係することによってのみそれらがあるところのものであり、区別がそれらの質をなしている。客観性の第三の形態である目的論的関係は、機械的関係と化学的関係との統一である。目的は再び、機械的客観のように、自己のうちへとじこめられている統体であるが、化学的関係のうちであらわれた区別の原理によって豊かにされ、自己に対峙している客観へ関係する。目的の実現が理念への移行をなしている」(同補遺二)。
客観そのものは、「具体的で自己のうちで完結している独立的なもの」(一九三節)として、主観に対立するものであって、そのうちには個々の物体の区別をもちません。これらの反省関係は、「概念の実現」(同)としての客観においては、「概念の統体性」(同)のもとで没落してしまい、客観は「区別にたいして無関心」(一九四節)な存在にすぎないのです。
それなのに、なぜ機械的関係、化学的関係、目的的関係の三つの形態に区別しうるのかといえば、それぞれのうちに含まれている「概念」がどれだけ顕在化しているかにより、客観の運動形態が異なるからにほかなりません。この順序に従って単純な運動から、より複雑な運動へとその運動形態は発展していくのです。
エンゲルスは、この三区分は「その時代にとっては完全だった」(全集⑳五五七ページ)として次のように述べています。
「機械論 ── 物体運動。化学論 ── 分子的運動(というのは、物理学もまたこれにふくまれるから。両者は ── 物理学も化学も ── じつに同じ序列にあるものである)と原子運動。有機論 ── 両者(機械論と化学論)がそのものにおいて不可分となっているところの物質の運動」(同)。
エンゲルスが、「その時代にとっては完全だった」といったのは的確な指摘だったといえるでしょう。というのも当時は、ニュートンの古典力学の時代だったからです。現代物理学は、ミクロの世界を扱う量子力学の時代となっています。益川敏英京大名誉教授は、「素粒子論の発展と現代の物質観」(『自然の謎と科学のロマン』上、所載、新日本出版社)のなかで、次のように述べています。物質の世界には階層があり、それぞれの階層には、それ独自の法則があります。ミクロの世界からマクロの世界に移行するにつれ、より下部の階層の法則がより上部の階層の法則を根拠づけるという関係をもっていますが、上部階層に下部階層の法則をそのまま適用することはできません。これが「自然法則の適用限界」といわれるものです(同四〇ページ以下)。
ですから現代において客観を論じることになれば、ミクロの世界の量子力学論、原子、分子の世界の機械論と化学論、原子の多数集まった凝縮系物理学(固体物理学 ── 半導体、レーザー、超伝導など)、そして、こうした物質の運動から区別される有機体論(目的論)ということになるのでしょうか。
しかし、こうした現代の物理学をふまえた客観論を展開することは著者の力量からして到底不可能ですので、ヘーゲルの客観論にしたがってみていくことにしましょう。
まず機械的関係というのは、機械的統一性をもった「直接的で無差別の客観」です。機械的関係は、単に「即自的な概念」(一九五節)にすぎませんから、そのうちに「区別を含んで」いますが、これら区別されたものの「結合はそれらにとって外的」なものにすぎません。いわば部品が寄せ集められ外的に結合して一つの機械となるような関係であり、また他のものへの作用も「外的な関係」(同)にすぎません。そこから生じる運動も、圧力、衝突などの力学的運動にとどまります。
これに対して化学的関係は、「潜在的にのみ現存在する概念」(二〇〇節補遺)です。化学的関係においては、概念の原始分割により「客観は本質的に区別」されていますが、「概念の統体性」(一九三節)により、「その定有を概念に等しくしようと努める」(二〇〇節)運動、つまり化合と分解という運動をするのす。
最後の目的的関係は、「顕在的に現存在する概念」(同補遺)です。つまり、目的を内にもつ生命体(生物学的、または社会的生命体)は、その目的にしたがい、自己を「真にあるべき姿」に向かって発展させようとして自己運動することになるのです。また人間は、外的目的をもって客観に立ち向かい、客観を合目的的に発展させるのです。この目的の実現が理念への移行をもたらすことになります。
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