『弁証法とは何か』より

 

 

第一七講 概念論 ⑤

 

一、「B 客観」各論

機械論と目的論

 今日は、「B 客観」の各論に入ります。機械的関係と化学的関係は、大きく一まとめにされて機械的関係とよばれ、目的的関係と対立させられてとらえられます(二〇〇節補遺参照)。
 自然観の問題として、機械論か目的論かの議論が歴史的に展開されてきましたので、最初にその問題を紹介しておきましょう。
 まず機械的自然観というのは、自然は機械的に型にはまったことをくり返し、原因と結果という因果関係の作用によって規定されているとする形而上学的自然観です。この自然観からは、自然はすべて必然性によって支配されているという決定論(宿命論)が生まれます。
 これに対し、目的的自然観というのは、自然は一つの目的によって規定されていることによって統体性をもっているとする自然観です。
 第一六講でもお話ししましたが、アリストテレスは、自然を動かす原因には、質料因、形相因、始動因(作用因)、目的因の四つがあると考えました。いわば、機械論と目的論とが併存していたのです。この作用因が後に機械論に、目的因が目的論につながることになります。

機械論と目的論の歴史的展開

 中世のスコラ哲学は、アリストテレスの目的因を取り入れ、自然は神によって創造されたものであり、神の創造目的をもった存在だという目的論的自然観にたっていました。
 この目的論的自然観に最初の衝撃を与えたのが、ガリレイの落下実験でした。近世哲学の父、デカルトはアリストテレスの形相因と目的因をすて、質料因と作用因のみによって自然を説明する機械論的自然観を確立しました。とりわけニュートン力学の確立のもとで、一七世紀には、自然のすべてを力学的関係で説明しようとする機械的、形而上学的自然観が確立するに至ります。
 こうしたニュートン力学の発展を土台に、「一八世紀のフランス唯物論 ── は、じじつもっぱら機械的であり、しかもごくもっともな理由からしてそうだったのである。というのは、当時はまだ物理学や、化学や、生物学は襁褓のなかにあって、なんらかの一般的自然観の土台を提供しうるにはほど遠かったからである」(全集⑳五六〇ページ)。その一人ラ・メトリは『人間機械論』を著し、人間の生物的活動のすべてを機械論で説明しようとしました。
 この機械的、形而上学的唯物論には、大きく三つの誤りがあります。第一は、機械よりも高度な客観である生命体にまで機械論を適用したことです。エンゲルスは「生命に適用した場合の機械論はたよりないカテゴリー」(同五一七ページ)だといっています。第二には、決定論の立場に立って一切の偶然性を否定したことです。エンゲルスは、「ここでは偶然性が必然性から説明されているのではなく、むしろ必然性のほうがたんなる偶然的なものを生みだす母体にまで引きおろされている」(同五二七ページ)と決定論を批判しています。第三に、これがもっとも重要なのですが、機械的唯物論が自然の絶対的な不変性を主張していたことです。
 ヘーゲルは、『小論理学』のなかで唯物論の批判を数カ所で展開していますが、それは当時の唯物論が、このような限界をもっていたからにほかなりません。
 機械的、形而上学的唯物論を打ち破るきっかけとなったのが、細胞の発見、エネルギー転化の法則、ダーウィンの進化論の三大発見であり、これが「フランス唯物論の一面性をすべて除去した」(全集㉑二八五ページ)のです。
 「前世紀(一八世紀 ── 高村)のすえ、いちじるしく機械論的であったフランス唯物論者たちのあとで、古くからのニュートン=リンネ学派の自然科学全体を百科全書的に総括しようという要求が起こり」(全集⑳五五六ページ)これをなしとげたのが、ヘーゲル弁証法だったのです。ちなみにリンネ学派とは、種を不変のものとし生物に歴史があることを否定する学派を意味します。
 エンゲルスが、ヘーゲルの機械的関係、化学的関係、目的的関係という三つの区分を「その時代にとっては完全だった」(同五五七ページ)としたのには、こうした理由があったのです。
 もっとも、目的論を自然観のなかに復活させたのは、カントです。ヘーゲルは、「哲学上におけるカントの偉大な功績の一つ」(『大論理学』㊦二三〇ページ)にカントが外的目的と内的目的とを区別し、「後者の中に生命の概念、即ち理念」(同二三一ページ)を見いだしたことをあげています。ヘーゲルは、これまでの機械論か目的論かの対立をしりぞけ、両者を低次の客観の論理と高度の客観の論理に区別すると同時に、高度の客観である生命体において両者は統一され、目的論を機械論の真理ととらえたのです。
 エンゲルスは、「生物はたしかに力学、物理学、化学を自己のうちに関係づけて一つの全体としているようなより高次の統一であり、しかもこの全体にあっては三者はもはや分離することができないからである」(全集⑳五五七ページ)として、ヘーゲルのとらえ方を積極的に評価しています。
 こうした観点に立つことができたのも、ヘーゲルが、客観を「概念の実現」(一九七節参照)ととらえ、機械的関係、化学的関係、目的的関係のそれぞれの運動において、この概念のあらわれ方が異なるととらえたからにほかなりません。

 

二、「a 機械的関係」

形式的な機械的関係

 「客観は その直接態においては単に即自的な概念であって、主観的なものとしての概念を最初は自己の外に持ち、すべての規定性は外的に措定された規定性として存在する」(一九五節)。
 客観はすべて概念の移行なのですが、「客観性の最初の形態」(同補遺)である機械的関係においては、もっぱら内に概念をもたない存在としてあらわれるのであって、「すべての規定性は外的に措定された規定性」、つまり機械的関係がとり結ぶ関係は、すべて外的関係にとどまるのです。その意味で、「単に即自的な」(つまり展開されない)概念にすぎないのです。
 「したがってそれは、区別されたものの統一としては、寄せ集められたもの、合成物であり、他のものへのその作用は、外的な関係にすぎない」(一九五節)。
 つまり、機械的関係は、内にあっても、外にあっても外的関係にとどまるのです。内にあっては、内にある区別が外的に結合した統一体として「合成物」となり、外にあっては、他のものと外的関係をとり結ぶにすぎません。
 「これが形式的な機械的関係である。もろもろの客観的なものは、このような関係と非独立性とのうちにありながらも、またあくまで独立的であって、抵抗しあい、相互に外的である」(同)。
 単なる寄せ集めとして、外的に結合する機械的関係は、「客観性の最初の形態」(同補遺)として、「皮相で浅薄な考察方法」にすぎませんが、それでもそれは「普遍的な論理的カテゴリー」(同)としての意味をもっています。
 したがって機械的関係は、「本来の力学の領域」(同)はむろんのこと、「自然の一領域にのみかぎられるべき」(同)ものでもなく、広く客観一般に妥当する領域をもっています。その例として、ヘーゲルは、「機械的に」記憶するという例をあげています。
 「記憶が機械的である点は、まさに次のような点にある。すなわち、そこでは一定の記号や音が、単に外的な結合においてのみ、理解されまた再現されて、その際はっきりとそれらの意味および内的な結合に注意が向けられる必要がないのである」(同)。
 その意味を理解して、自己のうちに記憶するのではなく、意味を理解しないまま外部からの押しつけとして記憶するのは、「単に外的な結合」としての機械的な記憶にすぎないのです。
 したがって、より高いカテゴリーが問題となっているにもかかわらず「あくまで機械的関係を固執し、もって自然を十分に認識する道を塞ぐのは、近代の自然研究のきわめて根本的な欠陥」(同)といわなければなりません。
 近時、分子生物学の発展により、DNAの内部構造の研究がすすんでいます。そのなかでDNAを寸分のくるいもなく機械的にはたらく複製機構だととらえ、生物の進化をDNAという機械の故障から生じる偶発的なものにすぎないとの考え方が生まれています。これは生命体というより高度のカテゴリーに、機械的関係を適用する欠陥の一つといえるのではないかと思います。
 したがって機械的関係を「有機的自然の領域に適用」するのは不十分なのですが、より高度の目的的関係のなかには、より下位の関係である機械的関係も含まれていますので、「正常の働きをしている高次の諸機能、特に有機的な諸機能がなんらかの仕方で妨害あるいは故障を受けると、すぐに平常は従属的である機械的関係が支配的なものとして頭をもたげてくる」(同)といっているのは、面白いところです。
 例えば、胃の悪い人は胃の「圧迫」、病気の人は手足の「重さ」という機械的関係を感じるのです。
 また、機械的な見方を不当に広げてはならないとして、「人間は、肉体と精神とからなる」とする見解をあげています。これは、肉体と精神とは二つの部品であって「外的にのみ相互に結合されている」という見方であり、有機的生命を機械的関係でとらえようとする間違いなのです。

親和的な機械的関係

 この「形式的な機械的関係」に続いて、ヘーゲルは「親和的な機械的関係」について述べています。
 「客観は、それが独立的であるかぎりにおいてのみ、外的な力に左右される非独立性を持っている(前節)。……外的なものと区別されていながら、同時にその独立性のうちで外的なものを否定するという、この自己との否定的統一が中心性、主観性である。そして客観そのものは、この中心性のうちで外的なものに向い、外的なものに関係している。この外的なものもまた同じく自己を中心としており、そしてこの中心性のうちで同じく他の中心に関係している」(一九六節)。
 つまり、親和的な機械的な関係というのは、二つのものがそれぞれに中心性をもっていて、お互いに引き合い相手の独立性を否定しようとする関係であり、ヘーゲルはその例として、重力とともに「社交本能」(同)をあげています。男女がひかれあう「社交本能」は、目的的関係にある人間の従属的機能にすぎないものと考えたのでしょうか。

絶対的機械関係

 最後は、「絶対的機械関係」です。
 「このような関係の展開は一つの推理を形成する。すなわち、ある客観の中心的個別性(絶対的中心)としての内在的な否定性が、もう一つの端項をなしている非独立的な客観と、客観の中心性と非独立性とをそのうちに合一している一つの媒介項、すなわち相対的中心を通じて関係する」(一九七節)。
 絶対的機械関係で念頭においているのは、太陽(絶対的中心) ── 地球(相対的中心) ── 月(非独立的な客観)の関係です。ヘーゲルは、この三者は相互に中間項になったり、端項になったりする「三重の推理」(一九八節)だといっています。
 同様に「三重の推理」からなる絶対的機械関係の例として、個人(個) ── 市民社会(特殊) ── 国家(普遍)をあげています。この三者の関係は、『法の哲学』で詳しく展開されています(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』参照)。
 市民社会とは経済社会のことです。最近の新自由主義は、資本主義の経済社会を国家の干渉介入から排除しようとするものです。それは弱肉強食の原始的資本主義を復活させ、全世界的に貧困と格差の限りない拡大を生みだしています。ヘーゲルが、国家と市民社会との相互媒介を主張していることには大きな意義があると思います。
 また人間は、類本質として社会的存在であり、個人と国家の媒介関係も、人間が人間らしくあるために重要なところです。個人は私人としてその私生活が保障されると同時に、公民として、国家のあり方に積極的にかかわっていかなければなりません。それが主権者たる国民の責務です。
 個人、市民社会、国家を三重の推理としてとらえるヘーゲルの観点は、様々な点でもっと検討し、評価されるべき課題だと思います。
 「これら三つの規定の各々は、媒介によって他の端項と連結されることによって、まさに自分自身と連結され、自己を生産するのであって、この生産が自己保存である。 ── こうした連結の本性によってのみ、すなわち同じ三つの項からなる推理のこうした三重性によってのみ、全体が有機的組織をなしていることが本当に理解されるのである」(同)。
 こういう「三重の推理」によって、三つの項は「自分自身と連結され、自己を生産する」のであって、こうして有機的組織が生まれてくるというのです。
 「諸々の客観が絶対的機械関係のうちで持っている現存在は直接的である。しかし、諸々の客観の独立性は、それら相互の関係によって、したがってそれらの非独立性によって媒介されているのであるから、この点でこの直接性は即自的に否定されている。かくして客観は、その現存在において自己に固有の他者にたいして吸引的なものとして定立されなければならない」(一九九節)。
 絶対的機械関係も、機械関係である限りにおいて、その「現存在は直接的」ですが、「三重の推理」によって媒介されている点からいうと「この直接性は即自的に否定されている」ことになります。
 こうして、客観における「現存在の直接性」は揚棄されて、自己に固有の他者をもつ対立の関係、化学的関係に移行することになるのです。

 

三、「b 化学的関係」

定有と概念との矛盾

 機械的関係における概念は、「単に即自的な概念」(一九五節)にすぎませんでしたが、化学的関係では、概念がやや明確になってきます。
 「親和的な客観は一つの内在的な規定性を持っており、これがその本性をなし、このうちにそれは現存在を持っている。しかしそれは概念の統体性が定立されたものであるから、その統体性とその現存在の限定性との矛盾であり、したがってそれはこの矛盾を揚棄し、そしてその定有を概念に等しくしようと努める」(二〇〇節)。
 化学的関係は、親和的な機械的関係の発展形態です。親和的な機械的関係では、お互いが中心性をもっていて、互いに引き寄せ合う関係でした。しかし、客観はもともと概念から移行したものとして、概念の統体性をもっているのであり、この相互に引き合いながら独立しているという「矛盾を揚棄し」て、「その定有を概念に等しくしようと努める」、つまり、一体化しようとする「絶対的な衝動」(同補遺)をもつ客観が、化学的関係なのです。
 ヘーゲルは、二〇〇節補遺で、機械論と目的論との対立を論じています。化学的関係も、広義では機械的関係としてとらえることができます。その理由について「機械的関係と化学的関係とは同じく潜在的にのみ現存在する概念にすぎないが、これに反して目的は顕在的に現存在する概念であるという点に求められなければならない」(同)と述べています。機械的関係では、概念は客観の外にあり、化学的関係では、概念の統体性はあらわれてはくるものの、また自由な概念は定立されていません。その意味では、機械的関係も化学的関係も「潜在的にのみ現存在する概念」にすぎないのです。これに対し目的的関係においては、概念が顕在化していて、自由な概念として定立していることにより、広義の機械的関係から区別されることになります。
 しかし、同時に、ヘーゲルは「機械的関係と化学的関係とのあいだにはまた非常に明白な区別」(同)があるとしています。
 というのも、機械的関係においても、諸客観の相互関係は生じるものの、それはあくまで「まだ外的な関係にすぎず、相互に関係している諸客観には、まだ独立性の外見が残っている」(同)のに対し、「化学的に親和性を持っている客観は、明白にただこの関係性によってのみそれらがあるところのものであり、したがって相補って一つの全体となろうとする絶対的な衝動である」(同)からです。
 いうまでもなくヘーゲルが念頭においているのは、化学反応により二つの物質が統一して化合物が誕生するという関係です。

化学的関係とは何か 

 「したがって化学的過程の産物は、互に相手を待ちかまえている二つの端項の中和したものであって、二つの端項は即自的にはこのような中和的なものである」(二〇一節)。
 ヘーゲルは、この過程を具体的普遍としての概念の統体性が定立される過程としてとらえ、化学的関係を次のようにとらえています。
 「具体的な普遍者である概念が、客観の親和性(特殊化)を通じて、産物(個)と連結し、そしてそのうちでただ自分自身と連結するのである」(同)。
 いわば、普 ── 特 ── 個の推理としてとらえているのです。しかし、化学的関係は、化合により概念の統一体は形成しうるものの、この統一体を再び端項に分離する過程(分解過程)を含んでいないという意味において、「まだ有限で制約された過程」(二〇二節補遺)にすぎません。
 「概念そのものは、まだこの過程の内にひそんでいるものにすぎず、顕在的に現存するにいたっていない」(同)のです。
 化学的関係においても、概念が顕在化していないということは、機械的関係と同様なのです。ヘーゲルは、ここに化学的関係の制限を見いだし、目的的関係へ移行することになるのです。

概念の顕在化としての目的的関係

 「概念は、これまで客観として、外面性および直接性のうちへ沈められていたのであるが、今やそれらの否定によって概念はそうした外面性および直接性にたいして自由かつ独立なもの、すなわち目的として定立されている」(二〇三節)。
 いうまでもなく、直接性とは機械的関係、外面性とは化学的関係を指しています。目的において、概念が「自由かつ独立なもの」となるというのは、もともと概念というものは主観的なものとしての「真にあるべき姿」ですから、その真にあるべき姿が客観のもつ制約から解放されて、「自由かつ独立」に目的としてあらわれる、という意味です。
 「化学的関係から目的的関係への移行は、化学的過程の二つの形態が相互に揚棄しあうということのうちに含まれている。このことによって生じてくるものは、化学的関係および機械的関係においては即自的にのみ存在している概念が自由になるということであり、かくして独立的に現存する概念が目的である」(同補遺)。
 化学的関係では、結合する過程と分離する過程とが、「相互に外的」(二〇三節)であって、「それぞれ独立的にあらわれる」(同)のに対し、目的的関係では、「二つの形態が相互に揚棄し」あい、概念が自由に二つの形態の間を移行する、というのです。

 

四、「c 目的的関係」

目的的関係とは何か

 目的的関係は、二〇四節から二一二節までにいたる長い文章になっており、ヘーゲルにとってもアリストテレスの「目的因」の復活をめざすものであると同時に、「理念」への橋渡しのカテゴリーとして力を入れている箇所です。
 目的的関係の主題は二つあり、その一つは、内的目的性をもつ広い意味の生命体、有機体です。すなわち、単に生物学的な生命体のみならず、社会的な生命体、つまり、国家、社会、会社、労働組合、政党などをも含んでいるのです。これらの組織は客観ではありながらも、それ自身のうちに目的という概念(真にあるべき姿)を独立したものとしてもっているのです。もう一つの主題は、外的目的性である人間の目的意識的な活動です。
 それでは具体的にみていくことにしましょう。
 「目的とは、直接的な客観性の否定によって自由な現存在へはいった、向自的に存在する概念である。目的は主観的なものとして規定されている。というのは、上述の否定は最初は抽象的であり、したがって最初は客観性もまた単に対立しているからである」(二〇四節)。
 目的は、客観に対立し、客観を否定する「主観的なもの」です。この場合の客観とは、内的目的性の場合は、生命体の肉体を意味しており、外的目的性の場合には、人間が働きかける対象となる自然や社会など客観世界のすべてを意味しています。要するに目的とは、客観を否定し、変革しようとする自由な概念なのです。概念は「真にあるべき姿」として対象となる客観を自由自在に変革するのです。
 「こうした主観性という規定性は、しかし、概念の統体性とくらべると一面的であり、しかも目的そのものにたいしても一面的である。なぜなら、目的のうちには、あらゆる規定性が、揚棄されたものとして、定立されているからである。したがって目的にとっても、前提されている客観は観念的な、本来空無な実在にすぎない」(同)。
 目的は、「真にあるべき姿」に変革する目的をもって客観に立ち向かい、客観を目的にそって否定し、変革しようとします。それは「あらゆる規定性」、つまりすべての規定された客観を、「本来空無な実在」にすぎないとして「揚棄」しようとする主観性なのです。
 「目的は、そのうちに定立されている否定と対立とにたいするその自己同一の矛盾であるから、それ自身揚棄であり、対立を否定して、それを自己と同一なものとして定立する活動である。これが目的の実現であって、そのうちで、目的はその主観性の他者になり、自己を客観化することによって、両者の区別を揚棄し、もって自己を自分自身とのみ連結し、自己を保存しているのである」(同)。
 目的は、単に客観を否定するのではなく、「真にあるべき姿」としての目的を「実現」して、「自己を客観化」し、客観を目的に合わせて変革しようとする活動なのです。それは、対象となる客観に対して、真にあるべき客観を対立させ、この「対立を否定して、それを自己と同一なものとして定立する」という矛盾を揚棄する活動であり、「両者の区別を揚棄し、もって自己を自分自身とのみ連結し、自己を保存している」のです。
 この点にかんしてヘーゲルは、アリストテレスにならい「目的原因としての目的と単なる作用原因」(同)とを区別することが「きわめて重要」(同)だといっています。というのも、「単なる作用原因」としての普通の原因は、機械的関係であり結果へ移行すればそのなかで自己を消失させてしまいますが、これに対し目的(目的原因)は、目的的関係として「終わりにおいてはじめの、すなわち、本来の姿を保っている」(同)からです。
 なぜ、目的が実現された客観のなかで「本来の姿を保っている」のかといえば、それは目的が概念そのものにほかならないので、区別されたもののなかに自己同一性を保っているのです。目的的関係としての運動に、第一一講でお話ししたキーネーシスとエネルゲイアとがあるのです。

内的目的と外的目的

 さらにヘーゲルが、内的目的と外的目的とを区別しなければならないといっているのも重要なところです。外的目的とは、「意識のうちに存在する形式」、すなわち意識のある動物、とりわけ人間がもつ目的であるのに対し、内的目的とは、生物や社会的生命体(会社、組合、政党など)がそれ自身の内部にもつ、意識の形式をとらない目的です。法人(法律上の人格ある存在)の登記に「目的」欄があることは、ご存知のとおりです。
 この内的目的と外的目的の区別の例として、『反デューリング論』の論争を紹介しておきます。
 デューリングは、ヘーゲルの「目的」を外的目的とのみ理解しました。エンゲルスはこれを批判して、次のように述べています。
 「ヘーゲルの『内的な目的』 ── つまり、意図をもって行為する第三者、たとえば摂理の知恵というようなものによって自然のなかにもちこまれたものではなくて、事柄そのものの必然性のうちにふくまれている目的 ── を適用するのにさえ、完全な哲学的訓練を経ていない人々は、自然にたいして意識的、意図的な行為を押しつける無思慮なやり方にたえずおちいるのである」(全集⑳六八~六九ページ/『反デューリング論』上九八ページ)。
 生物は、環境に適応して自在に進化していきます。それはDNAの故障による個体の偶然の変化に媒介されながらも、個体の偶然の変化を必然的な種の進化に結びつける生物の「種」としての「内的目的」が働いているのです。
 エンゲルスは、「雨ガエルや葉を食う昆虫が緑色をしており、砂漠の動物が砂黄色をしており、極地の陸生動物がおもに雪白色をしている」(同七三ページ/『反デューリング論』上一〇四ページ)のは、「無意識的な目的活動」(同)、つまり内的な目的であるとして説明しています。
 「生命にかんするアリストテレスの規定は、すでに内的な目的性を含」(二〇四節)むものでしたが、「内的な目的性という概念によって、カントは、理念一般、特に生命という理念を再びよびさました」(同)のです。
 生命体は、内的目的をもつことによって、「目的の実現」にむけて運動することになります。
 「欲求、衝動は目的の最も手近な例である。それらは、生きた主体自身の内部でおこる矛盾が感じられたものであり、まだ主観的なものにすぎないこの否定性を否定しようとする活動へ移っていく」(同)。
 目的をもつということは、現存する自己と目的として定立されている自己との矛盾を感じることであり、目的にむけて変革しようとする「欲求、衝動」によってこの矛盾を解決しようとするのです。
 「衝動とは、主観的なものは一面的であって、客観的なものと同様になんらの真理をも持たないという」「確信の遂行」(同)であり、これにより、主観と客観の「対立および有限性を揚棄」(同)し、矛盾を解決するに至るのです。
 目的活動は、「三つの項の否定」(同)を生みだします。すなわち「目的そのもののうちに見出される直接的な主観性および直接的な客観性(これはさらに手段と前提された客観とから成る)の否定」(同)という、三つの否定です。その三つが否定されて実現された目的となるのです。

外的目的性

 「目的論的関係は、その直接態においてはまず外的な目的性であり、概念は前提されたものとしての客観に対峙している。したがってこの場合、目的は有限である。それは内容からいって有限であり、またそれがその実現の素材として見出さなければならない客観を外的な条件として持っている、という点からいって有限である」(二〇五節)。
 外的目的というのは、先にも一言したように、「意識のうちに存在する形式」、つまり主として人間の意識のうちにあらわれた目的であり、そこにはエネルゲイアとキーネーシスとがあるのです。この目的は、何かをしようとする目的ですから、概念(真にあるべき姿)をとらえていることもあれば、いないことも当然ありうるのであり、したがって「その内容からいって有限」なのです。また目的を実現する対象は、自分自身ではなく、自己の外にある客観であるという「素材」の面でも有限なものでしかありません。
 「このかぎりにおいて目的の自己規定は形式的であるにすぎない。もっと厳密に言えば、直接態のうちには、自己へ反省したものとしての特殊性(これは形式規定としては目的の主観性である)、すなわち内容が、形式の統体性、主観性そのもの、概念と異ったものとしてあらわれる、ということが含まれている」(同)。
 つまり外的目的における目的は、目的としての形式はもっているものの、その内容は「概念と異った」特殊的なものにすぎないこともありうるという制限をもっています。概念をとらえた目的は、エネルゲイアであるのに対し、そうでない目的はキーネーシスにすぎません。
 「この差別性が、それ自身の内部における目的の有限性をなしているのである。このことによって内容は制限されたもの、偶然的なもの、与えられたものとなり、客観は特殊なもの、見出されたものとなる」(同)。
 本来目的とは、「向自的に存在する概念」(二〇四節)として、真にあるべき姿を目的の内容とすべきものであるにもかかわらず、外的目的の内容は、「制限されたもの、偶然的なもの、与えられたもの」でしかないという「有限性」をもっていることがあるのです。
 この外的目的の内容における有限性は、目的を実現するうえでの障害となってきます。客観を変革するためには、客観のもつ法則性を認識し、その認識のうえにたって客観を否定する客観の概念(真にあるべき姿)をとらえ、この概念を実践することによって客観を合法則的に変革することができるのです。しかし有限な目的は、「概念と異ったもの」(二〇五節)であるがゆえに、客観を変革するうえでも有限なものにすぎないのです。
 この有限な外的目的は、合目的的な活動をするのに役立つ目的であるという、単に「効用の見地」(同補遺)にすぎず、「事物の本性を真に洞察するには不十分」(同)なものにすぎません。
 「外的な合目的性は理念のすぐ前に立っている。しかし入口に立っているものこそ、しばしば最も不十分なものなのである」(同)。
 キーネーシスとしての外的目的性は、「最も不十分なもの」にすぎません。これに対して内的目的の実現は、エネルゲイアであり理念そのものなのです。

目的と手段

 「目的的関係は、そのうちで主観的な目的が中間項を通じて外的な客観性と連結する推理である。そしてこの中間項は、合目的活動としては、両者の統一であり、直接に目的に従属した客観性としては、手段である」(二〇六節)。
 本節は、外的目的と内的目的の両者に関係する節です。外的目的性としては、生産的労働を念頭におくとイメージしやすいでしょう。労働目的は、中間項としての労働手段という「目的に従属した客観性」を媒介して、労働対象と結合し、労働生産物において、その外的目的を実現するのです。内的目的としては、生命体が、自己の肉体をその目的にしたがって手段として改造していくことをとりあげています。
 「目的から理念への発展は、第一には主観的目的、第二には実現の過程にある目的、第三には実現された目的という三つの段階を通じて行われる」(同補遺)。
 内的目的と外的目的に共通する、この目的と手段の関係をもう少し詳しくみていくことにしましょう。
 「 主観的目的は、普遍的な概念が、個が自己規定として原始分裂するように、特殊を通じて個と連結するという推理である。個が自己規定として原始分裂するとは、個がまだ無規定な普遍を特殊化して特定の内容とするとともに、また主観性と客観性との対立を定立し、しかもそれ自身に即してそれ自身自己への復帰であるということである」(二〇七節)。
 まず主観的目的は、目的の主観性と対象となる客観との対立を認識し、その矛盾を解消して、実現された目的のなかで「自己自身への復帰」を果たすべく、「外へ向う」(同)活動となるのです。
 「 こうした外へ向った活動は、主観的目的のうちで特殊性 ── これは内容のほかに外的な客観性をも含んでいる ── と同一である個別性であるから、第一に客観へ直接的に関係し、それを手段として自己のものとする。概念はこうした直接的な威力である」(二〇八節)。
 主観的目的が「外へ向った活動」は、まず客観を「手段」として「自己のもの」とします。いわば目的にそって、目的を実現する手助けとなる「手段」をまず「自己のもの」とし、「手段」を媒介に、その目的を実現することになるのです。外的目的の場合は道具や機械を指し、内的目的の場合は肉体改造を意味しています。
 目的は、概念(真にあるべき姿)として、このように「客観を自己に従属させる」(同)という「直接的な威力」を示すのです。
 いわば、「目的は客観を直接的に掴む」(同補遺)のです。人間も同様であり、人間には「その肉体を手段」(同)とし、「魂の道具とするために」(同)肉体を鍛錬して、心の思うがままに動くように「まずそれを占取しなければならない」(同)のです。
 主観的目的を客観に結びつける媒介項は、さらに「二つのモメント」に分かれます。「すなわち活動と手段として役立つ客観」です。主観的目的は、それを実践する「活動」と「手段」に媒介されて、客観へ向かうことになるのです。
 「 手段をもってする目的活動はまだ外へ向っている。なぜなら、この場合目的はまだ一面において客観と同一でなく、したがってこれから客観へ媒介されなければならないからである。手段は客観であるから、この第二の前提のうちで、推理のもう一つの端項、すなわち前提されたものとしての客観性、素材と直接的に関係している。この関係は機械的関係および化学的関係の領域であって、それは今や目的に仕えており、その真理および自由な概念が目的なのである。主観的目的は、客観的なものがそのうちで相互に磨滅しあい揚棄しあう諸過程を支配する力として、自分自身はそうした過程の外にありながらしかもそのうちに自己を保持している。これが理性の狡智である」(二〇九節)。
 この「理性の狡智」というのは有名な箇所であり、『資本論』でも引用されています。目的は手段をつうじて客観に立ち向かわせ、「相互に作用させ働きつかれさせ」(同補遺)つつ、「自分自身はそうした過程の外にありながら」(二〇九節)、「しかもただ自分の目的をのみ実現する」(同補遺)という「狡智」(ずるがしこい知恵)を発揮するのです。
 「目的の実現はかくして主客の統一の定立である。しかしこの統一は、主観と客観の一面性が中和され揚棄されたという意味でのみ、統一と言いうるのであって、客観は、自由な概念でありしたがって客観を支配する力である目的に、従属し順応させられている」(二一〇節)。
 目的の実現は、主客の統一とはいっても、主客が対等な立場で統一するのではなく、主観としての目的が、客観を目的に「従属し順応」させることによる統一なのです。いわば目的に従って、目的どおりに客観がつくり変えられるのです。
 「しかし有限な合目的性においては、実現された目的でさえ、媒介項や最初の目的がそうであったと同じように、自己のうちに分裂を含んでいる。……したがって達成された目的は、一つの客観にすぎず、それはまた再び他の目的にたいする手段あるいは材料となる。こうした関係は限りなく続いていく」(二一一節)。
 有限な目的によって「達成された目的」は、例えば素材から原料にかわっただけで、一つの原料は、また別の原料の素材になるという無限進行となるところに、目的の有限性が示されているのです。

目的から理念への移行

 「実現された目的が単に手段および材料として規定されているということのうちには、この実現された目的である客観もすでに本来空無なもの、単に観念的なものであるということが定立されている。これとともに内容と形式との対立も消失してしまっている」(二一二節)。
 このように有限な目的の実現によって主客の統一が定立されるのですが、それも一時的なものにすぎず、実現された目的としての客観は、ふたたび新たな目的のもとで変革の対象となります。ということは、目的という「内容」と、それが実現するという「形式との対立も消失してしまっている」ことを意味しており、どこまでいっても、目的の達成に終わりはないのです。
 「したがってこの過程によって目的の概念であったものが定立され、主客の潜在的な統一は顕在するものとなっている。これが理念(Idee)である」(同)。
 したがって、目的とその実現をめざす無限の運動は、「真にあるべき姿」としての概念が自らを客観化して主客の統一を実現しつつ、その客観のなかから再び新たな「真にあるべき姿」が主観として定立されるという、「真にあるべき姿を」無限に追求するエネルゲイアとして「理念(イデー)」へと移行することになります。
 「われわれは有限なもののうちでは、目的の真の達成を体験することもみることもできない。したがって無限の目的は、それがまだ達成されていないかのような錯覚を除きさえすれば、達成されるのである」(同補遺)。
 このように有限な目的は永遠に達成されないのですが、これに対し、客観世界のもつ「無限の目的」は、客観世界のもつ内的必然性、法則性により、日々達成されつつあるエネルゲイアなのです。人間は、客観世界は人間の実践なくして発展しえないと「錯覚」しているだけにすぎません。
 「善、絶対の善は世界において永遠に自己を実現しつつあるのであり、したがってそれはすでに即自かつ対自的に達成されていて、われわれを待つ必要はないのである」(同)。
 これをヘーゲルの現状肯定主義ととらえるむきもあるかもしれませんが、ここは、客観世界は自己のうちに固有の発展法則をもち、この法則にもとづいて真にあるべき姿に向かって自己発展しているという意味に理解すべきものでしょう。
 しかし私たち人間は、客観世界は「真にあるべき姿」にはないと「錯覚」し、これを変革しようとするのです。そしてこの「錯覚」こそが、「世界における関心がそれにもとづいている活動力」(同)となっているのです。
 「そして理念の行為はこうした錯覚を揚棄することにある。真理はただこうした誤謬からのみあらわれ出るのであって、この点に誤謬および有限性との和解がある」(同)。
 われわれは、こうした「錯覚」にもとづき、「真にあるべき姿」を目的に掲げて活動し、「理念の行為」をおこなうのであり、この真理を追求する活動によって、客観世界の合法則的発展を実現していくのです。
 「他在あるいは誤謬は、それが揚棄されるとき、それ自身真理の必然的なモメントである」(同)。
 いわば、こういう「錯覚」にもとづく真理の探求こそ、絶対的真理に無限に接近していく原動力となるのです。
 真理は誤謬をつうじてのみ実現されるのであり、真理と誤謬との対立は相対的なものでしかありません。というのも一定の時代における人類の認識は、つねに相対的真理と相対的誤謬の統一としてしか存在しえないからです。