『弁証法とは何か』より
第一九講 概念論 ⑦
一、「b 認識」総論(つづき)
前回に続き「b 認識」の総論の残り部分から始めます。
「上述の過程が一般的に言って認識作用である。そこでは主観性の一面性と客観性の一面性との対立が一つの活動のうちで即自的には揚棄されている。しかしこの揚棄は最初は即自的にのみ行われるから、この過程そのものが直接にこの領域の有限性をまとっており、異ったものとして定立されているところの理性の衝動の二つの運動に分裂する」(二二五節)。
つまり、認識作用というのは、主観と客観の一面性を克服してその同一性を定立し、主観と客観の同一という真理態を実現する無限の作用なのです。ヘーゲルにいわせれば、主客一体だった理念が主観的理念と客観的理念とに自己分裂したものですから、どちらも一面的なものであって、主客の対立は揚棄されざるをえないということになります。
こうしてこの主客の同一性を定立しようとする「理性の衝動」としての「認識作用」は、「二つの運動に分裂する」ことになります。
「すなわち、それは一方では存在する世界を自己のうちへ、すなわち主観的表象および思惟のうちへ取り入れることによって、理念の主観性の一面性を揚棄し、自分自身の抽象的な確実性を、真理と考えられている客観性の内容をもってみたす」(同)。
これが「イ 認識」です。狭義の認識とは、主観的理念のうちへ「存在する世界」をとりこみ、その一面性を「真理と考えられている客観性の内容をもってみたす」ことなのです。しかし「真理と考えられている客観性の内容」のなかには、本来「現にある客観性の内容」のみならず、「真にあるべき客観性の内容」まで含まれることは、二一三節で学んだとおりです。
「他方ではそれは逆に、偶然的なものおよび本来空無な形象、すなわち単なる仮象と思われている客観的世界を、真に存在する客観的なものと思われている主観の内面によって規定し、前者のうちへ後者を形成し入れる」(同)。
これが「ロ 意志」です。意志とは「真に存在する客観的なもの」、つまり「真にあるべき」内容によって主観性を規定し、この内容を「単なる仮象と思われている客観的世界」のうちへ「形成し入れる」という創造的実践活動です。これがヘーゲルの変革の立場を示すものです。
つまり、狭義の認識も意志も、概念の展開した絶対的な真理として、概念(真にあるべき姿)を内に含んでいるのです。認識においては現存する世界から出発して主観的な概念に到達し、意志においては主観的概念から出発して現存する世界を真にあるべき世界に変革するのです。
「一方は真理を求める知識の衝動、認識そのもの、すなわち理念の理論的活動であり、他方は善を完成しようとする善の衝動、意志、すなわち理念の実践的活動である」(同)。
認識と意志とは、理論と実践という関係にあります。ここに「善」というカテゴリーが登場しました。善といっても善・悪の善ではありません。詳しくは、「意志」(二三三節以下)でお話しします。
二、「イ 認識」
概念が「導きの糸」
続いて「b 認識」の各論である「イ 認識」に入っていきます。
「広い意味での認識作用の一般的な有限性は、それが自己分裂して対立を前提し(二二四節)、認識の作用そのものがこの前提された対立への抗議を蔵しているということにある」(二二六節)。
「広い意味での認識作用」、つまり「認識」と「意志」とは、もともと主客一体であった理念が「自己分裂」して主客の対立を生みだしたことに抗議し、主客の同一性を求める衝動として生じるというのです。
「ところでこの有限性は、認識そのものの理念に即して、さらに自己を規定し、理念の二つのモメントは互に別々のものという形態を持つようになる。そしてこの二つのモメントが完全であっても、それらは反省の関係をとるにすぎず、概念の関係をとるにはいたらない」(同)。
広い意味の認識作用は、「理念の二つのモメント」に即して「認識」と「意志」とに区別されますが、この両者は「反省の関係」、つまり「認識」から「意志」へ、「意志」から「認識」へと相互移行する関係にとどまっているかぎり、「概念の関係」、つまり「真にあるべき姿」という真理をとらえるものになっていないのです。
「したがって与えられたものとしての素材を同化することは、他方ではやはり素材にたいして外的である概念諸規定のうちへ素材を取り入れることとしてあらわれる。そして概念諸規定そのものも互に別々のものとしてあらわれる。これは悟性として活動している理性である」(同)。
広義の認識作用を通じて、素材を自己のうちに取り込み「同化」するのですが、認識はそれだけでは満足せず、認識主体からすれば「素材にたいして外的」と思われる「概念」にまで前進していきます。
しかし、「真にあるべき姿」としての「概念」は、一度とらえればそれで終わりというものではなく、「互に別々のものとしてあらわれ」てくるのです。
「したがってこうした認識が到達する真理も、やはり有限な真理にすぎず、概念の無限の真理はそれにとってはあくまで潜在的にのみ存在する目標、彼岸にすぎない。しかしそれはその外面的な活動のうちで概念に導かれているのであって、概念の諸規定がその進展の内的な導きの糸をなしているのである」(同)。
つまり、概念それ自体も認識作用をつうじて無限に発展するのであり、人間の認識作用は、究極の絶対的真理をとらえて、そこで行き止まりになるというものではありません。
その意味では、「概念の無限の真理はそれにとってはあくまで潜在的にのみ存在する目標、彼岸にすぎない」のです。しかし無限の真理は、彼岸の目標ではあっても、そのときどきにとらえられた「概念の諸規定」がその進展の内的な導きの糸として、その彼岸の目標に向って無限に接近していくことになります。
ここには、「真にあるべき姿」という概念自身も無限に発展するものであり、無限に「真にあるべき姿」という客観的真理に接近しうるけれども、絶対的真理にはけっして到達することはできず、人間の認識は無限に発展していくという正しい唯物論的真理観が展開されています。
分析的方法
認識を前進させる方法の一つは分析的方法です。
「有限な認識作用は、自分とは異るもの、与えられた、自分に対立している存在、すなわち外的自然や意識の多種多様な事実を前提するから、 その活動の形式は普遍性の形式的同一性あるいは抽象である」(二二七節)。 分析的方法がなぜ有限かというと、「自分とは異る」「与えられた」ものを前提にしているため、その前提による制約を受けているからだというのです。
分析的方法の目的は、個別的な客観世界の事物を分析・分解することによって事物を「抽象」化し、個別のなかにおける「普遍性」を認識するところにあります。いわば、個別をつうじて普遍を認識するのであり、「推理」でとりあげた帰納推理に対応する認識方法だということができます。
「したがってこの活動は与えられた具体的なものを分解し、その諸区別を孤立化し、そしてそれらに抽象的な普遍性の形態を与えるところにある。あるいはまた具体的なものを根抵としてそのままにしておき、本質的でないと思われる特殊なものを捨象することによって、具体的な普遍、類あるいは力および法則を取り出すところにある。 ── これが分析的方法である」(同)。
つまり分析的方法には大きく二つあります。一つは事物をその要素に還元し、例えば、すべての生物は細胞という「抽象的な普遍性」からなっていることを明らかにするのであり、もう一つはリンゴの落下をつうじて、リンゴの特殊性を「捨象」し、すべての事物に共通する万有引力という「力」「法則」という普遍性を発見するのです。
しかし、この分析的方法は、帰納推理でお話ししたように論理の飛躍をともないます。その意味では分析的方法は誤った認識をも生みだすため、総合的方法によって補わなければならないのです。ヘーゲルはその例として、要素に還元して普遍を求めることは「事物を変化させる」(同補遺)ものであって、「あるがままに事物を把握」(同)することにはならないという矛盾をもっていると指摘しています。
総合的方法
第二の方法は総合的方法です。
「この普遍性は また規定された普遍性である。ここでは活動は概念の諸モメント ── 概念といっても、有限の認識作用のうちにあるのだから、無限の概念ではなく、悟性的な規定された概念であるが ── に沿うて進んで行く。こうした概念の諸形式へ対象を取り入れるのが総合的方法である」(二二八節)。
悟性的に規定された概念というのは抽象的普遍としての概念であり、「無限の概念」というのは具体的普遍としての概念、「真にあるべき姿」を意味しています。ヘーゲルは、総合的方法においても悟性的に規定された「有限な概念」、つまり「抽象的普遍」から出発するにとどめています。
「総合的方法の運動は分析的方法の逆」(同補遺)であり、普遍から個別にいたる認識です。分析的方法が帰納的推理に対応するのと同様に、総合的方法は演繹的推理に対応するものです。
「総合的方法においては、普遍(定義としての)が出発点をなし、われわれは普遍から特殊化(分類における)を通じて個(定理)へ進んでいく」(同)。
総合的方法とは、例えば人間とは何かという普遍的な定義にはじまり、そこから論理的に導き出される命題としての定理(個)にいたる認識方法です。
「 対象がまず規定された概念一般の形式のうちへもたらされ、これによって対象の類および普遍的規定性が定立されるとき、これが定義である。定義の材料および基礎づけは、分析的方法(二二七節)によってえられる。しかしこの規定性は単に目じるしの役目をするにすぎない。言いかえれば、対象に外的な、単に主観的な認識に役立つためにあるにすぎない」(二二九節)。
定義は「対象の類」をとらえることによって定立されることとなります。「対象の類」とは「概念一般の形式」、つまり類(普遍)、種(特殊)、「定義された対象そのものとしての個」(同補遺)という普 ── 特 ── 個の関係においてとらえることです。その意味で定義は「概念の三つのモメント」(同)を含んでいます。
「しかしまた定義が分析的方法によって生じるからこそ、提出された定義の正しさについてあんなに論争があるのである」(同)。
というのも、この定義は分析的方法によって類が特定されるのですが、「人がどんな知覚から出発し、どんな見地を念頭に持っていたかということに、すべてはかかっている」(同)のであり、「定義さるべき対象が豊かであればあるほど」(同)「定義もますますさまざまであるのが普通」(同)だからです。
つまり、総合的方法には、演繹推理のもつ欠陥がそのままあらわれているのです。出発点となる普遍が正しければ、そこから導き出される定理も正しいのですが、出発点が正しいという保証はどこにもないのです。
哲学に求められているものは「単に正しい定義」(九九節補遺)ではなく、「確証された定義」(同)でなければなりません。したがって、対象のあれこれの側面を分析によって取りだしてなされる定義には「必然性がない」(二二九節補遺)のであって、ヘーゲルは「こうした事情だけから言っても、総合的方法は分析的方法におとらず哲学には適しないもの」(同)だといっています。
「 概念の第二のモメントを、すなわち特殊化としての普遍の規定性を示すのが分類である。これもやはり外的な見地からなされる」(二三〇節)。
分類を完全にするには、定義で論じられた普遍 ── 特殊 ── 個別の関係の「全範囲を包括するように作られていなければ」(同補遺)なりません。その意味では、「真の分類は概念に規定されているもの」(同)でなければなりませんが、出発点となる普遍そのものが概念(具体的普遍)ではなく、抽象的普遍にとどまりますので、そこにも定義のもつ恣意性と同様の問題があり、「やはり外的な見地からなされる」可能性をもっているのです。
「 具体的個別性においては、定義における単純な規定性が関係と考えられているから、対象は具体的個別性のうちにあるとき、異った諸規定の総合的関係である。すなわちそれは定理である。これらの諸規定は異ったものであるから、それらの同一は媒介された同一である。媒介項をなす材料を持ち出してくるのが構成であり、認識作用にたいして上述したような関係の必然性を作り出す媒介そのものが証明である」(二三一節)。
総合的方法は、普遍を規定して個別化する方法であり、規定されたいくつもの個別は、いずれも一つの普遍から規定されたものとして「媒介された同一」をもつとき、それは定理となります。言いかえれば、定理とは「異った諸規定」の同一の関係なのです。
ここでいう「構成」とは、同一性を証明する媒介項となるもの、つまり幾何学でいう補助線をイメージしています。構成を媒介に、「関係の必然性」が「証明」されることになります。
分析と総合の意義と限界
以上、認識における二つの方法、分析的方法と総合的方法をみてきました。分析的方法と総合的方法とは、帰納と演繹と同様に、両者一対として既知のものから未知のものへと前進する科学的な認識発展の方法ということができます。
エンゲルスも、「帰納と演繹とは、総合と分析と同じくらい必然的に一つの対をなすもの」(全集⑳五三六ページ)であり、それぞれを「しかるべき場所で適用」(同)できるのは、「それらが一つの対をなしていること、それらがたがいに補足しあっていることを眼中におくときだけである」(同)と述べています。
しかし、ヘーゲルは、次のようにこの二つの方法の批判をしています。
「これら二つの方法は、それらが本来用いられるべき領域では、本質的な意義をもち、また輝やかしい成果を収めているが、しかしそれらが哲学的認識に使用できないことは自ら明白である。というのは、これらの方法は前提を持っており、ここで認識がとる態度は、悟性の態度、形式的同一性にそうて進む態度だからである」(二三一節)。
つまり、分析的方法と総合的方法という二つの認識方法は、外的に「与えられた世界を前提」(二二六節補遺)としており、かつ弁証法的認識ではなく悟性的認識だから、「哲学的認識」には使用できない、というのです。
しかしまず第一に、有限な認識はその認識方法に問題があるというよりも、認識の対象とされている客観世界を前提とし、それが有限であることに起因しています。つまり有限な客観世界に一致する「正しい認識」は、有限な認識にならざるをえません。だからこそ、無限な認識作用は、「その前提および出発点、すなわちその内容が目前に見出されまた与えられているという事態を越えて」(二三二節)いかざるをえないのです。その与えられた客観世界を越えてどこに向かうのかといえば、イデアの世界、つまり概念という「真にあるべき姿」にです。ヘーゲルのいう「概念の無限の真理」(二二六節)とは、客観世界を越えた概念という無限の真理を認識するものとして理解すべきなのです。なぜそれを「客観世界を越える認識」というかといえば、その概念の認識は、客観世界の普遍性、類、力、法則を認識することをつうじて客観世界の限界(有限性)を認識し、その客観世界を否定して、「真にあるべき姿」を認識することになるからです。
分析的方法を使って概念を認識し、その概念にもとづく総合的方法を展開することにより、二つの方法は自ら前提をつくり出す「哲学的認識」となりうるのであり、方法そのものに問題があるのではなく、概念にまで到達するかどうかが問題なのです。
現にヘーゲル「論理学」のカテゴリーそれ自体も、分析と総合を結合することによって生まれたものにほかなりません。また「哲学的方法は、分析的でもあればまた総合的でもある」(二三八節補遺)ともいっています。ヘーゲルは、「哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるもの」(三節)といっていますが、それを可能にしたのが分析と総合という科学的方法です。分析によって本質、法則、類のみならず概念をもとらえ、総合によって概念から出発し概念の客観化としての理念に至るのです。
第二に、二つの方法を使って概念を認識することは、客観世界を弁証法的に否定する発展的認識であって、けっして悟性的認識ではありません。
客観世界は、すべて有限な個々の事物から成っている有限な世界です。すべての個々の事物は、有限であるがゆえに、その「真にあるべき姿」をその事物のうちに含んでいるのです。すべての事物は、「現にある姿」と「真にあるべき姿」との対立を内部に含んでいる存在で、いわば「即自有と概念との矛盾」を内にはらんだ存在なのであり、無限な認識は、この矛盾した事物のなかに潜在的に存在している「真にあるべき姿」をとり出して、それを実践の目的に掲げることになるのです。
ここに理想と空想の違いがあります。空想は「真にあるべき姿」を所与の客観と無関係に取り出すのに対し、理想は「真にあるべき姿」を所与の客観のなかから弁証法的認識によって取り出します。だから、このような唯物論的な理想は、そのもつ真理性によって現実となる必然性を有しているのです。
ヘーゲルが、理想と現実の統一を訴える変革の立場をとると同時に、この変革の立場がより善く生きる、生き甲斐ある人間本来の生き方であることを主張したことは高く評価されるべきであり、また「真にあるべき姿」として「概念」というカテゴリーを生みだした功績も比類のないものだと思いますが、この分析と総合でそれを生かしきっていないのは疑問です。
以上をまとめてみますと、分析的方法と総合的方法とは、それ自体「哲学的認識に使用できない」ものではなく、客観という対象を考察するにあたっては、それが「概念の諸規定の必然性に導かれている」(二三一節)ものととらえ、この二つの方法をつうじて概念の必然性にまで到達しなければ「哲学的認識」としては十分ではないと思われます。
ヘーゲルの真意もそこにあったのではないでしょうか。というのも、「総合的方法は分析的方法におとらず哲学には適しないものである。というのは、哲学は何よりも先にその対象が必然性を持っていることを証明しなければならないからである」(二二九節補遺)と述べて、概念の必然性に規定されれば、これらの方法も哲学に適したものになるとの含みをもたせているからです。
ヘーゲルは「b 認識」の総論では、概念にまでいたる認識、概念から出発する意志を論じながら、「イ 認識」において与えられた客観世界の枠内にとどまる有限な認識にとどめているのは、論理の展開からして疑問があり、ヘーゲルの隠れ蓑とも思われる記述といえます。
認識から意志へ
「 有限な認識が証明のうちで作り出す必然性は、最初は単に主観的知識のために作り出される外的必然性である。しかし必然性そのもののうちで、有限な認識はその前提および出発点、すなわちその内容が目前に見出されまた与えられているという事態を越えてしまったのである。必然性そのものは即自的には自己関係的な概念である。主観的理念はかくして即自的に、絶対的に規定されたもの、与えられたものではないもの、したがって主体に内在するものに到達したのであり、これによって意志の理念へ移っていく」(二三二節)。
定理とは、異なった二つの諸規定間の必然性を証明するものです。必然性とは、「自己のうちでの絶対的な相関」(一五〇節)であり、「その実概念そのもの」(一四七節)です。したがって定理をつうじて「有限な認識はその前提および出発点」を越えて、「自己関係的な概念」に到達したというのです。
概念(真にあるべき姿)は、人間の「主体に内在するもの」であり、「絶対的に規定されたもの」、あらかじめ「与えられたものではないもの」であり、こうして認識は、主観的概念から出発する「意志の理念へ移っていく」のです。
もしも「認識」において概念にいたる認識まで述べていれば、小細工ともみえるこうした「意志」への移行の論理も必要なかったのではないかと思われるところです。
三、「ロ 意志」
「即自かつ対自的に規定されたものであり、かつ自己同一で単純な内容である主観的理念は、善である。この主観的理念が自己を実現しようとする衝動は、真の理念とは反対に、見出された世界を自己の目的にしたがって規定することに向っている。 ── こうした意志は、一方では、前提された客観が空無であるという確信を持っているが、他方、それは有限なものであるから、それは主観的にすぎない理念としての善の目的および客観の独立性を前提している」(二三三節)。
「真にあるべき姿」としての概念をとらえた認識(主観的理念)が、「善」です。
ヘーゲルは『法の哲学』においても、「善」を重要なカテゴリーとして多用しています。そこでは、「善は、意志の概念と特殊的な意志の一体性として、理念である」(前掲書一二九節)とされると同時に「善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的である」(同)とされています。これまで何度もお話ししてきた理想と現実の統一とは、善の実現であり、これこそ「哲学の最高の究極目的」(六節)となるのです。「真にあるべき姿」の認識は、人間の精神の自由な働きによって客観世界を越えて生みだされたものであると同時に、世界がそこに向って変革されるべき「絶対的な究極目的」なのです。「即自かつ対自的に規定されたもの」というのは、絶対的真理として規定された認識という意味でしょう。
この「善」をかかげて「自己を実現しようとする衝動」が「意志」です。意志は「主観的理念と客観的理念の統一」という「真の理念」と異なり、一面的な「主観的にすぎない理念」として、「見出された世界を自己の目的にしたがって規定することに向っている」のです。人間が善をかかげて実践することにより、概念はエネルゲイアとしてのイデアとなり、人間はより善く生きることになるのです。
つまり「意志」とは、客観世界を変革しようとする意志であって、出発点においては、まだ「善の目的」と「客観の独立性」とは対立したままであり、その同一性はまだ定立されるにいたっていません。
「この活動の有限性は、だから、善の目的が客観的世界のそれ自身矛盾している諸規定のうちで実現されると同時に実現されないという矛盾」(二三四節)のうちにあります。善は、客観世界のうちに一度実現されたらそれで終わりというものではなく、実現された客観のなかからまた新しい善が生まれてくるという矛盾であり、「世界の絶対的な究極目的」に接近することはできても、その究極目的を達成して目的がなくなるということはありえません。
「この矛盾は善の実現の無限進行としてあらわれ、善はそのうちでゾレンとして固定されているにすぎない」(同)。
善の実現は、現にある客観と真にあるべき客観との矛盾を消滅させると同時に、再び新たな矛盾を定立するという「無限進行」を生みだすのであり、「善の目的」は「かくあるべし」(ゾレン)として永遠にその輝きを失わないのです。これが「概念の無限の真理」(二二六節)といわれるものの実体です。
このあとに素晴らしく含蓄に富むヘーゲルの変革の立場が紹介されています。
「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする」(二三四節補遺)。
この箇所を理解するには、二一二節補遺を想起することが必要ですので、もう一度紹介しておきましょう。
「善、絶対の善は世界において永遠に自己を実現しつつあるのであり、したがってそれはすでに即自かつ対自的に達成されていて、われわれを待つ必要はないのである」(二一二節補遺)。
いわば世界はその内的法則性のもとに自己運動を続け、その「真にあるべき姿」に向かって「永遠に自己を実現しつつある」から、人間の「意志」を待つ必要はないというのです。
しかし、ヘーゲルの偉大なところは、その先にあります。すなわち、人間は、そういう法則的に発展している客観世界は、「真にあるべき姿」ではないと「錯覚」(同)して、善を目的にかかげ、客観世界を実践を媒介として合法則的に発展させようとするのです。「真理はただこうした誤謬からのみあらわれ出る」(同)。
つまり、客観世界は、それ自体のもつ内的法則によってその「真にあるべき姿」に向かって発展してはいるのですが、善を目的にかかげた人間の実践は、客観世界をその法則にそって合法則的に発展させるという点において意義をもっているというのです。「真理は必ず勝利する」のであり、善をかかげた実践は、その土台石を積み重ねる意義をもっているのです。
マルクスは、『資本論』が資本主義の運動法則を暴露することを目的としていることを明らかにしつつ、この法則を暴露しても「その社会は、自然的な発展諸段階を跳び越えることも、それらを法令で取りのぞくことも、できない。しかし、その社会は、生みの苦しみを短くし、やわらげることはできる」(『資本論』①一二ページ/一六ページ)と述べています。
客観世界の内在的発展法則と人間の実践との関係について、ヘーゲルとマルクスの見解は基本的に一致しているということができるでしょう。
二一二節補遺を受けて、ヘーゲルは、「意志は、目的が自分自身のものであることを知り、知性は世界が現実的な概念であることを知る。これが理性的認識の真の態度である」(二三四節補遺)といっているのです。
では、知性と意志とは矛盾しないのでしょうか。というのも知性は現状をそのまま肯定するものであり、意志は現状を否定するものだからです。ここでもヘーゲルは見事な対立物の統一を実現してみせます。
「世界の究極目的が不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識するとき、満足を知らぬ努力というものはなくなってしまう。一般的に言ってこれが大人の立場である」(同)。
ここには、二つの重要な意味が含まれています。一つは善(概念)を目的に掲げた運動は、キーネーシスではなくエネルゲイアだという意味です。キーネーシスは、目的に到達しないかぎり意味のない運動ですから、ひたすらいかに早く目的に到達するかという効率主義が追い求められると同時に、目的に到達しなければその運動は無意味なものとなってしまいます。これに対し善を掲げての運動は、エネルゲイアとしての運動であり、それ自体人間らしく生きる、価値ある生き方ですから、運動自体が目的となるのであり、その運動のすべての過程が、価値ある人間本来の生き方として満足すべきものなのです。もう一つは、善を掲げた運動は、たとえその努力がその場では効を奏さず、善が実現されなかったようにみえても、客観世界の合法則的発展の土台石を築くものとして、大きくみると客観世界の大河の流れのなかに実現されているとして満足すべきものなのです。
これに対して、一方で、「若い者は、世界は全く害悪にみちていて、根こそぎ改革されねばならぬと思っている」(同)。つまり根こそぎ改革されないかぎり、改革の努力は無駄な努力だと考えている。他方で「宗教的意識はこれに反して、世界は神の摂理に支配されており、したがってそのあるべき姿に一致していると考える」(同)。
若い者の考えも、宗教者の現状肯定もどちらも誤りだというのです。
「しかしこうしたあるとあるべしとの一致は、硬化した、過程のないものではない。なぜなら、世界の究極目的である善は、常に自己を産出することによってのみ存在するからであり、精神の世界と自然の世界とのあいだには、後者は不断に循環しているにすぎないが、前者はそれのみならずまた発展するという相違があるからである」(同)。
客観的世界は、それ自身のもつ内的法則性のもとで、自ら善を実現しつつあります。他方、人間のかかげる理想は、この善の実現を促進するものとして高く掲げられ、意志によって「実現されると同時に実現されないという矛盾」(二三四節)のなかで、永遠に理想として輝き続けるのです。その意味で、「あるとあるべしとの一致」は、永遠の過程となるのです。
ここには、客観世界の自己発展する悠久の流れに身をゆだねながらも、そのなかで理想と現実の統一を追求し続ける人間の精神活動の意義が、より善く生きることと結合してしっかりととらえられています。
「善が即自かつ対自的に達成されているということ、したがって客観的世界は即自かつ対自的に理念であると同時に、たえず自己を目的として定立し、活動によって自己の現実を生み出すということ、このことによって善の真理は理論的理念と実践的理念との統一として定立されている。 ── このように、認識の差別と有限性とから自己へ復帰し、そして概念の活動によって概念と同一となった生命が、思弁的あるいは絶対的理念である」(二三五節)。
善が実現されるということは、「理論的理念と実践的理念との統一」であり、これが絶対的理念です。
こうして、「b 認識」から「c 絶対的理念」に移行するのです。
四、「c 絶対的理念」
絶対的理念とは何か
エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』(全集㉑)において、ヘーゲル哲学の観念論の根拠を、この絶対的理念に求めています。すなわち、「ヘーゲルでは、自然および歴史のなかに現われる弁証法的発展……は、永遠の昔から ── どこでかはわからないが ── ともかくどの思考する人間の頭脳とも独立に進行している、概念の自己運動のつまらぬ模写にすぎないのである」(同二九七ページ/『フォイエルバッハ論』七〇~七一ページ)。
果たしてこのように評価しうるのか、この悪名高き絶対的理念を検証してみることにしましょう。
「主観的理念と客観的理念との統一としての理念は、理念の概念であって、それにとっては理念そのものが対象であり、客観は理念である。すなわち、それはあらゆる規定を包括している客観である。したがってこの統一は、絶対的な且あらゆる真理、自分自身を思惟する理念であって、しかも論理学のうちでは思惟的な、すなわち論理的理念としてそうである」(二三六節)。
もともと理念は「概念と客観性との絶対的な統一」(二一三節)として、「より深い意味の真理」(同補遺)でしたが、「絶対的理念」は「理念の概念」としての絶対的真理なのです。「b 認識」において、理念を主観的理念と客観的理念に区別しましたが、その相互媒介のなかで両者が統一した、主客統一としての絶対的真理が絶対的理念です。いわば、真にあるべき姿という主観的理念がそのまま客観的理念となり、客観がその有限性を乗り越えて真理態となったものが絶対的理念なのです。
「絶対的理念は、まず理論的理念と実践的理念との統一であり、したがって同時に生命の理念と認識の理念との統一である」(二三六補遺)。
先に、「理念のうちには悟性の相関のすべてが、無限の自己復帰と自己同一とにおいてではあるが、含まれているからである」(二一四節)ということを学びました。いわば、「悟性の相関」の弁証法的統一として、「理念は真理」(二一三節)だったのですが、絶対的理念は、アリストテレスのいう「思惟の思惟」(二三六節補遺)、言いかえれば「理念の理念」という最高の理念として、あらゆる「主観的理念と客観的理念」(二三六節)、「理論的理念と実践的理念」(同補遺)、「生命の理念と認識の理念」(同)の弁証法的統一としての絶対的真理なのです。
「絶対的理念のうちでは移行もなければ前提もなく、一般にあらゆる規定性が流動的で透明であるから、絶対的理念は対自的に、その内容を自己そのものとして直観するところの概念の純粋な形式である。この純粋な形式はそれ自身内容である」(二三七節)。
絶対的理念は、主観と客観の統一としての絶対的真理ですから、これまで論理学で考察してきたすべてのカテゴリーが、「流動的で透明」なものとしてそのなかに包摂されることになります。すべてのカテゴリーをとおして、絶対的真理として浮かびあがってくるものは何かといえば、それは、真理には真理としての「純粋な形式」があるという内容なのです。
「というのは、それは自分自身を自己から観念的に区別するものであり、区別されたものの一方は自己同一的なものではあるが、しかもこの自己同一のうちには、形式の統体性が内容諸規定の体系として含まれているからである。この内容が論理の体系である。ここで形式として理念に残るものは、ただこの内容の方法、すなわち理念の諸モメントの価値にかんする明確な知識にすぎない」(同)。
いまや「概念の純粋な形式」としての絶対的理念において、なお考察すべきものとして残されているのは、「ただこの内容の方法」、つまり弁証法的方法そのものです。この弁証法という真理の「純粋な形式」が萌芽からの発展として「論理の体系」、つまりヘーゲル論理学の体系をつくりあげているのです。
この弁証法という思惟形式は、「理念の諸モメントの価値」、つまり理念の諸モメントとしての論理学の諸カテゴリーは弁証法的発展形態をもつことによって価値をもっているということを明確にするものなのです。
「絶対的理念の内容も、これまでわれわれが考察してきた全領域にほかならない。最後にくるものは、展開の全体が内容および関心をなしているという洞察である。 ── さらに、それだけ取ればかぎられたものと思われるすべてのものは、それが全体に属し理念のモメントであることによってその価値を得るというのが哲学的見地である」(二三七節補遺)。
こうして、論理学の有論、本質論、概念論の諸カテゴリーを貫く論理の展開が、絶対的理念の弁証法の形式であることが明らかにされることになるのです。
弁証法については、すでに予備概念の「論理学のより立ち入った概念と区分」(七九節~八三節)で、その三つの側面について学んできました。しかし、それはいわば「先廻り的」(七九節)記述として述べられたものでした。これに対し、絶対的理念においては、有論、本質論、概念論の論理の総括として、真理認識の形式である弁証法の三つのモメントが展開されるのです。
弁証法的方法
「思弁的方法の諸モメントはまず、a、有あるいは直接的なものである端初である。これは端初であるという単純な理由によって自立的である。しかし思弁的理念からみれば、概念の絶対的否定性あるいは運動として自己分割し、そして自己を自分自身の否定的なものとして定立するものは、思弁的理念の自己規定である。したがって、端初そのものにとっては抽象的な肯定とみえる有は、むしろ否定であり、措定されたものであり、媒介されたものであり、前提されたものである。しかし有は概念の否定であって、概念は、その他者のうちにありながらも、あくまで自己同一で自分自身を失わないものであるから、有はまだ概念として定立されていない概念、すなわち即自的な概念である。 ── だからこの有は、まだ規定されぬ、言いかえれば即自的あるいは直接的にのみ規定された概念として、普遍的なものでもある」(二三八節)。
ここでは、端初になるのは有論の有であり、有論は「即自的な概念」であることが明らかにされています。
端初は、真理認識の出発点となるものとして、「直接的なもの」であると同時に「自立的」なものです。端初は、まず悟性的思惟により、「固定した規定性」(八〇節)としてとらえることにより端初となるのです。というのも、「まず認識について言えば、認識は現存するさまざまな対象を特定の区別において把握することからはじまる」(同補遺)からです。
しかし、真理を認識するには、この固定した端初を動揺させなければなりません。それをヘーゲルは、「運動として自己分割し、そして自己を自分自身の否定的なものとして定立する」といっているのです。いわば、「現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解」(『資本論』①二九ページ/二八ページ)を見いだすのです。
端初となるものは、「直接的なもの」でありさえすればよいのかといえばそうではありません。それが展開して真理となるためには、「まだ概念として定立されていない概念」、「即自的な概念」が、分析的方法によってとらえられなくてはなりません。分析によってとらえられた端初は、総合的方法によって自己展開していくことになるのです。その意味で、「その端初は総合的であるとともに分析的」(二三八節)なのです。
こうしてヘーゲル論理学では有論を端初とし、マルクスの『資本論』は「商品」を端初としているのです。哲学的端初が有論の「有」とされたのは、客観的事物を分析して「純粋な思想」(八六節)は何かをつきとめるとともに、総合的方法により、「無規定で単純な直接態」(同)としての純粋な思想とは何かを探究した結果であり、マルクスも経済的諸現象を分析して、もっとも根本的要素が「商品」であることをつきとめると同時に、総合的方法によって資本主義的生産様式は、「商品の巨大な集まり」(『資本論』①五九ページ/四九ページ)から成ることを認識したからにほかなりません。
有論は端初として「即自的概念にかんする理論」(八三節)としてとらえられることになります。
「理念の第二のモメントはb、進展であって、これは理念の自己分割の定立されたものである。直接的な普遍は、即自的概念として、自分自身に即して自己の直接性と普遍性とを一モメントにひきさげる弁証法である。この弁証法によって、端初の否定あるいは規定された最初のものが定立される。それは相関的であり、区別されたものの関係であり、反省のモメントである」(二三九節)。
端初の進展したものが本質論であり、本質論は「概念の対自有と仮象にかんする理論」(八三節)であることがここに明らかにされます。
弁証法的方法の第二のモメントは、「直接的なもの」が対立する二つのものへの自己分割するという「進展」です。この「理念の自己分割」により、対立物の間で「反省」関係が定立されることになります。
この自己分析によって「端初は定立され媒介されたものであって、有的で直接的なものではないことが明かになってくる」(二三九節補遺)のです。
「進展の抽象的形式は、有においては他者と他者への移行であり、本質においては対立したものにおける反照であり、概念においては個と普遍の区別である(もっとも、普遍はその本性上、自己から区別されているもののうちへ自己を連続させ、区別されたものとの同一として存在している)」(二四〇節)。
端初である有論は進展して、自己の内部に対立する区別を生みだし、これによって、直接的なものは、媒介の定立された本質論としてとらえられることになります。
ヘーゲルは、この進展は、「即自的な概念」(二三八節)から生まれた区別であるから、その区別は概念の統体へ回帰しようとする区別としてとらえなければならないとしています。
すなわち、区別された二つのものの各々は、統一されたものから生まれた区別としての一面性をもっているため「自己を他者との統一」(二四一節)のうちにおくことによって、その一面性を揚棄し、最初の姿にもどろうとするのです。
「第二の領域は、区別されたものの関係を、その関係の最初の姿、関係そのものに即した矛盾 ── これは無限進行においてみられる ── にまで発展させる。この矛盾はc、異ったものが概念のうちにあるものとして定立される終結のうちへ解消される。終りは最初のものの否定であり、また最初のものとの同一として自分自身の否定である。したがって終りは、はじめの二つのものがそのうちで観念的なものおよびモメントとして、揚棄されたものとして、すなわち同時に保存されているものとして、存在しているところの統一である。このようにその即自有から出発して、区別と揚棄とを介して自己を自分自身と連結する概念が、実現された概念、詳しく言えば、その諸規定の被措定有をその向自有のうちに含んでいる概念であって、これがすなわち理念である」(二四二節)。
直接的なものである端初は、進展して区別を生みだし、区別は再び統一して、「終結のうちへ解消」されます。この終結により、外見上最初のものに復帰しますが、それはもはや最初の無媒介な直接的なものではなく、内に二つのものの区別を観念的モメントとして含んでいるような統一です。
これが概念論であり、概念論は、「即自かつ対自的概念にかんする理論」(八三節)としてとらえられるのです。
こうして、ヘーゲル論理学の構成も、端初(有論)、進展(本質論)、終結(概念論)という弁証法的思惟形式にもとづいていることによって真理を認識することができたのだというのです。さらに有論、本質論、概念論に分け入っても同様の弁証法的形式をみることができるのです。例えば、真理としての概念が絶対的真理としての理念にいたる道程も、統体としての概念が主観的概念と客観とに自己分割し、再び主観と客観の統一としての理念に回帰したという弁証法的形式として示されているのです。
こうして、理念は、出発点であると同時に終結点としてとらえられます。
「方法はかくして外的な形式ではなく、内容の魂であり概念である。……この規定性あるいは内容は、形式とともに理念へ復帰し、これによって理念は体系的な全体としてあらわれる。……かくして学は、理念を対象とする純粋な理念としての学自身の概念を把握することをもって完結する」(二四三節)。
こうして、ヘーゲル哲学は、理念から出発して理念に帰る「絶対的観念論」=「絶対的理念論」として完成することになるのです。
この絶対的理念が、外にあらわれでたものが「自然哲学」となります。
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