『弁証法とは何か』より
あとがきにかえて
資本主義は二十世紀末から新自由主義と称して、人間の仮面を公然と投げすてた。今まさに人々の血と肉をむさぼり喰らう最中である。考えなくても、知らなくてもなんとか生きていけると思っていたが、それは間違っていた。ちょっとしたきっかけさえあれば、絶望はすぐ足下を津波のように襲う。
こんな時代(、いつだってこんな時代!)にどう生きるべきなのか。半ばあきらめ、焦る者に「一本のになろう」と呼びかける声が時間の地底から響く。
一九九四年春まだき、街なかの薬屋さんを会場に三十五名の労働者が集い、広島での「ヘーゲル『小論理学』」の集団学習が組織された。この現実を、人間的なまともなものにしたいという変革の精神が、ヘーゲルの「概念論」と遭遇したのだ。体系だった論理のの奥に予想もしなかった親しい顔がのぞく。日々、搾取と収奪にさらされヨレヨレになっていた何かが、高村さんの講座によって対象化されるやいなや、思惟する主体は一気に理性を取り戻す。このとき、弁証法は意識のなかに現実の全体像をらせ、その度合いに応じて絶望は消え失せる。 理想と現実の統一、その道筋を探究するヘーゲル。彼の弁証法は、たとえばレーニンの「哲学ノート」のように、時代が大きく生まれかわろうとするとき、いつも変革の立場から学びなおされてきた。そしてヘーゲル哲学の本質がその全貌をあらわすとき、学ぶものにとともに確かな指針をもたらしてきた。
一九九九年出版の『「小論理学」を読む』は、理性の輝きをはじめて知る機会となった。それから八年後の今回の『弁証法とは何か』では、社会の真にあるべき姿(概念)が変革の立場から本格的に展開され、ヘーゲル哲学の本質が「観念論の装いをもった唯物論」であると規定されることになった。学ぶ仲間も広島県内にとどまらず全国各地に広がった。著者である高村さんの「生涯一学徒」の情熱が軸となり、編集委員会での議論がくりかえされた。真理を求める方向にのみ私たちの自由がある。さまざまな意見の違いは、真理の高処へ到達するための足場とならねばならない。対立はそれが止揚され統一されるまでは苦しみを強い続けることだろう。私たちは一刻も早く全体性の視野を回復せねばと思う。
科学的社会主義の理論は、世界中の人々の地をうような日々の草の根の運動と結びついているが、まだまだ少数の力でしかない。本書が少数にとどまっているかのようにみえる草の根の声を、多数の理性のシンフォニーへ変える力となることを願っている。今はどんなにひ弱にみえる個人であっても、外に向かって働きかけることを止めないかぎり、その類的本質は常に深く、豊かな個性となって社会に現象する。今日、「国民が主人公」のスローガンはそのベクトルをもち、科学的社会主義はその主人公の生き方をも語ろうとしている。
二〇〇七年 八月 六日
編集委員会を代表して
平野 光子
● 編集委員
奥田文子・奥村司・権藤郁男・佐田雅美・竹森鈴子・中井勝治・中村秀夫・平野光子・平野百合子・山根岩男・吉崎明夫
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