『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より
第一講 『反デューリング論』を学ぶ意義
一、『反デューリング論』とは何か
『反デューリング論』の意義
今日から二十回かけてみなさんと一緒に、エンゲルス著『反デューリング論』(正式名称は『オイゲン・デューリング氏の科学の変革』)を学んでいくことにします。
テキストには国民文庫『反デューリング論』1・2を使います。このなかには『反デューリング論』の準備労作などや丁寧な注解、「解説にかえて」も収録されていますので、これらも適宜利用しながら進めていきたいと思います。
『反デューリング論』は科学的社会主義の古典のなかでも、もっとも著名な古典の一つです。というのも、科学的社会主義の主な構成部分とされている哲学、経済学、社会主義のすべてを含んでいる古典は、この著作以外にはないからです。古典中の古典であり、科学的社会主義の入門書とされている『空想から科学へ』は、「序説」第一章「総論」、「第三篇 社会主義」の第一章「歴史的概説」、第二章「理論的概説」を中心に編集されたものです。
本著は、エンゲルス自ら「われわれの見解の百科辞典的な概観をあたえる試み」(全集㊱一二三ページ)を実現したものと語っているところから、一般に「科学的社会主義の百科全書」と称されています。
それだけではありません。マルクス、エンゲルスの著作のうちで経済学の到達点を示すものとしては『資本論』がありますが、社会主義論、哲学については本著が最高の理論的到達点を示しています。マルクスは『資本論』をつうじて資本主義の生成、発展、消滅の必然的法則を解明するつもりだったのですが、結局時間的、肉体的制約から、社会主義・共産主義への移行の必然性と社会主義とは何かの問題について、『資本論』で十分に書ききることはできませんでした。ですからこの部分は『反デューリング論』の「第三篇 社会主義」の箇所で補って理解しなければならないのです。
何といっても本著の最大の魅力は、弁証法をいきいきと、しかも具体的に展開しているところにあります。エンゲルスはテキスト1をまるまる使って、弁証法とは何かを解明しようとし、そのうえにたって史的唯物論を展開しています。
『反デューリング論』は、一八七六年五月末から一八七八年七月まで、二年近くもの年月をかけて執筆されました。エンゲルスは「ほかの仕事を投げやりにして」(四ページ)この仕事に取り組んだといっていますが、その「ほかの仕事」というのは『自然の弁証法』(全集⑳三三七ページ以下)を指しています。『自然の弁証法』も科学的社会主義の重要な古典の一つであり、一九世紀中ごろの自然科学の最新の成果のうえにたって「自然過程の弁証法的性格」(一五ページ)をとらえようとしたものです。エンゲルスは、一八七三年五月から始めたこの作業を一時中断し、『反デューリング論』を完成させたうえで一八七八年ころから執筆を再開しました。一八八三年まで継続したものの、マルクスの死去によって再び中断し、以後は『資本論』第二部、第三部を完成させる仕事に没頭せざるをえなくなったため、結局『自然の弁証法』を完成させることはできませんでした。
この『自然の弁証法』のなかに、エンゲルスが本著執筆後の一八七九年ごろに書いた「弁証法」(全集⑳三七九ページ以下)と題する論考があります。そこでは弁証法の「三つの法則」が次のように定式化されています。
「量から質への転化、またその逆の転化の法則。対立物の相互浸透の法則。否定の否定の法則」(同)。
この三つの法則は、ヘーゲル「論理学」をつうじてエンゲルスが初めて定式化したものですが、この三法則も『反デューリング論』をつうじて獲得されたものということができるでしょう。
この三法則は、弁証法の基本法則となる「対立物の統一」を展開したものですが、もちろん対立物の統一は「論理学」においてさらに詳しく展開されており、これのみに矮小化されるわけではありませんし、第一二講でお話しするように、この三法則にもいろいろ問題があるのです。
いずれにしても、「弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的かつ意識的な仕方で叙述した」(二三八ページ)ヘーゲルの「論理学」から学んだ弁証法を、エンゲルスが『自然の弁証法』の研究成果と結合して縦横に語っているのは、本著の大きな魅力の一つとなっています。
「いまや自然科学は、もうこれ以上弁証法的な総括をまぬかれられないところまできている」(一七ページ)ことが、本著で見事に証明されているのです。
フランス革命の「第二幕」としての社会主義・共産主義思想
本著の初版は、一八七八年にだされていますが、その頃までの社会主義・共産主義思想の流れを歴史的にたどることによって本著の意義を明らかにしてみましょう。
ヨーロッパに共産主義思想が広まる契機となったのは、一七八九年に始まったフランス革命でした。
「一方の交戦者だった貴族が滅ぼされて他方の交戦者だったブルジョアジーが完全に勝利するまで、ほんとうにたたかいぬかれたという点でも、最初のものであった」(全集⑲五五七ページ)。
封建貴族とたたかったのは、サン・キュロット(貴族のはいている細く短いズボン〈キュロット〉をはいていない民衆)とよばれるパリの民衆とブルジョアジーでした。サン・キュロットは文字どおり革命の推進力となり、一七九三年にはロベスピエール率いるジャコバン独裁を実現させるに至ります。サン・シモンはジャコバン独裁が「無産大衆の支配」(四七〇ページ)であったという階級的本質をしっかり把握していました。
このジャコバン独裁の理論的な支柱になったのが、ルソーの『社会契約論』でした。ルソーは、人は生まれながらに自由・平等であり、これを実現するために封建貴族の支配を打ち倒して、人民が主人公となる人民主権の政治を唱えたのです。
ルソーの人民主権論を柱とする一七九三年のジャコバン憲法は、結局実施には至らなかったものの、「自由、平等、友愛」というフランス革命の理念を体現した史上もっとも民主主義的な憲法となっています。しかしギロチンによる恐怖政治がきっかけとなり、「テルミドールの反動」によってジャコバン独裁は打ち倒され、ここにブルジョアジーの権力が確立し、フランス革命の理念は挫折してしまいます。
この革命の理念を引き継いで、フランス革命を最後までたたかいぬこうとしたのが、サン・キュロットでした。その一人バブーフは、一七九六年、フランス革命の理念は共産主義にあったとして、一七九三年憲法を復活することよって私有財産制を廃止し、「労働と享受の平等」を掲げて蜂起しようとします。しかし、事前に察知され、弾圧されてしまいます。世にいう「バブーフの陰謀」です。
「バブーフの陰謀によって一時敗北した革命的運動は、共産主義理念を生みだした。この理念をバブーフの友人ブオナロッティが、一八三〇年革命ののち、ふたたびフランスにひきいれた」(全集②一二四ページ)のです。
他方イギリスでは、一八世紀後半から一九世紀はじめにかけて展開された産業革命によって、ブルジョアジーとともに労働者階級が本格的に形成されることになります。
一八三二年の選挙法改正で、ブルジョアジーによって選挙権から排除された労働者階級は、フランスの一七九三年憲法の影響を受け、一八三六年から四八年にかけて、六ヵ条の「人民憲章」の実現を求める大規模なチャーチスト運動を展開します。それは世界最初の労働者階級の独自の政治闘争となりました。フランス革命の影響もあって、単に男子普通選挙権を求めるにとどまらず、人民権力の実現をめざす革命的政治闘争の性格をも備え、その先進部分は共産主義思想をもつまでになっていました。
またフランスの隣国ドイツでは、静かな哲学革命が起きていました。カント、フィヒテ、シェリングからヘーゲルに至る「ドイツ古典哲学」は、いずれもフランス革命の洗礼を受け、その本質を哲学的にどう総括するのかを根本思想とするものでした。マルクスは、カント哲学を「フランス革命のドイツ的理論」(全集①九三ページ)とよびましたが、その呼び名にもっともふさわしいのはカントよりもむしろヘーゲルでした。ヘーゲルは理想と現実の統一を唱える変革の立場から、ルソーの主張する人民主権の国家を唱えたのです(拙著『ヘーゲル「法の哲学」を読む』参照)。
こうして、ヨーロッパ全土へのフランス革命の影響のもとに、一八四〇年代になると全ヨーロッパに共産主義思想が広がり、一八四八年、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』が、次の有名な文章をひっさげて登場してくることになります。
「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている――共産主義の妖怪が」(全集④四七五ページ)。
いわば、ヨーロッパの社会主義・共産主義思想は、挫折したフランス革命の「自由・平等・友愛」を徹底的に押しすすめ、発展させようとして生まれた思想だったのです。
エンゲルスは、フランス革命を革命の第一幕だとすると、「今日のヨーロッパの社会運動全体は革命の第二幕にすぎず、一七八九年にパリにはじまっていまでは全ヨーロッパをその舞台にしている劇の大団円の準備にすぎない」(全集②六三九ページ)といっています。いわば、社会主義・共産主義をめざす運動はフランス革命の「第二幕」だというのです。
ルソーの思想に導かれたフランス革命を契機として、フランスでは政治的に、イギリスでは経済的に、ドイツでは哲学的に、社会主義・共産主義の思想に到達することになりました。
このようにその起原を異にする社会主義・共産主義思想は、当然にも様々の色合いをもつ雑然としたものでしかありませんでした。そのなかにあってマルクス、エンゲルスの創始した科学的社会主義の学説は、その科学性と真理性により次第に支配的なものとなっていきます。とりわけマルクス、エンゲルスの指導のもとに労働者階級の最初の国際的な大衆的革命組織として一八六四年に結成された国際労働者協会(第一次インターナショナル)は、各種の非プロレタリア的社会主義(プルードン派、ラサール派、バクーニン派、イギリスの組合主義)の影響下にあった労働者を思想的、組織的に統一し、各国に科学的社会主義を広めるうえで大きな役割を果たすことになりました。協会は、世界最初の労働者階級の政府パリ・コミューン(一八七一年)のたたかいを支持しました。
一八六七年には、マルクスの『資本論』第一部が出版され、科学的社会主義の学説を不動のものにしました。
ドイツ社会主義労働者党の結成とデューリングの登場
フランス革命からパリ・コミューンに至るまで、ヨーロッパの革命運動の中心はフランスにありました。
協会の影響が十分でなく、かつ科学的社会主義の政党をもたなかったために、パリ・コミューンはわずか七十数日で反革命勢力に打ち倒され、フランス人民は徹底した弾圧を受けることになります。革命勢力は、処刑されるかヨーロッパ各国に亡命することになりました。
こうしてパリ・コミューン没落後、ヨーロッパの革命運動の中心地は、フランスからドイツに移行します。
ドイツには、賃金鉄則を唱えて賃上げ闘争を否定し、生産協同組合による階級調和の社会主義を唱える全ドイツ労働者総同盟(ラサール派)が存在していました。これに対し一八六九年、べーベル、リープクネヒトを中心にドイツ社会民主労働者党(アイゼナッハ派)が結成されます。
アイゼナッハ派はマルクス、エンゲルスの指導を受け、科学的社会主義を指導原理に掲げると同時に、国際労働者協会へも加盟していました。
この両派が合同して、一八七五年ドイツ社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)が結成されます。この合同大会で採択した綱領が「ゴータ綱領」です。
このゴータ綱領はラサール派の日和見主義的見解を取り入れ、労働者階級の権力の確立を否定するものだったところから、マルクスの「ゴータ綱領批判」(全集⑲)によって批判を受けることになります。
この頃、この結成されたばかりのドイツ社会主義労働者党内で、オイゲン・デューリングというベルリン大学私講師が、『哲学教程』『国民=社会経済学教程』『国民経済学および社会主義の批判的歴史』という大部の体系的著作をひっさげて登場してきます。
彼は哲学、経済学、社会主義のすべてにわたってマルクスを激しく攻撃し、今からみればおよそ的はずれな日和見主義的見解をそれに対置しました。それがなぜか当時の指導部のなかにも無視できない影響を及ぼし始めたのです。
党内に日和見主義的見解が広がり、混乱をもたらすことをおそれたリープクネヒトは、一八七五年四月エンゲルス宛に「あなたは、デューリングをたたきのめすことに踏みきらなければいけない」(テキスト1注解)と書き送ります。
エンゲルスは『自然の弁証法』の執筆中でもあり、こんなエセ社会主義の理論はいずれ党内で自然淘汰されると思っていたのか、「ほかの仕事を投げやりにして、このすっぱいリンゴをかじる決心をつけるまでには、一年もかかった」(四ページ)のでした。
しかし予想に反してデューリングの影響力が広まったところから、マルクスと相談してこれ以上混乱の広がることを避けるために、エンゲルスは重い腰をあげて『反デューリング論』の執筆にかかりました。
デューリングの著作が哲学、経済学、社会主義という体系をとっていましたので、本著もそれに対応して、第一篇「哲学」、第二篇「経済学」、第三篇「社会主義」という構成になっています。
レーニンは、「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」(レーニン全集⑲三ページ)において、「マルクス主義」、つまり現在の科学的社会主義の構成部分をこの三つとしてとらえています。しかし、本著の三つの構成部分は、単にデューリングの体系に呼応したものにすぎず、エンゲルスもそれをもって科学的社会主義の全体系としたわけではありません。科学的社会主義の学説は、レーニンも認めているように「全一的な世界観」(同)であり、世界(自然、社会、人間)のすべての問題の真理をとらえうる理論ですから、三つの構成部分に限定してとらえる必要はないでしょう。
先にも述べたように、科学的社会主義の学説はルソーに始まりバブーフ、ブオナロッティにいたるフランス共産主義をも源泉の一つにしています。その理論的支柱となったのは人民主権論と、自由・民主主義論です。こういうテーマを含む政治学または国家学も、当然、科学的社会主義の学説の基本的構成部分といわなければなりません。
マルクス、エンゲルスの共同著作
『反デューリング論』は形式的にはエンゲルスの著作とされていますが、実質的にはマルクスとエンゲルスの共同著作といってもよいものです。
マルクスとエンゲルスとは、一八四四年に科学的社会主義の世界観について基本的に見解の一致を確認しあい、それ以来生涯にわたる共同作業を続けることになります。一八七〇年代において、マルクスは『資本論』の完成に全力をあげる、エンゲルスは細々した執筆や論争にかかわる問題を担当する、というように、二人の間では合意にもとづく任務分担が行われていました。
「マルクスと私とのあいだになりたっていた分業によって、マルクスから彼の偉大な主著を完成する時間を奪わないために、定期刊行物の紙上で、したがってとりわけ敵対的な見解とたたかって、われわれの見解を主張することが、私の役目であった。その結果、私は、おもに論戦の形式で、他のいろいろな考え方と対立させて、われわれの考え方を述べる立場におかれた」(全集⑱六六三ページ)。
マルクスにとっても、『反デューリング論』は科学的社会主義の学説を本格的かつ体系的に展開する初めての著作ですから、けっして傍観者でいることはできなかったのです。
「この書物で展開されている考え方は、大部分マルクスによって基礎づけられ発展させられたものであって、私のあずかるところはごくわずかな部分にすぎないのであるから、私が彼に黙ってこういう叙述をしないということは、われわれのあいだでは自明のことであった。私は印刷するまえに原稿を全部彼に読みきかせたし、また経済学篇の第一〇章(「『批判的歴史』から」)はマルクスが書いたものであって、私はただ形式上の理由から、残念ではあったが、やむなくそれをいくらかちぢめただけである。専門の分野でおたがいに助けあうということが、まさにまえからのわれわれのならわしであった」(九~一〇ページ)。
「私のあずかるところはごくわずかな部分」というのは、エンゲルスの謙遜にすぎないというべきものでしょう。しかし、第三版の序文のなかで、エンゲルスが自己の判断でちぢめた「『批判的歴史』から」の部分について、「できるだけ完全に、またことばどおりに採録する」(一九ページ)目的からあえて追補をしているところにも、エンゲルスのマルクスに対する敬意とマルクスの協力なしに本著は存在しえなかったことが示されています。
このように本著を二人の事実上の共同著作としてとらえることは、本著の内容に関して二人の意見の相違は基本的には存在しないことを意味しています。本著の重要な内容となっている自由と必然の問題や、資本主義の基本矛盾について、マルクスとエンゲルスとの間に見解の相違があるという意見もありますので、この点は重要なところだと思います。
二、『反デューリング論』をどう読むか
論争の書として読む
本著は、何よりも「論争の書」(一〇ページ)です。エンゲルスは、デューリングの文章の主な箇所を引用しながら、これに対して根底的な批判を行うことをつうじて、科学的社会主義の体系という「もう一つ別の体系を対置」(五ページ)していったのです。
エンゲルスの批判の仕方は、Aに対して非Aを対置するというような、単なる否定による批判ではありません。「そこから発展が生まれてくるような、それ独特の否定の仕方」(二一九ページ)であり、いわゆる弁証法的止揚としての批判です。「止揚」とは、保存しつつ廃棄することを意味しています。積極的なものを保持しつつ、否定的なものを廃棄するのです。ですからデューリングへの批判をつうじて、そこから科学的社会主義の体系的学説という「発展が生まれてくる」ことになったのです。
ヘーゲルは「或る哲学を反駁するとは、その哲学の制限を踏み越えて、その哲学の特殊の原理を観念的な契機へひきさげることを意味するにすぎない」(『小論理学』八六節補遺二)といっています。エンゲルスはこの見地からデューリングを批判し、その批判をつうじて科学的社会主義という普遍性の高みに到達し、その立場から、デューリングの見解をその普遍に包摂される一つの「特殊の原理」にひきさげてしまったのです。この批判の仕方は、止揚の契機としての批判という論争の典型として学ぶ必要があると思います。
したがって、どうしても読み解くことができないのであれば、デューリングの引用文をとばして読むのもやむをえませんが、デューリングの主張することを読み解いたうえでエンゲルスの主張を読むならば、その言わんとするところの理解はさらに深まることでしょう。
現代の到達点にたって科学的社会主義を学び考える
レーニンが『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』を著したのは、その源泉へとさかのぼることによって、科学的社会主義とは何かを解明したかったからだろうと思われます。私たち広島県労働者学習協議会は、一九八九年に組織的に再建されました。この年に中国で天安門事件が起き、ベルリンの壁の崩壊、東欧・ソ連の崩壊と続きました。そこから「社会主義終焉論」の大合唱が広がり、科学的社会主義の学説は時代遅れになったと決めつける議論が百出しました。一方では、社会主義とは自由と民主主義を認めない一党独裁の体制であるとの批判がありました。また他方で、資本主義から社会主義への移行の必然性を説く史的唯物論は、「社会主義」のソ連・東欧が資本主義に逆戻りすることによって間違っていることが証明されたとの議論がありました。
私たちは、これらの批判が間違っていることを直感的に感じとりましたが、そのことを証明するためにはいくつもの疑問に正面から答える必要がありました。すなわち、そもそも社会主義とは何か、社会主義と自由、民主主義とはどういう関係にあるのか、ソ連や東欧は本来の「社会主義」とはいえないのではないか、またそうだとすれば、出発時には「社会主義」をめざしながら、なぜこれらの国々はその道から逸脱することになったのか、そこにはどんな理論的問題があったのか、等々の問題です。
こうした問題に答えるには、レーニンにならって、科学的社会主義の源泉にまでさかのぼって探究してみることが求められたのです。その結果が、『ヘーゲル「小論理学」を読む』『変革の哲学・弁証法』『人間解放の哲学』(以上、学習の友社)『科学的社会主義の源泉としてのルソー』『ヘーゲル「法の哲学」を読む』『「資本論」の弁証法』『弁証法とは何か』(以上、一粒の麦社)に結実することになりました。
私たちは一連の作業をつうじて、これらのすべての疑問に答えることができました。同時に科学的社会主義の学説をより発展した理論としてとらえることができるようになりましたし、科学的社会主義の学説に、より深い確信をいだくことができるようになりました。
また他面では、マルクス、エンゲルスの「ヘーゲル弁証法は観念論的に逆立ちしている」との指摘には疑問を感じており、最新刊の拙著『弁証法とは何か――「小論理学」に学ぶ"理想と現実の統一"』では、ヘーゲル哲学の本質を「観念論的装いをもった唯物論」と規定するに至りました。なぜこういう結論に至ったのかについては、追々お話ししていくことにします。マルクス、エンゲルスといえども、けっして無誤謬の超人ではありえないのです。
『反デューリング論』が世に出て約百三十年、この間、科学的社会主義の学説も歴史の試練を受け、その試練をつうじて一層発展した理論になろうとしています。
二〇世紀のはじめには、資本主義という一つの体制が全世界を支配していました。しかし今では発達した資本主義国の人口は約九億人であるのに対し、社会主義国をめざす、中国、ベトナム、キューバの人口は十四億人にも達しており、さらに旧植民地だった諸国三十五億人のなかからも、中・南米をおおいつくすかのように左翼政権が誕生し、ベネズエラ、エクアドル、ボリビアなどでは公然と社会主義をめざしはじめています。
中国やベトナムでは、ソ連型の官僚主義的計画経済にとってかわる社会主義市場経済の道を探究しています。
発達した資本主義国にあっても、ドイツでは二〇〇七年六月、旧東独と西独の左翼が合同して新党「左翼」を結成し、「自由と社会主義」を目標にかかげ、一挙に三番目の政治勢力に躍り出ました。
日本共産党は二〇〇四年「国民が主人公」を掲げる新綱領を採択し、「アジアあるいは世界の中でもっとも成功している非政権党の共産党」(米「タイム」誌、二〇〇七年六月電子版)と評価されています。
他方、ソ連・東欧の崩壊で「資本主義は勝利した」と豪語したアメリカ帝国主義は、アフガニスタン、イラク戦争をつうじて国際的に孤立すると同時に、その新自由主義路線にもとづくマネー・ゲーム、ギャンブル資本主義によって、全世界的に二〇世紀とは比較にならないほどの規模と速度で富と貧困の対立を激化させ、その矛盾を深化させています。
これが「二一世紀型危機」といわれるものであり、中・南米でのあいつぐ左翼政権も新自由主義反対を共通のスローガンにして誕生したものです。
こうして二一世紀は、まさに二〇世紀とはひと味もふた味も違う形で、資本主義から社会主義への移行が問われる世紀になろうとしています。それだけに科学的社会主義の体系を学ぶことの意義は、むしろ現代においてより高まっているということができます。
したがって、私たちは『反デューリング論』で展開された科学的社会主義の学説を、百三十年の歴史の審判をふまえ、現代の到達点にたって学び、考えていきたいと思います。本著のなかには、歴史的意味はあっても今日ではそれを論ずる意義を失っているテーマもありますし、逆に当時としてはあまり光があてられなかったけれども今日では重要な意味をもつに至ったテーマもあります。その意味で、私たちはマルクス、エンゲルスの思想にも個人的、歴史的制約があることを前提として、教条的に学ぶのではなく「真理のまえにのみ頭を垂れる」の精神で、かつ全体として"高村流"に強弱のアクセントをつけながら学んでいきたいと思います。
みなさんと一緒に、全世界における社会主義をめざす運動にも注目しながら、本著をつうじて「資本主義の没落と社会主義への移行の必然性」を学び、かつ「真にあるべき社会主義とは何か」を考えていきたいと思います。
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