『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より
第二講 序説① 科学的社会主義の源泉
科学的社会主義の源泉
今日から「序説」に入ります。第一章「総論」は『空想から科学へ』でも使用されている箇所であり、科学的社会主義の源泉とは何かを考えるうえで重要な意義をもっているところです。
「科学的社会主義の源泉」という場合の「源泉」は、特別な意味をもっていますが、マルクスやエンゲルスがこの言葉を使っているわけではありません。
例えばエンゲルスは『空想から科学へ』の「ドイツ語初版(一八八二年)への序文」では、「科学的社会主義の発生にとってドイツの弁証法がなくてはならないものであったと同様に、このためにはイギリスとフランスの発展した経済的ならびに政治的諸関係もなくてはならないものであった」(全集⑲一八五ページ)と述べるにとどまっています。
「源泉」という言葉は、第一講でもお話ししたレーニンの「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」(レーニン全集⑲三ページ)に由来しています。レーニンは、源泉となる理論とは、その発展したものが科学的社会主義の学説の重要な構成部分となるような理論であるととらえ、「三つの源泉と三つの構成部分」との関係をこの論文で明らかにしたのです。
それは、ドイツ古典哲学とりわけヘーゲル哲学を源泉として弁証法的唯物論と史的唯物論の哲学が生まれ、スミス、リカードのイギリス古典経済学を源泉として剰余価値学説が、フランス社会主義を源泉として科学的社会主義と階級闘争の理論が、それぞれ生まれたというものです。
ここでもっとも問題となるのは、源泉としての「フランス社会主義」です。レーニンはここに空想的社会主義とフランスの階級闘争を盛りこんでいるのですが、果たしてそれでいいのでしょうか。
こうした問題意識をもちながら、「総論」をみることにしましょう。
近代の社会主義の誕生
「近代の社会主義は、その内容からいえば、なによりもまず、一方では、近代社会に広くおこなわれている有産者と無産者、賃金労働者とブルジョアの階級対立を、他方では、生産のうちに支配している無政府状態をまのあたりに見た結果として生まれたものである。しかし、その理論上の形式からすれば、それは、はじめは、一八世紀の偉大なフランスの啓蒙思想家たちの打ちたてた諸原則を受けつぎながらさらに押しすすめ、表むきはいっそう徹底させたものとして現われる」(二一ページ)。
前半部分は、イギリスのチャーチスト運動やフランスのパリ・コミューンを含む階級闘争と、一八二五年に始まってからほぼ十年おきに繰り返されたイギリスの恐慌を意味していることに間違いないでしょう。
問題は、後半の「理論上の形式」の部分です。「一八世紀の偉大なフランスの啓蒙思想家たち」というのは、ディドロ、ダランベール、ルソーなどでしょう。彼らの「打ちたてた諸原則」とは、フランス革命のスローガンともなった「自由、平等、友愛」ということができます。
ではその諸原則を「受けつぎながらさらに押しすすめ、表むきはいっそう徹底させたもの」とは何を意味しているのでしょうか。
エンゲルスの一八四三年の論文に「大陸における社会改革の進展」(全集①)と題するものがあります。
このなかで、イギリス人は経済的に、フランス人は政治的に、ドイツ人は哲学的に共産主義者となったと述べているのですが、「フランス人は、はじめに政治的な自由と平等をもとめ、そしてこれが不十分であることを知ると、彼らの政治的要求に社会的自由および社会的平等をつけくわえるというようにして政治的にこの結論にたっし」(同①五二三ページ)たと語っています。共産主義は「政治的な自由と平等」とを「社会的自由および社会的平等」に発展させたものだというのです。
エンゲルスはこの「政治的な自由と平等」の発展についてさらに筆をすすめて、「フランス革命は、ヨーロッパにおける民主主義の根源」(同五二四ページ)であったが、民主主義は偽善にすぎず、「政治的自由はえせの自由であり、可能な最悪の奴隷状態」(同)であるとし、「政治的平等も同じ」(同)だと批判しています。
偽善のなかに隠されている矛盾は、あらわれずにはいません。
「われわれは、本来の奴隷制すなわちむきだしの専制をもつか、ほんとうの自由およびほんとうの平等、すなわち共産主義をもつかの、いずれかになるにちがいない。これらの帰結は二つともフランス革命においてもたらされた。ナポレオンは第一のものを、バブーフは第二のものを、うちたてたのである」(同)。
フランス革命によってうち立てられたブルジョア民主主義は、自由といいながらも資本主義的搾取と抑圧の自由による「最悪の奴隷状態」にすぎず、平等といっても政治的にのみ平等であって社会的・経済的平等ではありませんでした。これをさらに押しすすめ、私的所有の廃止による搾取の根絶と社会的・経済的平等を実現する「ほんとうの自由およびほんとうの平等」をめざしたのがバブーフのフランス共産主義だったというのです。
このようにエンゲルスは、近代の社会主義思想は、自由と平等をいっそう徹底させたものとして登場してきたことをまず最初に明らかにしています。この点は、自由と民主主義を否定するところにまで転落したソ連や東欧が、社会主義とは無縁な存在だったと断じるうえでも重要なところだと思います。
それに続き、「近代の社会主義も、どれほど経済的事実のうちに根をもっていたにせよ、はじめは、ありあわせの思想材料から出発しなければならなかったのである」(二一ページ)と述べています。当時の社会主義思想の根本は、私的所有(まだ生産手段の私的所有の廃止という正確な規定には到達していない)の廃止による搾取の根絶にありましたが、それを正面にかかげるのではなく、自由・平等という「あり合わせの思想材料」を徹底させたものとして私的所有の廃止を実現しようとしたのです。
自由・平等の全面的発展として社会主義をとらえるというのは、フランスだけの経験ではなく日本でもまた同様であったことをここで指摘しておきたいと思います。
日本における自由民権運動の理論的指導者中江兆民は、ルソーの『社会契約論』を日本語訳で紹介(但し第四篇まであるうちの第一篇のみ)し、「東洋のルソー」と呼ばれました。その一番弟子が幸徳秋水です。秋水と共に「平民新聞」を刊行し、日本共産党の初代委員長となった堺利彦は、次のように記しています。
「日本に於けるルソーの思想的継承者は兆民先生である。兆民先生の思想的継承者は幸徳秋水である。……彼は先生の思想を発展させて、社会主義にまで到達させたのであった。然し其の発展は自然の道程であった。従って猶それを継承と目する事が出来る」(『中江兆民集』四一六ページ、筑摩書房)。
では、なぜルソーの自由民権思想から社会主義にいたる道が「自然の道程」なのかといえば、自由民権思想を「さらに押しすすめ、表むきはいっそう徹底させたもの」が社会主義であったところから、兆民門下から社会主義者が「続出した」(同四一七ページ)のであり、「秋水に至って、初めて兆民系統の、最も明白な、最も有力な社会主義者が現はれたのであった」(同)というのです。
日本における初期の科学的社会主義の理論を方向づけるものとして大きな役割を果たしたのが、「講座派」(一九三二年五月から三三年八月にかけて刊行された『日本資本主義発達史講座』の理論家集団)の人たちです。その重鎮の一人平野義太郎は、「自由民権運動とその発展」(新日本出版社)において、「未成品としてのこされた自由民権・民主主義を完成する任務」(同九七ページ)が日本における社会主義・共産主義思想だったととらえています。これは日本共産党の今日的到達点を考えるうえでも極めて重要な視点です。
「社会主義論」の源泉としてのルソーの「人民主権論」
近代社会主義思想の引き金ともなったフランス革命とは何だったのでしょうか。
それは、理性にもとづき「自由、平等、友愛」という「永遠の真理、永遠の正義」(二二ページ)を掲げてたたかわれた「世界が頭のうえに立った時代」(同)でした。
しかしその実体は、結局のところ封建貴族を打ち倒してブルジョアジーが権力を掌握した「ブルジョアジーの国」(同)、「ブルジョア的民主共和国」(同)の建設にすぎませんでした。
フランス革命を理論的に指導することになったのが、ルソーの『人間不平等起原論』(一七五五年)と『社会契約論』(一七六二年)でした。この二つの著作の間には七年間の月日が流れていますが、内容的には連続したものとなっており、前者が社会発展史、後者がそれを受けての未来社会論となっています。
『人間不平等起原論』の社会発展史はきわめて史的唯物論に近似したものになっています。まず古代社会は、私的所有の存在しない自由・平等の共同社会だととらえられています。生産力の発展による私有財産の誕生が階級対立と社会的不平等をもたらします。国家の成立はこの状態を固定化し、「若干の野心家の利益のために、以後全人類を労働と隷属と貧困に屈服させた」(前掲書一〇六ページ、岩波文庫)というのです。
これを受けて『社会契約論』では、人民の「社会契約」により、私有財産をすべて共同体のものとし、搾取を廃止します。人民は共同して「一般意志」を形成し、その指導下に自らを置きます。これにより治者と被治者の同一性が実現され、「人民の人民による人民のための政治」が打ち立てられるのです。これが人民主権とよばれるものです。「一般意志」とは人民の多数者の意志、つまり「全体意志」とは区別される、人民の真にあるべき意志です。全体意志が一般意志にまで高まらないかぎり、人民のための政治は実現されません。
ルソーがこの二つの著作を別個のものとして刊行したのは、一つに結びつけるとその革命性が明確になって弾圧を受けるので、それを回避するためではなかったかと思われます。それでも封建貴族は敏感にその革命性を感じとって『社会契約論』を焼きすて、ルソーに逮捕命令を出します。他方、パリの民衆はこれを革命の書と理解し、『社会契約論』を小脇にかかえて革命に立ちあがったのです。
ルソーの座右の銘は「真理のために命を捧げる」というものです。広島県労学協ではこれを参考に、「真理の前にのみ頭を垂れる」をスローガンにしています。
日本においてルソーを本格的かつ全面的に研究したのが、桑原武夫を先頭とする京大・人文科学研究所のグループであり、その共同研究の成果は、『ルソー研究』(岩波書店)にまとめられています。
このグループは科学的社会主義の立場に立つものではありませんでしたが、その結論は、ルソーの人民主権論を社会主義思想の先駆的理論としてとらえるというものでした。
例えば、恒藤武二はルソーが資本主義社会の階級対立を予感していることを指摘したうえで「ルソーの政治理論は初期ブルジョアジーの理論であると単純に割り切れぬものを含んでいる」(『ルソー研究』一二七ページ)と述べ、野田又夫はより端的に、「ルソーは、フランス革命の精神をもっともラディカルな形で代表するとともに、さらに一九世紀の社会主義者に先駆する者と見られ得るであろう」(同五九ページ)と語っています。
代表者の桑原武夫自身も、「主権在民、平等思想、社会主義」(同ページ)という近代の重要構成要素を「根本的に理解しようとして溯るとき、必ず逢着せずにすまされぬもの、それがジャン=ジャック・ルソーなのである」(同)と、婉曲にルソーと社会主義との関係を表現しています。
しかし、本家本元である科学的社会主義の陣営の側からは、ルソーを先駆的社会主義者ないしは、科学的社会主義の源泉としてとらえようとする試みがこれまでほとんどなされてこなかったようにみえるのは、むしろ奇異にすら思えます。
とりわけ日本共産党の新綱領のキーワードが「国民が主人公」にあることからすると、それをルソーの人民主権論と結合して理解する方が自然な理解ではないかと思われます(拙著『科学的社会主義の源泉としてのルソー』参照)。第一八講で詳しく述べますが、『共産党宣言』(全集④)では、未来社会が「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つのアソシエーション」(同四九六ページ)としてとらえられています。『新メガ』によって、この「アソシエーション」はルソーに由来し、人民主権国家を念頭においたものであることが明らかになってきました。こうした点からしても人民主権国家をルソーの人民主権論を科学的社会主義の「社会主義論」の源泉としてとらえることがいま求められているものと考えます。
それはともかく、ルソーの人民主権論を社会主義に結びつけることを困難にした一因は、『反デューリング論』にあったといえるかもしれません。
というのも、ルソーが次のようにとらえられているからです。
「いまではわれわれは知っている。……理性国家、ルソーの社会契約は、ブルジョア的民主共和国として生まれでたし、またそうなるよりほかはなかったのだということを。一八世紀の大思想家たちも、彼らの先駆者たちのすべてと同様に、彼ら自身の時代によって設けられた限界をこえることはできなかったのである」(二二ページ)。
この箇所を読むかぎり、ルソーの思想も「ブルジョア的民主共和国」を生みだすにとどまる歴史的制約を伴っていたと理解するしかありません。
しかし、他方でエンゲルスは第一篇第一三章「弁証法。否定の否定」において、ルソーの平等論が原始状態の平等、階級社会の不平等、真にあるべき未来社会のより高度の平等として展開されていることを紹介して、次のように述べています。
「こうして、不平等はふたたび平等に転化する。だがそれは、言語を知らない原人の古い自然のままの平等ではなく、社会契約にもとづくより高度の平等である。抑圧者は抑圧される。それは否定の否定である。だから、ルソーのこの書物には、すでにマルクスの『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがあるだけでなく、個々の点でも、マルクスが用いているのと同じ弁証法的な論法が、多数見いだされるのである」(二一七ページ)。
いうまでもなく『資本論』は資本主義の運動法則を明らかにし、資本主義から社会主義への移行の必然性を解明しようとした著作であり、エンゲルスは、『社会契約論』の平等論に『資本論』と「瓜二つの思想の歩み」を見いだしているのです。
したがって、この箇所と先の箇所とを矛盾なく読み解こうとするならば、先の引用箇所は、ブルジョアジーの指導したフランス革命においては、ルソーの時代を超える思想も、「ブルジョア的民主共和国」を支える理論としてしか生かされなかったとして読むべきではないかと思われます。
ブルジョアジーの三大闘争と空想的社会主義
初期の社会主義の諸理論は、封建制社会から資本主義に移行したばかりでまだ労働者階級の未発展の時期に、早くも労働者階級を解放する理論として誕生したことが紹介されています(二三~二五ページ)。しかしその社会主義論は、労働者階級の未発展の状態に対応して、未発展の理論にとどまるものでした。
エンゲルスは、『空想から科学へ』の「英語版(一八九二年)への序論」(全集⑲)のなかで、「封建制にたいするブルジョアジーの長い闘争は、三つの大決戦で頂点に達した」(同五五三ページ)として、ドイツの宗教改革と農民戦争、イギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)、フランス革命の三つをあげています。
しかし「ブルジョアジーは、その発生のはじめから、自分の対立物を担っていた。すなわち、資本家は、賃金労働者がいなければ存在できない」(二三ページ)のです。したがって、このブルジョアジーの封建貴族にたいする三大決戦にも「きまって近代のプロレタリアートの多少とも発展した先駆者である階級の自主的なうごきが現われた。たとえば、ドイツの宗教改革と農民戦争との時代におけるトーマス・ミュンツァー派、イギリス大革命のさいの水平派、フランス大革命のさいのバブフがそれである」(同)。
中世末のヨーロッパでは、カトリック教会が反封建闘争の中心的目標となっていました。ドイツの修道士マルティン・ルターの宗教改革の提唱を受けて、封建制の専制支配と搾取・収奪に反対する農民の蜂起はドイツの三分の二をおおうにいたり、「ドイツ農民戦争」に発展します。このとき、封建制に妥協するルターの改良主義に反対し、トーマス・ミュンツァーは封建制の打倒と共産主義社会の実現を訴えたのです。
イギリスのピューリタン革命も、こうしたドイツの宗教改革から生まれた新教徒・ピューリタンが、封建制を象徴するイギリス国教会と絶対君主制に反対し、チャールズ一世を死刑にして民主共和制を実現したものでした。この過程で世界史上はじめて男子普通選挙を要求した水平派(レベラーズ)や土地所有の廃止を主張したディガーズが登場します。
フランス革命におけるバブーフ共産主義については、第一講でお話ししたとおりです。
エンゲルスは、こうした人々を「近代のプロレタリアートの多少とも発展した先駆者」とよび、「なお未成熟な階級のこれらの革命的蜂起とならんで、それにふさわしい理論的表明がおこなわれた」(同)としています。
つまり彼らの社会主義思想に共通しているのは、彼らが搾取の廃止を、生産手段の私的所有を廃止し社会化することに求めるのではなくて、私的所有そのものを廃止することで実現しようとしたことでした。そのことをエンゲルスは、未成熟な階級にふさわしい理論的表明だと表現したのです。
しかし彼らは、封建制に対するブルジョア民主主義革命をブルジョアジーとともにたたかうなかで、その理論こそ未成熟ではあったものの、ブルジョアジーとは階級的利益を異にすることを明確に自覚していました。彼らは反封建のたたかいを、ブルジョアジーがブルジョア的自由・平等の枠内におさめようとしたのに対し、最後まで徹底的に押しすすめようとしてブルジョアジーに弾圧されてしまいますが、その階級的観点を見失うことはありませんでした。
「つづいて、三人の偉大なユートピア社会主義者が現われた」(二三~二四ページ)。サン・シモン、フーリエ、オーエンがそれです。
なぜ彼らが偉大だったのかというと、ブルジョア民主主義革命の過程で登場したプロレタリアートの先駆者たちがブルジョアジーに弾圧されて一瞬の輝きを示すにとどまったのに対し、空想的社会主義者の場合は、「ブルジョアの博愛的な心と財布とに呼びかけ」(全集④五〇六ページ)る社会主義を唱えたために、正面から弾圧されることもなく社会的に大きな影響力をもつに至ったからです。
「この三人の全部に共通な点は、彼らが、そのころまでに歴史的に生まれていたプロレタリアートの利益の代表者として登場したのではないことである」(二四ページ)。
彼らへの批判は『共産党宣言』(全集④)に詳しいので、それをみていくことにしましょう。
彼らも、労働者階級が「もっとも苦しんでいる階級」(同④五〇四ページ)であることには気づいていましたが、「彼らは、もっとも恵まれた境遇にあるものまでもふくめて、社会のすべての成員の生活状態を改善しようとした。そこで、彼らは、たえず、だれかれの差別なく全社会に、それどころか、とりわけ支配階級に、呼びかけた。……そこで、彼らは、あらゆる政治行動、とりわけあらゆる革命的行動を非難する」(同五〇四~五〇五ページ)。
彼らにとって労働者階級とは、支配階級からの救済の手を待つ「もっとも苦しんでいる階級」にすぎないのですから、労働者階級が、救済してくれる支配階級に対して革命的行動を起こすなどもってのほかだということになるのです。
彼らは彼らなりの「絶対的真理、理性、正義の表現」(二五ページ)として空想的な社会主義社会を提案し、実践に移します。フーリエの「ファランステール」(全集④五〇六ページ)と称する社会主義的入植地、オーエンの「ホーム・コロニー」(同)と称する共産主義的模範社会がそれです。
しかし、これらの社会は単なる空想であって、理想となる社会ではありません。現実に立脚し、その本質をとらえたうえで、現実社会のもつ矛盾を止揚するものとしてとらえられるのが理想であり、現実から生まれるものであるからこそ、理想は現実性に転化する必然性をもっているのです。これに対し、現実に立脚しない空想は、頭のなかから生みだされた観念論的空中楼閣にすぎませんから、自ずから失敗せざるをえません。ですから、ファランステールもホーム・コロニーもはじめから失敗する運命にあったのです。
「批判的=ユートピア的な社会主義および共産主義の意義は、歴史的発展に反比例する。階級闘争が発展して、はっきりした形をとるにつれて、このように空想のうえで階級闘争を超越し、空想のうえで階級闘争を克服することには、どんな実践的な価値も、どんな理論上の正当性もないようになる」(同五〇五ページ)。
各流派の開祖ごとに異なる「絶対的真理」の衝突からは、「一種の折衷的な平均的社会主義よりほかには、なにも出てきようがなかった」(二五ページ)のです。しかもそこには階級的観点もなく、支配階級の「博愛的な心と財布とに」うったえる点で共通しているだけですから、しだいに彼らは「反動的社会主義者または保守的社会主義者の部類に落ちこんでいき」(全集④五〇六ページ)、歴史のくず籠のなかに放りこまれていく運命をたどることになるのです。
「社会主義を科学とするには、まずそれを実在的な基盤の上にすえなければならなかった」(二五ページ)。
社会主義を「実在的な基盤」の上にすえるとは、資本主義の諸害悪を生みだす根本原因を現実の資本主義社会の分析をつうじて明らかにし、その原因を除去することによって社会主義を展望することを意味しています。こうしてマルクスは、一八四四年以降『資本論』の執筆準備に入ることになります。
科学的社会主義の源泉としてのフランスにおける
階級闘争の理論とフランス共産主義
ドイツの古典哲学、イギリスの古典経済学と並んで、階級闘争の理論と搾取廃止の社会主義思想が科学的社会主義の源泉となることに疑問の余地はありません。
問題はそれを、レーニンのように「フランス社会主義」としてとらえうるのか、というところにあります。
レーニンは、「フランス社会主義」を源泉として科学的社会主義の「階級闘争の学説」が生まれたとしているのですが、その「フランス社会主義」の例としてあげているのはサン・シモン、フーリエの「空想的社会主義」のみであり、しかも彼らには階級的観点がなかったという矛盾した表現をしています。
「しかし、空想的社会主義は真の活路をしめすことはできなかった。それは、資本主義のもとでの賃金奴隷制の本質を説明することも、資本主義の発展法則を発見することもできず、また新しい社会の創造者となる能力をそなえた社会的勢力を見いだすこともできなかった」(レーニン全集⑲七ページ)。
そして、この文章に続けて「ヨーロッパのいたるところで、とくにフランスで、封建制度、農奴制の没落に伴うあらしのような革命は、階級闘争が全発展の基礎であり推進力であることを、ますます明瞭にしめした」として、これをマルクスの「階級闘争の学説」に結びつけているのです。
結局レーニンの説明では、源泉として「フランス社会主義」をあげながら、一方では内容において、源泉となりうる社会主義思想を示すことなく、他方ではフランスの階級闘争のみしか指摘していないという論理の乱れを示しています。
思うになぜレーニンがこのような混乱をきたしたのかといえば、『反デューリング論』で「三人の偉大なユートピア社会主義者」が紹介されているため、それに引きずられて彼らを源泉に取り入れたものの、彼らの実際に果たした役割からして、消極的に取りあげざるをえなかったからではないでしょうか。
しかし、エンゲルスは、彼らをけっして源泉としてとらえているわけではなくて、社会主義理論の先駆者、先達として紹介しているにすぎず、その意図は先に紹介した『共産党宣言』のなかに明白に示されています。
これに対し、空想的社会主義者とは異なって、ルソーの人民主権論を継承・発展させたバブーフ共産主義は、先駆的プロレタリアートがブルジョアジーとの熾烈な階級闘争をつうじて打ち出していった共産主義思想であり、しっかりした階級的観点をもっていました。
「テルミドールの反動」によって権力を掌握したブルジョアジーは、一七九三年憲法の復活を警戒しながら、労働者階級の政治参加を拒否し、サン・キュロットの議会への影響を排除します。総裁政府のもとでブルジョアジーは経済的自由を取り戻し、買い占め、投機、物価高騰、食糧危機が生じます。この危機は「新しい社会に内在する本質的矛盾ないし構造悪としてとらえられ、それを根こそぎにする第二の革命、フランス革命を完成する最後の革命」(平岡前掲書『平等に憑かれた人々』二六ページ)が、バブーフの陰謀だったのです。
ですから、空想的社会主義の思想は歴史の審判をつうじて痕跡を残すことなく消えうせたのに対し、ルソーの人民主権を基軸とする社会主義・共産主義の思想は、パリ・コミューンを経て、第二次大戦中の反ファッショ人民戦線と人民戦線政府、東欧の人民民主主義共和国、日本共産党の新綱領へと引き継がれていくことになります(拙著『科学的社会主義の源泉としてのルソー』一粒の麦社参照)。
以上からして、レーニンが源泉の一つとしてあげた「フランス社会主義」は、「フランスの階級闘争の理論とルソーの人民主権論にもとづくフランス共産主義」と訂正するのが相当ではないかと考えるものです。
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