『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第六講 哲学② 時間と空間

 

一、世界の統一性

 ひきつづきデューリングの「世界図式論」(五九ページ)を論じることになります。
 第五講でお話ししたように、彼はこの部分でいっさいの客観的存在の根本形式を論じようとしており、エンゲルスから「先天主義」との批判を受けました。
 今日の講義では、この存在の根本形式としての世界の統一性と、時間・空間が論じられることになります。先どりして結論的にお話ししておきますと、世界の統一性に関しては、デューリングの観念論が唯物論的見地から批判され、時間・空間に関しては彼の形而上学が弁証法の見地から批判されています。
 エンゲルスの見地はいずれも正しいものであり、今日でもなお有効性を保っていますが、当時と比較すれば世界の統一性の問題でも、時間と空間の問題でも人類の認識は飛躍的に前進しています。著者自身この分野については基礎的な知識が十分ではないのですが、諸文献を頼りにできるだけ現代の到達点にたって進めていきたいと思います。正確を期したつもりですが、もし間違いがあれば遠慮なく指摘していただければと思います。

デューリングの「世界図式論」

 デューリングは、自分の「現実哲学」は唯物論の立場にたっているから、そこに観念論の立ちいる余地はないのだと宣言しています。
 そうであれば結構なことなのですが、しかし実際には彼の世界図式論は、観念論的議論から始まっているのです。
 「われわれはわれわれの統一的な思想をいわば枠として張りめぐらすのであるから、……なにものもこの思想統一体からのがれることはできない。……不可分割の世界概念が成立するのは、また宇宙が……万物を一つの統一に結合したあるものと認められるのは、こういう総括の統一点があるからなのである」(五九ページ)。
デューリングのいわんとする事は、思想による統一によって「現実の存在、現実の世界も、やはり不可分の統一」(六〇ページ)となるというものですから、全くの観念論だといわなければなりません。
 思想の統一と、客観世界の統一とが一致するのは、客観世界の統一性が「すでにあらかじめ存在していた場合に限られる」(六一ページ)のであって、エンゲルスは「靴ブラシを哺乳類という統一のもとに総括してみても、そのために靴ブラシに乳腺ができてくるわけではけっしてない」(同)との痛烈な批判を加えています。
 問題は「存在の統一性」(同)こそ証明されなければならない事項であり、それが証明されてはじめて、その反映としての思想の統一性を論じることができるのです。
 さらに問題なのは、デューリングが「神の非存在を証明しようとして、神の存在の存在論的証明を応用していること」(六二ページ)です。というのも、これこそ中世にアンセルムスが展開した代表的な観念論的議論にほかならないからです。アンセルムスの証明は、神は完全である、完全性のなかには「なによりもまず、存在ということがふくまれる」(同)、よって神は存在する、というものです。
 デューリングもこれと同様に、思想はすべてを統一する、客観世界もそのすべてのなかに含まれる、よって客観世界も統一体である、とするのです。

エンゲルスの批判

 エンゲルスの批判は、単にデューリングの誤りを批判するのみならず、より普遍的な立場から彼の特殊な原理を「反駁」しています。
 エンゲルスは、まず「世界の統一」を論じるより前に「世界の存在」(六三ページ)を前提としなければならないが、その「世界の存在」自体が「われわれの視界が尽きる限界からさきでは、およそなにかが存在するかどうかが未決の問題なのだ」(同)と語っています。
 つまりわれわれの認識は歴史的制約を伴っており、「世界の存在」といっても、それはわれわれの認識しうる範囲においてのみ存在するにすぎないといっているのです。私たちの宇宙は、ビッグバン以来膨張を続けている宇宙であり、その歴史は一三七億年といわれています。しかしそれは一三七億年前にビッグバンにより放たれた光が秒速三〇万キロの速度で一三七億光年の距離を経て現在地球に届いているというかぎりでの一三七億年にすぎないのです。それ以前の光は、まだ地球に届いておらず、その天体に関する情報をもちえないところから、この一三七億年を「宇宙の地平線」(池内了『宇宙進化の構図』一四九ページ、大月書店)、ホライズンとよんでいます。
 現代の発達した天文学においても人間の認識能力の限界が、宇宙の存在限界とされているのであり、そこから先はおよそなにかが存在するかどうかすら未決の問題なのです。
 では、存在する世界の統一性はどこに求めることができるのでしょうか。
 「世界の現実の統一性はそれの物質性にある。そして、この物質性は、二、三の手品師的な空文句によってではなく、哲学と自然科学との長い、長々しい発展によって証明ずみのものである」(六三~六四ページ)。
 エンゲルスの時代には、自然科学の発展もようやく部分的に物質世界の普遍的連関性と統一性が明らかになりつつあるという段階であったにもかかわらず、エンゲルスが「世界の現実の統一性はそれの物質性にある」として、見事にその本質を見抜いた理論的先見性には驚かされます。カントの星雲説をつうじて太陽系を含む宇宙の連関が明らかになり、ダーウィンの進化論をつうじて、すべての生物種の連関が問題とされ、熱力学の誕生によるエネルギー保存の法則により、種々なエネルギーの普遍的相互移行が証明されるという程度の材料で、「自然過程の総体が一つの体系的な連関をなして」(五一ページ)おり、客観世界の統一性が、その物質性にあることを洞察するまでにいたることは、弁証法的思考方法を身につけていなければけっしてできないことでしょう。
 その後の自然科学の発展によって、私たちの宇宙の統一性がその物質性にあることは、ますますあきらかになっています。
 現在の物理学と宇宙論は、量子論を基礎にしています。量子とは、それ以上細分化できないエネルギーのかたまりです。物質の最小単位から広大な宇宙まで、すべての物質がこの量子からなる量子論で説明されています。
 一三七億年前の宇宙は、非常に小さい、温度が一兆度にも達する密度の濃いエネルギーのかたまりで、まだ元素も存在しない量子的宇宙でした。この量子的宇宙のゆらぎのなかからビッグバンが生じるのです。ビッグバン宇宙生成の過程で素粒子が生じます。素粒子には、すべて厳密に対応する対立物が存在します。これを対称性といいます。自然の根源は、弁証法的な対立物の統一なのです。私たちの宇宙に存在する素粒子(電子、陽子、クォークなど)にも、同じ数だけ反粒子が存在してしかるべきですが、実際には存在しません。その理由は「対称性の破れ」として説明されています。
 量子的宇宙が急速に膨張し、冷却化される過程で、最初の物質としてのクォークと反物質としての反クォークが生まれます。しかし対称性の破れから、一〇億の反クォークに対し、一〇億プラス一のクォークが生まれます。クォークと反クォークが結合すると消滅して光子となります。この差の一のクォークが残存物質として私たちの宇宙をつくりあげました。私たちの宇宙がすべて物質のみの世界から成り、反物質が存在しないのはこのためです。
 こうして、宇宙には、素粒子、原子核、原子が生まれ、原子は重力によって結合し、星をつくります。星は熱い火の玉であり、核融合エネルギーと収縮による重力エネルギーによって、陽子からヘリウムに、ヘリウムから炭素、酸素、窒素、ナトリウムなどへ、軽い原子からより重い原子へと多種類の元素をつくり出し、最後に鉄にいたります。星の中心部が鉄ばかりになると重力によって収縮するにつれて温度も上がり、星の最終段階の超新星爆発となります。この爆発エネルギーによって、鉄より重い元素が一挙につくられ、宇宙空間に放出されて、放出されたガスが星間ガスとまぜあわされます。星間ガスは重力によって固まって星間雲となり、密度の高い雲の内部で原子から分子が構成されます。分子を含んだ大きな星間雲が自らの重力で収縮してゆく道程で、中心の星といくつかの惑星がうまれ、太陽系が誕生するにいたるのです。
 このように私たちの宇宙が、ビッグバンに始まる一連の諸物質の生成過程であることを知れば、世界の統一性がその物質性にあることは当然のことといえます。

「世界図式論」の構成

 次にデューリングは、この「存在の統一性」を前提として「存在」を論じますが、さっそくヘーゲル論理学に助けを求めることになります。彼の三部構成の哲学が、ヘーゲルの『エンチクロペディー』を剽窃したものであることは、第五講でお話ししたところです。しかし、彼の剽窃はそれにとどまらず、世界図式論は、ヘーゲル「論理学」の構成をそっくりそのまま引きついでいるのです。
 「論理学」は、第一部「有論」、第二部「本質論」、第三部「概念論」となっています。第一部「有論」は、さらに質、量、限度(度量)の三つに分かれ、すべての事物は、質と量の統一としての限度としてとらえられます。モノには限度があり、或るものは、一定の質と一定の量をもっていますが、或るものにおける量がその限度をこえると、量から質への転化により、或るものは他のものにその質がかわっていきます。これが「ヘーゲルのいう度量関係の結節線」(六五ページ)です。一点で量から質へと移行するのですから、正確には「度量関係の結節点」というべきものでしょう。
 デューリングは、「ヘーゲルの『論理学』第一部、有論の諸カテゴリーを、厳密に旧ヘーゲル式の『順序』で、それもほとんど剽窃を隠そうとさえしていないあけすけさで、見いだすのである!」(六六ページ)。
 こうして、自分はヘーゲルの量から質への転化をそのまま受け入れながら、他方で、マルクスが『資本論』で「貨幣の資本への転化」を量から質への転化の例として説明していることをとらえ、「ヘーゲルの混乱したもうろう観念を」(同)マルクスが「拠りどころとしているのは、なんと滑稽に見えるではないか!」(同)などとうそぶいてみせるのです。
 「論理学」第二部「本質論」は、対立と矛盾というカテゴリーを議論しています。弁証法の核心は、すべての事物を対立物の統一としてとらえることによって、事物の運動・変化・発展をとらえる真理認識の思考形式です。矛盾が激化したとき、事物はその矛盾を止揚して新たな質をもつ事物に発展するのです。
 デューリングは、ヘーゲルの本質論を「存在の論理的諸特性」(六七ページ)とよび、その特性をなすものを「諸力の敵対」(同)ととらえます。 
 これは対立する二つのものの関係を指すものといっていいでしょう。しかしヘーゲルの対立には、対立物の調和的統一(対立物の同一)もあれば、対立物の闘争、いわゆる矛盾もあります。デューリングは、一方で対立を「諸力の敵対」、つまり対立物の闘争としてとらえながら、他方で「矛盾というものを……徹底的に否認する」(六七ページ)という矛盾した論理を展開しています。
 形式論理学の基本原理は同一律であり、矛盾を否定するところに、その限界をもっています。ヘーゲルは矛盾を肯定し、「一般に、世界を動かすものは矛盾である」(『小論理学』一一九節補遺二)とすることによって弁証法的論理学を確立するという金字塔をうちたてました。
 結局デューリングは、ヘーゲル論理学の有論、本質論の構成をそのまま剽窃しながら、その真髄である矛盾を否定することによって、ヘーゲル哲学の生命力を奪ってしまうと同時に、他方でヘーゲル哲学の意義を全く理解しえなかったことを自白しているのです。

 

二、時間と空間

時間と空間をめぐる自然科学の発展

 次にデューリングは、「自然の諸原理にかんする学問」(四八ページ)、つまり「自然哲学」に入り、時間と空間の有限性と無限性の問題を議論しています。これもまたヘーゲルの「自然哲学」の構成にしたがったものです。
 時間、空間とは何か、果たして客観的に存在するものかそれとも主観的なものにすぎないのか、また物質と空間はどういう関係にあるのか、物質なしに時・空は存在しうるのか、それとも物質なしには存在しえないのか、時・空は有限か無限かなどの問題は、古代ギリシアの時代から哲学上の難問とされていました。
 エンゲルスの時代の力学であるニュートン力学は、絶対時間、絶対空間を前提にして、その力学的法則をうち立てました。絶対時間とは、なにものにも影響されずに同じ速さで流れていく時間であり、絶対空間とは何物にも依存せず、つねに同一であり続ける空間です。この両者は「たがいにまったく無関係」(町田茂『時間・空間の誕生』二六ページ、大月書店)とされています。
 中世まではアリストテレスの自然哲学により、物質が何もないという絶対的な空虚の存在=絶対空間は否定されていました。それがガリレイの弟子トリチェリによる「トリチェリの真空」の発見によって、空虚な空間という概念がだんだん認められるようになり、ニュートンの絶対時間、絶対空間の考えにつながったのです。
 ニュートン力学の出発点は、「外力が作用しなければ物体の運動状態は変化しない」という第一法則(慣性の法則)にあり、この外力の作用による運動が絶対運動とよばれるものです。絶対運動を論じるためには、何物にも影響されない、物質の運動とは無関係な、かつ相互に何ら影響されない絶対時間、絶対空間を想定する必要があったのです。
 このニュートン力学の時・空をうち破ることになったのが、二〇世紀前半のアインシュタインの相対性理論です。時間と空間も物質の運動によって変化するものであり、時・空は、物質と無関係な不動の枠組みではなく、物質の運動との関係で相対的にきまることを明らかにしました。これによって、時・空は物質と切りはなせない関係にあることが明らかになりました。特殊相対性理論では、物体の速度が光速に近づけば近づくほど時間の経過が遅くなること、一般相対性理論では、実際の空間はそこに存在している物質とその重力の影響によって一定の曲率をもってゆがんでくることが明らかにされたのです。

空間と時間は存在の根本形式

 エンゲルスが「いっさいの存在の根本形式は空間と時間であって、時間のそとにある存在ということは、空間のそとにある存在ということと同じくらいにはなはだしい無意味」(七七ページ)であるとして、物質と時間・空間の切りはなしえない関係を明らかにしているのは、さすがと感服する次第です。
 また二〇世紀後半のビッグバンの発見によって、私たちの宇宙は、「宇宙と時間・空間そのものが物質とともに誕生する」(町田前掲書一三七ページ)ことが解明されました。ビッグバンにより、私たちの宇宙は一三七億年の時間と一三七億光年の空間をもつことが明らかとなったのです。宇宙は現在も膨張し続けていますが、今後も膨張し続け空間は拡大し続けるのか、それとも収縮に向かうのかは現段階では不明です。
 量子的宇宙のゆらぎにもとづく「インフレーション宇宙の考え方は、また宇宙が無数に存在でき、また無数に生まれつづける可能性にも道をひらくことになった。空間にためこまれたエネルギーに『ゆらぎ』があれば、そのゆらぎの大きさに応じて、異なった速さの異なった継続時間のインフレーションをひき起こし、それぞれが独立した宇宙をつくるからである」(池内前掲書六二ページ)。
 いわば無限に存在しうる宇宙には、無限に異なる物質と時間・空間が存在しうるのです。それだけではありません。私たちの宇宙は物質のみから成っていますが、それすら特殊な一宇宙にすぎないのです。というのも現在の量子論からすると、その対称性からして「素粒子の世界では、粒子と反粒子はまったく対等な存在」(同五五ページ)であって「すべての物質の階層において、物質と反物質が対等に存在してよさそう」(同)な状況だからです。私たちの宇宙は、対称性の破れによって「粒子のみにかたよった世界」(同五六ページ)となったにすぎません。
 以上エンゲルス以降の自然科学の発展による時間・空間の概念の変化をみてきましたが、結論的にいえることは、宇宙、物質、時間、空間のすべてについて、「あれかこれか」の形式論理学ではとらえられないということであり、自然に対する人間の認識が発展すればするほど、これらの概念も「本質的にそれらの連関、連鎖、運動、生成と消滅」(二九~三〇ページ)という弁証法においてとらえなければならないということです。エンゲルスのいうように「自然においては万事はけっきょく形而上学的にではなく弁証法的におこなわれているのだということを証明」(三〇ページ)しています。

カントのアンチノミー

 古い形而上学では、認識が矛盾に陥るのは、偶然の過ちにすぎないと考えられていました。これに反してカントは、無限なものを認識しようとすれば、思考そのものの本性から矛盾(アンチノミー)におちいらざるをえないことを指摘しました。これによりカントは形而上学の一面的認識を否定し、思考の弁証法的運動に注意を向けさせるという功績を残しました。しかしカントがアンチノミーをつうじて、無限なもの、時間や空間は認識しえないという不可知論におちいったのに対し、ヘーゲルは、「或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統一として意識することを意味する」(『小論理学』四八節補遺)として、弁証法的論理学を確立しました。カントのアンチノミーの一つが「世界は空間的および時間的に限られたものと考えるべきか否か、という問題」(同)であり、カントは定立、反定立のいずれをも証明しうるから、時間・空間は認識しえないとの結論に達したのです。
 カントの証明は、「常に証明すべきものを、出発点である前提のうちに含んでいるのであって、それが本当の証明のようにみえるのは、長たらしい、間接論証的な手続によるにすぎない」(同)ものですが、時間と空間とは有限であると同時に無限であることをいいあらわす積極的なものを含んでいました。時間と空間とは、私たちの認識限界の範囲内では有限なものであっても、認識限界をこえて存在しうるという点からすれば無限なものといわざるをえません。
 こうしたことを前提としてテキストをみていくことにしましょう。
 デューリングは、時間・空間の無限性について、「数を無制限に集積してゆく」(六九ページ)ように「ただ一つの方向」(同)が考えられるだけであり、そこから引き出される結論は二つあるといっています。「第一の結論は、世界における原因と結果の連鎖には、かつて始めがあったにちがいない」(六九~七〇ページ)ということであり、第二の結論は、「世界に存在するあらゆる最小の独立した物質部分の総数も、やはり一定していなければならない」(七〇ページ)という「定数の法則」(同)だとされます。
 もっとも問題なのは、世界のはじまりは「一つの自己同一的な状態」(同)であり、そこでは、「なんの変化も起こらず」(七一ページ)、「特殊的な時間概念も、一般的な存在の観念に転化してしまう」(同)としていることです。つまり「時間はまだ存在しなかったが世界は存在した時がかつてあった」(七三ページ)と主張しているのです。
 エンゲルスの批判は、まず第一にこの世界には始まりがあるとするデューリングの見解は、先にみたカントのアンチノミーのうち、時間・空間には始まりがあり、有限だとする定言を「そっくりそのまま写しとってきたもの」(同)だというものです。しかしカントは、それと同時に「右の命題と正反対のこと、すなわち、世界は時間にかんして始めをもたず、空間にかんしては終りをもたないということを主張し、かつ証明」(同)しています。カントは、時間・空間のアンチノミーを指摘して形而上学を批判したのに対し、デューリングは、矛盾を「徹底的に否認する」(六七ページ)という形式論理学の立場から、九五年も前のカントの命題の一側面のみをとりあげ、再び形而上学に舞い戻ってしまったのです。

時間・空間の無限性

 第二の批判は、時間・空間の無限性とは、「前後、上下、左右、どの方向にむかっても終りがないということ」(七四ページ)であって、この無限性は、デューリングのいう「無限系列の無限性とはまったく違ったもの」(同)だというものです。
 テキストの「付注」(二六九ページ)は、エンゲルスの『自然の弁証法』から転載したものです。「現実の世界における数学上の無限の原像について」(同)において、地上の物体に比較すると地球は無限大であり、宇宙に比較すると地球も無限小となること、他方、物体に比べると分子は無限小であると指摘し、無限大、無限小は、物質の階層性をとらえた唯物論的認識であることを明らかにしています(二七一~二七二ページ)。それぞれの物体はその大きさに応じた時間・空間をもっていますから無限小の物体の時間・空間は無限小であり、無限大の物体の時間・空間は無限大なのです。
 時間・空間の無限性も、けっして彼岸の問題ではなく、物質の階層性にかかわる現実世界の問題なのです(二七五ページ)。
 ビッグバンによる宇宙の誕生により、私たちの宇宙では、デューリングのいうように時間と空間の始まりをもつにいたりました。この点ではデューリングの指摘は正しいことになります。しかし私たちの宇宙は無数にある宇宙の一つにすぎませんから、より広義の宇宙からすれば、無数の宇宙が生まれては消え、消えては生まれているのです。私たちの宇宙の時・空は始まりをもつとしても、それをすべての宇宙にあてはめることはできません。結局宇宙には、始まりがあると同時に始まりがないとしかいえないのです。
 また私たちの宇宙が将来ともに膨張し続けることになれば、時間・空間は無限に膨張します。しかしそれが収縮に向かい、やがて消滅することになれば私たちの宇宙とともに時間と空間も終わりをもつことになりますが、それはまた新たな宇宙の始まりをも意味しています。その意味では、私たちの宇宙も無限であるとも有限であるともいえるのです。
エンゲルスが、「無限性ということが一つの矛盾であり、またかずかずの矛盾にみちている」(七六ページ)のであり、だからこそ「それは、時間と空間において終わることなく展開してゆく無限の過程なのである」(七七ページ)といっているのは、当時の認識としては驚くべき洞察だといわなければなりません。
 なおエンゲルスが「普通の三つの空間次元に満足しようとしなかったガウスの数学的神秘主義」(七四ページ)に言及しているのも、彼が当時の自然科学の最高水準に到達していることを示すものです。
 ドイツの大数学者ガウス(一七七七~一八五五)は、地球の表面に広大な三角形を描けば内角の和が一八〇度をこえ、ユークリッド幾何学が成立しないことに気づき、彼はそれを非ユークリッド幾何学と名づけました。その後の研究をつうじて、ユークリッド幾何学は、空間の曲率がゼロのときにのみ妥当する幾何学にすぎず、曲率がマイナスの空間では、ロバチェフスキー幾何学、曲率がプラスの空間では、リーマン幾何学という非ユークリッド幾何学の成立することが現在では明らかになっています。空間もけっして平坦な広がりをもつものだけではないのです。

世界の始まり

 第三の批判は、「もし世界がかつて絶対にどんな変化も起こらない状態にあったとすれば」(七九ページ)、ニュートンのいう神の「最初の衝撃」(同)で世界が動きはじめたとするしかないのではないかというものです。
 デューリングは、なんとか無運動から運動への架け橋を見いだそうとして、「漸次的な度合の差のある中間諸状態を挿入」(八一ページ)するとか、あらゆる移行には「連続性の橋が、ひらかれている」(同)とか、自然科学には未解明の問題も多いから、「これらの過程がいくらか暗黒のなかにはいりこむとしても、あやしむにはあたらない」(八二ページ)などの「ほんとうにやくざな、くだらない逃げ口上や空文句」(同)を重ねています。
 ニュートン力学は、慣性の法則という地上の力学的運動の根本法則をとらえるために、神による「最初の衝撃」という観念論的議論をもちこまざるをえませんでした。
 しかしニュートン力学と異なり、自分自身の力で運動する物質、つまり自然の自己運動をとらえるには、デューリングのような形式論理学ではなく、弁証法的に対立物の統一としてとらえるしかありません。デューリングは、弁証法を理解できないために、世界の始まりを無運動の状態ととらえたところに間違いがあったのです。世界はその始まりであろうが終わりであろうが、つねに自己運動を続けています。彼のいう「無変化の、なんらの変化の時間的集積もふくまない物質存在の状態」(八〇ページ)という無運動は存在しません。彼のような前提をつくり出せば、もはや神の「最初の衝撃」に頼る以外に世界の始まりようがないのです。
 「宇宙のごく最初の状態は場がつまっただけのもの、言いかえれば、私たちが知っている素粒子もまだできず、非常に小さい領域……に場が沸騰するような状態でつまったものと思われます。こうしてできた宇宙の多くはすぐにつぶれてしまったり、消え去ったり、多少大きくなってもまた収縮して消えてしまったりするだろうと思われます。その中で、たまたま、条件が非常によかったものだけが一五〇億年(現在では一三七億年とされている――高村)も生長し、私たちの住む宇宙になったのだと思われます」(町田前掲書一四一ページ)。
 「場とは、空間のある領域に連続的に分布している物理的な量のこと」(同三六ページ)であり、エネルギーや運動量を担う実体です。「すべての作用が有限の速さでだんだん遠くへ伝わる近接作用である」(同五九ページ)ことから「場の方が基本的な実体であって、その現われとして、ふつうの物体ができるのだと考えられ」(同三七ページ)ています。
 場にみたされた宇宙で、「ある特殊な条件の下で、私たちの知る粒子になり、また、その中で密度のゆらぎが起こって塊が発生し、それが核になって銀河などの天体を生じ、また生物をその一部に発生させたのだろうと思われます」(同一四二ページ)。
 いわば、場というものは、有と無の統一であり、そこにおいては物質とその運動とは存在すると同時に存在しないという状態としてとらえるしかないということになるのではないでしょうか。
 いずれにしても、すべてを対立物の統一としてとらえないかぎり、世界の始まりをも説明しえないことは間違いないと思われるのです。