『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第一六講 経済学④ 「批判的歴史」から

 

一、経済学史概説

マルクスの「剰余価値学説史」

 『反デューリング論』は、エンゲルスの著作ではあっても、事実上マルクスとの共同著作であることは第一講で指摘したとおりです。
 そのなかにあって第二篇第一〇章の「『批判的歴史』から」だけは、経済学を専門に研究してきたマルクスが直接執筆したものです。エンゲルスは、第三版への序文のなかで、初版では彼の判断でこの箇所を「かなりにちぢめ」(一八ページ)たけれども、マルクスの「経済学史についての独自の論述」(同)は、「今日でも最も大きな、最も永続的な興味のある部分」(同)なので「できるだけ完全に、またことばどおりに採録することが、私の義務であると考え」(一九ページ)、第三版で復元されたことを明らかにしています。「また、近代の経済学全体がいまだに解決できずにいるスフィンクスの謎、つまりケネーの『経済表』を、マルクスが解明しているくだりについては、なおさらそう」(同)だと述べています。
 第一三講で学んだように、経済学は、「人間社会における物質的な生活資料の生産と交換とを支配する諸法則についての科学」(二九七ページ)であり、マルクスは、資本主義的生産様式の諸法則を探究するために、徹底的に資本主義に関する経済学史を研究し、その研究成果は膨大な「剰余価値学説史」(全集㉖Ⅰ~Ⅲ)として残されています。先人の経済学を批判的に学ぶことをつうじて、先人の認識の限界を一つひとつ乗り越えながら、マルクスは、労働価値説と剰余価値学説を研ぎ澄まし、完成させていったのです。
 いわば、経済学史の研究をつうじて、マルクスがいかにして先人の認識の限界を乗りこえながら、「否定の否定」を繰り返しつつ、労働価値説と剰余価値学説に接近し、到達することができたのか、認識の弁証法的発展の過程を学ぶことができます。
 その意味で経済学史の研究は、今日でもなお価値のある興味深い部分となっているのです。

経済学史概説

 資本主義的生産様式の研究の歴史は、資本主義的な富とは何か、その富の源泉は何であり、その源泉からどのように資本主義的富が生み出されるかを探究する歴史でした。
 狭義の経済学は、「独自の科学としては、マニュファクチュア時代にはじめて現われ」(四二三ページ)ます。
 封建的生産様式では、主たる富の源泉は自然的素材としての土地であり、封建的な富は、土地から生まれた地代でした。これに対して資本主義的生産様式では、主たる富の源泉は労働であり、資本主義的な富は諸商品として現れました。
 「資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる」(『資本論』①五九ページ/四九ページ)。
 これは『資本論』の冒頭の文書です。マルクスは資本主義的富が商品として現れるところから、商品から出発して資本主義的生産様式の解明を始めたのです。
 しかし、経済学がこの問題の正解である労働価値説に到達するには長い過程が必要でした。資本主義は一五世紀末から一七世紀にかけての世界市場と世界貿易をつうじて登場してきました。ヨーロッパ諸国は、その諸商品を世界貿易をつうじて金と交換し、貿易差額による金の獲得をつうじてヨーロッパに繁栄をもたらしました。この時代にふさわしい経済理論として、商品そのものを富とみるのではなく、諸商品の価値を自らの身体で示す金銀を唯一の富だとする重金主義が誕生するのです。マルクスはこの重金主義を「貨幣としての金銀は一つの社会的生産関係を、しかも奇妙な社会的属性を帯びた自然物という形態で、表示するのだということを見てとることができなかった」(『資本論』①一四一ページ/九七ページ)と批判しています。それでも、重金主義は「近代世界の最初の解釈者」(全集⑬一三四ページ)としての名誉を担っているのです。
 これに対して重商主義は、重金主義の「ただその一変種にすぎない」(同)ものであり、唯一の富は金銀であることを前提とし、その富の唯一の源泉を世界貿易に求めたのです。
 重金主義と重商主義とは、まだ資本主義的生産が十分に発展していない段階に対応して、商品流通の過程から生じる金を富の唯一の形態ととらえたのです。「金はすばらしい物である! 金をもつ者は、自分の望むことはなんでもできる」(『資本論』①二二二ページ/一四五ページ)というコロンブスの言葉に、重金主義、重商主義は象徴されています。
 「重農学派よりも前には、剰余価値――すなわち利潤、利潤という姿でのそれ――は、純粋に交換から、商品をその価値よりも高く売ることから、説明されている」(全集㉖Ⅰ八ページ)。
 しかし「商品を価値よりも高く売る」ことは、売り手には利潤を、買い手には損失をもたらすだけで、社会全体の富そのものが増加するわけではありません。マルクスは、「商業資本が、未発展な諸共同体の生産物交換を媒介する限りでは、商業利潤は詐欺とぺてんのように見えるだけではなく、その大部分は詐欺とぺてんとから生じる。……右の〔未発展な〕生産諸様式のもとでは、商人資本が剰余生産物の大部分を取得するということになる」(『資本論』⑨五五七~五五八ページ/三四三ページ)といっています。
 重商主義者の主張する貿易差額は、植民地・従属国の労働者が生産した剰余価値を等価交換で獲得するのではなく、詐欺とぺてんによって略奪したものにすぎなかったのです。
 スペイン、ポルトガル、オランダなどの宗主国は、植民地・従属国の富を略奪して繁栄し、逆にアジア、アフリカ、南アメリカなどの植民地・従属国は略奪されて経済的に疲弊していくことになります。剰余価値は、等価交換を前提とした正常な流通過程からは生じえません。こうした反省が重商主義からの脱却と重農主義や古典派経済学への発展をもたらすことになります。
 重農学派は、剰余価値の源泉を流通部面から生産部面に移すことにより、近代経済学への道をひらきました。しかし彼らは、自然のたまものである土地に支えられた農業生産のみが剰余価値を生みだすと考え、剰余価値の本来的かつ唯一の形態を地代だととらえたのです。
 「地代を生む資本または農業資本は、彼らにとっては、剰余価値を生み出す唯一の資本であり、また、この資本によって運動させられる農業労働は、剰余価値を生産する唯一の労働、したがって資本家的立場からすれば、まったく正当に、唯一の生産的労働なのである」(『資本論』⑬一三六七ページ/七九二ページ)。
 重農主義者を代表するのが、「経済表」で有名なケネーです。ケネーの「経済表」は、資本の社会的再生産方式を最初に確立した最高の天才的な着想であり、マルクスの「再生産表式」にも大きな影響を与えました。
 この重農主義の狭さを打ち破り、剰余価値を生みだすのは土地に支えられた農業労働だけではなく、土地と無関係な労働一般であるととらえたのが労働価値説であり、この労働価値説を確立するうえで貢献した理論が、古典派経済学とよばれるものです。

古典派経済学

 古典派経済学は「イギリスではウイリアム・ペティに、フランスではボアギュベールに始まり、イギリスではリカードに、フランスではシスモンディに終わる」(四二三ページ)とされています。
 ペティ(一六二三~一六八七)は「近代の経済学の創始者」(四二九ページ)であり、「最も天才的で最も独創的な経済学者」(四三二ページ)です。
 ペティは、一オンスの銀と一ブッシェルの穀物を交換しうるとすれば「一ブッシェルの穀物の生産に要する労働は、一オンスの銀の生産に要するそれと相等しい」(全集㉖Ⅰ四四六ページ)として価値の源泉を労働に求めました。しかし他方で、重農主義の影響を受け、「労働は素材的富の父であり、土地はその母である」(『資本論』①七三ページ/五八ページ)といい、土地に媒介された労働のみが価値を生むと考える制約をもっていました。
 これに対し、アダム・スミス(一七二三~一七九〇)とリカード(一七七二~一八二三)は、ペティと異なり、土地から切りはなして労働一般を価値の源泉ととらえ、労働価値説の土台を築き、イギリス古典経済学を代表する人物となったのです。
 しかし、彼らは、労働に具体的有用的労働と抽象的人間的労働の二つがあることを知らず、また労働力と労働とを区別しえなかったので、その労働価値説も不完全、不徹底なものにならざるをえませんでした。
 マルクスは、スミスを「大工業への移行期にあるマニュファクチュア時代の経済学者」と特徴づけています。
 スミスは、価値の源泉が労働にあること、剰余価値は農業だけではなく、工業でも生産されることを明らかにしました。しかし他方で、労働力と労働とを区別しえませんでした。また、労働の二重性にも気づかなかったところから、同じ一つの労働であっても、抽象的人間的労働が新しい価値を生産することはとらえることができたものの、具体的有用的労働が使用価値をつくりだす過程において、生産手段の価値を生産物に移転することをとらえることができませんでした。その結果社会的生産物を不変資本+可変資本+剰余価値(c + v + m) としてとらえるのではなく、可変資本+剰余価値(v + m) としてとらえるという「スミスのドグマ」に陥ってしまったのです。
 リカードは、古典経済学の完成者であり、「大工業の経済学者」です。かれは、スミスの労働価値説を発展させ、労働によってつくられた価値が、賃金、利潤、地代であることを明らかにしました。しかし産業資本家の代表として、資本主義的生産様式を絶対化したために、剰余価値の秘密を明らかにすることはできない、という不徹底さをもっていました。
 これに対してマルクス(一八一八~一八八三)は、弁証法を武器として、スミス、リカードの成果のうえにたって労働価値説と剰余価値学説を完成させ、この本質的理解のうえに中間項を経て、資本主義的生産様式の諸現象を体系的・統一的に説明しました。同時に資本主義的生産様式の基本矛盾とその展開を明らかにして、その特殊歴史的性格を浮き彫りにし、社会主義・共産主義への移行の必然性を明らかにしていったのです。
 以上を前提に、テキストをみていくことにしましょう。

 

二、古代ギリシアの経済学

 奴隷制の古代ギリシアにも、資本主義と共通する商品交換と貨幣は存在していました。この商品交換と貨幣の分野でギリシアの哲学者たちは、「天才と独創性を示し」(四二四ページ)、「歴史的に近代科学の理論的出発点」(同)をなしています。
 しかし、デューリングは、自分の経済学は「まったく先駆者をもたない事業」(同)であるとして、「古代の科学的経済理論」(同)については、「なにひとつ報告すべき肯定的なものはない」(同)と一蹴しています。
 実際にはどうでしょうか。例えばアリストテレスは、「どの物にも二つの用がある。――一方の用はその物に固有なものであるが、他方の用は固有ではない。たとえば、靴には、靴としてはくという用と、交換品としての用とがある」(四二五ページ)と述べています。ここには、商品には使用価値と交換価値とがあるという、天才的なひらめきが示されています。それだけではありません。彼は貨幣には、「二つの異なった流通形態――一つは、貨幣がたんなる流通手段として機能する形態、もう一つは、貨幣資本として機能する形態」(四二七ページ)があることを示しているのです。すなわち彼は、一方では「五台の寝台=一軒の家」(『資本論』①一〇一ページ/七三ページ)ということは、「五台の寝台=これこれの額の貨幣」(同)と区別されないとして、流通手段としての貨幣の役割をとらえると同時に、他方で「貨殖術」としての貨幣の「目標は絶対的な致富」(同②二六〇ページ/一六七ページ)であって、「貨殖術が追求する富にもまた限界はない」(同)として、貨幣資本としての貨幣の役割をもとらえています。マルクスは、このアリストテレスの用語に学んで、資本の本質を「絶対的な致富衝動」(同二六一ページ/一六八ページ)と規定しています。
 またプラトンは、主著『国家』において、「分業が都市(ギリシア人にとって、これは国家と同じものであった)の自然生的な基礎であること」(四二五ページ)を天才的に示しました。これは、工業と農業という社会的分業のうえにのみ、国家が存在しうることを明らかにしたものでした。もっともマルクスは、近代の社会的分業は同じ分量の労働でより多くの商品を生産する手段とされているのに対し、プラトンの分業は、「もっぱら質および使用価値に固執する」(『資本論』③六三四ページ/三八七ページ)ものとして「きわめて鋭く対立している」(四二五ページ)ことを指摘することも忘れてはいません。しかし、デューリングにとっては、アリストテレスやプラトンの先駆的な経済学上の業績も「まったくありふれた観念」(四二七ページ)にしかみえないのです。

 

三、重商主義

 重商主義に関して、デューリングはリスト(一七八九~一八四六)を受け売りし、セラの著書を「経済学の近世前史の入口に刻まれた一種の銘文と見なす」(四二八ページ)としています。
 しかし、もし重商主義の「一種の銘文」としての画期的な一著作を示すとすれば、それはトマス・マン(一五七一~一六四一)の「イギリスの東インド貿易に関する一論」をあげるべきです。というのも、この著作は「当時まだイギリスで国策として擁護されていたもとの重金主義に反対するものであり、したがって、重商主義が自分の生みの親である学説から意識的に自己分離したことをあらわす」(同)特別な意義をもっていたからです。
 その改訂版は東インド会社の弁護論と結合しつつ、一般的貿易差額論をかかげ、「その後一〇〇年間、ひきつづき重商主義の福音書」(同)となったのです。

 

四、ペティ

 「ペティは、商品の価値の大きさについて完全に明瞭な、正しい分析をあたえて」(四二九ページ)います。というのも彼は、先にみたように「等しい量の労働を要する貴金属と穀物とが等しい価値をもつ」(四三〇ページ)と説明しているからです。
 彼は、「商品価値が等しい労働によって測られる」(同)と考えてはいましたが、重農学派の影響を受けて、土地に支えられた労働のみが価値を生むと考えていましたので、「すべての物は土地と労働という二つの自然的な単位名称によって評価されなければならない」(全集㉖Ⅰ四五四ページ)と語っています。
 エンゲルスは、ペティの考えは重農主義から労働価値説への移行を示すものとして、「この誤りそのものさえ天才的である」(四三〇ページ)といっています。
 またペティは、地主たちが利子率を引き下げることによって資本還元により地価を引きあげ、それに応じて地代をつりあげようとしたのに反対し、「法律によって利子を規制することは、貴金属の輸出や為替相場を規制するのと同じくらい愚かなことだ」(四三六ページ)と語っています。
 マルクスは、「地主たちは、利子が低下すれば土地の価値が増大することに気づいていた」(全集㉖Ⅰ四六六ページ)と指摘し、このペティの利子率引き下げ反対のたたかいを「資本が土地所有に対立して反抗をはじめる最初の形態」(同)と語っています。
 利子は、平均利潤の一部が分配されるものですから、利子率によって規定されます。すなわちその最高限は平均利潤率の大きさによって規定され、最低限はゼロとして規定されます。利子率を具体的にきめるのは、貸付可能な貨幣資本に対する需要と供給の関係という経済的関係であり、これを法律によって規制することはできないのです。
 こうした功績を残したペティに対し、デューリングは、「国民経済学の方面ではまだまったく粗野なやり方をしており」(四二九ページ)、「価値尺度としての労働、さらにすすんでは労働時間という考えの不完全な痕跡が見いだされる」(同)と批判するにとどまっています。
 スミスですら、価値概念について四つもの「相反する見解」(四三一ページ)が見いだされるのに、それに先立つペティが、価値論について「やっと形をとりはじめた諸観念の混沌とたたかわざるをえなかった」(同)のは当然のことでした。むしろそれから一五〇年以上もたち、『資本論』もすでに出版されているのに、いまだにデューリングが価値論で混迷しているのは、「奇異なことだと思われてもしようがない」(同)でしょう。
 またペティの利子論を受けついで、「一八世紀の後半にフランスとイタリアの経済学にたいしてあのように重大な影響」(四三五ページ)をもたらしたロック(一六三二~一七〇四)の「利子引下げおよび貨幣引上げにかんする考察」(同)についても、デューリングは「世間で普通におこなわれていた考察の範囲を出るものではない」(同)と、全くその意義を理解していません。
 同様に、「イギリスで保護貿易制度が決定的に勝利した時代」(四三七ページ)に、利子の自由の立場から自由貿易を主張したノース(一六四一~一六九一)についても、「空気中にただよっていた」(四三六ページ)考えの一つにすぎないと切りすてているのです。

 

五、ヒューム

 貨幣には、価値の担い手としての機能(価値尺度)と流通手段としての側面があります。重金主義、重商主義が価値の担い手としての貨幣という側面のみに注目したのに対し、ヒューム(一七一一~一七七六)はヴァンダリントの受け売りで、もっぱら貨幣を流通手段としてのみとらえ、たんに価値章標にすぎないとしました。彼の貨幣論は貨幣数量説を代表するものといわれています。すなわち「他の事情に変りがなければ、商品価格は流通貨幣量の増加に比例して低下(正しくは上昇――高村)し、その減少に比例して上昇(正しくは低下――高村)する」(四四〇ページ)というものでした。
 ヒュームは「価値そのものについて絶対になにも知っていなかった」(四四三ページ)ために、「貴金属の増加ということと、それの価値下落」(同)とを混同してしまい、貴金属の増加がその価値下落をともなった場合にのみ商品価格が上昇することを正しくとらえることができませんでした。
 「諸商品の交換価値を価格として評価する金または銀の価値が低下または上昇すれば、価格はその価値尺度が変化したのだから、騰貴または下落する。そして価格が騰貴または下落したのだから、より多量のまたはより少量の金銀が鋳貨として流通する」(全集⑬一三六ページ)。
 ヒュームが他方で「自分で自説に反対して」(四四〇ページ)次のように述べているのは、彼の貨幣論に問題があることをそれとなくに物語っています。
 すなわち彼は、アメリカからの金銀の輸入により、ヨーロッパにおける金銀の増加が諸商品の高価格となってあらわれるには「多少の時間を要する」(同)と語っています。これは、ヨーロッパでの金銀の増加が、まず「貴金属の価値尺度の革命」(四四一ページ)、つまり貴金属の価値の低下を引き起こし、それを媒介として諸商品の高価格が遅れて生じることを物語っているのです。
 もし、ヒュームのいうように、貨幣としての貴金属の増加が原因となり、直接商品価格の上昇という結果をもたらすのであれば、貴金属の増加と商品価格の上昇との間に時間的ズレは存在しえないはずであり、ズレが生じることは、因果関係が間接的なものにすぎないことを示しているのです。ヒュームは「貴金属の増加ということと、それの価値下落」とを混同しているために、このように相反する主張を展開することになったのです。
 ヒュームは、価値そのものについても「利潤の本性」(四四二ページ)についても、何も知りませんでしたし、「地主や一般に金持の負担を減らすため」(四四五ページ)の「間接税制度」(同)に賛成したりもしました。その意味では経済学の分野で「ひとかどの人物」(四四四ページ)ではあっても、「けっして独創的な研究者ではなく、まして画期的な研究者などではまったくない」(同)存在でした。
 それにもかかわらず、彼が「経済学上の一等星にまで格上げ」(四四七ページ)されているのは、この人物が「一八世紀のデューリングの役を演じる名誉を担っているという、単純な理由による」(同)ものにほかなりません。

 

六、ケネーの「経済表」

 重農学派のケネー(一六九四~一七七四)は、「一国の富全体の生産と流通とについて」(四四八ページ)、わずか五本の線で示した「『経済表』という一つの謎をわれわれに残し」(同)ました。この「スフィンクスの謎」(一九ページ)を解き明かしたのも、またマルクスの功績に属するものです。
 この五本の線は、農業と工業という異なる生産部門間の商品交換が、地主の地代ともからめられながら、価値的にも素材的にも――この点が重要――補填され、社会的な単純再生産が可能となることを示した「疑いもなく最も天才的な着想」(全集㉖Ⅰ四二八ページ)でしたが、その読解は簡単ではありませんでした。
 デューリングもこの謎に挑戦しますが、さんざん「遠まわしにさぐりをいれたり、むだ口をたたいたり」(四五一ページ)したあとで、「自分にもわからない、と恥ずかしげに告白する」(四五二ページ)のです。
ケネーの経済表とは次のようなものです。
 「ケネーの経済表は、一国(実際にはフランス)の年々の総生産物がどういうふうにこれら三つの階級のあいだを流通し、そして年々の再生産に役だつかを、一目瞭然と示すことを目的」(四五三ページ)としています。
三つの階級とは、生産階級(借地農業者と農業労働者)この剰余を取得する階級(地主)不生産階級(商工業階級と商工業労働者)です。重農学派では、借地農業従事者のみが剰余価値を生みだす生産階級だとみなされているのであり、工業階級は、「生産階級から供給された原料にたいして、同じ生産階級から供給された生活手段のかたちで彼らが消費するのと同じだけの価値しかつけくわえない」(同)から、不生産階級だとされています。
 「借地農業者全体で一〇〇億リーブルの投下資本または資産をもつものとされ、このうち五分の一、すなわち二〇億リーブルは、年々補填されるべき経営資本である」(四五四ページ)(以下リーブルは省略して数字のみ使用することにします)。
 借地農業者が地主に支払う地代は二〇億とします。単純再生産を前提とし、「それぞれの階級の内部だけでおこ
なわれる流通はすべて除外」(同)し、諸階級間の流通のみが、「一個の総額にまとめられてい」(同)ます。出発点となるのは、その年の総農産物・五〇億と地主に支払うべき二〇億の貨幣が生産階級の手中にあるということです。五〇億の生産物のうち二〇億は翌年に補填されるべき借地農業者の経営資本分として取り除かれ、流通には入りません。残りの三〇億の農産物のうち、二〇億は地主と不生産階級の生活手段用であり、残りの一〇億は不生産階級のための原料(綿、羊毛など)用です。他方不生産階級は、二〇億の工業製品(そのうち一〇億は生産階級から購入した原料の価値、残り一〇億は不生産階級がもっている道具、機械の価値が移転したもの)をもっています。 
 こうして、「経済表」の運動が始まる時点での三階級の経済的地位は次のとおりです。
 「生産階級は、彼らの経営資本を現物で補填したあとに、まだ三〇億の農業総生産物と二〇億の貨幣とをもっている。地主階級は、いまようやく生産階級にたいする二〇億の地代請求権をもって現われるだけである。不生産階級は二〇億の工業製品をもっている」(四五八ページ)。
 重農学派は二階級間のみの流通を「不完全な流通」(同)、三階級間の流通を「完全な流通」(同)とよんでいます。
 以上で お膳立てはすべて整いましたので、いよいよ社会的再生産運動の開始です。
 「第一の(不完全な)流通。借地農業者は、反対給付を受けずに、地主にたいして、後者に帰属すべき地代を二〇億の貨幣で支払う。地主は、そのうちの一〇億で借地農業者から生活手段を買う。こうして借地農業者が地代の支払のために支出した貨幣の半分は、彼らの手に還流する」(四五九ページ)。
 この第一の流通の結果、借地農業者の手には、貨幣一〇億と流通に供すべき生活手段用一〇億と、原料用一〇億の農産物が残されており、地主の手元には一〇億の貨幣と、地主が消費すべき一〇億の生活手段があります。不生産階級の手元には、二〇億の工業製品がそのまま残っています。
 「第二の(完全な)流通。地主は、まだ彼らの手中に残っているあとの一〇億の貨幣で、不生産階級から工業製品を買い、そして、この不生産階級は、こうして手に入れた貨幣で借地農業者から同額の生活手段を買う」(同)。
 第一、第二の流通の結果、借地農業者の手には、貨幣二〇億と、一〇億の原料用農産物が残され、地主の手には、いずれも自家消費のための、一〇億の生活手段と一〇億の工業製品が残され、不生産階級の手には、一〇億の生活手段と一〇億の工業製品が残されています。
 「第三の(不完全な)流通。借地農業者は、不生産階級から一〇億の貨幣で同額の工業製品を買う。この工業製品の大部分は、農具その他の農耕に必要な生産手段からなりたっている。不生産階級は、自分の経営資本の補填のためにその同じ貨幣で一〇億の原料を買うことによって、その貨幣を借地農業者に送りかえす。これで、借地農業者が地代の支払に支出した二〇億の貨幣は、彼らの手に還流したことになり、運動は完了したのである」(四六〇ページ)。
 第三の流通によって社会的再生産運動は完了します。借地農業者は、流通に供すべき三〇億の農産物をすべて処分し、二〇億の貨幣と、一〇億の工業製品(剰余価値)、それに来年の農作業に補填すべき二〇億の農産物をもっています。翌年はこの補填分で五〇億の農産物を生産しうるのですから、流通前に比べ、素材、価値ともに補填され、それに加えて一〇億の工業製品を剰余価値として手にしています。地主は、自家消費分の一〇億の生活手段と一〇億の工業製品をもち、二〇億の地代請求権をもっています。不生産階級は、消費すべき一〇億の生活手段と工業製品に転化すべき一〇億の原料をもち、二〇億の工業製品を作り出す準備が整っています。
 こうして翌年度の単純再生産が可能となるのです。生産階級は、二〇億の補填分で五〇億の農産物を生産し、三〇億の剰余を生産する「生産階級」であることを示しています。この三〇億のうち二〇億は地代として分配され、残り一〇億が「借地農業者の総投下資本」(同)である一〇〇億に対する利子(正確には剰余価値または利潤――高村)となり、工業製品の形で借地農業者の手元にとどまっていて、これを自家消費することになります。
 「この利子がなければ、農業の主要な働き手である借地農業者は、農業にたいして投下資本を前払しないであろう」(同)。
 これに対して、不生産階級は、一〇億の原料と一〇億の機械、道具(不生産階級自身の生産物であり、階級間の流通に入らないから「経済表」にはあらわれない)とを使って、二〇億の工業製品を生み出すにすぎませんので、「不生産階級」とされているのです。
 エンゲルスは、この全経過を次のようにまとめています。
 「流通に投じられたのは、借地農業者からは、地代の支払のための二〇億の貨幣と、三分の二が生活手段、三分の一が原料からなる三〇億の生産物とであり、不生産階級からは、二〇億の工業製品であった。二〇億の額の生活手段(テキストの「生産手段」は間違い――高村)のうち、半分は地主とその一党によって消費され、残りの半分は不生産階級によって彼らの労働にたいする支払として消費される。一〇億の原料は、同じ不生産階級の経営資本を補填する。流通にはいる二〇億の額の工業製品のうち、半分は地主のものとなり、残りの半分は借地農業者のものとなるが、後者にとっては、これは、第一次的には農業再生産から得られた、彼らの投下資本にたいする利子の転化形態にすぎない。他方、借地農業者が地代の支払によって流通に投じた貨幣は、彼らの生産物の販売をつうじて彼らの手に還流する。そこで、次の経済年度に新たに同じ循環がおこなわれることができるのである」(四六一ページ)。
 農業と工業とは、社会的な二大分業ということができます。ケネーは、この二大階級に地主を加えた三大階級の間において、生産の無政府性が支配するもとでも、一定の比率で農業、工業製品が生産されるならば、社会的再生産が可能であることを示すことに成功したのです。これにより不滅の功績を残すことになりました。
 マルクスは、ケネーの「経済表」をもとに、資本主義的生産様式のもとで、「生産諸手段の生産部門」と「消費諸手段の生産部門」という資本主義的二大分業のもとで、この二大生産部門がいかなる生産比率を保てば、社会的再生産が可能となるかを研究し、『資本論』のなかで、その「再生産表式」を定式化して示しました。しかもそれを、単なる単純再生産の表式のみならず、資本主義的生産様式の特徴を反映した生産力発展の競争強制法則が働く拡大再生産表式としても示したのです(拙著『「資本論」の弁証法』一粒の麦社)。
 しかし、マルクスはこのような再生産表式を示すことによって、資本主義的生産様式が永遠かつ絶対的なものだといいたかったわけではありません。逆に一定の条件があれば、資本主義的生産の無政府性のもとでも社会的に拡大再生産は可能ではあることを明らかにしたにとどまり、それと同時に生産と消費の矛盾という資本主義的矛盾によって拡大再生産の条件が崩壊し、恐慌とならざるをえない必然性をも証明してみせたのです。
 しかもマルクスは、資本主義的生産様式は、生産力の発展から生じる一般的利潤率の低下により、その矛盾をいっそう激化させ、単に恐慌をくり返すのみならず、資本主義の没落の必然性にまでつながることを明らかにしました。

 

七、デューリング「経済学」の総括的批判

 ここまできて、「究極の決定的真理」を主張するデューリングの「経済学」とは何だったのかを、ようやく総括しうる段階となりました。
 「あらゆる大言壮語といっそう大仰な約束とにもかかわらず、『哲学』の場合と同じように、われわれがいっぱい食わされたという事実のほかにはなにもないのである」(四六四ページ)。
 資本主義的生産様式の運動法則を解明する狭義の経済学は、価値論にはじまり価値論に終わるといっても過言ではありません。だからこそ近代経済学は、ペティにはじまり、スミス、リカードに至るまで、価値論の真理を探究する長い、苦難の歴史をたどり、やっとマルクスの労働価値説と剰余価値学説により真理に到達することができたのです。
 それにもかかわらず、デューリングは、『資本論』を読みながらも、「五種類の、まったく異なった、まっこうから矛盾しあっている」(四六五ページ)価値論を展開し、ペティの時代に歴史を二百年も逆行させて、再び混迷の時代へと立ち返っているのです。
 彼ができる唯一の説明は、「あらゆる経済現象の最終の究極原因であり決定的な説明」(同)は、暴力の結果だということにつきます。しかも、彼は表面ではマルクスを口汚く罵倒しながら、裏口からこっそり「剰余労働や剰余生産物や剰余価値にかんするマルクスの理論」(同)を引き込むという姑息な手段にでているのです。
 「ちょうど哲学で彼がヘーゲルをたえず浅薄化しながら利用する一方、当のヘーゲルにたいしておよそ無礼なことばをあびせてまだあびせたりなかったのと同じように、『批判的歴史』で彼がマルクスにたいする底ぬけの中傷をやっているのは、『教程』のなかに見いだされる資本や労働についてのまだいくらかでも合理的な考えはみな、同じやり方でマルクスを浅薄化しながら剽窃したものだという事実を隠す役をしているにすぎない」(四六五~四六六ページ)。
 結局「はじめには自画自賛、大道やし的な大ぶろしき」(四六六ページ)、「あとには――ゼロに等しい『成果』がくる」(同)のです。