『エンゲルス「反デューリング論」に学ぶ』より

 

 

第一八講 社会主義②
     「デューリング式社会主義論」批判

 

一、「デューリング式社会主義の生産・交換・分配論」批判

「デューリングの経済コミューン」批判

 テキスト第二章「理論的概説」の四八八ページ以下は、科学的社会主義の「社会主義論」として、きわめて重要な意義をもっていますので、後回しにして、先にデューリングの社会主義論を検討してみることにします。
 第三篇の第三章「生産」、第四章「分配」、第五章「国家、家族、教育」は、全体としてデューリングの社会主義論とその批判となっています。
 私たちには、彼の社会主義論の全体像が判然としませんし、またそれを議論する今日的意義もあまり認められませんので、ポイントをしぼって検討していくことにしましょう。
 まずデューリング社会主義の経済的諸関係、生産・交換・分配の問題からみていくことにします。
 彼の体系は、「経済コミューンの連合」(五一二ページ)からなりたっており、このコミューン連合は「商業コミューン」(五二九ページ)に包括されています。個々のコミューンは、「一区画の土地と一群の生産施設とにたいする公的な自由処分権によって結合されて共同で活動し、収益に共同であずかる人々の共同体」(五一二ページ)であり、一つの生産共同体として考えられています。いわば、コミューンが生産手段を所有し、生産物も取得して、分配するのです。
 「人々の総体がいっさいの生産手段の所有者であり、したがってまたいっさいの生産物の所有者であるのだから、この交換は、個々人のあいだでおこなわれずに、一方では各経済コミューンとそれの個々の成員とのあいだで、他方では相異なる経済コミューンおよび商業コミューンそれ自体のあいだでおこなわれる」(五二九ページ)。
 商業コミューンの役割は、「個々のコミューン相互のあいだの生産物の面での競争を、商業の全国的な組織化によってとりのぞこうとする」(五一三ページ)ところにあるようですが、どうやってそれを実現するのか不明です。商品交換の基準となるのは、「労働は、……平等な評価の原則にもとづいて他の労働と交換される」(五二九ページ)というものであり、「その業務は、貴金属によってあたえられる貨幣基礎を媒介としておこなわれ」(同)ます。
 いわばデューリングは、社会主義の経済体制をコミューン単位に生産される商品が市場をつうじて交換されるものとしてとらえているのです。
 これに対するエンゲルスの批判の基本的見地は、本来の社会主義は生産手段の社会化にもとづく計画経済にあり、したがってそこでは、生産物は商品にはならず、商品交換のための市場も不要であり、価値規定そのものも否定されるというものです。それを順次みていくことにしましょう。

「デューリングの生産論」批判

 経済コミューンでの「生産はどのようにしておこなわれるのか」(五一四ページ)をみるには、分業をどうとらえているのかを検討しなければなりません。というのも分業は「いっさいの生産の基本形態」(五一五ページ)だからです。分業には「社会内部における分業」(同)と「それぞれの生産施設内部における分業」(同)とがあります。
 「最初の大きな社会的分業は都市と農村の分離である」(同)。資本主義社会のもとでなぜ都市と農村との分離・対立が生じているのでしょうか。それは利潤第一主義のもとで、生産力を無制限に発展させうる工業は、生産力を自然的条件によって制約されている農業に比べて、より多くの利潤を生産しうるからです。工業を中心として都市が発展することによって、農村から都市への人口移動と農村破壊がおこなわれ、都市と農村の対立が生じるのです。
 デューリングは、「農業と工業のあいだの溝」(同)は、「事柄の性質上避けられないもの」(同)としたうえで、火酒醸造と甜菜糖製造の二部門によって緩和されるだけだとして、農業と工業の対立を肯定し、都市と農村の分離を肯定しています。
 これでは、資本主義と変わらないのではないかいうのが、エンゲルスの批判です。社会主義的な計画経済のもとでは、工業と農業とは釣り合いの取れた発展をもたらすものでなければなりません。そのためには、国家による農業保護政策によって農産物の価格保障、所得保障を実現し、工業と農業の所得の格差を解消しなければなりません。いま中国では社会主義市場経済に転換したもとで、都市と農村、東部と中西部との所得格差が深刻な問題となっています。そこで格差解消のために、「社会主義の調和のとれた社会」の実現が当面の重要な課題となっています。この問題を解決し、社会主義の体制的優位性を示しうるかがいま中国に問われているのです。
 また、計画経済のもとにおいて、工業を利潤追求の観点からではなく、適正配置の観点から全国に配置することがはじめて可能となります。
 「自己の生産力を単一の大規模な計画にしたがって調和ある仕方で組み合わせる社会においてはじめて、工業それ自体を発展させるとともに、その他の生産要素をも維持ないし発展させるのに最も適当した仕方で、工業を全国に分散させて配置することができる」(五二四ページ)。
 次に生産施設内部における分業について、デューリングの考えをみてみましょう。
 資本主義的生産の場合、労働者は分業により「一つの部分的機械の部分に転化」(五一八ページ)させられ、「文字どおり肉体的および精神的に不具化」(同)されてしまいます。ユートピア社会主義者ですら、「すでに分業の結果を完全にはっきり理解」(五一九ページ)していました。
 それなのにデューリングは、「万事はだいたいいままでどおり」(五一七ページ)だとして労働者を機械にしばりつけることを肯定し、「分業の奴隷」(五二〇ページ)にとどめているのです。しかも経済コミューンは生産物の交換をつうじて市場での競争を強制されますので、労働者は単に機械にしばりつけられるだけではなくて、「人間はもとどおり競争に従属させられたまま」(五一四ページ)となるのです。
 エンゲルスは、『猿が人間化するにあたっての労働の役割』(全集⑳)において、労働は「あらゆる富の源泉」(同四八二ページ)であるにとどまらず、「人間そのものをも創造した」(同)とのべています。労働は、人間の本質である自由な意識を自然物に対象化することによって自己実現し、生きる喜びをもたらします。しかし資本に従属し、その専制支配下における労働は、生きる喜びから苦役へと転化します。
 自由な生産者たちのアソシエーションとしての社会主義では、労働は、分業による奴隷状態からも、競争原理にもとづく過重な長時間の過密労働からも解放され、自主的・自発的労働となって本来の「人間そのものをも創造」する労働に回復するのです。
 エンゲルスは、社会主義的生産組織は、次のようなものでなければならないといっています。
 「それは、一方では、なんびとも、人間の生存の自然的条件である生産的労働にたいする自分の受持分を他人に転嫁することができず、他方では、生産的労働が人間を隷属させる手段ではなくなって、各人にそのいっさいの肉体的および精神的能力をあらゆる方向に発達させ発揮する機会を提供することによって、人間を解放する手段となり、こうして、かつては重荷であった生産的労働がたのしみになる、そういう生産組織である」(五二一ページ)。
 これに対して、デューリングの生産組織は、分業も競争も「まったく昔のままの方式でおこなわれる」(五一四ページ)というのですから「違っているのは、コミューンが資本家にとって代わることだけである」(同)ということになってしまいます。

「デューリングの分配・交換論」批判

 こうして彼の経済コミューンの生産については、「ほとんど一言も語るべきことをもっていない」(五二八ページ)のに対し、分配は「純粋な意志行為によって規定される」(同)とする彼の得意の分野なのですが、ここでも事態はけっしてうまく運びません。
 彼は、経済コミューン相互の間においてもコミューンとその成員の間においても、「等しい労働が等しい労働と」(五三一ページ)交換されるとしています。
 経済コミューン相互の間においては、企業間の生産物の交換ですから、「等しい労働と等しい労働」の交換で何の問題も生じませんが、問題は、コミューンとその成員との間にこの問題を適用するとどうなるかにあります。
 この原則をコミューン内に適用しますと、「六時間の労働に対しては、同じく六労働時間を体現する貨幣額が支払われること」(同)になります。つまり生産者が生産した価値と、彼に支払われる価値額(貨幣額)とは等しいとされるのです。となれば、コミューンは自らの富をふやすことも、蓄積することもできませんから、拡大再生産をすることも、共同の利益である教育、医療、福祉、年金などに富を回すこともできないことになってしまいます。そうでなければ、資本主義的搾取を復活するしかありません。
 「二つに一つである。第一の場合には、経済コミューンは『等しい労働と等しい労働を』交換する。この場合には、生産の維持と拡張のための基金を蓄積できるのは、コミューンではなくて、私人だけである。第二の場合には、コミューンがそういう基金を形成する。この場合には、コミューンは『等しい労働と等しい労働を』交換しない」(五三四ページ)。
 先に価値論でみたように、デューリングは、労働力と労働とを区別せず、労働力の価値と、労働力を使用してえられた価値とを区別しえないために、こんな空文句を繰り返しているのです。
 次に、交換の問題をみてみましょう。デューリングは、交換は「貴金属によってあたえられる貨幣基礎を媒介としておこなわれる」(五二九ページ)といっています。
 この文章に意味があるとすれば、それは商品社会において、すべての商品と交換しうる一般的等価物としての貨幣である貴金属を意味しているということでしょう。
 ではなぜ商品社会において金属貨幣が生まれるのでしょうか。第一四講で学んだように、生産の無政府性が支配する社会においては、各商品に含まれている労働時間は、交換をつうじて相対的比率(交換価値)においてしか表現することができません。
 「それは、普通に労働時間を測るときのように、直接に、絶対的に、労働時間数または日数等々で測られたわけではなく、回り道をして、交換を媒介として、相対的に測られたのである」(五四二ページ)。
 この回り道をできるだけ短縮するために、市場は「他のすべての商品の価値をきっぱりと表現できる一つの王侯格の商品」(五四二~五四三ページ)を選び出すのであり、それが、金属貨幣にほかなりません。それは、商品世界から排除された特別の一商品であり、自ら一定の価値をもっているので、自らの身体で、他の商品の価値を相対的に示すことができるのです。
 したがって、生産が計画的に組織され、それぞれの生産物にどれだけの労働時間が含まれているかを直接に把握しうる社会においては、回り道をしてわざわざ労働時間を価値に置きかえる必要もないし、金属貨幣を使用する必要もないのです。
 「だから、そのときになれば生産物に投入された労働量が社会には直接にまた絶対的にわかっているのに、その後もあいかわらず、以前には便法としてやむをえなかった、たんなる相対的な、動揺的な、不十分な尺度で、すなわちある第三の生産物でそれを表現し、それの自然的な、十全な、絶対的尺度である時間で表現しないなどということは、社会にとって思いもよらないことである」(五四五ページ)。
 もしデューリングのいうようにコミューンの内外で流通の手段として貨幣が使用されるとすればどうなるでしょうか。貨幣は、商品交換から生まれた流通手段ですが、同時にそれは価値尺度として富の象徴となりますので、貨幣は、その反作用として商品流通を促進し、商品社会を形成していくことになります。
 「貨幣は、それまで直接の自家消費のために生産されていた対象にまで商品形態を押しつけ、それらを交換のなかに引きずりこむ。そのことによって、商品形態と貨幣とは、生産のために直接に社会的に結合した共同体の内部経済のなかにまで侵入し、共同体の紐帯をつぎつぎに断ちきり、共同体を解体させて私的生産者の群れにしてしまう」(五四七ページ)。
 したがってデューリング式経済コミューンは、仮にできあがったとしても、早晩「解体させてしまうにちがいない」(五四八ページ)のです。

エンゲルスの批判の検討

以上、社会主義的生産組織について、デューリングの見解とエンゲルスの批判をみてきました。
 デューリングのコミューン論は、資本主義的分業と競争を無批判的に肯定しているという基本的弱点をもちながらも、コミューンを生産単位とし、コミューンが生産手段と生産物を所有し、その生産物を市場で交換するという市場経済の立場にたっています。二〇世紀の社会主義の実践をつうじて、計画経済と市場経済の統一にこそ社会主義の真にあるべき姿があることが明らかになったことからすると、彼のコミューン論にも一定の積極的側面があったことは否定できないように思われます。
 他方エンゲルスの批判は、生産者の自由なアソシエーションと計画経済の優位性を語りながらも、計画経済により、商品生産も、市場経済も、価値規定すらも不要になるとしているのは問題だと思われます。
 こうしてみると、デューリングのコミューンには市場経済に偏する一面性があり、エンゲルスには計画経済に偏する一面性があるように思われます。
 最後に、マルクスは『資本論』で、社会主義社会においても価値規定は重きをなすといっています。それは計画経済と市場経済の統一までも見通したものとは思われませんが、市場経済の意義を一定評価したものとして参考までに記しておきます。
 「資本主義的生産様式の止揚後も、しかし社会的生産が維持されていれば、価値規定は、労働時間の規制、およびさまざまな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にこれについての簿記が、以前よりもいっそう不可欠なものになるという意味で、依然として重きをなす」(『資本論』⑬一四九〇ページ/八五九ページ)。

 

二、「デューリングの国家、家族、教育論」批判

「デューリングの社会主義国家論」批判

 デューリングの社会主義国家論にとっては、ルソーは「唯一の重要な先駆者」(五五二ページ)であるとされています。
 ルソーの『社会契約論』は真にあるべき国家とは何かを論じた著作です。その内容は、リンカーンの言葉を借りると人民の人民による人民のための国家という人民主権論を展開したものであり、社会主義国家をも展望したものとなっています。 
 デューリングが、ルソーに注目して国家論を論じたことは、今日的到達点からすると、積極的に評価されるべきだと思います。しかし、彼は、哲学におけるヘーゲルの場合と同様に、ルソーを剽窃しながら、持って回った言い方にかえ、「ルソーを徹底的に水で薄め」(五五二ページ)、人民主権論を「水っぽい乞食スープ」(同)に変えてしまったところに問題があるのです。
 ルソーの人民主権論は、社会契約にはじまります。社会契約とは、「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護する」人民の契約です。この社会契約にもとづき、人民が一般意志(真にあるべき人民の政治的意志)を形成し、これを主権意志、国家統治の意志として、治者と被治者の同一性を実現します。いわば、人民の人民による人民のための政治です。一般意志は、至高の主権意志として、行政、立法、司法の三権の全体を支配するのであり、三権によって一般意志を解体し、分割することは認められません。国家権力も、国会議員や内閣の閣僚も、すべてこの一般意志にしたがって行動しなければならないのです。
 この人民の一般意志は、全体意志(多数意志)から区別されます。全体意志を一般意志にまで高めるには、神のような導き手が必要だとルソーはいっています。
 では、これをデューリング語に翻訳してみましょう。出発点となるのは、「不正な侵害に対する相互援助を目的とする」(五五二ページ)社会契約であり、この契約から「たんに個々人にたいする多人数の優勢」(同)から区別される「個人の主権」(同)が形成されることになります。この「個人の主権」とは一般意志の意味であり、一般意志は、「多人数の優性」、つまり全体意志から区別されるというわけです。しかし一般意志を「個人の主権」としたのでは、ルソーの人民主権論の真髄が損なわれてしまいます。デューリングは、「この主権こそ、そこから真の諸権利がみちびきだされてくる唯一の源」(同)と述べ、一般意志が至高の主権意志としてすべての国家権力を支配することを示そうとしていますが、これを「個人の主権」としたのでは、なぜそれが至高の主権意志となるのかを理解することはできません。
 ルソーによると一般意志は、その構成員に対する絶対的な拘束力をもちます。同様にデューリングの「個人の主権」は、各人を「国家にたいする関係では絶対的な強制」(五五三ページ)のもとにおき、「立法府と裁判官」も、「人々の総体」(同)=一般意志の「手ににぎられて」(同)いるというのです。
 このようにデューリングは、いたるところで『社会契約論』からの引き写しをしながら、ルソーの人民主権が、一般意志の支配による人民の人民による人民のための政治であることだけは正面から語ろうとしないのです。

「デューリングの宗教論」批判

 デューリングの未来社会では、「礼拝のあらゆる本質的要素を廃止しなければならない」(五五四ページ)とされています。
 なるほど宗教の多くは、現世的苦しみの原因から目をそらさせ、死後の世界で救済されることを理由に現世の苦しみを受容させるという観念論的な誤った認識を植えつける役割を果たしています。
 しかし問題はなぜこのような宗教観がくり返し様々な形態で再生産されるのか、という唯物論的な原因の探求こそが、宗教問題への解決の道を切りひらくということです。
 「いっさいの宗教は、人間の日常生活を支配する外的な諸力が、人間の頭のなかに空想的に反映されたものにほかならないのであって、この反映のなかでは、地上の諸力が天上の諸力の形態をとるのである」(五五五ページ)。
 では、「日常生活を支配する外的な諸力」とは何か。それは資本主義社会の根本矛盾から生まれる、富と貧困との対立です。その対立・矛盾は人民に「貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積」(『資本論』④一一〇八ページ/六七五ページ)をもたらし、人民はその救いを宗教という「空想的反映」(五五五ページ)に求めるのです。
 「宗教は、人間を支配する外的な自然および社会的な諸力にたいする人間のふるまいの直接的な、すなわち情緒的な形態として、人間がこのような諸力の支配のもとにあるかぎり、つづくことができるのである」(五五六ページ)。
 宗教をなくすためには、「宗教は禁止」(五五五ページ)するのではなく、このような外的な力の支配から生まれる苦しみそのものを消滅させなければなりません。
 「すなわち、社会がいっさいの生産手段を掌握しそれを計画的に運用することによって、社会自身とその全成員とを、現在彼らがこの生産手段……のためにおとしいれられている隷属状態から解放するとき、したがって、人間がもはや事を計画するだけではなく事の成否をも決するようになるとき、そのときにはじめて、いまなお宗教に反映されている最後の外的な力が消滅し、それとともに宗教的反映そのものも消滅する」(五五六~五五七ページ)。
 デューリングのように、「宗教がこのような自然死をとげるまで待ちきれ」(五五七ページ)ず、これを国家権力によって禁止しようとすることは、かえって「殉教を助長し、宗教の寿命を延ばす手だすけをする」(同)ことにしかならないのです。

「デューリングの家族、教育論」批判

 デューリングは、未来社会の家族について、ほぼ十四才までは「母親の手に託」(五五八ページ)され、それ以降は「父親の自然的な後見」(同)に入るとしています。
 エンゲルスは、生産と交換の様式が、「あらゆる社会的制度の基礎」(四八三ページ)であり、家族制度もまたその例外ではないとの立場にたって、「ここでも彼は、近代のブルジョア的家族からそれの経済的基礎全体を切りはなしても、この家族の形態全体を変えずにすむ、と空想している」(五五八ページ)と史的唯物論の見地から批判をしています。
 現に、資本主義的生産様式の工場制大工業のもとで、生産が内容上社会化されることにより、「婦人や男女の青少年や児童に決定的な役割を割り当てることによって、家族と両性関係とのより高い形態のための新しい経済的基礎」(五五九ページ)がつくり出されてきたことを私たちはまのあたりにしてきました。空想的社会主義者でさえも、「人間が自由な社会的結合をつくり、私的な家事労働が一つの公的産業に転化するとともに、ただちに青年教育の社会化が、それとともにまた家族成員の真に自由な相互関係が生じる」(同)と考えていたのです。
 社会的生産と社会的取得の社会主義のもとにあっては、男女平等の社会に開かれた家族関係に転化し、家事労働の多くも社会的労働に転化していくことになるのです。
 デューリングの未来社会の学校教育に関しては、一貫性のない場当たりの思いつきの議論が展開されているにすぎません。すなわち、そこでは、「世界観と人生観とに関係のあるあらゆる科学の基礎と主要な成果」(五六〇ページ)を授けることを目的とし、「総合数学のまったく新しい原理」(同)、「天文学と力学と物理学」(同)「動・植物学」(同)、「真正な理想を描写した詩」(五六一ページ)、「終局的な哲学的基礎」(五六三ページ)などが、あれこれ羅列されたにすぎません。
 何よりも問題なのは、そこには学校教育の「理念」が全く存在しないということです。もし学校教育が人間としての基礎的な教養を培うことを目的とするのであれば、読み、書き、計算という土台のうえに、人間が社会の主人公となり、真に平等で自由な人間関係からなるアソシエーション、社会主義、共産主義社会の未来のにない手となる人間を育成するという理念をもたなければなりません。
 マルクス、エンゲルスは、未来社会を「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つのアソシエーション」(『共産党宣言』全集④四九六ページ)としてとらえました。つまり、未来社会の人民は、個人の尊厳のもとに自由な個性の発展が保障されると同時に、主権者として一人ひとりが一般意志形成に参加する人間として、人間の尊厳も確立されなければならないのです。マルクスの「ユダヤ人問題によせて」の次の文章も、アソシエーションの担い手となる人民は、私人であると同時に主権者たる公民でなければならないことを指摘したものです。
 「現実の個別的な人間が、抽象的な公民を自分のうちにとりもどし、個別的な人間のままでありながら、その経験的な生活において、その個人的な労働において、その個人的な関係において、類的存在となったときはじめて……人間的解放は完成されたことになるのである」(全集①四〇七ページ)。
 資本主義的教育は、個人の尊厳のみを一面的に強調するものとなっているのに対し、社会主義的教育は、個人の尊厳と人間の尊厳、市民の権利と公民の権利とを統一するものでなければなりません。
 いわば、人間の本質である自由な意識と共同社会性が全面的に発揮され、人間としてより善く生きる人間解放を実現する教育を理念にしなければならないのであり、「真に人間的な道徳」(一四五ページ)の教育が重要となってくるのです。
 デューリングのいう「世界観と人生観」とが「終局的な哲学的基礎」をもしとりあげるのだとしたら、それはこのような社会主義・共産主義社会の未来の担い手としての教育でなければならないでしょう。
 最後にデューリングの大学教育論をみてみましょう。
 彼は、平等論において、人間には、動物性(野獣性)と人間性の面で不平等があると主張しましたが、その理論の展開として、未来社会の「優生保護法」の必要性を強調します。
 「人間的なものまたは非人間的なものの究極の根底は、おもに性的な配偶と選択に、なおそれにくわえて、出生の一定の結果を確保」(五六六ページ)するための心づかいが求められるのであり、「どのみちできそこないにしかならないような人間の出生が予防されるなら、その事実は明らかに一つの利益である」(同)。
 デューリングの議論は、ナチス・ドイツによるドイツ人の人種的優越性とユダヤ人抹殺を思わせるものにほかなりません。
 今日ヒトのゲノム作戦が進行中であり、ヒトのDNA全体の解明をつうじて、人間の生存にとってマイナスの遺伝子が発見されることが予想されています。マイナスの遺伝子をもった胎児に対して、国家が強制的に介入しうるのかは、近い将来現実となる可能性をもっています。
 結婚するかどうか、妊娠・出産するかどうかは、個人の尊厳に関わる問題であり、自己決定権の問題です。国家は、胎児がマイナスの遺伝子をもっていることを指摘することはできますが、それ以上の処置を命じることは個人の尊厳をおかすことになります。両親または母親は、その情報を得たうえで、なおその胎児を出産するか否かについて自己決定権をもつものといわなくてはなりません。

 

三、デューリングへの総合判断

 結局、究極の決定的真理とされたデューリング式社会主義は、これまでのすべての問題と同様、がらくたの寄せ集めにすぎないがらくたワールドであり、それを学ぶことによって何一つ新しい知識を手にすることはできませんでした。
 いまやデューリングへの「われわれの総合的判断」(五七〇ページ)をくだすべきときがきました。「いわく、誇大妄想による責任無能力、と」(同)。