『ものの見方・考え方』より
第一講 何のために学ぶのか
自己紹介
今回から、二十四回にわたって哲学講座を担当することになりました。全体として中小業者の社会変革の展望と組織者の役割についてお話ししたいと思いますのでよろしくお願いします。
最初に、自己紹介をしておきます。一九三七年、当時日本の植民地だった朝鮮・京城で出生。敗(現ソウル)戦後無一文で命からがら内地(日本)へ引き揚げてきました。二ヵ月あまりの苦難の旅の末、佐賀県唐津市に上陸。その時に食べた玉ねぎとじゃが芋のみそ汁のおいしかったことは、言葉に尽くせないほどでした。今でも大好物です。
間もなく原爆の焼け跡も生々しい広島に定住。父は戦前の公務員から荒物屋に転業「更正商会」と名づけた。ところに父の思いが込められていたのでしょう。当分食うや食わずの生活で、栄養失調となり「虚弱児」と診、断されました。
この戦前・戦後の激動の時代の経験から、戦争は絶対悪との観念が定着したように思います。
今でこそ民主主義という言葉はごく普通に用いられていますが、新憲法制定にともない一挙に広がったこの言葉は、当時特別の輝きをもつと同時に、一体何のことかと多大の疑問を抱かせるものでした。というのも、それまでまったく耳にしたこともなかった言葉だったからです。
青年期は、いかに生きるかという人生の内的目的を模索する特有の時期です。その時期は、ちょうど歴史的な安保闘争に重なり、目が大きく社会に向かって開かれる機会になりました。
大学卒業後、広島の東洋工業に就職。組合活動に参加するなかで、はじめて科学的社会主義と接(現マツダ)触します。いろいろあって四年後退職し、労働弁護士への道を歩むことになりました。一九八九年広島県労働者学習協議会を再建し、それ以来会長を務めています。
科学的社会主義の学習をつうじて、次第に哲学に関心をもつようになり、三〇代の後半からヘーゲル哲学を独習しはじめました。悪戦苦闘の連続のなかで、次第に哲学のおもしろさに惹かれて、今日に至っています。
科学的社会主義の学説
ちょっと長めの自己紹介になりましたが、平凡な一人の人間が、科学的社会主義の学説と運動にふれることで知的関心を高め、今では学習すること自体に喜びを見いだしていることをお伝えしたかったからにほかなりません。
人類の認識は、その長い歴史をつうじて、様々な曲折を経ながらも着実に前進しています。その知的遺産の集中的表現が哲学にほかなりません。人類の認識の前進とたたかいが社会を動かす力となってきたのです。
ギリシャ時代に一挙に開花した哲学は、中世の暗黒時代を経て、近世に再び開花します。近世とは自我の目覚めの時代であり、個人の尊厳、人間の尊厳が確立していった時代です。それはまた封建制社会から資本主義社会へ移行する時代でもありました。
マルクス、エンゲルスによって創始され、その後のロシア革命をはじめとする全世界の人民のたたかいのなかで豊かにされてきた科学的社会主義の学説は、人類の知的遺産の総括のうえに開花した学説として誕生し、不断に発展する真理探究の学説です。
レーニンは、科学的社会主義の学説は「正しいので全能であるといいました。最」(レーニン全集⑲三ページ)初にこの文章にふれたとき、そんなこといっていいのか、と思いましたが、現在では、これが決して宣伝文句ではなく、文字どおりに受けとめうる真理であることを実感しています。
問題は、なぜ正しいのか、にあります。
「マルクス主義には、世界文明の発展の大道のそとで発生した、なにか閉鎖的で、硬化した学説という意味での『セクト主義』らしいものはなにもない。反対に、人類の先進的な思想がすでに提起していた問題に答をあたえた点にこそ、まさにマルクスの天才がある。彼の学説は、哲学、経済学、社会主義のもっとも偉大な代表者たちの学説をまっすぐ直接に継続したものとして生まれたのである。」(同)
科学的社会主義の学説は、人類の真理探究の発展の本流に位置して(当時はマルクス主義とよばれていました)いるからこそ、正しくて全能なのです。
二〇世紀末に「社会主義国」といわれていた旧ソ連や東欧が崩壊するなかで、科学的社会主義の学説は破綻したとの大合唱が展開されました。
私たちは、科学的社会主義の学説に照らして、ソ連、東欧の「社会主義」は本来の社会主義とは縁もゆかりもないものと考えていましたので、こうした議論にたじろぐことはありませんでしたが、それを機に広島県労働者学習協議会(県労学協)では、そもそも科学的社会主義の学説はいかにして誕生したのかという、その源泉を訪ねる学習の旅に出ることになりました。そのことをつうじて、マルクス、エンゲルスの学説が、ルソーやヘーゲルという近代民主主義思想の最良のものを継承し、発展させたものとして誕生したことに確信をもつことができました。
知は力、知は最善のもの
よく「知は力である」といわれます。一個人をとっても、学ぶことによって生きる力が生まれてくると同時に、みんなが学ぶことによって、社会を動かす力が生まれてくるということをも意味しているでしょう。
しかし、それだけでは学ぶことの意義を汲みつくしたとは言えないと思います。
脳科学者の松本元氏は、脳とコンピューターの違いについて、脳は、学習することで情報処理の仕方を獲得すること自体を目的とした存在であるのに対し、コンピューターは、取り込んだ情報をいかに速く処理し出力するかを目的とする存在であると述べています。脳とコンピューターは、目的と手段とが逆になっているのです。
言いかえると、脳は、学習すること自体に価値を見いだし、それが成し遂げられることをもって「快」とする存在なのです。かつてアリストテレスは「認識は至福のものであり、善のうちでも最善のものである」と言い、ました。県労学協の哲学講座に深くかかわっている仲間は「学習することが一番安上がりで、楽しい時間だ」と言っています。
バクテリアなどの原始的な生物でも、生命体としての自己を維持するために、その構成システムを維持するうえで必要な物質やエネルギーとはなにかを学習し、学習したものを選択して体内に取り入れ、同化していきます。いわば学習することは、生命体が生きていくうえで不可欠の機能なのです。すべての生命体にとって不可欠の機能としての学習は、生命体の最高峰である人間にとって、単に本能的な機能であるにとどまらず、人間らしく生きるうえで「至福のもの」であり「最善のもの」にまで高められているのです。
知は自由
では、なぜ人間にとって学習することは「至福のもの」なのでしょうか。
思うに、それはもっとも人間らしい営みであり、人間は学習することによって、より人間らしくなっていくところにあるように思えます。
ヘーゲルは、人間の本質は自由にあるといっています。なぜなら、物体にとって重さが根本規定であるように、意志の根本規定は自由だからです。意志は自由なしには空語であり、自由もまた意志においてはじめて現実的になるのです。
人間と動物とが決定的に違うのは、動物は与えられた環境のなかで受動的に生きるだけなのに対し、人間は与えられた環境をより良いものに作り替える能動的な力をもっているということです。その能動的な力の大もとになるのが、人間の自由な意志なのです。つまり人間は自由な意志をもつことによって、人間らしくなっているのです。
ヘーゲルは、この自由の問題について、もっとも深遠な理論を展開した哲学者です。それまで、人間は自由意志をもっているのか否かの問題をめぐって、自由と必然の対立する論争がありました。一方は自由意志を肯定するというものであり、他方は客観世界を因果法則によって支配されている必然性の世界であるとして、人間の自由意志といわれるものもこの必然性に支配された不自由なものでしかないとするものでした。この問題に決着をつけて、自由と必然の統一を主張したのがヘーゲルだったのです。
ヘーゲルは、まず自由な意志とは、決定する自由であるとしたうえで、必然性との関係で自由をとらえ、それを低い段階からより高い段階へと三段階に分けて論じました。
第一段階の自由は、客観世界のもつ法則性、必然性とは無関係に意志決定する、つまり恣意の自由です。
光り輝くガラスとダイヤモンドは、姿・形は似ていますが、その価値は全く異なります。ですからダイヤモンドは、ガラスと違って高い硬度をもっているという法則的知識がなければ、ダイヤモンドを選ぶか、それともガラスを選ぶかは偶然であり、恣意の自由にすぎないのです。
ヘーゲルは、このような恣意は「内容からすれば真実で正しいものを選ぶ場合でさえ、気がむいたらまた他のものを選んだかも知れないという軽薄さを持っている( 『小論理学』一四五節補遺)といっています。
そこで、この恣意を、決定する自由という「形式」をもつかぎりでの自由にすぎず「内容」をともなっていないという意味で「形式的自由」とよんでいます。、
第二段階の自由は、客観世界がどのようにあるのか、その法則、必然性を認識したうえで、その認識にもとづいて意志決定する自由です。
ダイヤモンドの本質について学習していれば、ダイヤモンドの指輪と偽られてガラスの指輪をつかまされることもありません。いわば、客観世界の法則、必然性を認識したうえでの意志決定は、正しい真実なものを選択しうるのです。
これが必然との統一における自由、内容と形式の統一における自由であり「必然的自由」とよば、(普遍的)れています。
この必然的自由は客観世界に適応して生きるために必要なものであり、動物もまた限られた範囲ではあってもこの自由をもっているのです。
第三段階の自由は、客観世界の法則、必然性を認識したうえで、客観世界をより良いものに変革する意志決定の自由です。
客観世界を変革しようと思えば、まず客観世界の法則、必然性を認識しなければなりません。人間は、労働をつうじて自然の法則性を認識し、そのうえで、その物の真にあるべき姿をとらえることによって、それを目標に自然をつくりかえ、次第により高度の、かつ複雑な労働生産物を生み出してきました。このような変革の立場からの意志決定の自由は「概念的自由」とよばれています。、
概念的自由こそ、人間を動物界から区別するものであり、この自由をもつことによって人間は人間らしくなっていくのです。
人間は、生まれたばかりの状態では、まだ自然に埋没したままであり、自由な意志をもたない自然的存在でしかありません。しかし成長するに及んで、様々な学習をつうじて自由な意志をもつにいたり、学習を積み重ねることによって形式的自由から必然的自由へ、ついで概念的自由へと前進し、概念的自由に到達することによって、はじめて動物界から完全に離脱することになるのです。
その意味からすれば、人間は、学習することによってより自由になり、学習することによってより人間らしくなっていくのです。
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