『ものの見方・考え方』より

 

 

第四・五講 人間とは何か

 

〈第四講〉

本質と現象

 第二講、第三講で「哲学とは何か」を検討してきました。
 哲学(英語でフィロソフィー)とは、ソクラテスが用いたフィロソフィア(知を愛する)に由来しています。哲学の対象となるのは、人間、自然、社会という世界のすべてであり、そこから世界全体を統一的にとらえようとする哲学的世界観が生まれてくることもお話ししました。
 知を愛する哲学は、その対象となるものが一体何であるかを知ろうとします。いわば、その対象となるものの真の姿は何かを知ろうとするのです。しかし事物の真の姿といっても、いろんなレベルでの真の姿があります。
 人間は、目や耳や手によってとらえる感覚的認識によって、事物の表面的な姿をとらえることができます。例えば「今日はいい天気だな」とか「美しいバラだな」というような認識です。これはこれで正しいのですが、人間はそれだけでその知的欲求を満足させることはできません「どうして天気は移り変わるのだろうか」とか「なぜバラはこんな赤い色をしているのだろうか」など、さらに事物の奥に隠された真理を思惟の力によって認識しようとするのです。
 この事物の奥に隠された真理が、本質、実体、類、法則などといわれるものです。これらのもつ意味は、必要に応じて検討していくことにして、ここでは「本質と現象」の関係を論じておきましょう。
 「人々は哲学の課題あるいは目的は、事物の本質を認識することにあると考えている。……ここでは事物の直接的存在は、言わばその背後に本質がかくされている外皮あるいは幕と考えられているのである。── さらに、あらゆる事物は一つの本質を持つと言われるならば、それは、事物の真の姿は直接にあらわれているとおりのものではないことを意味する」( 『小論理学』一一二節補遺)。
 本質とは、事物の内にあり、事物の真の姿を示す普遍的なものです。真の姿ですから、事物が様々に変化しても、そのなかにあって本質は不変なもの、恒久的なものなのです。この内にある本質が外にあらわれたものが現象であり、事物の表面的な姿を示す具体的なものです。現象は本質のあらわれではありますが、本質にはない豊かさ、多様さをもっています。
 もし事物の真の姿が、表面的な「直接にあらわれているとおりのもの」であれば、科学は不要となります。そうではないからこそ、事物を分析・総合し、事物を様々につくりかえる科学・技術をつうじて、事物の真の姿・本質をとらえようとするのです。
 こうして、すべての事物は、本質と現象の統一としてとらえられることになります。
 哲学は、事物をその根本からとらえるために、事物を抽象化して独自の思惟形式、つまり物事を(思惟規定)考察する枠組みをつくりあげています。もうこれ以上抽象化できないという思惟形式が「カテゴリー」とよばれるものです。哲学は、低次のものから高次のものまで様々のカテゴリーを組み合わせることによって、対象となる人間、自然、社会の真の姿を認識しようとするのです。
 「本質と現象」も、その中心的カテゴリーの一つということができます。

人類の誕生

 この本質と現象のカテゴリーを使って、まず人間とは何かを考えてみることにしましょう。
 ルソーは「人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないものは、人間に関する知識であるように私には思われる」( 『人間不平等起原論』二五ページ、岩波文庫)といっています。
 私たちも「中小業者」という人間の特殊な一形態を考えるにあたって、そもそも人間とは何か、つまり人間の本質とは何かを検討してみることにしましょう。
 そのためには、まず人間はどのようなものとして発生してきたのかを考察してみなければなりません。その発生史のなかに、人間の本質があらわれているからです。
 人間(人類)が類人猿から分岐する直接のきっかけとなったのは、直立二足歩行するようになったことです。人類は自由になった手で労働するようになり、労働は大脳を発達させて、人類に言語をもたらしたのです。
 脳と手と言語の協働により、人間は、道具を生みだし、共同で作業することによって、ますます複雑な作業を遂行し、より高度の目標を設定してこれを達成する能力を手にしていきます。こうして約一万年前に狩猟・採集から牧畜・農耕へと移行することによって生産力を飛躍的に発展させ、紡織、金属加工、製陶などが登場するに至ります。
 こうした人類の成立については、エンゲルスの「猿が人間化するにあたっての労働の役割」(全集⑳四八二ページ以下)が詳しいので、興味のある方はぜひ御一読ください。

自由な意志

 以上、人間の起原を概略的にまとめてみましたが、直立二足歩行が、人間と動物(類人猿)とを区別する最初の出発点だったとすれば、最終的な区別を生みだすものは一体何でしょうか。
 人間も動物も、一定の目的をもって行動します。動物は、その目的を達成するために自然を利用することはできますが、自然そのものを作りかえることはできません。いわば与えられた環境のなかで、自然と共存するにとどまるのです。
 これに対して、人間は、その目的を達成するために、単に自然を利用するだけではなくて、自然を作りかえ、自然を支配するのです。
 「人間は自分がおこす変化によって自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配する。そしてこれが人間を人間以外の動物から分かつ最後の本質的な区別であって、この区別を生みだすものはまたもや労働なのである」(同四九一ページ)。
 しかし、自然を作りかえ、自然を支配するためには、自然を知らなくてはなりません。自然を知るためには、先にみたように感覚的にとらえうる表面的な姿ではなく、その奥に隠された本質や法則を知ることが求められています。
 「米」という字を分解すると「八十八」となります。昔の人は、米作りには八十八種類もの作業が必要であることを、米の字は示しているのだと言っていました。稲作による米を主食とするには、八十八種類もの米作りの法則を知らなければならないのです。
 人類は、数えきれないほどの失敗を積み重ねながら、自然の法則を少しずつ認識し、そのことをつうじて自然への支配の範囲を拡大し、狩猟・採集から農耕・牧畜へ、紡織、金属加工へとその労働による生産力を発展させてきたのです。
 「われわれが自然を支配するのは、ある征服者がよそのある民族を支配するとか、なにか自然の外にあって自然を支配するといったぐあいに支配するのではなく、……他のあらゆる被造物にもましてわれわれが自然の法則を認識し、それらの法則を正しく適用しうるという点にあるのだ、ということである」(同四九二ページ)。
 このように、人間は、自然の法則を認識し、自然を作りかえ、支配することによって、最終的に類人猿から区別されることになります。言いかえれば、この点にこそ人間の人間たるゆえん、つまり人間の本質があるのです。
 実は、それこそが第一講でお話しした「自由な意志」にほかならないのです。
 第一講では、何らの説明もなく、無前提に「人間の本質は自由な意志にある」と規定しましたので、何でそういえるのかと疑問をもたれた方もあると思います。そう思われるのも当然です。哲学とは、すべてを論理的に説明しようとする学問ですから、ある特定の事物を無条件に正しいものであるかのように前提とし、その前提から出発する学問ではないのです。
 「哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない」(『小論理学』一節)。
 第一講では話の都合で省略してきたのですが、ここまでくると、人間の本質の一つは、その自由な意志にあることを、ご理解いただけたのではないでしょうか。
 自由な意志の根底をなすのは、自己の目的とするものを政治的、経済的、社会的な力によって外から強制されるのではなく、自らの意志で決定するという形式的自由にあります。この形式的自由は、偶然性に委ねられているもっとも初歩的な自由ですが、それでも「意志の本質的モメント」を含むものとして、正当に評価されなければなりません。
 この形式的自由は、日本国憲法において「思想及び良心の自由」(十九条)、「信教の自由」(二〇条)、「集会・結社・表現の自由」(二一条)、「居住・移転・職業選択の自由」(二十二条)、「学問の自由」(二十三条)などの基本的
人権として規定されています。基本的人権とは、人間が人間たることによってのみ有する権利、つまり人間の本質に根ざす権利だということを意味しています。
 この自由な意識にこそ人間の本質があることを最初に指摘したのは、ルソーでした。
 「動物のあいだで特別に人間を区別するものは知性ではなくてむしろ彼の自由な能因という特質である。……彼は自分が承諾するも抵抗するも自由であることを認める。そしてとくにこの自由の意識において彼の魂の霊性が現れるのである」( 『人間不平等起原論』五二ページ)。
 ルソーにとって「自由は人間のさまざまな能力のなかでもっとも高尚なもの」(同一一四ページ)であり自由は彼らが人間たる資格によって自然からさずかる贈り物だとされたのです」(同一一六ページ)。
 フランス革命は「自由・平等・友愛」をスローガンにたたかわれ、これを象徴するものとしてセーヌ川に、「自由の女神」像が建築されることになりました。アメリカの「自由の女神」は、元祖のフランスから贈られたものなのです。
 ヘーゲルの偉大なところは、自然を作りかえ、支配する自由という人間の本質からみるとき、形式的な自由は自由の本質的モメントを含んでいるとはいえ、端初的な自由にすぎないととらえるところにあります。
 真の自由は、こんな形式的な自由にとどまらず、自然を自由に作りかえ、自在に支配するところに認められなければならないと考えたのです。
 こうして、第一講でお話ししたように、自由な意志は、形式的自由から必然的自由へ、さらには概念的自由へと前進することによって、人間は真に自由になるのです。
 とりあえず、ここでは、人間の本質の一つは、自由な意志にあることを確認しておきたいと思います。
 マルクスも「自由な意識的な活動は人間の類性格である」( 経済学・哲学手稿」全集四三六ページ)といっています。

 

〈第五講〉

人間とチンパンジー

 第四講で人間の本質の一つは、自由な意志にあることをお話ししました。しかし、人間の本質は、それだけではありません。
 人類と類人猿は約七百万年前に分岐しました。サルのなかでもっとも高度の知識をもつとされるチンパンジーと現代人のDNAを比較してみますと、その差はわずか一パーセント前後であることが明らかになっています。
 それなのになぜチンパンジーと人間との間には、これほど生活様式において大きな差が生じているのでしょうか。
 その根本には、前回もお話しした労働による生産力の発展があります。しかし最近の研究では、サルでも原始的な言語や道具を使って食物を採取する労働が観察されていますから、逆に、労働の生産力をこれほど急速に高めていった要因は何なのか、が問われることになるのです。
 人間にあって、チンパンジーにないものは何でしょうか。それは社会です。社会とは「人間が周囲の自然に働きかけてつくりだしたみずからの存在する場、── それには道具、家、家畜、作物、集落、道等々がふくまれよう── をふくめ、家族関係と生産関係にもとづく人間関係とで構成されるもの」(小原秀雄『人〔ヒト〕に成る』(一三ページ、大月書店)です。チンパンジーは、集団で生活し「群れ」をつくることはあっても「社会」はつくりません。これに対して、人間は、単に集団で生活するにとどまらず、自然を素材に、労働をつうじて「社会」をつくりあげ、またこの「社会」が逆に動物としての人類を、人間にかえていったのです「社会そのものが人間を人間として生みだすように、社会もまた人間によって生み出されているのである」(「経済学・哲学手稿」全集四五八ページ)。いわば、人間と社会とは、お互いに作用しあって、ともに発展して今日に至っているのです。
 人間の労働生産力が、狩猟・採集から牧畜・農耕に発展し、やがて人間の全生活分野において飛躍的に発展していったのも、生産力の発展にかかわる諸知識が、社会をつうじて世代を超えて蓄積されていったからでしょう。
 人間は、社会という共同体(国家・社会・家族)のなかにあり、社会の一員として生活する社会的存在です。生まれたときには、まず家族の一員となり、一定の教育を経て社会性を身につけ「社会人」となります。成人式というと、酒も煙草も許される大人になった式典だと思っている人がいますが、そうではありません。二十歳になって、親の保護・監督から離れて自立し、普通選挙権も取得することによって、一人前の社会人であると同時に一主権者となったことを、社会的に祝う式典なのです。

共同社会性

 ここから、二つ目の人間の本質が生まれてきます。人間は社会共同体の一員であることによって、はじめて人間になるのですから、その共同体の一員であることが人間の本質となるのであって、この本質を共同社会性とよぶことにします。
マルクスは、人間が「社会的な組織を創造し、産出する」( ミル評注」全集三六九ページ)と述べたうえで、「人間の本質は、人間が真に共同的な本質であることにある」(同)と述べています。
 人間の本質としての共同社会性の具体的な内容をもう少しみていくことにしましょう。
 前回「本質と現象」というカテゴリーを紹介し、本質とは、事物の奥に隠された事物の真の姿であることをお話ししました。
 では、事物の本質をつかむにはどうしたらいいのでしょうか。その一つの方法は、その事物の発生時の姿を考察することです。ヘーゲルは、そのことを「本質は過ぎ去った有」であるといっています。
 すべての事物は、生まれたときは、その事物の本質をそのままあらわしています。しかしその後時間の経過を経るにつけ、様々な現象を身にまとうようになります。それでも本質は、一貫して真の姿としてその事物を貫いているのですが、次第に、現象のうちに隠され、表面からはその本質をうかがい知ることができなくなってきます。そこでその事物の本質を知るためには、発生時にまでさかのぼってその事物を考察する必要があるのです。
 話を本筋にもどしますと、人間の本質としての共同社会性の具体的形態を検討するには、人間の原始状態にさかのぼって、そこには共同体としてのどんな法則が存在していたのかを検討してみなければなりません。
 その好著となるものが、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』(全集㉑)です。
 人間の原始状態を私たちが知ることができるのも、十九世紀には、まだグローバル化が進んでいなかったために、新大陸アメリカにはネイティヴ・アメリカンの古代社会がそのまま残されていたためです。
 これを研究したのがルイス・モーガンの『古代社会』であり、これをもとに、エンゲルスの著作が誕生し、人類史上の最初の社会とされている「原始共産制社会」の実態が明らかにされました。
 エンゲルスは、まだ国家をもつに至らなかったイロクォイ族の氏族社会について、次のように述べています。
 まず氏族は、サケマ(酋長)と軍事首領とを、男女を問わず氏族員の全員で選出し、また任意に解任することができます。サケマの権力は「家父長的な、純粋に道徳的な性質のものであった。彼は強制手段をもっていなかった。氏族員はたがいに援助し、保護しあう義務をもっていました」(同八九ページ)。
 氏族員の「至上権力」(同九二ページ)は会議でした。その会議は「成年の男女氏族員の全員からなり、みなが平等の投票権を持つ民主的な会議」(同九一ページ)であり「自由・平等・友愛は、定式化されたことは一度もなかったが、氏族の根本原理であった。……だれもがインディアンに認める不屈な独立精神と個人的な威厳ある態度とは、これによって説明される」(同九二ページ)。

民主主義的諸原理

 人間の本質としての共同社会性とは、社会共同体を維持し発展させるのに有益かつ必要な法則またはルールを守って生活することを意味しています。言いかえれば民主主義的諸原理ということができます。イロクォイ族の例を参考にしながらそれをまとめてみることにしましょう。
 まず第一に、社会共同体を維持・発展させるには、共同体の事務を処理すべき統治者が必要になります。しかし治者が被治者の上にたつのでは、治者と被治者との間に対立や矛盾が生じ、共同体に軋みが生じざるをえません。イロクォイ族においては、サケマも軍事首領も「なんらの優位」(同)も要求せず、サケマの権力も「純粋に道徳的な性質」(同八九ページ)のものでしたし、解任されれば「ほかの者同様の平戦士であり、私人」(同)にすぎませんでした。
 これに対して、もし一部の者が統治者の地位を独占することになれば、治者と被治者との間には対立、矛盾が生じることになってしまいます。
 いわば「治者と被治者の同一性」という民主主義的統治原理が支配していたのです。平たくいえば「人民すべてが主人公」ということです。
 第二には、共同体を構成するすべての成人男女の会議によって、すべての重要な共同体の意志が決定されていたことです。
 共同体を統治する意志が、共同体の構成員全員の意志で決定されれば、その統治意志は構成員の意志に沿ったものとなり、共同体との間の矛盾も小さくなります。
 これに反して構成員の一部の者の意志によって共同体の統治意志が決定されることになれば、その統治意志は一部の者の利益のみを代表することになって、残りの構成員との間に、対立・矛盾が生じることになります。
 これが一般に「手続き民主主義」といわれるものです。
 第三には、共同体の構成員が、社会的、政治的、経済的に平等であることです。
社会的平等とは、人種、信条、性別、身分、出身地などによって差別されないことを意味しています。政治的平等とは、身分、社会的地位、財産などにより、政治に参加する資格や権利を差別されないことを意味しています。イロクォイ族の場合、男女間に政治的平等の存在したことは先に述べたところです。
 原始共同体の氏族社会は、多数の家族が生計を共にし、共同で労働し、生産物もすべて共有とされ、経済的・社会的平等が実現されていたところから、今日では「原始共産制社会」とよばれています。
 これを「平等原則」とよんでいます。平等原則が保たれれば、共同体内に不協和音のもたらされることはありません。
 第四は、構成員内部の紛争は、話し合いにもとづいて平和的解決をはかることです。
 イロクォイ族の場合「兵士も憲兵も警察官もなく、貴族も国王も総督も知事も裁判官もなく、監獄もなく、訴訟もなく、それでいて万事がきちんとはこぶ。喧嘩や争いはすべて関係者の全体、すなわち氏族または部族によって解決されるか、あるいは個々の氏族と氏族のあいだで解決」(同九九ページ)されていました。
 紛争の暴力による解決は、紛争の原因そのものを取り除くものではないところから、一時的には紛争は消滅したようにみえても、再び新たな紛争を呼び起こします。いわば暴力による解決は、暴力の連鎖を引き起こすにすぎません。それはブッシュの「対テロ戦争」と称するイラクへの軍事攻撃一つをとってみても明瞭です。
紛争は、話し合いによって解決してこそ、紛争の原因を取りのぞく根本的解決となるのであって、こうすれば、共同体分裂の危機も回避することができるのです。
 以上、原始共産制の社会においては、人間の本質である共同社会性が全面的に発揮され、共同体を維持・発展させるのに必要かつ有益な民主主義的諸原理をその身にまとっていたことを学んできました。それを一言でいえば「人民の人民による人民のための政治」ということができるでしょう。

「人間の本質」のまとめ

 ここまで、第四、五講の二回にわたって、人間とは何か、つまり「人間の本質」とは何かを考えてきました。
 その結論は、人間とは、自由な意志と共同社会性をその本質としてもつ存在だということになりました。自由な意志からは「自由」という概念が、共同社会性からは「民主主義」という概念が生まれてきます。こうして人間は、人間の本質にもとづく内的欲求として「自由と民主主義」を求め続けることになるのです。、
 人類の最初の社会「原始共産制社会」において、人間は「自由と民主主義」のもとにありました。その後の社会の発展が、この人間の本質に何をもたらしたのか、それが今後の検討課題となってきます。