『ものの見方・考え方』より

 

 

第六・七講 価値とは何か

 

〈第六講〉

価値はより善く生きる基準

 第三講で人間の生き方にかかわる哲学的世界観として、唯物論にも一元論か二元論かの問題があることをお話ししてきました。そこで、一元論、二元論の問題は「事実と価値」または「存在と当為」の関係をどうとらえ、るのか、という問題であることを指摘しておきました。
 哲学とは、物事をとことんつきつめて考えて、究極の真理を明らかにしようという学問ですから、ふだん何気なく使っている言葉についても、哲学するうえではあらためて吟味し直してみる必要があります。
 これまで「哲学とは何か」「人間とは何か」について考えてきたのも、対象となるものの「定義」を求めることによって、対象となるものの普遍性をとらえようとしたからにほかなりません。
 対象の普遍性をとらえるといっても、その対象が豊かな内容をもっていればいるほど、さまざまな普遍性をもち、したがってさまざまに定義することができることになります。そこでヘーゲルは「およそ哲学において求められるものは、単に正しい定義ではなく、まして単にもっともだと思われるような定義、すなわちその正しさが表象的な意識にとって直接に明白であるような定義ではない。それは確証された定義でなければならない」(『 小論理学』九九節補遺) といっています。
 いわば、定義は「その対象が必然性を持っていることを証明するものでなければならない」(同二二九節補遺)のです。
 これまで「事実と価値」にはじまり「自然科学の没価値性」であるとか「価値観の多様性」とか、あちこちで「価値」という「概念」を使用してきました。
 そこで今回は、あらためて「価値とは何か」という価値の定義を、しかも単なる正しい定義ではなく、必然性の証明された定義として考えてみようというのです。
 ちなみに「概念」とは「多くの表象から共通内容を抽象し総括した表象で、それら類似の表象の全系列を代表するもの」(「辞海」) とされています。簡単にいえば、対象の抽象的普遍ということです。ヘーゲルは、このあとでお話しするように「概念」に独自の、また特別の意味を持たせており、それがヘーゲル哲学のキーワードともなっています。
 ちょっと前置きが長くなりました。それでは「価値とは何か」を検討してみることにしましょう。
 最初にお断りしておきますと、これから論じていく価値とは経済学的意味の価値ではありません。経済学的意味の価値とは、マルクスが『資本論』のなかで明らかにした商品の価格を規定する実体、価格の源泉を意味しています。
 これに対して、これから論じる価値は「事実と価値」における価値であり、人間の生き方にかかわり、どうより善く生きるかの基準、規範となるものです。それがより善く生きることにつながるものほど、価値があると評価されることになります。

価値と当為

 第一講で、科学的社会主義の学説は、人類の知的遺産の総括のうえに開花した、不断に発展する開かれた学説であることをお話ししました。
 人類の知的遺産となりえたものは、それが人間の生き方にとって価値があるとみなされたからであり、だからこそ遺産として代々継承・発展させられてきたのです。
「マルクス主義は、ブルジョア時代のもっとも価値ある成果をけっして拒否しなかったどころではなく、二千年以上におよぶ人類の思想と文化の発展における価値あるもののすべてを摂取し加工することによって、革命的プロレタリアートのイデオロギーとしての世界史的意義を獲得したのである」(レーニン『プロレタリア文化について」レーニン全集㉛三一六ページ)。
 では、人間の生き方にとって、より善く生きることにつながる価値あるものとは、一体どんなものでしょうか。
 そこには、まず人間としてどう生きるべきか、という問題が先行して存在し、それへの回答となるものが価値あるものとよばれることになるのです。
 というのも「事実と価値「存在と当為」は同じような意味合いのものですから、事実には存在が対応し、価値には当為が対応しています。ですから価値を論じることは、当為を論じることにほかならないのです。
 「当為」とは「かくあるべし」という意味であり、人間としてかくあるべしということが、価値につながるのです。
 言いかえると、人間がより善く生きるということは、人間としてかくあるべしという生き方をすることであり、それが価値ある生き方となるのです。
 第三講で「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ」というソクラテスの言葉を紹介しました。その言葉こそ、どうすれば価値ある生き方をすることができるのか、というソクラテスの根本的な問題提起だったのです。

当為の真理

 「価値観の多様性」という言葉があります。政治や社会のあり方などについて話し合っているときに、議論が対立してくると「それは価値観の違いだ」とか「価値観の多様性」などを理由に、それ以上どちらが正しいのか決着のつかないままにその議論が片づけられてしまうことがあります。
 人間がより善く生きるという価値の問題に、もし、正しさとか真理といわれるものが存在しないのであれば、そもそも「価値ある生き方」を問題とすること自体、ナンセンスだということになってしまいます。
 果たして、当為に真理は存在するのか、これこそ価値を論じる意義があるのかどうかを左右する問題といわなければなりません。この問題に対し、唯物論的一元論はイエスと答えます。人間どう生きるべきかについては、様々な回答がありうるでしょうが、そこには「当為の真理」があり、それが価値ある生き方だと回答するのです。
 ヘーゲルは次のように述べて、価値に関して判断することこそ、最高の判断になるのだといっています。
 「日常生活においても、ある対象、行為、等々が善いか悪いか、真実であるかそうでないか、美しいかそうでないか、等々という判断がはじめて判断と呼ばれている。われわれは、或る人が『このばらは赤い』『この絵は赤い、緑である、ほこりだらけである』等々のような……判断をくだしうるからといって、その人に判断力があるとは言わないであろう』( 『小論理学』一七八節)。

価値論の探究

 古代ギリシアの三大哲学者は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスです。ソクラテスの弟子がプラトン、プラトンの弟子がアリストテレスです。アリストテレスは、アレキサンダー大王の教師として有名な人物であり、哲学を体系化し、学問として完成させた人物です。
 ソクラテスは、価値論の探究をその生涯の仕事としました。ソクラテスは「たましいができるだけすぐれた、よいものになるよう」(第二講参照)、広場で「正義とは何か、善とは何か、徳とは何か」などを問いかけ、対話をしました。その対話のなかで、彼らが正義や善が「何であるか」を知っていないのに知っているつもりになっていることを暴露し、自分の「無知の知」を出発点に、価値論を追求し続けたのです。このソクラテスの問答法は「ソクラテス的イロニー」とよばれ、弁証法の基礎となっています。ソクラテスの言葉が二千五百年の時を経て残されているのも、プラトンによってそれが文章化されたことによるものであり、ソクラテスの自著は一つもありません。
 プラトンは、ソクラテスの価値論を引き継ぎ、それをイデア論として仕上げました。
 正義、善、徳などが「何であるか」の問いに答えることは、それらの真実在を求めるものです。その真実在は、感覚的にとらえられる客観的実在とは別個のものであり、それをプラトンは「イデア」(イデー、理念と訳されている)とよびました。正義、善、徳のイデアとは、正義そのもの、善そのもの、徳そのものであり、正義、善、徳は、それらのイデアを分有することによって、そのようなものとしてある、と考えたのです。

「洞窟の比喩」

 プラトンが、そのイデア論を比喩的に説明したものとして、有名な「洞窟の比喩」があります。
 地下の暗闇の洞窟に、囚人たちは生まれて以来縛りつけられていて、洞窟の奥の壁しか見ることができません。入り口の方には火が燃えていて、火と囚人との間には衝立があり、その衝立のうえを動く人間や器物などの影がついたて奥の壁に影として映し出されています。囚人たちは、その影を見て、それが人間や器物の真の姿だと思っています。あるとき一人の囚人がその縛めを解かれ、反対の入口方向に引っぱっていかれ、ついには外界の太陽のもいましめとに連れ出されます。囚人は、今まで自分が真の姿だと信じていたものが、単なる影にすぎなかったと知るだけではなく、太陽こそが目に見える世界の一切を支配するものであり、洞窟内で見ていたすべてのものの原因となっていることを知ることになります。
 プラトンは、洞窟の囚人の住まいは「目に見える世界」(感覚界)であるのに対し、実際の人間や器物は「思惟される世界」(イデア界)であり、太陽そのものを、イデアのなかのイデアである「善」ととらえました。思惟されることによってとらえられるイデアこそが、真実在であり「何であるか」の問いに答える「そのもの」だと考えました。
 プラトンによって、ソクラテスの提起した個別的な価値論は、普遍的なイデア論へと発展させられたのです。

ヘーゲルの価値論

 プラトンのイデア論が、アリストテレスによってどのように完成されたのかは、また別の機会にお話しすることにしましょう。
 ここでは、プラトンによって普遍化されたイデア論を、再び人間の価値ある生き方に結びつけようとしたのがヘーゲルであったことを指摘しておきたいと思います。
 ヘーゲルは「当為」には真理があると考えました。そして当為の真理とは、まさにイデアであり、それを客観的事物の「真の姿または真にあるべき姿」としての「概念」とよびました。この立場からヘーゲルは、先に述べた価値に関する判断を「概念の判断」と称しました。人間にとって、人間や国家・社会の「真の姿・真にあるべき姿」を目標にかかげ、そこに向かって生きていくことが、価値ある生き方だととらえたのです。
 人間の「真にあるべき姿」とは、人間の本質を全面的に発揮した生き方ということになってきます。第四講、第五講で取り上げた「人間とは何か」のテーマは、こうして価値ある生き方の問題につながってくるのです。

 

〈第七講〉

普遍と特殊

 第六講で、価値とは人間がより善く生きる基準となるものであり、人間がイデア・「真にあるべき姿」に向かって生きることが、人間の価値ある生き方になる、ということをお話ししてきました。
 そこで今回は、人間の価値ある生き方とは何か、の問題をさらに具体的に検討していくことにしましょう。
 この問題を考えるにあたっては、人間(普遍)と個人(個別)というカテゴリーを検討しておく必要があります。
 すべての事物は、普遍と特殊を統一した個別として存在します。普遍とは、その事物が属する種類のすべてに共通するもの一般であり、特殊とは、普遍の一つのあらわれです。個別的な事物は、普遍を特殊化したものとしてとらえられるのです。
 普通名詞として用いられている概念は、すべて普遍を示すものです。例えば、バラ、家、人間という概念は、いずれもバラ一般、家一般、人間一般を示す普遍的概念であり、これに対して個別は「このバラ」「この家」「個人」となるのです。普遍において、その事物の本質がとらえられているのに対し、個別には、本質のあらわれとしての現象のもつ特殊性があります。
 したがって、人間の価値ある生き方を問う場合も、個人をはなれての人間は存在しませんから、個人としての特殊な生き方と人間としての普遍的な生き方の区別と同一をみなければならないのです。

個人の尊厳

 それではまず、個人としてより善く生きるという、個人としての価値ある生き方の問題から考えていきましょう。
 出発点になるのは、人間の本質としての自由な意志と共同社会性です。この人間の本質が全面的に発揮されることが、人間の「真にあるべき姿」であり、そこに向かって生きていくことが価値ある生き方となります。
 個人がより善く生きるためには、まず第一に自由な意志をもつ主体でなければなりません。自由な意志というのは、人間の精神の働きですが、人間は精神が一人歩きしているわけではなく、肉体をもって考える存在、つまり精神と肉体の統一としての主体です。これが人格とよばれるものです。個人は、一個の人格として、はじめて自由な意志をもつことができるのです。
 自由な意志は、自由な肉体を前提としています。つまり、自由な意志は、自己の肉体を自由に動かし、自由に処分しうることを抜きにはありえないのです。したがって価値ある生き方の前提となるのは、自由な人格、身体の自由です。奴隷や農奴は、自由な人格、身体の自由をもっていませんから、価値ある生き方からするとその前提を欠いているのです。
 しかし、自由な人格をもつだけでは、まだより善く生きることにはなりません。自由な人格に磨きをかけなければなりません。それを人格の陶冶といいます。それは、自分が自由な意識をもつ主体として、有限な存在でありながら、無限に発展し、自由になる存在だという自覚をもち、その実現に努めることを意味しています。
第一講で、自由には低い段階からより高い段階へと発展する三段階があることをお話ししました。その自由の階段を一歩ず上っていくことが、人格を陶冶することになるのであり、その階段を上るごとに、より価値ある生き方となっていくのです。
 第一段階の自由は、形式的自由、恣意でした。これは個人としてやりたいことをやることによって満足を得る自由です。これによって個人としての生きがいや、自己肯定感をもつことができます。
 これが幸福追求権といわれるものです。人類は、中世の暗黒時代から抜けだし、近代に移行することによって、ようやく自由な人格とそのもとでの幸福追求権に価値を見いだすようになってきました。ここにはじめて、個人は個人として尊重されなければならないとの思想が誕生し「個人の尊厳」が主張されるようになったのです。
 しかし第一段階の形式的自由、つまり「個人の尊厳」は、それはそれとして価値ある生き方なのですが、自分勝手に何をやってもいいという主体的自由にすぎませんから、自から限界があるといわなければなりません。より善く生きるには、第二段階の必然的自由に移行しなければならないのです。幸福追求権は否(普遍的自由)定されてはなりませんが、同時にどんな幸福を求めているのかその中身が問われることになるのです。

人間の尊厳

 人類は、七百万年の歴史をつうじて、自然や社会に内在する必然性、法則性、普遍性を少しずつ学んできました。その必然性、法則性を身につけることによって、人間はより自由になり、自然や社会の法則にそった合法則的な生き方ができるようになってきたのです。個人は、人類の知的遺産である自然や社会の必然性、法則性、普遍性を学んで身につけることによって「特殊」的な個人から「普遍」的な人間へと次第に発展していきます。、、
 こういう人間としての「普遍」的な知識を身につけることが「教養」といわれるものであり、義務教育とは、本来この教養を学ぶことを目的としているのです。
 人間は、教養を身につけることによって、その人格を陶冶し、人間らしくなっていきます。
 こうして個人は、個人的特殊性から人間的普遍性へ前進していくことにより「個人の尊厳」は「人間の尊厳」へと発展していくのです。
 しかし、この第二段階の必然的、普遍的自由も、人間がより善く生きるうえでは、まだ十分なものではありません。第四講でお話ししたように、人間は自然や社会という与えられた環境のなかで生きるだけでなく、与えられた環境そのものを変革する力をもっているのであり、客観世界の必然性、法則性を認識したうえで、客観世界をより良いものに変革する自由をもっているのです。
 こうしてより善く生きることは、第三段階の概念的自由に前進することになります。
 この概念的自由のもとにおいて、はじめて人間は人間らしく生き、人間の尊厳を全面的に発揮することができるのであり、ここにおいて人間ははじめて動物界から完全に離脱することになるのです。
 概念的自由とは、変革の立場に立つ意志決定の自由です。客観的事物を変革するためには、その事物の「真にあるべき姿」をとらえ、それを目標として実践していかなければなりません。
 人間がより善く生きるうえで、変革の対象となる客観とはまず自然であり、ついで自分自身、そして人間を人間に成長・発展させてきた社会共同体です。
 そこで、生産力の発展につながる自然の変革はさておき、自分自身の変革と社会共同体の変革の二つに分けて、もう少し詳しくみていくことにしましょう。

道徳、倫理

 実は、ソクラテスをはじめとする古代ギリシャの哲学者たちが追求してきた、たましいをすぐれたものとし、より善く生きる問題の中心は「正義とは何か「徳とは何か」という人間の内面における概念的自由の問題だったのです。つまり自分自身の変革の問題です。
 ですから、ここが価値論の本来の舞台だといってもいいのであり、こういう人間が人間としてより善く生きる道、人の道が、いわゆる道徳とか倫理とかいわれるものです。
 ここに、人間のもう一つの本質である共同社会性の問題が登場してくることになります。個人が個人としてより善く生きるにとどまらず、人間としてより善く生きるためには、社会的存在である人間としてより善く生きることが求められるのであり、そこから共同社会性が価値ある生き方としてあらわれてくるのです。
例えば「みんな仲良くしよう」とか「嘘をつかないようにしよう」とか「お互いを尊重しあおう」というように、人と人との関係をできるだけスムーズにし、無用な摩擦を生じさせないようにするための、人間の内面的な生き方、行為のあり方が、道徳、倫理の対象となってきます。
 しかし、道徳、倫理が、人間の内面にかかわる問題に限定されるかぎり、そこにおける「真にあるべき姿」は、主観的なものにならざるをえません。
 道徳論を理論的に探究し、そこに何とか真理を見いだそうとしたカントは「あなたの意志の格率がつねに同時に一つの普遍的な立法の原理として通用するように行為しなさい」という道徳的命題をたてました。つまり自分がやろうとしていることをみんながやるとしても矛盾がないと思う行為が道徳的に正しい行為だというわけです。
 これを批判したのがヘーゲルです。カントの道徳の立場も、より善く生きようとして「普遍的な立法の原理」を目標にかかげるのですが、それもまた、主観的な「真にあるべき姿」にとどまっているものといわざるをえません。したがって、より善く生きるためには、このような主観性を脱して、社会共同体そのものが人間の共同社会性を全面的に実現しうる「真にあるべき姿」に変革されなければならない、という客観的な概念的自由を求めたのです。
 といっても、これは、道徳や倫理が、より善く生きるうえで意味がないということではありません。そこにとどまっていたのでは、人間の価値ある生き方としては十分ではないということです。
 こうして、概念的自由は、社会、国家をもその変革の対象とし「真にあるべき」社会、国家の探求という客観的なものに向かわざるをえないのです。

最高の価値は世直し

 人間の本質である自由な意志と共同社会性が全面的に実現されてこそ、個人の尊厳と同時に人間の尊厳をも保つことができるのです。言いかえると、自由な意志と共同社会性の全面的実現をめざす生き方が、人間らしい生き方、人間にとっての価値ある生き方となります。
 この本質を実現するには、社会共同体そのものを「真にあるべき」社会共同体に変革しなければなりません。この価値ある生き方以上に大きな、かつ普遍的意義をもつ変革の対象は存在しないといっていいでしょう。
 自由な意志は「真にあるべき」社会共同体に向かうと同時に「真にあるべき」社会共同体は、自由な意志を保障することになるのです。
 マルクスは「ほんとうの協同態において諸個人は彼らの連帯のなかで、またこの連帯をとおして同時に彼らの自由を手に入れる」(全集③七〇ページ)といっています。まさに「最高の共同性は最高の自由」(ヘーゲル)なのです。
 人類の歴史は、階級闘争の歴史です。言いかえれば、自由を求める世直しのたたかいの歴史です。ときの支配者、権力者に、抑圧され、弾圧され、殺害されながらも、けっして世直しの運動は途絶えることなく存続し、かつ勝利して、人間の社会を、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会へと発展させてきました。こうしたことを可能にしたのも、人間は、自由を求め、社会共同体を変革することを、最高の価値ある生き方だととらえる存在だからにほかなりません。人間は、世直しの運動に打ち込むとき、最高に人間らしく輝き、また最高に生き甲斐を感じることになるのです。