『ものの見方・考え方』より

 

 

第一一・十二講 社会は発展する

 

〈第一一講〉

物質は運動する

 物質と運動の関係について「運動は物質の存在の仕方である 」(全集⑳六一ページ)といったのはエンゲルスです。運動のない物質もなければ、物質のない運動もありません。物質は一時的、相対的には静止しているようにみえても、長期的、絶対的には運動しています。
 運動には一年間の四季のように同じことをくり返す運動もあれば、人間の生涯のように一回だけの後戻りできない運動もあります。
 反復する運動について、その法則性を認識することはそれほど困難なことではありません。一つの仮説を立て、その仮説が反復する運動をとらえうるものとなっているかどうかを、運動にもとづいて検証すればよいからです。
 こういう反復する物質の運動の代表的法則が、原因と結果の関係をとらえる因果法則といわれるものです。
 しかし一回だけの後戻りできない運動の場合はそうはいきません。仮説を立てたとしても反復する運動によって検証することができないからです。ではこうした運動について法則は存在しないのかといえばそうではありません。その物質が生成し、発展、消滅するのも一定の法則にしたがった運動となっているからです。こういう運動法則を発展法則とよんでいます。
 発展法則をとらえるためには、その物体の現にある姿のなかに、その物体の未来の姿を見いださなければなりません。例えば、一粒の麦の種を考えてみましょう。種をよくみてみますと、胚芽と種子とに分かれています。種に水を与えると胚芽は種子から栄養をもらって発芽し、胚芽が成長するにつれて種子は縮小し、胚芽が根を出し葉をだして光合成し、自立できるようになったときには、種子はすべてのエネルギーを使い果たして消滅してしまいます。
 いわば、胚芽と種子とは、一方が成長すると他方が消滅するという対立する関係にあり、種は胚芽と種子という対立物の統一なのです。しかもこの場合の胚芽と種子との関係は相互に排斥しあう関係です。対立物の統一のなかにあって対立物の相互に排斥しあう関係を、対立物の闘争または矛盾とよんでおり、闘争をつうじて矛盾の解決されることを矛盾の止揚とよんでいます。ヘーゲルは「一般に、世界を動かすものは矛盾である」(『小論理学』一一九節補遺二)いっています。
 しかし、対立物の統一は、また反復する運動についてもあてはまる法則なのです。ミクロの世界からマクロの世界まで、客観世界を構成する物質の反復する運動は、相対的に安定した物質はすべて引力と斥力という相反する力のつり合いがとれていることによって安定した状態を保って運動しているのであり、このつり合いが崩れるとその物体は拡散してしまうか、つぶれてしまうのです。
 この引力と斥力のように、つり合いのとれた調和状態を、対立物の統一のなかでも、対立物の同一または対立物の相互浸透とよんでいます。
 こうして、物質のすべての運動が対立物の統一としてとらえられ、そのなかには対立物の相互浸透と対立物の相互排除(矛盾)があり、物質の発展法則は矛盾の止揚としてとらえられることになります。
 こういう物質の一般的運動法則をとらえる論理学(真理を認識するための思惟の形式に関する学問)が弁証法的論理学、略して弁証法といわれるものです。これに対して、物質を静止し、固定したものとしてとらえる論理学が形式論理学とよばれるものであり、形式論理学は運動する物質の特殊な一形態を対象とするところから、弁証法に包摂されることになります。

弁証法とは何か

  この「弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で叙述した」(『資本論』①二八ページ)のがほかならぬヘーゲルなのです。
 マルクスは、資本主義の運動法則を解明するために、この弁証法を最大限に活用して『資本論』を著しました。真理認識の方法としての弁証法を活用したからこそ、資本主義の運動法則をはじめて解明できたという喜びを込めて、マルクスはわざわざ(「あと書き」[第二版への])のなかで、自分が『資本論』で用いた方法は弁証法であったと特記したのです。
 マルクスがいかに弁証法を駆使して資本主義の研究をし、かつ『資本論』として叙述したかの詳細については、拙著『「資本論」の弁証法』(一粒の麦社)を参照していただければと思います。
 先にも述べたように「弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則にかんする科学」(全集⑳一四七ページ)です。
 ここで、弁証法とは何かを考えるために第三講の宿題にしていた「ゼノンの逆説」を批判的に検討してみましょう。
 ゼノンの提起した問題は、A・B間は無限に分割できるから、Bに無限に接近することはできてもBに到達することはできない、というものでした。ここで問題とされているのは、空間の連続性と非連続性の問題です。A・B間という空間を連続性としてとらえると、A・B間は連続した一つの空間であり、無限に分割することが可能な量となります。しかし連続性としてとらえることは、論理的には無限に分割できるものではあっても、現実には分割されない一つの空間としてとらえることを意味しています。というのも、もしA・B間を中間点のCで分割してしまうと、A・C、C・Bという二つの非連続の量になってしまい、A・B間は一つの空間ではなく、二つの空間になってしまいます。つまり空間の連続性を問題にするときは、その間は無限に分割することが可能ではあっても、それは単なる理論上の可能性にとどまるのであって、現実に無限に分割しうるということではありません。したがって理論上の分割を考える場合、A・B間の中間点なるものは存在しません。無限なものの半分は依然として無限だからです。A・B間の現実の中間点を問題にするということは、すでにA・B間を現実のうえで分割し、二つの非連続量としてとらえることなのです。ゼノンは、A・B間を理論上の無限分割可能性という連続性として前提しながら、そこに現実の分割という非連続性を持ち込むという誤りをおかしているのです。
 AからBへの位置の移動という運動は、空間における連続性と非連続性の統一という対立物の統一としてとらえるしかないのです。位置の移動は、いわば「ここにあって、ここにない」という対立物の統一なのです。中間点を通過するとき「ここにある」とみることは、そこに運動の非連続性をみているのであり「ここにない」と、みるとき、そこに運動の連続性をみているのです。

社会は発展する

 弁証法についてすべてをここで語りつくすことはできませんので、その核心は対立物の統一であることのみを紹介するにとどめて先に進むことにしましょう(詳しくは拙著『弁証法とは何か』一粒の麦社参照)。
 人間の社会も一回だけの後戻りのできない運動ですから、そこでは発展法則が問題となってきます。社会は矛盾をつうじて発展するのです。
 では社会発展をもたらす矛盾とは何でしょうか。それが第一〇講でお話しした生産力と生産関係の矛盾です。この矛盾は対立物の闘争を生みだします。その場合の対立物とは、第八講でお話しした搾取階級と被搾取階級との対立であり、対立物の相互排斥が階級闘争なのです。階級闘争によって、その社会のもつ生産力と生(闘争)産関係の矛盾は止揚され、発展した生産力にふさわしい生産関係が実現することにより、社会は発展していくのです。
 いわば、階級闘争は歴史発展の原動力なのです。
 第八講で、これまでの人間社会は原始共産制社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会へと発展してきたことをお話ししました。
 エンゲルスは『空想から科学へ』のなかで「これまでのすべての歴史は、原始状態を別にすれば、階級闘争の歴史であった」(全集⑲二〇五ページ)と述べています。
 このような社会区分は、大まかな枠組みを示したものであり、一国のうちにそれぞれの社会が重なり合って存在することもあれば、一つの区分された社会のなかにいくつかの諸段階を区別することもできます。
 例えば、資本主義をとってみても、十五世紀後半に誕生した当時は古典的自由主義の資本主義であったものが、十九世紀末には自由競争を否定する独占資本となり、二十世紀前半をつうじて、国家と独占資本とが癒着した国家独占資本主義となります。国家独占資本主義も最初はケインズ型国家独占資本主義の局面もありましたが、一九八〇年代以降は「新自由主義型」国家独占資本主義とよばれる局面に入っています。
 これに対する労働者階級のたたかいも、最初は、労働者を小生産から放逐した機械そのものを敵とする「ラダイト」(機械打ちこわし運動)に始まり、労働組合の結成による経済闘争、労働者階級の政党結成による政治権力獲得をめざす運動、一九一七年のロシア革命による労働者階級の政府の誕生へと発展し、二十世紀後半には、資本主義諸国家と「社会主義」諸国家とが並存する状況が生まれました。
 しかし二十世紀末に、旧ソ連、東欧が崩壊し、社会主義をめざす国は中国、ベトナム、キューバのみとなりますが、二十一世紀に入るとラテンアメリカに「新自由主義」に反対する左派政権が相次いで誕生し、なかでもベネズエラ、ボリビア、ブラジル、エクアドルでは「社会主義のルネサンス」を唱えて「二十一世紀の社会主義」をめざしており、世界全体の注目をあびています。
 また発達した資本主義国であるドイツでは、旧東独、西独の左派が結集して新党「左翼」を結成し「自由と社会主義」を目標とする三番目の政治勢力となりました。
 米『タイム』(電子版)は、日本共産党の特集をおこない「ソ連崩壊後十五年以上たつのに世界第二の経済大国で頑張り続ける共産党」と紹介し「アジアあるいは世界の中でもっとも成功している非政権党の共産党だろう」と述べています。
 このように、資本主義諸国の階級闘争をみてもけっして歴史は一直線に進むものではありませんが、一進一退を重ねながらも、長い視野でみると、人類の歴史は階級闘争をつうじて着実に発展しているのです。
 そのなかにあっても「社会主義」をめざしていたソ連・東欧がなぜ崩壊したのかは、社会発展を考えるうえ、で曖昧にしておくことのできない問題です。
 二十一世紀は、本格的に資本主義から社会主義への移行の時代になろうとしています。
 その意味でも、資本主義とは一体何なのか、どんな矛盾をはらんでいる社会なのか、その矛盾を解決する真にあるべき社会主義とは何なのか、その真にあるべき社会主義に照らして、ソ連や東欧はどう評価されるべきなのか、ベネズエラなどで「社会主義のルネサンス」と称しているのはなぜか、などの問題について考えていくことにしましょう。

 

〈第一二講〉

資本主義とは何か

 資本主義とは利潤第一主義の社会です。奴隷制社会も封建制社会も階級社会であり、できるだけ多く搾取しようとするから、この点では資本主義も同じと思われるかもしれませんが、そうではありません。
 奴隷制、封建制社会の場合は、生産力の発展は基本的には人力と自然力に(せいぜいそれに役畜を加えたもの)依存していますので、搾取には自から制限があります。しかし資本主義的生産様式は、生産力の発展を人力やおのず自然力にではなく機械に依存していますので、より生産性の高い機械を発明しさえすれば、そこから生まれる搾取に制限はありません。
 新しい機械による生産力の発展は、商品一個あたりのコストを引き下げ、その資本家に特別利潤をもたらします。逆に遅れた機械を使って生産している資本家は、商品一個あたりのコストは高くなるにもかかわらず、市場価格で販売することになりますので、利潤が削られることになってしまいます。
 ここから、利潤第一主義の個別資本は、生き残りをかけて生産力の発展を日々競い合い、大きな資本をもつものほどより新しい機械によって生産力を発展させ、より多くの利潤を手にするという弱肉強食の社会をもたらすのです。この生存競争の中で、中小業者はなぎ倒され、生産手段を失って労働者に転落し、ひとり独占資本のみが勝ち残ることになります。しかしこの国内の独占資本も国際的な競争にさらされ、この競争でも多国籍企業の巨大独占資本が勝ち残ることになります。
 国内の独占資本は、自らの政党を媒介に国家と癒着し、国家権力を手にします。いわゆる国家独占資本主義です。国家独占資本主義は国家権力を使って独占資本の搾取強化を助け、また税金や社会保障を使って労働者以外の人民からも収奪するのです。

資本主義の根本矛盾とは何か

 資本主義の根本矛盾は、利潤第一主義のもとで巨大な独占資本が誕生し、何十万人もの労働者が一企業に働くというように、生産そのものは社会的な生産に発展しているにもかかわらず、利潤は小生産の時と同じように資本家が独り占めしているところにあります。
 このことをエンゲルスは「社会的生産と資本主義的取得の矛盾」(全集⑳二八〇ページ)と表現しています。この矛盾は、生産力が発展し社会的富が豊かになればなるほど、誰の目にも明らかになります。一握りの独占資本家が世界中の富を独り占めにする一方で、全世界の労働者、中小零細業者、農・漁民などの被抑圧人民は、人間らしい生活すら保障されないことになるのです。
 一九八〇年代に始まった「新自由主義」型国家独占資本主義は、生産力は発展するものの作った商品が売れないために新たな資本の投下先が存在せず、金あまり現象が生じているもとで、モノづくりではなくマネー・ゲームによって利潤を手にしようというものです。いわば社会的富の生産で利潤を手にするのではなく、出来上がった社会的富をギャンブルにより、より多くの分配を手にしようというカジノ資本主義となっています。
 このカジノ資本主義は、生産の現場で搾取するのに加え、マネーゲームでも労働者・国民を搾り取るという二重の搾取により、全世界的な貧富の格差をさらに急速に拡大し、深刻化させているのです。
 マルクスは、資本主義的蓄積の一般的法則を、次のように述べています。
 「一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である」(『資本論』④一一〇八ページ)。
 いわば利潤第一主義の資本主義の矛盾は、貧富の格差を無限にまで拡大していくという貧富の対立・矛盾として展開されます「新自由主義」のもとでの現代の格差社会は、まさに弱肉強食のむき出しの資本主義の産物にほかなりません。
 OECD(経済協力開発機構) が二〇〇五年に「相対的貧困率」の調査結果を発表しています。相対的貧困率とは、所得分布の中央値の半分以下しか所得のないものの割合を示すものであり、その割合が高いほど貧富の格差が大きく、貧困層が多いということを意味しています。その結果相対的貧困率第一位は資本主義第一位の生産力をもつアメリカであり、第二位は同じく第二位の生産力をもつ日本です。
 相対的貧困率が高くても、その貧困の度合いが人間らしい最低限度の生活を保障するものであればともかく、資本主義のもとでの貧困は、働いても生活保護基準(健康で文化的な最低限度の生活を保障する基準)をも下回り、かつ下限は限度のないワーキングプアーを生みだすほどの貧困なのです。
 もともと「経済」とは「経世済民」(世を治め民をすくう)という熟語に由来するものです。しかし資本主義経済は、いくら生産力を発展させ社会的富を生産しても、大多数の労働者・国民には、その生存権すら保障されない貧困を押しつけるという生産様式ですから、この矛盾によって、未来永劫に存続することのできない歴史的制約性をもった経済体制にほかならないのです。

資本主義から社会主義へ

 資本主義の本質が利潤第一主義にあるかぎり、資本は自らこの貧富の対立・矛盾をなくすことはできません。矛盾を生みだしたものは、自らの手で矛盾を解決することはできないのです。
 ですからこの矛盾の解決は労働者階級を中心とする国民の手に委ねられ、階級闘争は、搾取を否定して階級のない社会主義へと向かわざるをえないのです。
 エンゲルスは十九世紀前半をつうじて、フランス革命の影響を受けながらイギリスは経済的に、フランスは政治的に、ドイツは哲学的に社会主義思想に接近したといっています。こうして、ヨーロッパ全体に社会主義・共産主義の思想が広まり、一八四八年マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』が出版されたとき、その冒頭に「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている── 共産主義の妖怪が」(全集④四七五ページ)という有名な文句が刻まれることになります。
 十九世紀前半には、雑多な社会主義が登場しますが、そのなかにあってマルクス、エンゲルスの創始した科学的社会主義の思想が次第に広く認知されることになります。
 それを要約すれば、資本主義的搾取をなくすためには私有財産そのものを否定するのではなく、生産手段を社会全体のものに変えることによって生産物も社会全体のものとし「社会的生産と資本主義的取得」という矛盾を「社会的生産と社会的取得」として解決しようというものです。それは資本家階級に対する労働者階級を先頭とする人民の階級闘争として展開されますが、労働者階級の政党が導き手となって人民全体の階級闘争を一つのものに束ねることができるのです。
 いわば、真にあるべき社会主義とは、生産手段の社会化によって搾取をなくすと同時に階級をも消滅させ、人民が国家と市民社会(経済社会)の主人公になることを意味しています。それを別の観点からいえば、搾取による疎外と国家による疎外という二重の人間疎外から脱け出して、人間の本質である自由と民主主義を全面的に実現する人間解放の社会なのです。人間解放とは、人間の疎外から人間の本質を回復することにほかなりません。
 重要なことは、人間解放としての真にあるべき社会主義は、搾取と収奪による二重の疎外から解放されるのであって、国家から解放されないのでは人間解放ということはできないということです。

社会主義とは何か

 以上を念頭におきながら、エンゲルスの『空想から科学へ』の名文の誉れ高き社会主義論をみていくことにしましょう。
 「社会が生産手段を掌握するとともに、……社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現われる。……いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する。人間は、自分自身の社会的結合の主人となるからこそ、またそうなることによって、いまやはじめて自然の意識的な、ほんとうの主人となる」(全集⑲二二三ページ)。
 生産手段の社会化によって搾取制度を廃止し、階級的抑圧をなくすことによって、はじめて人間は意識的に国家・社会を組織し、国家・社会の主人公となることができるのです。
 「これまでは、人間自身の社会的行為の諸法則が、人間を支配する外的な自然法則として、人間に対立してきたが、これからは、人間が十分な専門知識をもってこれらの法則を応用し、したがって支配するようになる。これまでは、人間自身の社会的結合が、自然と歴史とによって押しつけられたものとして、人間に対立してきたが、いまやそれは、人間自身の自由な行為となる」(同)。
 人間は国家・社会の主人公となることによって、はじめて本来の共同社会性を発揮することができるのです。
 「このときからはじめて、人間が作用させる社会的諸原因は、だいたいにおいて人間が望んだとおりの結果をもたらすようになり、また時とともにますますそうなってゆく。これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である」(同二二四ページ)。
 もう一度第一講、第四講でお話しした自由論を思い出してください。資本主義から社会主義への移行は、必然的自由から概念的自由という真の自由の国への飛躍なのです。
 こうしてみてくると、旧ソ連の国家体制が社会主義とは無縁な存在だったということがはっきりするのではないでしょうか。
 ソ連では、当初社会主義への移行をめざして、土地、機械、工場などを国有化はしたものの、一党支配の官僚主義、専制主義のもとで、国民は、国家との関係においても、また生産の現場においても、主人公となるどころか、逆に自由にモノもいえず、民主主義の諸原則も保障されない人民抑圧の体制のもとにおかれたのです。
 またソ連の国内で自由と民主主義が保障されないということは、対外的には、東欧諸国の自主的・民主的社会主義への道を許さない大国主義的干渉と覇権主義となってあらわれました。一九五六年のハンガリー事件、六八年のチェコ侵入事件、八〇年代のポーランド問題などがそれです。こうして一度は自由と民主主義を保障する社会主義への道を歩もうとした東欧諸国も、ソ連の武力介入により、結局ソ連に従わざるをえなくなり、ソ連と運命を共にすることになったのです。
 ですから、日本共産党がソ連の崩壊を「歴史的な巨悪の崩壊」(綱領)ととらえ「大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった」(同)と評価したのは卓見というべきであり、現にその後の国際情勢は、その「新しい可能性」を示しつつあるように思えます。