『ものの見方・考え方』より
第一四・一五講 階級闘争とは何か
〈第一四講〉
自然の発展史と社会の発展史
自然の発展史と人間社会の発展史とは、本質的に違っています。
というのも、自然においては自然自身のもつ諸法則にもとづいて発展していくのに対し、社会発展の場合には「行為している人々は、すべて意識をもち思慮や熱情をもって行動し一定の目的をめざして努力している人間」(全集三〇一ページ)だからです。
個々人の意識は個々バラバラの勝手気ままなものですから、そのなかから何か社会的に一つのまとまった意識が生じることは偶然でしかないように思われます。したがって社会を一つの方向に発展させるようなまとまった意志などありえないと思われるかもしれません。
ですから長い間人類は、人間社会の発展はその時代をリードする英雄の個人的意志によって決まるという考え方にとらわれてきました。どんな英雄がどんな意志をもって歴史の舞台に登場することになるのか、誰も予知することはできませんので、この考えは社会の発展を「科学の目」でとらえることは困難であるとの見方につながっていました。
これに対してマルクス、エンゲルスは、こうした個々人の意志の背景には、個々人の意志を動かすもっと根本的なものが存在するのであり、それが階級としての意志であることをつきとめたのです。それはけっしてマルクス、エンゲルスが、頭のなかだけで考えだしたことではありません。フランス革命に始まるヨーロッパの階級闘争の発展それ自体がこの問題への回答を与えてくれたのです。
「一八三一年にはリヨンで最初の労働者の蜂起が起こった。一八三八~一八四二年には、最初の国民的な労働運動、すなわちイギリスのチャーティスト運動がその頂点に達した」(全集⑲二〇四ページ)。
チャーティスト運動というのは、労働者階級の最初の、かつ大衆的な階級としての運動でした。それは労働者階級にも選挙権をよこせという要求から出発し、人民権力の実現をめざす革命闘争の性格をもそなえたものでした。この運動は金持ちだけの選挙権に反対して、普通選挙権獲得をめざす全世界の運動のさきがけ(普選運動)となるものでした。
個々人の意志はバラバラのように見えても、個々人の所属する階級としての意志として大きくとらえることができるとの見方は、社会全体の人間の実践をマクロ的にとらえ「科学の目」で分析することを可能とする画期的なものでした。それぞれの階級は、階級としての意志、つまり階級的意志を形成し、その意志を実践するために、階級として結集する組織をもっています。例えば日本独占資本の階級的組織には経団連がありますし、労働者のナショナル・センター(中央組織)としては全労連や連合があります。民商・全商連は、中小零細資本家と勤労市民など中間階級の階級的中央組織ということができます。
現代日本における階級闘争は、独占資本家階級に対して、労働者階級を先頭に、中小資本家階級、小ブルジョア階級などの中間階級が統一戦線を結成して階級的に連帯しながら階級闘争を挑むという形で展開されることになります。階級闘争をたたかううえで、これらの階級的組織が各階級の利益を代表してたたかうことになるのです。
みなさんも、三・一三重税反対統一行動には、全労連、県労連などの労働団体が連帯のあいさつをされるのを経験しておられるでしょう。これも重税反対の一点で中間階級と労働者階級との階級的連帯を表現した運動となっているのです。
階級闘争の三つの形態
第一〇講で、社会全体の構造をみてみると、土台となる市民社会(経済社会)、その土台によって規定される国家(法、政治)という上部構造、この上部構造に対応するイデオロギー(思想、文化、教育)の三つの構成部 分をもっていることを学びました。
搾取する者と搾取される者という階級関係は、土台である経済社会から生まれるものですが、階級闘争は、この経済社会の関係だけでたたかわれるわけではありません。経済社会は、国家とイデオロギーを規定するものですから、階級闘争も、国家との関係、イデオロギーとの関係でもたたかわれることになります。
したがって階級闘争には、経済闘争、政治闘争、イデオロギー闘争の三つの形態があるのです。
経済闘争というのは、労働者階級と中間階級が、独占資本家階級を直接の相手として経済的要求をかかげてたたかうことであり、全労連が毎年おこなっている国民春闘がその一例です。これを国民春闘とよんでいるのは、全労連が単に労働者階級の要求のみならず、すべての被抑圧人民の経済的要求をかかげているからです。個別資本を相手に、労働組合が賃上げや雇用の確保などを要求してたたかうのも経済闘争の一つの形態といえます。
政治闘争には、国会での憲法や法律制定をめぐる政党間のたたかい、日常の政治活動、選挙運動、あるいは請願運動などが含まれています。
イデオロギー闘争とは、テレビ、新聞、雑誌などをつうじて展開される階級間の思想闘争です。各時代の支配的なイデオロギーは、その時代の支配階級のイデオロギーです。階級社会においては、搾取階級が支配階級となっていますが、彼らは常に人民の少数にすぎません。しかし支配階級は、少数である自分たちの利益のために行動しながら、あくまで多数の人民の利益を守るかのような偽りのイデオロギーをマスコミや教育をつうじて流し続けます。これが支配階級のイデオロギーの特徴であり、したがってそれはいつも人民をだまし、ごまかし、ペテンにかける論理に貫かれているのです。
みなさんもNHKのニュース報道の大半が自民党政治の宣伝の場になっていることを痛感しておられるのではないでしょうか。
他方労働者階級にとっては、現代社会が常に少数者である搾取者の利益を守る社会であり、国家は階級支配の機関にすぎないという真理、真実を明らかにしていくことが自らの利益になるのです。県労学協もこのイデオロギー闘争の一環を担っています。
したがってイデオロギーをめぐる階級闘争は「搾取階級の偽りの論理」対「労働者階級の真理、真実の論、理」として展開されることになります。
科学的社会主義の学説は、労働者階級のたたかいをつうじて生まれた労働者階級のイデオロギーであり、だか」。らこそ真理、真実を探求する理論として、第一講でお話ししたように「正しいので全能なのです(レーニン)
国家独占資本主義のもとでの階級闘争
第一三講でお話ししたように、国家独占資本主義とは、独占資本と国家とが一つに結びつき、国家が独占資本の利益を法や政治を使って直接的に実現しようとする資本主義です。
とりわけ「新自由主義」型国家独占資本主義は、ほんらい所得を再配分して貧富の対立を緩和することを目的とする税制と社会保障を逆用し、これらを貧富の格差拡大の手段にかえてしまっています。
すなわち、これまでの税金は「応能負担の原則」にもとづいて累進課税がとられていたのに対し「新自由主義」のもとでは、大企業には国際競争力をつけるためにと減税しながら、人民には最悪の大衆課税である消費税を押しつけてくるのです。また社会保障の目的は低所得者の生存権を保障することにあるにもかかわらず「新自由主義」のもとでは、医療難民、介護難民、ネットカフェ難民といわれるように、金のない者は社会保障の適用も受けられず、国から見棄てられてしまっています。
こうして「新自由主義」型国家独占資本主義のもとにあっては、独占資本と労働者・国民との間の矛盾が、かつてなく激化することになります。
そしてこの矛盾の激化は階級闘争に独特な色合いをもたせています。
一つは、支配階級の側で独占資本と国家とが一つに結びつくことに対して、被支配階級の側も、経済闘争と政治闘争を一つに結びつけることになります。いわば被支配階級にとって、国家を相手とする政治・経済闘争が決定的に重要な意義をもつことになります。
二つには、独占資本の支配のもとで、独占資本以外の階級、すなわち労働者階級、小ブルジョアジー、中小資本家階級には、すべて大差のないギリギリの生活条件が押しつけられるため、階級的に連帯して統一戦線を結成し、階級闘争をたたかう客観的条件が生まれてくるのです。
政党間の政治闘争
それぞれの階級は、自分たちの階級的利益を守る政治闘争をたたかうために、政党を組織することになります。
資本主義の階級構成は、資本家階級、労働者階級、中間階級と、大きく三つに分かれます。それに対応して、階級的観点からすれば三つの階級政党が存在しうることになります。
資本家階級は、当初自分たち以外の階級には選挙権を認めないということで政治活動を独占していました。しかし労働者階級の普通選挙権を求める階級闘争をつうじて、資本家階級も譲渡せざるをえなくなり、結局はすべての成人の男女に普通選挙権が認められることになりました。
この普通選挙制度のもとで、労働者階級や中間階級も、自らの階級的利益を代表する政党を組織し、政治闘争は政党間の闘争として展開されることになるのです。
しかし支配階級は、普通選挙制度に移行しても、国家を階級支配の機関として確保するために、様々な手段を用いています。
一つは、警察、軍隊などをつかって、人民の選挙運動を弾圧することです。日本でも一九二五年に普通選挙法が制定されると、それと抱き合わせで治安維持法を制定し、この悪法をつうじて労働者階級の選挙闘争に乱暴な介入、弾圧を加えてきたのです。警察による選挙弾圧は、現在もなお様々な形態で続けられています。
二つは、選挙制度の作為的操作です。一方で独占資本の買収選挙や企業ぐるみ選挙は野放しにしながら、他方で人民のビラ、街頭宣伝、戸別訪問などの活動を厳しく制限する「べからず選挙法」がそれです。またもっとも民意を反映しにくい小選挙区制への指向を強めていくのです。
三つには、資本家階級の利益を代表する二つの政党を組織し、その多少の色合いの違いを利用して二大政党の政権たらい回しで、人民の批判をそらし、真に人民の利益を代表する政党に支持が流れないようにするのです。マスコミ独占資本は、あたかも政治の対決軸が二大政党間にあるようにふるまい、資本家階級を助けています。
労働者階級が選挙権を手にしてもなかなか政権の座につくことができないのには、こうした理由があることもみておかなければなりません。
〈第一五講〉
現代日本の政党
第一四講で、国家独占資本主義の段階においては、階級闘争に関し、国家を相手とする政治・経済闘争が決定的意義をもつということをお話ししました。
現代日本においては、普通選挙制度とそれにもとづく議会制民主主義の政治制度が存在しています。議会制民主主義のもとでは、階級間の政治闘争は、政党間の闘争として展開されることになります。そのため政党間の力関係を決定する選挙闘争が政治闘争の集中的表現となってきます。各政党は、人民のなかでの日常的な政治活動をつうじて、自らの組織を拡大する努力をおこない、その日常活動の総決算が国政選挙に反映されることになります。国会で多数を握った政党は、議院内閣制により、国会と政府とを共に手にすることができるのです。
資本主義社会には、資本家階級、労働者階級、中間階級という三つの基本的な階級が存在しています。それぞれの階級は、自らの階級的利益を実現するために政党を組織しますので、資本主義社会の政党も階級的には三つの政党に区別されることになります。資本家階級、労働者階級、中間階級というそれぞれの階級の利益を代表する政党は、国政選挙をつうじて多数派を形成し、国会と政府という国家権力を掌握しようとしてたたかうところに、現代の階級闘争の集中的表現が示されているのです。
日本では戦後アメリカと財界の手により育てられた自民党が一時期をのぞいて、ずっと政権を担当してきました。自民党は、財界から政治献金と賄賂をもらって財界いいなりの政治をおこなってきました。自民党は独占資本の政党であり、独占資本のカネで動かされているところに「政治とカネ」の根本問題があるのです。
この自民党の支配が危うくなるなかで、二〇〇三年、財界のお声がかりにより、二大政党制をもくろんで誕生した独占資本の政党が民主党です。二〇〇七年秋、自民党と民主党が「大連立」で手を組もうとしたのも、この二つの政党が同じ独占資本の政党として、外交・内政のいずれの面でも基本的に同質であることを前提としていたからにほかなりません。公明党は、自民党と手を組んで政権の座につくことによって独占資本の政党に変質してしまいました。
二〇〇七年のいっせい地方選挙をつうじて「オール与党」の政治という言葉が多用されました。国政では対決ポーズを示しても、地方政治では、自民、公明、民主、時には社民まで含めて「オール与党」となり、ただひとり日本共産党が野党として自民党政治と対決するという構図が全国的にみられました。この事実は、自・公・民三党の間には、基本的に階級的立場が共通していることを示しているのです。
日本共産党は「日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党」(規約)です。ここには大変深い意味が込められています。もともと日本共産党は、日本の労働者階級の政党として一九二二年に誕生したものですが、二一世紀に入って「日本国民の党」がつけ加わることになりました。この立場を貫くために、日本共産党は財界から一円の政治献金も受け取っていませんし、国民の思想・信条の自由をふみにじる政党助成金も受けとっていません。党費とカンパ、さらには「しんぶん赤旗」の購読料という国民に支えられた財政活動を展開しているからこそ「国民の党」としての役割を果たしうるのです。
日本が「新自由主義」型国家独占資本主義に突入したことにより、労働者階級と中間階級とはその経済的実体において階級的区別が小さくなる反面、労働者のみならず中間階級も独占資本に敵対せざるをえなくなってきました。言いかえれば「新自由主義」のもとで、すべての被抑圧人民が人間の本質である自由な意志と共同社会性とを疎外され、人間疎外の状態になってしまったのです。
その意味では労働者階級と中間階級とが階級的に連帯して統一戦線を結成し、独占資本に対抗して階級闘争を挑む条件が成熟してきたのです。
こうした情勢を背景に、日本共産党の規約は改訂されると同時に、その綱領のなかで、この被抑圧人民の人間解放の意味を込めて「国民が主人公」の社会の実現がそのキーワードとされるに至ったのです。
民商・全商連の「総会方針」などをみてみますと「新自由主義」のもとでいかに中小資本家や勤労市民が独占資本の横暴と国家的収奪によって苦しめられているかが詳しく分析されています。そしてこれらの苦しみを軽減するために、様々な問題で民商・全商連と日本共産党との協力・共同が「商工新聞」などで報じられているのも、こうした事情にもとづくものです。
現代の日本には、一方で独占資本の政党としての自・公・民、他方で「労働者階級の党であると同時に、日本国民の党」である日本共産党が存在し、中間階級の独自の政党は存在しません。
強いていえば、社民党が「オール与党」の側に与したり、憲法問題で日本共産党と共闘したりする動揺ぶりを示しているので、中間階級の政党といえなくもないかもしれません。しかし社民党は、もともと労働組合を支持基盤としていた政党であり、中小資本家の代表でも勤労市民の代表でも、農漁民の代表でもありませんので、中間階級の独自の政党と言い切るのには多大の疑問があります。
こういう現代日本の独自の政党状況からすると、中間階級の利益を代表する政党は日本共産党だということになるでしょう。
国民が主人公
「国民が主人公」とはいったい何を意味しているのでしょうか。そこには大きく三つの意味が込められています。それを分かりやすい言葉で説明したのが、リンカーン大統領のゲッティズバーグでの演説「人民の、人民による、人民のための政治」です。
「人民の政治」とは、人民が行う政治(これは「人民による政治」です)という意味ではなく、人民を統治する政治を意味しています。ですから、リンカーンの言葉には、①人民のための政治を目標にかかげて、②人民が統治者となり、③人民を統治するという三つの意味が込められているのです。第五講で人間の本質は共同社会性にあり、そこから生まれる民主主義的原理の一つに「治者と被治者の同一性」があるとお話ししました。
国民が主人公というためには、まず治者も人民、被治者も人民という、治者と被治者の同一性が求められることになります。同じ民主主義的諸原理の一つである「手続き民主主義」は、この「治者と被治者の同一性」を実現するための一つの手段ということができます。
普通選挙制度は、この手続き民主主義のあらわれです。ではこの普通選挙によって、現代日本に「治者と被治者の同一性」が実現されているのかといえば、全くその逆にひとにぎりの治者が大多数の被治者を抑圧し、支配しているのです。またこの普通選挙によって生まれた自民党政治は「人民のための政治」ではなく「独占資本のための政治」であることは、これまでお話ししてきたとおりです。
「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」(ルソー著『社会契約論』一三三ページ、岩波文庫)。もちろんこれは、イギリス人民だけのことではなくて、現代の日本人民も全く同様なのです。
それはけっして手続き民主主義としての普通選挙が無用だというわけではありませんし、人民に政治を治める力がないわけでもありません。手続き民主主義は衆愚政治をもたらすのみであるとの批判は、結局はひとにぎりの搾取階級のみが高い教養と統治能力を有するとする、搾取と階級支配を肯定する論理でしかありません。
この点に関するルソーの指摘は極めて的確なものということができます。
「人民の決議が、つねに同一の正しさをもつ、ということにはならない。人は、つねに自分の幸福をのぞむものだが、つねに幸福を見わけることができるわけではない。人民は、腐敗させられることは決してないが、ときには欺かれることがある。そして、人民が悪いことをのぞむように見えるのは、そのような場合だけである」(同四六~四七ページ)。
少数の搾取者が多数の被搾取者を支配するのは、人民を欺くことによってのみ可能となるのです。
人民の導き手
労働者階級が最初に歴史の舞台に登場したとき、その階級闘争の方法は、リヨンの蜂起にみられるように少数の自覚的労働者が武器を持って蜂起するという方法でした。フランスの労働者階級のたたかいは、一八四八年の二月革命まで、都市で武装蜂起し、市街戦でバリケードを作って国家権力に立ち向かうという方法がとられました。
しかしこうした方法では、強力な国家権力に立ち向かって勝利することはできません。社会の変革に勝利するためには、労働者階級は他の被抑圧人民と団結し、人民の多数の力を結集して、多数者による多数者革命への道を歩まねばならないことを学ぶに至るのです。
エンゲルスは「一八四八年にたんなる奇襲によって社会改造に成功することがいかに不可能」(全集㉒五一一ページ)であったかを学ぶことにより、労働者階級は「きびしい、ねばり強い闘争によって、一陣地より一陣地へと徐々に前進しなければならない」(同)ことを理解し、労働者階級の独自の政党を組織したと語っています。
では労働者階級の政党の果たすべき役割とは何でしょうか。
それは、資本主義の国家がひとにぎりの資本家のための国家であって、労働者階級をはじめとする大多数の被抑圧人民のための国家ではないことを暴露することをつうじて、労働者の圧倒的多数を階級的に組織するにとどまらず、大多数の被抑圧人民をも社会変革の側に組織して、陣地戦で資本家階級に勝利するだけの力量を身につけることなのです。この結集した多数派により、選挙で国会の多数の議席を占め、国会と政府の力で政治を変えることができます。これが多数者革命といわれるものです。
そのためには、労働者階級の政党は「人民のための政治」を人民の前に提示して、人民の導き手にならなければなりません。それは資本家階級のための政治にとってかわる「真にあるべき人民の意志にもとづく政治」を提示することによってはじめて可能になるのです。
この人民の「真にあるべき意志」をはじめて提起したのがルソーの『社会契約論』であり、ルソーはそれを人民の「一般意志」とよびました。ルソーは一般意志にもとづく統治を主張することによって、はじめて「治者と被治者の同一性」が実現されるという、不滅の理論的功績を残したのです(拙著『科学的社会主義の源泉としてのルソー』参照)。
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