『ものの見方・考え方』より

 

 

第一八・一九講 中小業者のものの見方・考え方

 

〈第一八講〉

中小業者の役割

 たいへん前置きが長くなりましたが、本講から最後の二三講までの六講で、いよいよ「中小業者のものの見方・考え方」のまとめにはいっていくことにしましょう。
 さて、中小業者は日本社会のなかでいったいどんな役割を担っているのかを考えてみましょう。大きくいって二つの役割を担っているのではないでしょうか。一つは「経済の主役」であり、もう一つは「街づくりの主役」です「民商・全商連運動の基本方向」は、その二つの側面をしっかりととらえています。
 まず「経済の主役」については、中小企業・中小業者が「事業所数でも、従事している人の数でも圧倒的多数を占めて」おり「とりわけ小規模事業者は、地域住民の雇用の場としても大きな役割を果たし」ている、と指摘しています。
 いわば、量的にみて、中小業者は経済の主役なのです。しかし中小業者は、けっして量の面だけで「経済の主役」となっているわけではなく、質の面でも「経済の主役」となっているのです。
 大企業は、先端科学技術を駆使して、世界市場を対象に、同一の質をもった商品を大量に生産することは得意ですが、地域資源を生かし地域に密着した、しかも消費者の多様なニーズに応える良質の商品を少量生産するのは得意ではありません。この分野こそ逆に中小業者の最も得意な分野ということができます。
 いま安全な食品を求める声が高まっていますが、地域に責任を負い、地域に密着した中小業者であってこそ、食品にとどまらず、安全で、信頼できる品質の商品とサービスを地域の人々に提供することができるのです。
 次に「街づくりの主役」について「基本方向」では「中小業者は地域社会の担い手」であり「生活し働いている住民のためのまちづくりの推進者」として位置づけられています。
 かつては、駅前の商店街を中心にして、それを取り囲むように住宅地が形成される形で街づくりがなされてきました。その商店街が「シャッター通り」となり、安心して住める地域社会が崩壊しつつあります。労働者は日中職場に出勤し、地域には不在です。日中地域社会を支え、様々な世話役活動を一手に引き受けてきたのが、地域で働く中小業者のみなさんだったのです。ですから「街づくりの主役」であった商店街の崩壊が地域社会の崩壊につながったのも当然のことでした。
 こうした中小業者の役割を考えるとき、中小業者が未来に希望をもち、安心して後継者にバトンタッチできるようになることが、日本経済の量的・質的発展のためにも、また地域社会を発展させ、安心して住める街づくりのためにも大切だということになるのではないでしょうか。

中小業者をとりまく状況

 しかし、現状は、大企業中心、アメリカいいなりの自民党政治のもとで、中小業者は極めて厳しい状況におかれています。
 その根本に、アメリカの押しつけによる「新自由主義」路線があります。かつては、中小企業基本法には、中小企業の経済的重要性に照らし、大企業の横暴から中小企業を守るという観点が多少なりとも存在していました。
 「近時、企業間に存在する生産性、企業所得、労働賃金等の著しい格差は、中小企業の経営の安定とその従事者の生活水準の向上にとって大きな制約となりつつある。……このような事態に対処して、特に小規模企業従事者の生活水準が向上するよう適切な配慮を加えつつ、中小業者の経済的社会的制約による不利を是正する」。
 これは旧中小企業基本法の「前文」の一部ですが、九九年には、この「前文」そのものが抹消されてしまう大改悪をこうむってしまいました。これに対応して、第一三講でお話ししたように大型スーパーが自由化され、商店街を崩壊させてしまったのです。
 「新自由主義」の本質は、大企業の横暴勝手を規制するあらゆる制約をとりはらって、もっと大企業に自由に金もうけをやらせろ、というところにあります。そうした立場から、商品流通という中小業者の分野にまで大企業を進出させ、また「官から民へ」と称して、公的サービス部門を民営化して大企業の金もうけの対象としてしまいました。そのうえ財界・大企業には税の大幅な特権的減免をしてやりながら、他方では国民に対し相次ぐ公的サービスや福祉の切り捨てと負担増を押しつけ、追い打ちをかけるように近未来に消費税を一〇%台に引き上げようとしています。
 中小業者は、一つには大企業の圧力、二つには労働者の雇用と賃金の破壊による売り上げ減少、三つには増税と福祉切り捨てによる負担増という「三重苦」を押しつけられるなかで、日々苦闘につぐ苦闘を余儀なくされ、限りなく労働者に近い生活実態を押しつけられているのです。

中小業者の「ものの見方・考え方」

 第三講で「中小業者に特有なものの見方・考え方が果たして存在するのか」という問題を提起しました。
 中小業者の生活実態からすると、中小業者の考えは労働者と共通するということも出来ますが、それでも中小業者には中小業者独特の考え方が存在するのです。
 第一〇講の「史的唯物論」でお話ししたところを今一度ふり返ってみましょう。
「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。」(全集⑬六ページ)
 では、中小業者という「社会的存在」は、どのように「彼らの意識」、つまり考え方を規定するのでしょうか。
 中小業者は小なりといえども一国一城の主(あるじ)です。仕入れ、製造、販売、経理、労務、そして資金繰りと、経営のすべてについて責任を負わなければなりません。会社組織となっている場合でも、借り入れはすべて社長が連帯保証しており、社長個人で責任を負います。また、中小業者は地域に密着して顔なじみの取引先業者や消費者との間は信頼関係で結ばれていますし、先にみたように地域社会において世話役活動などをつうじて社会的評価を受けています。確かに中小業者も資本主義のもとでの経営体として利潤の追求を目的としていますが、昨今の経営事情からすると、その目的の達成は困難な場合が多くなりがちです。その場合でも、中小業者は自分の生活を犠牲にしてまでも、従業員や関係する地域の人々との信頼関係を保ち、その人々への責任を果たし、社会的責任を全うしようとするのです。
 これに対し資本家階級の場合はどうでしょうか。彼らはすべて大会社の役員をしています。株式会社というのは、金儲けのためならば、法も道徳も無視し、平気で人をだます制度であり「ぺてんと詐欺の全体制を再生産する」(『資本論』⑩七六〇ページ)制度です。彼らは、ばく大な役員報酬を受けとりながら、経営が破綻して」 も何の責任もとりません。利潤第一主義の立場から「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ! 」(同②四六四ページ)という無責任な態度に終始するのです。
 いわば、中小業者は利潤を犠牲にしてまでも社会的責任を果たそうとするのに対し、資本家階級の場合は、利潤第一主義の立場から社会的責任を放棄するのです。彼らにとっては儲かりさえすれば、中小業者がいくつつぶれようが、労働者がいかに路頭に迷おうが、地域社会がどうなろうが、知ったことではないのです。

自己責任論

 現在の中小業者の苦しみの原因は、政治の責任、小泉構造改革の責任「新自由主義」の責任です。
 一九九九年に「新自由主義」の一環として労働者派遣原則自由化の法案が日本共産党だけの反対で成立し、労働市場は劇的に変化しました。雇用も賃金もズタズタに破壊され、働いても生活できないという前例のない事態となりました。いわば労働者はすべり台を逆に上っているような状況下におかれ、一度下に向かってすべり落ち出すと、もうどん底までいくしかありません。
 そういうフリーターの生活経験をもつ作家・雨宮処凜さんは、『生きさせろ!』(太田出版)のなかで、そのときに自分を苦しめたのが自己責任論だったと語っています。「社会がどうとかいうのは、自分の無能さからの『逃げ』『責任転嫁』だと思っていたというのです(同八五ページ)。しかし雨宮さんは、やがてその真の原因が「新自由主義」にあり、自己責任論は支配階級がその政治責任を逃れるためにつくりだした誤ったイデオロギーであることを知るに至り、猛然と「生きさせろ!」と反撃をはじめました。
 労働者階級の場合には、働こうにもまともな働き口が存在せず、働いてもまともな賃金をもらえないのですから、雇用と賃金の破壊が自己責任でないことは容易に理解できるにもかかわらず、自己責任論はいまなおワーキングプアの人々を広く蝕(むしば)んでいるのです。
 それに対して中小業者の場合は、生産手段(道具、機械、商品)を自ら所有し、自己の全責任で経営しています。また地域に密着した業者として、自己の経営体に対して社会的責任を強く意識しています。
 この一国一城の主(あるじ)としての立場が、逆に支配階級のイデオロギーである自己責任論を受け入れやすい物質的基盤をなしているのです。ですから、いざ事業に失敗したりすると、この自己責任論が強く働き「死んでお詫びする」という方向に頭が向かいがちとなります。自分が死んだら生命保険が入るから、それで債権者に支払ってくれという話を聞くことも少なくありません。
 ここからが民商の出番です。死に物狂いで頑張ってきたのに事業が破綻したのは、中小業者の責任ではなく、政治の責任であることを語り、生き抜いてともに政治を変えようと呼びかけることが大切になってくるのです。
 それと同時に、破産や民事再生などの法的諸制度を積極的に活用したり、生活不能となった場合には生活保護を申請すべきです。
 責任感の強い中小業者にとって、破産や民事再生は不面目(ふめんぼく)な救済手段だと誤解して抵抗を示される人もいますが、悪政のもとで生き続けるための「徳政令」だと割り切るべきでしょう。
 また生活保護は、憲法二五条の生存権にもとづいて制定された国民の権利です「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」のです。権利を行使するのに何の遠慮もいらないし、政治の責任で権利行使せざるをえなくなったのですから、誰に対しても恥じる必要はありません。
 偽りのイデオロギー「自己責任論」は、こうしたたたかいのなかで打ち破っていかなければならないのです。

 

〈第一九講〉

政治責任論

 第一八講では「彼らの社会的存在が彼らの社会的意識を規定する」という観点から、中小業者の考え方として、自己責任論が強く働くということをお話ししました。
 しかし、それは、社会的存在が社会的意識を規定する一つの側面にすぎません。もう一つの側面は、現代日本の矛盾を反映した政治的責任論の観点です。
 大企業の金儲け自由化の「新自由主義」路線の犠牲になっているのが、中小業者の皆さんの実態です。大企業は雇用と労働の破壊によって、労働者を安い賃金で必要なとき必要なだけの量を確保することにより、ここ数年毎年史上空前の利益を更新し続けてきました。戦後の日本の歴史のなかでも、史上空前といわれる好景気は何度かありました。神武天皇以来といわれた「神武景気」、それをさらに上回る「岩戸景気」、もっと上回る「いざなぎ景気」などがそれです「新自由主義」のもとでの大企業の好景気は、この「いざなぎ景気」をさらに上回る。史上空前の七年二ヵ月にもおよび、二〇〇七年秋サブプライムローンの破綻に始まる金融危機でようやく終止符を打ったのです。
 「新自由主義、構造改革路線のもとで、こういう大企業の途方もない空前の利益が蓄積されるかたわら、中小企業が大企業の下請いじめや、大型スーパーの進出で青息吐息になってきたというここ十数年の状況は、否が応でも中小業者の意識のうえに反映せざるをえません。
 中小業者の苦しみの根源には「政治の責任」があるのです。「全商連第四八回定期総会方針」では、この政治の責任を次のように述べています。
 「自民・公明政権が強行した『構造改革』は広範な中小業者・国民を『ワーキング・プア』に追い込み、その犠牲の上に大企業の空前の利益をもたらしました。」
重要なことは、この「新自由主義」はたんに中小業者を苦しめているだけではなく、労働者や農民をも苦しめていることです。
 労働者についてはこれまでにもお話ししてきましたので、今回は農民について一言しておきましょう。
 中国産の冷凍毒ギョーザ事件や汚染米の問題は、国民の安全・安心な食品への関心を一挙に高めました。自民党政府は「食糧は外国から安く買えばいい「国の予算を非効率な農業にふりむけるのはムダ」との考えから、一方で、農業では食べていけないようにしながら、他方では農産物の輸入自由化を押しすすめ、かつては食糧のほとんどを自給していた日本をいまや食糧自給率三九%にまで落ちこませてしまいました(日本を除く先進一一ヵ国の平均は一〇三%)。
 労働者の最低賃金の平均は時給六八七円ですが、これではとても生活できないというので、労働組合のナショナルセンターである全労連も連合も時給千円の要求を掲げています。ところがコメ作り農家の報酬を時給に換算してみると、なんと一七九円にしかなりません。いまやコメはペットボトル一本の水の半分の値段でしかないのです。これではいくら国産米を作りたくても、作れば作るほど赤字になってしまいます。
 中小業者、労働者、農民には、人間らしく生きていくために、それぞれに固有の要求があります。労働者の場合には労働者派遣法の抜本改正、農民の場合には農産物の価格保障(生産費保障)と所得保障、そして中小業者の場合には「応能負担」を貫く税制改正、消費税増税反対などをあげることができます。
 他方で「貧困と格差が社会にまん延し、健全な取引や雇用のルールの破壊が進む事態に広範な国民が『このままでは日本の前途は立ち行かない』との危機感を強め」(同総会方針)る状況が生まれています。中小業者、労働者、農民の当面の諸要求を生みだした背景には、いずれも「新自由主義」が根本的原因として存在しており、「広範な国民」は当面する諸要求は異なっても、根本原因である「新自由主義」反対の一点では一致し、手を結ぶことができる情勢となっているのです。

自己責任論と政治責任論の対立

 中小業者のおかれている苦しい現状については、中小業者の間に認識の不一致はほとんど存在しないといっていいでしょう。
 問題はその原因がどこにあるかに関する「ものの見方・考え方」であり、そこには大きく自己責任論と政治責任論の対立する二つの考え方が並存しているのです。
 この二つの考え方のうち、自己責任論は、支配階級が自らの責任を逃れるために意図的につくり出した、事実にもとづかないごまかしの理論です。自民党政治は、一握りの財界・大企業のための政治、つまり少数者のための政治をその本質としています。しかしその本質を明らかにしたのでは選挙で負けてしまいますから、あたかも国民全体の共同の利益を守っているかのように、嘘とペテンで国民を欺くのです。
 第九講で、国家というものは「共同の利益の実現は単なる飾り物にすぎなくなり、階級支配のための機関をその本質とする」ことを学びました。日本という国家の展開する自民党政治は、独占資本という階級の利益を代表して「新自由主義」を押しつけてきました。それを強力に押しすすめた小泉内閣は「改革なければ成長なし」と称して、とにかく「構造改革」を推進すれば一時的には国民に痛みが伴うとしても、それを乗り切れば未来には希望があるかのような大嘘を広めました。彼は「小泉劇場」とよばれる言葉のマジックで「構造改革」のも、たらすものが、貧困の蓄積と格差の拡大であることを押し隠そうとしたのです。しかし、やがてはその事実が広く国民の前に明らかになるだろうことをも予想して、そのときの責任逃れの論理として「自己責任論」を持ち出してきました。
 よくいわれる言葉に「政治というものは一寸先は闇」という格言があります。これは自民党政治に特有の格言です。彼らにとって、嘘とペテンの政治は、いつ国民に真実を見抜かれるかもしれないという不安を常にかかえています。嘘とペテンがバレてしまえば、一挙に国民の支持を失って深い闇に転落してしまうことをこのように表現したのです。
 この嘘とペテンの自民党政治に煙幕を張りめぐらし、国民の目をごまかす役割を担っているのが、マスコミ独占資本です。彼らの基本戦略は、政治をめぐる真の対決点がどこにあるかを常にあいまいにし、国民の進むべき政治の方向を分かりにくくして、国民を政治のカヤの外に置き去りにしようとするのです。
 マスコミ独占資本も読者の声を気にして、ときには自民党政治を批判することもありますが、しかし問題の真の解決策を示さず、また自民党政治を根本から批判する日本共産党の政策をも無視することによって、結局は国民に政治不信を植えつけ、無関心層を増大させるという高等戦術で、体制を擁護し、維持する役割を担っています。最近では、国民の目をごまかす役割にとどまらず、国民世論を間違った政治の方向にミスリードする役割まで果たしています。
 二〇〇七年の参院選後の自民・民主の「大連立」の話には驚かされました。選挙では自民党との対決姿勢で票をかき集めた民主党が、自衛隊海外派兵恒久法、消費税増税などの基本問題で自民党と合意して国会と政府をハイジャックしようとしたのですから。
 この仕掛け人が「読売」新聞のナベツネ会長でした。彼は「大連立」の実現を呼びかけ、六度までも「読売」に社説を書き、それが破綻した後もなお大連立にこだわり続けています。それもあってか、いまだに大連立構想は火種を保ち、くすぶり続けています。
 これに対し、もう一つの考え方である政治責任論は、事実に即した正しい考え方です。病気を治すには、まず原因を明らかにしなければなりません。原因を究明したうえで、その原因を取りのぞく治療をすることによって、はじめて病気をなおすことができます。
 中小業者が苦しんでいるのにも、同様に原因があります。それが政治の責任です。この苦しみの根源をとりのぞくことによって、中小業者も本来の役割、つまり「経済の主人公」と「街づくりの主人公」の役割を果たすことができるのです。
 中小業者の考え方には、自己責任論と政治責任論とがない交(ま)ぜになっていて、時には自己責任論が、時には政治責任論が頭をもたげてきます。
 ヘーゲルは『法の哲学』のなかで「民の声は神の声」(前掲書三一七節)といわれることもあれば「無知な、、俗衆」といわれることもあると指摘したうえで「世論のなかでは、真理と限りない誤謬(ごびゅう)とがきわめて直接に結合している」(同)と述べています。
 これは世論の二面性を正しく指摘したものということができます。しかしそれをもう少し掘り下げて考えてみると、国民の一人ひとり、中小業者の一人ひとりの考え方において「真理と限りない誤謬とがきわめて直接に結合している」のです。この矛盾をどのように解決するのかが、問われているといわなければなりません。

誤謬から真理へ

 第二講で「真理は必ず勝利する」ことをお話ししました。人間が真理を認識するとき、脳はそれを「快」として受けとめ、脳の情報処理機構のなかに取り込んで、自己と一体化した確信にかえます。つまり真理は一度認識すると、その人の認識として定着し、容易に揺らぐことはありません。こうして真理は少数の認識から多数の認識へと前進し、やがては勝利することになります。
 中小業者の考え方における自己責任論と政治責任論は、客観的にみると前者が誤謬、後者が真理であることは明らかなのですが、しかし一人ひとりの業者の頭のなかではどちらも正しいように思えるのです。
 「人民の決議が、つねに同一の正しさをもつ、ということにはならない。……人民は、腐敗させられることは決してないが、ときには欺かれることがある。そして、人民が悪いことをのぞむように見えるのは、そのような場合だけである」(『社会契約論』四六~四七ページ)。
 国民は、自民党政治とそれを補完するマスコミによってだまされ欺かれているために、自己責任論も政治責任論もともに正しいように思い込まされているのです。
 中小業者が、誤った考えから正しい考えに前進するためには、中小業者の導き手が存在しなければなりません。
 その導き手がほかならぬ民商という組織なのです。前進座の嵐圭史さんは「佐倉義民伝」で佐倉宗五郎を演じた役者ですが、全商連の行事で「民商はまさに現代の義民である」と挨拶されたそうです。
 次講は、現代の義民ともいうべき、中小業者の導き手「民商とは何か」について、もう一度原点に立ち返って、皆さんと一緒に考えていくことにしましょう。