『ものの見方・考え方』より

 

 

第二二 ・二三講 より善く生きるために

 

〈第二二講〉

民商運動と生き方

 これまで民商運動とは何か「会員主人公で役員を中心とした活動」とは何か、など民商運動の「客観的意義」と役割について検討してきました。
 今度は、民商運動の「主観的意義」について考えてみることにしましょう。つまり人間の生き方の問題からみて、民商運動はどういう意義をもっているのか、という問題です。
 第二一講で、社会を変えるとは人を変えることであり、ここに組織者としての役割があることをお話ししました。
 人を変えるという作業は、単に「政治責任論」や民商の「理念」を語り「要求実現の道筋を明らかにし、展望を示すということをつうじて理論的に説得するという仕事にとどまるものではありません。」( 基本方向) 「」その人自身の生き方を問い返し「いまのままの生き方で悔いはないのか「より善い生き方があるのではない、」か」という生き方を論じることによって、相手の心をゆさぶることができるのです。
 どんな人間にとっても、いちばん大切なのは自分自身であり、自分自身の社会的あり方、生き方に関心をもたない人はいません。
 民商の組織者として相手を変えるためには、相手に対し「たった一回しかないあなたの人生をどう生きるのですか、どう生きれば悔いなく生きることができますか」という、いちばん心の奥底の問題に切り込み、そのなかで自分自身の生き方への確信を語ることによって、相手も胸襟(きょうきん)を開いて語り合ってくれるのです。それによって仮にその人をその場で組織することはできなかったとしても、もっとも奥深いところで心と心が触れあうことによって両者の間に信頼関係が生まれ、今後も引き続き何でも話し合える関係が築かれていくことになります。
 そのために学習が必要なのであり、学習によって民商運動と自分の生き方に確信をもつことが絶対の条件になってきます。自分自身に確信がなければ、相手を変えるだけの熱意が相手に伝わらないのです。
 この問題を考えるにあたっては二つの観点が重要ではないかと思います。一つは、個人の生き方にかかわる「生きがい論」の問題であり、もう一つは、人間としての生き方にかかわる「価値論の問題」(第六、七講参照)です。どちらも「生き方」の問題という共通の土台をもっていると同時に、それは「個人としての生き方」と「人間としての生き方」との区別をもっています。いわば同一と区別の統一の関係にあります。
 まず個人的生き方と人間としての生き方の両者に共通する側面、同一の側面からみてみると、どちらも「生き方」の問題として、エネルゲイアであるということです。これはアリストテレスの造語で、キーネーシスに対立するカテゴリーです。アリストテレスは、人間の行為には二通りあり、例えば試験に合格するというように、目的に到達しないかぎり意味のない不完全な運動をキーネーシスとよび、運動自体が目的をそのうちに含み、いかなるときにも完全な運動、人間本来の行為をエネルゲイアとよんで、両者を区別しました。
 「生き方」の問題は、キーネーシスではなく、エネルゲイアです「生きがい論」の問題でも「価値論」の問題でも、生きがいを求め、価値ある生き方を求めて生きることそれ自体が目的であり、それ自体に意味があるのです。つまり個人としても人間としても、より善く生きることは、そのめざすものがどれだけ達成されたのかとは無関係に、日々の生活を人間らしく、生き生きとしたものに変えてくれるのです。
 この「同一」の側面をふまえて、次に「生きがい論」と「価値論」の「区別」の問題をみていきましょう。

生きがいとは何か

 生きがいは、すべて個人的なものです。生きがいとは、一個人が自分の生き方について目標を定め、そこに向かってどれだけ努力したか、そしてそれがどれだけ達成され、どれだけ社会的評価を受けたかによって生まれる個人的満足感を意味しています。いわば、個人としてやりたいことをやるという形式的自由を根幹とし、個人的目標の達成度合とそれに対する社会的評価の大きさが満足度を決めるのです。したがって生きがいとは、個人としてより善く生きる問題であり、広義の「価値論」ということができます。
 生きがいは、人間の生き方にかかわる社会的活動、事業活動、家庭生活、趣味、レジャーなど何にでも求めることができます。
 近代哲学は「自我」の確立に始まりました。デカルトのいう「我惟(おも)う、故に我あり」の命題がそれです。自我の確立をつうじて、一人ひとりの人間には、個人としての尊厳があることが認められるようになってきました。憲法一三条は「すべて国民は、個人として尊重される」として、その生命、自由、幸福追求権を認めています。
 ヘーゲルは「おのれの満足をおぼえようとする主体の特殊性の権利、あるいは、こういっても同じことだが主体的自由の権利、これが古代と近代との区別における転回点かつ中心点をなす」(『法の哲学』一二四節)といっています。
 生きがいを何に見いだすかは個人の自由で、自分勝手に何をやってもいい「主体的自由の権利」ですから、生きがいは「おのれの満足をおぼえようとする主体の特殊性の権利」といえます。したがって、生きがいを何に求めるかは、一人ひとり異なって当然なのですが、だからといってすべての生きがいが等しい価値をもつわけではありません。パチンコや競馬に生きがいを見いだす人と、学問の探究に生きがいを見いだす人とを同列にみなすことはできないでしょう。その価値論的区別をもたらすものが「社会的評価」です。生きがいとなる対象が個人的・特殊的なものから人間的・普遍的なものに向かう度合いに応じて社会的評価も高くなり、より高い生きがいをもたらすのです。
 生きがいの対象が最も「人間的・普遍的」なものとして評価されるのは、人間の本質に根ざした自由と民主主義の実現と結びつくときです。疎外された人間の本質を回復し、自由と民主主義を全面的に開花するための世直しの事業は、いつの時代でも最高の達成感と最高の社会的評価を受けてきた最高の生きがいということができます。
 民商の「理念」のもとに生きることは、最高の生きがいをもたらす生き方であることを噛(か)みしめてみる必要があります。

価値論とは何か

 このように生きがい論は、個人としてのより善く生きる問題であり、個人の尊厳にかかわる問題です。これに対して、人間としてより善く生きる問題、人間の尊厳にかかわる問題が狭義の「価値論」です。
 「人間がより善く生きるということは、人間としてかくあるべしという生き方をすることであり、それが価値ある生き方となるのです。」(第六講)
 「人間としてかくあるべしという生き方」とは、人間としての「真にあるべき姿」に向かって生きていくことを意味しています。価値論の基礎になるのは概念的自由なのです。
 第三講でみたように唯物論的世界観にも、一元論的世界観と二元論的世界観とがあります。二元論的世界観は、事実と価値を峻別(しゅんべつ)します。つまり「世界がいかにあるか」の問題は、事実の問題として科学の対象にはなりえても「世界がいかにあるべきか」の問題は、価値の問題として区別されなければならないとします。すなわち、価値の問題については、多様な価値観が存在するのであって、それに優劣、真否の評価は下しえないから、厳密な科学の対象にはなりえない、したがってそこには真理はないという考えです。
 科学的社会主義の世界観は、唯物論的一元論です。世界がいかにあるかを知ることは、いかにあるべきか(いかになすべきか)の問題とは切りはなしえないのであり、客観的事実に真理があるのと同様、価値の問題にも真理があると考えています。科学的社会主義の学説は、資本主義社会からより高度に発展した社会主義・共産主義の社会への発展の必然性を論じます。未来社会がいかにあるべきかについて真理がないことになれば、科学的社会主義の学説の優位性を主張する根拠はなくなってしまいます。
 この唯物論的一元論は、ヘーゲルの考えを継承したものです。ヘーゲルは、人間が「真にあるべき姿」に向かって生きていくところに、価値の真理があると考えました。そして人間の内面的な「真にあるべき姿」を探究するのが「道徳」の課題であり、国家・社会の「真にあるべき姿」を探究するのが「倫理」の課題だと考えたのです。
 さらにヘーゲルは、人間の判断を、表面的な真理の判断からより深い真理の判断に前進していく過程としてとらえ、もっとも深い真理の判断は、事物の「真にあるべき姿」に照らして、その事物がそれに一致するか否かの判断ととらえました。言いかえれば事物がどうあるべきかという「価値判断」こそ、最高の判断(概念の判断)だと考えたのです。
 こうして、道徳における価値判断は、人間としての「真にあるべき姿」に照らして、その人の行為は「正当あるいは不正当、善あるいは悪、適法あるいは違法」(『法の哲学』一三二節) として判断されることを明らかにしました。
 では人間としての「真にあるべき姿」とは何でしょうか。それは人間の共同社会性の本質からして、民主的な社会の担い手として求められる民主的道徳ということになります。日本共産党第二一回大会決議が「民主的な社会の形成者にふさわしい市民道徳」として「人間の生命、たがいの人格と権利を尊重」「真実と正義を愛する心」「勤労の重要な意義を身につけ、勤労する人を尊敬する」など、十項目の提案をしていることは、この要請に応える一つの試みとなっています。
 しかしヘーゲルの偉大なところは、人間がより善く生きる問題を、単に人間の内面としての道徳にとどめなかったところにあります。道徳は、人間が価値ある生き方をするうえで重要な意義をもっていますが、しかしそこには限界があるのです。
 第一〇講の「史的唯物論」で「社会的存在は社会的意識を規定する」ことを学びました。道徳もイデオロギーの一種ですから、土台である経済的諸関係によって規定されます。
 現代日本における道徳的退廃の原因は、利潤第一主義の資本主義の本質から、大企業が粉飾決算、耐震偽装、食品偽装など、法も道徳もくそくらえというモラルハザードに陥っているところから生まれています。その反映として「政治とカネ」という政治の腐敗が生じているのです。
 したがって、人間がより善く生きるためには、道徳の領域にとどまらず、国家・社会そのものを変革することが求められることになります。
 こうしてヘーゲルは「真にあるべき」国家・社会の探究にまで筆をすすめることになるのです。

 

〈第二三講〉

最高の共同性は最高の自由

 「真にあるべき」国家・社会とは、どのような国家・社会でしょうか。
 それは、人間の本質である自由な意志と共同社会性を全面的に開花させるような国家・社会ということができるでしょう。
 人間がより善く生きるためには、それをたんに個人の主観の問題としてとらえるのではなく、より善く生きることを可能にする客観的条件、つまり真にあるべき国家・社会を実現することが求められています。
 ヘーゲルは「最高の共同性は最高の自由である」と含蓄のある表現をしています。共同社会性が全面的に開花する「最高の共同性」のもとにおいて、その構成員は「最高の自由」を享受することができるのです。
 この考えは、そのままマルクスにも引き継がれています。
 「共同こそが個人がその素質をあらゆる方向へ伸ばす方便なのである。したがって共同〔他人たちとの〕〔各〕においてこそ人間的自由は可能となる。……ほんとうの共同態において諸個人は彼らの連帯のなかで、またこの連帯をとおして同時に彼らの自由を手に入れる」(全集③七〇ページ)。
 マルクスは「最高の共同性は最高の自由」という人間の本質の全面開花を「人間解放」とよび、それを実現するのが、社会主義・共産主義の社会だと考えたのです。
 マルクス、エンゲルスの共著『共産党宣言』では、社会主義・共産主義の社会を「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つのアソシエーション」(全集④四九六ページ)と規定しています。アソシエーションとは、何ものにも支配され強制されることのない、人々の自由意志にもとづく結合体を意味しています。

世直しの事業は最高の価値ある生き方

 世直しの事業には、程度の差はあっても、人間の本質である自由な意志と共同社会性を開花させる方向に国家・社会を前進させようとする意図がふくまれています。
 それは、より善く生きることを最も根源的なところで実現するものとして、様々の価値ある生き方のなかにあって、最高の価値ある生き方となるのです。
 第一九講でもお話ししましたが、前進座の歌舞伎に「佐倉義民伝」という出し物があります。江戸の前期、下総国の名主佐倉宗五郎は、領主の悪税に苦しむ村民のために総代となって江戸に出て、将軍家光に直訴。願いはかなえられますが、宗五郎はその妻子とともに磔にされました。当時、百姓一揆の指導者は、打ち首のうえ、はりつけさらし首と相場が決まっていました。それを覚悟で世直しのたたかいに立ちあがったところから、世直しの導き手となった指導者は「義民」とよばれ、今でも語り伝えられ、各地に「義民」の顕彰碑も建てられています。
 ここには、世直しの事業のために、己(おのれ)を犠牲にしても人民の導き手となることが最高の価値ある生き方であり、顕彰に値する行為であるとの、人民の無言の評価が込められているのです。

民商運動は最高の生き方

 以上、民商運動は、人間の生き方の問題としてどういう意義をもっているのかを検討してきました。結論的にいえることは、世直しを「理念」に掲げ、中小業者の導き手となる民商運動は「生きがい論」としても最高の生きがいを与えるものであり「価値論」としても最高の価値ある生き方だということです。いわばそれはどの面からみても人間がより善く生きるための最高の生き方であり、一度しかない限りある人生を悔いなく生きる最高の生き方であることに確信をもつことが大切です。
 それと同時に、この世直しの事業は、エネルゲイアの運動であって、運動には前進もあれば後退もありますが、世直しを「理念」とする生き方は、それ自体が目的であり、それ自体に意味のある生き方だということを噛みしめて味わうことが必要だと思います。ヘーゲルのいう「大人の立場」に立って、自己の生き方に満足をおぼえるべきものなのです。

まとめ

 いよいよ今回が最終講となりました「月刊民商」編集部や読者のみなさんに励まされながら、無事筆をおさめることができたことに対し、この場を借りてお礼申し上げます。
 意図したところは、現代社会における中小業者の位置づけからみた民商の意義と役割を、科学的社会主義の見地からできるだけ体系的に論じたいというところにありましたが、その意図が実現されているかどうかは、みなさんの判断におまかせするしかありません。
 「広島県労働者学習協議会」という名称にも示されているように、労働者の問題については様々の観点から研究する機会はあったのですが、中小業者についてまとまった論述をするのは初めての経験であり、お陰さまでいい勉強をさせていただきました。
 それだけに、中小業者の生き方の問題など新しく取り組んだ分野の議論もいくつかあり、十分研究しつくさないまま、時間に追われての執筆となりました。その意味からすれば、こうした問題について相対的真理を示したというよりも、一つの問題提起をしたというのが偽らざる実感です。これを機に議論が深まることに期待したいと思います。
 さて、二十一世紀がどんな世紀になろうとしているのか、ようやくその全貌が見通せそうな状況となってきました。
 二十世紀は、帝国主義諸国の世界支配によって幕を開けました。帝国主義戦争のなかから栄光の輝きとともに社会主義・ソ連が誕生しましたが、次第にその輝きをなくして、社会主義とは縁もゆかりもない存在に転落し、社会主義に負の遺産を押しつけて崩壊した世紀となりました。
 しかし、ソ連によってもたらされた民族自決権は、植民地・従属国の独立をもたらしました。非同盟諸国会議に結集したこれらの諸国は、いまや国連加盟国の三分の二を占めるにいたり、二十一世紀とともに始まったアメリカ帝国主義のイラク戦争を国際的に包囲する原動力となりました。
 二十世紀末に、アメリカの「新自由主義」はラテンアメリカを「新自由主義の実験場」とし、貧富の格差は極限にまで達しました。そのなかから「新自由主義」に反対する政権が選挙をつうじて次々と誕生し、互いに連携しながら、民主主義革命をつうじて社会主義革命まで展望しようとしています。いまやラテンアメリカは、
 「新自由主義の実験場」から「社会主義の実験場」とよばれるようになってきました。ベネズエラ、エクアドル、ボリビア、ブラジルなどの諸国がそれです。
 彼らは、ソ連や東欧は社会主義国ではなかったとして、これを真にあるべき社会主義を復興させるという意味を込めて「社会主義のルネサンス」と称しています。
 その特徴は、まず第一に選挙によって国民の信を問いながら、一歩ずつ社会変革を推し進めるという多数者革命の道を歩んでいることです。ベネズエラのチャベス政権は、提案した憲法改正案が国民投票によって小差で否決されたとき、あっさりこれを認めて、憲法の枠内でこれまでどおり貧困問題の解決などに取り組んでいくことを表明して、アメリカの「独裁者チャベス」のデマ宣伝を一掃しました。日本でも「否決され、男をあげた大統領」という川柳が新聞にあらわれたほどでした。
 第二に、国民が主人公の立場にたって、自由と民主主義の社会主義を展望していることです。いわば国民参加型の社会主義建設であり、国民を主人公とする下からの街づくりを土台に、国の政治の方向が定められようとしています。国民が自由に発言し、民主的に要求をねりあげ、それを国が政策化するという方向で政治が進められているところから、これらの諸国では「新自由主義」の生みだした貧困問題の解決に大きく前進し、国連もそれを高く評価する状況が早くも生まれてきています。
 第三に、ソ連がその覇権主義によって「ソ連型社会主義」を東欧諸国に押しつけ、第二次大戦後東欧諸国で生まれつつあった「人民民主主義共和国」という自主的・民主的社会主義への道をことごとく押しつぶしてしまったのとは逆に、ラテンアメリカの諸国は、お互いの自主性を尊重しながら、独自の経済圏の確立をめざして「新自由主義」路線に立ち向かっていこうとしていることです。
 アメリカは、これまでと同様これらの諸国の革命をあらゆる手立てを使って妨害し、転覆しようとしています。まだまだ予断は許しませんが、いまやラテンアメリカ全体が結束しつつありますので、これまでのような各個撃破はできないところまで力関係は変化しつつあるということができるでしょう。
 いずれにしても、この「二十一世紀の社会主義の実験」は、二十世紀の負の遺産を乗り越えて、本来の社会主義の体制的優位性を回復させるものになることが期待されています。
 社会主義は、いまようやくその偽りの衣を脱ぎすて、再びその本来の輝きを取り戻そうとしているのです。
 日本でも遅まきながら「新自由主義」=小泉構造改革のもたらした貧困と格差に対する一大反撃が始まりつつあります。人間をモノのように使い捨てる労働者派遣法や、オバ捨山よりもひどい「後期」高齢者医療制度にたいする国民の怒りとたたかいも、かつてないものになりつつあります。
 民商の「新自由主義」反対の運動も、こうした国民の反撃と連動してたたかわれるとき、新しい展望を切りひらくものとなるでしょう。
 二〇〇八年に始まったアメリカ発の金融危機は、百年に一度の世界的大恐慌に発展しようとしています。これはカジノ資本主義の破綻を示すものです。カジノ資本主義そのものは、本来のモノづくり資本主義が行き詰まり、ギャンブルにその打開を求めたものでした。マルクスのいう資本主義的生産関係が、(資本家と労働者の関係)生産力の発展にとっての「桎梏」となりつつあることを示すものであり、資本主義限界論が公然と論じられる時代となってきました。
 二十一世紀は、弱肉強食の野蛮な資本主義への批判が様々な形態で全世界的な広がりをみせ、それをつうじて輝きを増した新しい社会主義が歴史の舞台に登場する世紀となることを予感させるものとなっています。
 二十世紀の民商は、存在それ自体において「世界に誇りうる運動」でしたが、二十一世紀には、単に存在のみならず、その果たしている社会的役割からしても「世界に誇りうる運動」になるのではないでしょうか。
 資本主義の矛盾はとり除かれないかぎり、けっしてなくなることはありません「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」(『資本論』⑨四二六ページ)との『資本論』の言葉は、二十一世紀に生きる私たちにとって、特別の重みをもって訴えてきます。
 個々の局面に一喜一憂することなく、歴史発展の方向に確信をもち、歴史の大道にその身をゆだねながら「世界に誇りうる」民商運動を発展させ、中小業者の希望の星として奮闘されることを期待したいと思います。
 そのためにも「学習こそ人間成長の糧、営業の繁栄、民商発展の土台」の立場から、各地の民商が各地の学習協と協力・共同の関係を築いていただければ、お互いの組織の発展にとって有益なものとなるのではないでしょうか。みなさんの学習を土台とした一層のご発展を祈念して、まとめとさせていただきます。