『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第四講 「エンチクロペディーへの序論」①

 

一、「エンチクロペディーへの序論」の主題と構成

 今日から「エンチクロペディーへの序論」に入ります。この序論は「小論理学」のみならず、「自然哲学」「精神哲学」を含む『エンチクロペディー』全体についての序論となっています。それだけに、そもそもヘーゲル哲学とは何か、自然科学、社会科学、人文科学などの諸科学とどのように関連するのか、『エンチクロペディー』はなぜ「小論理学」「自然哲学」「精神哲学」という三部構成になっているのか、など「序論」でなければ論じられないような根本問題が取り上げられています。
 もう少し『エンチクロペディー』全体の構成を詳しくみていくことにしましょう。まず「序論」は一節から一八節までであり、続いて一九節から八三節までが『小論理学』の「予備概念」となっています。本論である第一部「有論」は八六節から一一一節(以上が上巻)、第二部「本質論」は一一二節から一五九節、第三部「概念論」は一六〇節から二四四節(以上が下巻)となっており、本講座ではおおむね上巻を初年度、下巻を次年度に学ぶ予定にしています。ちなみに本講座の対象外である『エンチクロペディー』第二部「自然哲学」は二四五節から三七六節、第三部「精神哲学」は三七七節から五七七節となっています。
 最初に戻りますと、「序論」は主題からすると大きく四つに分かれます。一つは、ヘーゲル哲学とは何かにかかわる部分(一節から六節)です。二つには、ヘーゲル哲学と経験諸科学との同一と区別にかかわる部分(七節から九節)です。三つには、ヘーゲル哲学の革命性にかかわる部分(一〇節から一二節)であり、四つには、ヘーゲル哲学の体系性にかかわる部分(一三節から一八節)です。
 以下この主題ごとに順を追って検討していくことにしましょう。

 

二、ヘーゲル哲学とは何か

一節 ── 哲学は真理を対象とする

 「第二版への序文」において、ヘーゲル哲学のめざすものは「真理の学的認識」(二五ページ)であり、結論的にいえば、その方法は弁証法であることを学びました。
 しかしその結論に達するまでには長い道程が必要なのであり、そこに向かって一歩ずつ歩みを進めていくことになります。
 「エンチクロペディーへの序論」(以下単に「序論」)は、まず哲学とは何かの問題から入っていきます。
 ヘーゲルは、「序論」の冒頭で「哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない」(六一ページ)といっています。哲学は諸科学のうえに立つ思惟の学問ですから、自然科学、社会科学などとちがって対象においても、認識の方法においても一切の前提をもたないのです。
 では哲学の対象となるものは何か。
 「なるほど哲学はまず宗教と共通の対象をもってはいる。両者ともに真理を対象としており、しかも、神が真理であり、神のみが真理であるという最高の意味における真理を対象としている」(同)。
 いきなり神がでてきて驚いた人もいるでしょう。哲学は真理を対象とし、しかも「最高の意味における真理」、つまり神=絶対的真理を対象としているのです。
 科学的社会主義の哲学は弁証法的唯物論であり、神の存在は認めませんし、その論理の展開において神を必要ともしていません。
 しかしヘーゲルの時代には、まだ中世のスコラ哲学の影響が根強く残り、神を抜きにして哲学を論じることはできませんでしたし、ヘーゲル自身もチュービンゲン神学校で学んでいますので、神との関わりは深いものがあります。
 ハイネは『ドイツ古典哲学の本質』のなかで、カントからフィヒテ、シェリング、ヘーゲルに至るドイツ古典哲学の歴史は、中世的な超越神論から、唯物論的な汎神論への歴史であったと述べています。
 ヘーゲルの神への態度は基本的には汎神論といえますが、決して一義的にはとらえきれません。とりあえず次の二点を指摘しておきたいと思います。
 一つには、ヘーゲルがしばしば神について論及するのには、革命の哲学に対する隠れ蓑としての役割があったのではないかと思われます。当時のヨーロッパでは、キリスト教のなかでカトリック、プロテスタントの二者択一が許されるのみであり、無神論や汎神論を明確にすることは社会的指弾を受けかねない状況にありました。そこでヘーゲルは意識的に神を多用して保身につとめたのではないかと思われます。
 二つには、キリスト教では、聖霊(ガイスト、精神)=神=絶対者として理解されています。キリストは、死後、聖霊として神と一体化し、絶対者となったとされるのです。
 ヘーゲルは、この聖霊を「精神」ととらえ、精神=神=絶対者として、神を「精神哲学」の精神と同義に理解しています。したがってヘーゲルが「神」をもちだすとき、ヘーゲルのいう精神としての意味をもつこともあるのです。
 それはともかくとして、このように哲学は最高の真理、絶対的真理を対象とするのですが、真理とは何かをあらかじめ表象されたものとして前提したり、真理の「認識を進めていく方法」をあらかじめ用意したりしているわけではない、というのです。
 ではどうするのか。私たちも、真理とは何かをぼんやりと思い浮かべることはできます。その限りでは、真理を「識っている」(同)ともいえるのですが、これは単に真理を「表象」(同)、つまりイメージとして識っているというだけであり、これを「思惟的な認識および把握へ」(同)まで進めることが求められているのです。したがって「単に対象を識っているだけでは不十分であり、また前提や断言を作ったり承認したりすることは許されない」(六一~六二ページ)のです。
 真理が問題となるのは、「有限なものの領域、すなわち自然」(六一ページ)と無限なものの領域である「人間の精神」(同)および「それらの相互関係」(同)です。ヘーゲルによると世界は自然と精神とからなっていますから、結局世界のすべてについて真理が問題とされ、そのすべてについて「思惟的な認識」が求められているのです。しかし現代においては精神のみならず自然もまた無限なものと考えるべきでしょう。
 自然がどうあるのかという事実(存在)の問題と人間がどのように生き、行動すべきなのかという価値(当為)の問題とを峻別し、事実の問題については真理を論じうるが、価値の問題については真理の存在あるいは真理の認識を否定するという二元論が横行しています。いわば自然科学は、事実の「没価値性」により科学となりうるが、社会科学は価値観にかかわるから科学性に疑問があり、ましてや価値、道徳、倫理の問題については「非知識性」が主張され、「価値観の多様性」の名のもとに科学の対象外とされてしまうのです。
 これに対してヘーゲルは「事実と価値」「存在と当為」を峻別する二元論に反対し、事実(存在)と価値(当為)のいずれについても真理を認め、両者の統一を求める一元論にたっています。それは自然や社会がどうのようにあるかを知ることは、同時に、人間がより善く生きていくために自然や社会がどのようにあるべきかという当為の立場、変革の立場にたつことであり、この一元論は科学的社会主義の学説にまっすぐに継承されているのです。
 思惟的に考察をするということは、対象の「内容の必然性を示し」(同)、その「諸規定のみならず」(同)、その「存在をも証明」(同)していこうというものです。哲学とは「最も広い意味での必然性」(七五ページ)を問題とする学問です。後に述べるように、弁証法とはこの内容と存在の必然性を示すものにほかなりません。
 ぼんやりと表象においてとらえられた真理からはじめなければならないところに、前提をもたない哲学の「はじめを作ることの困難が生じてくる」(六二ページ)のです。
 「なぜなら、はじめは直接的なものであるから、それは前提を作るものであり、あるいはむしろそれ自身前提であるからである」(同)。
 まだ真理とは何かは知るところではありませんが、とりあえず哲学は真理を対象とすることの確認から出発しようというのです。

二節 ── 哲学は思惟の独自の形式

 では、真理はどうやってとらえることができるのかといえば、それは、認識の対象となるものを思惟、つまり思考することによってです。
 「哲学はまず一般的に言って、対象を思惟によって考察することと定義されうる」(同)とされています。「人間は考える葦である」といったのはパスカルです。人間は考える動物ですから、思惟は「人間が人間であるゆえんを作りだす」(同)ものです。しかし、すべての人間が思惟するからといって、すべての人が哲学するわけではありません。哲学的思惟と思惟一般とは、思惟として同一であると同時に区別されています。思惟一般は「感情や直観や表象」(同)という「諸形式をとってあらわれる」(同)のに対し、哲学的思惟は思惟一般を「思想」(同)という「独自の様式」(同)にまで高めることによって、真理を認識しようとするのです。
 しかし感情と思想との区別を絶対的なものとし、特に宗教的感情は「全く思惟にもとづかず、思惟のうちに場所を持たない」(六三ページ)とするのは、もっと大きな誤りです。というのも思惟する人間のみが宗教をもっているのであって、宗教もまた思惟の産物だからです。
 同じ思惟にもとづくものではあっても「思惟に規定され貫かれているこうした感情や表象を持つということと、それらにかんする思想を持つということとはちがう」(同)のです。感情や表象を思想に変えるためには、思惟そのものを思惟する「反省的思惟」(同)、つまり「追思惟」(同)が必要になってきます。このような「意識の諸様式にかんして追思惟が作り出した思想」(六三~六四ページ)が哲学の内容をなすのです。「追思惟」(ナーハデンケン)については、また後に詳述します。
 宗教のうちには、「感情や信仰の形」(六三ページ)をとって思惟一般が存在しているのですから、宗教的感情と思惟とを「敵対的なもの」(同)としてとらえることはできません。
 それを「敵対的なもの」と誤解をする人々は、哲学者たちが「追思惟が永遠にして真なるものの表象および信仰へ到達する」(六四ページ)唯一の道であると主張しているかのように誤解して、哲学を排斥しているにすぎません。
 信仰に到達するには、思惟一般で十分なのであって、追思惟は信仰という宗教的感情を哲学にまで高めるために必要になってくるにすぎません。
 私たちは、「食物の化学的知識や植物学的知識やあるいは動物学的知識」(同)がなくても食事することができるように、追思惟がなくても信仰に到達することはできます。しかし、宗教、とりわけキリスト教のなかには、感情や表象のみならず、思想までもが含まれているのであって、それをとらえるには追思惟が必要となってくるのです。

三節 ── 哲学は表象をカテゴリー・概念に変える

 私たちが、外的な対象を最初に意識のうちにとらえるとき、「感情、直観、表象」(同)などの形式をとります。これらの諸形式は、対象の内容を意識のうえに反映させるものですから、どんなに異なっているようにみえようとも対象と「あくまで同一のもの」(六五ページ)です。対象の内容が意識のうえに反映されると、それが人間の主体的な意識に転化し、何かをしようという意志や何かをしたいという欲求となってあらわれます。
 ヘーゲルは、「感情、直観、欲求、意志、等々の諸規定性は、それらが意識されているかぎり、一般に表象と呼ぶことができる」(同)といっています。ここに「意識されているかぎり」とあるのは、意識のなかに記憶として保存され、再生することができるかぎりという意味でしょう。意識されたもののうち、記憶され、イメージとして再生しうるものはすべて「表象と呼ぶことができる」のです。
 「一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うことができる」(同)。
 ここで、思想、カテゴリー、概念について説明しておきましょう。まず「思想」とは、記憶され、表象された対象のなかから、思惟の力によりつかみ出された普遍的内容を意味しています。
 次に「カテゴリー」とは、一般に「範疇」と訳され、対象を最高に抽象化・普遍化し、これ以上には普遍化しえないという最高類概念と解されています。しかしヘーゲルは、カテゴリーに独自の意味を与え、「自己意識と存在とが同一本質のものであること」(金子武蔵訳『精神の現象学』上、二三六ページ、岩波書店)としてとらえています。つまり対象となる存在の真の姿を自己意識のうちにとらえたものがカテゴリーなのです。
 最後にヘーゲルのいう「概念」とは、対象の本性、本来の姿を意味しており、ヘーゲルは、概念を思想のなかの思想、純粋思想ととらえています。したがってその対象が現に存在する場合には、対象の「真の姿」を意味し、その対象のあるべき姿が問題になっている場合には「真にあるべき姿」を意味することになります。したがって哲学はカテゴリーを「より正確に言えば概念に変えるもの」なのです。
 表象を、「追思惟」によって、思想やカテゴリーというより抽象的かつ普遍的な思惟形式に変え、最後は感覚や直観や表象と全く区別された純粋思想としての概念にまで高めるのが哲学なのです。
 ヘーゲルは、哲学のわかりにくさには二つの理由があるといっています。
 一つは、「普通の意識においては、思想は知りなれた感性的および精神的材料をまといそれと一つになっている」(六五ページ)のに対し、哲学の場合には、具体的な「感性的および精神的材料」をぬぎすてた抽象的な思想、「純粋な思想」(同)のみを問題とするからです。
 「分かりにくいから、もう少し具体的に説明してほしい」と言われることがありますが、哲学はその具体的なものを脱ぎすて、抽象の世界に入り込んでいるのですから、それを具体的に説明することは多くの場合無理な注文というものです。
 二つには、「かれらが思想および概念として意識のうちにあるものを、あくまで表象の形で思い浮べようとする」(六六ページ)ことにあります。
 哲学は表象を「思想および概念」に変えるものですから、それを表象にもどして「思い浮べ」ることはできないのであり、「概念が問題となっている場合には、概念そのもの以外の何ものをも考えるべきではない」(同)のです。
 あえて三つめをつけ加えると、ヘーゲルが保身のために自己の哲学の革命性を覚られないように分かりにくくしたことがあるでしょう。これが最大の分かりにくさの原因といっていいかもしれません。しかしそれをヘーゲル自身が指摘したくても検閲の眼が光っているためにできなかったことはいうまでもありません。

四節── 弁証法は哲学特有の認識方法

 「したがって普通の意識にたいしては哲学はまず、哲学には哲学特有の認識方法が必要であることを証明せねばならない」(六六ページ)。
 諸科学や宗教も哲学と同様、真理を認識しようとするものです。しかし哲学が、諸科学や宗教のめざす真理よりも、より根本的、普遍的真理であるカテゴリーや概念を認識しうるのだと主張するためには、哲学には「哲学特有の認識方法が必要であること」を証明しなければなりません。この論理学全体をつうじて、それが弁証法という「認識方法」であることが明らかにされます。
 「しかし宗教の対象、すなわち真理一般にかんしては、哲学は自分がそれを自己自らのうちから認識する能力を持っていることを証明せねばならない。そして宗教的表象との相違が前面にあらわれる場合には、哲学は宗教のそれとは異っている自己の諸規定の正しさを証明せねばならない」(六六~六七ページ)。
 哲学は、なぜ弁証法が真理を認識しうる唯一の思惟形式なのかをこれから「証明」していかなければなりません。それによって哲学は「宗教的表象」と比較して「自己の諸規定の正しさを証明」しうることになるのです。

五節── 哲学には学習、努力が必要

 このように哲学は、「哲学特有の認識方法」である弁証法によって、表象をカテゴリーや概念に変え真理を認識するのです。それはつまり「われわれの意識の真の内容は、思想や概念の形式に翻訳されても保存されるということ、否むしろそれによってはじめて本来の姿を照し出されるということ」(六七ページ)を意味しています。 
 哲学が表象をカテゴリーや概念の形式においてとらえるのは、それによって「はじめて本来の姿」、つまり真の姿がとらえられるからにほかなりません。「すなわち事物や出来事、さらに感情や直観や意見や表象やの真理を知るには思惟が必要」(同)となるのです。
 そこから哲学は難解だとする人々とは逆に、「人間は生れながらに思惟の能力を持っている」(同)のだから、「苦心して哲学を勉強」(同)しなくても「哲学したり哲学を批判したりする能力がある」(同)と勘違いする人もでてきます。
 第三講でも、弁証法の根本原理である対立物の統一を誤解して、ヘーゲル哲学を「同一性の哲学」(二九ページ)と批判する見解を紹介しておきましたが、対立物の統一には、「即自── 対自 ── 即対自」または「肯定 ── 否定 ── 肯定と否定の統一」という展開を内に含みつつ対立物の同一、対立物の相互浸透、対立物の相互移行、対立物の相互排斥など豊かな内容が含まれています。したがって弁証法を単に知識として知るだけでなく、真理探究の武器として血肉としていくには、長年にわたる「研究や学習や努力」(六八ページ)が当然にも必要となってきます。
 哲学するにはこうした学習や努力が必要でないとする安易な考え方が「直接知、直観知の学説によって是認されるように」(同)なっていますが、この直接知の詳しい批判は後に考察する「予備概念」の「客観にたいする思想の第三の態度」で展開されることになります。

六節 ── 哲学の究極目的は理想の実現という革命的立場

 六節は、ヘーゲル哲学の根本思想を示す大変重要な節となっていますので、注意深く学んでいくことにしましょう。
 一節で学んだように、哲学の内容となるものは、自然と精神、その相互関係という世界に存在するすべてのものです。それをヘーゲルは「意識の外的および内的世界となされている内容」(同)といっています。しかし世界に存在するすべてのものが内容となるとはいっても、哲学は真理をとらえようとするものですから、存在するもののうち真に存在するもののみを内容とするのであり、ヘーゲルはそれを「現実」とよんでいます。
 「一口に言えば哲学の内容は現実である」(同)。
 では「現実」とは何か。われわれの意識が対象に向かうとき、対象の内容を「最初に意識するものがいわゆる経験」(同)です。経験のうちには、単に現象にすぎないものと、真に現実の名に値するものとの、二つがあります。
 「世界の思慮深い考察はすでに、内的および外的存在の広い世界のうちで、単に現象にすぎないもの、すなわち一時的で無意味なものと、それ自身真に現実の名に値するものとを区別している」(同)。
 一時的で偶然的な存在は、「可能的なもの以上の価値を持たない存在であり、有るかもしれずまた無いかもしれないもの」(六九ページ)であり、「真の意味における現実という名には値しない」(同)のです。
 ヘーゲルは論理学のなかで、客観的に「存在するもの」のカテゴリーとして、定有、現存在、現実性という三種のカテゴリーを使用しています。それぞれの箇所で詳しく学んでいきますが、現実性とは、本質のあらわれとしての必然的な現存在を意味しています。
 このように哲学は「真の意味における現実」を問題とするのですから、哲学の対象となる真理は「現実および経験と必ず一致」(六八ページ)しなければなりません。
 「実際この一致は、或る哲学が正しいか否かにかんする、少くとも外的な試金石であり、またこの一致を認識することによって自覚的な理性と存在する理性すなわち現実との調和を作り出すことが、哲学の最高の究極目的と見られなければならない」(六八~六九ページ)。
 ここにいう「自覚的な理性」とは、理想のことであり、「存在する理性」とは現実のことです。哲学の究極目的は、理想と現実の一致、つまり、理想の実現にあるというのです。ここに高い理想をかかげて現実を変革しようとするヘーゲル哲学の革命的立場がはっきりと示されています。革命的立場は、単なる変革の立場ではありません。現実を変革しようとすることは、その変革の方向性いかんを問わずすべて変革の立場ということができますが、革命の立場は理想をかかげての進歩と発展の方向性をもつ変革の立場なのです。
 ヘーゲルは『法の哲学』の序文で「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(六九ページ)との有名な命題を打ち出しています。この命題は、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』でもとりあげられ、この命題ほど「頭のわるい諸政府の感謝と、同じように頭のわるい自由主義者たちの怒りとをまねいたものはなかった」(全集㉑二六九ページ)として、この命題がヘーゲルの保守主義を示すものとの誤解を招くものとなったことを指摘しています。
 ヘーゲルも同様に「この簡単な命題は多くの人に驚きと敵意をおこさせた」(六九ページ)が、「人々はそれについてとやかく言う前に、わたしがどんな意味にそれを用いているかを考えてみるべきであろう」(六九~七〇ページ)といっています。ここにいう「理性的なもの」とは、「真にあるべき理想」と同じような意味であり、この命題は、「真にあるべき理想は、必然的に現実性に転化し、他方真に現実の名に値する現実のなかには、真にあるべき理想が潜在的に含まれている」ことを意味しています。
 ここに理想と現実の統一をもって真理とするヘーゲル哲学の根本思想があらわれているのです。
 ヘーゲルは、「一般の漠然とした考え方にもすでに理性的なものの現実性を否定するような考え方がある」(七〇ページ)として二つの例をあげています。
 「その一つは、理念や理想は幻想にすぎず、哲学とはそうした幻想の体系にすぎないというような考え方であり、もう一つは逆に、理念や理想は現実性を持つにはあまりにもすぐれたものであるとか、理念や理想は現実性を手に入れるにはあまりに無力であるというような考え方」(同)です。どちらも「理念と現実とを切りはなす」(同)悟性的な考え方であって、理想と現実の統一を唱えるヘーゲルにとっては認めることのできないものです。
 「かれらは悟性が作り出した非現実的な抽象物を真実なものと考え、かれらが政治の領域においてさえ特に好んで押しつけたがるゾレン(Sollen)を得意になってふりまわしている。まるで世界が、それがどうあるべきでどうあってはならないかを知るために、かれらを待っていたかのようである」(同)。
 「理念と現実とを切りはなす」考え方をする人々は、彼らのいう「理念」が「非現実的な抽象物」にすぎないから現実性をもたないことに気づかないで、そんな抽象物をゾレン(あるべき姿)として得意気にふりまわしているのです。
 しかしそんな「非現実的な抽象物」は、そもそも理念の名には値しません。
 真の理念は、事物の現にある姿をふまえた真にあるべき姿として現実的で具体的なものであり、だからこそ現実に転化する必然性をもっているのです。
 「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない。したがって哲学が取扱うのは現実以外の何ものでもなく、上述の事物や制度や状態などは単にその表面にすぎないのである」(七一ページ)。
 哲学は「ただ理念をのみ取扱うもの」です。この意味でヘーゲル哲学は「理念の学」であり、「論理学」は「即自かつ対自的な理念の学」(九〇ページ)、「自然哲学」は「本来の姿を失った姿における理念の学」(同)、「精神哲学」は「自己喪失から自己のうちへ帰る理念の学」(同)として位置づけられることになります。
 またヘーゲルは、カントの「主観的観念論」(一七九ページ)への批判の意味も込めて、自己の哲学を「絶対的観念論(絶対的理念論 ── 高村)(同)とよんでいます。哲学は、必然的に現実的となる理念を取り扱うのであり、したがって哲学が取り扱うのは「現実以外の何ものでも」ないのです。

 

三、ヘーゲル哲学と経験諸科学との同一と区別

 「序論」の二つめの主題は、七節から九節にわたりヘーゲル哲学と経験諸科学との関係をその同一と区別において論じたものです。
まず同一性の問題からみていきましょう。

七節 ── 哲学も経験諸科学も普遍性、必然性をとらえる

 近代の自然哲学は、十五世紀後半に始まるブルジョア民主主義革命という偉大な時代とともに始まりました。エンゲルスは、封建制に対するブルジョアジーの三大決戦として、ドイツの宗教改革と農民戦争、イギリスのピューリタン革命と名誉革命、そしてフランス革命をあげています。
 「それは巨人を必要とし、巨人を生みだした時代である。 ── 博識の、精神の、性格の上での巨人を。それは、フランス人が正しくもと復興(ルネッサンス)とよび、プロテスタント的ヨーロッパが一面的にかたくなに宗教改革(レフオルマツィオーン)と名づける時代であった」(『自然の弁証法』全集⑳五〇四ページ)。
 自然科学の第一期はコペルニクスに始まり、ケプラー、ガリレイ、カント、ラプラス、ダーウィン、ラマルクなどを経てニュートンで締めくくられることになります。
 ヘーゲルはこの時代を、「ルターの宗教改革の時代以後、近代において再び思惟が独立をうるように」(七一ページ)なった時代としてとらえています。
 これまでみてきたように思惟は「一般に哲学の原理」(同)を含んでいるところから、当時は自然科学という思惟の産物も哲学という名称で呼ばれていました。
 近代の思惟は、ギリシア哲学と異なり、「現象界の一見無秩序ともみえる無限の素材へ向っていった。そこで哲学という名称は、経験的個別性の大洋のうちにある確かな基準および普遍的なものの認識、一見無秩序ともみえる無数の偶然事のうちにある必然的なものや法則の認識に従事し、したがってその内容を、……目の前にある自然、目の前にある人間の精神および心情から取出す、あらゆる知識に与えられるようになった」(同)。
 つまり近代の思惟は、「一見無秩序ともみえる無限の素材」へ立ちむかい、それを経験することによってそのなかから「普遍的なもの」「必然的なものや法則」を取出していったのです。
 「経験の原理は、限りなく重要な規定をふくんでいる。それは、人が或る内容を受け入れ信じるには自分自身がそれに接していなければならないということであり、もっとはっきり言えば、そのような内容が自分のたしかめたことと一致し結合するのを見出すということである」(七一~七二ページ)。
 こういう経験から出発するという原理は、「限りなく重要な規定をふくんで」います。それは唯物論という原理であり、客観世界は経験することによって人間の意識に正確に反映され、客観に一致する正しい認識を獲得しうるという原理です。ヘーゲルはそれを或る内容が「自分のたしかめたことと一致」するのを見いだすと表現しているのです。ここにヘーゲル哲学の本質が唯物論にあることが疑問の余地なく示されています。
 「われわれはこれまで哲学と呼ばれきた諸科学を、その出発点からみて経験的科学と呼んでいる。しかしそれらが目ざしかつ作り出す本質的なものは法則、普遍的な命題、理論であり、一口に言えば、現存するものの思想である。ニュートンの物理学が自然哲学と名づけられていたのは、こうした根拠を持っているのである。同じ理由から例えばフーゴー・グローティウスにしても、諸国民相互の歴史的行為を総括比較し、普通の推理を用いて一般的な原則、理論をうちたてたのであるから、その理論は国際法の哲学と呼ぶことができる」(七二ページ)。
 グローティウスは、「近代自然法学の父」「国際法の祖」と呼ばれるオランダの法学者です。自然科学であろうと社会、人文科学であろうと、およそ経験から出発する経験諸科学は、歴史的に哲学と呼ばれてきました。それは「法則、普遍的な命題、理論」など、「現存するものの思想」をとらえるものであったところから、「思想の学」である哲学という名称をかぶせられることになったのです。

八節 ── 哲学は客観的精神の真理をとらえる

 このように、歴史的には経験諸科学と哲学とは、同じ経験から出発する思想の学として同義に解されてきましたが、ヘーゲルは、経験諸科学は「次の二つの点で不十分である」(七四ページ)として、この同一の側面とあわせて八節、九節で二つの区別の側面を指摘しています。
 「第一に、その領域に含まれていない一群の対象、自由、精神、神というような対象が存在する。これらの対象が右の地盤の上には見出されない理由は、それらが経験に属さないからではなく、……その内容から言って無限なものであるからである」(同)。
 ヘーゲルは、自由とは「重さが物質の一根本規定であるのとまったく同様に、意志の根本規定」(『法の哲学』四節追加)であるととらえ、人間の本質を自由な意志をもつところに求めています。
 自由、精神、神は経験諸科学の領域に含まれず、もっぱら哲学の対象となると主張しているのです。というのも、これらの対象は、「意識のうちにあるもの」(同)として「経験に属」しはするものの、「その内容から言って無限なもの」ですから、経験によってとらえつくすことはできないからです。こうした内容において無限なものは、無限なものを認識しようとする哲学の固有の対象となるのです。
 したがってヘーゲル哲学では、自由、精神、神という対象が縦横に論じられることになります。
 ここでは、とりあえず「思惟」ないし「精神」の哲学的考察がなされているので、みておきましょう。
 古くからある命題に「感覚、経験のうちになかった何ものも思惟のうちにはない」(同)という命題があります。これは、人間の思惟はすべて客観世界を反映したものであるという経験諸科学の立場を示す唯物論的命題です。
 しかしヘーゲルは、この命題は基本的には正しいものではあるが「思惟のうちになかった何ものも感覚のうちにはない」(同)という命題で補わないと正しくないと主張しています。後者の命題には、広い意味と狭い意味という二つの異なる意味が含まれています。
 「そしてそれは、広い意味では、ヌースあるいは精神(これはヌースのより深い規定である)が世界の原因であるということを意味し、狭い意味では、法律的、道徳的、宗教的感情が、ただ思惟のうちにのみその根と場所を持っているような内容にかんする感情であり、したがってそうしたものの経験である、ということを意味する(第二節参照)」(七四~七五ページ)。
 この命題の広い意味をとらえた言葉が「ヌースあるいは精神が世界の原因である」というものです。ヌースとは、知性、理性を意味するアナクサゴラスによって創られたカテゴリーです。
 つまりまだ世界の統一性が量子論によって解明されていない十九世紀において、世界の現実の統一性を肯定し、そこには統一性をもたらす根本原因があるはずだと考え、それを「ヌースあるいは精神」としてとらえたのです。
 これに対してこの命題の狭い意味は、人間の認識は客観世界を反映したものであるという唯物論的な反映論を前提としながらも、そこに立ち止まることなく、人間の精神の創造性を示すものとなっています。すなわち法律、道徳、宗教も人間の精神が客観化された客観的精神ですから、「法律的、道徳的、宗教的感情」も「思惟のうちにのみその根と場所を持っている」のであって、「狭い意味」での意識の創造性にかかわる分野ということができます。
 したがって「自由、精神、神」のみならず、法律、道徳、宗教、さらには国家、社会という客観的精神は、すべて無限な精神の産物として無限な内容をもっているのです。こういう無限なものの真理をとらえることは、経験的諸科学にはできないのであって、哲学の独自の課題となっています。
 こうした見地からヘーゲルは『法の哲学』を著し、法、道徳、家族、市民社会、国家の真理をとらえようとしたのです。
 このように客観的精神について真理を認めることは、法、道徳、国家、社会などの真理である「真にあるべき姿」にもとづいて、これらの対象を「真にあるべき姿」に変革するということを意味しています。
 このヘーゲルの意識の創造性にもとづく革命的立場は高く評価されなければなりません。

九節 ── 哲学は概念(真の姿・真にあるべき姿)を問題にする

 「第二に、主観的理性は、形式の点から言って、経験的知識が与えうる以上の満足を求めるものである。そしてこの形式はすなわち最も広い意味での必然性である(第一節参照)」(七五ページ)。
 「主観的理性」とは、無限の真理を求める理性の意味と理解すればいいでしょう。「必然性」とは、「必ずそうなること、他ではありえないこと」を意味し、「偶然性」に対立するカテゴリーです。すでに一節でも「思惟的な考察」とは「その内容の必然性を示」(六一ページ)すものであると述べています。この「最も広い意味での必然性」をとらえるのが対立物の統一という弁証法です。というのも必然性のもっとも根本的な形式が対立だからです。対立する二つのものは、互いに相手を自己の「固有の他者」とする関係、つまりそうあってそれ以外ではありえない必然的な関係にあります。この対立する二つのものの必然的関係を分離したままに放置せず、一体不可分のものとしてとらえるのが対立物の統一という弁証法だからです。
 こういう「最も広い意味での必然性」をとらえるうえで「経験的科学の方法は次の二つの点で不十分」(七五ページ)ということができます。
 一つには、経験諸科学のとらえる普遍は、抽象的普遍にとどまって「特殊との連関を持たず、普遍的なものと特殊なものとは互に外的であり偶然的であるということ」(同)、つまり普遍と特殊が必然的な関係にないという問題です。「抽象的普遍」とは、その事物のすべてに存在する共通性を意味しており、抽象的普遍と特殊(個別的事物)とは、対立したままにとどまっているのです。これに対して普遍と特殊とが必然的関係にある普遍と特殊の統一は具体的普遍とよばれ、具体的普遍は、対立する特殊をそのうちに含んでいるのです。
 二つには、経験諸科学は常に「与えられたもの、前提されたものからはじめる」(同)ところから、その与えられ、前提されたものが、偶然的なものか必然的なものかを吟味しません。これに対して「必然性の形式を満足」(同)させようとするのが、ヘーゲル哲学という「思弁的な思惟」(同)なのです。
 「思弁的な思惟は、したがって、最初に述べた思惟と共通なものを持ちながら、同時に異ったものを持っているのであって、それは共通な諸形式のほかになお独自の諸形式を持っており、そしてこの独自の諸形式の普遍的な形式は概念である」(同)。
 ヘーゲル哲学は、経験諸科学と共通な抽象的普遍(本質、法則、類、実体等々)をもちながらも、なお「独自の諸形式」としての「概念」をもっているのです。ヘーゲルのいう「概念」は、普遍的なものと特殊なものとの統一である具体的普遍であるから、必然性をとらえたものだというのです。
 つまりヘーゲル哲学は、「真の姿または真にあるべき姿」としての概念というカテゴリーをもつことによって、普遍と特殊の統一、または主観と客観の同一という「最も広い意味での必然性」を満足させることになります。
 「このかぎりにおいて思弁的な学問の経験的な諸科学にたいする関係は次のごとくである。前者は後者の経験的な内容を無視せず、それを承認しかつ使用する。思弁的な学問は経験的な諸科学のうちに見出される普遍的なもの、法則、類、等々を承認して、それらを自己の内容のために役立てる。しかしさらにまた思弁的な学問は、経験的な諸科学からえた諸カテゴリーのうちへ他のカテゴリーをも導き入れかつ使用するのである」(七五~七六ページ)。
 その「他のカテゴリー」がヘーゲルのいう概念なのです。形式論理学上の概念とは、その事柄に共通する普遍(抽象的普遍)を意味しているのに対し、ヘーゲルのいう概念は、自らを特殊化して個物となるような普遍(具体的普遍)であり、その具体的普遍が「真の姿または真にあるべき姿」です。「真の姿・真にあるべき姿」は、客観のうちにとらえられた普遍ではあっても、自らを特殊化し、現実性に必然的に転化して個物となるという意味で具体的普遍なのです。
 したがって、「思弁的な意味での概念と、普通に概念と呼ばれているものとは区別されなければならない」(七六ページ)のです。