『ヘーゲル「小論理学」を読む』(二版)より

 

 

第五講 「エンチクロペディーへの序論」②

 

一、ヘーゲル哲学の革命性

 「序論」の三つめの主題は、一〇節から一二節まで、ヘーゲル哲学が革命の哲学であることを分かりにくい表現で論じています。

一〇節 ── 思惟は真理認識能力をもっているか

 「哲学的な認識方法であるこのような思惟は、それ自身、その必然性にしたがって把握されなければならないし、またそれが絶対的な対象を認識する能力を持っているということも立証されなければならない」(七六ページ)。
 哲学的認識としての弁証法は「最も広い意味での必然性」(七五ページ)をとらえる認識方法であることを九節で学びました。ではその必然性から生まれた弁証法はなぜ絶対的な真理を「認識する能力を持っている」といえるのか、哲学は自らそれを証明しなければなりません(四節)。「このような洞察はそれ自身哲学的認識であるから、哲学の内部にのみ属する」(七六ページ)のであり、後に「論理学のより立入った概念」(七九節以下)で詳しく解明されることになります。したがって「それを前もって説明するということは非哲学的な説明とならざるをえない」(同)のです。
 これに対して、そもそも人間は真理を認識する能力をもっているのか、それを前もって検討すべきではないかとの疑問を呈したのがカントの批判哲学でした。
 「批判哲学の主眼点は、神や事物の本質やの認識にとりかかる前にまず認識能力そのものを吟味して、それが果してそうした能力を持っているかどうかを吟味しなければならない、ということにある」(七七ページ)。
 カントの問題提起は、「きわめてもっともらしく見えたので、非常に大きなと同意をひきおこし」(同)ました。
 しかし、思惟が真理を認識する能力をもっているかどうかは、哲学の内部において認識していきながら実際に真理を認識しうるかどうかで判断する以外にありません。
 「認識作用の吟味ということは、認識しながらでなければ不可能である。……認識する以前に認識しようとするのは、水にはいる前に泳ぎをならおうというスコラ学者の賢明な企てと同じように馬鹿げたことである」(同)。
 ラインホルトは、カントの問題提起の「不合理を認識したので、それを救う方法」(同)として、「まず仮定的な、的な哲学思惟からはじめ、この思惟を進めていって、……いつかは遂に本源的真理へ到達しているようにする」(七七~七八ページ)ことで認識能力を吟味しうるのではないかと考えました。
 この「暫定的な命題から進んでゆく」(七八ページ)方法にも「正しい自覚がある」(同)といえますが、そういう方法をとるのであれば、最後は暫定的な命題を証明することによって終わるという「一つの円」(八五ページ)としてあらわれなければならないのに、それを求めないラインホルトの方法もまた「不十分である」(七八ページ)といわざるをえないのです。

一一節 ── 思惟の本性は弁証法

 しかし弁証法が真理認識能力をもっているかどうかは、認識しながらでなければ吟味できない、というだけでは、「哲学的認識」(七六ページ)として十分ではありません。そこでヘーゲルは、思惟が真理を認識しようとすればなぜ弁証法的に思惟するしかないのかという「哲学的認識」を本節で議論しています。
 自然との対比における精神とは、大変広い意味をもっています。「精神哲学」が「主観的精神」「客観的精神」「絶対的精神」の三つの構成部分をもつことは先にお話ししました。
 「主観的精神」は人間の意識の働きを問題とし、「人間学」「精神の現象学」「心理学(精神)」として構成されています。この主観的精神の働きが、三節で学んだ一般に表象とよばれる「感情、直観、欲求、意志」(六五ページ)さらには、「思想」となります。
 これらをヘーゲルは、「精神の定有」(七八ページ)とよんでいます。「定有」というのは、『小論理学』第一部「有論」で学ぶカテゴリーですが、或るものとして規定された有という意味です。いわば主観的精神の規定された形態が「感情、直観、欲求」等々となるのです。
 ヘーゲルは、「哲学の要求というもの」(同)は、「精神の定有」と区別される「思惟をその対象としようとする」(同)ものであるとしています。思想のなかの思想である哲学は、精神の定有のみならず、思惟そのものをも考察の対象とし、「思惟を思惟する」のです。つまり思惟するとはどういうことなのかを考えるのです。
 「かくして精神は、言葉の最も深い意味において、自分自身へ帰るのである」(同)。
 思惟を思惟してすぐに気づくことは、思惟の対象となっている事物の真理を認識しようとするときは、「ああでもない、こうでもない」とあれこれ考えます。それを哲学的に表現すると、まずAと考え、ついでAを否定し、非Aを考えるという矛盾におちいることになります。
 「この仕事にたずさわっている時、思惟が矛盾にまきこまれるということ、言いかえれば、諸思想の固定された区別のうちに自己を見失い、したがって自分自身に到達するどころか、むしろ自己と反対のもののうちにとらえられてしまうというようなことがおこってくる」(同)。
 思惟の本性は、まず「固定された区別」を自己のうちに定立し、次いでこれを否定することによって「あれかこれか」と思いわずらう「矛盾にまきこまれる」ところにあるのです。
 しかし「より高い要求は、単なる悟性的思惟のこうした結果に反抗する。そしてこの要求は、思惟が『こうした結果を克服することを目ざして』、すなわち思惟そのもののうちでそれ自身の矛盾の解決をなしとげることを目ざして、自己にふみとどま」(七八~七九ページ)ります。
 すなわち、思惟は、いつまでもこの矛盾のうちにとどまらないで、自己のうちでこの矛盾を解決することによって見失った自己をとりもどし、矛盾の定立とその解決をくり返すことによって無限に真理に接近していくのです。
 したがって、「思惟の本性そのものが弁証法であり、悟性としての思惟は自己否定、矛盾におちいらざるをえないという洞察が論理学の主な側面の一つをなしている」(七九ページ)。
 真理に接近しようとする思惟はその本性からして弁証法であり、「あれかこれか」と二者択一をせまる悟性的思惟を乗り越えて前進するのです。弁証法はけっして頭のなかから生みだされた思惟の自由な産物ではなく、真理を認識しようとする思惟の本性なのです。
 思惟は「自分自身でおちいった矛盾の解決を自分自身でなしとげることに絶望」(同)しないかぎり矛盾を解決して前進することができます。したがって「思惟の嫌悪におちいる必要もなければ」(同)、思惟そのものを否定する「直接知」(同)のような「自分自身にたいして反駁的な態度をとる必要もない」(同)のです。
 「プラトンがすでにその時代にみたような思惟の嫌悪」(同)とは、プラトンの「ソピステス」にいう「思考と判断と現われと……それがわれわれの魂のなかに生じる場合、真であることも偽であることもある」(プラトン全集③一五三ページ)を示すのではないかと思われます。
 思惟はその本性からして「矛盾の解決をなしとげ」、自己を見失うことなく「自己にふみとどま」るのです。こうして思惟は無限に真理に向かって前進していくことになります。

一二節 ── 革命の哲学

 本節はヘーゲル哲学の本質が革命の哲学であることを婉曲な表現ではあっても力強く押し出した重要な箇所です。弁証法によって真理に到達することは、自然や社会を真にあるべき姿に変革することを意味しているのです。
 まず哲学の出発点となるものは何か、といえば、七節で学んだ経験です。
 「思惟は、経験に刺激されて、自然的意識、すなわち感性的および帰納的意識を越えて自己を自己自らの純粋な境地へ高め、かくしてまずその出発点から遠ざかりそれを否定するような関係をとるようになる」(七九ページ)。
 思惟は経験から出発しながら、感性的意識を経て、本質、法則、類などを認識する「帰納的意識」にいたり、さらにそれを越えて経験の枠をとびだし、精神が自由に羽ばたく「自己自らの純粋な境地」にまで達します。思惟は出発点である経験から次第に遠ざかり、最後は、経験的事実(客観的事実)を否定する「真にあるべき姿」に到達することによって自由な自分自身へ帰るのです。
 経験諸科学は、経験をつうじて「経験的個別性の大洋のうちにある確かな基準および普遍的なもの」(七一ページ)、つまり、「法則、普遍的な命題、理論」(七二ページ)をとり出します。
 これに対し哲学的な思惟は、「一方では、単に経験的諸科学の豊かな内容をあるがままに受け入れることを意味するにすぎないが、他方では、それと同時に、この内容に、本源的な思惟という意味で自由に、事柄そのもの(事物そのもの ── 高村)の必然にしたがってあらわれ出るという形態を与える」(八〇ページ)。
 経験から出発する哲学は、経験からとり出される事物の法則や理論をそのまま受け入れます。しかし経験の対象となる事物は、精神にとって与えられた前提にすぎないのであって、自由な精神はその偶然的に与えられた事物をそのまま肯定することはできません。それに「事物そのものの必然にしたがってあらわれ出る」真にあるべき姿という「形態を与える」のです。
 例えば、資本主義を対象とする経済学は、資本主義の利潤第一主義という本質が、富と貧困の対立という資本蓄積の絶対的・一般的法則をもたらすことを明らかにします。しかし哲学する自由な精神は、資本主義の本質やそれがもたらす矛盾の認識に満足しないで、こんな資本主義は「真にあるべき社会」ではないと否定し、搾取も階級もない社会主義社会を展望するのです。
 ヘーゲルは一方でこのように経験から出発して、経験的事実の否定のうえに「真にあるべき姿」を認識し、他方でこの認識にもとづいて現に存在する客観世界を「真にあるべき姿」に変革する精神の働きを「直接性と媒介性の統一」として示しています。この直接性と媒介性の統一により客観から主観へ、主観から客観への移行による、主観と客観の同一が実現されるのです。
 媒介性とは或るものから出発して第二のものへ到達していることを意味し、直接性とは何ものにも媒介されないで、自立し、独立的であることを意味しています。
 人間の精神は経験的事実を反映し、それに媒介されていると同時に、この経験的事実を「真にあるべき姿」ではないと否定して媒介を揚棄した直接性に達します。つまり「否定と高揚を通じて自己にその独立を与え」(八一ページ)、「真にあるべき姿」に到達するのです。
 ヘーゲルは食物と食事を例にして、経験と思惟の関係を論じています。人間は食物によって生かされており、その生命を食物に負うています。しかし食物を食べる食事は、その恩義ある食物を否定することです。同様に哲学的思惟は「その起源を経験(後天的なもの)に負うてい」(同)ながら、最後は経験的事実を否定するのですから、「思惟もこの意味から言えば、食事におとらず忘恩的」(同)といえます。
 経験的事実の必然性から解放された思惟の自由について、もう少しみていきましょう。
 「思惟そのものの直接態、すなわち思惟が自己のうちへ帰った、したがって自己のうちへ媒介された直接態(先天的なもの)は普遍性であり、思惟の自己安住であって、思惟はこの普遍性のうちに自足し、このかぎりにおいて、思惟は本来特殊化への無関心、したがってまた自己の発展への無関心を持っている」(同)。
 客観的事物の「真にあるべき姿」という普遍性は、客観的事物を「真にあるべき姿」ではないと否定し、客観的事実に媒介されつつ、媒介を揚棄した自由な思惟の産物として、思惟の「直接態」であり、「思惟が自己のうちへ帰」ったものということができます。いわば自分の故郷に帰った思惟は、この普遍性のうちに「自己安住」しますから、この自由な思惟の世界(主観の世界)から、自己を特殊化して再び客観世界に舞い戻ることに「無関心」であっても当たり前ということになるでしょう。
 しかし、ヘーゲルの偉大なところは、ここからにあります。
 「しかしもし思惟が、最初の哲学(例えばエレア学派の存在、ヘラクレイトスの生成、等々)においては必然的にそうであったように、理念の普遍性から一歩も進まないならば、それは当然公式主義の非難を受けなければならない」(八一~八二ページ)。
 ヘーゲル哲学は革命の哲学です。したがって「主観と客観との同一」(八二ページ)を「抽象的な命題」(同)にとどめておくのは、「公式主義」であり、普遍的な理念(主観)である「真にあるべき姿」は実践を媒介に客観に転化され、主体的に「主観と客観との同一」が実現されなければならない、というのです。
 このように思惟は経験から出発し、経験による媒介を経て概念という思惟の直接性に到達し、次いでこの直接的な概念は実践に媒介されて現実性に転化するのであり、その両面において思惟は直接性と媒介性の統一ということができるのです。
 ヘーゲルは、二つの点において哲学の発展は「経験に負う」(同)と言っています。一つは経験諸科学は「思惟によって普遍的規定、類および法則を発見して哲学のために材料を作」(同)るのであり、もう一つは、この材料の提供により、経験は、ここから先は思惟の仕事ですよ、として思惟が自分自身の独自の諸規定、つまり概念、理念に「進むことを強要する」(同)のです。
 「このように哲学はその発展を経験的諸科学に負いながらも、目前にあるものおよび経験された事実をそのままに是認するのではなく、諸科学の内容に思惟の自由(先天的なもの)という最も本質的な姿と必然性の保証とを与え、事実をして思惟の本源的な、かつ完全に独立的な活動の表現および模倣たらしめるのである」(同)。
 ヘーゲルは気取られないように十分の注意を払いながら婉曲に表現していますが、ここに革命の哲学であることがはっきりと示されています。ヘーゲルのいいたいことは「目前にあるもの」「経験された事実」、つまり客観的事実を「そのままに是認するのではなく」、思惟の「完全に独立的な活動」の産物としての「真にあるべき姿」によって、事物をこの姿の「表現および模倣」に変革するところに、哲学の意義があるというのです。

 

二、ヘーゲル哲学の真理性はその体系性にある

 「序論」の最後の主題は、ヘーゲル哲学は絶対的真理をとらえた哲学として「萌芽からの発展」という体系をもつことが論じられており、一三節から一八節までがそれに当ります。

一三節 ── 哲学の歴史は認識発展の歴史

 古代ギリシア以来、哲学には二千五百年にも及ぶ長い歴史が存在し、その間数多くの著名な哲学者が歴史の舞台に登場し、消え去っていきました。
 哲学史という学問があります。なかには哲学史を論じるにあたり、年代順に哲学者の名前とその思想の概要を紹介して事足れりとする学者もいます。ヘーゲルは、これは哲学の歴史を「外面的な歴史」(八二ページ)としてとらえるもの、つまり「それぞれの哲学体系がそれぞれの仕方で具体化しているさまざまの連絡のない諸原理にすぎない」(八三ページ)とするものだと批判しています。
 ヘーゲルは、よく「外面的」「内面的」という用語を使います。「外面的」というのは、関連性のないものを無理矢理外側から結合した、という意味であり、「それらを単なる『もまた』によって結合するだけで並列させておく」(一〇五ページ)ものだといっています。「もまた」によって結合するというのは、「あれこれも」という「も」による結合、「あれとまたこれと」という「また」による結合であり、この「もまた」の結合こそ「外面性」を象徴するものなのです。これに対して「内面的」というのは、内的必然性にもとづく結合という意味です。哲学は「最も広い意味での必然性」(七五ページ)をとらえようとするものですから、ヘーゲルは「外面性」を否定し、「内面性」を求めようとします。
 哲学史も同様に、「外面的な歴史」としてではなく、「内面的な歴史」としてとらえなければならないのであり、これを試みたところにヘーゲル『哲学史』の不朽の功績があるのです。マルクスは、ラサール宛の手紙のなかで、「哲学の全史をはじめて理解したヘーゲル」(全集㉙四二八ページ)と評価し、エンゲルスも、シュミット宛の手紙のなかで、ヘーゲルの『哲学史』を「最も天才的な著作のひとつ」(全集㊳一七〇ページ)と述べています。
 では哲学の「内面的歴史」を一貫して貫くものは何かといえば、それは「理念」です。
 「哲学の目標は、この理念をその真の姿と普遍性において把握すること」(一八ページ)にあり、ヘーゲル『哲学史』はそれを試みることにより「最も天才的な著作のひとつ」となったのです。
 「哲学の歴史が示すことは、異った姿をとってあらわれるさまざまの哲学体系は、発展段階を異にする一つの哲学にすぎないということであり、それぞれの体系の基礎にある特殊な原理は、同じ一つの全体の枝にすぎないということである」(八三ページ)。
 哲学の歴史は、萌芽からの発展となる一つの理念の体系をつくりあげていく歴史であり、もっとも古い哲学は、いわば最初の理念の種ともいうべきものであって、それに続く哲学は、芽や葉や茎となる理念の「発展段階を異にする」ものなのです。
 これは、一般に「論理的なものと歴史的なもの」の弁証法といわれるものであり、論理的な発展過程は、歴史的な発展過程に対応するというものです。大きな流れとしてはこのような対応関係を見いだすことはできますが、厳密に対応するというものではありません。
 哲学の歴史も、最も単純な理念のカテゴリーから出発し、次第に複雑で高度な理念のカテゴリーへと萌芽からの発展をする歴史であり、概括的にいえば、理念の歴史的発展が論理的発展に対応しているというのです。
 「時代から言って最後の哲学は、それに先行するあらゆる哲学の成果であり、したがってあらゆる哲学の原理を含んでいなければならない。それゆえにそれは、それが哲学であるかぎり、最も発展した、最も豊富な、最も具体的な哲学である」(同)。
 個人の認識は、どんなに優れた人であっても、個人的・歴史的な制約をもっており、一面の真理と一面の誤謬の統一、つまり、真理と誤謬の統一としてあります。後に続くものは、先人の誤謬を批判し、真理の粒をより大きくすることによって、真理の認識を発展させていくのです。それは先人の真理の認識を引き継ぎながら、特殊的な真理をより普遍的な真理に、単純な真理をより複雑かつ高度の真理に発展させていくものですから、最後の哲学が、「最も発展した、最も豊富な、最も具体的な哲学」ということになるのです。
 「一見したところ、非常に多くの異った哲学があるようにみえるが、われわれは普遍的なものと特殊なものとを、その真の規定にしたがって、区別しなければならない」(同)。
 歴史上の諸哲学には、特殊的な理念をとらえたものもあれば、普遍的理念をとらえたものもあります。両者は「その真の規定にしたがって、区別しなければならない」のであって、等しい価値をもつものとして「並置」(同)されてはなりません。特殊的なものは、普遍的なもののうちに包摂され、もっとも普遍的な真理(理念)をもつ哲学が全体の幹となり、「特殊的な原理は、同じ一つの全体の枝」(同)として位置づけられねばならないのです。
 こうした考慮なしに歴史上のあらゆる哲学を「並置」するのは、「光と闇とは光の二つの異った種類にすぎない」(八四ページ)というに等しい暴論といわなければなりません。

一四節 ── 哲学は理念の発展として必然的に体系

 「哲学の歴史にあらわれているのと同じ思惟の発展が哲学そのもののうちにもあらわれている。しかしこの場合それは、先に述べたような歴史的外面性から解放されて、純粋に思惟のエレメントのうちにあらわれている」(同)。
 先にみたように「論理的なものと歴史的なもの」の弁証法により、哲学の歴史は理念の発展の体系として示されます。それと「同じ思惟の発展」がヘーゲル哲学「そのもののうちにもあらわれて」います。
 すなわちヘーゲル哲学も萌芽から発展しながら、最後には一本の大樹となるような理念の体系だったものとなっています。「歴史的外面性から解放」とは、歴史的にさまざまの諸哲学が無秩序に連結しているという「外面性」から解放され、「内面的な歴史」としてとらえられることを意味しています。「純粋に思惟のエレメント」というのは、カテゴリーと概念の意味です。ヘーゲル哲学は、最も単純な理念のカテゴリーから、対立物の統一による発展をつうじてより高度で複雑なカテゴリー、概念、理念へと必然的に発展する体系として構成されているのです。
 「自由な本当の思想はそれ自身のうちで具体的である。かくしてそれは理念であり、その完全な普遍性においては、理念そのものあるいは絶対者である」(同)。
 六節でみたように、「哲学の最高の究極目的」(六九ページ)は、理想と現実の統一としての理念にあります。理念とは、「絶対者」すなわち絶対的真理であり、それは一面性を克服した対立物の統一としてのみ存在します。したがって理念は、理想と現実の統一の展開として、普遍と個別の統一、主観と客観の統一としてあらわれるのです。
 ヘーゲルの哲学体系は、この意味での理念の体系なのであり、「完全な普遍性」と「それ自身のうちで具体的」なものとを統一した、つまり普遍と個別の統一なのです。
 「絶対者の学は必然的に体系でなければならない。というのは、真なるものは具体的なものであって、それは、自己のうちで自己を展開しながらも、自己を統一へと集中し自己を統一のうちに保持するもの、一口に言えば統体(Totalität)としてのみ存在するからであり、また自己の諸区別を区別し規定することによってのみ、諸区別を必然的なものとし、かつ全体を自由なものとなしうるからである」(八四ページ)。
 絶対者の学、つまり絶対的真理をとらえたヘーゲル哲学は、萌芽からの発展を示すものとして「必然的に体系」をもつものでなければなりません。
 「自己のうちで自己を展開しながらも、自己を統一へと集中し自己を統一のうちに保持する」とは、即自態から対自態へと「展開」し、さらに即自かつ対自態という「統一へと集中」する三分法を意味しています。対立物の統一という「具体的なもの」こそ「真なるもの」としての「理念」なのです。
 「自己の諸区別を区別し規定することによってのみ、諸区別を必然的なものと」するとは、即自的な統一としての自己は自己を否定することによって、自己と自己の否定という対立をモメント(契機)としてもつ対自態となることを意味しています。この弁証法的否定により、肯定と否定との区別は「必然的なもの」となり、この対立を揚棄した対立物の統一は「統体」として「自由なもの」となるのです。
 このようにヘーゲル哲学は、肯定から肯定と否定の対立へ、そして肯定と否定の対立を揚棄した統一へという対立物の統一をくり返しながらカテゴリーを発展させていくという萌芽からの発展の形式をもつことによって「全体を自由なもの」、理念をとらえたものにしているのです。
 「体系をもたぬ哲学的思惟はなんら学問的なものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である」(八四~八五ページ)。
 体系をもたない哲学は、結局形式的には「もまた」でつなぐ外面的な非体系であると同時に、単なる「主観的な考え方」にすぎず、「内容から言えば偶然的」なものにならざるをえないのです。
 マルクスは、『資本論』を著すにあたってヘーゲル論理学を参考にしています。「たとえどんな欠陥があろうとも、僕の著書の長所は、それが一つの芸術的な全体をなしているということなのだ」(全集㉛一一一ページ)と述べ、それが「弁証法的に編成」(同)された著作の特徴だと語っているのは、「絶対者の学は必然的に体系でなければならない」という本節の文章を念頭においたものと推測されるところです。
 体系というと、「一つの限られた原理」(八五ページ)しかもたない哲学と誤解されがちですが、「実際はその反対であって、あらゆる特殊な諸原理を自分のうちに含む」(同)豊かな内容をもつ統体性であり、それが「真の哲学の原理」(同)なのです。

一五節 ── 哲学の体系は理念の円

 これまでにお話ししたように、『エンチクロペディー』は、「小論理学」「自然哲学」「精神哲学」という諸部分から成っていますが、その「各々はいずれも一つの哲学的全体であり、それ自身のうちで完結した円」(同)、理念の円という体系となっています。
 なぜ「完結した円」になるのかといえば、前提をもたない哲学は、端初から始まり、自己のうちで展開して終結にいたり、その終結において端初が証明されるのであり、端初から始まり端初に帰るからです(一七節参照)。
 その各々の円は「哲学的理念」の「特殊の規定性」(同)つまり哲学的理念の一モメントをなしています。哲学は理想と現実の統一あるいは普遍と個別の統一としての「理念をのみ取扱う」(七一ページ)のですから、『エンチクロペディー』の諸部分も理念という「統体」(八四ページ)を特殊化したモメントとして示されるのです。
 こうして『エンチクロペディー』は、理念を軸とする三つの「円から成る一つの円」(八五ページ)としてあらわれることになります。

一六節 ── 『エンチクロペディー』は「真に一つの学」

 『エンチクロペディー』とは哲学の百科全書の意味であり、また哲学は経験諸科学のうえにたつものですから、「多くの特殊な学」(八六ページ)をその傘下におさめています。
 ヘーゲル哲学は「多くの特殊の学」を内に含みながらも、「一つの統体」(同)性を保つ「真に一つの学」(同)なのです。ではどうやって「多くの特殊の学から成る一つの全体」(同)性を保つのかといえば、それらの経験諸科学のうちに含まれる概念(真の姿または真にあるべき姿)あるいは理念(概念と存在との一致)のみを取りだし、それを軸として統体性を実現するのです。
 これに対して「普通のエンチクロペディー」(同)は、「偶然的かつ経験的に取りあげられた諸学のよせ集めにすぎず」(同)、その統一も形式上は内面的な統一ではなく、「外面的な統一」(同)であり、内面的には「その材料が偶然的なものであるために、常に一つの試み」(同)にすぎないのです。
 『エンチクロペディー』は自然と精神という世界の全体の「現実」(六節参照)を対象とするものですが、そのなかに概念、理念を含まないような「単なる知識のよせ集め」(八六ページ)の学問や「徹頭徹尾実証的な」(同)学問は、哲学の対象から除外されます。
 ヘーゲルは、「実証的な学問とは呼ばれてはいるけれども、そのはじまりと基礎とだけは合理的な学問がある」(同)が、「この場合は、合理的な部分のみが哲学に属する」(同)として、その実証性を三つに分けて検討しています。
 「第一に、これらの学問は、そのはじまりにおいては合理的であるが、普遍的なものを経験的な個別性と現実性とへまで下降させねばならないために、偶然的なものへ移ってゆくのである」(八七ページ)。
 例えば法律学や税の体系、博物学、地理学、等々の学問がそれに当たります。これらの学問は末端にまでおりていくと「変転と偶然との世界」(同)となり、「概念は通用せず」(同)、「確定した最後的な理由を挙げることができない」(同)から、もはや哲学の対象にはなりえません。
 第二に、これらの学問は「自分が持っている諸規定が有限であることを認識」(同)しないという点で実証的であり、第三に「認識根拠の有限性」(同)により、実証的なのです。
 「しかしまた、学問の叙述の形式こそ経験的であるが、洞察にみちた直観が、単に現象にすぎないものを概念の内的な順序どおりに排列しているということもありうる」(八八ページ)。
 結局特殊な学問は、その学問における真の姿、真にあるべき姿を問題にしうるかぎりにおいて哲学の対象となり、理念の学という「真に一つの学」の一モメントとなるのです。

一七節 ── 哲学は端初に始まり端初に帰る

 「哲学もまた、その仕事をはじめる場合、他の諸科学と同じように、やはり主観的な前提からはじめなければならないようにみえる」(同)。
 哲学を端初から始め、端初に終わるとしても、その端初を何にするかの問題は依然として残っています。その場合の端初は単なる主観的なものにならざるをえません。
 しかし、哲学は「自分自身のためにその対象を自ら産出しかつ与える」(同)ものですから、哲学の最初の概念は「哲学そのものによって把握されねばならない」(八九ページ)のです。
 哲学は、何から始めるかという端初となる概念の問題も含めて、すべて「思惟の自由な行為」(八八ページ)として展開されねばなりません。後に述べるように、思惟の自由な行為から生まれた端初が「有」というカテゴリーです。
 「直接的であるようにみえるこの立場は、哲学の内部において成果、しかも哲学の最後の成果とならなければならない。したがって哲学はそこで再びその端初に到達し、自己のうちへ帰るのである。かく哲学は自己へ帰る円であり、他の諸科学のような端初をもたない」(八八~八九ページ)。
 一五節で、哲学は「それ自身のうちで完結した円」(八五ページ)であることを学びました。哲学が「思惟の自由な行為」によってとらえた端初も、単なる主観的なものとしての制約をもっていますので、「哲学の最後」にその端初が証明されることによって、「自己へ帰る円」としての哲学は完結するのです。
 「哲学が自己の概念の概念に到達し、かくして自己へ帰り満足を見出すということ、これこそ哲学の唯一の目的であり、行為であり、目標である」(八九ページ)。

一八節 ── 哲学の区分は理念の区分

 こうして「哲学の全体がはじめて(主観と客観の統一または普遍と特殊の統一としての ── 高村)理念を表現する」(同)のです。その理念は完成された哲学体系全体をつうじて表現されることになり、一五節で学んだように「哲学の区分もまた理念からのみはじめて理解されうる」(同)ことになります。論理学の「区分」は八三節で述べられます。
 しかし、この段階で与えられる哲学の区分は、理念とは何かがまだ十分には明らかにされていないのですから、理念の全体が展開されてみるとこのようになるだろうという「一つの予想」(同)にすぎません。
 ヘーゲル論理学は理念そのものの展開としてとらえられ、「論理学」「自然哲学」「精神哲学」の三つの部分に分かれています。
 まず論理学は、「即自かつ対自的な理念の学」(九〇ページ)です。ここで絶対的理念(絶対的真理)とは何かが解明されることになります。
 これに対し自然哲学は、この絶対的理念が展開し、「本来の姿を失った姿における理念の学」(同)です。この箇所をとらえてエンゲルスは、「事物とその発展のほうが、すでに世界よりもまえにどこかに存在していた『理念(イデー)』の現実化された模写にすぎないと、彼には思えたのであった」(全集⑳二三ページ)と批判し、これをもってヘーゲルの観念論の根拠としています。
 確かにエンゲルスの指摘するようにも読みとれるのですが、ヘーゲルの真意は、自然そのものにも理念が内在しており、自然は個々バラバラな多様性からなるのではなく、一定の法則性に支配される一つの統体性をなしていることを強調したかったところにあります。したがってエンゲルスのいう「世界の現実の統一性はそれの物質性にある」(同四三ページ)と基本的には同じ意味合いで用いられているのです。
 最後の精神哲学は、「自己喪失から自己のうちへ帰る理念の学」(九〇ページ)としてとらえられています。つまり、自然哲学のうちで自己喪失した絶対精神が再び自己のうちに帰り、自由な精神として活動する理念をとらえたのが、精神哲学となります。自然のうちでは、理念は自然のうちに内在しているとみなしうるという意味で、「その本来の姿を失った姿において存在」(同)しています。これに対し、人間の精神そのものと精神活動の産物である「宗教や法律や人倫」(六三ページ)を問題とする「精神のうちでは、理念は、対自的に存在し、かつ即自かつ対自的になりつつあるものとして存在」(九〇ページ)しています。もともと人間の精神から生まれる概念、理念は、精神のうちで自然に対立するものとして「対自的に存在」し、主観と客観の同一の実現に向うという「即自かつ対自的になりつつあるものとして存在」するにいたっているのです。
 ヘーゲルは、このように区分したうえで、「理念がそのうちにあらわれるこのような特定の形態の各々は、同時に流動的な契機である」(同)と述べています。のちに「論理学」第三部「概念論」で論じますが、ヘーゲルは、『エンチクロペディー』の三つの構成部分の関係を「三重の推理」( ㊦一六八ページ)としてとらえており、この区分もまた相対的なもの、「流動的な契機」でしかないことを明らかにしています。詳しくは、そこでみていくことにしましょう。
 「だから区分という観念には、特殊な諸部分あるいは諸学を並置し、それらを静止的なものと考え、それらの区分を、さまざまの種類のように実体的なものと考えるという、正しくない点が含まれている」(九〇ページ)。
 このように三つの区分は絶対的理念の展開としてとらえられるべきであるにもかかわらず、いったん区分されてしまうと三つの区分が「静止的なもの」となり、単に「並置」される三つの実体として考えられるという「正しくない点」があらわれてしまいます。
 「実体」とは、「ギリシア語のヒポケイメノン(基体=根底に横たわるもの)に由来し、それ自身によって存在するもののこと」(岩佐茂他編『ヘーゲル用語辞典』一三一ページ、未来社)ですが、これもヘーゲルにとって重要なカテゴリーですので、追々話していくことにします。